比較の概念に迫る
10日土曜日です。皆さんいかがお過ごしでしょうか。 英語の語源が身につくラジオheldio。
本日は、比較と英語史というやや抽象的なタイトルではありますが、
昨日に引き続き、まさにゃんとの対談という形で、 いわば連想ゲームですね。比較といったときに英語史絡みで何が思いつくか
ということをですね、 打ち合わせなしに話してみたという20分となっています。
昨日に引き続きまさにゃん登場ということで、楽しんで聞いていただければと思います。 どうぞよろしくお願いいたします。
まさにゃん、今日もよろしくお願いします。おはようございます。 おはようございます。はい、続けてということで、れんちゃんで
出ていただいているんですけれども、 昨日、ジーニアスエヴァ時点の第5判、6判、4判も含めてだったんですけれども、
統合の話題というか、いわゆる保分というね、SVOOを取れるのかどうかみたいな話で、
ギブ、プロバイド、そして最後サプライということでね、この話をしたんですけれども、 昨日やったことって
辞書の新旧版の比較っていうことじゃないですか。 で、これ
何をやってるんだろうって考えたときに、だから比較なんですけど、コンパリスンですよね。
で、これなんか我々面白くしゃべったじゃないですか。 喋ってて面白くて、どう聞いていただいたかわからないですけど、
これ考えたら、我々の分野っていうか、フィロロジーとかね、 あるいは英語史っていうまさに分野ですが、
他の分野もそうですかね、比較からなってますよね、ほとんどね。 どう違うか。
例えば、英語史の分野で比較というキーワードから連想する。 連想ゲームみたいなものをちょっとやってみたいと思うんですけど、
昨日やったね、辞書の版の比較っていうのはまず スターターですよね。昨日やりましたと。
ちょっと順番に言っていきましょうか。比較って何あります? 写本の比較。
英語史だとね、いろんなバージョンの写本があるからね。 印刷物が発達する前はそれぞれの写本を手書きだからコピーね。
同じ作品であっても、微妙に違う。 やっぱり人がやることだから、完全な機械みたいな写しはできないので、
ミスもあれば、あるいは意図的に変えるっていうのもあったりして、比較って。 方言が出たりとか。
そういうことね。ありますよね。 写本よく面白いですね。
じゃあ私なんですけど、これはやっぱり比較級。 ちょっと違う観点からいきますけど、比較級って形容詞、副詞あるじゃないですか。
これはね、英語史の話題というよりは広い話題ですけど、これもウォイシュにも話してきてますけどね。
ずっとね、疑問で、英語の学習すると絶対比較級とか最上級って、あれ何年生で勉強するのかな、今。
中二ぐらいですかね。ERつけたり、MOREつけたりっていうあれですよね。
あれすごく昔から不思議で、いまだに不思議なんですけど、 それが文法項目としてなんで含まれてるのみたいな。
比較級で語尾変えちゃうわけじゃない。ERとかEST。 日本語は別になくて、何々よりっていう表現だけでいいし、あるいはもっともっとつければいいだけで、
何語尾を変化するほどこだわってんのっていう。ずっと思ってるんですよ。 インドヨーロッパそごろね、基本で。
他の語族でも比較って大きいカテゴリーにはなってるんですけど、日本語では、
表現はもちろんね、よりとかもっともとか一番あるんだけど、別に語尾変化させないじゃん。
そこまで大きいことみたいな、ただの。
だから今日ね、比較を話題にしているし、やっぱりちょっとキーワードにはなり得るぐらい大きいことなのかなって。
人間、お互い比較するし、自分と他人とは比較せざるを得ないっていうか、生きるために。
そう考えると、ちょっとキーワードなのかなと思うんだけど。
比較言語学の重要性
ちょっと反則的な方向から企画にしましたが、他どうですか?
比較言語学。
これまさにね、英語史もここまでいろいろわかったのはやっぱりね、比較言語学のおかげなので。
比較言語学って何ですか?
