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スピーカー 2
久しぶりに対面で収録をしています。
そうですね。
下北沢です。
初めて来ましたけど。
スピーカー 2
呼び寄せました。東京に行く用事があるってことで、下北沢に行きたい本屋さんがあったので、
ゲントクさんに来てくださいと呼び寄せて収録をして、
さっきまで2時間ぐらい?2時間ぐらい喋ってました。
スピーカー 1
そうですね。
めっちゃいろんな話をしてたんですけど、さっきしてたのがあれですよね。
スピーカー 2
例えば発達障害とか、ASD、ADHDとか、あと潜在さん?なんかHSPみたいなのとか、
いろんな自分、人に対するジャンルって日々できていくじゃないですか。
でもそのジャンルの言葉を借りて、
説明する、自分のことを説明するっていうのが違和感があるというか、不安定な感じがするんですよ。
私はHSPだからなんとかでみたいなのが、
その枠よりも自分の方が先に存在してたじゃないですか。
スピーカー 2
だからワンチャン自分がそのジャンルを作ってても、
発明できててもいいぐらいに自分のことについては自分の感覚の方が詳しいわけじゃないですか。
だからその枠の名前を借りて、手助けは必要だと思うんですよ。
自分について言語化するときにその枠が必要だからその枠になってるわけじゃないですか。
スピーカー 2
こういう理由で、こういうメカニズムでこれができなかったのかみたいなのが結構あるんですよ。
だけど、だから私ってこれだったのかにはあんまりならないというか。
スピーカー 1
今の話で言うと、HSPに関しては、
ヤギリンさんが言ってくれたようなそのものズバリみたいな本を読んだことがあって、
HSPブームの広材を問うっていうシリーズがあって、
スピーカー 1
ブックレット的な娘の本なのを読みやすいんですけど、
それは本当にインターネット上とかでHSPっていう枠組みで自分を語るっていうことに対しての、
もちろん良いとこもあれば悪いこともあるよねみたいな話を論じた本なんですけど。
そこは自分もそういうのを読んでいる中で感じることがあるし、
スピーカー 1
そういう語りをするっていうのがやっぱり結局なんか最終的にやっぱり
人間を単純化してしまうというか、
スピーカー 1
やっぱりそれの枠組みに自分が適合していると判断することによって、
その先に思考が及ばなくなってしまうっていう例があるだろうっていう。
要は自分をもっとより深く理解する。
スピーカー 1
その細かい部分でちょっと違うなとか、
そういうところってあるはずなのにそれが見えなくなってしまうっていう意味で、
自分をもうちょっと複雑に見るっていうことが難しくなってしまう語りであるだろうなということは思う。
スピーカー 2
はいはいはいはい。確かにね。
なんかちょっとした違和感とか、それの概念との差異とか、
こうなってるからこうなってるじゃないじゃないですか。
例えばADHD、HSPの脳はこうなってるからこうなんですみたいな。
じゃないというか、自分なりの文脈ってありませんか。
自分なりにこういう時にこうなって、
スピーカー 2
だからその枠はありきなんですね。
やっぱりこの〜だからHSPの人はこうだからこう。
じゃなくて、私はこうこうこうだからHSPならまだわかるけど、
はめる必要もあるのかっていう感じですけど。
スピーカー 1
そうなんか単純にそのスタートで、
最初に自分もあんまりHSPを説明できるほど理解しないんだけど、
覚えてないんだけど、
何かそういうチェックリストみたいなものがあった時に、
自分はこのHSPのここに当てはまっているなと思うのか、
私はHSPだっていう風にそのチェックリストを見て理解するかっていう、
そこの違いはあるのかなっていう気はする。
スピーカー 2
カテゴリカというか、
白黒つけずにはいられない。
チェックリストに何個以上当てはまったらこれですみたいなのを、
白黒つけずにはいられないという風潮なのかなという気もしつつ。
スピーカー 1
そうすると安心するんだろうね。
安心する人がいるんだろうと思う。
スピーカー 1
そういう同じような形で、
HSPSっていうラベリングを内面化した人たちとのつながりっていうのが、
生まれるという部分で、
そこが安心材料にはなるんだろうけど、
