1. 大人になりたい旅がしたい
  2. #106-2【茅ヶ崎】忘られぬメロ..
2025-06-12 48:07

#106-2【茅ヶ崎】忘られぬメロディラインPart2後編

忘られぬメロディラインーーー歌え、10代。南風とともに。ーーー2日目後編


神奈川県は“湘南”の地域を代表する茅ヶ崎。広大な相模湾に晴れやかな気分が重なるこのまちは、数々のミュージシャンを生み出した、日本有数の“ミュージック・シティ”でもあります。明治以降の長い歴史に渡って受け継がれた、このまちの文化の遺伝子を探り、日本人の誰もが口ずさむ“メロディライン”誕生の秘密に迫ります。


【目次】

〜 ぜひ前編からお聴きください!

〜 ★歴オタ話★ “道の名を継ぐ父子” 加山雄三さんと新時代の茅ヶ崎

〜 “茶山”と書いて何と読む!? 【茶商小林園・サザン神社】

〜 1万枚のレコードコレクション! 茅ヶ崎の音楽文化の鍵を握るカフェ 【Brandin】

〜 ★歴オタ話★ 茅ヶ崎“文化の結節点”とサザンオールスターズの誕生

〜 1日の振り返り

〜 ★旅の終わりに★ 10代に口ずさんだ歌を、人は一生口ずさむ。 茅ヶ崎に息づく“メロディライン”

〜 ♪エンディングテーマ:サザンオールスターズ 茅ヶ崎に背を向けて


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⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠音楽:BGMer(⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠http://bgmer.net⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠)

サマリー

このエピソードでは、茅ヶ崎における上原謙さんと香山雄三さんの関係や、地域の音楽文化の影響が詳しく語られています。また、茅ヶ崎の歴史や文化の背景も探求されています。桑田圭介さんの音楽的背景や家庭環境が紹介され、彼の音楽のルーツがどのように形成されたのかが明らかにされています。地域の文化や交流の重要性についても触れられています。湘南茅ヶ崎における音楽の歴史と、サザンオールスターズの誕生が語られ、特に桑田さんや宮城さんの活動が湘南ロックンロールフェスティバルにどのように結びついたのかが詳しく説明されています。茅ヶ崎の音楽文化や背景が深掘りされ、エボシイワやサザンオールスターズの歴史、またサザンが地域にどのような影響を与えてきたかが語られています。さらに、茅ヶ崎ライブの重要性や地元住民が彼らの音楽にどのように関与してきたかも明らかにされています。

