1. 大人になりたい旅がしたい
  2. #29【福岡・筑後】雲はまだ残..
2024-07-08 1:12:22

#29【福岡・筑後】雲はまだ残す2人の影を。Part2

雲はまだ残す2人の影を。 “白日別”のイマジナリー・フレンドへ2日目


現在の福岡県南部、筑後地域においては、淡く柔らかい山並みと、清らかな筑後川が織りなすグラデーションが、美しい景観と豊かな詩情を今日に伝えます。多くのストーリーが潜むこの地域の歴史に特筆されるのが、首府久留米から発した“2つの旅路”。同郷・同年・同業という運命的な一致を機とする友情物語は、見事なまでのコントラストとともに、日本美術史に鮮烈な輝きを放ちました。そして2人が想い、帰り着いた故郷の山野と旅人の心にしめやかな彩りを添えてくれます。


【目次】

〜 前回の振り返り

〜 ホークス選手も愛好する筑後のうどん 【立花うどん】

〜 とある理由で全国区な九州の雄藩 【久留米城跡】

〜 尊王攘夷の思想的リーダーを生んだ 【全国総本宮 水天宮】

========================================

〜 ★プロローグ★ 久留米に発した“二つの旅路”

〜 ●第1章 同郷・同年・同業の親友

〜 ●第2章 快作「海の幸」の誕生

〜 旅路の出発点を訪ねて 【坂本繁二郎生家・青木繁旧居】

〜 ●第3章 夏の夜の別離と青木の死

〜 青木繁の絶筆と遺書を考える

〜 呼び戻しスープが自慢の久留米ラーメン 【大砲ラーメン本店】

〜 ブリヂストンの歴史と地域貢献 【石橋文化センター】

〜 ●第4章 九州に生きる 九州を描く

〜 ●第5章 郷土で実現した“二人展”