要は自分のことをそういう風にラベリングすることによって、
自己強化してしまうよね。
もともと別にここの部分はHSPに当てはまらなかったかもしれないことを、
自分はHSPであるという風にすることによって、
スピーカー 2
自分自身がそっちに引っ張られていってしまう。
引っ張られますよね。
引っ張られるし、そう語る人はやっぱりそうなっていく。
そうなっていくどころか、
スピーカー 2
なんか嫌な言い方をしますけど、
そう見せたいんだろうなという人でさえいるっていう風に感じます。
スピーカー 2
そう喋ってるうちにそうなってしまう、
そういう風に説明してそう見せたいっていう風にまでなってしまうんじゃないかなっていうのを
スピーカー 1
思う時があって、
スピーカー 2
多分それに対して、うん?っていう気持ちがあるのかもしれない。
スピーカー 1
それはそうですね。
スピーカー 2
私、それで安心するっていうのが、
なんかちょっといろいろあるんだろうなと思って、
安心する、
例えばものすごく膝が痛いってなるときに、
あなたの膝の軟骨はこうでこうでってなってますって言われたら、
なるほどって分かったら安心するじゃないですか。
それに対して安心はHSPとかにもあると思うんですよ。
私はこういう時にこうなってしまうのはずっと変だと思ってたけど、
スピーカー 2
そういうメカニズムがあったのねっていう風に安心するっていうのは、
ある意味生物的な安心だと思うんですけど、
社会的な安心みたいなのがちょっと、
それを感じる人は結構不安定だなみたいなのがあって、
だからそもそもの思い込みがある。
人間は普通だったらちゃんと仕事に行かないといけないとか、
普通だったらこれを頑張らないといけないとか、
普通だったら遅刻しちゃいけないとか、
なんかいろいろあって、
それに対して名目がついたように感じるから、
安心するんだと思うんですよ。
変な言い方をみんな言うじゃないけど、
自分はこうだからこれできないのは仕方ないんだってするっていう風に
安心っていうベクトルの安心もあるなと思って、
そこが自分のせいじゃなかったんだっていう安心は確かにあると思うんですけど、
でもそもそも自分のせいじゃなくないですかっていう、
スピーカー 2
名目がなくても別に自分の責任ではないし、
普通じゃなくても仕事はそんなに別に血を吐いてまでしなくていいし、
頑張らなくていいじゃないですか。
でも名目があることによってじゃあいいんだってなるのは、
そこの思い込みから自由になってないみたいな、
むしろ強化されていってるその思い込みが。
普通じゃないことを演じることによって別の枠組みにいけるというか、
そもそもの思い込みを打ち破るには、
別に誰も頑張らなくていいってことじゃないですかって思うんですけど。
スピーカー 1
だからたぶん理解あってると思うんだけど、
本来は降りるべきなんだよね。
そういう話だと思うんだけど、
HSPとかそういう概念を内面化してやってることっていうのは、
どちらかというと対決姿勢を取ってるんだと思ってて、
それが問題視してるんだろうっていうふうに理解をした。
要は社会とか仕事とかそういう方の側が、
こういうものを理解して受け入れるべきだっていう形になると、
それは一種の対決姿勢とも見れるようなスタンスであって、
そうなると必然的にいがみ合うっていう話。
たぶんヤギリサガリというのはそういう枠組みみたいな、
HSPとかっていうものとか関係なく、
そもそもそういうところ、
仕事を例えば遅刻してはいけないとか、
そういうのが当たり前になっている世界から、
そもそも降りることだってできるかもね、できるよねみたいな、
そういう話なのかなっていう。
スピーカー 2
そうですね。
だからそんなにこう、なんだろう、そうなんですよ。
だからサボりかADHDかみたいな構造じゃないですか。
ただのタイだなのかみたいな。
でもタイだなのかADHDなのかっておかしくないみたいな。
スピーカー 1
そこに本質はないよね。
スピーカー 2
だからそれは社会の名目上の話じゃないですか。
だし別にそれで、なんだろう、ある意味診断書を取ることによって会社を休めるとか、
ある意味自分のこういうしんどい部分を既存の社会の仕組みを利用して
なんとか楽になってやろうみたいなのは私間違ってると思わないです。
スピーカー 2