茅ヶ崎の文化的背景
大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行とお酒が好きな同級生2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデルコースを紹介していきます。
内田です。今回は、忘られぬメロディライン【歌え10代 南風と共に】の2日目の後編となっております。
前回は、慶応花津さんでお昼ご飯をいただいて、今回はその続きとなっております。
前回の2日目の前編から続く話が今回も出てきますので、ぜひ前編の方から聞いていただけるといいかなと思います。
ということで、2日目の後編です。どうぞ。
というところでね、お昼ご飯を済ませました。
そうしましたらね、ちょっと次のフェーズに入ってくるわけなんですけれども、今までね、復習という感じで言うと、市川断十郎さんが移住してきて、舞台芸術のトップスターが来た。
それに惹かれた川上おとじろう、世界を回ってきたおとじろう、貞子がここにやってきて、音楽、新しい芸術みたいなのが入ってくる。
その一方で、南古院というものができていて、漁業所ではあったんですけれども、国旗のトップとかを中心とした文学、文芸のようなものも市川断を描写し始める。
そして少し時代は下りますけれども、昭和に入ってから省畜の撮影所が大船に移ってきたことをきっかけに、映画人たちがこちらにやってくる。
小津康二郎さんは茅ヶ崎館を城座とし始めて、そこで戦後東京物語を描き始めて、茅ヶ崎には新しい芸術が生まれる町としてのクリエイティブな町にもなってきた。
というのが一連の話でした。 そして、その時、小津康二郎さんは脚本家として、あるいは監督者としてきたわけなんですけれども、
小畜の大船移転とともに、とある俳優さんが茅ヶ崎へ許諾を構えました。 これは上原謙さんという方です。
上原というのは上下の上です。 腹っ端の腹に上杉謙信の謙、謙虚の謙ですね。
上原謙さんという方が、戦前の大スターです。 超トップスターなんですけれども、がやってきた。
これもやはり小畜の関係なんですね。 撮影所に近いということで茅ヶ崎にやってきたんです。
そしてそこに大邸宅を構えた。 そして上原謙さんは小桜陽子さんという方と、これも女優さんなんですけども、ご結婚をされていて、茅ヶ崎に邸宅を家族で構えました。
ちなみにこの小桜さんというのは、明治時代の元軍岩倉智美の家に連なる人です。 岩倉家のお手ですこの人。
岩倉家というのも当時やっぱりその別荘文化みたいな、岩倉ともみって多分知ってると思うんですけれども、明治の元軍なのでお金も途中持ってるわけです。
香山雄三の成長
その流れでその子孫たちも、この湘南早間辺りにそういう程度を持ってたんです。 っていう縁もあってここに来てる。
そしてその岩倉家っていうちょっとロイヤルな家もありながら、上原謙さんという大スターの間に男の子が一人生まれたんです。
これが香山雄三さんです。
つまり香山雄三さんは上原謙さんのお子さんでありまして、小桜さんのお子さんでもあるんですけど、同時に岩倉ともみの子孫でもあります。
全然知らなかった。 これ血は繋がってるんです。本当に繋がってます血は。岩倉ともみの子孫です。
香山雄三さんは上原謙さんの子としてこの家に生まれてるんです。
なんかようやく俺らが知ってるところに繋がってきたね。 そういうことなんです。
そして香山雄三さん、富は違うんですけど、上原謙さんのお宅で育って、茅ヶ崎で育つわけですね。
ちなみに今でこそ雄三通りって言われてますけど、桑田恵介さんの回想録とかを読むと、当時の桑田さんが子供の時はあの通りは上原謙の通りって言われてたらしいです。
ああ、ついでんだ。 そうです。多分日本でもないんじゃないかと思います。
道を継ぐってないかね。 道を継いでるんですけど、同じ道が世代によって変わったんですよ。
だからやっぱり僕らの世代よりもっと二代三代上の人はやっぱり上原謙さんなんでしょうか。 ああ、なるほどね。
香山雄三さんももちろんすごいんですけど、それぐらいやっぱりトップスターだったろうね。
そして香山雄三さんというのは1937年に生まれていらっしゃって、それで幼少期を茅ヶ崎に過ごされているわけですね。
上原さんはお宅で過ごされているわけですけれども、香山雄三さんといえばどうですか、イメージというか。
いやもう大将でしょ。 そうですよね。永遠の若大将。
いいんだよな。だからあの年代の海っぽいロックのイメージがありますよね。
代表曲ね。海とかね。君といつまでもとかね。やっぱりどことなく海の香りが漂ってくるサウンドとしてだったりしますよね。
やっぱりイメージとしてはそのギターと船。 船ね。そうなんですよね。香山雄という船をね。
やっぱそれがイメージ強いですよね。
もうね、我々が話すまでもないと思うんですけれども、恩として88歳ということでね。
信じらんない。 すごいですよね。このエネルギッシュな風貌とパフォーマンスと存在感っていうのはやっぱり本当に買いが利かないというか、
もうね、唯一無二の方だと思うんですけど、多分これはもう我々よりももっと上の世代の方がよりその若い頃生で知ってると思う。
我々はすでにもうね、すごい大御所になってからの姿勢は知らないので。
いやでもやっぱジャケットとかで昔のお姿見るとすごいかっこいいんだよね。
かっこいいですね。 ハンサムって感じだよね。 ハンサムですよね。
やっぱりこれは上原健さんの遺伝書ももちろんあったと思うんですけどね。
ということでね、香山雄三さんの時代、戦前ですね。生まれたのはまだ37年なのでなんですけれども、そういった時代に入ってきました。
香山雄三さんはですね、戦前の茅ヶ崎から戦後にかけての、45年が太平洋戦争なので、そのあたりを跨いでいるんですね。
で、香山雄三さんも茅ヶ崎のことにすごい思い入れが深い方なので、いろんなインタビューで話をされて、当時の思い出とかを語って、
あとは戦争の伝えていかなければならない記憶とかもやっぱり持ってる方なので、そういったインタビューもすごい答えられてるんですけれども、
やっぱり当時の茅ヶ崎は徐々に別荘文化みたいなのがあったとはいえ、ガンガン今のように住宅地があったわけでもなくて、
やっぱりまだ松と砂と海とっていうような感じだったらしいんですね。