比較言語学というのは、
例えば英語と絡みで言うと、英語だけじゃなくてフランス語、フランス語なりギリシャ語なりラテン語なり、そこら辺を
今厳選する文献などを見て、そういうのを比べて、さらにはその元々の大元の祖語、インドヨーロッパ祖語という
大元の昔のそれぞれ英語やイタリア語やラテン語や別れる前の大元の一つの最も昔のインドヨーロッパ祖語というのを再建する。
復元するというかね。再建って言いますからね。再び建てる建築の建ですけど、復元するっていうね。
だから比較して、結局元は一つなんだろうから、その元のやつを復元するために横並びのものを比較して
親はどういう姿だったのかみたいなのを復元していくね、というモンタージュみたいな作業なんですが、これが18世紀末に生まれて19世紀でもう全世紀を迎え、
その結果今英語がゲルマン系の言語であり、例えばドイツ語とかと近い関係にあるとか、いろいろな系統図が描かれてきたっていう意味で、
確かにまずそれが出なきゃいけなかったかもしれないね。英語でやってるからね、比較と聞いて。
確かに比較言語学で面白いのが、単語だけを見るとどの言語が英語と単語が共通しているかっていうと、圧倒的にフランス語と英語は単語の共通していて、
ドイツ語と英語、一方で例えばドイツ語と比べると、ドイツ語と英語で共通している単語よりもおそらく英語とフランス語で共通している単語の方が単語だけを見ると多いような印象を受けて、
そういう点では英語とフランス語って昔、すごい近い国なのかなと思うんですけど、比較言語学で知識を踏まえると、英語って本来はドイツ語の方がより近いんですよね。
翻訳と解釈の比較
なるほどね。
そこらへんの関わり合いとかもいろいろ面白いなと思いながら。
比較言語学ね。コンパラティブリングウィスティックスと言いますけれども、まさにね、この我々の英語知能分野で比較と聞いたら、その辺はね、必ず上がってくるんだろうなっていうところですかね。
あ、これまさに出してくれたんだっけ、今。
比較とするとね、シャフォン比較ってさっき出してもらいましたけれども、これちょっと専門的になっちゃう。エディション比較ってのがあるんですよ。
これ何のことかっていうと、例えば最近話題にしている、映画になったということで、グリーンナイト、話題になったということで、サーガウェイン&グリーンナイトというね、中世のロマンス作品なんですけれども、投印誌ですよね。
で、あれ、シャフォン比較できないんですよ。なぜかというと1個のシャフォンでしか残ってないから。
他の写しが、どっかで書かれたのかもしれないけど、少なくも減損してないんで、今我々にとっては比較しようがない。
ただ、この1つしか残っていないシャフォンをどう解釈するかっていう現代人の、現代の研究者の立場によって、いくつかのエディションというか看本が出るわけですよ。
そこに様々な叩点の違いとかスペリングの違い、つまり、元はマニュースクリプト、シャフォン1個だから、これそのまま再現すればいいんで、複数通りできるわけないでしょうと思うかもしれませんが、解釈によって、現代の研究者の解釈によって出てくる看本、いわゆる本人の形で、現代人のために編集されたものって結構違うんですよ。
面白いですよね。
なんでここカンマなのに、こっちのエディションでは、こっちではピリオドになっているのかとか、それで読みが、実はこのカンマかピリオドかで大きく変わってしまうってことはザラなんですよね。
この比較は、何の比較かっていうと、シャフォンの比較じゃないわけですよ。現代人の解釈の違いということで。
これ何の議論しているのかと考えると面白いんですよね。過去の一つしかないものをどう解釈するかという現代人の個々人の間の解釈の論争みたいな話なんですよね。
こういうことを英語史とかフィロロジー文献学の世界ではバリバリにやるんですよ。
今もうそれこそ、ザ・ガウェイナン・グリーン・ナイト読んでますけど、何時間かけて15行進むのよっていう感じでやってますよね。
全メディアやってますけど、それがすごい誠独してますからね。
めちゃくちゃ誠独、超誠独してますけどね。この辺は比較っていうことですけれども、これまだ続きそうですか?
これ次なんかありますか?比較で。ちょっと次のチャプターまで考えさせてもらっていいですか?
次のチャプターに移ります。
それでは新チャプターになりましたけど、次まさにあんの番ですね。比較って何かありますか?
ラテン語原点と普通の小英語訳の比較。
出た。確かにね。要するに言語間比較ね。同じ話題。例えば聖書とかですか?