間違ってるというか、それはもうそうした方がいいと思うんだけど、
それを内面化しすぎというか、
ADHDとして診断書を取って会社に提出するっていうのは建前の話じゃないですか。
だけど自分がADHDだって決めつけるのは自分の捉え方というか内面の話じゃないですか。
だからそこが診断書を出したから私はADHDなんだみたいな。
そこが違和感かも。
私は割と診断書を取ったけど別に心までそもったわけじゃないからなって思ってしまうタイプなんですけど。
でもそこを借りてずっと喋っていくと、
自分の気づきが外側の概念を借りて喋ってるというか、
その人の話す気づきが血に足がつかなくなるみたいな感覚があって、
なんか違和感があるんですよ。
スピーカー 1
その話聞いてヤギニさんのことを羨ましく思う人っていうのもいるんじゃないですか。
それはやっぱり自分の生き方みたいなものに何かしらの形でこだわりがある。
言い方を変えると何者になりたいみたいなものはなかったとしても、
この生き方はしたくないであったりとか、
そういう何か譲れないものであったりとか、
こういう生き方でありたいみたいなものを言語化できなくても持ってるっていうことなんだろうなという気がした。
スピーカー 2
こういう生き方がしたいというよりかは、
こういう生き方がしたい、こういう生き方が嫌だに近いかな。
それは真実ではないと思って思ってしまうっていう感じかも。
ADHDだからこうなんだよねとか、
HSPだからこうとか、
私こうだからただのタイダだと思うみたいな枠を借りた方に対して、
それは真を食ってないって思ってしまうかもしれない。
自分自身がこういう生き方をしたいっていう理想が別にあるわけじゃないけど、
真の食ってない話はしんどいです。
真を食った話を聞きたいししたいしみたいな感覚があるかもしれない。
だからそこから掘っていくのは好きですけど、
その表面上で終わることも全然あるんですけど、
それがなんか違和感があるというか。
だから血に足のついた気づき、人の気づきを聞くのはめっちゃ好きです。
それはまだなんか表層革をかぶってるというか、
スピーカー 2
まだ真を食ってないっていう話に対する違和感かもしれない。
自分が確固たるものがあるというよりかは、
それは嘘やんっていうのがあんま好きじゃない。
嘘じゃないんですよ。本人が現時点でそう感じていることだから。
嘘じゃないんですけど。
もう一段、本当のところじゃないとなんか違うみたいな違和感の方が大きいかも。
スピーカー 2
なんかでも、
スピーカー 1
そうですね。
スピーカー 2
仕事をする上で仕方ないみたいなのとかは、
多少はありますよ。
スピーカー 2
私でも諦めが悪いタイプだと思うから、
あんまり嫌だったら、
その価値観に飲まれたくないって思ったら辞めちゃうところはあるんですけど、
でもやっぱり発言とか、
全体的に染まらないっていうのは、
100%無理なわけじゃないですか。
でも、
スピーカー 2
奥まで染められきらないというか、
仕事をしてる時は、
例えば資本主義的価値観で語らざるを得ないから、
語ってるし、別にお金が稼げる人より偉いわけでもないし、
ただそのゲームをしているという、
スピーカー 2
その板上の上で喋ってるだけで、
別に関係ないものなんて、
どっかで思ってますよ。
だから多分、それで言うとヤギリンさんとかっていうのは、
スピーカー 1
自分で自分を握ってる部分があって、
そこに多分、感覚があるわけじゃないですか。
あえて手放したりとか、
スピーカー 2
そんな気分じゃないですけどね。
スピーカー 1
一旦ここでは、
自分が本当は別にやりたくはないけれども、
場に合わせてやっておくかって一旦手放して、
もしかしたら仕事が終わったら戻してきて、
例えばポッドキャストをする時には、
それを自分がそこを握り直したっていうことを
強く感じながら喋ったりするかもしれないし、
なんかそういうのがあるのかもしれないけど、
それをやっぱり諦めてしまうっていう、
手放し方の問題なのかなっていう気はする。
でも諦めるというか、
スピーカー 2
そもそも魂まで染まってしまう人もいると感じますよ。
スピーカー 1
それはやっぱり諦めの先にあるんじゃないかなって気がする。
スピーカー 2
そうか。
だってもう社会の上で揉まれて揉まれて生きて、
お金を稼げる方が偉いみたいな。
