2025-11-26 58:05

#494. 英語に関する素朴な疑問 千本ノック(生放送回) --- Part 1

#heldio #英語史 #英語教育 #英語学習 #hel活 #英語史をお茶の間に #素朴な疑問 #千本ノック
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サマリー

英語に関する素朴な疑問の生放送では、さまざまなテーマが取り上げられています。特に、一人称主語の「愛」が大文字で書かれる理由や、現代英語で理解可能な古い英語について考察されています。このエピソードでは、英語の特定の表現や用語に関する疑問が取り上げられ、特に「Yesterday」と「Last Day」、「Her Majesty」とその意味について深く掘り下げています。また、固有名詞の大文字使用の歴史にも言及され、その背景が探られています。ポッドキャストでは、不定漢詩の特別な用法や対差の発音についての英語の歴史的変遷が議論されています。さらに、方言の起源や話し言葉と書き言葉の違いについても考察されています。日本語と英語における書き言葉と話し言葉の違いや発音の特徴について、歴史的な視点からも議論されます。また、さつまみかんの由来や日本語と英語の数字の呼び方の共通点についても探求されています。英語に関する素朴な疑問の生放送では、多くの質問が寄せられ、それに対する考察が行われています。

一人称主語と大文字の理由
おはようございます。英語の歴史の研究者、ヘログ英語史ブログの管理者、そして英語のなぜに答える初めての英語史の著者の堀田隆一です。
10月7日、金曜日です。いかがお過ごしでしょうか。 今日の英語の語源が身につくラジオheldioですけれども、昨日生放送でお届けした
英語に関する素朴な疑問〈千本ノック〉パート15のアーカイブとなります。 今までも、この英語に関する素朴な疑問〈千本ノック〉というのは回を重ねてきたんですけれども、昨日の生放送のものはですね、今までとシチュエーションが違いまして、大学の学生にその場で寄せてもらって疑問ですね、これに対してどんどん答えていくっていうことを
昨日ですね、10月6日木曜日の午前11時15分過ぎくらいから行ったんですけれども、思いつき企画だったので、宣伝等も先にしていなかったんですけれども、非常に面白い回になったと思います。そちらのアーカイブということで、今朝の放送とさせていただきます。
長めですので、ゆっくりと時間の取れるときにお聞きいただければと思います。質問の鋭さというのもですね、一緒に合わせてお楽しみいただければと思います。それでは行ってみましょう。
おはようございます。ホッタリュウイチです。
2022年の10月6日木曜日で、今11時17分ということになります。
前触れもなく、ボイシの生放送ということで、思いつき企画なんですけれども、これあの状況はですね、公開生収録、生放送みたいな形でやっておりまして。
学期が大学始まりまして、後期ですね、後半セメスターが始まって、第1週目ということで、慶応義塾大学ではそういうスケジュールなんですが、先ほどですね、英語誌の後期の授業の紹介が終わりまして、その後にですね、学生の皆さんに居残りしてもらいまして、
その場で、素朴な疑問を今寄せてもらっているという段階なんです。
スライルというウェブツールを使いまして、そちらですね、どんどん英語に関する素朴な疑問が寄せられてきているという、そういう状況で、1時間弱ですけれども、できる限り英語誌の観点から答えていきたいというふうに思っています。
早速、どんどん本当に答えていきたいと思うんですが、既に何十件か寄せられてきていますので、始めたいと思います。
まずですね、一番上からいきましょうかね。文中で一人称主語、愛を大文字にするのはなぜかということですね。
これは大文字の使い方っていろいろありまして、おそらく皆さんがよく知っている使い方は、文頭に来る場合には全ての単語は大文字であると。
それから固有名詞ですね。地名とか人名は大文字で書くということになってますね。
あとは、もちろん強調するときとか、いろいろな使い方はありますが、その中で妙なのは一人称主語、愛はどこにあっても必ず大文字で書くということになっているんですね。
英語史的には非常に面白い問題で、なぜかというと、小英語の時代から、別にこれが決まりではないんです。
小文字で書かれていた方が多かったのではないかなというぐらいです。大文字の時もありましたけれども、小文字で始まっているんですよ。
なので、最初からそうなんではなくて、歴史の途中から愛を常に大文字で書くというような慣習が出来上がってきたということなんですね。
なぜかというところです。これはですね、実はビジュアルが関係していまして、文字のビジュアル、字形の問題です。
これ、愛っていう私が一番偉いからとか、主語として、特にこの欧米の文化って言いますかね、ヨーロッパでは私っていうのは主張するわけですよね。
日本語ではあまり私とか僕っていう一人称は出ないんですが、そのような気の意味、文化的な側面があるのかと思いきや、全くそういうことではないんですね。
字形という極めて三分的な理由です。これ一文字で一単語なんですよ。こういう単語ってあまりなくて、例えばあがそうですか。
これ不定漢詞のあっていうのは一文字ですけど、他は省略記号でない限りそんなないんですね。ところが重要な単語なわけですよ、愛って。
一文字で書くけど重要。昔は、古英語でも中英語でも語間にスペースを置く、語と語の間にスペースを置くっていうのは必ずしも守られてなかったんですね。
くっついて書くっていうことも非常に多かったんです。特に愛なんか一文字ですから、周りの語に挟まれたりすると存在感すごく薄くなりますよね。
そこでこの愛を目立たせる必要が出てきたっていうことです。その方法としていろいろあったんです。点を打ってみたりとかね。
今、小文字の愛って点を打つでしょ。あれ目立たせるための点なんですよ。もともとあの点なかった。
ギリシャ語なんか勉強するとギリシャ語の愛に相当するアイオータ、イオータですね。あれ点ないですよね。あれが原型なんです。
なんだけれども、目立たせたいというようなところから点を打つ方法があったり、あるいは愛の棒の下をちょっと伸ばしてフックをつけてJっぽくしたり。
Jって愛から発生した文字なんですよ。だから愛の次にアルファベットの後からできた文字なんで、場所としては愛の次に置いてあるっていうことなんですね。
その他いろいろ試されたんですけれども、一番目立つのって大文字だよねということに落ち着いたということがあります。
なのでこれは意味とか機能というよりは文字通り文字の字形の問題で、たまたま大事な単語なのに一文字で済んでしまう。
済んでしまうってことは逆に言うと、他に周りにいろんな単語があるとその中に埋没してしまうっていうことで、目立たせる必要があったっていうことなんですね。
そういうことで大文字にする習慣が発達し、それが一種慣習伝統となって現代に至るということで、その程度の話題だということなんですね。
古英語と中英語の理解
これ固まったのは多分近代英語になってからですね。中英語の後期、近代英語になってからなのかなっていう気がしますね。
次、現代の英文法だと何世紀まで昔の英語が読めますか?