〜 夕映えの筑紫平野を一望 【高良大社】

〜 ●第6章 筑後の夜空 静謐の境地へ達して

〜 ★エピローグ★ 二人が帰り着いた“白日別”のふるさと

〜 1日の振り返り


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大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行とお酒が好きな荒沢男性2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデルコースを紹介しながらお話をしていきます。
内田です。 パルヤです。 今回は前回からの続きですね。
雲はまだ残す2人の影を。 白日明け。 白日明けのイマジナリーフレンドへの2日目ですね。
まだこのタイトルの… 何も回収していません。 そんな意味ないんですけどね。
それがわかる2日目という感じなんですかね。 ということで、早速いったほうがいいですね。
前日は西鉄久留米駅の近くにあるホテル、任意の場所に泊まって飲み終わりましたということなので、今日もその西鉄久留米駅近くからスタートというふうにしたいと思います。
久留米に泊まっていて朝ごはんをいただくわけですが、車も持っていますので、ぜひお勧めのスポットが1個あります。
それが西鉄久留米駅周辺から約15分車で行ったところにある立花うどんさんです。
これは福岡のグルメの一つにうどんがあるんですね。 どうしてもラーメンのイメージとか強いと思うんですけど、福岡は結構うどんも盛んなところになっております。
ヤバヤバな感じのうどんが名物ですよね。 そうそうそう。
やっぱり福岡もね、先週行った時も福岡の地元の出身の後輩のことも話したんですけど、それぞれの推しのチェーンのうどんがあるんですね。
すけさんうどんだったり、牧野うどんって大体福岡の人はわかるんですけど。 うーん、まあやっぱうどん名物なところはやっぱそれぞれ推しのお店がやっぱあるよね。
そういうことでしょうね。 で、そこで行くとこの四国方面の遊といえば立花うどん。
おいしいんですよ。 これね、写真がめっちゃうまそうだね。 でもなんか福岡のうどんでこの肉が乗ってるっていうのはあんまり印象なかった。
そうなんです。これね珍しい、カスタマイズすればいいくらいでもあると思うんですけど、ここの一つのポイントではありますよね。
ごぼう店はね、まあよくある話なんですけど。 わりとはありますよね。
この肉うどんですよね。 うん、もちろん肉入ってないのもありますからね。
肉ごぼう店うどんというのが看板メニューになりますね。
でね、この立花うどんさんなんですけれども、本当にね、自家製のうどんでておいしいのはもちろんなんですが、朝はね、このロードサイドズンにあるんですけれども、
9時半からやってるんだよね、確かね。なのでちょうど朝ごはんに行くのにいいかなと思っていて、はいはい、でもパッとね、食べられます。
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いいですね、朝ごはんにうどん、やっぱいいですよね。 優しく始められる感じが。
前日もね、日本酒も飲んでますしね、結構ね。 チャンポンしてますからね、ビール、僕焼き鳥焼酎派なので、焼酎、日本酒と。
そこで行くとね、やっぱりこのお腹に優しいの食べれるのいいような気がします。 立花うどんさん、もちろん福岡の県民の方はよくご存知だと思うんですけれども、
もう一つね、特筆すべきところで言うと、ホークスファンの方はやはり立花うどんといえばという、
これね、先週もあったんですけれども、今はその水穂ペイペイドームですか、ソフトバンクホークスのね、本拠地にもね、やっぱり試合になるときこのキッチンから出てきますし、
あのね、すごい地域への思いがこの強い会社さんで、筑後川はね、やっぱり氾濫を起こすわけですけど、現代においても。
ついに2,3年前も結構大きな水害があったんですけれども、その時やっぱり久留米は一番被害を結構受けてたんですけれども、
その時にやっぱり水害からの復興支援でどんどん焚き出しを行ったりとか、そこにね、福岡去年の6番ジョーカーと言われていた牧原大成選手がね、
久留米のご出身なんですね。この立花うどんがすごい好きだったそうで、牧原選手がその店員となって焚き出しをしたりとかっていうこともあって、結構話題になりました。
あとは柳田裕樹選手とかも立花うどんに寄ってるっていうので、よく知られてる話でして。なのでホークス選手もすごい愛好する。特に牧原選手はね、もうすごいつながりの深いということで。
ホークスファンの人はもう言わずもがなと思います、この辺りは。それにね、久留米に行ったからにはここにね、いいかなと。
で、久留米は久留米で美味しいんですけど、これね、もともとは柳川っていうもう一つの川下りが有名なね、四国地域の都市があるんですが、そこの発祥でありますので、柳川久留米においてこの立花うどんさんはいただけるということになりますね。
いいですね、優しい朝ごはん。
優しい朝ごはんというところになっております。で、そこから今日はですね、久留米という町自体の観光をしたいというふうに思っております。
車があったのでまたそのままドライブで行きますけれども、一度立花うどんで郊外の方に行ったんですが、ちょっと市街地の方に改めて戻っていただいて、車でやはり15分ほど立花うどんから行ったところにある久留米城の跡地に行きたいと思います。
久留米城、これは要は久留米藩というところの本拠地になっておりまして、
地区語のマシュフと言いますか、首都というか地区語の国における首都みたいな存在だったところですね。
久留米藩というのはですね、大名は有馬さんというところになっていまして、
これもともと戸様大名だったんですけれども、関ヶ原の戦いの功績によってこの地に治められたという人になっております。
06:08
でね、久留米藩自体は比較的もう江戸時代のほぼ最初の方から最後まで200何十年ずっと同じ藩主が治めておりましたので、
安定した統治ができていて、星の焼きをはじめとするですね、いろんな産業だったりも手を出して、
なるだけうまくはやっていたような気がするんですけれども、
この有馬さんというと、久留米城の跡の本丸には今有馬記念館というものがございますので、
そこへ行くとその歴史も学ぶことができます。
今はもう久留米城は建物は建っていないんですけれども、
桜だったりもみじの名所として知られているほか、この笹山神社っていう有馬系の人を祀った神社とかもありますので、
そういった歴史好きの方はこの神社と記念館をお城で合わせて行ってもらうといいのかなと。
余談ですけれども、この有馬さん、一つ有名なところで言うと、競馬の有馬記念ってあると思うんですが、
あれの由来なんです。
なんか由来とか繋がりがあるんですか?
久留米藩の藩主は有馬さんだったわけですが、明治維新で大名ではなくなってしまうんですけれども、
その後も借位を授けられて、貴族というか有馬家としては続いていくわけなんですけれども、
そのうちの一人が有馬頼康さんという方が、政治家なんですけれどもいたんですね。
その方が競馬の普及に大変努めた方なんですよ。
それですごい、いわゆる今の日本の競馬の原型みたいなのを作るに貢献した方なんですけど、ショーレースにおける。
ところが、彼が肝入りだった大会が始まる時に、急になくなってしまったんですね。
そこでおいて、せっかくだからその大会の名前を留めておこうと、彼の功績と名前をね。
ということで有馬頼康さんの有馬をとって有馬記念というふうになっている。
思わぬところで、この久留米藩の面影というのは今全国で感じられるんですね。
歴史的の方で見ると、この石垣がやっぱりすごかったりとかね、そういうところありますので、
情覚として見る分には見応えはありますが、歴史的じゃない方でもね、そういった久留米の街の根本というところでね、訪ねていただけばいいのかなというふうに思っております。
この城跡っていうのは、今残っているのは石垣と森ぐらいが残っている。
建物はもう残ってないです。
で、その久留米城からですね、また少し車で4分ほど行ったところにあるのが、もう一つこの久留米と有馬というところなんですけども、
水天宮というですね神社です。
09:03
あの水天宮ってね、日本いろんなところにあるんですね。
ありますよね。
何か心当たりありますか?
いや特にどこっていうのは思いついてないけど、まあでも多分なんかいろいろ見てるんだなーって気がするな。
そうですよね。
有名なところで言うとね、日本橋の神殻町のところにある水天宮もありますし、
あとは横浜にもねありますね、一つね。