仕事が早い方ができるやつみたいなのを
完全に内面化してしまう人もいるし、
例えばうつになって辞めた人の中でも、
自分はあれができなくて、これができないから無能なんだみたいなのを、
やっぱりああいう風になる人は
結構染められやすいなっていう感じがしないこともない。
何だろう、最近思うんですよ。
これはちょっと医学的観点じゃないので、
性格じゃないと思うんですけど、
スピーカー 2
私がどれだけ潰れて、
しんどくなったり、めちゃめちゃしんどくなっても、
うつとかで寝込んだりしないのはそうなのかなと思ったりするときがある。
スピーカー 2
何だろう、結構、
かといってそれはそれと別だし、
みたいな感覚がずっとあるというか、
私がダメだなみたいな。
私、人と比べてダメだわとか、
人と比べて何もできないなって思ってしまうときもあるんですけど、
今の社会通念上な、みたいな気持ちがあるんです。
全然、今の社会通念上、
人と比べて割と苦手なことも多いし、できないことも多いんですよ。
スピーカー 2
それは事実として認識、事実というか、
そう認識しちゃいがちなんですよ。
だけど、それは今の価値観の上ではな、みたいな気持ちが
どっかずっとあって。
だから、今から厳正時代とかやったら知らんけどな、みたいな。
その感覚が本当にずっとある気がするんですよ。
スピーカー 2
だから、私は完全に行くところまで染まったりしないなっていう感覚がありますね。
スピーカー 1
それはやっぱり人文学的なもの、
一つ言えば社会学的なものをやっぱり勉強することの力なんじゃないですか。
スピーカー 2
いやでも、私この感覚は昔からあります。
スピーカー 1
それはそういう人ももちろんいると思う。
逆にそういう人は社会学とかそういうものに向いているっていう。
スピーカー 2
確かにね。
でも、こんなに言語化できなかった気がするんですけど、
それはやっぱり大学行ったりとか、人と話したりする中で
たぶん形にはなってきたものだと思うんですけど、
このうっすらとした感覚。
いやでも、今この状態なのがおかしいだけじゃない、みたいな。
別に私がその無能扱いをされている、無能だと思う、その当時は思うけども、
こうなっているのは別に私のせいではなくて、みたいな。
なんかうっすらとした開き直りの感覚みたいなのは本当に結構あったかも。
幼稚園とか、幼稚園じゃない、小学校とかぐらいからあったかもしれない。
スピーカー 1
自分もどっちかっていうとそのタイプなので、
っていうのはありつつね。
スピーカー 1
それで言われて思い出すところで言うと、
やっぱり今一応仕事している中で先輩の話聞くことはあるし、
自分のいう先輩ってあんまり30代半ばっていうよりかは、
もっともっと上の40代とかそういう人の話聞く方が多い職場ではあるんだけど、
やっぱり話聞いてて、
やっぱり先の自分を手放すっていう話で言ったら、
何らかの形で手放す、
スピーカー 1
自分を何かの枠組みで語るとかそういうのとはまた別の形で、
その仕事をやっていく中で諦めないといけないものみたいな、
そういう部分を感じることがあって、
そういう人たちが何かしらの研究の形で語られることって多分なくて、
でももしかしてそういう人たちがたくさんいるんだっていうことを考えたときに、
そういう人から見ると、
ATSP、ADHDみたいなそういう枠組みで、
我々を受け入れてくれよっていうような意義申し立てに対して、
スピーカー 1
やっぱり何か感情的に反応したくなるっていうものがあるっていうのが、
その気持ちはわかるような気がする。
スピーカー 2
今まで自分の努力によって適応してきたという人たちが、
新たな枠組みに、新たな枠組みというか免罪符に反発するみたいなイメージですか?
スピーカー 1
だから形としては、俺たちも一緒やぞみたいなのがあるんじゃないかなっていう。
それで我々の方っていうのは、やっぱり研究の対象にもなっていないし、
そういう明らかになっていないものだけれども、
こちらの側からしたら、そうやってやってきたんだぞみたいなものを持っているっていう、
そういう人たちはいる気はするよね。
そういう対立構造になっちゃうんだろうなっていう。
なるほどね。
スピーカー 2
でもその年代の人でも、新たな概念ができたら、
俺もそれやったんよみたいに飛びつくっていうタイプの人もいませんか?