これいい質問ですね。
現代の英語については皆さん勉強してきて、例えば上級レベルであるとすると、これは近代英語は読めます。
近代英語っていうのは1500年から1900年ぐらいっていうことで、ただですね、シェイクスピア1600年ぐらいですけれども、シェイクスピアがすらすら読めるかっていうと、これはシェイクスピアが難しい。
シェイクスピアの書く英語は難しいからなかなか読めないだけで、英語としては実は読めるんです。
あるいは他にもっと3文で読みやすいものっていうのはあったりしますもんね。
この辺、読める読めないっていう場合に理解できるのか、それとも英語として理解できるかっていうのはまた別なんですけど、近代語の代表ってシェイクスピアなので、シェイクスピアから入ると近代語読めないっていうことになっちゃうんですが、それは近代語が読めないというよりは多分シェイクスピア特有の難しさみたいなものが読めないんだと思います。
なので1500年以降のはちゃんと読めます。
さらに遡って中英語はどうかということなんですけれども、中英語は1100年から1500年ですね。
この時代は我々にとってかなり難しめにはなりますが、ただ頑張れば手ほどきがあれば読めます。
しばらく慣れれば何とか対応できます。
実際、英語ネイティブの人は調査のカンタベリ物語、1400年くらいですけれども、この英語はやはり多少の中話必要ですけれども、何とかゴリゴリ読んでいくことができます。
我々もそのくらいまでは頑張ればできるっていうことですね。
ただ調査は中英語の中でも後半ですよね、1400年ということで、中英語の前半になるとかなり厳しくなってくると思います。
そして1100年以前の古英語です。古英語というのは5世紀半ばから11世紀までと、古英語自体が幅があるんですけれども、その最末期である例えば1000年とか1100年をとっても、これはもうまず無理です。読めない。
そのための独特の勉強をしなければネイティブでも無理です。全く歯が立たないと言っていいと思います。
ということなので、600年ぐらい今から遡った調査ぐらいはいけると思います。
たださっきのシェイクスピアの話と一緒で、調査は読めても同じ時代に書かれた別の作家であるとか詩人の作品は読めるかというと、それまた別問題ということですが、ゆるく回答しておくと600年ぐらいはいけるんじゃないかと。
頑張ればということですよね、それもね。
PronunciationとPronounceの違い
というのが私のこれは実体験みたいなところもありますけれども。
それでは次行きましょうかね。どんどんありますが3つ目ですか。
PronunciationとPronounceではなぜ綴り字が微妙に違うのかということで、これ細かい問題ですけど、これ問題というか気づいたというのが素晴らしいなと思いますね。
確かにPronounceに対してこれはO-U-N-C-Eという語尾になるんですが、Pronunciationという名詞形の場合はU-Nとなるわけですよね。
これはなぜ違うんだということで、これはなかなかいい問題ですね。
まず発音の問題と綴りの問題というのがあると思うんですけど、別々に考えて後で合わせるということで答えたいと思うんですね。
まず発音から行きましょうかね。まさに発音という意味の単語なんですが、動詞の場合はPronounceでO-Uという語尾ですよね。
いわゆる二重語尾と呼ばれているものです。
このO-Uという二重語尾は、4,500年遡った頃にはO-Uという発音だったんですね。Pronounceという発音だったんです。
PronounceではなくPronounce。このO-UがO-Uに変わってきたということなんです。
今は二重語尾って言ってますけど、O-Uだからね。400年ぐらい前はまだPronounceなので、超語尾だったっていうことになりますね。
ここポイントです。Uという超語尾でしたというところをまず押さえておいてください。
一方、名詞形のほうなんですけれども、これはPronunciationって今読みますけれども、その400年ぐらい前はPronunciationかな。正確に言うとPronunciationとかそんな発音だったんですが、つまり単語尾なんですよ。
名詞形はUという単語尾で、動詞形はUという長い語尾だったというところがポイントです。
それが結果的に、短いこのUの音は後にAの音になって、今Pronunciationになっているし、動詞の方のUの音はA-Uに化けたので、今Pronounceとなっているというのが、まず発音の変化なんですね。
つづり字のほうは変わっていないということでいいのかな。Pronunciationという短い母音を表すのに、母音字1文字で賄ってるわけですよね。
それに対してPronounceという長い母音だったから、対応する母音字、書き方も2文字使おうということでO-U。
当時Uを表すのにU-UというよりはO-Uというのをよく使ったんですね。今でも結構残っていると思います。
という流れがありますね。
他に類例としては、アバウンドってありますよね。飛んでいる、豊富なという動詞ですけど、これの名詞形はアバンダンス、あるいは形容詞アバンダントっていうのも同じように動詞ではO-Uだけれども、名詞形容詞ではUになってますよね。
他にも探すとあると思うんですよ。Uに対してU-Uという母音でいうと短母音長母音の違いっていうのがあって、それを正確に表していたのがこの綴り字だということで今残っている。そんな説明になりますかね。
ちなみに何で超短と分かれちゃったのかっていうと、すごく大雑把に言うとPronunciationとPronounceに後ろに変な語尾をつけて名詞を作ってるわけですよね。
当然、発声語なんで長くなるわけですよ。後ろに設備字つけるので。なので、全体的に長くなりすぎるのを避けるためにA単語ってどこかで調整するんですよ。あまり長くなりすぎないように。