とにかくいろいろ水天宮、水の神様として祀られているわけなんですけど、
それの総本宮がこの久留米なんですね。
これもやはりね、筑後川に面しているというところで、そこの水の神様になるわけですよ。
本当にね、地域から厚い信仰を受ける久留米といえばっていう神社になっていて、久留米藩有馬家からも非常な庇護を受けている。
あとはもう一つですね、歴史好きの方はこの久留米の水天宮そのものというより、
この水天宮偶事っていうのに一つね、あれ聞いたことあるなって思う方がいるかもしれないんですけれども、
実はこの水天宮の偶事さんというのは代々同じ一族が募ってたわけなんですが、
幕末の時の偶事の牧泉の神、靖海という人が、通称牧泉の神、牧泉っていう人なんですけれども、
この人はですね、大河ドラマとかでもすごい強烈な印象を放つ幕末維新の登場人物です。
何者かというと、久留米藩の、要はこの偶事さんだったんですけれども、尊王上位っていう、
要は天皇を敬って外国人を追い出せというような思想的リーダーだったんですね。
非常に哲学者というかそういったところの素養もあったような方で、
自分がこうどうにかするという思想的な思想家として名高い人なんですね。
それが大きな共感を読んで、特に長州藩の人たちだったり、尊王上位を目指す人たちにも本当に尊敬を受けていた人物、偶事さんなんだけど。
なんか偶事さんがそんな政治思想みたいなものを引っ張っていくっていうのは、かなり珍しい例な気もするね。
そうですね、やっぱり幕末の時には神社、神道とかそういうものと、天皇家とのかさかなりなりだったりとか、そういうところでいろいろややその辺が思想的に連なってくるところであったんです。
それをやり始めたのが国学で、それが秋田の平田畑なんですけれども、だったりもするんですけどね。
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なので、バックグラウンドはあったと思うんですが、それでもやはり偶事という立場で、ここまでの歴史上に名を残した人というのは珍しいと思います、非常に。
確かにね。
実際偶事だって久留米にいたんですけれども、久留米の枠も飛び出てしまって、結局尊王上位のためにリーダーとして長州藩とかと行動を常に共にするようになり、
最後はですね、京都で金門の辺という長州藩が藍津薩摩と戦って敗れる。明治維新の前に一回失敗してるんですけども、その戦で亡くなってしまうという人なんですね。
なんか珍しく、なんだろうね、熱いものが見える偶事さんってなかなかいない気がするね。
そうなんですよ。ちょっとなっかり立場として異色の人なんですよね。
その人が久留米の、この水天軍の偶事だった人ね。久留米というのはそういうわけでですね、もともとはこの間の戸瀬の山内家と同じで、
瀬戸原の戦いで勝ったっていうご褒美で預かっているので、徳川に近しい立場のはずでもあったんですが、この牧泉の神を筆頭にして、尊王上位派というのもかなり幅を利かせていた。
結局また、よくある話ではあるんですけど、真っ二つになっちゃうんですよ、幕末の久留米派というのは。
幕府を守るべきだというのと、幕府じゃなくて別の世の中を作るべきだという方で。
久留米派というのも相当の九州でも最極有数の巨大な大名ですから、相当に力を持ってたんだけど、結局何かその内紛でね、またいざこざが起きて、十分にその力を発揮できなかったりもしたんですけれども。
それはこの牧泉の神とその一派の影響というのは非常に強かったというふうに言われています。
実際この水天宮に今行くと、神社として地域の人から愛されているというところは全く変わりません。
牧泉の神が銅像や彼が暮らした家の復元だったり、そういった資料館もあったりしますので、
幕末好きの方は神社という以上に牧泉の神という、かなり強い個性を持った人物が何者だったのかということを深く知るきっかけになるかなと思います。
といったところが、久留米のまず主要な歴史のスポットでした。
ここからなんですけれども、いよいよというところで、久留米の、今市内にいるところから始まるんですが、
このタイトルにもある、二人の影をのこの二人をね、紹介していきたいと思うんですね。
はい。これはですね、なぜこの二人をまず紹介したいと僕は思うかということなんですけれども、
この二人の生涯を考えて追っていった時に、本当に深く人生について考えさせられるものというか、
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なんとも言えないね、少しの悲しさと楽しさと、歴史を知る喜びの魅力が詰まっているようなストーリーが、ちょっと上手く言えないんですけど、
友情物語なんですね。
その主人公なんですけれども、一人が青木茂という画家なんです。
この方は大学受験の資料集には載ってます。
明治時代に活躍した画家で、海の幸という傑作を残したということで、その海の幸の作者として資料集とかには載ってる方です。
これが一人。そしてもう一人が坂本半次郎という、これも画家です。
この人もやはりクルメの人で、教科書には残念ながらたぶん載ってないと思うんですけれども、
美術とかに興味のある方は名前は知ってるんじゃないかと思います。
青木茂と坂本半次郎、この二人の話はね、僕はいずれ何かのドラマになるんじゃないかと見てる。
ウィキペディアとかそういうものを読んでるだけでも、非常に難しいんですけど、すごい大きな舞台に活躍した友情物語の起結が、とにかく話を進めた方が早いかなと思います。
青木茂と坂本半次郎というのは、同じ年、同じ町、同じ仕事に携わった本当の意味の親友だったんですね。
この二人は小学校の同級生です。クルメの小学校の同級生で同い年だったんですね。
共にクルメ藩の武士の子供として生まれて、明治時代を生きた人なんですけれども、坂本半次郎が後に青木茂のことを改装して書いた文章があるんですけれども、それを読みますと、
君は今はすでにいない。同じ年に同じ土地に生まれて、同じく絵が好きというのは欲々の縁であったろう。小学時代の時同じ級になって、自分のすぐ後ろに君の机があったことがある。自分が後ろ振り向くと君はいつも優しい顔でニコニコとした。
というふうな改装を言ってるんですけれども、それだけ近い存在だった。この青木茂と坂本半次郎なんですけれども、結果的に二人とも画家として体制するんですが、最初に投画を表したのは坂本半次郎の方だったんですね。
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特にこの人は幼少期から絵の才能がズバ抜けてた。ということで、小学校制度始まって間もなくの美術の時間で、これはという感じになるぐらいズバ抜けてた才能の持ち主だったようなんですね。
さすがにすごい貧しいお家だったそうなんですけれども、それでもこの絵の才能はということで、絵画教室みたいなのに通わせてあげて、当時久留米には久留米出身のすごい有名な画家がこの時滞在していたっていう幸運もあって、その人の手ほどきを受けてめきめきと絵の才能を伸ばしていった。
その時、小学校で後ろの宅にいたという青木茂さんなんですけども、彼もやはり絵が好きだったわけなんですが、その人と同じ絵画教室にも通った。つまり習い事も一緒だったんですよ、この二人はね。
仲いいんだね。
仲いい。本当に小学校の時から小学1の同級生から。で、二人とも絵を頑張っていた。最初は坂本さんの方が子供の時はこれはというふうな見所があるというふうに思われていたんですね。
ただ坂本半次郎の家はですね、残念ながらちょっといろいろご家族の事情があって、大変生活が苦しかったんですよ。だから坂本半次郎はもうすぐ働きに出てしまって、久留米高等小学校というところですぐに美術教員のアシスタント、TAみたいなやつですね。すぐに働き始めちゃうんですね。
で、一方で青木茂さんの方は久留米で絵の才能を磨いていたんだけれども、この人はね、性格的になんというかかなり強烈だったんですよ。気が強かったというか、負けん気が強くて、もう行動派なんですね、非常に。で、それで久留米じゃ飽きたらなくなっちゃったんですよ、はっきり言って。
で、絵の道を求めて何か上手いできないかと思ってたときに、東京の上野には東京美術学校っていう、今の芸大ですね、ができていて、そこにすごい一流の先生が揃っているということで、そこに入りたいと思って、それでですね、青木茂は東京に出ちゃうんですね。
アクティブなんだね。
アクティブなんですよ。で、それで美術の塾みたいなのに入って、予備校みたいに入って、芸大を目指して。で、坂本半次郎はちょっとそういうわけにはいかなかったので、久留米で教員をやっていたわけなんですけれども、あるとき青木茂が戻ってきたときに、久しぶりに会って、絵の話になったら、
