1. デジタル時代の国語教育を語ろう
  2. #077 教育のプロとしての距離感
2026-01-12 18:29

#077 教育のプロとしての距離感

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第77回配信!
受験シーズン到来。「子どもたちのために身を粉にして働く」——そんな"熱血教師像"だけが正解でしょうか?
今回は、教育のプロとしての「距離感」について、率直に語ってみました。


・「自分が育てた」という物語を手放す——成長は生徒自身の力
・「子どもが喜ぶから」は正解か?——熱心さの空回りを考える
・自分らしい教員像を肯定する——無理して演じ続けると心が折れる


「熱血になれない自分」に罪悪感を抱いている先生方へ。
生徒と距離を保ちながら、プロとして淡々と仕事をする。それも立派な教員のあり方です。


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サマリー

このエピソードでは、教員としての距離感の重要性について考えられています。受験シーズンにおける教員の情熱や生徒との関係性について探求し、適度な距離を保つことで教員と生徒のより良い関わりが見出されます。教育のプロとしての距離感や、教員自身の立ち位置についても考察されています。また、情熱や自己犠牲に対する見解を通じて、教育現場の多様性や個々の教師のスタンスが議論されます。

受験シーズンの教員の情熱
デジタル時代の国語教育を語ろうにようこそ。パーソナリティのKasaharaです。この番組では、Google for Education認定トレーナーと認定コーチの資格を持つ、私Kasaharaが教育にまつわる様々な話を配信していきます。
2026年も10日ぐらいが過ぎて、1月もそろそろ中旬ですね。3学期が始まって、受験もあって、なかなか慌ただしいところです。新年の休みが明けると、3月の終わりまでは全力疾走しているような感じが毎年あります。
さて、受験シーズンということなのですが、受験シーズンにはどうしても話しておきたいことがあるんです。それが何かというと、教員の情熱と仕事みたいな、そういう話ですね。
リスナーのあなたの知っている学校にもこんな空気感ってありませんか?子供たちのためにどれだけ身をこにして働けるかみたいな、なんとなくの評価軸が存在するっていう感覚ありませんかね?
学校という場所には、生徒一人一人に深く寄り添い、時には感情的になって話し合い、夜遅くまで指導にあたるという、いわゆる熱血で面倒見の良い先生像が生涯として存在しているように感じる瞬間ってありますよね。
もちろん、そうやって生徒に寄り添うことができる先生は素晴らしい仕事をしていると思いますし、同僚や保護者からも高く評価されていますよね。
でも一方で、生徒と適度な距離感を保ちながら仕事としては淡々と業務をこなし、行事だとかにはあまり乗ってこない先生もいます。
そういう要因は、どこか冷たい、熱意が足りないと見られがちな雰囲気も何となくあったりするわけです。
自分自身、辞任としてはどちらかというと後者のタイプなんです。
もし、今の学校文化に馴染めないという方がいたら、その違和感は決して間違いじゃないんじゃないかなということを今回は少し考えていければというふうに思います。
さて、ここからが本題です。
まず最初に、自分が育てたっていう物語に関して考えておかないといけないなって思ってます。
よく卒業式とかで、先生のおかげでここまでたどり着けましたなんて言われることあるんですが、
まあそう言われるとやっぱり嬉しいと思う先生は多いんじゃないかなと思います。
教員をやっていてよかったなぁと思う、そういう瞬間の一つなんだろうと思いますね。
まあ、なんでこんな一言みたいな言い方を自分がしているかというと、
自分は実はこういう言い方をされてもあんまりピンとこないというか、嬉しくもないんですよね、別に。
心の底からそういうようなセリフに対しては、別に自分は何もしてないし、何もできてないしなぁとしか思わないんです、本気で。
なんだかこう言うと反抗期みたいな、中二病みたいなことを言っているように聞こえるかもしれないですけど、
本気で自分が子供を育てた、変えた、立派にしたなんて思わないんですね。
