2025-08-10 39:47

heldio #386. 岡本広毅先生との雑談:サイモン・ホロビンの英語史本

#英語史 #英語教育 #英語学習 #本紹介
---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/650f4aef0bc9d6e1d67d6767

サマリー

岡本広毅先生との対談では、サイモン・ホロビンの英語史に関する著作について議論され、言語の多様性や英語の歴史的変化がテーマとなっています。また、学生たちの反応や授業でのテキストの使用についても触れられています。岡本広毅先生との雑談では、バナキュラーの概念が中心的なテーマとして扱われ、英語の歴史や世界英語との関連が語られています。バナキュラー文化研究会の活動についても言及され、多様な言語バリエーションの重要性が強調されています。今回のエピソードでは、岡本広毅先生とともにサイモン・ホロビンの英語史に関する話題が展開され、特に英語の多様性や標準化の欠如が世界的な言語としての英語にどのように影響を与えているのかが探求されています。

岡本先生の紹介
おはようございます。英語の歴史を研究しています、堀田隆一です。 このチャンネル、英語の語源が身につくラジオheldioでは、英語に関する素朴な疑問に、英語史の観点からお答えしていきます。
毎朝6時更新です。 フォローしていただきますと、更新通知が届くようになります。ぜひフォローしていただければと思います。
また、コメントやシェアの方もよろしくお願いいたします。 本日は対談企画というよりも雑談企画です。
岡本博紀先生との雑談、サイモン・ホロビンの英語史本について語る、です。 今日の放送で一緒に対談、雑談させていただく岡本博紀先生について、簡単にご紹介しておきたいと思います。
岡本博紀先生は、立命館大学文学部国際コミュニケーション学域の準教授であられます。
専門としましては、中世イングランドの言語と文学の研究ということで私と、広い意味で私と同領域ということになりますけれども、
また、そういった中世イングランドの言語文化の今日的意義っていうのを追求しています。
アーサーお物語であるとか、あるいは中世主義の視点から現代の文学、例えばカズオ・イシグロなどの作品ですね、
を分析したり、イギリスのナショナルアイデンティティの問題などにも関心を寄せていらっしゃいます。
そしてもちろん、英語史への造形も深いということでですね、その観点から今日もお話いただきたいと思っています。
ご業績としましては、まず何と言っても2019年に出版されました岡本先生と小宮真彦先生編著、共編著なんですが、
いかにしてアーサー王は日本で授業されサブカルチャー界に君臨したかという水木書林から出版された本です。
サイモン・ホロビンの著作
いかアサと省略してですね、非常に多くの読者を得たということで、まず岡本先生の代表作としてですね、ご紹介したいと思います。
それから2020年ですね、菊池清明先生と共編著ということになりますが、中世英語英文学研究の多様性とその展望、
吉野よしひろ先生、山内和義先生記事記念論文集ということで春風社から出版されています。
こちら論文集ということですね、中世英語英文学研究の多くの研究者から寄せられた論文、これを編んだものということになります。
岡本先生のこのボイシーへの登場は実は2回目でして、最初はですね、昨年の秋なんですけれども、11月20日にご登場いただいています。
173回なんですけれども、立命館大学岡本博先生との対談、国際英語とは何かというお題でお話しいたしました。
実は同日ですね、11月20日土曜日だったんですが、岡本先生の所属されている立命館大学国際言語文化研究所主催で、国際英語文化の多様性に関する学際研究というプロジェクトの一環としてですね、
私が世界英語ワールドイングリッシーズについて講演させていただくという機会がありまして、立命館大学に出かけていったんですね。
そのおりにこのヘルディオでも対談させていただいたということなんですが、当時の私の講演のタイトルは世界のイングリッシュからイングリッシーズの世界へということで、実は今日のこれからの雑談もこの話題と密接に関係するということでですね、半年以上ぶりになりますが、2回目登場いただくということになります。
