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おはようございます。英語の歴史の研究者、ヘログ英語史ブログの管理者、英語のなぜに答える初めての英語史、英語語源ハンドブック、言語学ですっきり解決英語のなぜの著者の堀田隆一です。
英語の語源が身につくラジオheldio。英語史をお茶の間にをモットーに英語の歴史の面白さを伝え、裾野を広げるべく毎朝6時に配信しています。
本日は2026年1月23日金曜日。みなさんいかがお過ごしでしょうか。
今朝もメルボルンは矢良川下半をですね、朝のジョギングしに来ているところです。
今日のメルボルンは朝の時点で18度と黙っていると涼しいですね。 ただ走るとさすがに結構汗が出る気温かなというところでやや曇っていますが、
まあいい天気になっていきそうかなというところです。すがすがしい朝ではあります。
さあ今日も川を眺めながらですねベンチに腰掛けつつこのお話いきたいと思います。
言語編集の概念
全ての言語編集はフィクションであるです。どうぞよろしくお願い致します。
今日のお題は全ての言語編集はフィクションであるという話題なんですね。
まず言語編集という専門用語なんですけれども、編集、varietyをこのように訳すことが多いんですね。
英語で言うところのvariety、これはvarietyとか種ですよね。種のことを指すわけなんですが、言語学で言うときにはですねvariety、編集というのは
一つの言語そのものを指すこともありますね。日本語とか英語。ただ普通の場合ですね、それをこう何らかの区分で分けて、例えばですね標準語であるとか、あるいは日本語の男言葉、女言葉みたいなものですね、これも一つ一つの編集というふうに言うことができます。
この日本語の男言葉、女言葉というこの分け方自体もですね、どうなのかという、今日のこれフィクションの可能性があるというような、そういう話にもなりますけれどもね。それとか他にはですね、例えば東京の方言、大阪の方言というときの典型的に方言というのはvarietyですね。
それからですね、お殿様の言葉と農民の言葉みたいに階級がある場合にはそれぞれが編集ということになりますね。このように言語を何らかの基準で区切ってですね、小分けにした一つ一つの単位のことを編集というふうに言ってますね。
英語の世界ですと、例えば典型的にはアメリカ英語という編集がある、イギリス英語という編集がある、インド英語という編集があるというふうに地域ベースで考えることもできますし、イギリス社会ではですね、最近薄まっているとはいえですね、伝統的に階級社会ということで、上流階級の英語とそれから労働者階級の英語とかですね、こういったものもそれぞれ言語編集、
これがバラエティということなんですね。さあこのバラエティというものはすべてフィクションなんだと架空のものであり、これは作り上げた虚構なんだっていう考え方ですね。
これは言語学、社会言語学では一般的な考え方なんですが、それ以外のですね、専門的に言語学に接していない方にとってはですね、これどういうことというふうに思われるかもしれません。
虚構ということはある意味本当は存在しないということをですね、害にしているわけなんで、その意味でいうと標準英語というものはありません。アメリカ英語というものはありません。さらに言えば英語というものはありませんというようなことになってしまうんですね。これはハテナが飛ぶんではないでしょうか。
さあ、これまあいろいろな学者がですね、このフィクションなのだということを言っているんですが、とりわけですね、ズバッとそれはわかりやすい言葉で言っているのが、ジョン・アルジェオという英語学者なんですね。
ある一節からですね、引用してみたいと思います。英語のまま読んでみたいと思いますね。
すべての言語編集はフィクションである。言語は常に変化しており、その使用の状況やその使用者の気分に適応していくものだから、毎回毎回の使用というのはユニーク、1回限りのものであり、お互いに異なっているものである。
1回1回の発話がユニークということなんですね。
なので、それをどうまとめ上げようとしてもですね、次の瞬間にはまた別の仕様が付け加わるということにもなりますし、つまり境目がないということなんですね。
例えばですね、標準英語で考えてみますね。Standard Englishというふうに、だいたいですね、スタンダードのSも大文字にして固有名詞のように扱うことが多いんですが、Standard Englishですね。
これを大抵ですね、外国語として英語を学ぶ我々はですね、これを目指しているんですね。習得、学習を目指しているということなんですが、
実はStandard Englishという区分、これも一つの編集ですから、虚構ということになります。実態としては、これはない。あるいはですね、どこからどこまでがスタンダードで、どこからがノンスタンダードなのかという、境目がないという意味であやふやだっていうことなんですね。
なので、その境目がどこかわからないんだけれども、線で囲まれているStandard Englishの中心部、コアみたいなものはあると考えていいんではないかとも言えるんですね。
多くの人が、これはまあスタンダードでしょうというふうに共通了解している部分というのは確かにありそうなので、その意味ではないと言い切るのは難しいかもしれませんね。ある、あるいはありそうだという感じはするわけなんですが、ただ、どこからどこまでがスタンダードで、どこ以降がノンスタンダードなのかという境目は極めてあやふや。
