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FM八ヶ岳 レインライフ ひと交差点の時間です。
聞き手はサポートスタッフの中田邦子です。
本日のゲストは童話作家であり、長年にわたり教育・福祉の現場で
子どもたちと向き合ってこられた津滝雅清さんです。
津滝さん、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今日は、津滝さんの創作のお話はもちろん、地域文化を支え続けた方々や
そして、ノーベル賞を受賞された大村智先生との貴重なお話まで
たっぷり伺いたいと思います。
まず、自己紹介をお願いできますか。
はい。私は北都市向川町に住んでおります。
学校の先生ではありませんが、施設での教育、園内教育があった頃、
そこで子どもたちを教えておりました。教員免許は持っておりますが、
あくまでも園内教育があった頃の学校と呼ばれた施設で
子どもたちに国語なんかを教えていました。
子どもたちが静まった頃、童話を書いたり、下書きをしたりとか、
自然や人との関わりの中で、子どもの気持ちというか、
子どものあるべき姿を描こうと思っておりました。
はい。童話やエッセイのお話の根っこには、人への眼差しがあるんですね。
ここからは、津滝さんの世界を朗読でご紹介します。
第39回山梨県芸術最小児童部門 芸術最小受賞作
タイトルは「ほうの木の花二つ」
これは山の中の小さな学校を舞台にしたお話です。
勉強の嫌いな子どもを、主人公に絡み合う子どもたちの情景を描いた作品です。
帰り道、春蝉が鳴いていた。
シンジはむしむしした暑さに耐えられず、谷川へ降りて行った。
水はまだ身を切るように冷たい。
削り取られた岩肌、深い淀み。
魚が走る、シンジの心が弾む。
もっと暑くなれ、本当の夏よ早く来い。
それからしばらくしてシンジは、
喉を痛めて教室の椅子にぼんやり座っていた。
嫌いな勉強がますます嫌いになる。
まるで外国語を聞いているようになると決まった。
熱があるみたいだなぁ。
河合先生は額に手を当てた。
大山先生に見てもらった方がよさそうだな。
行っておいで。
だが保健室へのシンジの足取りは重かった。
どうせ怒られるに決まってる。
しかし腹を決めてノックをした。
誰だ?
大きな大山先生の声だ。
心臓がドキドキしてきた。
シンジです。
誰だって?声が小さい。
シンジです。
入れ。
ずいぶん威張っている。
河合先生が保健室を出ると、
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熱を測りなさいと言って、
シンジを睨んだまま体温計を渡した。
シンジは扁桃腺を晴らすことはあっても、
風邪をひくことは滅多になかった。
冬の川に飛び込んでも風邪をひかなかった。
おとうに怒られて夜遅くまで山の中に隠れていても、
なんともなかった。
お前には扁桃腺があったね。
あーんしてみな。
シンジは大きな口を開けた。
腫れてる。
薬を塗ってあげるから、
今日は静かにしていなさい。
大山先生は棚から薬の瓶を取り出し調合した。
白衣を着た四十過ぎの女の先生が、
学校では一番怖い存在であった。
小学校ではね、
必ず怖い先生っていました。
でも本当は、
子どものことを一番に考えてくれる先生でもあったと思います。
教室の空気や保健室のひんやりした感じ、
そして子どもが胸の奥で感じている不安まで、
静かに静かに伝わってきました。
叱られるかもしれない。
でも行かなければならないっていうね、
子どもの頃、誰もが一度は感じた、
あの気持ちを思い出された方も多いのではないでしょうか。
津滝さん、この物語にはどんな思いを込められたのでしょうか。
そうですね、私が最初に勤めたところは、
勉強のできない子どもとか、
ちょっと飛行に走った子どもとかがおりましてね、
勉強はだいたいできなかったですね。
勉強のできない子どもがたくさんいました。
でもみんな得意な何かを持っていたように思いますね。
私はそれをどうやって引き出してあげるだろうか、
そんなことをいつも考えていました。
実際、年齢を重ねていきますと、
その頃の同級生なんかも、