で、香山雄三さんご自身曰く、やっぱりあの上原健さんのお子さんということで、どうしてもちょっと馴染めなかったそうなんです、学校とかにもね。
まあまああるだろうね、よくわかんないけど、あるだろうなっていうイメージは。
そうですよね、どうしてもね。なので授業参観とかも、あえてお父さんとかに来てほしくなくて、おばあちゃんに来てもらってたのか。
あとはこの人鉄道だったんですけど、登山鉄道に乗るため、小田原だから来てると思うんですけど、
おばあちゃんと一緒に放課後小田原から箱根の登山鉄道に乗って、その傾斜を楽しんだってマニアックなインタビューがあるんですけど。
まあつまり茅ヶ崎に育ってね、神奈川の風土を満喫していらっしゃった一方で、なかなかクラスとかっていうのは馴染めなかったと。
なので一人遊びとかがすごい好きで、そういった時に鉄道のことをやったりとか、あとは海で過ごしたりとか、そしてあとは音楽を聴いた。
上原健さんは俳優さんでしたけれども、やっぱり当時の最先端の音楽、エンターテインメントっていうのを存分に知識として持ってる人で、
上原健さんのご自宅にはやっぱりすごい数のレコードとかあったそうなんです。
茅山さんはそれをやっぱり幼少期から当たり前に家庭の中にありましたので、それを聴いて育ってらっしゃった。
っていうので徐々にその音楽の目が目覚めていった。
そして慶応に進んだ後に俳優デビューされるわけなんですけど、1960年代からは若大賞ですよね。
いわゆる若大賞シリーズで始まって、だから大学出てすぐくらいのはずなんですけど、そっからですよね。
もう日本のトップスターとしてずっと君臨している、茅山さんなわけなんですけれども、そういったことが実はね、この千ヶ崎なんですね。
だから上原健さんっていう人がまずいたことがまずそもそもなんです。
なぜいたかって言うと省畜が移転してきているからなんですね。
そして茅山さんのインタビューとか見てると、やっぱり上原邸にはすごい色んな人が集まってきたと。
まあ来るだろうね。
健さんを慕って当時の女優さん俳優さんとかもたくさん来た。
音楽文化の発展
その中でやたら酒を飲んでいるおじさんがいた。
それが尾辻康二郎さんだったって言うんですよ。
上原健さんの家にやっぱり尾辻康二郎さんもめちゃくちゃ来たらしいんですよ。
たぶん千ヶ崎から来た時なんでしょ。
その時に上原さんのところにも遊びに行って、子供の時の茅山雄三さんは尾辻康二郎さんを知ってるんですよ。
だからすごい仲良くしてもらったみたいな話も書いてます。
そういった訓導を受けてるんですよ。
が茅山さんなんですね。
そして茅山雄三さんはそういうわけでトップスターになっていったんですけれども、
上原健さんっていう人はずいぶん気さくな人だったみたいで、
冗談とかも好きだったらしくて、地域の子供たちを結構家に招いたりもしてるんですって。
たぶん千ヶ崎の小学生とかも何かしらの繋がりがあって招いたりしてるんですよ。
その中にいたのが桑田恵介さんの同級生の方。
桑田恵介さん56の生まれなんですけど、つまり茅山さん大体20下なんですね。
なんですけど、茅山さんが要はトップスターになった後に、上原さんのお家残って上原さんもいたので、
そこに桑田さんの同級生たちはよく招いてもらってて、そこでレコードとかを聞かせてもらってたんですって。
そしてだんだん新しい千ヶ崎の時代が始まってくるんです。
上原さんはまもなくして亡くなってしまって、茅山さんは東京に移って自ら日本のスターになっていくわけなんですけど、
一方で千ヶ崎に残されたものっていうのは、上原さんと茅山さんがついで行ったものがあって、
実際に茅山さんはいとこを自分のバックバンド的にデビューさせたりして、それで有名なミュージシャンになったりもしてて、
あとは岩倉家の親戚とかもいんだりして、その人たちもデビューさせたりしてるんです。
だから茅山雄三さんも親戚の子供とガンガン集めてミュージックをやって、それによってその子たちは触発されてミュージシャンになっていく。
そしてその中にはいろんな人がいたんですけれども、北島修さんとかっていうのもそうなんですけれども、
そしてその中にいろんな作曲家とかも出てくるんですよね。平尾正明さんっていう作曲家とかもやっぱり千ヶ崎に生まれてる方なんですけど、
日本の歌謡曲とかをガンガン作っていった。茅山さんが出た後に、その他に千ヶ崎と関係ないミュージシャンたちに作曲とかで提供した人たちも、
上原町に集まっていた若い子たちがそれぞれ自分のミュージックの才能を開花させていって、日本の歌謡界に支えていく。
っていう歌謡の文化がある。一方で茅山さんは見ての通り、ああいう歌謡曲もありますけれども、ロックスターでもあるじゃないですか。
洋楽の文化っていうのもあって、それは上原町に残されてた。
時代戦後になって、実は千ヶ崎は米軍キャンプがあるったんです。
ナンコインっていう例の療養所は米軍に接種されて、そこはアメリカ軍のキャンプになりました。
なので実は横須賀とかが有名なんだけれども、神奈川県においては千ヶ崎もアメリカの人たちが住んでいたところなんです。
そうか、だからちょっとアメリカっぽい雰囲気があるんだ。
そういうことです。ただ当然そうすると何が聞こえてくるかっていうと、
茅ヶ崎の音楽文化の形成
新中軍、当時アメリカから日本に来ていた方々ですよね、軍の。人たちが聞くラジオが聞こえてくるんです。
そこに流れていたのが洋楽なんですよね。そういう状況なので、千ヶ崎の人たちってやっぱりそういった文化に育まれて、
そして上原健さんはなぜか知らないけど家にも招いてくれることもあるしみたいな、
いう時になって徐々に徐々に洋楽の楽しさ、音楽の楽しさ、そして芸能人がそばにいる。
一方で男重量を素にする舞台芸術、そして香山雄三さんという歌謡ということがいって、
その日本の良き音楽文化とロッキーミュージックがどんどん流れていく。その結節点にあたるのが千ヶ崎なんです。
そして生まれたのが桑田圭介さん。桑田圭介さんはそういうわけで56年生まれ、香山さんは19歳。
で千ヶ崎にもちろん生まれて、これまた千ヶ崎の中でも家庭感という話をすると、
お父様は千ヶ崎の駅の近くで映画館の支配人とかをやっていた。お母さんは別のところでバーとかをやっていた。
だから桑田さんの回想録、これ週刊文集で連載をしていて、それが一冊にまとまったポップス歌手の耐えられない軽さっていう桑田さんの回想録があるんですけれども、