そうすると既存のUという長母音の部分をちょっと短くするっていうことによって、少しだけですけどね、長さを節約することができるっていうことで、全体の長さが長くなっていくと、つまり発声語ですよね。
発声語になるとどこかの部分の発音が短くなるっていうのは、これかなり一般的な傾向です。
英語表現の考察
Abound、Abundanceも一緒です。その辺りを合わせて考えると、この謎が解けると思います。これは気づいたっていうのが素晴らしいタイプの質問だと思います。
次、なぜLast DayではなくYesterdayなのかという質問ですね。これはTomorrowもNext Dayでいいではないかということで、それで十分意味わかるじゃないかということなんですが、特別な単語が割り当てられているっていうことですよね。
これはどう答えますかね。特別な単語が割り当てられているYesterdayみたいな場合に、それを分析的にっていいますかね、2語に分けてLast Dayみたいに表現するので、同じ単語が表現が2つあることになりますかね。
まず、教授的な答え方としては、レクシカルブロッキングって言うんですけど、既に先にある単語が根付いてしまっている場合には、他が参入できないっていう考え方ですね。
例えば、形容詞にunを付けるとひっくり返りますよね。意味が反転するっていうことなんですが、じゃあgoodの反対はangoodでいいじゃないかと。
とてもよくわかるんだけれども、先にbadっていうのがもうあるわけですよ、ズバッと単語が。なのでangoodっていうのが後からできても参入できない。
badのほうが根付いてしまっている。こういうのをレクシカルブロッキング、新しい語彙ができるのをブロックする、既にあるからっていう理由ですね。
これ、完璧な理由でも全くなくて、だったらじゃあ永遠に新しい単語が古い単語を置き換えるっていうことはなくなっちゃうじゃないかっていうことなんですが、実は英語史では無限に起こってきてるんですね。
なので強い説明原理でも全くなくて、ある種の今回も言い終わりなんですけど、そういうことがまず一つ言えますかね。
ラストマンスとか、ラストイヤーという言い方はあるわけですが、イエスタマンスとかイエスタイヤーっていうのは昔はあったんですけどね。
古くは使われたんですけれども、同じ意味を表すものが全く同一の意味を表すものが2語あるっていうのは不形在っていうのが一つ背景にはあるのかなと。
レクシカルブロッキングであるとか、それとどっちが先かとか後とかいう問題になりますので、これは一つ一つの単語の歴史をひも解いていったりして考えていくことなのかなと思いますね。
威厳の表現
簡単には答えられない質問でしたが、次ですね。
エディザベス女王関係のニュースでHer Majestyという言い方を聞いたが、どうしてマジェスティだけではいけないのだろうかっていうことですね。
Her Majestyって確かに言いますね。
今は国王になってHis Majestyという言い方になりますが、これは何でHerがついているのかということなんですけれども。
意味を考えると、陛下とか国王、女王というふうに訳されるマジェスティなんですが、もともと考えてみると、これマジェスティっていうのは威厳という抽象名詞ですよね。
人を表す名詞では決してなくて、マジェスティですから威厳ということなんですよね。
極めて抽象的な抽象名詞ということになります。
つまり、彼女の威厳。
彼女っていうのは本当は女王のことを指していて、その女王が持っている威厳という言い方で、実際彼女が務めている女王という役割を表すというような一種のメトニミなんですけれどもね、抽象的な言い方です。
マジェスティをそのまま陛下とか女王というふうに捉えてしまうと、Herが余計なように見えるんですけれども、
あくまで彼女の威厳、あるいは彼女という威厳そのものという言い方で、実際に非常に抽象的な言い方なんですが、それをもってその人そのものを指すということですね。
役職名がその人を指す言葉になるって普通だと思うんですよ。
日本語でもね。何々長という、課長とか部長、社長というのも本来はそのポジションの名前なんですが、そのポジションについている人そのものも表すように普通意味って発展するわけですよね。
これはメトニミと言いますけれども、マジェスティだと単なる威厳になってしまって、誰の威厳なのかわからないということなんですね。
なので、目の前に例えば女王陛下、国王陛下がいたら、これはYour Majestyなんですね。目の前だからYouに決まってるんですけど、Yourはやっぱり必要。
あなたという威厳、あなたの威厳という言い方をして敬意を表してるっていうことなんで、ここでは常に大名詞の所有格ですか、これが必要ということになるわけですね。
ちなみにYour MajestyっていうときのYouっていうのは継承のYouなんですよ。
古くは座右と右っていう二つの系列がありまして、座右っていうのは自分と同じか低い人に使うと。お前って感じですかね。
固有名詞のルール
それに対して右っていうのは継承、敬意を持ったあなたという呼び方で区別されてたんですね。
それが座右と右が分かれてたんだけれども、近代以降に全部右一辺となってしまいました。
身分関係なくとにかくYouと言っておけばいいっていう言語に英語はなったんですが、このYour MajestyっていうときのYourっていうのは、
明らかに古い時代の継承、敬意のこもったYouの意味合いって言いますか、敬意を引いてきているということですね。
今となったらもちろん分からないんですが、流れは引いているっていうことです。
それでは次。
なぜYouは単数複数両方に使えるんですかということですね。
先ほどもお話になりましたけれども、本来は単数複数っていうのは二人称でも区別されていたんですね。
小英語ではきっちり区別されていましたし、中英語でも区別されていました。
それがなぜですね、Youってのは本来複数の方なんですね。
