新年の決意と国語教育の課題
デジタル時代の国語教育を語ろうにようこそ、パーソナリティーのKasaharaです。
この番組では、Google for Education認定トレーナーと認定コーチの資格を持つ、私、Kasaharaが、教育にまつわる様々な話を配信していきます。
2026年、新年最初の配信ということで、今年もどうぞよろしくお願いします。
さて、新年一発目のテーマはですね、ちょっと挑戦的なタイトルを付けてみました。
ネット社会における国語科の仕事と名誉って、かなり大きなテーマについて話そうとしています。
まあ、このポッドキャストのリスナーはお分かりだと思いますが、デジタルシスティンシップ教育について、今日はお話ししようかなと思ってます。
新年の最初なので、少し概論的な大きな話をしてみようと思います。
新年早々にこういう話をしようと思うのは、やはり今の学校のICT環境の複雑さに問題意識があるからです。
また生徒がSNSでトラブルを起こしたよとか、スマホなんて学校に持ち込ませなければいいのにとか、
何かICTやSNSなどでトラブルがあると、職員室の片隅や心の中でそう愚痴っぽく思ったことはないでしょうか。
目の前の生徒たちは授業中には、例えば3月期の里長の心情の読解などはちゃんとやるのに、
ひとたびスマホを握ると驚くほど粗雑な言葉で他人を傷つけたり、
不要意な発信で自らの立場を危うくしてしまうわけです。
なぜ教室で白群だはずの言葉の力は、液晶画面を通すとこんなに無力になってしまうんでしょうか。
こういうことについて、まず新年だからこそちゃんと向き合っていきたいなというふうに思うわけです。
今回の配信ではデジタルレッスンシップ教育と国語教育の両面からお話ししていこうと思います。
さて、ここからが本題です。
まず最初に話しておきたいポイントとしては、禁止の限界等情報モラルについてのお話をしておきたいと思います。
デジタルレッスンシップ教育を語る文脈だと必ず情報モラルの話が出てきますが、
厳密に言えば明確に違う概念で区別すべきだと自分は思っています。
ただ急に現場の先生にその話を言っても難しいということもわかるので、今回は簡単な背景をちょっとだけお話ししますね。
個人的にはやっぱりちゃんと区別した方が良いとは思いますけど、究極的には言葉の違いよりも授業のあり方を変えることの方が重要なので、
まずはなんとなく背景を知っておいてもらえればと思います。
さて、日本の学校教育、特にスマートフォンやインターネットの扱いにおいて長らく主流だったのは情報モラル教育でした。
これはデジタルレッスンシップ教育との違いをわかりやすくするために平たく言ってしまえば、
基本的に情報モラルは使用を抑制していくというような色合いが強くて、教え方としても恐怖に訴求する方法なんですよね。
個人情報を出すなとか、悪口を書くなとか、知らない人に会うなとか、厳密に言えば文部科学省の資料などを見ると記載の仕方はもう少し広い概念として、
ちゃんと情報活用能力などについても言及がありますが、現実的な現場の運用としてはリスク回避の側面が強くなっているわけです。
もちろんこれらは重要です。
でも、これは例えば大月書店から2020年に出版されている日本のデジタルレッスンシップ教育の筆契約の
デジタルレッスンシップという本の中でも述べられている通り、日本の学校はトラブル回避を優先するあまり、デジタルを危ないもの、特殊なものとして遠ざけてきてしまったんですよね。
その結果何が起こったかというと、学校と社会のデジタルデバイド、つまり断絶なんです。
生徒たちは学校ではスマホをカバンに封印していますが、一歩校門を出れば大人顔負けのデジタル社会にどっぷりと使っています。
そこは大人の面も届かず、失敗をしてもフォローしてくれるガイドもいない、なかなかに厳しい無法地帯なんですよね。
教室での学び、つまり論理とか表現といったものと、彼らの生活実態であるLINEやInstagramやTikTokやVDRなどが完全に分断されているわけです。