そうすると、ヨーロッパで広く同時に用いられていたウルガタ聖書、ラテン語で書かれている聖書に基づいて、それを見ながら小英語の聖書、ウェスタクソンゴスペースなどそういうのは書かれたので、そういうところで言うとラテン語聖書と翻訳元の原点ラテン語と小英語を比較するということですね。
要するに翻訳ですよね。翻訳って比較ですからね。まさにね。
なるほど。それで単語レベルとか、例えばまさに言うのは文法レベル。
例えばラテン語から翻訳された小英語であると、この小英語本来の文法、その訳されたものが小英語本来の文法なのか、もしくは何らかこうラテン語原点の影響を何らか受けて、ちょっとラテン語的な小英語訳になっているのかとか、まあそういった議論もいろいろあると思いますが。
ラテン語の影響と比較の難しさ
そういうことね。ラテン語原点の言語の影響を受けて、例えば語順なんかが制御されていたりとか、単語はもちろんなんですけれども、それってやっぱり引きずられるってありますからね、原点のものにね。
どこまで引きずられているのかっていうことと、どこまで自立しているのかというところの際って結構見極め難しいんですけどね。
だけど比較っていうか、そもそも翻訳とか、二言語絡んだ場合、そもそもが比較だもんね、これ対応しているものって。
現代英語でもその分子構文で、独立分子構文って言うんでしたっけ、主語付きの分子構文。これなんかも英語史的には、ラテン語からの翻訳、ラテン語から小英語に翻訳して、そういうラテン語翻訳の影響によってこれが発達したんじゃないかという説も聞いたことがなんかあるような気がします。
そうですね。いわゆる独立脱獲とかね、ラテン語文法では言ったりするのが英語の主語付き、独立分子構文なんて言われたりする。まあそっくりなわけですよ、ある意味ね。ということは真似たのかという疑惑が出てくる。それとも独立して英語側で勝手に発生したのかっていう、この影響説と独立説って常にあるんですよ、どんな問題にも。
そういう意味ではね、比較って言っても、比較したからといってお互いに影響関係があるかどうかはわからなくて、似てるのもあっても、これ独立して同じ方向になったのかもしれないしっていう、だから比較しただけじゃわからなくてね、難しそうね。
なるほどね。いや、面白いですね。じゃあ私、比較、もうなんか尽きてきた感じがするんですけど、何だろうな。いや、ちょっと出てこない。比較ね、いつも比較してるから。
だから英語の話考えるとき、絶対母語の日本語っていうことは念頭にあってやってるから、ほとんど英語についてこうやって、それから日本語を媒介として、今は日本語喋ってますけど、英語の話をするときって絶対どっかで比較してるっていうか、つまり翻訳してるっていう意味では、もうすべて、この番組すべてが比較みたいな。
逃げましたけど、思い浮かばなくて、ちょっとバトンタッチしちゃおうと思うんですけど、そもそもまさには比較が好きっていうことから入ってるでしょ。別の機会に喋ったことありますけど、それを。
僕もなぜかこう、前回のボイスイデモスの辞書比較っていうのを話しましたけど、比べることがなぜか好きでして。フリックスのもともとは何かなと思ったときに、そもそも幼稚園の頃にはもう比べてたんですよね。
何を比べてたの?