複数の方で、つまりあなたがたという意味にしかならなかったのが、今一つ前の質問にも関係してきますが、
敬意を表す場合には単数でもYouを使っていいっていう特例が出てくるんです、中英語ぐらいから。
本当は複数のあなた方を指すための専門の単語だったYouが、敬意を示す一人のあなたにも使えるという特例的な使い方が出てきたんですね。
これはなぜかというと、これだけで実は数十分かかっちゃったので、
簡単に言うと、すでに大陸のラテン語とかフランス語でそういう言い方が発展してきたので、英語も真似たっていうことです。
12、3世紀ぐらいのことです。
一人の偉い人に対しては、本来複数形であるYouも使えるよということになりました。
ところが先ほど言ったように、敬意という発想がだんだん近代期にかけて薄れていくので、
相手が目上か目下かによってYouとTheを使い分けるみたいなのがなくなったんで、
ある意味なし崩し的に、Youが敬意を持った一人のあなたというものだったところが、
敬意の部分がそぎ落とされてしまって、とにかく一人でもどんな身分の人でもYou使っていいよということになった。
そうすると、元からあった複数形のYouの意味と、後から参入してきた単数形で、
ある場合だけ使っていいよっていうが、なし崩し的にすべてYouで一辺倒になってしまったということなんですね。
現代、実際は不便なので、単数、複数分けないと。
複数のときはYou guysとかね、You people、You allとか、You onesみたいな言い方で複数形を示すインフォーマルな言い方っていうのは、
これは英米だけではなく世界中で使われるようになってきているっていう、そんな事情があります。
だから現代英語でもまた新たなサイクルが始まっているっていうことですね。
単複の区別をつけようと。
これなんかもう歴史的に理解すると非常に面白いですよね。
今起こっていることって、やはり昔起きてきて積み重なってきちゃった問題、不便なものを今解消しようとして新たに動き出しているっていうことなので、
まさに歴史を感じる面白い話題だと思うんですね。
それから固有名詞。
先ほど愛を常に大文字にするっていう話でしたけれども、固有名詞の頭文字を大文字にするっていう習慣、これ自体は何なのかっていうことですね。
これも小英語の時代からは必ずしも大文字で始まってないんですよ、固有名詞も。
始まっていることも多かったんです。
つまり絶対のルールじゃないってことです、今ほど。
固有名詞ですね。人名とか地名が基本だと思うんですけれども、これが小文字で始まっているものもかなり多かったんですね。
同じ人が書いていてもあるときは小文字、あるときは大文字っていうような感じで。
完全に決められたルールではなかったっていうことです。
ただ大文字化すると分かりやすいっていう発想自体はあったのは確かです。
これが一種の傾向ぐらいのものだったのがだんだんとルール化されてきたっていうのが、やはりこれも中英語から近代英語にかけてかなというところですね。
一つは他の名詞、一般の名詞とか単語とやはり違う存在ですよっていうことを明示するっていう目的はあったんだろうということは考えられますね。
これは多分英語だけでなく、エジプトのヒエログリフなんかありますよね。
あれ王の名前であるとか大事な人の名前をまるで括るんですよね。
他より浮き立つようにするっていう。
やはりこういう名詞っていうのはただの言葉の部品というよりもむしろ外の世界とつながっている一種の存在なわけですよね。
なのでやはり言葉上の役割っていうのが違うということは、
そらく広く言語で見られるんではないかなと思われますね。
特別な単語だと。
面白い話ね。
地名もそうなんですけど、東京っていうのは日本語かって言われると、これ語源は確か日本語だということはわかるんだけれども、
これ国際的に通用するわけですよね。
その意味を知らずとも、東のEast Cityのことだと知らずとも、こういう名詞だから意味がないんですよ。
意味があるわけではなくて、それを指すってところにポイントがあるという点で、
他の単語とまるで特徴が違うんですね。言語的特徴っていうのは。
鈴木さんっていうのはベルトリーって訳さないわけですよ。
意味がポイントじゃないから。
鈴木という名前が重要なので、これは何語で喋るときも鈴木なわけですよ。
ということなんですね。
こういう名詞って実は言語の中にあるものでなくて、言語外の存在なんではないかということで、
言語学でも扱いがですね、かなり違ったものに。
だからこういう名詞学っていうのが一つあるくらいですね。
そこと多分今回のこういう名詞はなぜ大文字なのか。
やはり独特な特別な卓越っていうのかな。
何らかの方法で卓越を与えたいというところがあるんではないかと思われます。
次ですね。英語の熟語についての疑問ということで。
かつて、あ、プラス時間で、何年月ということですね。
10,000 yen an hour みたいな時給の話とかに月という意味になると習いました。
例えば、I eat two apples a day のような表現です。
この熟語の起源が知りたいですということで。
このあというのは確かに不定漢詩で、日に月っていうことなのでね。
1という不定漢詩のように見えるんですけれども。
これ確かですね、前置詞なんですよ。
つまり不定漢詩のあではないっていう。
on あたりが弱まったものです。
on とか in とか、だいたい on なのかな。
これが弱まってあになってしまったっていうことで、
n が取れちゃって、しかも母音が弱まる。
なるやつですね、on。
他にもたくさんあって、例えば arrive とか、
何でもいいんですけど、along とか aside とかありますよね。
あのあって on なんですよ。
あれが短くなったもので、
arrive っていうのは on life とか in life ぐらいの意味で、
不定漢詩と発音の歴史
生きているという意味なのはそういうことですね。
あに縮まってしまうということですね。