今になると、なるほどなと思うような分野で考えていますからね。
津滝さんは大学を出られて、すぐに教員になったわけではないんでしたね。
そうですね、私は高校でも大学でも優秀な学生ではありませんでした。
それに私はいわゆる小学校の先生とか中学校の先生になるつもりはありませんでした。
どういうわけか、学校が落ちこぼしてしまったというか、
落ちこぼれてしまった子どもたち、
学校に馴染めなかった子どもたちや、
飛行に走ってしまった子どもたちの勉強を見てあげたいという気持ちが強くあったからです。
そういう施設で仕事をしたいと思っております。
ちょうど大学を卒業するときに、
国立の学校の養成所がありましたものですから、
そこを受験して1年間勉強させてもらいました。
そこの寮には、全国から送られてきた飛行進度の進んだ子どもがおり、
私は実習生としていくつかの寮に配属され、
一緒に生活をしながらいろんなことを学びました。
改めて、世の中にはいろんな子どもがいるものだと思いました。
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いつの間にか学校から落ちこぼれてしまった子どもがいるんだな、改めて思ったものです。
いつの間にかこぼれてしまっていたということで、
簡単に落ちこぼれと言ってしまうんですけれども、
そんなひとくくりで片付けられるということではないんですよね。
そうですね。飛行に走った子どものほうが、
私なんかよりはいろんな社会のことを知っていましたね。
ずいぶん大人でした。
そうなんですね。
次でいいですか。
私は1年後に児童自立支援施設に就職しました。
小学生の寮を担当しまして、そこには大体小学生ですね。
小学生を中心にちょっと弱い子どもさんですね、子どももおりまして、
そこで4年ほど一緒に仕事をしました。
それから山梨に。事情があって山梨に戻ってきました。
山梨では死体不自由の子どもの施設などにも勤めましたし、
知的に障害のある子どもたちとの関わりもありました。
その中で寄り添うことの難しさ、大切さを本当に学びましたね。
他の子どもたちにも関わらせていただきました。
そこでは健康で元気な子どもと一緒に遊んだり勉強していたりします。
私は漫画も教科書ではないかというふうなことも思うことがありましたね。
三国志とか明日の城なんかを見せて読ませてあげるとスーッと入っていく。
暴力的な場面もありますけれど、共感するところもありましたね。
そうですね。漫画イコール娯楽ではなく学びの媒体にもなり得るということでね、
体験とか感情とか思想とかをスーッと教科書よりも入っていくんじゃないでしょうか。
そうですね。
ところで、津滝さんは60代で学生に戻られたということをお聞きしているんですけれども、
一体どうして学生になったんでしょうか。
60歳で退職したんですけれど、自分のやってきた仕事が果たしてあれで良かったんだろうかとすごく反省したんですね。
心残りもありましたし、やり残したような感じもしたんですね。
そこで思い切って山梨学院大学に社会科学研究科というところがありましてね、
そこで4年間教育学とか障害学習などを学び、
そこではやはり目から鱗が落ちるって本当にあるんだなというふうに思いましたね。
そうなんですね。
つい最近ではサントリーの名誉ブレンダーの方ですね、
押水さんとおっしゃりましたけど、この方の話を聞いて非常に感動したことがあります。
はい。
じっと待っていると必ず人の良いものが見えてくる。
ブレンダー、ウイスキーにも良いものが出てくる。
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それまではずっと待つんだよと。
良いものが見えてくるまで待つんだよと、こういうふうに言われましたね。
非常に感動しました。
はい。
やっぱり待つっていうことがとても大切で深い言葉ですね。
ここでつたきさんのリクエスト曲をお送りしたいと思います。
同様で一寸防止です。
この曲に何か思いとかありますでしょうか。
はい。
私動画を書きますけれど、動画の中にいろんなものが含まれています。
非常にいろんな動画を聞きますけれど、
一寸防止は私が小さい時、小学校に上がった頃ですね、