岡本先生に関するプロフィールであるとか、ご業績についてはこちらのチャプターにリンクを貼っておきますので、そちらをご参照いただければと思います。
雑談に入る前にもう一つだけ前置きなんですけれども、今日のお話はですね、サイモン・ホロビンという英語史研究者ですね、が執筆しました英語史の入門書ですね。
こちらを題材に岡本先生と私とで今日は雑談をしたいということなんですね。
というのはですね、同じテキストを大学の講読の英語の講読の授業でですね、使っているということで、これは話が面白くなりそうという趣旨の企画なんですね。
その本というのは、サイモン・ホロビン著のThe English Language A Very Short Introductionというオクスフォード大学出版から2018年に上司された本ということなんですね。
これは実はさらに2年前の2016年に書かれたHow English Became English A Short History of a Global Languageという同じくオクスフォード大学出版から出されたものなんですが、こちらがハードカバーだったものがペーパーバックになって新たに改訂版として出されたというものなので、内容的には事実上同じです。
岡本先生は前者の方ですね、2018年のペーパーバック版を授業で使われているということで、私は少し古い方の2016年版を使っているんですが、内容としては事実上一致しているということで、これについてお話しするということです。
この著者のサイモン・ホロビン氏はですね、オクスフォード大学のモードリンカレッジに所属の教授でおりますが、2006年にオクスフォード大学に彼は移られたんですね。その前はグラスゴー大学にいまして、実は私グラスゴー大学に留学していたときに卒業というんですか、私の修了と同時にサイモン・ホロビンさんもグラスゴーを抜けて、
オクスフォードに移られたということなんですね。私の博士論文もしたがって、このサイモン・ホロビン氏は読んでいただいているというような形で、その後様々なお付き合いが続いてですね、2013年に出版されました
Does Spelling Matterという本ですね。オクスフォード大学出版から出た本なんですけれども、こちらを私が翻訳することになりまして、2017年に早川書房よりスペリングの英語誌という法題で出版されたと、そういう流れがあるんですね。
授業での英語の多様性
このようにホロビン氏は、英語誌の入門書をはじめとして啓発的な啓蒙的な英語史書というのをたくさん書いてきたということですし、ウェブ上でも発信を続けています。
このヘルディオのリスナーの皆さんも関心を寄せるであろう、関心を持つであろう話題を扱っている、そんな本を多く出している著者ということで、このサイモン・ホロビンさんとその著作を中心に据えて、今日は岡本先生と雑談すると、そんな企画ということになっております。
ホロビン氏の業績その他の情報につきましては、このチャプターにリンクを貼っておりますので、そちらをご参照ください。さて、前置きが長くなりました。それでは岡本先生との雑談をお楽しみください。
岡本先生、おはようございます。本日はよろしくお願いします。岡本先生とは2回目の対談というか雑談ということになって、昨年の秋ですかね、お呼びいただいて、立命館大学の講演ですかね、にお呼びいただいた形で、世界英語みたいなものについて喋らせていただいて、
その時に一緒にこのVoicyも収録させていただいたっていう縁なんですけれども、聞くところによると今、今学期って言うんですかね、大学の英語の授業でいいんですかね。で、サイモン・ホロビンの英語史の入門書を使っていると聞いたんですけども。
そうですね。The English LanguageというVery Short Introductionというシリーズになっているものなんですが、こちらをコード系の授業で使っているということですね。
それ半期で終わるタイプの授業?