スピーカー 1
まあ、それは人によると思うね。
スピーカー 2
そうですね。
私の母とかも割とそんな感じする。
年がいってから新たにできた概念を、
私もこれでこれやみたいな感じで、
もうやっきになって説明をするみたいな。
定義して説明していっぱい本買って、
私これとこれとこれやから説明して回るみたいなタイプのですね。
今まではそれが分からず苦労してきたわけじゃないですか。
分からずというか、分からないから変だと思って押し込めてきたわけでしょうね。
耐えてきた。
耐えてきたけど、急に自分を免罪婦的に言ったらちょっとね、
イジバルですけど、語るっていう言葉を手にして、
それで、もともと分かって欲しいみたいな気持ちが強いタイプだから、
人に説明して回る。
これ自分はこうだったんだって思って勉強するみたいなのか、
年取ってから概念として得ても、
そういうタイプの人はそうだよなって思う。
それはまあそうじゃない?
スピーカー 1
そういう人の気持ちも分かる気はするよ。
そういうのって年取ってから出てきたら、
我慢してる時間が長いって言った通りにさ、
やっぱ悔しいじゃんね。
スピーカー 1
若い人羨ましいじゃんね。シンプルに。
スピーカー 2
そうね。
スピーカー 1
若い時にその概念があればって思う人がいてもおかしくはないと思うよ。
スピーカー 2
まあ確かに。
まあでも難しいですね。
スピーカー 2
外側からの概念を借りて説明する人は、
やっぱり普通やったら頑張らなあかんみたいな価値観を内包してるわけなんで、
スピーカー 2
だからそういうところがあるんですよね。
私その概念と自分の気づきで話してる時に結構話が食い違うというか、
うまく話が合わせられないみたいな感覚はあります。
スピーカー 1
まあ別に合わせなくていいのでは。
スピーカー 2
合わせられないというか、あまりの合わなさにイライラしてくるみたいな。
お互いに。
スピーカー 1
そうですね。合わないしかないんじゃないですか。
だから違う星から来た感はある。
スピーカー 2
使ってる言語が違うなって思う時がある。
向こうも思ってるかもしれないけど、理屈が。
お互いに理屈だと思ってることが通じないというか。
スピーカー 1
だからそれも根本的な部分が違うから、
ロジックが違って食い違うっていうものでしかないだろうし、
だからこういう気持ちなんだろうなっていうのを推しに測りつつ、
黙って話を聞くのがいいんじゃないですか。
スピーカー 2
確かに。見打ちだと難しいんですよね、それが。
気持ち、多分何でもそうなんですよ。
枠の概念を借りて語る人とか、気づきが外側からの概念を借りてて
信用くってないなって思う人とかもいると思うんですけど、
自分がそう感じる人もいると思うんですけど、
もっと中にある生の気持ちみたいなのが共通するし、分かり合えるんですよ。
だから今玄徳さんが言った、母の若い時にこれはあればなって悔しいよねみたいな。
若い時もこうあれ、なんか若い人が羨ましいよねみたいな。
分かるんですよ。そういうのは分かります。
じゃあそう語ってくれればいいのにって思うんですよ。
スピーカー 2
そうじゃない語り方をされることに対して、
そこはだって生の気持ちじゃないですか。
だからそれは無理やりひっぺがしちゃいけないと思うんですよ。
でもそこの次元、そこの生の気持ちの次元で語り合える人と
概念を武器のようにしてる人とではうまく話が合わないんですよ。
そこの共感できる次元で話したいのに、
もうすごく私はこうでこうでこうだからこういう特徴があるのみたいな。
そういう概念を免罪符と捉えて明らかに武器にしてるじゃんって思っちゃうんですよ。
スピーカー 1
だから真逆なんじゃないの。あまり推測で物を言うべきじゃないなと思いながら言うけれども、
生の気持ちを隠したいからそういう語りをするんじゃないの。
スピーカー 2
そうね、まあそう確かに。
スピーカー 1
だからそこに関しては、自分はいいキーワード出したつもりで言うけど、
なんかやっぱりアイデンティティってものがひとつ関わってるような気がするから、
そこの部分の違いが根本的なところにあるのかなっていう気はするから、
だからそこに対して何かの言論的なもので何とかしようっていうのは、
まあ自分は筋が悪いと思うんで。
スピーカー 2
それは確かにそう思いましたね。
スピーカー 1
まあ話を聞くのが良いのではないでしょうかっていう。
スピーカー 2
アイデンティティが、でもそのカッコたるアイデンティティが、
今巷でいう自己肯定感みたいなものと一致するともあんま思わないですけどね。
スピーカー 1
それはそうなんじゃない?