ものすごく小さかったんですよ。
体が小さくて。
体が。
残念なことにいじめられましてね。
一寸防止というかね、ちびちびと言われたんです。
いつか大きくなって自分も頑張ろうという気持ちは強くありましたね。
それでいつの間にかこの一寸防止、いつか大きくなって立派な大人になろうという気持ちも含めて
この曲を選びました。
大好きですよね、この歌は。
わかりました。
津滝さんは総合同人誌中央線にも関わっていますよね。
この中央線という本の知らない人ももしかしたらいるかもしれないので、
少しお話ししていただけますか。
中央線のことについてはですね、ホームページでかなり詳しく載っていますけれど、
そこをちょっと引用させてもらいますけれどね。
はい。
中央線を創刊したのは藤巻義樹さん、明治27年から昭和43年に生まれた方ですね。
藤巻さんは現在の北都市須玉町真明田の出身で、
国鉄の中央線穴山行きから甲府商業高校、商業学校、現在の甲府商業高校ですね、に通っていたと。
1年先輩に遠藤勲さんがいて、藤巻は紫陽花という文芸同人誌を作行していました。
藤巻さんは4回2年の時、その仲間に加わり、短歌詞、小説を投稿していった。
紫陽花は3年ほど続いたけれど、同人が学校を卒業し、就職などで県内外に散っていったため廃課となった。
ところが、紫陽花の仲間たちが50代になり、社会人としてそれぞれ体制してみると、若かった頃が懐かしく思い出され、
また同人誌でもというふうな声を察知した藤巻さんは、昭和33年2月に中央線の発刊に踏み切った。
ところが同年の11月に同名の同人誌、中央線が発刊されるという思わぬハプニングが起き、統合話などもあって、
結果的に双方とも3号雑誌の域を越えぬまま廃官となった。
ところが10年後の昭和43年3月、藤町のごとく復活させ、中央線を復活させ、再び創刊号を世に出したのです。
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この新中央線が現在82号まで来た雑誌となり、55年間の伝統を築き上げてきた第一歩であった。
藤巻さんは64年に及ぶ人生を振り返り、自分のやり残したことは強度に高いレベルの総合同人誌を作っていくことだと、
使命感に燃えて全力を傾けている。中央線のために死ぬなら悔いはないと、体を心配する奥さんに藤巻さんが口にした言葉である。
創刊号に次ぐ2号の編集を終えた後、治病の全息の悪化により、去年64歳の人生を閉じた。
藤巻さんの下で編集に立ち会ってきた深澤幸文はこう書いている。
中央線が藤巻さんを殺したようなものですねと、お悔やみを申したところ、奥さんはこれで本望でしょうと涙ながらに語った。
中央線第3号と藤巻の中央線にかける情熱の深さを知る人に山寺仁太郎がいる。山寺仁太郎さんですね。
山寺さんは第3号から三学エッセイ、余り周辺の長期伝採を始めた人で、長い間本室の編集、発行人として連絡された。
そして彼を敬愛してやまない後日ノーベル医学生理学賞を受賞された大村博士がいますね。
二人は意気投合し博士は壊れるままに中央線にエッセイを掲載した。
やがて高齢となった山寺が清去すると将来の存続をした編集人、私ですけれど、同人と一緒にこの線をさらに発展させていこうというふうに考えられました。
そのような経緯があるということですね。中央線相関の精神というのが言われたこと。
そうですね。先ほどの続きみたいになりますけれどよろしいですかね。
中央線創始者の意志と伝統を後世に伝えることは難しい。
また、先駆者の意志と強度に対する思いを、熱い思いを汲み取り、後世に伝えることは、形を真似ること、功績を称えること以上に難しい。
それゆえに私たちは先駆者の意志と情熱と思いを、同人誌中央線から学び、さらに優れた文学見度の情勢を目指す責任と義務があるのではないか。そんなふうに思っています。
私たちはこの発行人の下でさらなる研鑽に努めていかなければならないなと、こんなふうに決意も込めて思います。
はい、ありがとうございました。この本はどこに行ったら手に入りますか?
長坂では清文堂のキララさんと山梨県立文学館、それから大村美術館、3カ所で販売しています。
はい、図書館にも置いてありますか?