そうですね。半期となります。
そうすると今6月も下旬に入りますけれども、だいぶ進んできたっていう感じでしょうかね。
そうですね。スタンダードとは何かというような章が真ん中のちょっとあるんですけども、その後ぐらいまできてますね。
はい。私も実は授業で同じ本を使っていてですね、ハードカバンのほうで少し前に出たものなんですが、中身的には変わってないっていうことで、これ3月か4月でしたかね、岡本先生と何かでお話したときに、同じテキストを使うんだっていう話になって。
はい。じゃあしばらく授業で使ってみた結果と言いますかね、またお話できると何だか面白そうですねみたいなね、そのまさに今日の雑談ということなんですが、学生さんの反応はどうですかね。
そうですね。やっぱり英語っていう言語の多様性っていったときに、まだなかなかいろんな影響があって英語っていうのは成立してるんだっていう、もちろんそれ歴史的な部分っていうのも驚くみたいなことはあるんですけど、
そもそもこのテキストの一番冒頭、What is English?というところの引用というのがありまして、それが今から250年ぐらい前の、いわゆるアミュール・ジョンソン博士の英語の辞書というものの中における英語という形容詞の意味というのが冒頭に書かれていまして、
それはイングランドに属する、つまり英語というのはイングランド人の言語であるということから始まっていまして、まずこれを学生が今どう思うかっていうところから始めていくっていうところがあります。
つまり、英語っていうのはどこの国の言語だとかっていう認識があるのか、そもそもイングランド人としての英語という認識や学生がどの程度今共通しているのか。
大体アメリカって出てくるんではないかとか、これは今初めて本当に授業の風景っていうか、この雑談でおしゃべりしたわけなんですが、私も実はスタートそこからで冒頭ですからね、引っ掛けやすいというか、1755年のサミュエル・ジョンソンの当時の辞書の記述によればイングランドの言語であるという言い方になるわけですね。
ジョンソン自身もかなり当然イングランド人といいますかね、そういうところは当時出会ってもあったわけですが、そこで著者のフォロビーは、現代はこれは通じないよねって言い方で議論を始めていく感じですよね。
確かに学生にとってみると今まで純粋なと言いますか、受験英語であるとか、日本での英語教育ですと一つの標準英語っていうのがあるんだよっていう風になりますよね。なので多様性とかダイバーシティとか、もう早速その手の用語がいっぱい1ページ目から出てくるわけなんですけれども、面食らうかもわからないですよね。
はい、今後冒頭がこれを皮切りに、やっぱり英語ってのは実はイングランドの言語ではもう早いある種なくなっているというか、だいぶ違った形で今、ここから約150年ですけども、変化してるよっていう点と実は、もっと1500年のスパンをやってみたときに、
そもそもそういう多様性っていうものを指すみたいなものが英語にはそもそもあったと思いますが、そういう発展の仕方をしてるよっていうのは大きな歴史的な言い方をこの最後のほうで提示してるんですけど、やっぱりこのジョンソンにとってイングランド人の言語であるっていう至極当たり前な定義が出て、今になって非常に何と言うかぶつけをかもせがない。
時代遅れと言いますかね。確かに250年前っていうと、すでにイングランドのみならずイギリスが世界に海外に展開し始めて、久しくアメリカ大陸もそうですし、アジア、アフリカ方面にも触手を伸ばしてきているというね。
だからセアニア方面へも進出しようとしているタイミングですかね。18世紀後半にかけてっていう。その意味で言うと確かに250年ぽっきりという感じなんですが、相当英語をめぐる状況が変わったというか世界化したって言いますかね。
一方で昔から実は多様ダイバースだったんだよっていうような話も展開しつつっていうことですよね。
だいたい私の学生も同じような反応を示して、多様って言われてもわからない。もちろん例えば黒人英語であるとかインド英語であるとかそういうものの存在は知っていても、どうしてこういうふうに多様になったのかであるとか、今話題になっているのかっていうことについてはね、なかなか深く考えたことはないかと思うので、
とても話題提供として面白い本だなというふうに思っているんですが、この先生の授業で様々な英語、現代のなんとか英語なんとか英語っていうのをゼミ形式で各学生に挙げてもらうみたいな試みをしているっていうのをチラッと聞いたんですけど、教えていただけますでしょうか。
そうですね。この本のやっぱり趣旨っていうのは、英語の多様性を尊重していくというか、変化変容みたいなもののある種、これは興味を示して、今後どういうふうな展望が開けるのかっていう。こういった変わりゆく言語変化とか言語文化というか、バナキュラーという言葉を使ったり。
