60の象徴性
おはようございます。英語の語源が身につくラジオ、heldioのパーソナリティ、そして英語の歴史を研究しています堀田隆一です。
7月27日、水曜日です。 週の中日ですけれども、みなさんいかがお過ごしでしょうか。
さて本日の話題はですね、連日 数字関連、数字絡みの話題をお扱っていますが、今日も続いてですね
大きな数の象徴としての60、60という話をしたいと思います。 本日もどうぞよろしくお願い致します。
この3日間リスナーさんにいただいた質問を皮切りにですね、 数字の話題に火がついてしまいまして、3日前に419回ですね
23が3&20というお話でしたね。 それから2日前に420回ですけれども、小銭は価値がないものの象徴として
6ペンスという話題を扱いましたね。 そして昨日なんですけれども421回
価値なきもの、一軸、遠藤、ピーナッツ、ネギ、豆、藁というこんなお題でお話ししてきたんですけれども、今日もですね、ある意味ではこうした一連の数に関する話題、あるいは小さいもの、大きなもの
価値の少ないもの、多いものというような、これがですね、ある数字であるとかある名詞にですね、代表されているっていうような、そんな語法上の話題を問題にしているんですけれども、今日はですね、大きな数の象徴としての60ということなんですが、60ですね。
これ一般的な表現ではないので、60ですけれどもね、これが多いものの象徴として扱われるっていう例はすぐには思い浮かばないんではないかと思うんですね。
私も知らなかったんですけれども、ある時にですね、もうある時って言ってもだいぶ前ですけれども、ある中英語、ミドルイングリッシュのテキストを読んでたんですね。
サーオルフェオという作品で、これは例のギリシャ神話のオルフェウスとエウリュディケイのあの話ですね。
およそご存知かと思いますけれども、蛇に噛まれて死んだ妻エウリュディケイを冥界に迎えに行くというオルフェウスの話ですね。
地上に連れ帰る途中にオルフェウスがたまらずに後ろを振り向いてしまったために約束違反だったんですね。
これでエウリュディケイを見失うことになったということなんですけれども、これの中英語版、中英語訳っていうのがあるんですね。
現存するいくつかの写本にこの作品は残されています。その中でも最も有名な版と言いますか、最も有名な写本、オーヒンレック写本と呼ばれるんですが、これですね。
こちらに残っているものから読んでいったんですけれども、その中でですね、リンゴの木の下で昼寝をして木の狂ったエウリュディケイを連れ戻すために
多数の人々が駆けつけてくるっていう場面があるんですよ。そこでですね、ナイトも来ればレイディも来るし、そしてダミゼル、木夫人ですね、も来るというようなみんなが集まってきて、この木の狂ったエウリュディケイを何とか連れ戻そうとするっていう、そんなところでですね、こんな表現があるんですね。
短い2行なんですけれども、あえて中英語、そのままで読んでみたいと思います。クリステスウルンアンドレウディーズアルソウ、ダミゼルセクシティアンドモウということで、現代英語風に訳しますと、Our knights and ladies also, 60 and more damselsということなんですね。
これ60とかそれ以上の木夫人が集まってきたと。これ厳密に60っていうことを言いたいんではなくて、たくさんのっていうことを言いたいんですね。その際に60という、60という数が使われてるんですよ。なんで、よりによって、まあ確かにたくさんはたくさんなんでしょうけれども、50だっていいし、70だっていいしっていうことなんですよね。
60の文化的背景
これを読むときに、確かに60人きっちり集まってきたっていうことを言いたいんではなくて、多くの人が集まってきたんだなっていうことは運命からわかるので、なんでよりによって60選んだかなというふうに思うわけですよ。
詞の形で書かれていますので、一種、リズムっていうのがあります。語呂ですよね。その際に、例えば70だとちょっと長すぎる。60が一番いいんだというような、いわゆる韻律上の理屈っていうのがある。それで説明できるっていうケースも、詩の場合はあったりするんですね。
ですが、ここの場合はですね、必ずしも40、50、60、70、80、いろいろこの辺あるわけなんですが、なぜ60でなければいけないのかっていう、韻律上の、語呂上の都合っていうのもはっきりわからないっていう箇所なんですね。
さらに、いくつかの写本が残っていると言いましたけれども、この作品が残されている他の写本、例えばハーディ3810と呼ばれている写本があるんですが、ここにこの作品、同じ作品が掲載されてるんですね。
ここの対応する行を見るとですね、なんとですね、50になってるんですよ。つまり、なんでもいいんじゃんっていう突っ込みが入るわけですね。もう一つ別のアッシュも61という写本がありまして、これで対応する行を見てみると、今度は60なんです。ちょっと語順は違うんですけれども、とにかく60なんですね。
60と50の間で揺れているっていうことなんです。我々にとってみると、50ってそこそこキリがいいんですね。100の半分っていう発想ですから。ところが60で多いっていう発想はあまりなくて、なんだか中途半端だなっていう気がするんですよ。
考えてみれば、一昨日の放送で420回、コゼには価値がないものの象徴というところで、マリーさんにセックスペンスの話ですね。この話題を提供していただきまして、この放送でも考えてきたんですけれども、セックスペンスっていうのは一つの銀貨として存在したんですよね。
これはイギリスが十二神法という発想を持っていて、その名残ですね。受信法ももちろん持っているんですが、かつて持っていた十二神法の名残で、その半分ということで、6は6である種キリがいいっていうことですね。