スピーカー 2
なんかこの自分があるねみたいな言われ方をすると全然しっくりこないというか、
私は全然自分があるというか自信はないです。自信はないです。
巷でいう自己肯定感みたいなのは、でもあの自己肯定感っていう言論もあんま好きじゃないですけど。
スピーカー 1
自己肯定感はしんどい気はするな。
なんか語ることそのものが難しい。
スピーカー 2
そうなんですよ。
スピーカー 1
定義が難しいよね。
スピーカー 2
そうそう。
だから自己肯定感は、私は自分ってこれでいいんだみたいな頭で考えるものじゃなくて体、身体だと思っているので。
自己肯定感は相手が大勢の人、慣れとかいろいろ例外とかもあるんですけど、
イメージとして聞いてもらえればと思うんですけど、
大勢の人に囲まれたりとか、囲まれるのはちょっとあれかな。
誰かと相対してたりとかするときに、どっしりと構えているというか、
なんか呼吸が深い感じというか。
なんだろう、なんかその感じ。
常に自分の呼吸を保てているみたいな身体のイメージがあって。
スピーカー 1
なるほど。
スピーカー 2
だから一石一鷸にどうにかなるもんではないよね。
一長一石にどうにかなるもんではない。
なんかこう、なんだろう。
だって自分ってこれでいいんだ、そう思うようにしようって思っても、
誰かと相対したときにすごくしんどくなったりとか、呼吸が浅くなってしまう自分ってのは変わらないじゃないですか。
だからそれは身体反応の一種かな、みたいなふうに捉えてて。
だからあんまりこう、なんだろう。
だから自己肯定感が低いからさ、高いからさ、みたいなのも自分で知覚できるものなのか、みたいな感じで。
いまいちそういうふうに語ることも信用してないんですけど。
スピーカー 1
でもなんかものすごい面白い定義やなと思いましたけどね。
その自己肯定感を身体的なところに持っていく。
逆にその身体的な方に持っていったら、
スピーカー 1
その自己肯定感が前より高くなった、低くなったっていうのが感覚的につかめそうって思ったから、
なんかそれが面白いなと思った。
スピーカー 2
そうですね。
だからいくら気づいてても、体に落ちてなければまたそれは頭に留まってるというふうに思ってるので。
スピーカー 2
自分自身がちょっとそうだからですね。
頭でこう思う、こう思うってやっても、結局できてないのは体が覚えてないから。
スピーカー 1
いいんじゃない?その定義。
その定義で流行りそうな定義だと思いましたよ。
これ聞いた人も使ってみたらどうですか?
スピーカー 2
流行ってほしくないけど別に。
スピーカー 1
でもなんかそういう定義がちょっとでも広まると、
少なくともその人たちの間で会話っていうのはしやすくなるし、
その何かのギャップによってしんどくなるみたいなことが減りそうな気がするよね。
別にそうなるべきとかそういう意味を言ってるんじゃないけど、
でもなんかそのふんわりしたものをふんわり定義するんじゃなくて、
その定義の仕方がいいっていうことが言いたかった。
スピーカー 2
なるほどね。
そうなんですよ。
なんか自己肯定感高い低いがある程度の曖昧性があることに対してすごい嫌だなと思ってたんですよ。
スピーカー 2
私その自己肯定感低いからさっていう文言がいまいち納得いかなかったというか、
低いとはどういう状態を指す?なんだろう。
自己肯定感低い?
自己深刻性?
自己深刻性っていうかなんて言うんだろうな。
別に自己深刻性でいいんですけど、
なんかいまいち納得がいかなかったんですよ。
で、やっぱり流行りすぎると誤用もあるじゃないですか。
めちゃめちゃ自信がある人に対して、
あの人自己肯定感高すぎるみたいな。
意味わかんないじゃないですか。
多分そういうことじゃないと思うし、
そういうのがいまいち許せなかったんだと思う。
で、自分的にずっと考えてたのが、
身体反応は嘘をつけないなと思って。
頭で思っていること、思おうとしていることとか、
口で言うことはいくらでも嘘をつけるんですけど、
身体反応は嘘をつけないから、
それが一番確かなんじゃないかと思ってそうしました。
スピーカー 1
自分と戦います。