であって、その線引きができない以上を、明確にStandard Englishを定義できないではないか、それをあたかも定義できるかのようにが振る舞っているということを指してフィクションだと言っているわけなんですね。
日本語の共通語もそうですし、東京方言もそうですね。それから冒頭で取り上げた、例えば女言葉、女性の使う日本語、これもどこからどこまでというのははっきりしませんし、男性でもそれを使うときはあるしのようなことを考えると、一回一回の仕様がユニークであって、そこに線引きすることができないということなんですね。
他には時代別の編集を考えてもいいですね。例えばOld English、Middle English、Modern English、Present Day Englishというふうに英語史では時代区分するんですが、じゃあ古英語と中英語の境目はどこなのって言ったときに、言語変化はグラデーションですから、どこかで区切ることが本当はできないんですが、Old English、Middle English、それぞれ大文字で始めながらですね、
あたかもそれが独立した存在であるように振る舞っている、あるいは振る舞わせているということなんですね。本当はどこから古英語から中英語の境目かということは、極めて微妙な問題であって、グラデーションなので区切ることはできないんだけれども、ここに線引きをするという人工的なことを行っているわけなんですね。
その意味でフィクションということなんですね。
言語の境界とフィクション
もちろんですね、これフィクションだからといって、必ずしもこの区分自体をネガティブに捉えているということではないんですね。
むしろですね、かなりポジティブに捉えたいというふうに私は思っていて、この区切りをですね、強引に設定しないと、それが虚構であれなんであれ、人工的に線引きをしないと、そもそも頭がおかしくなっちゃうんですね。
オールドイングリッシュ、ミドルイングリッシュ、これ確かにどこに境目があるかというのは、理論的には面白い話なんですが、通常の言葉遣いでは、古英語というものがあるもんだ、そしてある段階から中英語に切り替わるというふうに考えることにしておくということですね。
ある意味、積極的に自らを騙すということによって、言語編集というのは存在しているということなんですね。
標準英語、これあるものだというつもりで話すわけですね。
ただ際になると、境目ということになると厳密には定義できないんですが、そこにあまりこだわっていると先に話が進まないことがあるので、そういう場合にはですね、あたかも人工的に線引きがなされているかのように、あえて振る舞うという積極的な方弁として使うということなんですね。
英語、もうどこから英語、そしてどこまでが英語かというのは分かりません。
例えば、エピジン・クレオール英語というのがありますが、あれは果たして英語なのか、トックピシンというのがパプアニューギニアで話されていますが、あれは果たして英語なのか、それとももっと別の言語になりきってしまっているのか、その中間なのかというような問題ですよね。
つまり英語には境目がないということになります。よくよく考えるとグラデーションなのでということですね。
その点において英語という存在ですね、かなり大きな単位ではありますが、これもまたフィクションということになります。
何か騙されたような気分になるかもしれませんが、逆にこのフィクションがないと英語について語ることすらできませんし、英語学も英語史もある意味存在し得ないということになります。
本当のところを言うと、つまり何が対象なのか分かっていない状態で英語学なり英語史なりをやっているっていうのも本当なんですね。
日本語学についてもそうなんですね。ただそれを言うと本当に何も始まらなくなってしまうので、英語というものがあるんだとかですね、
保英語というものがあるんだ、日本語というものがちゃんとあるんだというふりをしながら議論を先に進めているという、そのようなポジティブな側面がバラエティにはある。
むしろそれを利用しないと何も語れないということになってしまうわけですが、本質は虚構である、フィクションであるという、この点が非常に重要になってくるっていうことなんですよね。
言語編集の重要性
ということで今日は、All linguistic varieties are fictions. 全ての言語編集はフィクションである。これについてお話しいたしました。
エンディングです。今日も最後まで放送を聞いていただきましてありがとうございました。
今日のお話ですね。言語編集はフィクションであるという、この話題につきましては、設長を初めての英語史の1.6、英語の多様性よりというところで関連する話題に触れているんですね。
昨日の配信会でも取り上げさせていただきました、X上でですね、設長を初めての英語史を前から読みつつコメントをくださっている天野忌美さんがですね、この1.6説を読みながら、このバラエティという考え方についてもですね、コメントをくださっていまして、
私もこれにですね、反応する形で改めてこのヘルディオで、バラエティって何だろうか、言語編集はフィクションとはどういう意味でフィクションなんだろうか、これについて解説してみました。
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