実際、360度であるとか、あるいは時計なんかも60とか12っていうことですし、これは一つの発想としてあったわけですよね。その半分っていうのは、そこそこキリのいい、ちょうどいいという数で6っていうのがなかなかプレゼンスを持っていたと。少なくとも今よりはですね。
これと今回の60っていうのも、おそらく関係してくるんではないかと思います。60と50の間で、写本の間で揺れているっていうのもなかなか面白い話で、60っていうのは十二神法のある種名残と言いますかね。10というよりも12と相性がより良さそうな感じがするのが60だったりしますよね。おそらくこの辺が効いてるんではないかなというふうに私は睨んでいます。
そしていろいろ調べてみますと、60でもって多数を表すっていう方法は、やはりここの例以外にでもですね、中英語では非常によく使われていたって言うんです。そして現代にかけてもですね、かつてほど一般的ではないのかもしれませんが、例えばlike 60っていう表現があるんですよ。
OEDで調べてみますと、こんな定義があります。with great force or vigor, at a great rateということで、激しくであるとか非常にということで、結局大きいこと、量の大きいこと、著しいこと、華々しいことを表現するのにlike 60っていう言い方があるって言うんですね。これも口語的で俗語的だって言うんですよ。
このlike 60という表現自体はですね、1848年にできたということで、そんなにすごく古いっていうことでもないんですが、60っていうのを取り出した。60というのに大きい、著しいという役割を与えたっていう、この伝統そのものは先ほど見たように中英語の頃からどうもあったっていうことなんですね。
さらにですね、何でもいいんじゃんっていうふうに思われるんですが、like 40っていう言い方もアメリカの口語なんかでは同じように使われるんです。なので60じゃなくても40でもいいのかというような、何でもいいんだなっていう感じになってくるんですけれども、これはちなみにシェイクピアが処例となっています。古いといえば古いのかもしれません。
この40っていうのが入ってくると、また話はややこしくなって混沌としてくるんですけれども、少なくともですね、今回扱っている60に関する限りはなかなか古い語法である。そしておそらくは十二神法の発想に基づいたたくさんのという発想ですね。こういうことになるのかなとは思われます。
このような伝統と言いますかね、他に表現があるんだっていうことを抑えた上で改めて6ペンスの話に戻りますと、6というのがですね、やはり今ほど中途半端な数とみなされてはいなかった。なんかじわじわわかってきて面白いですね。本日も最後まで放送を聞いていただきまして本当にありがとうございました。
生放送の予告とリスナーの意見
一つのお題から始まって関連する話題にどんどん広がっていくっていうのがですね、面白いですよね。どんどん深掘りしていっている感じがして、話が展開しているっていう感じがして私も好きなんですけれども、大変興味深い話題の提供をリスナーさんからいただいています。ありがとうございました。
このチャンネル、英語の語源が身につくラジオヘルディオでは、ご意見ご感想ご質問、そしてチャンネルで取り上げてほしいトピックなどがありましたら、いつでもお寄せいただいています。Voicyのコメント機能あるいはチャンネルプロフィールにリンクを貼っています。専用フォームを通じてお寄せいただければ幸いです。また、チャンネルをフォローしていただきますと更新通知が届くようになります。ぜひフォローしていただければ幸いです。
最後に、このチャンネルの生放送のお知らせです。
7月31日、今度の日曜日なんですけれども、午前11時から12時にかけて生放送を行います。
話題は、5月に大週刊書店より出版されました、言語の標準化を考える日中英読普通対象言語史の試みという本ですね。
こちらの変者3人が集まりまして、この本について、そしてその内容についてですね、フリートークするという企画です。
変者3人いまして、定談という形になりますけれども、実は第1回定談はですね、7月9日にこのVoicyで公開しています404回の放送です。
変者定談、言語の標準化を考える日中英読普通対象言語史の試みということですね。
こちらを受けまして、数週間経ちましたけれども、第2弾、こちらの生放送でお届けするという、そういう企画ですね。
実際には、第1回定談で話し足りなかったということですね。変者3人がですね、もう一回やろうという、そういうことなんですけれども。
第1回は割とフォーマルに本を紹介するという感じだったんですけれども、今度はフリートークで本の扱っている言葉の標準化って何なんだろうかであるとか、アプローチですね。
今回推しているアプローチなんですが、対象言語史という複数の異なる言語の歴史を比べるということですね。
これなかなか今までありそうでなかった試みということで、一推しのアプローチなんですけれども、この方法論についてもいろいろとお話ししたいと思っています。
生放送に先立ちまして、リスナーの皆さまからのご質問であるとか、こんなことを聞いてみたい、みたいなことがあればですね、ぜひお寄せいただければと思います。
こちらのチャンネルに情報を貼り付けておきますので、そちらから生放送の詳細であるとか、あるいはコメントがある場合にはどのように投稿できるのかということもお知らせしておりますので、そちら訪問いただければと思います。
では今日はこれで終わりにしたいと思います。本日も皆さまにとって良い1日となりますように、ほったりうちがお届けしました。