まだ特権化されていないというか、そこまでメジャーではないかもしれない状況の英語っていう感じですね。やっぱり今学生に英語って聞いたときに、イギリス英語とかアメリカ英語とかオーストラリア英語みたいな、端的な国で作った英語っていうのが出てくるんですけど。
でもこの書籍などがいるっていうのはやっぱりそれ以外の、単なる国で作るんではなくて、例えば今テクノロジーが発展していて、そこでのメール英語とかですね。
英語の形態が出てきているということで、今後はそういった地域や国家、国、そういうのにとらわれないような英語ということで、バナキュラーな英語がどのぐらい芽生えつつあるかと思います。
なるほど。
ちょっと調べてきてくれるって言ったら、例えばドイツ語話者の人はどういう英語を話しているか。もちろんインドとかスコトランとかもそうなの。あとはアメリカ南部の地域の独特の英語とかですね。
あるいはハリーポッターが好きな人はハグリットという巨人の話す英語で、実はこれもイギリスの男性の方が使われている。こういったものを調べてきて、その英語を一つのバナキュラーな英語の一つとして位置づけるみたいなことをちょっとやったりしています。
バナキュラーの意義
ホワイトボードにその辺のどういう英語があるのかみたいのを書いて、中心にイングリッシュというものがあって、その周辺にも様々な英語があるんだよみたいなホワイトボードの写真を送っていただきまして、これは面白いなと。これはちょっと取り入れたいかもしれないと思って、同じような授業内容で参考にさせていただいたんですけれども。
今お話に出たこのバナキュラーっていうものについてお話さらに続けたいと思うんですけれども、よろしいでしょうか。
今バナキュラーという話が出て、大した打ち合わせもなく始めているので、本当に雑談でピンとキーワードに引っかかってしまったんですが、このバナキュラーってよく英語集でも使うと思うんですよね。
これいつもどうやって訳そうかなと思って、わからないので結局横文字でバナキュラーのって言って逃げちゃう時もあるんですけど、これどういうふうに考えますかね。
そうですね。やっぱり英語史とか中世の文脈で言うと、やっぱり英語っていうのは当時まだまだ辺境の位置、ローカルな言葉である中心にはローマの遺産であるラテ語というのがメインにありましたので、それに対する各地域での発展、発達していった言語ということで、
言われたからロマンス言語とか、その辺も全部中心と周辺と言いますかね、その関係で言うバナキュラーな言語ですね。
そうですね。私も中世の英語英文学の世界では簡単に言えばラテン語ではない言語って言いますかね。古典ギリシャ語なんかはもうちょっと権威のある言語の仲間かもしれませんが、それ以外は基本的に人々が普通に話してる言語ですよね。
がバナキュラーという言い方で、これ日本語にならないんですよね。ラテン語に対してそうじゃないやつぐらいのことなんですけどもね。これ先ほどの学生さんにいろんな英語を集めてもらったということで言うと、
現代の土着って訳すことなんかも多いと思うんですけれども、ローカルのとか、なんか地域ベースやはり土地に根差していて、地方とか方言という色彩が強いと思うんですけれども、先ほどのお話ですと少しそれを拡張させて、
例えばメールでの英語とかチャットでの英語とか、あるいはもう俗人的なっていうかね、ドイツ語を母語化したとする人の英語とか、ある意味何でも使えてしまう広がりを、このあたりを拡張についてどう考えますか。
今、市民の立命館の研究所でもバラキュラ文化研究会というのが立ち上がっている。そのときにこれで使わせてもらっているんですけども、やはりいわゆる権威みたいなものには保護されていなくて、日常生活に根差して言うという、主流的、主演的な意味はあるんですけど、
ただ常にそれは変化変容していくが、ためにエネルギーがあって、残っていくと言いますか、人々のパワー、発力の変容になるようなものを持っているという意味では、英語の今のバラキュラ英語というのは、その地域とかではすごく意味のある展開をしていると思うんですけど、
これが何と言いますか、一つの例えばオーズィとか、シングリッシュというのを言うかもしれないんですけど、その辺のちょっと知名度が増してきて、ある程度の威厳と言いますか、それを持ち始めると、実はもうバラキュラではなくなっている可能性がある。
なるほどね。なるほど。程度がありそうですね。この問題を考えるのに、バラキュラは先ほどの言い方と、オーソリティに保護されていないみたいな言い方で、とても的確な気がしたんですけど、形容詞としては何なんですかね。バラキュラに対してあんまりズバッと出てこないんですかね。
土着に対して、庶民の日常的なとか、それに反対の形容詞っていうのがなかなかズバッと出ないっていうか。ゆるく言うと、スタンダードとノンスタンダードとか、あるいは規範と非規範と言いますかね、記述と言いますか、