置いてありますね。
はい、じゃあぜひ皆さん手に取って面倒して見ていただきたいと思います。
いろんな角度からの作品がありますから、文芸雑誌とちょっと違う形ですけれど、中身のある雑誌になっていますね。
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はい、それではここで2曲目の津田紀さんのリクエスト曲をお送りいたします。
千間三央さんで北国の春です。
私は東北の人は好きですね。なぜかというと純木というか真面目というかそういうふうな感じがするんですよね。
千間三央さんの歌というのは、もう本当に飾り気のない歌だなというふうに思っていましたし、
歌の内容も東北地方の風景というものが滲み出るような歌で、心の底から歌える歌だなというふうに思いましてね。
千間三央さんの歌は大抵歌えるようになっています。
一度お聞きしたいと思います。
歌えるほどうまくないんですけどね。歌は好きですね。純木の方だなというふうに思っています。
津田紀さんがこの中央線の編集に携わることになった経緯をお話ししていただけますか。
私は十何年か前にこの中央線の同人にさせていただきました。
相互同人誌中央線というのは社記にありますように、郷土の文化を愛し広め育てることを目的としているということですね。
こう書いてあります。我々は郷土の文化を愛し、これを開く紹介し、その発展に努めている。
また文化一般について研究し、創作活動を通して文化の向上に寄与せんとするものである。
この趣旨目的のために研究会等を開催し、同人誌中央線を発行するというふうにあります。
文学同人誌ですから、地域の言葉を文学を残し、未来に託す、そんな役割を担っています。
社会的な地位のある方、また会った方、また現在もそういう立場にある方などが書かれております。
それを編集面から支えているのが津崎さんですね。
同人になってしばらくすると山田先生も落とし目されていましたからね。
なかなかうまくいかなくなったということもありましたし、すぐに亡くなられたんですよね。
それで山田先生が、あなたの作品はなかなか面白いよということで励まされたものですからね。
これから中央線の編集をやってくれないかというふうなことを言われたものですから、
ちょっと恥ずかしかったですけどね。一生懸命頑張ろうなと思って始めました。
それは何年ぐらい前のことですか。
そうですね。先ほど言ったように15年、10年前ですね。編集に直接関わったのは10年ぐらい前ですね。
山寺陣太郎さんという方、どんな感じの方だったんですか。
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私ともかなり年は違ってましたけれどね。ずっと年上の方でしたけれど。
私こういうスケールの大きな方って見たことなかったですね。非常に感動しましたね。
どんなスケールの大きさだったんでしょうね。
どなたでも包み込んでしまうというふうなね。中国風に言うと知りませんけどね。
大人というか大人というか非常にスケールが大きい方だなというふうに思いましたね。
酒の咳も非常に好きでね。話題がつきない方でしたね。
いろんなことを知っていろんなことを勉強していましたね。文学にも長けていましたし。
天山という本も書かれていますしね。本当に魅力のある方でしたね。
辻さんとのエピソードは何かありますか。
特別そういうものはなかったですけれど。
一度だけ柳屋さんというホテルで合併会をやった後にちょっと行かないかということで、近所の飲み屋さんですかね。
連れて行ってもらってね。ザックバランにお店のおかみさんとも話していたし。
そんなにたくさん飲む人じゃないんですけどね。上手に場を和ませると。そういう方でしたね。素晴らしい方でした。
そして現在の中央線の発行人はノーベル賞受賞者の大村先生でしたね。
大村先生との一緒に中央線を編集発行するというきっかけになったのは何だったんでしょうか。
一番最初は大村博士の実家と私の母親の実家はすぐ近くだったんですね。
子供の頃聞いてましたから、博士の実家は私の実家でしたから、祖父からね。
あの三兄弟、大村の三兄弟は優秀だぞって言われてですね。
博士は子供の頃からお父さんに厳しく育てられたそうですけど、親しい感じはしましたね。
親しい感じ。とても話しやすい感じですね。
そういうことですね。土の匂いのする方でしたね。
あと何かエピソードとかはありますか。
いろいろありましたけどね、大村博士は自分の著書の中にもたくさん書かれてますけれど、
お百姓仕事をたくさんやっていて、いろんなことを経験されてるんですね。
大きな馬をお父さんが買ってきて、これは競馬馬だったらしいんですけどね。