あという曖昧母音に集約されてしまうっていうのが非常に多いです、英語では。
これの on day とか in day みたいな言い方で、
ただ事実上、この a day になると1日に月って意味なんで、
1という不定漢詩の意味と重なりはしますよね。
なので、この語源を知らないと、
やはり不定漢詩の特別な用法なんだというふうに見えるんだと思います。
辞書なんかでも、英語話辞書なんかでも、
そんなふうに出てることが多いのかなと。
不定漢詩の特別用法ということですね。
これは、これで教示的に理解できる説明だと思います。
ここでは英語史的なという言い方、通じてきな説明ということで述べますと、
実際にはこれは不定漢詩のあではないんだということになります。
改めて言いますが、不定漢詩の特別な用法だと辞書にあったからといって、
それが間違いだと私は思わないんですね。
間違いというよりも、違う説明の仕方だと。
2つ、教示的な説明は不定漢詩とやっておいて、
特に何も問題がないと思うんですね。
一方通じてきなというふうに限定すると、
これは不定漢詩あではありませんという回答になります。
そういうことです。
次なんですけれども、カーナル、対差ですね。
コロネルというふうに書く、C-O-L-O-N-E-Lと書く対差の発音に
Rが含まれている理由ということですけれども、
これL書かれていますが、読まないわけですね。
読まないばかりか、実際にはカーナルのように、
特にアメリカンだとRの音色が聞こえてくるんですね。
つまりRだったらわかるのに、なんでLということですが、
これはですね、確か時代は忘れましたけど、
中英語から近代語にかけての時期に、
Rで綴る単語、この同じ意味です。
同じ意味であったんですね。Lもあったんです。
英語の世界だとLとRって絶対違うっていうことになっていて、
それに引き換え日本語ではLとRの区別、両方とも裸行でひっくるめてしまうんで、
だから聞き取るのも発音も下手だっていうことに、
日本語母語話者になってるわけですよ。
LとR気をつけましょうねと言われるんですが、
実際は音声学的に言ってもLとRやっぱり似てるんですよ、明らかに。
英語でもひっくり返ったり、RがLになったりLがRになったりするっていうことは
すごく多いわけではないんだけど、
実は探せばそこそこは出てくるんです。
なのでこれは騙されてはいけないんですね。
似てる音っていうことは間違いない。
だから我々が間違えるのは当然というスタンスで私なんかいるんですけれども、
これが一つの例なんですけれども、カーノーというようにRで綴られていたものもあるし、
もう一つ似たような例はコリアンダーってありますよね、ハーブ。
コリアンダーもRだったりLだったり揺れてきて、
今は標準的なものとしてRでまとまってるんですが、
割とこのLとRの揺れっていうのは古くあるんです。
両方使われていたみたいな。
ここでのポイントは後にどっちかに修練はしていくんですよ。
標準的なものはどっちかっていうことで選ばれて、
もう一方のほうは消えていくわけなんですが、
この単語に関しては発音と綴り字で採用されるものはチグハグだったっていうことですね。
綴りはLのほうが代表として残ったんだけれども、
発音のほうはRの系統をずっと引っ張り続けて今に至るということなんです。
なので、もともと両方あった。RもLもね。
両方の語形があったんだけれども、
後に標準化する際に綴り字はLのほうで、
そして発音はRのほうで独立して標準に採用されてしまった。
そして我々が今、発音と綴り字を付け合わせてみたら反対だったねという、
こういうオチなわけですよね。
こういったものは英語詞の中で例は、
これもじゃんじゃんあるわけではないんですが、そこそこあります。
とてもいい例を出してくれたなと思います。
英文法の確立と変化
次、現代で使われる英文法はいつごろ確立されたものなんですかっていうことですが、
これはですね、文法ってまさに英語詞詞を勉強するとわかるんですが、
徐々に変わっていくんですね。
あるとき学と結構変わるっていうタイミングもあったりするんですが、
基本は一夜で変わるものではなくずっと続いています。
どこからが現代英語かっていうのは難しいんですよ。
例えば1800年といったらですね、
じゃあ1799年の英語は急に現代英語の文法と違うのかっていうとそういうわけでもないし、
ある特定の年とか日に何か様変わりするわけではなく、徐々にっていうことなんで、
これどこまで遡ればいいのかっていう話になって、
ある意味ではこの英語詞の始まりからずっと続いてますので、
そこから確立してるんですよと。
ゆっくりと変化してきたんですよっていう言い方なんですが、
多分ここで質問してるのは、今我々が勉強しているいわゆる英文法の決まりとか規範みたいなものが明示的に、
明示的に教科書みたいな形でバシッと決まったのはいつかというような質問と解釈すると、
それはですね、およそ今から250年ぐらい前と言っておきましょう。
本格的な英文法書が書かれた、そして一般に広まっていった年代が18世紀半ば、1750年ぐらいですね。
この辺りから現代の英文法書に書いてあることですね、
に直接つながるものがもうすでに現れてます。
その辺りがベースとなって、多少付け足したり改訂があったりしましたが、
ベースになっているのはこの18世紀半ばにできた、書かれた英文法書が元になっているということですね。
18世紀は規範文法の時代と言われて、
本当にいろんな人が知識人がこぞって自分がこれぞと思う英文法書を出すっていう時代だったんですよ。
専門の文法家とか言語学者ってまだいない時代ですので、
それこそ名立たる人物ですね、
ジョセフ・プリーストリーなんていう化学者、化学者で名前を外せて、酸素を発見した化学者なんですが、
この人も文法書を書いてるっていうぐらいで、
知識人が参入してくるような、そういうブームがあったんですね、英文法書。
その時に大体原型が作られ、その後、