そんな軸ともある程度パラレルだけれども、なんかズバッとはまるもんではない気もまたするし、二項対立ではなくて、今のシングリッシュの話なんかのように、バラキュラから出たものだけれども、ちょっとずつ偉くなって、オーソリティの方に寄りつつある、中間的なものとか、割と程度なんだなっていうことが。
言語文化研究の進展
英語誌の話では、ラテン語かそうじゃないかっていうかなりデジタルな話なんですけど、今のこの揺れ動く英語の、世界英語の話題だと、ちょっとずつ登りつめてるやつがいるみたいな感じですかね。
これ面白いですね。新しい意味でとか、他の分野でも使われてるバラキュラであるとか、今プロジェクトでやられてるものって、基本的にはポジティブな意味合いを付してると考えて良さそうですよね。
そうですね。やはりこれまである種、光を当てられてこなかったり、あまり注目されてこなかったり。あるいは文学の文脈で言うと、古典みたいなもの。そこから漏れてるものというか、文字ベースであったり。
伝承とか神話とかってのはどうなってるのか。あるいは文学的なコンテクストで言うと、バラキュラっていうのは、いわゆる大学で学ぶっていう、キャノンみたいなものから外れているけれども、非常にエネルギーを持って、最新の中で。
ファンタジー文化はまさにそうだと思います。そういったものが大きく活力として、古典の見直しとかいったものにも一つ貢献していくんじゃないかと。
今のお話ですと、バラキュラの対極というか対義語に近いものとして、キャノンとか古典みたいな表現も出ましたし、対義語を連ねるとバラキュラって何のことかがだんだんわかってきたような気もするんですけどもね。
中間段階もあるっていう面白さとか。中間段階あるっていうのは、やっぱり活力があるという言い方をしましたが、変化があるからこそ、多様性もありつつ、一方でやっぱり威信を求めちゃうというような、そっちに寄っていく力もあるみたいな。
やっぱり古典っていうのはある。ある程度、もちろん古典の素晴らしさって言いますと、どういったものにも耐え得る時代を越えた不変的なものっていうのはあると思うんですけど、ある程度固定的な部分はもちろんあるっていう中で、バラキュラっていうのはですね、そこに対して強調はないかもしれないですけど、揺れ動くもの、変化するものみたいなものもポジティブに、単なる一家制のものかもしれないけれども、
それももしかしたら、何か新しい塗り替える力を持っている、変化に扱うという意味では、そのイングリッシーズの考え方、どういったものになるかなと。
おもしろいですね。今お話聞きながら、これもふと思いついたのは、スタンダードイングリッシーっていうのがあって、一方で最もブロークンな英語の一つと言われている、いわゆるピジンとかクレオールっていうのが最も底辺にあって、これがバラキュラの最たるもので。
ただ今、ポストクレオールコンティニョンみたいな形で上に寄ってきていると、ピジンもスタンダードに近くなってきて、真ん中ぐらいのレベルが、真ん中っていっても無数の中間点があるわけですけれども、それを社会言語学では一番上のやつはアクロレクトというギリシャ語の高いですかね。
下をベースですかね。真ん中ぐらいのメゾレクトとか言ってるんですけど、まさにクレオールなんかも文学と関係が深くて、どういうメディアを使って、どういう発信をしていくのかっていうことで、言語と文学の問題なんかによく出てくると思うんですが、それと本当にパラレルな議論だなっていうふうに感じましたね。
広く言語文化というか文学に含めて、そういったところで一つキーワードとなり得るものではないかと思います。
やっぱりスタンダードのほうってそんなには変わらないというか、あんまり変わってはいけないと言いますかね、固定的な傾向を指向すると思うんですけれども、一方で下のほうは、バナキュラーはエネルギーがあるだけに、いろんなベクトルも方向も力も様々な方向で、どうしても散逸するというか、そんな傾向ありますよね。
そうですね。
その価値みたいなものも評価されるかどうかとか、長期的に見ないとわからない点もあると思いますし。
そうですね。本当に打ち合わせなしの雑談みたいな形で、最後はバナキュラーになったんですが、結局バナキュラーイングリッシーズって今の話題のワールドイングリッシーズのお話にもつながってくるということで、大変面白かったんですけれども、今まさに今日話題になったバナキュラーに注目する何らかのプロジェクトをやってるっていうのも伺ったんですが。
多様な言語バリエーションの重要性
そうですね。立命館大学の国際言語文化研究所というところの一つのプロジェクト、バナキュラー文化研究会というのに私も参加させてもらってまして、新たな地平というかその観点から言語文化を見ようというようなことをやっております。
なるほど。これまさにワールドイングリッシーズの話と連携を取れる分野のような感じがしまして、私もバナキュラーちょっと注目していこうかなと思ったんですが、ホームページとかツイッターとかあります?