こういう二重生活が起こってしまっていることこそ、話をややこしくしていると思いますし、
国語の授業で培った言葉の力をデジタル空間で発揮するという発想が良かったということに問題があるんじゃないかなと自分は思うわけです。
こういう文脈で登場するのがデジタルスズンシップ教育になるわけです。
情報モラルが日本の教育の文脈で構築されてきた話であるのに対して、デジタルスズンシップ教育は欧米で先行して理論化されているものです。
情報モラルが消極的な回避ならば、デジタルスズンシップは積極的な参加というニュアンスが強いんです。
デジタル空間での市民性
情報モラル教育は何々してはいけないというメッセージで、抑制・禁止・防御というのが基本姿勢になりがちでした。
一方で、デジタルスズンシップ教育については、欧州協議会やアメリカの国際教育テクノロジー学会やユネスコなどいくつか異なる定義がありますが、
ただ、どれも大体共通する内容としては、テクノロジーをどうよく使うかという姿勢で、活用・参画・自立を重視しています。
つまり、デジタルテクノロジーをリスクの源泉ではなくて、社会参画のツールとして捉えているわけです。
トラブルを起こさない生徒を育てるのではなくて、テクノロジーで社会に貢献する、参画する市民を育てる、これがやっぱり決定的な違いにあるところなんですね。
ちょっと話が入り組んでしまうので、今日は詳細話すことは避けますが、デジタル民主主義という言葉が最近は選挙などでも聞かれるようになっていると思いますが、そういう文脈がやはり背景にあります。
分かりやすい影響としては、エコーチェンバーやフィルターバブルなどと選挙の関係性があって、その問題の深刻さというものは大きな話題に今なっていますよね。
ただ、ここで言うシズンシップ市民性というのは、単に選挙に行くことだけでは実はないです。
ニュアンスとしては、自らの属するコミュニティに対して責任を持って関わり、より良いものにしていく態度のことになっています。
情報を発信したりすることを通じて、コミュニティを自分たちの手で変革していく、より良いものにしていくんだという、そういう方向性なんです。
例えば、昨年の11月にEUから出されたDigComp3、欧州デジタルコンピテンスフレームワークという資料の中にも、
デジタルシズンシップをデジタル技術を通じて共同体に能動的、責任ある参加をする力と書いてありますし、社会参画の面を重要視しているわけです。
だから、デジタル空間という広大なコミュニティに参加するためのパスポートとしてのデジタルツール、
それを持たせずに海へ放り出すような教育から、私たちは脱却しなければいけないんだろうなというようなイメージを持っているわけです。
じゃあ、そういう文脈のデジタルシズンシップ教育で、なぜ国語科の出番だと自分が考えているのかということを少しお話しさせてください。
ICT活用というと、どうしてもタブレットで動画を作るとか、共有ドキュメントでスライドを作るとか、そういう操作面に目が行きがちなんです。
それはそれで非常に大切なスキルだし、それが前提にならないと先はないので、一生懸命やっていくのは大切だと思います。
でも、そうなるとベテランの先生方がそれは若手の仕事というふうに感じてしまうのも、無理はないところはあるかなとは思います。
でも、デジタルシズンシップ教育の理念的なところから考えれば、もうちょっと考え方変わってくるんじゃないかなと思います。
インターネット、特にSNSの本質って何でしょうか。
それはやっぱり膨大なテキスト、言葉のやりとりっていうことだと思うんですよ。
動画前世紀の時代といえど、コメント欄、ハッシュタグなどが炎上の火種になるわけじゃないですか。
これらは全て言葉で構成されているわけです。
だから、大切なのはリテラシーだ、読み書きの能力なんだ、なんて言い方はずっとされているわけじゃないですか。
古代イギリシャにおいて、市民たちはアゴラ広場で議論し、社会を動かしていましたが、
ある意味で現代のアゴラはデジタル空間にあると考えると、そういう言葉の力の意味というのは分かりやすいのではないでしょうか。