彼の絵の技術がもう、ずば抜けて青木茂の絵が上がってたっていうのに驚くわけですね。
まあそうね、教員の手伝いと学校で勉強してたんだと、やっぱ伸び率は違うかもね。
21:02
そういうことですね。もともとは坂本半次郎の方が少し見込まれていた部分は子供のときはあったようなので、やっぱりそれはすごいライバル心みたいなのを抱いたんでしょう。そこで坂本半次郎は家族にお願いして、自分も東京に青木茂と一緒に留学させてもらったんです。
なるほど。 青木が坂本を誘って、一緒に連れて行ったんですね。それで東京に一緒に連れて行ったんですよ。で、二人は東京で絵の同じ塾に学びながら、画家になるために区画を始めるわけです。
そういうわけでですね、東京でいろいろ青春を送るわけですね。二人でいろいろ旅行にも行ったりとか、スケッチをしに行ったりとかして、そこで我論を語り合ったりとか。性格も全然違ったんですね。青木茂が行動直上派だったのに対して坂本半次郎はどちらかというと教員向けだったんだよ。
受け入れて優しい、木鳥とした感じもあったようなんですけれども、そのレコとボコがあったからこそこの二人は多分うまくいったんだと思うんですね。
で、そうこしてるうちに二人とも結局大学に入りまして、画家として今後将来を職望された。である時、二人と青木茂の恋人と別の友達とで千葉県の立山に旅行しに行ったんですね。
そうしましたら、坂本半次郎がその海岸をブラブラ朝歩いていると、漁師たちが朝どれの魚を持って水揚げをしている場面に出くわした。それをすごいなーと思って、港に来たんだなーみたいなことを思って、青木茂のいる宿に戻って、あんなもの見たんだって言ったら、
青木茂はですね、そこにビシーンってなんか来たみたいで、今すぐ描くって言い出してて、急遽坂本にも無理矢理手伝わせて絵の具をバーって広げて、絵の具を広げて、急に絵を描き始めた。とんでもないアグレッシブな勢いと熱量でグワーって描いて、無理矢理坂本に手伝わせて、恋人にも手伝わせて、彼女にも手伝わせて描かせたものが海の幸だったんですね。
魚を水揚げしてる人たちの様子ですね。後ろに海があって。急いで描いたのもあるのかもしれないけど、ちょっと荒々しくもあるけど、この情景がよく伝わるっていう感じですね。
野生的というかね、非常にアグレッシブな感じがしますよね。青岸ゲルはね、もともと詩とかにもすごい興味のある人で、やっぱり情熱的なんですよね、非常にね。
なので、古代の神話とかにもモチーフを求めたりもいずれするんですけれども、そういうちょっと現実の、それこそさっき内田が描いたような生物画を描くというよりも、想像の神話のダイナミックな世界と現実との折り合わせて、そこに新しい境界を開くっていう。
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自分の道を測らずもなのか見出していったんですね。海の幸はそれの大成功をした例です。何にインスピレーションを受けたのか、僕はよく未だにわかってない部分もあるんですけど、とにかく何か彼をやっぱり刺激したものがあって、これを出した。
なんかね、ちょっとエジプトの壁画的なニュアンスもあるような気がしたね。
そうですね。それあると思います、本当に。やっぱりどっかちょっと浮世離れしたじゃないけれども、古代的、野生的な、本能的な絵を得意とした。
そうですね。たぶん写実的なところにプラスアルファで何かこう載せて描いてるところね。
そう思いますね。
で、二人の生涯がどういうふうに培われたかみたいなところを見るので、実は水天宮から徒歩5分くらいのところに坂本半次郎の性格が残っています。
こういうわけでね、昔の武家屋敷、久留米藩の武家の屋敷なんですけれども、坂本半次郎の生まれ出が残っていると。
今有形文化財に登録されているものですね。ここ今中入るとですね、坂本半次郎の生涯や作品を紹介もしているんです。
そして坂本半次郎の生涯からね、来るまで4分ほどのところに青岸ゲル窮居というのも復元されているんです。
こちらもですね、やはり久留米市の方でね、紹介されていますけれども、青岸の生涯自体はなくなったのを復元していて、中では青岸ゲルの生涯だったりとか、その作品も触れることができて、資料もたくさんあるよという感じですね。
やはり青岸ゲルというのはもう地域の久留米の英雄ですから、今でも保存会の方々がここをしっかり守って受け継がれているということでした。
なのでこういうところを見ると、坂本半次郎と青岸ゲルのそれぞれの成果を見るとね、2人の人格がどういうふうにして全くコントラストの凄い凸凹の人格が形成されていったのかみたいなところにもちょっと想像を巡らすのも楽しいかもしれません。
というわけで、青岸ゲルはですね、そういうことで海の幸を描いて展覧会に出展したことでですね、大変高い評価を受けて、すごい心身系のすごいのが出てきたぞと。
まだこれ20代そこそこなんですよ、これ描いたとき。とんでもない才能のやつがいると。ということで一躍もう注目された作家になって、ここでもまた青岸ゲルが一歩上に行くわけですね。
ところがですね、ここで青岸ゲルはもう順風満帆な人生に行くのかと思ったんですが、彼はこの海の幸で成功したことでもって、さらにですね、古代的な自分の独創的な世界というのを追求しようとしたんですね。
27:01
で、そこでさらに意欲作として、もっとすごいものを描いてやろうということで、和田積みの色好み屋というね、これもやはり日本神話に題材を取った多調対策をね、描くんですね。
確かにこの神話モチーフなのかなっていう感じですね。上にいる男性は神様に見えるし、下にいる女性は巫女さんみたいなね、服を着てますけど。
そうね、まさに神話、宗教画的な感じですよね。
多分うちらもね、専門のほうで美術とかそういうのがデッサンも含めてね、やってるので、僕よりも多分絵の見方がまた違った見方もあるのかなと。
期待したいところなんですけどね。でもおっしゃる通りね、そうですよ。
で、これをね、もう戒心の一作だということで、これは海の幸以上にいけるだろうと思ったわけですね。
ところが、いざ出展してみたらですね、残念ながら三等賞末席っていう、賞状は賞状なんだけれども、かつてもトップを取った青木茂でさらにいけると思っていた青木からすると、え?嘘でしょ?俺が末席?三等賞の?ってなるわけですよ。
なるほど。
そして、誰なんだよ、その三等賞末席に俺なのに他の奴現ってみたとき、三等賞を見とったら、その主席にいたのが坂本半二郎の大島の一部っていう作品だったんですよ。
大島の一部見てみましょうか。
それは難しいところだよね。芸術って作家性が出すぎると理解されづらくなったりとか、評価と情熱が比例しない感じがね、難しいですよね。
まあそれは映画の話とかもね、いつか雑談会をしてましたけどね、そういうのもあるんでしょう。それが坂本半二郎の大島の一部。
なんかさっきの青木茂と比べると、ちょっと色彩豊かでね、抜け感もあって、生活の一部を本当に切り取ってるっていう感じ。
そうですね。ヒッチももちろん違うだろうし、題材がね、青木茂が古代神話の幻想世界に題を求めたのに対して、坂本半二郎はこれ伊豆大島なんですけど、伊豆大島で旅行しててね、なんとかその展覧会に出展しなきゃいけないから困ってたらしいんです。
何を描けばいいのかと。伊豆大島の人にモデルになってくれても不審者と思われて断られるということで、仕方なく生活者の風景全般を描いたんですね。
30:01
逆に言うとその優しい目線というのがむしろ坂本のヒッチに合っていたのか、これで評価を得るんですね。
なんか複雑だね。困って描いたやつが評価されて、めちゃめちゃ情熱注いで描いたやつが評価されないとかっていう、難しいね。
今の世の中にも大おにしてあるでしょうね、こういうことはね。ただ坂本としても、別に青木茂を追い落とそうとかっていうことは思ってないわけですね。
普通にやって普通に症状が三等賞の主席と末席だったというだけなんですよ。
ただ青木茂としては許せないんですね。何に許せないかというと、このくだらない審査をした審査員が許せない。坂本というよりも。
まずそもそも自分は1位を取れていたので、三等賞主席とかじゃないですよ。1位だったんですね。取れると思ってたのに、なんで俺が三等賞の末席っていうことで、その不満をですね、美術雑誌にぶちまけるんですね。
何にも目が備わってない審査員どもはバカだと。見る目がね。何もわかってないこいつらはっていうことをですね、思いっきり書くんですよ。彼の性格、熱量からするとそれはもう多分誰も止められなかったんでしょう。
気持ちはわかるけどね。そこまでやるかっていうのも思うけど。