そうですね。
それURLをぜひこのチャプターに貼り付けておきたいと思いますので、皆さんも関心がありましたらぜひぜひアクセスしていただければと思います。
話したいことはいろいろ山々出てきたところかと思いますが、話談の機会にぜひあればということでよろしくお願いいたします。
本日は岡本博紀先生をお招きして対談ならぬ雑談ということでお届けしました。岡本先生ありがとうございました。
ありがとうございました。
岡本博紀先生との雑談いかがでしたでしょうか。サイモフォロビンの英語詞本について語るということだったんですが、それをある意味ネタにしてですね、最終的にバナキュラーという非常に面白い、そして本質的な話に今で及びました。
このバナキュラーという概念ですね。ワールドイングリッシーズ、世界英語を考える上でも、そして英語詞を考える上でも重要な用語なんですね。
重要な割にはあならしも広く理解されていない、あるいは訳語としても定着していないというところがありますので、そのあたりの問題を考え直すきっかけに私もなって話が止まらなくなりました。
岡本先生はバナキュラーに関する研究会にも所属されているということで、関連する情報をツイッターで流しているということですので、そちらのツイッターへのリンクもこのチャプターに貼り付けておきたいと思います。
今日も最後まで放送を聞いていただきましてありがとうございました。ご意見、ご感想、ご質問、チャンネルで取り上げてほしいトピックなどがありましたら、ポイシーのコメント機能、あるいはチャンネルプロフィールにリンクを貼っています専用フォームを通じてお寄せください。
それではまた。
コメントの紹介です。
昨日の放送385回で標準英語はどこの誰が話す英語のことなのという放送をお届けしましたけれども、こちらに質問者であるカミンさんからコメントをいただきました。
読み上げます。
取り上げていただきどうもありがとうございました。
フランス語の場合は参照すべき標準が確立しているのはいいのですが、正しいフランス語の権威が強すぎて、非標準的なフランス語、地域なまりなどを否定的に捉える風潮があるように思えるのが気になっています。
多様なバリエーションの存在を認識しつつ、その中で標準を模索していくのはスッキリしないところでもありますが、こういう英語のあり方のほうがよりまっとうであるように私には思えますというコメントをいただきました。
ありがとうございました。
カミンさんにフランス語、英語の比較対象をしながらですね、正しいであるとかスタンダードということが何なのか、これに対する見方への視察的なコメントをいただいたというふうに理解しております。
ありがとうございます。
これ、たまたまなんですけれども、今日の岡本先生との雑談で話題になったバナキュラリズムという話題とも深く関係する問題だと思うんですね。
その意味でこのコメントと言いますか、連日同じような関連する話題で連鎖しているっていうことにちょっとゾクゾクしているんですけれども、声で返答を差し上げたいと思います。
カミンさんは英語とフランス語を比較しながらですね、とりわけ英語に関するワリエーションであるとかバナキュラリズムということですかね、これについて理解を示されているというふうにコメントから理解いたしました。
私も実は応学としては、この現在の英語のおおらかさっていうんですかね、標準が決まっていない、ゆるくしか決まっていないっていうような形で、ゆるいままに流すっていう方針ですかね、これ全体として嫌いではないかなというふうに思っています。
一方で英語史を学んでいますと、この考え方っていうんですかね、が面白くも微妙な点があるんじゃないかなと思っていますので、それについて少しお話したいと思うんですね。
放送でも簡単に触れましたが、17世紀後半あたりから18世紀前半ですね、そしてジョナサン・スイフトでピークに達する、ある種英語でもアカデミーを作ってちゃんと英語を制定したい、標準語を作りたいっていう動きですね。
これが18世紀前半にスイフトあたりでピークに達するわけなんですが、結果的には挫折するんですね。イギリスとしてもアカデミーっていうものは是非とも作りたかった。フランスに追いつけ追い越せというイケイケのムードがありましたし、
英語の歴史と多様性
そして18世紀中にはですね、植民地戦争で英語がむしろ優位に至って世界語への布石を作るという世紀になるわけですから、ここ作っておいたらその後どうなったかなということをいろいろ歴史の威風で考えたりするんですね。