そのアゴラとも言うべきデジタル空間で、良き市民として振る舞うために必要な能力って何でしょうか。
全然直感的に考えてもらっていいですよ。
ちょっとぜひ考えてみてください。
もし興味がある方は、先ほど紹介したDigComp3や、
欧州協議会のデジタル出身シップについてのハンドブックなどを参照してもらうと、かなり細かく議論されています。
とりあえずそういう難しい話は一旦脇に置いておいて、
良き市民としてもうちょっとハードルを下げた言い方をするならば、
炎上しないでうまく社会の中で共同していくためには何が必要になると思いますか。
こういう投げかけをすると、次のような答えをもらえることが多いですね。
まず文脈を読む力、断片的な情報から発信者の意図や背景にある感情を考えるっていう、
感情が大切だってよくおっしゃられる先生が多いですね。
国語教育の課題と役割
次に論理的に話す力、感情に流されないでファクトに基づいて自分の意見を伝えるのは大切だっていうような、そういう意見ですね。
それからレトリックの力、つまり伝え方のところですね。
他者を傷つけないで、かつ効果的に共感を得るための表現を自分で組み立てるっていう、そういう力ですね。
さらに最近であればクリティカルシンキング、フェイクニュースや偏った言説を批判的に吟味することが大切だ、そんなことを答えてくださる方が今非常に多いですね。
今挙げたこれらの力ってよくよく考えると、国語家がいろいろな形で今まで授業で扱ってきた内容じゃないですか。
もちろん他の教科でも様々な形で情報の扱い、理解らしいということは入ってますし、
高校であれば情報科という教科もあります。
もちろん情報の先生はテクノロジーの仕組みやデータの扱いを教えるプロです。
でもその言葉が読み手にどう伝わるか、この表現は社会の文脈の中でどう解釈されるかという意味の生成のプロセスを授業でしっかりと腰を据えて教えられるのは、
言葉のプロセッショナルである国語の先生の仕事ではないでしょうか。
生徒がネットで炎上するのは、生徒たちが悪さを知らないから、そういうことを考えているからでも、モラルを知らないということでもないですよね。
多くの場合は急に公共の場に放り出されてしまって、その言葉がどうやって伝わるかということを経験していないからこそ、見誤っているからなんですよね。
教室で隣の友人に対して冗談でキモいとか言っても全然炎上したりすることってないですけど、
でも全世界に公開されたタイムラインで放つキモいという言葉は下手すると差別だとかヘイトスピーチになっちゃうわけじゃないですか。
物理的な文字は同じでも、文脈と届く範囲が違うためにその言葉の持つ威力というのが変わってしまっているわけです。
でも、そういう公共空間での発信の意味や自分の言葉がどういう影響を与えるかということをあまり考える機会がない授業だったのがこれまでだろうと自分は思っているわけです。
自分が国語家なので、自戒を込めてちょっと悪口みたいなことを言うならば、
宛先のない作文だとか、誰に向かって話しているかわからない発表だとかをずっとやってきてしまったところってあるんじゃないかなって思うわけです。
国語家の授業でブログを書いて学校の情報を世界に発信しようみたいなことってまだほとんど実践されてないですよね。
でも、そういう公共空間に向けて情報を発信することや表現を考えるということも国語家の授業で扱っていくものなんだろうなというふうに自分は考えているわけです。
まあ、なかなか現実難しいことを言っているのはわかります。
多分こういう方も多いんじゃないですかね。
概念はわかった。でもICTの機器の準備も大変だし、カリクラももういっぱいいっぱいなんだよ。そう思われる方はいると思うんですよ。
ただでさえ高校の国語家に限って話をしても、授業数が相当に今圧迫されてますし、
おそらく週2単位であることの多い現代の国語のカリクラで、ただでさえやることが多いし、
実用的な文章のような新しいことも入ってきて、どうしたらいいかわからないしで困っているのに、