成長って本来その子自身の内発的な動機から起こるものですから、自分が変わろうとしなければ教員が何をしたって絶対に変わらないわけです。
よく生徒にも言ってますけど、人は自分は変わりたいなと思っても、誰かに変えられたいっていう物語は受け入れたくないんですよ。
だから、もし本人が何か変わって成長して卒業していくと思えるのであれば、
それは本人が何かのきっかけに変わりたくて頑張ったからであって、決して教員である自分が育てたなんて自分にはおこがましくてそんなこと全然思わないわけです。
自分たちのような教員にできるのはあくまで環境を整えたり選択肢を提示したりすることだけだろうというのが自分の基本的なスタンスです。
これはアドラー心理学でいうところの課題の分離という考え方に似ているような気がしますね。
生徒が成長するかどうかは最終的にはその生徒自身の課題であって、教員の側がコントロールできることではないはずです。
でも助けを求めてきたときにはすぐに手を差し伸べられるようにずっと観察していて、いろいろなものを準備しておく、手筈は整えておくみたいなそういうことがプロフェッショナルなんだろうという感覚が自分にはあります。
自分が育てるというような、そういう物語の意識を少し緩めてみることで、むしろ生徒を一人の独立した人格として尊重できるようになるんじゃないかななんてことを自分は思っています。
そうすることによって、自分が何かしなければいけないっていう重圧からも解放されて、心に余裕が持てるんじゃないかななんてことも思うんです。
教員の役割と成長
自分がどうにかしなきゃいけないなんて重圧を感じながら仕事をしていたら、生徒に対する苦調だとかきつくなりますよ。
子供へのあたりって絶対にそんなプレッシャー感じてたらきつくなっちゃうわけです。
もちろんこれは教員が子供に対して何かしてあげる関わりを持つということに意味がないという話とはちょっと違います。
ただ、自分がいなければこの子は成長しなかったというようなそういう物語を信じ込んでしまうのは、ちょっと悪口を言いますけれども、
時として生徒との間にちょっと歪んだような依存関係を作ってしまうこともあるんじゃないかなと自分は思っています。
そういうような成長物語は確かに心地いいですよ。
自分自身ももしかしたら、自分が何かできると思っているから影響力を発揮しようとこうやって教育現場で振る舞っているのかもしれないです。
でも、自戒を込めて言うならば、できることは何もないぞって心のどこかでちょっとブレーキを持っておかないといけないなというふうに思ってるんです。
勝手に育って勝手に卒業していってほしいなというのが自分のスタンスなんですけど、
一見すると冷たく聞こえるかもしれませんが、自分の限界を教員自身が知っておかないと何かを無理してしまう、
ルールを破ってでも何かしてしまう、そういう引き概念になってしまいそうだなということを自分は恐れて、自分はそういうスタンスでいるんですね。
できることは丁寧に大人と交渉するように、大人だって何かやれこれやれって言ってどうにかできるものではないですし、
厚かましく情熱だけで交渉しようとしたってうまくいかないじゃないですか。
だから子どもに対しても理屈や自分のスタンスを伝えて選んでもらうことが最善策なんじゃないかなというのが自分の基本的なスタンスです。
ちょっと話は変わりますが、熱心な指導って本当に誰のためなのかなという話も気になるところです。
例えば子どもたちが喜ぶからという理由で本当に必要かどうかを深く考えないで子どもたちからのリクエストに応えて、
子どもの行事に大人が何かステージに立つみたいなことをする先生たちっているじゃないですか。
あれはですね、すごい嫌な気分になる方いるかもしれませんが、自分は絶対にやりたくないものの一つですね。
若い先生が生徒に誘われて、それに応えて一緒にやるみたいな話であれば、まだ理解できる部分はあります。
若い時にしか子どもたちから声かけてもらえないことっていっぱいあるので、その時代に子どもたちと何か一緒にやるっていう経験は、
この感情的にいろいろと辛いことの多い仕事であっても、その経験が支えになる部分はあるので否定できないことであるかなとは思います。
でも30代過ぎたいい年した教員が子どもに誘われたからって、一緒になって行事の一部になってやってるのはどうだろうねって自分は思います。