この中を読んでいるとやっぱり青岳に入って車の免許を取った後とかも、
お母さんの店で働いている女性のキャストの方たちを車で送り届けるのが僕の役目でみたいな。
その時にお姉さんたちからすごいいろんな、かわいがってもらって、いろんなことを教えてもらった。
大人の世界の生めかしさとかみたいなのを酔っ払ったお姉さんたちはコーブ雑誌でずっと僕が運転しているのを歌ってた。
で桑田さん同級生たちも書いてるのが、桑田さんのお母さんはマジで目立つ人だったんです。
そのやっぱり人前に立つバーの経営者ということで、その見なりもすごい派手で、かつ独特の社交術みたいなのを見つけていたっていうのがやっぱり桑田さんのお母さん。
そういった家庭環境、そして桑田圭介さんにはお姉さんがいたんですよ。もう亡くなってしまわれたんですけど。
その方もやっぱり音楽狂だった。当時の女子高生たちの音楽狂で、桑田さんはお父さんもお母さんもそういう夜の客の商売をやっていたから、
いつもお姉さんと二人で家に行った。お姉さんはロック狂いで、もうめちゃくちゃ音楽を聴いてるから、ずっとそのお姉さんの書ける音楽を一緒に聞いて、
ベスト10を見て、赤山さんが出てるとか、誰々が出てるっていうのを吸収していった。
っていうのが桑田さんの茅ヶ崎時代の話で、そのことはずっとここに書いてます。
で同時に熱海に行った話とか、小田原の色があるんですけど。
っていうのが要は、その茅ヶ崎になれた和洋の文化の結節点にいたのが、桑田恵介さんの世代なんです。
なるほど、面白いね。
なのでもうね、そっからの活躍は我々がもう話すまでもないですね。
左三の商人とお茶文化
そういうわけで今でもね、雄三通りがある一方で左三通りもできてるわけですよね。
ちょっとコースに戻りますけれども、ここから左三のパートでね、最後行きたいと思いますが。
慶尾華津さんから、徒歩15分ほど茅ヶ崎駅の方に徐々に戻ります。
そこにあるのが茶商小林園さんです。
これはね、その名の通りお茶の商人と書いて茶商なわけで、日本茶を売ってらっしゃる小売店になります。
ところがですね、ここの店主の方は、桑田恵介さんの中学校時代の部活の先輩なんですって。
だからご本人まだ信仰がある方らしくて。
そのためね、こちらの看板商人見てほしいんですけれども、茶の山と書いてね、何と読むかと。
え、左三?
早かってんな。
茅ヶ崎名物登録商標左三。
ほんとだ。っていうお茶ね。
お茶です。お茶っぱのことですこれ。
これいいね。お土産とかいいんじゃない?
この県内にはね、桑田さんの直筆のお手紙だったりとか、左三っていうのを付けてくれてありがとうみたいなお手紙。
ご友人なのにあったりもします。
この小林園さんの方もやっぱりすごくこの左三オールスターズのことで盛り上げたいって思いが強くて、
街おこしにこの左三というものを目いっぱい使って、同時応援をすごいしたいということで、こういった左三っていうのを作っていますし、
お店の端向かいにはね、左三神社なるものがありまして。
ご存知ですかね。
なんか見たことある。
結構新しくできた。
新しくできました。2008年ですね。我々がもう中学ぐらいの時ですけれども。
左三オールスターズデビュー30周年のライブがあった時に、千ヶ崎のね、サザンビーチでライブをやったんですね。
その時に合わせて、もともと事務所だったのを神社という形にして、
今も左三の方が集まってメッセージをする聖地になっているわけで、
それを運営されていることでもあります。
なので間もなく千ヶ崎を離れるわけなんですけれども、
それにあたってお土産をね、ぜひここで買っていただくと同時に、
左三オールスターズの桑田恵介さんのことにもだんだん近づいていっていただければいいかなと思いまして、
この小林園と左三神社に寄ってみたいと思うわけですね。
音楽とカフェの交差点
なるほどね。いやーなんか今に繋がってきたなって感じですね。
そうですね。
そしてね、ここで千ヶ崎を一旦離れて、ちょっと少しだけ移動をしたいと思います。
小林園さんから徒歩10分ほどで千ヶ崎駅に戻ります。
千ヶ崎駅から東海道本線に乗りたいと思います。
上りです。なので東京方面です。
で、約4分ほど行っていたところに隣の駅なんですけれども、辻堂って駅があります。
これ神奈川県の人知ってるでしょ。
で、一応言っておくと、この辻堂駅自体は藤沢市です。
のものなんですけれども、もう市の境なので、またバスに乗って千ヶ崎市に戻ります。
辻堂駅から江戸田バス、あるいは神奈川中央交通、神奈中バスですね。
に乗っていただくと、千ヶ崎方面に行く路線がいくつかあるんですけど、
それで7分ほど乗っていただくと、平和学園前というバス停があります。
そして、この平和学園前のバス停から徒歩5分ほど歩いたところにあるのが、ウランディンさんです。
レコード屋さん?
はい。ミュージックライブラリー&カフェということで。
カフェなのか。
カフェです。
この写真見たらレコード屋かなと思うよね。
そうですよね。
すごい数の、壁一面のレコード。
これが最後の目的地になるわけなんですけど、今回の音楽旅の最終到達点ということで、
この伝説のミュージック&ライブラリー&カフェに行きたいと思います。
このブランディンさんすごくて、なんとレコードの数1万点というものらしくて、
そのコレクションが、これ写真だと壁一面しか見えてないんですけど、四方にあるんですよ。
すっごい数のレコード。
すごいな。
これに囲まれながら、コーヒーとか飲んでっていう感じ?
そして当然このレコードを聞くこともできるんです。
店内にはジュークボックスもあるんですけれども、あとレコーダーですよね。
レコードプレイヤーがあって、ご自身で好きなものを見つけてオーダーするとそれをかけてくださいます。
さつきのさんでも前日同じようなことをしましたけれども、よりこっちは和の方もかなり強い。
サザンオールスターズのものもあるし、かやまゆうどんさんのものもあるし、
っていう感じで1万点のレコードが好きに選んで、心ゆくまで音楽を楽しんで、最高音質も楽しんでいただけるというカフェになるんですね。
そしてサザンファンの間では、このブランディンというのはあまりにも有名なカフェなんですよ。
なぜかというと、このブランディンというカフェを営んでいらっしゃるのが宮地純一さんという方なんですね。