そうなんですよ。それでもうね、要は画壇のお偉いさんたちと大喧嘩するわけですよ。一方的になじるっていうか、大批判を。バリー、雑言って言っちゃあれですけども批判をするんですね。
とか言っちゃったんですよ。結局、それでですね、壮行しているうちに、青木茂の方はお父さんがね、この時ご不幸があって、久留米で亡くなってしまったんですね。ちょうどその前後して。
で、久留米にちょっと帰らなくちゃいけないと。実は青木茂は長男なので、自分がこの家を当主にならなきゃいけなかったんですよ。久留米藩士、青木家の家の当主にならなくちゃいけなかったので。いつまでも東京でずっと喧嘩してるわけにもいかないから、一旦ちょっと久留米に戻ったんですね。
一度その展覧会でしくじって喧嘩はしたけれども、実力があるのはもちろんマレーマが認めるところですから、九州に帰って青木家の当主はもちろんちょっと火災とか整理した上で、もう一回画壇に復帰しようということで制作を続けと思ったんですね。
ところがやっぱりこの青木茂っていうのは非常に情緒が不安定なところもあって、かつ芸術家の中で今まで自分は芸術家として生きていくっていうことを強く志望していたわけですから。
久留米の球体全都市だと彼には見えたんでしょう。そういった雰囲気だったりとか、なぜ自分がこの家というものを背負わされて、自分だったらもっと自由にもっと激しく世の中に対して新しいものが提示できたはずなのに、家が足枷になってくるっていう辛い気持ちもあったようなんですね。
33:13
とはいえ自分がお金を稼いでいかないと食っていけないわけですよ。お母さんだったり周りの兄弟とかはね。
ていうので、やむなくその久留米に戻り、久留米で九州の人たちを相手に、例えば私の肖像画を描いてくれませんかっていう軍人とかがいたら、そこでその求めに応じてお金をいただいて肖像画を描くみたいなことをやって、なんとか画家として。
地区ご地域のそういった人たちとも付き合いを兼ねてやっていくんですけれども、やっぱり内心うつうつとしたものがずっとあるわけですね。
まあこんなもんが描きたいんじゃねえっていう思いはありそうね。
そう。まして一度で天下を取り掛けたのに。
そうだね。
あの不明な審査員のせいでこういうことになって、なんなんだこの世の中っていう風になっちゃうわけですよ。
そして酒に溺れるんですよ。
なるほど。
才能はあるのにね。
そう。
うまくいかないもんだね。
すさんでね。生活もすさんで心もすさんで。
かつての情熱みたいなのが悪い方に悪い方にいっちゃうわけですね。
空回りしてというか。
自分を自ら追い込んでいく。
そして家っていう足枷もある。彼にとっては足枷だったものだと思ったんでしょう当時は。
もうあってどんどん生活がすさんでいっちゃう。
で結局それで体調を崩してですね。
放浪をしてると九州一園を。
久留米から佐賀の方でまさに佐賀なんです佐賀市なんですけど。
の方にその小学校の美術の先生がいるっていうのでそれを頼ったりとかして。
なんとかね彼はその画壇に復帰しようとしてすさんだ心境の中でも。
どうにかして自分の知ってるつてを頼ってそのきっかけを見出そうと無理を重ねた結果。
病になってしまっているようなんですね。
そうこうしているうちに坂本半次郎は坂本半次郎で東京でゆっくりではあったんだけれども徐々に評価を高めていった。
でいとこと結婚するという真摯の充実。
孔子にわたって充実する。でいとこなので久留米なんですね。
ということで一回ねふるさとに帰るんですよ。
結婚の準備のために。
その時坂本は青木しげるがもうその画壇のお依頼さんと絶縁して喧嘩して出ていった。
それ以降消息が知れないと友達の中でも。
ちなみに青木しげる放浪してる時時代に坂本半次郎の家に居候してる時もあるんですよ。
坂本半次郎が居ないね実家にね。
もう家族ぐるみの月で坂本半次郎の実家に居候してて。
その坂本半次郎の実家で落書きしたものとか残ってるんだ。
この生活とかもあったりする。
でめちゃくちゃなのにたときに。
けれども友達としてこの二人は近く繋がってたので坂本は坂本で心配したんです。
自分の家に居るって聞いてたけど行ってみたら居ないし。
周りの人に知っても誰も消息を知らない。
36:02
あいつ何に大丈夫なのかあいつ一体。
ああいう性格だし。
って思ってて、くるめの馬鉄通りっていう焼き鳥浦川さんのある近くなんですけど。
ある夏の夕方だったそうなんですが。
歩いていたら偶然向こうから青木が歩いてきた。
偶然ですよ本当に。
ああってなって、どちらだったのか言わず近くにあったビアホールに入ったそうなんですね。
この時会ったのは確か3年ぶりだったとかなんですよ。
この二人が喧嘩をしたわけではないんだけれども。
行きがかり上なんかちょっと気まずかったわけだよね坂本としてもね。
こじれた原因だもんね。
青木としてもプライドがあったでしょう。
いうところで。
その二人はですね。
ビアホールに入って席に着いたそうなんですけれども。
青木はビールとかウイスキーをなんかやたら酒に溺れてるんで。
飲んで、ああって飲んで夏いいなってずっと飲んでた。
坂本半次郎はあんまりお酒がそんなにはなかったようなので。
スイカばっか食べてたそうなんですよね。
夏暑かったと思う。
二人とも口が塞がっていて。
スイカ食べてる方とウイスキーばっか飲んでる方で。
あんまり話が弾まなかったんですって。
3年ぶりの再会で本当は多分いろいろ話さなきゃいけないことはあったし。
話したいこともあったはずなんですけどお互いに。
それで、ろくに話もしないまま。
久留米の馬鉄通りにビアホール出て。
これからどうするみたいな感じになった時に。
青木が自らその元を去って大股でね。
堂々としたその荒んだ中にもプライドを見せたかったのか。
堂々たる姿で坂本に背を向けて久留米の市街地に消えていった。
これが二人の根性の別れだったんです。
それから間もなくして青木は結局体を壊し。
坂本半次郎がその消息をつかめないままに。
最後はもう半ばねちょっともう。
生き倒れと言ったら言い過ぎかもしれませんけれども。
そういった形で福岡市内の病院でわずか28歳の生涯を終えた。
っていうのが青木しげるの生涯だったんですね。
なんかやるせない感じがあるね。
そうなんですよ。
ちなみに青木しげるすさんだすさんだって言ってますけど。
生涯最後の作品というのが佐賀県小城市というところに残ってるんですね。
佐賀の方は知ってるでしょう。
朝日っていうのが青木しげるの絶筆になりました。
なんか今までともなんかちょっと違う。
なんかちょっと希望を感じる。
そうなんですよね。
それは一説には唐津湾を描いたというふうに言われていますけれども。
39:01
希望を感じるようなものですよね。
なんかね、彩色もこれまでと違ってね、わりと明るいね。
彩度の高い感じの色味になってるし。
この海の波の感じにもちょっと力強さを感じるところですよね。
なんかこれを描いてなくなっちゃったのかっていう。
そう、ちょっと意外な気もしますよね。
なんかこれから希望を見出そうとしたんじゃないかっていうくらいね。
なんか活力が出てきたのかなっていうのをちょっと感じちゃう。
そうなんですよ。
そういうのが青木しげるの生涯で。
最後ですね、彼は遺書のようなものを残してたんですね。
自分の家族にあててたんですけれども。
その文面の一部を読むとですね。
小生、自分のことですね。
小生は蚊の山の淋しき頂より思い出多き美し平和を眺めて、
この世の縁懇と粉満と呪詛等を捨て、静かに永遠の平安なる眠りにつくべく候。
ちょっと難しいですが、自分はこの蚊の山っていうのは、
これふるさと久留米にあったケシケシ山っていう山なんですけれども。
兜山と今は言います。
この淋しい頂上から自分の思い出を培つ思い出多い美し平和を眺めて、
この世の恨み、つらみ、怒り、呪いっていうのを全て捨て去って、
もう静かに平安に二度と覚めない眠りにつくというようなことを言って最後死んでいった。
恨み、つらみの後半戦においてはね、そういう感じでしたから。
いうのが青木しげるだったんですよ。
ちょっとここで一旦切りましょうかね。
そういった青木しげるの躊躇からですね、我々旅行のに戻ると、
だいたいこれお昼頃になっていると思いますので、
6分ほど車で行ったところにある大砲ラーメンっていうところに行きたいと思います。
ちょっと温度差がすごい。
急に大砲ラーメン。
大砲ラーメンはいわゆるクルメラーメンの本当に有名なお店ですね。
これもともとクルメの屋台だったんですよ。
クルメ中心市街地のね。
それから見事に福岡を中心のチェーンになっていくわけなんですけれども、
なんといっても大砲ラーメンといえば呼び戻しスープ。