子どもと大人の関係って責任の範囲だとか権力関係を考えても絶対対等じゃないですからね。
子どもと一緒に何か楽しむみたいなやり方は、いい年した大人の教員であれば、プロフェッショナルの仕事としてはちょっと境界線が甘くないと自分は冷ややかになっちゃいますね。
まあそういうのが良いとされる環境や良いと思う人もいますし、そういうニーズの保護者、子どもたちがいるのも事実なので、
一概に頭ごなしに全てを否定する気は自分はないですけど、ただ自分のスタンスとしてはスーッと距離を置くみたいな関わらないようにしようかななんてことをしてしまいますね。
あとこの話で嫌だなーって思うのは、去年も盛り上がったから今年もみたいな形で一度前例作っちゃうと、それを踏襲していって時間をかけるようになる可能性があるってことなんですよ。
あるいは生徒が楽しかったって言ってくれることに満足して、じゃあもっとやろうと歯止めが効かないで拡大しちゃうってこともありがちなんです。
なかなかそういうところの歯止めを効かせるってなんだか反体制的というか言い出しづらかったりすることもあるので、なかなか難しいですよね。
もちろん子どもが喜ぶこと自体は悪いことではありません。
でも喜んでるから正解っていう判断はちょっとやっぱり教員としてプロフェッショナルとしては短絡的じゃないかなーって思うことはいろいろあるんですね。
だって子どもが楽しいと感じるということと、その子どもの成長にとって本当に必要なことっていつも必ずしも一致しているわけではないわけです。
むしろ地味でめんどくさいことの方が本当は必要であったり、ここでならぬものはならぬものですっていうような形で突っ跳ねなければいけない。
で、そういう突っ跳ねられた経験というのが長い目で見たら力になってくるということだってあるわけです。
行事だって子どもたちがやって盛り上がらなかったらそこから考えるのは子どもたちですし、
その考える機会を大人が先回りしてしまうのは良くないだろうというのが自分のスタンスなわけです。
もちろん本当に子どものためになっている熱心さもたくさんあります。
でも熱心であることを問い違えて、その熱心さというのが教員自身の方に矢印向いていることもあるから話がややこしいんです。
つまり、こういうことをやってあげたって精神になっているのに気づかないって正直厳しいなって思って見てます。
子どもたちが本当に求めているものって案外本当はシンプルなんじゃないかなって思うんですね。
大人として自分たちが正しくできているかどうかを見守って応援してほしいということだとか、
自分の時間、生徒の時間を尊重してほしいということだとか、
必要な時にはちゃんと相談できるようになっていてほしい、そういうことなんじゃないかなと自分は思ってます。
こういう前提に立つと、教員の役割は能動的に何かを押し付けてくる人というよりは、
いつでも戻って来られる参照点としてどっしり構えていた方がいいんじゃないかななんてことを思っています。
大人は子どもたちよりは長く生きてますし、一般的には多くの経験を持っているわけです。
その知見を生かして、この道を行くとこういう景色が見えるよとか、
教師の距離感と関わり方
こっちに行くと近道になるかもねという情報を事実として淡々と提供すれば良くないかなって自分は思ってます。
それを受け取るかどうかは子どもたちが決めればいいんじゃないかなと思います。
時には強制力を発揮させなきゃいけない時もあるかと思いますけどね。
熱心に関わるということと子どものためになるということは必ずしもイコールではないと思います。
好きなみな言い方にはなりますけれども、むしろ一歩引いて見守る方が子どもにとってありがたいという瞬間もあるはずです。
そういう視点やそういう子どもがいるということを見落とさないでいるということが大事なんじゃないかななんてことを思っています。
あと教員自身の仕事の仕方、自分らしさというところに関しても仕事に対するスタンスというところもよく考えておきたいことだと思うんです。
もし自分が生徒と深く関わることを自然体でできないタイプなのに無理して熱血教師を演じ続けたら、いつかは心が折れてしまうと思うんですよね。
自分自身がそうやって子どもと関わっていくことができないタイプの教員なので、諦めて深く関わるなんてしないで仕事をしているわけです。
