初めての炒飯体験
さて、今回はですね、ある方のブログ記事、「生まれて初めて食べた炒飯が、どうやら日本一のものだったらしい。」という、ちょっと気になるタイトルなんですが。
へー、タイトルからして、何か物語がありそうですよね。
そうなんです。これをもとに、食の記憶がどう影響していくのかみたいな話を掘り下げていきたいなと。個人的な体験が、人生の基準を作ってしまう、なんていうお話ですね。
特に、子供の頃の初めての味の記憶っていうのは、後々の好みとか、あるいは評価の軸に結構強く影響したりしますからね。これは非常に興味深いテーマだと思います。
へー、単なるノスタルジーっていうだけじゃなくて、記憶の仕組みとか、あとは食文化みたいなものも見えてきそうで。
そうですね。この記事からどんな発見があるか楽しみです。
リスナーのあなたにとって、忘れられない味って何かありますか?もしかしたら今日の話で、あ、あれかな?なんて思い出すかもしれません。
うんうん。
早速、この記事の中身を見ていきましょうか。まず、筆者の方の最初の衝撃からですね。
はい。
物腰ついて、初めて外返しで食べたチャーハンが、実家の最寄駅の近くにあった、まあ夫婦でやってる小さな食堂、今でいうマチ中華ですかね。
あー、マチ中華。いい響きですね。
そこのチャーハンだったそうなんです。で、ラーメン自体はまあ普通だったらしいんですけど。
ふむふむ。
そのチャーハンがとにかくもう、素晴らしくうまかったと。
なるほど。家庭で作る焼き飯とは、やっぱり火力とか油の使い方とか全然違いますもんね。
ですよね。
プロの味というか、お店ならではの味に、こういきなりしかも初めての外食で出会ってしまったと。
そういうことみたいです。
このマチ中華っていうのがまたポイントですよね。
ラーメン専門店と違って、定食とか一品料理もいろいろあって。
えー、何でもありますよね。
えー、地域に根がしたそういう食堂、最近はちょっと減ってきてますけど、まさに日本の食文化の一つというか。
確かに。
で、この最初のかなり強烈な体験が、この方にとってのチャーハンの、まあ原体験。
原体験ですね。
えー、それと同時にものすごく高いハードルをいきなり設定しちゃったわけですね。
まさにそうなんですよ。で、高校卒業して地元を離れてもっと大きな街に出るじゃないですか。
そうすると、ラーメン屋さんはたくさんあるのに、あれ?チャーハンがメニューにないぞとか。
あー、ありますね、そういうこと。
あっても、なんか期待してたのと違うなみたいな。そういう現実に直面していくと。
ここで面白いのが、その街中華とラーメン専門店っていう業態の違いに気づいていくわけですよね。
そうですね。
地元の店はある意味何でも屋さんだった。けど都市部の専門店はメニューを絞って専門性を高めてる。
これは、なんていうか、80年代以降の専門家とか効率家っていう、食に限らない社会全体の流れみたいなものもちょっと反映してるのかもしれないですね。
あー、なるほど。時代背景も。
えー、だから期待とのギャップを感じるたびに、余計に最初のあの店の記憶が強くもしかしたら美化されていった可能性もありますよね。
失われた思い出の場所
うーん、ありそうです。その記憶がただの思い出じゃなくて、やっぱりあれはすごかったんだって確信に変わる出来事があるんです。
お、というと?
ある時、半信半疑の詩人をその地元の店に連れて行って、ここのチャーハンはすごいんだって食べさせたと。
そしたらその詩人も、うわ、これめちゃくちゃうまいじゃんって大絶賛したそうなんです。
おー、それは嬉しいですね。
ですのね。これでほら見ろ、俺の記憶は正しかったんだって。
いやー、わかります、その気持ち。他社のある意味、客観的な評価が入ることで自分の主観的な記憶がグッと補強されるというか。
そうそう。
ただまあ味覚っていうのは本当に個人的なものでもあるので、もちろん相当レベルの高いチャーハンだったんでしょうけど、
日本一かもしれないっていうその確信には、長年の思い入れとか、あとはその場でうまいって共有できた喜びみたいなものも少し加味されてるかもしれませんね。
あー、それもあるかもしれませんね。
それでも自分の個人的な体験が他の人にも通じる価値を持ってたんだっていう発見は、これは大きいですよね。
結婚された後も奥さんと一緒に寄生する度に必ず立ち寄るような本当に大切な場所だったらしいんです。
うーん、思い出の味であり特別な場所でもあると。
ところが最近ふとGoogleのストリートビューで見てみたら、そのお店があった場所が普通の家になってたと。
あー、それはショックですね。
ショックですよね。
筆者の方が子供の頃からご夫婦でやってらっしゃったとなると、まあ年齢的にもちょうど引退される時期だったのかもしれないですね。
そうかもしれないですね。
思い出の味、しかも自分の中でこれぞ最高峰だって位置づけてたものが、もう物理的に存在しないっていう事実。
これは単に味が失われたっていうだけじゃなくて、自分の過去の一部というか、あるいは拠り所にしていた基準そのものが失われたような感覚になるかもしれない。
うーん、切ないですね。
非常に切ないですけど、でも多くの人が経験するある種の時代の変化とも言えるかもしれないですね。
なるほど。初めての強烈な体験が基準になってしまって、他のお店ではなかなか満たされない。
そしてその拠り所だった特別な存在がなくなってしまった時のこの喪失感。
この記事ってすごく個人的な体験なんですけど、普遍的な感情みたいなものを上手く描いてますよね。
まさに、記憶と強く結びついた味っていうのは本当に代替が効かない、その人だけの宝物みたいなものですからね。
ええ。
それがもう手に入らないんだって知った時の寂しさとか、過去への講習っていうのは、なんだろう、我々が変化していく時間の中で生きているっていうある意味証拠みたいなものかもしれないですね。
時間の流れですか?
ええ、この記事の筆者のように、失われたことでかえってその価値を再認識するっていう経験は、もしかしたら誰にでもあるのかもしれないです。
そうですね。あなたにとって、もう味わうことはできないけれど、心の中に深く刻まれているあの味ってありますか?
その味を思い出す時、どんな風景とかどんな感情が一緒によみがえってくるでしょうか?
ちょっとご自身の記憶を探ってみるのも面白いかもしれませんね。