ホームページで読んでますけれども、
創業以来釜を殻にすることなく継ぎ足された呼び戻しスープは、
旨味と深いコクを生み、濃厚かつまろやかな口当たり。
ということで、伝統の継ぎ足しってね、
よくいろんな料理でタレありますけど、まさにそれで。
42:00
ラーメンでそれってなんかあんま効かないね。
これがねやっぱりね、すごい大変らしいんです。やっぱり維持するのがね。
この大砲ラーメンさんの治療方針としては、
見え見えたらに店を展開するんじゃなくて、
もう呼び戻しスープあっての大砲ラーメンだから、
呼び戻しスープを管理できる職人をまず育てる。
その職人ができたらその人に1店舗任せるっていう人が先にいる。
管理監督者の資格を認めた人だけが店を出せるっていう風になっているので、
遅延展開するペースがすごく遅いんですね。
それだけやっぱりまず人を育てないといけないっていうのが信念らしいですね。
もう本当にこのラーメンの味ありきっていうことですね。
そういうことです。たださすがにね、やっぱりこれ美味しいんですよ。
僕やっぱり個人的にこの呼び戻しスープの大砲ラーメンが、
豚骨ラーメンの中でも個人的に好みで。まろやかなんですよね。濃厚で。
なのでくるめの本店がありますので、そこにぜひ行っていただけるといいのかなと思います。
普通にうまそう。
本店においては当時のラーメンの屋台だったクラシックのバージョンもあります。
屋台時代のコッテリ味、昔ラーメンという別種類のものもありますので。
これもこれでちょっとあっさり系なんですけれども。美味しいですね。
あとね、大砲ラーメンさんのことで言うと面白いのがね、ラーメン学だ。
ラーメン学。
そう、これすごいですよ。
あのね、この店主の方がブログみたいな連載をしてるんですね。
日本のラーメンっていうのはどういうものなのかっていうことを、論文みたいなものを書いてるんですよ。
これね、読み応えすごいですよ。
面白そう。
論文、コラムというか論文レベルで膨大な量のラーメンスープとは何なのかっていうことを講座みたいにしてくれてるんですね。
チャートとかも自分で作ったりとか。
朝日川、函館、札幌の分析までしてるわけですよ。
全然九州だけじゃない。
面白い。
なのでラーメン好きの方はね、この大砲ラーメンさんのホームページはもうすごいアカデミックですよ。
ラーメンアカデミックなページが多いので、僕も正直ちょっとまだ理解できない部分もあるんですけど、
ぜひこれラーメン好きの方は見ていただけると面白いんじゃないかと思います。
これちょっと読んでみようかな。
勉強になりますね、非常に。
確かに高水面とかでよく聞くけど何が違うのとか。
そうね。文字は見るけど何か分かってないもんな。
とかっていうことをね。
この大砲ラーメンさ、それだけでやっぱり強いこだわりというもので培ってきたクルメのラーメンの筆頭と言ってもいいでしょう。
ごめんごめん。コラムラーメン根尺物語だ、もっとすごいの。
45:00
これか。
そう、このコラムラーメン根尺物語第1話から始まって、
えーっと。
すごいな。
142話。
すごい。
142話。
映画ラーメン侍ついに公開。
これは大砲ラーメンの歴史をね、ドラマ風にもう朝ドラレベルですよ、この話数。
へー。
えーすごいね。
とにかくね、このホームページにはすごい情報量です。
なぜラーメンがこんなに美味しいのかということをいっぱい書いてます。
そしてクルメの街のこともいっぱい書いてます。
へー面白い。
面白い。
これね、なかなか見ないですよ、ここまでの。
僕もさすがに全部は読めてないんですけど。
ぜひラーメン好きの方、大砲ラーメンさん、ホームページだけを見るだけでも面白いので。
外伝もあるので。
外伝もすごいよ、これ。
外伝130話で。
すごいな。
というところでね、ラーメンをランチでいただきたいというふうに思います。
そしてですね、ちょっと戻りますが、そこから車で2分ほど行ったところに、次の目的地です。
石橋文化センターというところに行きたいと思います。
はいはい。
このね、石橋文化センターというものなんですけれども。
石橋というのは、石橋翔二郎という人の名前を取ってます。
ほうほう。
で、この人は何者かというと、いわゆるブリジストン。
ブリジストンの創業者です。
ブリジストンがブリッジストーンなのは聞いたことあるよ、俺。
そうそう、橋石ってなってますけど、要は石橋ですよ。
それなんですよ。
その創業者が飾った車にね、寄贈した施設なんですね。
石橋翔二郎さんというのは、もともとね、クルメってそういうゴム製品とか、たびたびね。
靴の。
そうそうそうそう、あれを作る人たちだったんですけど。
そこにおいて、明治時代になって近代化して道路も変わっていくっていう中で。
いわゆるシューズみたいなものをだんだん作り始めて、そのゴムの加工っていうのに活路を見出し。
はじめはその日本の歩みっていうのは人の人力の歩みでしたけど、やがてそれがこう時代が下るにつれ車が走っていく。
ここにタイヤが見込めるんじゃないかってことで、飛躍的な成長を遂げた素晴らしい実業家ですね。
そして何よりこの人はクルメのことが本当に好きだった。
クルメに対する愛情はもう一生もので、すごい地域貢献を最後までした。
石橋文化センターはその一つの象徴的な存在ですけど、もうそれ以外にもクルメの街の発展のために本当にあらゆる手を尽くした。
もう郷土の大偉人なんです。
そしてこの石橋翔二郎が子供の時、クルメ高等小学校というところに行ってたんですけど、
48:03
その時のわずかな期間に美術を習っていた。
その美術の先生が坂本範二郎だったんです。
若くして先生でまだうつうつとしていた時の坂本範二郎に、石橋翔二郎が小学生の生徒として習ってたことがあるんです。
なんかちょっと高等小学校っていうのでアレンと思ったけど、もう関わってたんだ。
そうなんです。
そしてその坂本範二郎先生のことを、石橋翔二郎は子供ながらにすごい印象的な方だったって言うんですね。
すごい尊敬してたらしいんです、その先生のこと。
わずかな期間なんですけど。
という時に坂本範二郎は、ちょっとまたさっきの歴史の話に戻ってくるんですけど、
青木茂が死んだ。
あの青木がとうとう死んだのかっていう。
しかも結局遮断を果たせず、破れかぶれのように死んでしまったということで、
坂本範二郎はそれについてやっぱりすごい思うところがあったみたいで、
彼は結果生前ガダンと絶縁して喧嘩別れをしてしまったんですけど、
なんとかして彼の残した功績というのを後世に伝えていく必要があるんじゃないかということで、
彼の作品を収集して展覧会みたいなのを開こうとしたんですね。
実際それを開くんです。
っていうふうにして、自ら坂本さんご自身の画業も続けてパリに留学したりしていろいろやるんですけれども、
その傍ら青木茂の検証活動というのも徐々に徐々に取り組み始めていくんです。
坂本範二郎は大気万世型だったものの、着実にそのガダンにおいてすごい地位を築いてきて、
将来は職務をされて、パリにも留学していよいよ西洋の方を見つけて東京に戻ってきて大活躍するだろうとみんなが思ってたんですね。
ところが坂本範二郎は日本に帰ってきたんですけど、東京には行かず、自ら久留米に帰ってしまうんですね。
そして生涯福岡を離れなかったんです。
彼はどこいうところに自分の画境を見出したのかということなんですけど、
そういって最初大島の一部とか描いてましたが、その後描き始めたのが動物なんですね。
驚離の風景を描くっていう大理のカタログを見てますけど、
もうその竹後の山並み、平野の姿、青い空、雲の姿、こういうものを描いていった、本当にのどかなね。
竹後の驚離をひたすら描き続けた。
そして動物ね。坂本範二郎は馬が好きでね。
彼の代表作として挙げられているのが、放牧三馬っていう馬の絵なんですけれども。
なんか可愛らしいね。詳細に描き込むんじゃなくて、フォワッとね。
さっきの風景にしても馬にしても。柔らかいタッチで色も鮮やかでね。優しい感じだね。
51:05
本当そうですよね。柔らかくて優しい、フォワッとってのがそのまま当てはまるようなね。
こういう絵をね、九州の山や麻生山の方に馬を見に行ったりして、ひたすら九州の土地に最後は目指して、その自然の風景だったり、そこに行き着く動物たちの姿を描いていった。
ちなみに坂本範二郎は久留米に戻ったんですけど、その傍らアトリエ自体はですね、しばらくして止めに移します。
さっきの止め福島に移すんですね。そこはもう生涯の次の住処になりました。
止めでね、ずっとその自然環境の中に囲まれて、こういったものを九州の色んなところに行って、自然の風景を描いて、特にその地区の山並みというのをずっと描き始めた。