これが三匹の小豚なんですけど、当時僕、なぜか三匹の小豚にはまりまして。三匹の小豚というと、普通の絵本とかお話しするでしょ。もちろんアニメ化もされてる。ディズニーもアニメ化されてる。もしくは、いろんなアニメでもいろんなアニメのバージョンがあったりとか、三匹の小豚といってもいろんな三匹の小豚の絵本なりがある。
これ、お父さんと話したりすると、他の三匹の小豚はないのかってすごい言われたとかって言って。
で、このクリスマスプレゼントで他のバージョンの三匹の小豚を買ったりしたり、すごい喜んどったぞって話も聞いて。
それは何が違うんですか?絵本だと絵のタッチが違うとか。
もちろん絵の感じも違うでしょ。
ストーリーは一緒なわけだよね。
絵が違ったり、絵本であれば文言が違ったり。
何なんですかね。僕もちょっと、何で小さいと言うか。
差分フェチなんだね。
何なんですかね。
差分フェチっていうか。
差分フェチ。
何でそんなことになったか、僕もよく分からない。
幼稚園の頃からやってるってなると思う。
遺伝子に組み込まれてるんだから、何か比べるのかっていう。
この分野確かに、それこそもう15分ぐらい喋ってるわけですけど、比較なんですよね、結局ね。
この分野だけじゃないかもしれない。
そもそもどの学問分野も、何かと比較しないと始まらないっていうところはあったりするんで。
それは、有名な話って、典型があったから聖書ですけど、絶対無数に差分出ますよね。
受け継がれていけば行くだけ、その分だけ絶対出るんで。
聖書面白いんですよね。それぞれの時代でいろんな聖書翻訳があって、それを比べるだけでも本当に言語の変化も見えれば、単語の選択の変化も見えたらと。
そうですよね。
その比較も面白いですね。
比較ね。これをテーマにすると結構大きいからな。
結局、人間って比較しちゃうもんだと。自分と他もそうだけれども。
あとね、ひとつ今思い浮かんだキーワードで比較っていうと、前のチャプターで言及比較級最上級で、何なのこれ意味がわからないっていう話を出したわけなんですけど。
これね、慶応大学の名誉教授で、千年亡くなりになられましたけど、鈴木孝夫先生。
鈴木孝夫先生がこの比較に関して面白い考察をしていて、いわゆる言及英語とかインドヨーロッパ系の言語で言うところの比較級でも最上級でもなく、普通のデフォルトの形ですよね。
これですら、慶応師であるからには、比較なんだとすべて。
これはね、目から鱗というか、象は大きいといったときに、これ言及なんですけど、言い方としてはビークですよ。
なんだけれども、これ結局話し手である人間から見て、自分より大きいっていうことが前提で、ネズミはちっちゃいっていうのは言及ですら、これ実は常に比較を伴っているんだっていう発想。
つまり、than myselfとか、そんな感じがあるっていう基本で、グレイダブルアジェクティブとか言いますけどね、いわゆる程度がある、大きいとか小さいとか、程度がある、いわゆる比較級になる、最上級になる慶応師のことですよ。
あれは、言及で使われたときですら、人間は何かと絶対比較してるんだ、という。つまり、すべては比較級。
これを聞いたときにね、そうだよなっていうふうに、すごい納得したんですよ。
象は大きい動物だっていうとき、これは、自分がね、象より大きい、巨人とかだったら絶対言わないし、むしろちっちゃくなるし、すごい相対的で、言葉って人間中心なんだっていう、当たり前すぎる話なんだけど、改めてその話で気づかされる。
人間中心主義の道具なんですよ。というね。
なんかコメントありますか?今思いつきで思い出して。
面白いですね。
そうそう。だから、比較級なんですよ。
言及というのは、もはや言及も比較級なんですよ。
慶応師で、グレイダブルアジクティブ、グレイドがある、比較できるって意味ですよね、グレイダブルってのは。
比較できる慶応師という名前がついてるぐらいなんだから、言及でももう比較しちゃってるんですよ、何かと。
英語史とパンクチュエーションの役割
大抵自分。
なるほど、はいはいはい。
than myselfというか、これはね、言語の本質とついていて、人間が使う道具だから、言語って。
人間が、つまりthan human beingsとかthan me、than myselfっていうのが、すべてにくっついてきてると考えると。
はー、なるほど。
すごく教訓的でしょ、何か。
はいはいはい。
はー、何かもう当たり前のように慶応師使ってますけど、その時は無意識に僕も使ってたんですけど、無意識に何か自分と比べてたんです。
そういうことなんだ。比べる生き物なんでしょうね。
比べる。
というのが今日のまとめかなっていう感じで、ありがとうございました。
ありがとうございました。
エンディングです。今日も最後まで放送を聞いていただきましてありがとうございました。
例によってまさにあんねんにはですね、今も残っていただいているんですけれども、
