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おはようございます。英語の歴史の研究者、ヘログ英語史ブログの管理者、英語のなぜに答える初めての英語史、英語語源ハンドブック、言語学ですっきり解決英語のなぜの著者の堀田隆一です。
英語の語源が身につくラジオheldio。英語史をお茶の間にをもとに英語の歴史の面白さを伝え、裾間を広げるべく毎朝6時に配信しています。
本日は2026年2月24日火曜日皆さんいかがお過ごしでしょうか。 今日も朝のジョギングに来ておりまして、メルボルンは矢良川下半のベンチで一休みしながら収録しております。
本日の話題は昨日のお題と関係しておりまして、そのある意味続編と捉えていただければと思うわけなんですけれども、今日のお題は
定説は受け入れるのではなく受け止める、そして定説の根拠を学べ、と題してお話しさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
昨日の配信会お聞きいただけましたでしょうか。タイトルがちょっと長かったんですけれども、A矢印Bという言語変化の矢印の中を覗き込むと、そこは知味猛量のうごめく世界と題してお話しいたしました。
単純化されて教科書などには載っている記述が多いわけですね。そもそも単純化したものでないと教科書、入門書、外説書の類にはなりませんので、細かいことを遮断して最も重要なコアの部分だけを集めたもの、いわば定説集のようなものが教科書、入門書、外説書ということになるので、
これは当然なんですね。本の目的によって書き方、執筆者としては書きっぷり、何をそぎ落とすか、何を重視するかというのは変わるわけなので、読者もそのつもりで教科書を手に取るということかと思うんですね。
昨日の会、お聞きいただけましたら分かりになったかと思うんですが、A矢印Bのような言語変化の記述が歴史言語学、英語史の教科書などにはあふれているわけですね。
もちろん表記上矢印を使っていなくても、AがBになりましたという記述はたくさんあって、それがあふれているのが英語史の教科書、本ということになるかと思うんですね。
ただそこには極めて単純化という作用が働いて、表出してきているわけで、本当は実際にはその矢印の部分には非常に細かくな言語変化のきびといいますかね、これが詰まっている。
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そこを専門家は常に見ているということなので、これは単純化だなということを常に意識しながら、実はこのヘルディオでも話しておりますし、ヘログでも書いている。
さらに稲穂田言語学チャンネルなどでは、時間も短いですし、いわば即興というのが一つの味になっていますので、細かなことはどんどん遮断せざるを得ない。
ただ収録し終わった後で、あれは重要だったなと言わないでいいことを言ってしまったということもあれば、言うべきことを言い忘れてしまったということもあったりしてですね。
いつもこの実際にはこれだけ細かいきびがあるんだということも知っていながら、それを遮断して、そぎ落として単純化するということの往復みたいなことを繰り返しているわけなんですよね。
さあそこで、その単純化であるとか、最も重要な部分という言い方を今までしてきたんですが、学問の世界ではそれが大体定説と呼ばれているものなんですね。
ある現象を説明するのに、あるいは理由付けするのに、定説というものが長い研究の歴史の中でできてくるわけですね。
他にも様々な説があったということが多いわけなんですが、それと比べて、どちらの方に部があるか、理屈が通っているかであるとか、証拠が十分かのような、多角的に多くのその分野の研究者が認めてきたものということですね。
その中で一番ある意味点数が高いものという言い方ですね。
定説というのも、これは100点という意味ではなく、これが正しいという意味ではなく、多くの研究者がこれに合格点を出した、その時間の積み重ね、時間の試練に耐えてきたという言い方をしてもいいと思うんですけどね。
そういったものが定説で、教科書とか入門書、外説書の類には、それがたっぷりと埋め込まれているわけです。
いわば教科書というのは、その時点、出版された時点での定説集、その分野における定説集なんだというふうに捉えておくと良いと思うんですよね。
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ですので、この教科書を使って学ぶということは非常に効率が良いんですね。
これまで時間をかけて積み上げてきた、研究者たちが時間をかけて積み上げてきたもの、それが定説という形に凝縮されているので、