教育学部だとか教職課程を取るというような人は、そもそも人に対して興味があってうまく人と関われる人は多いとは思うんですけど、でも100%ではないわけです。
自分のように何だか人と関わるのが苦手なのに、何だか気づいたら教員やってるみたいなタイプもいるので、そういうような先生たちというのは、別に無理して誰かとコミュニケーションを発揮していくということに力を割かなくても、自分の得意なところで勝負するっていうような方法でもいいんじゃないかなって自分は思います。
まあ、自分ができないことを無理してやっていると、何より子どもたちってそういう無理している感って敏感に察知するので、割と授業アンケートとかで辛辣に書かれますね。笑っちゃうぐらい的確についてきます。
だからこそ結局のところ本質的には、自分がなりたい教員とかできることしかできないです。まあそれでいいんじゃないかなって思うんですね。
教育における個々のアプローチ
日本の学校文化は歴史的に見ても、教員の自己犠牲というようなエネルギーで支えられてきた側面はあると思うんですよ。
十分に労働時間だとか労働環境だとかに配慮されてこなかったというところに関しては、まあその象徴とも言えますよね。
もちろんだからといって、情熱を持って働いている先生たちを否定したいわけではないです。
ただ、情熱的でなければ良い教員ではないっていうような図式はちょっと窮屈だよねって定期的に自分がちゃんと言わなきゃ自分が苦しいなって思ってます。
生徒とはっきりと距離を保ちながら、それでいてもプロとして淡々と仕事をする、そういうあり方も立派な教員なんじゃないかなと自分は思っています。
まあやっぱり色々と難しいところがあるのは事実だと思います。
実際こういうことを言うと怒られるところはありますが、本当に最低限のことしかやりたくないっていうような、まあそういうスタンスの先生もいます。
まあ教員と一口に言っても、色々なタイプの先生がいるので一概に語ることはできないんですよね。
だからやっぱり現場というのは色々と難しいですね。
今回の配信はいかがだったでしょうか。
自分自身を振り返ると教員になった時から基本的には自分が教えて子供を変えようという気持ちは、どうこうしようという気持ちはあまりなかったですね。
授業で自分が何か全面に出ていって教えたいというふうにもあまり思わないですね。
自分が教えたいと思わないということと、国語科の教員として子供たちに国語の力を鍛えなければいけないと思うことは別の話で、
ちゃんと子供たちが困らないでいられるような、自分らしくいられるような言葉の力や色々な力を教室という場で保証したいと思うからこそ、今でも自分自身色々な授業の可能性を研究はしているわけです。
一見すると授業のことや受験指導のことにこれだけ時間をかけてやっていると、自分のことを良い先生だ、熱血な先生だみたいに言われることはあるんですけど、
でも自分としては全然そういう気持ちは仕事していないんですよね。
自分として良い社会のイメージっていうのがあります。で、その実現のために自分が今できる仕事、ミッションをこなしているというイメージの方が近いかもしれないですね。
もしくは自分自身の興味関心の探求ですかね。
だから全然一個人のために一人の子供のためにみたいな感覚ではやってないです。
でも授業作りでは一人一人の生徒の顔を思い浮かべて、特性だとか興味関心だとか考えて、どういう課題が刺さるんだろうみたいなことはやるんですよ。
で、こういうこと言うと一見すると矛盾しているようなことを言ってたりするように感じられるのでややこしいですね。
この辺りをもうちょっとうまく説明できないかなって思いますね。
本日のポッドキャストの裏話は私のボイスで毎朝6時半に配信しています。
ボイスでは毎日の教育実践の話やちょっとした雑談などもしてますのでそちらもぜひお聞きください。
ここまで聞いてくださりありがとうございました。
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この番組は月曜日に1回配信されます。
次回の配信もお楽しみに。
ではまた。
18:29

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