そこにデジタルレッスンシップなんて新しいと言われても困るってそうなっちゃいますよね。
ただでも安心してください。デジタルレッスンシップ教育って確かに概念として難しいところはありますけど、
でも取り組むための初手として必要なことは大きな授業変革でなくて大丈夫だろうというふうに思っています。
必要なのは少しだけ学習剤の幅を広げてみるということと、先生方の問いかけのアップデートだけで、
まずはいいんじゃないかなと思ってますし、国語家はそれだけのことをやってきてるというふうに思っているわけです。
理屈をこねてでもしょうがないので、いくつか具体的な実践案を提案してみますね。
まず一つ目、現代の国語の授業の文脈でSNSや生成AIの利用規約をまずは契約の言葉としてしっかり読むというような実践です。
教科書の評論の文章を読む前に授業で10分だけでいいので、生徒たちが毎日同意ボタンを押しているような
SNSの利用規約を読ませて話し合うという時間をとってみてください。
例えば、運営側は投稿データを無償で利用できると書いてあるけど、これって具体的にどういうことでしょう。
君たちが投稿した写真が将来どこでどう使われる可能性があると思うみたいな問いを投げかけて考えさせてみてほしいんです。
考える時間がなかなか取れないというのであれば、こういう問いを生成AIに生徒に聞いてみてごらんというふうに投げかけるだけでも全然変わると思います。
これは高校の語学の文脈で言えば、立派な実用的な文章の読解になりますよね。
自分の行動にどのような影響を与えるのかを言葉から噛み砕いて解釈して、自分の文脈に引き寄せて解釈するというそういう授業実践です。
デジタルスタジアム教育としてこういうプロセスを経ることで、生徒は同意ボタンの重みというものを知り、
自分のデータに対するオーナーシップを考えるということにもつながるだろうというふうに思うわけです。
こういう話をいきなりすると難しそうと感じるかもしれませんが、
これは先生方、大人も一緒にこういうことが問題だと思ったよとか、この辺とかよくわからなかったんだよねということを子どもたちと読み込んで対話していけばいいと思っています。
先生が利用規約を法的に正しく解説するみたいなことをやろうとしたら、もうそれは絶対に無理です。
そうではなくて、普段読み飛ばしがちなものに対してしっかりと立ち止まって考える、そして信頼できる相手と相談するというような手続きを学ぶ、そういう実践をすることが大切なんだというふうに思っています。
古典とデジタルの融合
もう少し教科書の文章や評論に引き付けたアイデアも出してみましょうか。
例えば対立の構造を整理するというような授業はどうでしょうか。
授業ではネット上の実際の炎上事例や論争というものを学習材にしてみるといいんじゃないでしょうかね。
ちょっと個人を特定できるような情報は問題あると思うので、そういうものは避けて社会的なテーマを選べるのがいいかなというふうに思います。
Aという意見とBという意見はどこですれ違っているのか、感情的な表現は取り除いて、論点のずれをシンキングツールで整理するとどうなると思うみたいなことだとか、
もしあなたが仲裁者ならば、どこにお年どころの言葉を投げかけるみたいなことを問いとして投げかけるわけです。
こういう活動はおそらく複数テキストを比較統合し、自分の考えを形成するというような、現代の国語の言語活動とも合致するようなものだと思います。
それに対比を整理するというのは、多くの高校の現代弁で教えられている読解スキルの一番代表的なものだと思うんですよ。
だから、こういうような題材を少しずらして提示することによって、普段、教論で使っている読解のスキルというのは、ちゃんと公共の言論空間にも応用できるのだと、
少しだけ目を広げるだけでも全然変わってくるんじゃないかなというふうに思っているんですね。
じゃあ言語文化、古典の方ではそういうことできないんじゃないのと言われるかもしれませんが、実はそうでもないと思っています。
例えば、古典とデジタルを組み合わせて、普遍的な人間性を問うみたいなことをやってみても全然いいと思うんですよね。