それが集められた本、教科書というのは、学ぶ上で極めて安全で効率的で、しかも大体教科書というのは、その価値に比べればずっと安いですね。
辞書なんかと同じです。
なのでやはりですね、良い教科書を見つけて学ぶということが、どの分野でも間違いなく重要なことなんですよね。
定説集であるということです。
ここまではお分かりになったかと思うんですが、重要なのはですね、今日の本題はここからなんですね。
教科書で学ぶということは定説集を学ぶということで、コスパが良いという言い方をしましたけれども、
ただですね、先ほど述べたように定説は確かに時の試練を経てきた、そして多くの研究者が合格点、9大点を出したという意味で、他の説よりも優れているということはその時点では確かなんですが、
これはいつか書き換わるかもしれないという可能性があるのが定説というものなんですね。
それが集まっている定説集である教科書を読む時も、この点は抑えておいた方が良いということなんですね。
そうすると教科書を手に取るのは大体その分野の初学者、初めて学ぶという方が多いと思うんですよね。
その際に一つ一つの記述、簡略化されて、象徴的に言えばA矢印Bみたいなものが集まっているわけなんですが、
昨日の配信会のお話と合わせて考えると、これは決して100点ではないということですし、
単純化されてそぎ落とされているところに実際の面白さとか難しさがあるんだということを気に留めながら教科書を吸収していくということがとても大事だと思うんですよね。
最初は教科書の記述をすっぽりと信じてしまうということ、この勉強法がやはり効率が良いですし、私もそのようにやってきました。
ただこの際にその事実を受け入れるのではなくて、受け止めるというところで留めておくと良いかなと思うんですね。
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受け入れるというのは完全に吸収してしまって、自分の中にお腹いっぱいにしてしまうということなんですね。
受け止めるというのは一方どういうことかというと、例えばドッジボール。
ドッジボールでお腹にグッと受け止めてボールを止めた、捉えた、これ成功なわけなんですが、
これはお腹にずしっと入っては来ていますが、飲み込んではいないわけですよね。
食べ物ではないので飲み込んでいない状態ですよね。
これを受け止める。
これをドッジボールの比喩ではちょっと変なんですが、受け入れるというのはやはり飲み込むということだと思うんですね。
飲み込んでお腹いっぱいにしてしまうということだと思うんですよ。
そうすると、もし他のもっと美味しいものがやってきた時に、お腹にもうスペースがないんですよね。
こうすると新しいものが入り込む余地がなくなってしまうということなので、受け入れるにしてもほどほどにしておく。
一番良いのは受け止めるぐらいがいいのではないかと思っている次第なんですね。
定説もやがて書き換わる運命です。
それがある意味定説ということです。
100点ではなく80点ぐらいだからこそ、残りのその20点の部分を埋めていくというか、もっと高い線数のものが将来出てくる可能性があるわけですよね。
定説はその時代その時代のある意味常識、研究者も人間ですので常識というのがあって、その常識に基づいて多くの研究者が合格点を出すということなので、
同じ時代に生きている研究者ではだいたい同じ常識を持っている。
その常識を持った多くの人が合格点を出したからといって、
次の世代、さらに次の世代の常識が少しずつ変わっていく世界における研究者が同じ説に80点、90点と合格点を出すかどうかはわからないんですね。
なので今の時点では最適解というふうに捉えておいて、お腹に隙間を残しておく。これがとても大事なことなんではないかなと思うんですね。
もちろん、小学生が教科書を手に取る場合、何が好きかとか何がポイントなのかということは全くわからない状態ですので、
その点ではやはり教科書をそのまま吸収するというところから始まる。これはもう間違いない成功法なんですね。
ただ気持ちの持ちようとして、そこに書いてあることをすべて受け入れるというよりは受け止めるぐらいにとどめておくと、
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その後の発展性、どんどん応用が効く。その分野がますます魅力に満ちて面白い分野に思えてくる。そんなふうに見えてくるのではないかなというふうに思うんですね。
そして定説について、その教科書で十分に学んだ後、中級、上級にその分野において上達してきたというふうに仮定しましょう。