でもそうしたらやっぱり、それでも要は全然東京のね、ガダンの中央にはあえてもう側歩を向けて、自分の九州で道を貫いたんですね、坂本範二郎。
一方でやっぱり気がかりだったのは青木茂雄のこと。
そういう時にですね、石橋翔二郎がもう実量化として大成功を収めて、自ら美術館を作りたいと。
地域の久留米の人たちのために楽しんでもらう美術館を作りたいっていうことを言い始めたんです。
そこで坂本範二郎と相談をして、先生だったわけなんで。
再開をして、そして石橋美術館の最初の展覧会としてやったのが、青木茂雄坂本範二郎二人展っていうものを最初にやったんです。
そこで初めて、初めてじゃないけども、青木茂雄坂本範二郎は二人でセットになって、
そして、久留米の人たちにもこの二人の関係性だったり、青木茂雄っていうもうとっくになくなってしまった激しい生涯とその作品っていうのが大きく紹介されて。
というものを石橋翔二郎がこれやってあげたんですね。坂本さんとしても嬉しかったと思います。
実際ね、写真も残ってます。実際に訪れた坂本範二郎が、石橋翔二郎と共に青木茂雄の絵を見てる。
それまで溜まってきたものがやっと実ったみたいな感覚なのかなと思いますね。
ようやくというところもあったでしょう。
それ以来結局青木茂雄はね、もう彼自身は亡くなってしまいましたけれども、今はもう日本の教科書に取り上げられるだけやっぱり亡くなった後に、
青海の幸を筆頭にね、その画量というのは検証されてますから。というところもありました。
実際石橋文化センターに行くと、この中にくるめし美術館っていうね、もともと石橋美術館だったのがくるめし美術館となっています。
美術館がありますので、ここでそれぞれの企画展、坂本範二郎の作品というわけじゃないんですけれども、それぞれの企画展を精力的にやってらっしゃる。
54:01
そして石橋翔二郎その人の生涯に迫る石橋記念館っていうものもあったりします。
ので、そこで石橋翔二郎その人のこともいろいろ学べます。ブリジストンのこともいろいろ学べます。
あとはブリジストン美術館自体は東京にもありますのでね。
銀座にありますので。そこでね、ブリジストンのことに触れることもできますね。
あとはこの庭園もいろいろ広いわけですけれども、その中には恩師坂本範二郎さんが亡くなった後にね、屋根に終生のアトリエとしたそのアトリエ自体を移築してる。
なので坂本範二郎のアトリエは今この石橋文化センターの中にあります。
坂本範二郎旧アトリエ、これめちゃくちゃ大きいです。公園としてもすごい良いところですね。
美術館に行っていただいてもいいですし、記念館に行っていただいてもいいですし、そして庭を散策する途中に坂本範二郎のアトリエに行ってもいいかなというふうに思いますね。
なんかもう散歩するだけでも楽しそうな感じだね。
おっしゃる通りです。
あのお花もすごいね、たくさん植えられてて。
うん。
本当、公園としても楽しそうな感じですね。
そうですね。はい。
ここでね、石橋庄二郎さんのことにもぜひ触れていただきたいと思います。
最後の目的地になるんですけれども、来るまで10分ほど石橋文化センターがいたところに甲羅大社というものがあります。
高い良い大きな社、甲羅大社。
筑後の国一宮として厚く山荒れたものになるんですね。
これも山のところなんですね。
はい。甲羅三殿山の上にありまして、こういう感じで夕日の名所なんですね。
この、鳥居のすぐ後ろが階段になってるんですけどね。
その上のところから夕日を眺めてる感じですね。
はい。
なぜここを最後にしたかということなんですけれども、
この2日間の最初、浮上成神社というところでね、
やはり山の上にある神社から、筑後の平野の山並みを眺めていただいて、
その上で、青木茂、坂本繁二郎二人の画像とかを見て、
特に坂本繁二郎の描いた筑後の山並みだったり、自然というものを見た上で、
最後1日の締めくくりに、この甲羅大社でもってね、
もう一度、その2人が生まれ育った黒目の町、
そしてその筑後の山野というものを筑後川とともにね、
そこのカーブしてるところにある筑後川ですね。
夕日とともにね、最後、これ本当に夕日綺麗なんですよ、ここ。
西側にちょうど面しててね、時間を選んでいくとすごい景色が見られます。
なるほど。
いいですね。最後にまた一望して終わるっていうことですね。
57:03
そうですね。
最後のエピローグじゃないですけれども、
坂本繁二郎はその後どうしたかというところなんですが、
結局坂本繁二郎は世俗の妙技には一切目を向けず、生涯やめで過ごして、そのまま生涯を終えました。
亡くなったのがね、1969年に87歳で亡くなっていますので、
青岸ゲルが亡くなってからもう60年くらい経ってるわけですね。
青岸ゲル28で亡くなってますから。
その間にももちろんね、福岡の地区分の山並みを中心として、
いろんな絵を展開していって、
もう最後の最後は視力もややぼやけてしまったらしいんですけど、
徐々に静かな世界に、静かな静かな世界に行っていくんですね。
最後は山、牛すらではなくて、
もう夜空の月と雲を描くだけに最後は修練していく。
徐々に花々しくいったものから、消えていく美しさっていうものをやって、
青岸ゲルの絶筆が太陽のものだったのに対して、
坂本繁二郎の絶筆、亡くなった年に最後に描かれたものは、
有光っていうかすかな光っていうものがね、最後の作品になりました。
これは何を見て描いたんだろうね。
ちょっと抽象画っぽい感じにはなってますけど、
失われつつある視力で何かを見たのかなとか、
いろんな想像が膨らみますね、これは。
そうですよね。
坂本繁二郎自身もどんどん心境が澄み切っていった。
要は地区語の自然の中にずっと身を置いて、
もう本当に自然と対話をして、夜空と対話をして、
そのところだけを見て最後描いて。
本人の言葉を借りればですね、
最後もう亡くなる数年前に書いた本を今読んでるんですが、
数年前から画題はもっぱら月と雲に向けられています。
他の絵を頼まれて、その途中池の表に映った満月の姿、
深夜小窓からふと眺めた月の静かさの中に秘めた、
溢れるような充実感に打たれてのことですが、
老いの心境が月にモチーフを求めたのかもしれません、
というように。
何気ないやっぱり風景だったと思うんですけど、
それが地区語の空にかかった月と雲を見て、
静かな静かな心境で最後消えていったということでね、
生涯を終えたんですね。
ところが、
そしてその二人は出発点は同じだった。
同じ年、同じ学校、小学校、同じ塾、
そして同じ仕事、同じ車、
というところだったんだけれども、
最後行き着いた時は全く違ったように見えるんですけれども、
坂本半次郎はね、
生前、
1:00:01
青岸ゲルの碑っていうものをね、
建ててあげたんですよ。
それは、さっき青岸ゲルの遺書をね、
読んだ時に、
家族になってた遺書ですね。
小生は蚊の山の寂しき頂きより、
思い出を着尽くし平和を眺めて、
ということで、
ケシケシ山という山にね、
自分の意外を葬ってほしいって、
かなわなかったことなんですけれども、
大好きだったケシケシ山っていう山、
久留米の町を一望できる山があったんです。
坂本半次郎は、
そのことをやっぱり覚えていて、
結局1948年、
青岸ゲルがなって、
もう40年経ったぐらいですかね。
このケシケシ山に、
青岸ゲルの碑っていうのをね、
建てて、
自らね、
その地を、
遺跡に刻んだと。
そこにね、
書いたことは、
青岸ゲルの遺書を書いたんですけど、
一つの歌を書いたんですね。
その歌を、青岸ゲルって歌も読めたので、
彼が読んだ作品を、
坂本半次郎が一つ選んで、
そこに書いたんですけれども、
その歌を読むと、
我が国は、
つくしの国や、
しらひわけ。
母います国、
恥大き国。
というね、
これどういう意味かっていうと、
私の国は、
つくしの国、
福岡、
ちくごの国だと。
しらひわけっていうのは、
青岸ゲルが好きだった古事記において、
九州のことを、
九州っていうのが生まれて、
その九州がいくつかに分かれるんですけど、
そのうちの、
福岡のことを、
しらひわけっていう名が与えられたっていう、
書いてあるんですね。
つまり福岡のことです。
ちくごのことです。
このしらひわけ、
つくしの国のしらひわけ。
母います国、
お母さんがいる国、
そしてハゼの木が多い国っていうね。
ただそれだけといえば、
それだけなんですけれども、
あれだけ故郷といろいろあった青岸ゲル、
東京ともちろんいろいろあったけど、
その中で、
故郷、
この久留米の思いをね、
込めた。
そして最後、
その死の最後の心境には、
この山の上から、
最後久留米のつくし平野を見て、
最後は永遠の眠りにつきたいと。