大きい馬を買ってきて、それに乗って畑、白山城の近くの山へ行ったりしてたみたいです。
一度その馬から落ちて、頭の右側の側頭部の5センチぐらいを切ったそうですね。
離球帽子ですかね、帽子をとってみて、僕にはここに傷があるんだよ、見てごらんと見せてくれたんですけど、
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確かに5センチか6センチかそのぐらいの傷跡があるんです。
すごく鍛えられたんだなというふうにね、そんなのは覚えてますね。
濃厚馬じゃなくて競馬の馬だからとても高い、背が高い馬ですから、そこから落っこちたってなるとかなりのね、怪我になるんですね。
そうですよね、私は馬に乗ってたんだからちっちゃい馬でしょ、日本の馬だから小さいんでしょって言ったら、いやいや、俺の親父は競馬馬を買ってきたんだよ。
子供の頃からね、鍛えられていた方なんですね。
大村先生が中央線に投稿したり、編集したり、今の発行人になったりっていうことは、最初はどういったところから始まったんですか。
私が編集してからじゃなくて、私の前の山寺仁太郎先生とかが、もともと深い関わりがあった方なんですよね。
関わりですか。
山寺仁太郎さんが常年大村博士を可愛がってたんですよ。
可愛がってたんですよね。この子は優秀だっていうふうに多分言ってたんですよね。
だからそれをお前中央線に書かないかっていうふうなこと多分言ったと思うんですよね。
それで書き始めたものですからね。私が編集長になる10年くらい前からもう書かれてましたね。エッセイとして書かれてました。
そうですか。もうノーベル賞云々のもっともっと前からということですね。
そこからお付き合いというか関わりがあったということなんですね。
頭を切ったということ以外にも先生の小さい頃のお話って何かありますか。
先生の近くには武田八幡宮があって、神山小学校ですかね。すぐ近くなんですよね。
学校の帰りに武田八幡宮のすぐ脇に施舎というかため友の神社があるんですよね。
そこの中に源のため友の像が木像があってそれを見たり触ったりしたみたいですね。
面白いな面白いなって寄り道しながら家に帰っていた。寄り道しなければダメだよな。
子供の頃はいろんな寄り道しないと大きくなれないよなというふうなことは。
勉強一筋ではなくて寄り道が大事だよということなんですね。
そこに行くまですごく急斜面ですよね確か。
本当に山の中ですね。
山の中ですね。私一度行ったことあるんですけれども足を滑らせてしまって大変な思いをしたことがあるんですけれども
そうやって小さい頃から鍛えられてかつ勉強もものすごく一生懸命にというか。
勉強はですねちょっと横道に揃えるかどうか分かりませんけれど
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中学出るまではお父さんはお百姓さんにしようということで鍛えたらしいんですよねすごく厳しく。
お百姓さんです。
これは中学高校へ行く頃になると勉強しなさいよと勉強のほうに舵を切ったというかね
勉強で進ませてあげようというふうなことでその勉強に頑張るようになったというふうなことを言ってましたね。
この中央線というのはね先ほど津田木さんが言われたように地域文化への思いや
そして人への温かい思いやりっていうことがやっぱり原点にあって今に至っているっていうことなんでしょうね。
そうですね山田先生も大村博士も山梨っていうのはすごいとこなんだぞってそういうことはよく言われていましたね。
自信を持って中央に発信できるだけの人がたくさんいるんだというふうなことをいつも励ますように言ってくれましたね。
それでは3曲目は私のリクエストです。
昨年の8月にこのひと交差点にゲストとして入ってくださった鈴木賢治さんの曲です。
ファイブマン愛のテーマ。津田木さん最後にリスナーの皆さんへメッセージをお願いします。
先ほどもお話しさせてもらいましたけれどサントリーの名誉ブレンダーさんの言葉と私の考え方と非常に一致していますね。
ダメなものはいない。ダメな子はいない。必ず何か持っているんだと。じっと待つんだと。
必ず才能というか能力というのは発揮できるんだという言葉が大好きですね。
じっと待つんだと。諦めないで待つ。これが大事なことじゃないかなというふうに思いますし、
これを自分の座右の銘というかにしたいと思っています。皆さんにもそれをお伝えしたいなというふうに思います。
はいありがとうございました。
ありがとうございました。
本日のゲストは童話作家津田木まさきよさんでした。聞き手はサポートスタッフの中田邦子でした。