学問でいえば研究の入り口に立つようなレベルですね。
先行してそれをもっと追求していきたい、極めていきたいと思ったら考えなければいけないのは、一つ一つのこれまで自分が吸収して受け止めてきた定説に改めて考慮を加えて再考察するということですね。
そして特に重要なのは、その定説はなぜ定説となるに至ったかという根拠を抑える。この根拠というのは時系列で抑えたりその理論で抑えたりということなんですが、
長年の間研究者たちが集積してきた、ある意味集合値が結晶したものが定説だということですよね。80点ぐらいなんですが、じゃあなぜ80点なのかというところ、そしてなぜ100点ではないのか、
あと10点、20点埋めるべきところには何が残っているのかも含めて定説の根拠というのを考える必要があるんですね。
これは比喩がいいかどうか分からないのですが、数学や物理などの定理というのがありますよね。
定理というのは一度これが確認されたら、専門家によって確認されたら、その上に乗っかってどんどんと次の議論を進めていくという類のもので、
改めてその定理を再証明する必要というのはないわけですね。車輪の再発明ということで、これはコスパが悪いというふうに言われるわけなんですが、
ただ私の考えでは、これは人文系であるとか言語学、英語史という分野に身を置いている人間としては、定説を一回自分の中で証明し直す、再証明するぐらいの意気込みがあったほうが良いのかなということですね。
これによって結局定説の根拠を抑えることができますし、そしてその根拠に自分が納得すれば、今後は安心してその定理に乗っかって物事を考えたり議論していくことができるということで、自分なりの安心感がありますよね。
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さらにはその根拠を確かめるべく、再証明を試みている間に、何がこの定説の穴なのか、つまり80点ではあるけれども100点ではない、その20点は何なのかということは新たな問題発見につながりますし、
良い意味での長らく提起されてきた定説というものへの疑い、これは学問的な健全な懐疑主義ということですね、スケプティシズムになると思うんですよね。
日本語でその懐疑主義といいますと疑いという字が入っています。疑うというのは日本語ではかなりネガティブなんですね。疑惑、疑念、疑心、暗記というのは基本的にネガティブだと思うんですよね。
ただスケプティシズムというのは、懐疑主義というのは発展可能性を持った意味での疑いなんですね。
これを訳す時に疑いという文字であるとか、疑という音ですよね、この辺を外した方が学問におけるスケプティシズムというのは多分日本人にもっとスッと入っていくんじゃないかなと、どうしても日本語ではネガティブに移っちゃうんですよね。
それが本来は発展可能性を秘めた非常に生産的な見方なんですけれども、これが伝わりにくくなってしまうのかなということですね。
定説の根拠を学んで、そしてまだ埋まっていない20点を見つけたら、これは新たな風がそこに吹き込む可能性がある、新たな自由への扉というふうにポジティブに考えるといいのではないかと思いますね。
いろいろ話は飛んだように思われますが、昨日の流れから続いてはいるんですね。
教科書は定説集である、単純化された定説集であるということですね。
そして定説を改めて学ぶことの重要さ、改めて再証明するというんですかね、自分の中に落とし込むということが重要。
それで腹落ちしたら、これは受け入れてもよいのかもしれません。
自分で確認できたのであれば、お腹に完全に吸収して受け止めるだけでなく、受け入れてもいいのかもしれませんが、その際にもやはり1割ぐらいスペースはお腹の中に残しておきたい。
他にもっとおいしいものが入ってくる可能性を信じてということですし、入ってきた時に食べられるようにということなんですよね。
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ということで本日は、定説は受け入れるのではなく受け止める、そして定説の根拠を学べでした。
エンディングです。今日も最後まで放送を聞いていただきましてありがとうございました。
今日は英語史の話というよりも、英語史という分野に身を置いていろいろと研究してきた、考えてきたことをですね、
昨日のそのA矢印Bという言語変化の単純化というところから、少し一般化して学びの、いわば私流の学びのコツということなんですけれどもね、
これについて改めて皆さんもお考えになっていただければと思います。
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