今日、比較と英語史という、その場で振ったような話題でね、20分話しまして、まあ面白かったですよね。
面白かったですね。
比較、なんとなくこれ、
比較と英語史のテーマに、出るか出るかと思ったんですけど、ひねり出せばいろいろ出るもんね。
そうそうそう、ひねり出さないと逆に出ないっていうか、だからもうやり始めたら20分喋ったっていうことなんですけど、
まあ面白い話になったと思うんですけどね。
そうですね。
えーと、どうですか感想は。
そうですね。
僕自身が最近もちょっといろいろとハマってるというか、英語史、小英語で言うと、
例えばそのベオルフ、小英語で言うと有名なベオルフがありますけど、あれも写本、写本は一つしかない唯一の写本ですけど、
エディションも多いですね。
多いですね。つまり解釈が一個しかないだけに、解釈が揺れ幅が大きいというか、
複数あると、そこを比較しながらきっとこういうことを言いたいんだろうなっていう考えたり議論する予知、材料があるんですけど、
ないと、要するに妄想の世界になるんで。
日本は一個なんですけども、やっぱりそのパンクチュエーションというかね、このコンピリオンなりが必ずその小英語とかの写本だと打ってなかったりしますよね。
そうなんですよ。先ほどの話で、たぶん我々は専門的にやっていて前提としていたかもしれないんですけど、
小英語とか中英語っていう古い英語は今のように句読点を打たないんですね。句読点、パンクチュエーションって言うんですけど、
これを打たないので、現代の読者のために編集・工程する際には、現代のパンクチュエーションを慣れている人に分かりやすいように、簡単に言うと現代化するんですよね。
句読点と文献学の影響
その際にカンマ打ったり、ピリオド打ったり、場合にはセミコロンとか打ったりするわけなんですが、そこの塩梅が現代化する研究者によって、それをエディターと言ってるんですが、によってだいぶ違うんですよね。
そうするとここで文が切れるとか言う場合と、いやいやこれ切れない、続くんだよって場合と、そもそも句読点を入れすらしないエディターがいたり、場合によってダブルクオーテーションつけて、ここはセリフなんですよとつけてくれるのもあり、いやこれはセリフじゃないからこんなのつける必要がないんだよとか、そういうレベルの論争なんですよね。
さらには写本に書いてある単語を、この写本にはこう書いてあるけど、この単語はおそらく間違ってるからこうだと、写本にある単語を書き換えて、エディターが書き換えて他の単語に移すことも。
そうですね、語彙語を書いた人の間違いだとかいう場合すらあるんですよ。
いろいろエディターの立場によってこれも変わるってことですね。
極めて小さい話だと思われるかもしれませんが、本当に句読点一つで読みがガラッと180度変わるっていうことはあるんですよね。
聖読のレベルを超えて超聖読ってやってると、結局そこに行き着くので、我々の授業でも3、4時間かけて授業しか進まないとかいう話でやってるんですけど、そこを議論してるからなんですよね。
これやっぱりバカにならなくて、特に聖書っていうと、建前上神の言葉なんで、一言一句どころか句読点一つで解釈が変わってしまうのって結構クリティカルなんですよね。
そういうある種伝統と言いますか、一言一句どころか一句到底に注意を払いましょうねっていうのが、ある意味文献学という世界の精神なのかなということですよね。
一言で言うと原文尊重とか、尊重する以前に原文は何を意味してるのかとか読みどころから始まって、比較になるんでしょうね。
一人一人考え方が違って、それを提示すると違うものが出てくるわけですよ。じゃあそれ、2人3人違うものが出てきたけど、これ比較して、じゃあどれが一番正しいというか適切な読みなのかとか、そういうことを復元していくということで、極めて精緻な作業をやってると思うんですよね。
いかがでしょうかね。
この英語史と比較というテーマでここまでしっかり考えてこなかったので、本当に充実した時間となりました。
比較ね、本当にね、なんとなく決めたテーマだけど、そういう方が面白いかもしれないですね。
面白かったです、本当に。
ありがとうございました。
このチャンネル、英語の語源が身につくラジオヘルディオでは、あなたからの質問、ご意見、ご感想をお待ちしています。
特に今回対談で、まさにもうね、なんか純レギュラーみたいな。
ありがとうございます。
来ていただいて、いろいろとね、語る機会も増えていますので、まさにあの絵のご質問とかね。
いいですか?
おそらく私の父からしか来ないと思いますが、万が一おられれば、ぜひコメントお寄せください。
ぜひいただければと思います。
それでは、今日も皆さんにとって良い1日になりますように、ほったりーちがお届けしました。
まさにゃんも一緒ということで、ありがとうございました。
ありがとうございました。
はい、また明日。