この宮地純一さんというのは何者かというと、茅ヶ崎に生まれた桑田圭介さんの幼馴染です。
小学校、中学校と同じで、高校は別々になってしまったんだけれども、
それ以降もずっとその音楽を通じてこのお二人は仲が良くて、今でもすごい親友というかそういった形で、
よく桑田さんのエッセイとかにも出てくるんですね。その人が実はやってるカフェなんです。
やっぱ同級生もそういう音楽に興味を持って、そういう道に進んでるわけだよね。
そうです。宮地さんはカフェを営んでらっしゃるんですけど、本業はレコード会社の方で、かつ音楽評論家でもあります。
なのでご自身も本当に音楽好きが高じて、音楽の道で世紀を立てて、今なりわえにされている方ですね。
本当にその流れができてるんだね。
そうです。宮地純一さんはね、そういうわけで今僕が話したような、この茅ヶ崎になぜ音楽が生まれるのかっていうのを研究テーマにされていて、
茅ヶ崎音楽物語マイリトルホームタウンっていう書籍を出版されていて、その場所でしか生まれない音楽があるということで、
なぜ茅ヶ崎かっていうところをね、すごいエッセイにして書いていらっしゃいます。
なので僕もこの本をかなり今回参考にさせてもらっているんですけれども、
この中にやはりダンジューローに始まる文化の系譜もあったり、上原健さん、香山雄三さんがどれだけ開いていたか。
そしてまあちょっとね、今回だいぶ飛ばしてしまったんですけど、平尾さんだったり尾崎さんだったりっていう茅ヶ崎に生まれたね、
作家だったり作曲家だったり、歌手の方々も実は香山雄三さんと関わりがあって、茅ヶ崎で生まれている話とかっていうのをやっぱりやっている。
一方で桑田恵介さんもね、このエッセイでいろいろ書いているわけなんですけど、
桑田さん曰くやっぱりその56年に生まれた世代からすると、当時のダンジューロー、尾崎二郎さんとかのその系譜っていうのは、
だいぶこの別荘族みたいなのが一回戦争で廃れてしまって、その後のまた何もないにやや戻りつつあった時代に生まれていた。
その中でアメリカの新中軍がやってきて、外来文化が入ってきた時に、茅ヶ崎にもともと根付いていたそういう文化とうまくミックスし始めて、
そういった環境が常に整っていたっていうのがやっぱり大きかった。っていう風な話やっぱり。
そしてご自身のご家族がお姉ちゃんがその音楽ぐらいだったっていうのと、お父さんお母さんを通じてその夜の社交はみたいな、
そういった色っぽい雰囲気っていうのを体得されていたっていうのがやっぱり大きかった。
宮地さんのエッセイではよくその桑田圭介さんの話も出てくるわけなんですけど、小学校中学校一緒で高校別れちゃって、
宮地さんは鎌倉高校ってあのスラムダンクの有名で、で桑田さんは鎌倉学園高校っていう県庁寺の隣にある武道校なんですけど、
ただそこで同じ鎌倉に通ってたっていうのがあって仲良くて、で宮地さんが鎌倉高校の学祭で実行委員みたいなのになって、
ライブハウスみたいなのをやると。そこに桑田さんを誘ったんですよ。
桑田さんがもうすごい色々お姉ちゃんの影響ですごい聴いたり歌ったりでめちゃくちゃやってたから、
誘ったけど、バンド活動とか全然してなかった。だから桑田圭介さんは初めて人前でステージに上がって、
その庭家作りの大人なじみで作ったバンドで、鎌倉高校のとき歌ったんです。
でも全然練習もあまりしてこなかったらしくて、なんかそのとりあえず歌ったんだけど、とにかくボーカルの力が強くて、
みんなそれにはびっくりされた。桑田さんの独創的なボーカルって感じで。
湘南ロックンロールフェスの立ち上げ
桑田さん曰く茶目っ気もありますから、鎌倉学園高校は我々と同じ仏教校の男子校なんですよ。
ところが鎌倉高校は教学だったんですよ。だから女の子の前で歌を歌ってっていうのがすごく良かったらしくて、
それでハマったなんてこと本人は言ってますけれども。
ただそのとき湘南茅ヶ崎にはなかなかロックをやるっていう風潮がなかった。
言葉すごい上原健さんとかを通じて出てきたんだけど、プレイとしてやるっていうのはあまりなかった。
これまでに出てきた先人たちもフォークだったり歌謡曲だったり、別の音楽の方々が多かったんだけど、
要はJポップとかJロックみたいなものはそのときプレイヤーとしてなかった。
それがすごく湘南さんは不満だったから、自ら主催して湘南ロックンロールフェスっていうのを立ち上げて、
それで藤沢とか茅ヶ崎においてそういった学生が集まるロックンロールの場を作ったんですって。
湘南ロックンロールセンターっていう場ですね。
それで桑田さんは大学青岳に行きまして、宮路さんは浪人したりもしてたんですけど、
いずれその湘南茅ヶ崎でこそロックをやりたい、ポップをやりたいってことで湘南ロックンロールフェスセンターをやった。
そして桑田さんも青岳のサークルの中でできたバンドとかでもって、最初全然違うメンバーで今のサザンとは何度も出てたんだけど、
何回か回を重ねた後に宮路さんがこのロックンロールフェスをちゃんと広めたいということで、
ピアっていう雑誌に広告を出そうとしたんです。
サザンオールスターズの誕生
ロックンロールフェス藤沢やります?みたいな、ロック好き集まれ!みたいなのをやろうとしたと。
ところがピアに出すためにはちゃんとバンド名がどういうこととかっていうのを書かなきゃいけないんですよ、誰が出演しますかみたいな。
で桑田さんにももちろん出てもらうんだけど、なぜか桑田さんはその時バンド名とかコロコロコロコロメンバーも変わってたから、
バンド名送ってこなかったんですって、その原稿の締め切りまでに。
決まったのがあんまないっていうことね。
そうそう、毎回毎回メンバーも変わってるような方だったらしいですよ。
でももう締め切りに間に合わないと広告を載せてくんないから、どうすんだっていう風になるわけですよ、結局ね。
でもしょうがないから宮路さんはその時もう桑田に連絡が取れないってなって、仕方ないからいいや、とりあえず名前作っちゃおうということになって、
とりあえずもうお風呂で考えた、もう深夜まで早くやらないとやばいから、とりあえずの名前を作っちゃって、後でこのフェスだけは乗り切ってもらおうという風にしたわけです。
その時にお風呂で考えていたんですけれども、風呂にトランジスタラジオ、ラジオがあったんですね。
そこにそろそろ来日してほしいバンドは誰かみたいな音源が流れてきた。