それをベースに受け継がれて、我々の知る学校の文法であるとか、
いったものになってきていると。
なので、ズバッと答えれば、250年くらいというふうに言っておきたいと思います。
次、三人称単数としての税の今後は、シンギュラー税のお話ですけれども、
今後ですね、これはわからないですね。
先ほどUの話もありましたが、
単数、複数って本当は区別したほうが便利なのに、
同じUになってしまってる。
だけどやっぱり不便だと感じるから、U guysみたいのが出てきて、
単数と複数、やっぱり分けようよという流れになってきてるわけですよね。
それを参考にしながら、今後のU、シンギュラー税ですか、これを占うと、
税が単数なのか複数なのかというのがわからなくなるという可能性が
今後増えてくるわけですよね、機会として。
その不便さという問題が一つありますかね。
例えばですね、それが主語になったとき、
B同士は何になるんだろうかという問題がありますね。
これがthey areなのか、they isとあればまだ区別できる。
they areとthey isで違うということで、
複数のことを言ってるのか単数のことを言ってるのかということですね。
ここにもかかってきている。
これも論点として重要かなと思いますが、
Uに関しては、URで単数も複数も変わんないんですよね、B同士が。
U isではなくて。
ところが18世紀からさっきの規範文法の時代ぐらいには、
特に過去形でU wasとU wereで区別しているということもあったんですよ。
これがあれば同じUでも、一応このwasとかwereの部分で区別ができるということなんですが、
これが結局今では使われなくなってURですよね。
不便な方向に来ているのがUということです。
こんな事例も考えつつ、
これから中長期的に税というのが、
この単数の税がどのぐらい定着するのかということは考えるための論点としては、
その辺があるかなという感じですね。
ただ別にUと同じような歴史が繰り返されるということは決まったわけでも何でもないので、
税は税で独立した現象ですから、
どれだけ参考になるのかも分かりません。
今後については分からないですね、私も。
皆さんも考えていくといいと思いますし、
結局使われる中で語法用法というのが定着していくので、
まさに英語話者である皆さんね、
英語母語話者ではないかもしれませんが、
英語を使って世界でコミュニケーションをとっていく、
皆さんのこれからの使い方ということにも依存するのではないかというふうに
私は考えています。
方言と話し言葉の特徴
次ですね、方言はなぜ出てくるのだろうか。
これはかなり本質的な問題ですね。
これですね、私もいろいろな回答というか答え方を
試みてきたんですけれども、一番当たり障りのない、
そして一言で済ますのであれば、こういう言い方ですかね。
言葉とは文化であると。
例えばファッションとか食べるものとか、何でもいいですね。
葬式の仕方とかお祝いの仕方みたいのが地方ごとに習慣があるように、
言葉も文化なのである。
そうすると言葉も地方ごとに違ってくるのは当たり前だというような言い方なんですが、
これでは納得しない人も多いかと思うんですね。
言語学的にはいくつか考え方があります。
ここでは短く済まさなければいけないので、一つだけ言います。
どんな言葉も必ず変化するということ。
これがまず大前提で、
そしてある言語が二つのですね、
集団、話者集団に分かれて、
お互いが違う場所に移住したりして離れていくと。
そうするとどっちのA、Bと分かれたどっちの言語も時間とともに変化をするんだけど、
その変化の方向がピタッとパラレルに一致するっていうことはむしろ珍しいので、
その分だけ、その差分だけ少しずつ変わっていくっていうことです。
なので表現がなぜあるかっていうと、
表現がなぜ存在するのかっていうのは境地的な現象なんですが、
それを説明するのにやはり通時的な観点が必要だと思うんですね。
常に変わるんだということです。
そして分かれた後、それぞれが変わり続けた結果、
全くパラレルに変わるってことはあり得ないので、
その差分だけゆっくりとですが離れていく。
その結果、なれの果てが今我々が目にしているそれぞれの方言なんだという答えですね。
こんなほんと簡単ではないんですが、一応。
次ですね、方言の話から、
英語における話し言葉と書き言葉の大きな違いは何かということですけれども、
これ何でしょうかね。
話し言葉と書き言葉、英語におけるってことですよね。
一般論として言語において話し言葉と書き言葉っていろいろ違うんですけれども、
英語でのその違いの特徴みたいのはありますかというふうに解釈、
この質問をすると、日本語と比べるのが分かりやすいですかね。
これも歴史的な観点から言いますと、
英語は話し言葉と書き言葉、確かに違うんですけれども、
日本語と英語の言語的特徴
媒体、メディアが違うんで、当然いろいろ違いが出てくるんですが、
比較的という言い方をすると近いんですよ。
なので、歴史的に見ると大きな違いは何かというよりは、
他の言語に比べると違いが小さいですよね。
それはなぜかというふうに私は問いたいと思うんですね。
日本語は今でこそ結構近いです、話し言葉と書き言葉。
近いっていうのは、これは何でかというと、
いわゆる言文一致っていう運動が明治時代に起こったからです。
それ以前、皆さまの古文で勉強したと思いますが、
いわゆる江戸時代まで、そして明治の中盤までは、
例の漢字ばっかりの、そしていわゆる漢文訓読体ですよね。
非常に話し言葉から隔たったものが書き言葉として使われてきたと。
大雑把に言えば、平安末期の文法とか語法みたいなものを、
そのまま書き言葉では受け継いできた。
話し言葉はどんどん変わって近代化、現代化していったのにということで、
あの時は日本語、書き言葉と話し言葉の差はマックスだったと思うんですよ。
明治時代の言文一致が起こる直前まで。
これマックスで恐ろしく異なっていた。