スレズエグサや法上記、あるいは漢文だとか、これらは一見するとデジタルとは当然無縁ですけれども、
人間の承認欲求だとか、噂話への態度みたいな話を題材として挙げると、
今と昔の共通する1000年前から変わっていない人間の姿みたいなことを題材として扱えるんじゃないでしょうか。
例えば健康報酬が現代にいてXをやっていたらどんなアカウント運用すると思うとか、
例えば承認欲求について健康報酬はどういうふうにツイートするか、
実際の古文の本文の内容を踏まえて捜索してごらんみたいな、こういう授業はどうですかね。
ちゃんと本文に基づいて当時の価値観を読み解きながら、現在の文脈ならどういうことになるだろうというふうに考える。
こういうアナロジー思考を持つということは、めぐるましく変化するテクノロジー社会を生き抜くための重要な軸になるんじゃないかなというふうに思いますし、
古典を学ぶ意味というのをちゃんと伝えることにもつながるんじゃないかというふうに思います。
もちろんデジタルスズンシップ教育の実践として突き詰めて考えていくならば、これらの実践ではまだ不十分なところはいっぱいあります。
デジタルスズンシップ教育の本丸としては、社会参画と自分たちのコミュニティの変革というところにありますから、
本当は国語科の授業の成果物を世の中に発信するくらいの実践はやったほうが良いだろうとは思っています。
究極的には国語科の授業で生徒一人一人が自分のメディアを持って発信活動を始めるくらいまでいってほしいなあなんてことは思いますね。
ただでもいきなりそんな話をされても困っちゃうじゃないですか。
デジタルスティンシップ教育の重要性
だからこそ今は少しだけ手前のこと、普段の授業の問い方や切り取り方を変えるだけで、
ちゃんと生徒のデジタルでの言葉のあり方に影響を与えられるということを重視したいなあなんてことを思うわけです。
国語科の授業でデジタルの言論空間で起こっていることに少しでも意識を向けるようにすれば、
間違いなくデジタルスティンシップ教育の初手としてはかなり有効なことができるんだろうというふうに自分は考えています。
今回の配信はいかがだったでしょうか。
デジタルスティンシップ教育って決して新しい仕事を増やすことじゃないんですよ。
先生方がこれまで大切にしてきた言葉への感性や他者への想像力をデジタルの領域まで拡張することにほかならないんです。
そのための考え方が、例えば責任のリングというような考え方で、
今まで授業の中で切り離してきた公に向けての表現というところまで少し拡張して考えてみることで、
全然授業が変わるはずなんです。
ICT機器が苦手でも構いません。
最悪Wi-Fiが繋がらなくても、公共の場におけるコミュニケーションってなんだろうと考える授業はできます。
でもどうかデジタルは私の管轄街だと心のシャッターを下ろさないでほしいなとは思っています。
先生がそのシャッターを開けて、ネットの言葉も教室の言葉と同じく君たちの社会なんだよと語りかけるということ、
そういうことを繰り返し日常的に行っていくことで、
生徒たちの学校での顔、ネットでの顔というものが分断されずに、
やっと良き使い手としての学びが統合されるんじゃないかなと思います。
社会と学校の断絶をつなぐことができるのは、最先端のテクノロジーを使うことではなくて、
先生の言葉に対する誠実な問いだと自分は思っています。
理屈や理論はありますけど、まずは先生方に子どもたちの社会における言葉に対して関心を持ってほしいなと思っています。
だからまず次の授業でたった一つ、こう問いかけることから始めてみませんか。
そのスマホの中にある言葉と今ここで話している言葉、君にとってどちらが本当の自分に近いですか?と、
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授業の実践とコミュニケーション
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