その時流れてきた誰かっていうのがファニアオールスターズという方々が来たんですって。
確かに桑田さんって一度として同じメンバーが来たことがない。
夜音楽の質問毎回まちまち。
唯一共通しているのは桑田ケースというミカンの大器の軽なエンターテイメント性だった。
オールスターズってのはあり得るかもしれないな。
その次に浮かんだのがニールヤングさんだった。
これもミュージシャンの方ですね。
その日は一日中彼の素晴らしいアルバム、アフター・ザ・コールド・ラッシュを聴きまくってたんですって宮城さんが。
その中にサザンマンというヘタウマの暴力的なギタープレイが印象的な5分を越す対策があった。
サザンという語幹が好きだった。
分かんない。とりあえず今回のフェスは桑田ケースケとサザンオールスターズって名前でピアニー出しちゃおうという風にして、実際にこの判件が出てたんですね。
それ当時の実物らしいです。
これがサザンオールスターズの誕生だったんです。
つまりこの宮城純一さんブランティンを営んでる方はサザンオールスターズの名付け親なんです。
あれ桑田さん考えたわけじゃないんですよ。
そんな間に合わせでできたんだろうね。
しかもこれは桑田ケースケとサザンオールスターズなんだね。
だから当時は原由子さんはもういたらしいんですけど、今のサザンとはまた違ったんです。
いよいよ大学卒業するってなって、桑田さんは今のサザンのメンバーとバンドを組んでいろいろ行くわけなんですけれども、
その中でバンド名どうするってなった時に、なんだかんだこのサザンオールスターズってのが気に入っていて、
この湘南ロックロールセンターのために宮城さんが付けた名前ってのをなんだかんだ使い続けていたら、いつの間にか今こんなことになってしまってた。
音楽文化の交差点
これがサザンの誕生なんです。その方が営んでるカフェなんですけど。
ある種精緻でもあるよね。
精緻がね。サザンファンの人はもう誰もが知ってる店です。
これがサザンオールスターズの誕生なんですね。
なんか気持ちいいな。ずっと追ってきて、サザンがやっと生まれた。
そういうことなんです。
はい。
ということでね、ご本人もたまにいらっしゃるそうなんです。僕はちょっとあいにくお会いできてないんですけど、宮城さんね。
なのでこちらでね、サザンの歴史とか当時の桑田さんたちの興奮とかをね、いろいろ考えながらね、レコードをかけていただけるといいんじゃないかなと。
サザンがよくかかるんだろうね、ここはじゃあ。
そうですね。やっぱファンの方はね。
ということでね、ブランディンさんから人に着くわけですけれども、徒歩5分ほどで平和学園前バス停に戻って、そこから金中バスあるいは江戸田バスで9分ほど、辻堂の駅に着きます。
辻堂の駅からは東海道線なので、滋賀先から1個東京寄りなので、そのまま東京に帰っていただいてもいいですし、もしね、ちょっと他の場所に帰る方は東海道線を通じてそれぞれのキロへ帰っていただく。
ということでこの旅は終わりにしたいと思います。
それでは2日目を振り返っていきましょう。
まずスタートは前日からね、滋賀先間に泊まっておりますので、そこをチェックアウトせずに朝ごはんを食べに行きますね。
大体朝8時半頃に出発しまして徒歩5分ほど、かつみの朝飯ですね。
朝飯限定の食堂ということで、お魚がね、名物の定食を朝ごはんにいただくと。
そこから徒歩5分ほど、滋賀先間に戻りまして、ここでね、滋賀先間にもこの文化の交差点みたいな感じがしますよね。
いいですね。
集まってきた、集結した旅館ですので、その歴史だったり、あとはその小枝二郎さんが城野堂として使っていた部屋番号2番をね、もし見ることができれば案内とかもね、していただいて、
その当時までの滋賀先のその文化の流れっていうのをここで感じることができるんですかね。
はい。
それで滋賀先間をチェックアウトしまして、そこから徒歩10分ほど高砂緑地ですね。
ここもその文化の流れになるわけですね。川上弟二郎、佐田薬庫夫妻の別邸があった跡地になりますね。
なのでこの滋賀先間でその歴史の流れを聞いてこの高砂緑地に行くとまた味わいが出てくるのかなと思いますね。
なんかで弟二郎はね、一座は滋賀先間で稽古も結構していたそうです。その舞台の。
そこから徒歩1分ほど、滋賀先市美術館、特徴的なね、建築と企画展がね、変わる変わる行われているということなので、
その時何が企画展でされているのかっていうのはちょっと調べてみて、興味があればそこに立ち寄るという感じですね。
そこから徒歩10分ほど、慶お花酢ですね。ここでお昼をいただきます。
滋賀先と姉妹都市になっているハワイの料理をここでいただくということですね。
そこから徒歩15分ほど、茶床小林園さんですね。
桑田さんの中学の部活の先輩が営んでいるお茶屋さんですね。
サザンというね、茶の山と書いてサザンという銘柄がありますので、それをね、ぜひお土産に買うのがいいかなと思いますね。
そしてその小林園さんの初迎えにサザン神社もございますね。
ここも本当にサザンオールスターズの聖地ですので、サザンファンの方はね、ぜひここでメッセージを書いてお参りするのがいいかなと思いますね。
そこから徒歩10分ほど、茅ヶ崎駅に戻りまして、東海道本線で4分ほど隣の駅ですね。
辻堂駅でおります。そこから江の田バスもしくは金中バスで平和学園前のバス停でおります。
そこから徒歩5分ほど、ブランディンさんですね。ミュージックライブラリー&カフェということで、本当に部屋一面のレコードに囲まれながら、最後にコーヒーなどを飲みながら一服すると。
サザンオールスターズの名付け親の方が経営されてますので、ここでサザンへの思いとか、あるいはこの音楽を楽しむというので、ゆっくり時間を過ごしまして、そこから徒歩5分ほど平和学園前のバス停に戻ります。
そこからまた江の田バスもしくは金中バスに乗りまして辻堂駅に戻ります。この辻堂駅からご自宅へということで、2日目が終了ということですね。
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最初に言ってたこの必然的に有名な音楽家とか他にも芸術に関わる人が生まれるっていうのは、その歴史の流れはよくわかりましたね。
やっぱりね、本当は実は今日ね、だいぶかやまさんの時に桑田さんに行っちゃったんですけど、その間に出てきた音楽家たちのこともね、本当はいろいろあるんですよね。そう見るとより千ヶ崎というものの音楽に関する濃度の濃さというか、本当にさっき文化の交差点って言いましたけど、まさにその通りで。