それが言文一致の手、ぐっと近づいた。
今、それを我々は書き言葉として、
だから割と話し言葉との距離は近いっていうことです。
それなりにもちろん違いあるのは当然なんですが、
そういった日本語の歴史を参照ポイント、比較ポイントとして見ると、
英語は割と寄り添ってきたんです。
話し言葉変わればその分、書き言葉もそれに寄り添って変わってきたので、
常にこの2つのメディアの関係っていうのは離れすぎたことはないんですね。
日本語ほど。
なのでこれが意図しているっていうか、望んだ答えかわからないんですけども、
英語における話し言葉と書き言葉の大きな違いはっていうところで、
一般論として話し言葉と書き言葉の違いっていろいろ言語学的に言うことはできるんですが、
今のような歴史的な観点から言うと、実は近いんだよというくらいの回答になるでしょうか。
数字の呼び方の違い
次です。
Multi、Anti、これはMultiとかAntiっていうふうに読んだりもするんですが、
これはどっちなんだっていう話ですね。
Iと発音することがあるのはなぜですかということで、
アメリカではMultiとかAntiっていうことが多いんですかね。
イギリスではということなんですが、
ただこれ個人差もあったりして、結局両方ありっていうことだと思うんですね。
これは窃盗時なんですけれども、
それぞれMultiっていうのは複数、複なんとかっていうときですね。
Antiっていうのは半なんとかって訳すと思うんですけれども、
窃盗時の割には意味がちょっと強いんですよ。
強いって言いますか、しかも二音節でしょ。
なので、普通例えばAnとか否定のAnとかInとか、
ちょっとしたものが多いんですよ。
ByとかReとかReみたいな、一音節で終わるものが多いんですが、
割としっかりと二音節あるし、意味もその分しっかりしている感じがあるっていうことなんですね。
なので、ある種発音上の卓越を与えたいっていう場合に、
その二音節目のIで表される部分をどう発音するかということで、
個人の癖、慣習もあると思うんですが、Multi、Antiというものも
割と一般的なのかなということですね。
これは本当に単語によっても違ったり、人によっても違うかと思いますので、
一言では、一筋縄ではいかない問題かなと思いますね。
はい、そのぐらいになってしまいますが。
次は、数字の呼び方で、1、2、3、1、2、3などは全く違うのに、
日本語と英語で共通して、ゼロはゼロと呼ばれるが、
これはどこからこの読み方が来たのかということですね。
ゼロの場合、0という言い方もありますので、
一致しているわけではないと思うんですが、ゼロとも言いますよね。
例とも言うけれども、英語由来のゼロというのも日本語でも普通に使うという
ある種の慣習の問題ですかね。
数字の問題は、多言語社会なんかだと、英語はそのうちの一つの言語であるという場合なんかだと、
例えばマーケット、市場なんかに行くと、数に関してだけは英語を使うみたいな、
社会もかなりありますよね。
やはり市場にとってお金、市場だけじゃないんですけど、
お金とか数という問題は非常に重要なので、
ここは最低限誤解がないようにというプレッシャーは、人間社会で働くようですね。
これは私もいろんな国、いろんな言語文化圏で行ってきましたけれども、
割と市場で交わされる数字というのは、英語がマルチリンガルの一つの言語になっている場合には
1、2、3みたいな言い方で統一するというか、そんな力が働きますかね。
他わからなくても、数字、ここだけは統一した、しっかりした、いわゆる度量項ですけれども、
統一してなんぼというのがこの度量項とか、その背景にある数字だと思うんですよね。
そんなところは関わってきているのかなと。
ただ日本語は完全に独立した言語ですでに、数字の読み方がありますので、
そう簡単には、他の言語、例えば英語が参入するということはないのではないかということですね。
カウントダウンぐらいは、10、9、8とか言いますけど。
0はちょっと特殊な感じなんですかね。
昔からあった数字ではないというかね。
いわゆる0の発見というのは一つの発明とされていますが、
ここはあまり深く考えたことはありませんでした。
それでは次ですね。
ハッピーバースデー、ハッピーハロウィン、ハッピークリスマス、ハッピーハロウィンですね。
ハッピーがつくのはなぜか。
これは何でしょうね。
メリークリスマスもメリーとか、何かつきますよね、形容詞が。
これは説明できそうですね。
これ省略された表現なんですよ、何かが。
普通これだけでやりますけれども、言うことが多いですが、
厳密に言うと、フルセンテンスで言うと、
I wish youですよね。
その目的語としてあなたに何々を祈りますということなので、
ただクリスマスを祈るという意味が分からないですね。
良いクリスマスじゃないといけないので、大抵つくのではないか。
これグッドモーニングもそうです。
I wish you a good morningなんですね。
ただのモーニングではないということです。
モーニングと言うことはありますが、あれは今度はgoodが省略されただけということなので、
もともとI wish you a good morning、I wish you a good afternoon、I wish you a good nightという、
すべてこの辺が省略されていると考えてもらえればいいと思いますね。
なので、形容詞は大体つきますという。
これはそこそこきれいに回答できますかね。
次です。
現代英語にドイツ語やフランス語などに見られるような再起動詞が
あまりほとんどないのはなぜかということですね。
ドイツ語であるとかフランス語のような言語を勉強していると、
再起動詞っていうのがあるんですね。
いわゆる英語で言うと動詞があって、目的語に再起代名詞を取るっていう、
prepare oneselfとかjust oneselfみたいな言い方なんですけれども、