それがスイフトをはじめとして、何人かが17世紀18世紀とトライしたんですが、アカデミー結局できなかったっていうことがありますね。このアカデミーを支持していたアン王女がですね、創生したということも実は関係していて、いろいろと偶然も重なったのかなというふうに私は考えているんですけれども、結果としてその後、イギリスあるいは英語世界全般ですけれども、アメリカも含めて、
アカデミーを作る標準をガチッとある期間、公的な期間で定めるっていう方向性は諦めざるを得なかった結果、今こういった感じになっているっていうことなんですね。つまり結果として、英語はこの21世紀においても多様性を積極的、消極的に許容するということになってるんですが、これも結果論としてこれ以外、
方法がなかったからそうなっているっていう側面もあるんじゃないかなと思うんですね。積極的、消極的に許容をするというスタンス、これが今はですね、とりわけ割とポジティブに、この現代世界においてポジティブに牽連されているように思われるんですね。
つまり多様性の時代ですから、フランス語のように一つのものを正しいというものを定めて、それに従いなさいというような時代ではなくなって、英語ですらですね、いろいろありますよと、そのいずれでも良いですよというような、背後にはちゃんと批判に従ってくださいよという思惑もあるわけなんですけれども、
表向きはですね、多様性とかファナキュラリズムというものに理解を示すような時代になってきていると思うんですね。その流れに乗ってというのもあれですけれども、私自身もですね、いろんな講座で世界英語、ワードイングリッシスを持ち上げるようなですね、別に持ち上げてはいないんですけれども、こういう見方があるよという言い方をしてるんですけれども、
全体としてはやはりこうムーブメントに乗るような形で、様々な言語編集あってもいいんですよみたいな流れに一押しを加えている立場なのかなと思ったりもするんですけれどもね。
本当はイギリスだって18世紀にはアカデミーを作りたくて作りたくて仕方なかった。フランスの真似をしたかったっていうのが本当のところだと思うんですよね。ただそれができなかったがゆえに諦めざるを得ず、そして諦めた結果、19世紀、20世紀、そして21世紀まで英語はここまで世界的な言語になったにもかかわらず標準なしで、
いわば人々を投げる。よく言えば民主的っていうことですね。悪く言えばバラバラっていうことなんですけど、ここに投げたっていうことになってるんだろうと思うんですね。
この評価を別としますと、この点でイギリス、あるいはその言語である英語ですね、とフランス、あるいはフランス語は面白いくらいに対局の立場を取っているように思われるんですね。
本当言えば両方の方向性が大事なのかなと私は思っています。つまり標準とか規範というものがないと、そもそも通じ合う言語としての役割は果たすことができない。その価値が厳じるっていうことですし、教育においてはやっぱり何が正しいか間違ってるかっていうのがないとなかなか難しい。
特に外国語としての教育の場合ですね。正しい間違いがないと試験もできない、丸罰もつけられないっていうことになりますので大事だと思うんですね。だからといって標準化、規範化を過剰に押し進めてしまうと、和社個人、これは母語和社であれ非母語和社であれですね、和社個人の表現の自由度が厳じるっていう問題があります。
その意味ではやはりバランスを取るっていうことが最大限に重要なのかと思うんですが、たまたまイギリスとフランス、英語とフランス語っていうのは、このどっちを取るかっていうところでかなり対極的な方向に触れてしまったのかなというところが対象言語史的には本当に面白いところだと思うんですね。
第三者的視点からの言語学
一方、私であったりリスナーの皆さんもそうだと思うんですが、日本語を母語とする方が圧倒的に多いと思うんですね。日本人です。ある意味では、英語であれフランス語であれ、私たちは外国語として勉強しているって意味で第三者的に眺められるんですね。
ですので、英普通語であるとか英普通語史というのも、第三者的な立場から割と中立的な眺めることができる立場にいるんじゃないかなと思いますね。その意味でも対象言語史という、私が今売り出しているアプローチなんですけれども、この論点をついていただいたコメントなのかなというふうに受け取っております。
カミンさんご意見ありがとうございました。
39:47

コメント

スクロール