言ったということを、
坂本半次郎がね、
これを叶えてあげた。
っていうのがね、
この二人のストーリーの、
最後のお話という風にしたいと。
いい人ですね坂本さんは。
そうなんですよ。
まあね、
結構やっぱり、
先生向きだったっていうのはありましたけど、
友達思いであり、
青岸ゲルの情熱の良さもやっぱあるんですけど。
っていうのがね、
二つの旅路ということで、
今でもね、
JR久留米駅付近には、
やっぱりこの青岸ゲルがね、
やっぱり教科書に乗るレベルになっちゃってるので、
ちょっと一つ有名になってますけど、
JR久留米駅の前には、
青岸の海の幸と、
坂本さんの放牧三馬、
さっきの代表作二つが、
共にレリーフで飾られてる。
というのもあったりしますし、
これね、
1:03:00
アーティゾン美術館っていうのは、
要はブリジストンの経営する東京の美術館なんですけど、
これがね、
坂本半次郎、青岸ゲルの生誕140周年を記念して、
二つの旅というね、
二人展をやった。
これそれぞれの絶筆がね、
カタログになってます。
これが青岸ゲルの最後の絵ですね。
これは坂本半次郎の最後の絵ですね。
っていうね、
二人の生涯が、
このクルメとこのチクゴという時にはね、
やっぱりどうしてもね、
話しておきたかったことではあってですね。
なんかね、
いろんなこと思うんですよね。
この子といろいろ。
なんかね、
良きライバルで良き友人でっていう関係性がすごく見えますね。
そうなんですよ。
まあそれでいてやっぱり、
どちらが良かった分かるかった正しかったっていうのは分かりませんけどね、
結果としては本当に絵においても人生においても対照的な感じ。
もう一瞬の輝きを放って千列に去っていった青岸ゲルと、
深く細々と最後までを見届けた坂本半次郎の、
二人の出発点が同じだったってところがまたね、
そして最後は共に、
いろんな感情を乗り越えて、
最後は二人も筑後に帰ってきたっていうところで、
なんか僕やっぱりこの、
坂本半次郎がこの歌を最後に白ひわ家の絵を選んだというところからしてもね、
なんかやっぱりすごくこう、
いろんなことを考えさせられる二人の生涯ではありますね。
坂本さんもきっとその、
なんだろう、
筑後絵の思いっていうのは共通した、
共感したところだったからそれを選んだ。
そうなんでしょうね。
だろうねっていう感じがするね。
あとやっぱり思うんですけど、
青岸ゲルってああいう人だったわけですよ。
彼坂本さん自身も最後はなんか、
喧嘩はしてないけれどもなんか気まずい感じでビール飲んで、
何も話さずに終わって久留米の街で別れたっていうのが最後の姿だったわけですけど、
多分彼がどういうふうに死んだのかっていうのはすごい気になってたんじゃないかと思う。
その時にただ最後彼自身があんなに暴れて、
もしかしたらさ、
もう東京の奴らやっぱふざけんな、
もうあいつら全然ダメなんだって言って最後まで死んでいった。
その気持ちはあったでしょう。
あるいはもしかしたら坂本はあいつはもう全然なんか、
っていうことであったかもしれないけど、
最後毛蓋を開けてみれば、
青岸ゲルが最後に書いたことは、
その久留米の山の上で筑後を見ていたいっていうのが最後の言葉だったんです。
ネブラミ、ツラミは捨てて。
そうそうそう。
それにやっぱり安心したというか、
そうであってほしかったっていう部分もしかしたらあったんじゃないかなっていう。
そうした部分もあったかもね。
それで本当に永遠の眠りについて、
もうその気持ちのままで最後、
もう穏やかに共に来るまでね。
最後っていうことで、
この歌を選んだのかもしれないなという、
そんな気持ちもします。
なんかいい友情と、
1:06:02
なんかうまくいかない世知辛さと、
なんかこう渦巻く感じの話ですね。
そうですね。
ということで、
だいぶ長くなりましたけれども、
あのぜひね、
青岸ゲルと坂本半次郎、
作品自体はね、
今いろんなところにあるので、
ちょっといつどこへ行けば確実に見られるというのは、
なかなか言えないんですけど、
ただインターネットで調べればね、
作品はそれで載ってますので、
何よりクルメにまず行っていただければ、
その2人の生涯には触れられます。
ということで、
このコースとしては、
さっきの甲羅大社で終わりと。
そうですね。
甲羅大社から車で45分ぐらい、
高速道路に乗っていけば、
福岡市へ着くことができる。
夕日はやっぱりね、
見たほうがいいかなと思うので、
5時ぐらいから甲羅大社見て、
6時半ぐらいに福岡市に着くみたいなのが、
いいイメージかなと思ってます。
そこでレンタカー返して、
お家へっていうことですね。
そういうことですね。
ということで、
2日目を振り返っていきましょう。
西鉄クルメ駅周辺のホテル、
どこかお好きなところですね。
朝9時15分ぐらいに出まして、
車で15分ほど、
立花うどんですね。
福岡のふわふわなうどん。
そしてごぼう店と、
肉うどんが名物ですね。
ここで朝ごはんをいただきます。
そこから車で15分ほど、
クルメ城跡ですね。
ここは石垣とお堀が残ってますし、
近くには笹山神社や、
有馬記念館など、
資料館というところもありますので、
そのあたりを散策する感じですね。
そこから車で4分ほど、
水天宮ですね。
全国にある水天宮の総本宮ですね。
そして歴史好きの方は、
牧泉の神がいた水天宮ということですね。
そこから徒歩5分ほど、
坂本半次郎の成果ですね。
そこから車で4分ほど、
青木茂の宮境、復元したものですね。
ここをつなげてみると。
今回たくさん語ったね、
この2人の友情物語に思いを馳せながらね、
それぞれの成果を見るということですね。
そこから車で6分ほど、
大邦ラーメン本店さんですね。
もうザクルメラーメンという感じなんですかね。
ホームページも見どころと。
そうですね、あれすごいですね。
ここでお昼ご飯を食べまして、
1:09:02
車で2分ほど、
石橋文化センターですね。
ブリジストンの創業者、石橋勝次郎さんが設立した文化複合施設ですね。
美術館もありますし、
公園としてもお庭をね、散策するのもいいですし、
その中に坂本半次郎のアトリエも位置区されていると。
結構見どころがたくさんありそうな感じですね。
そこから車で10分ほど、甲羅大社ですね。
この旅のスタートも筑波の平野を一望しましたけれども、
最後にもまた別の場所から見渡して、
タイミングを見計らって夕日もね、見ていただきたいということですね。
そこから車で45分ほどで福岡市内に戻りまして、
そこでレンタカーを返してご自宅へということで、
今回の旅はここまでということですね。
この番組ではお便りを募集しています。
番組の感想、質問、リクエスト、旅の情報、不通だなど何でも結構です。
番組概要欄に記載しているお便りフォームのURLから投稿をお願いします。
また、YouTubeのチャンネル登録、高評価、コメント、
あとポッドキャストのフォロー、レビュー、
それから我々の関連SNSアカウントのフォローなどよろしくお願いいたします。
そして感想をつぶやく際は、ぜひハッシュタグおとたびポッドキャストをつけて投稿していただけると嬉しいです。
ちょっと今回はあれですね、コースの紹介というよりかは、
そうなんですよ。ちょっとね、
もうこの坂本青木の話にかなり大半を占めてます。
そうですね2日目に関してはもう、
そういった歴史好きの方とかだと、こういった人の生涯を追う。
やっぱりこの2人はそれだけやっぱりふるさとに対する思いが強かった。
そして石橋長二郎もね。
本当になんか人の不思議な感じもしますよね。
人間の運命の不思議さと悲しさと、
そういったことをね、いろんなテーマを持ったこの人たちのくるめというものの街の生涯ですね。
そうですね。
なんかこういう旅もまあいいですね。
たまにはね。
誰かにスポットを当てて巡るっていう。
なのでね、リクエストそもそもいただいてたというところで、
なかなかくるめってね、やっぱり観光地としてどうなるんだっていうのもあるかなと思うんですよ。
正直あまり何があるんだろうみたいなところも。
栄えているのはみんな知ってるけど。
ところでこういった切り口で見ると、
よりくるめの魅力と歴史とも触れられるかなと思って。
なんか割と濃密というかね。
1:12:00
なんかテーマ性のある感じのコースでしたね。
それが響けばいいですね。
ということで今回はこの辺で。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
01:12:22

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