これがあまり発達してないんですね、英語では。
これは統合的に見ると、例えば今prepare oneselfっていう言い方しましたが、
これも準備するっていう意味で、自分自身を準備するっていうところから発したんですが、
今は言わないですよね。
prepareだけで準備するっていう意味になって、
結局再起動詞だったんですね、再起代名詞を使う動詞だったんですが、
落ちてるんですよ。
adjustもそうです。
let's adjust to the new environmentみたいに言うときも、
本来はlet's adjust ourselvesみたいな言い方が本来だったんですが、
今は言わないわけですよね。
省略しちゃって、再起代名詞なしでもあるかのような意味に使っちゃうっていうことで、
どんどん衰退してきてるっていうのは確かです。
これは何でかということなんですけれども、
これ近代英語になってから主に衰退してきてるんですね。
昔からではなくて、
割と衰退の歴史はそんなに古くないのかなという感じで見ています。
フランス語とかドイツ語とかだと、
実は再起代名詞がめちゃくちゃ短くて、
一音節なんですよ。
ところが英語の場合結構二音節で、
myselfとかourselvesとかですね、長いんで、
ちょっと面倒っていう側面ですね。
この音韻的な側面が一つ私は注目してるところなんですが、
一方で動詞が、
結局再起動詞が再起代名詞なしでも、
再起的に使えるっていう観点から見ると、
動詞の意味が再起的なものに拡張しているっていうふうに考えられますよね。
なので、再起代名詞がつかなくなったから、
再起代名詞の衰退っていうのは一つの見方なんですが、
動詞がそっちの意味にまで意味的に拡張してきているっていう、
その両面があるんじゃないかなと思うので、
再起動詞の衰退という観点と、
動詞の再起用法の発達みたいな、
これを両輪に見て、
歴史はそんなに古くなさそうなので、
近代の話題として調べたり調査していくと、
面白い問題になるんではないかなというふうに思います。
動詞の意味の拡張、意味というか用法ですかね。
用法の拡張って割と近代になって、
激しく英語の場合来ているかなっていう、
そんな印象があります。
そろそろ50分過ぎましたかね。
もう一つぐらいかな。
さつまみかんの由来
英語でみかんのことをさつまと言うのはなぜですかということで、
これは私、詳しく調べたことがありまして、
ブログなんかで書いたんですけれども、
アメリカだったと思うんですが、
外交官か何かが日本に出会ってきたと。
このみかんをさつまですよね、
鹿児島、九州地方で、
さつま地方出身に産する果物というぐらいの意味合いで、
さつまと呼び、それを持ち帰ったとアメリカに。
ちなんだアメリカの都市の名前もあるんですよ、さつまって。
それぐらいブレイクしたっていうことらしいんですよね。
それで一気にみかんのことですけれども、
さつまと呼ぶようになったっていう、そんなくだりじゃなかったでしたかね。
だいぶ前に書いて詳しくブログを書きましたので、
ぜひそちらの方を参照してもらえればと思います。
なかなか面白い背後に逸話があるということですね。
日本語でさつまって言うとさつま芋っていうこと。
また違うものを指すわけなんですけれども。
ちなみにこれ余談ですけど、
標準語ではさつま芋って言うと思うんですよ、あの芋のこと。
ところがさつまから来たと思われて信じられてきたからさつま。
西から来たからね。
東に日本の人間にとっては西から入ってきたぞということで、
これさつまから来たんだって言うんですが、
西の人はさつまから来たんじゃないってことを知ってるんで、
それを元南の琉球から来たんだって言うんで、
琉球って名付けたりとかですね。
さらにそこの人は中国から来たからと名付けたりとか、
英語に関する疑問の考察
それぞれ順繰りに自分のとこではないのはわかってるから、
より南の方、西の方の地名、そっちから来たんだという意味合いで
名前を付けていくっていうのがあるんですね。
これ他の植物にもよくある現象で、
この手の食べ物の名前って、だから方言が日本語でも、
これ英語でもそうなんですが、
どっから来たかっていうのをめぐって、
さまざまな奥説で方言化っていうか、
さまざまな言い方がですね、出来上がる地方ごとに。
とても面白い。
それ追っかけていくと本当にルーツがわかっちゃうんじゃないかっていうね、
およその。そんな面白さがありますけれどもね。
55分ぐらい経ちまして、どのぐらいでしょう。
十数問ぐらいかな。
まだたくさんあって、
というか答えられてないもののほうがたくさんありますけれども、
これ非常に貴重な質問をこの時間で寄せてもらいましたので、
これは温存しておいてですね、
また別の機会にぜひ考えていきたいと思います。
今回のこれまでもシリーズで1000本ノックみたいなことでやっているんですが、
これはちゃんと答えが与えられるものと与えられないもの、
当然あるわけですよね。
これは私個人のもちろん知識の限界っていうこともありますが、
一番面白いのはどういうふうに考えるかっていうことですかね。
英語詞の問題として見る場合にはどういう視点から見られるっていう、
そこがですね、みんなで議論したりして、
私はどちらかというと解決が面白いというよりは、
どういうふうに考えると解決できるというか、
面白い見方ができるだろうなっていうのを常に考えているところがあります。
はい。面白い話題いろいろと投げていただきましてありがとうございました。
生放送の終了
生放送でも聞いていただいた方もいるようで感謝します。
それでは本当に思いつきで始めた企画ですが、
これで生放送を終了したいと思います。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
58:05

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