いろんな人生と音楽が交差していった結果、和洋の千ヶ崎の持っているものと何かがフュージョンしていって、結局今はサザンの今でなっているっていうようなことなので、やっぱ必然なんですよね。この土地にしか生まれない音楽とそのミュージシャーたちだったんだろうなと思うわけです。
で、これやっぱその今はね、この2日目を文化的な流れっていうので追ってきたわけだけど、でもなんか1日目ともわりと共通する部分あるなっていう気がして、なんか元々その土地にあるものとか、熊沢修造さんがね、元々の日本酒っていうところから新たなものを取り入れて進化させていってっていう、なんかそういうことで新しい文化をどんどんどんどん作っていく。
はいはい。
内原なのかなっていう。
なるほどなるほど。
1日目も含めてなんか感じた、感じましたね。
そうかもしれませんね。本当はね、この話なかったですけど、ホテルパシフィックの話とかもねすごくあるんですよね。
あれも香山雄三さんと上原健さんと岩倉家の方が共同でね、運営していたっていうすごいホテルなんですけど、ここでいろんなミュージシャンがやっていたっていうのも実はあったりとか。
茅ヶ崎の音楽文化
茅ヶ崎というものを調べていくと実はすごく面白いし、あとは一方でやっぱりこれは神奈川全土で思うんですけど、サザンの歌とかにね、よくホテルパシフィックも出るし、砂まじりの茅ヶ崎であり江ノ島が生んだらってありますけど、神奈川県の特に海沿いって本当に歌われる場所が多いんだよね。
歌枕って僕は言って、なので町トイロにも歌の系譜っていうその特殊を作ってるんですけど、なんかねやっぱり歌われる、古代から万葉集の時代とかからも歌われるんですよね。
そうか、そこまで遡ってね。 だからやっぱりこうすごく景観とか風土とかってものがどことなくいけるんだけど非日常的で、かつそれを思い出に留めておけるようなアイコンがあったっていうものが、この湘南、清湘エリアの特に特殊される。
そして茅ヶ崎はそれを桑田さんがもう今全国的に歌枕にしたために、もうこの茅ヶ崎ってもの自体がね、この地名自体がもう歌枕になっているような様子を呈しているから。 一方でこのエボシイワなんてね、希望の輪立ちでエボシラインって呼ばれるものありますけれども、このエボシイワを巡っても実はいろいろあって、
本当はこれってさっき言った米軍に接種されてる時に砲撃の的にされちゃって、射撃の訓練の的になっちゃったんですよ、これは。ちょうど勢いがあったんでしょう。それやってるとどんどん岩が破壊されていくわけですよ。
というので当時の茅ヶ崎の人たちがエボシイワはそのいわゆる歌枕のアイコンだからっていうんで、いろんな反対運動を起こしてエボシイワを標的にすることっていうのはね、住民の訴えでやめられたんです。それでエボシイワは残った。その後に桑田恵介が生まれてるんですよ。
だから本当にあの時住民運動がなかったら希望の旅立ちの歌詞は変わってたはずなんですよ。エボシラインというものは桑田さんが生まれた時に存在しなかったはず。このエボシラインも国道134号線っていう海沿いのところって言われてますけど、茅ヶ崎の人に言わせればいろんな解釈があって、茅ヶ崎の人が言うにはエボシライン134号と見てもいいけれども、茅ヶ崎駅から高砂通り、佐山通り、高砂通り、雄三通りっていろいろあるんですけど、あと拉致園通りあるわけですけど、
みんな海に向かって放射状に線を進んでるんですよね。それぞれの小さな路地を歩いていくと、その先に何かが見えるように配置されていて、そのうちの一つ、拉致園通りが特にエボシイワが見える海に続いてるから、これがエボシラインなんじゃないかっていう人。
もう一つ、別のところ行くと、別の茅ヶ崎の港が見えたりとかっていう、そのラインなんじゃないかっていうふうにも言う人もいるから、そういう意味で言ってもやっぱり歌枕としてのこの深さと大切さっていうのは、会社は人それぞれだと思うんですけど、っていうのはあるなと。
そういった茅ヶ崎っていうのは、僕やっぱ小田原に住んでてよく行くようになってから、やっぱり特殊な街だなと思いますね。
面白いな、なんか革新的な感じもすごいするんだけど、一方で受け継いでるものがしっかりあるっていう。
そういうことですよね。今回ね、忘れられぬメロディーラインもこれはね、希望の和田中のことであるわけですけど、要はこのメロディーラインっていうのが、あの歌ではエボシラインみたいな感じで歌われるわけなんだけど、僕はこの茅ヶ崎に紡がれた音楽の系譜的な意味でメロディーラインっていうふうに考えてみたらどうかなって思ってたのと、
サザンオールスターズの活躍
この歌え10代南風とともにの歌え10代って何のキャッチコピーだかわかりますか?
これ大学生の方に聞いてほしいっていうのはもちろんあるけど、それだけじゃなくて、これとあるCMキャッチコピーです。
歌え10代。
なんだろう、カラオケ役なんかかなとか思っちゃうけど。
覚えてないですかね。あればあれがちょうど部活やったときぐらいの話なんですけど。
まじ?
ちょっと前か小学生ぐらいかな。
え、なんだろう。
歌え10代、プレイユーウォークマン。
そしてその本当のメインキャッチは、10代に口ずさんだ歌を人は一生口ずさんなんですよ。
僕は今回あえてサザンのデビューまでで話を終わらせたのはそういうところもあって、つまりやっぱ僕自身もさ、音楽好きだからよく雑談でも話しますけど、
この言葉って僕本当に真理だなって思って、10代に口ずさんだ歌を人は一生口ずさむ。
それはまじそうね。
そうですよね。
それの血が先に置き換えてみると、要は。
なるほどね。
そういうことなんですよ。
茅山雄三さんの10代には小林二郎がいて、上原健さんもいたわけですけれども、
そしてその後の間を飛ばしてきた方々は、茅山雄三さんが大学生とか30ぐらいのときに影響を受けた親戚の子たちがいる。
そして上原健さんのオタクに招かれた世代っていうのは、桑田恵介さんと宮路十一さんの世代なんです。
そういうわけで、要は彼らはみんな10代を血が先で過ごして、その10代で口ずさんだ歌を元に自分の歌を作っていった。
それが忘れられないメロディーラインだと。
ということで、そして僕もこのサザンを10代でずっと口ずさんでいたわけじゃないですか。
で、今もね、この30になる手前になってもこうやってやったら一生このまま歌い続けるでしょうから。
いや、一生歌うでしょうね。
なんかそれの意味です。
なるほど。
なのでこれで言いたかったのは、10代に口ずさむ歌を人は一生口ずさむと。
そのときどういう土地でどういう曲を聴いたかっていうのが、この血が先における奇跡の物語だったということです。
なるほど。
面白いな。
そして最後にね、今回こういうわけでいろいろ話してきたわけなんですけれども、サザンオールスターズの活躍というのはもう我々が言うまでもなくて、デビューしたのは1978年、勝手にシンドバットというシングルでデビューして。
当初はなんかね、YouTubeに当時のやつ残ってますけど、黒柳哲子さんがあなた方はどういった方なのかしらとかって中継で聞くと、目指したがり屋の芸人ですってくわされてるんですよ。
だからコミックバンドみたいな、要は変なただ一発屋みたいな感じだったんですよね、当初は。
ところがその後3作目に愛しのヨエリーが出るわけで。
あれ3作目か。
そうです。勝手にシンドバット、その後1曲挟んで愛しのヨエリーなんですけど、全然コミックって書いてないじゃないですか。
違うね。
というか出来てきて、ただのお遊びの一発屋、変な学生気分じゃないなって。
本格的なミュージシャンだってのは分かってきて、もうそっからは有名でもないわけですよね。
希望の輪立ちの真夏の果実の90年代に出てて、多分希望の輪立ちは日本で一番有名なシングルカットをされてない曲だと思うんですけど。
そうなの?
そう、あれってシングルカットじゃないですからね。
そうなんだ。
希望の輪立ちはシングルになってないんです。
あれはそもそも映画の挿入歌なので。
っていう風になって。
でもその後は言うまでもないわけですけれども、
久保田圭介さんはその一方で、結構宮路さんのエッセイとかでちょくちょく帰ってきて、地元ではこうこまめに遊びな感じで同級生たちと歌ってはいたらしいんですよ、有名になってからも。
ただその一方で、茅ヶ崎というふるさとに大々的なライブとかは全然してなかったんですよね、いくらもう有名になっても。
ある時、1999年にとある土地越しライブをやった時に、ぽろっと久保田さんがMCの時に、来年の夏は茅ヶ崎でライブができたらいいみたいなことを言ったんですって、横浜で。
そしたら、2000年というのは津波が出た年なのでね、もうすごい年ですけれども、
あの年になって茅ヶ崎の住民たちがサザンのライブをやってほしいっていうことで、有志の方が署名運動を始めて、
なんと茅ヶ崎の人口20万人くらいだったんですけど、そのうちの5万の人がまず真っ先に4人に1人が署名活動を手を挙げたくらいで、
それを市長に提出して、市長としてもやっぱり久保田さんっていうのはもうね、茅ヶ崎という町自体を歌枕にして全国へ知らしめてくれたもう大功労者だから、
できることなら全部協力したい、市が全面バックアップでやるというふうに言って、その久保田さんの一言と住民たちの署名とか運動とか、
すべてその交通整理とかも茅ヶ崎市が全部ボランティア共にやると。
そして会場となった茅ヶ崎市野球場って今もありますけども、あれは久保田さんが少年時代にあの人野球部だったんですけど、
やってたその球場でその利用料を特例で10分の1にしたり、茅ヶ崎市が条例をわざわざ作ってライブのためだけにやって、アミューズももうこれはってことになって、
2000年の8月19日に初めてサザンオールスターズは茅ヶ崎でライブをやったんですね。
茅ヶ崎ライブの意義
そしてその時にね、歌った歌があるんですけれども、それをちょっと最後エンディングテーマということで。
エンディングもある。
サザンオールスターズのね、茅ヶ崎に背を向けてという曲ですね。
このね、茅ヶ崎に背を向けてっていう曲なんですけど、今我々見てのね、この2000年の今のライブの時の映像なんですが、
実はこれあんまり知られてないんですけど、熊田圭介さんが人生で初めて作った曲なんです。
そうなんです。
これ勝手にシンドバッドと同じね、熱い胸騒ぎっていう最初のアルバムにこの曲は入ってるんですけど、シングルカットはないんですけど、人生で初めて作った曲がこれだったんです。
で、茅ヶ崎に背を向けてということで、茅ヶ崎から旅立っていく、多分自分の大学時代のね、青岳に行く時の話とかは多分思い返したんじゃないかなっていう推測はできますけれども。
宮地さんとかがね、よくエッセイ書いてる面白いのが、茅ヶ崎は楽屋だっていう皆さん言うんですよ。
茅ヶ崎というところで、要はみんなこう仲間うちでセッションやったり、ロックやったり、あるいは歌を歌ったり、ダンジョウロは舞台をやったり、オトジロは稽古をやったりやってたわけですけど。
それで蓄えた力でもって、みんな東京へ出て、世界に出て活躍をするっていう、茅ヶ崎は音楽の楽屋的な街だと。
その距離感と、ただ楽屋って集中できる環境、いい環境とか、設備という機能性と自然環境と集中できる環境っていうのがあっというと、すぐね、廊下を伝って舞台を立てるっていう、そういった距離感があるから、それが茅ヶ崎という街なんだって言うんですね。
で、塚田さんも実際そうやって背を向けてある意味ね、行ったわけなんだけど、初めてね、書いた曲は茅ヶ崎を出ていく話を書いて、ただそれを住民の悲願だったね、この伝説の2000年の茅ヶ崎ライブで披露したっていうね、そういったことがね、最後のお話として。
そしてまあね、今ね、気づいたと思うんですけどね、このライブバージョンのね、最後に言ったことはね、あのライブオリジナルアレンジなんですけれども、砂混じりの千枝沢聞いて何か繰り返したときに、その後のあれは平塚、これ平塚なんでね、最後に言ったのが、小田原にはちっと遠いっていうね、風に言ったっていう。
これ僕だから東京とかじゃないのが好きなんです。東京にはちっと遠いのがじゃない。小田原にあくまでもこの神奈川のね、相模湾に生まれた人生である生き方だったってことですよ。っていうのがね、僕はすごく嬉しかったりします。
はい、ということで、次回はね、雑談回ということで、今回はこの辺で。ありがとうございました。
ありがとうございました。
48:07

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