まさにゃん、川上の素朴な疑問に答えよう!
英語詞クイズの予告だったんですけれど、ちょっと事情がありまして、
この素朴な疑問に答えようというコーナーでライブさせてもらうことになりました。
どういう経緯かと言いますと、私、heldio ヘルワーでご紹介いただいてますように、
高校生からもらって質問を取り上げて答えるというようなことをやっているわけなんですけれども、
その中からこれは答えられないなという難しい質問がありました。
でも、とてもいい質問だなと、何か考えてみたいなということで、
その質問というのはどういう質問かと言いますと、
全知詞の使い分けはなぜあんなに難しいんですかという疑問です。
私もそれを聞いて、確かに難しいよなというふうに思って、
どう考えたらいいんだろうと。
英語学習の上では全知詞は前の動詞と、あるいは形容詞と一緒に覚えなさいとか、
あるいは後ろの名詞と一緒に覚えなさいとか、
そういうような形でしか実際指導できていないわけなんですけれども、
なぜ難しいのかと考えるとなると、結構いろんな考え方ができるんじゃないのかなというふうに思いました。
9月8日でしたか、英語詞ライブで何かの収録のときに、
まさにゃん、森田雅人さんが全知詞好きなんですよねということを言われたということがあって、
私はそれをすごい覚えていて、そういえばまさにゃん、好きだって言ってたから、
この質問をまさにゃんに答えてもらったらいいんじゃないのかなということで、
まさにゃんに司会をお願いして、今日この回になったということなんですけれども、
まさにゃん、どうですか?
そのとき確かに何気なく全知詞好きって言ったんですけど、
確かに私自身、いろんな角度から攻められますよね。
まずパッと思ったのが、確かに全知詞、なぜ難しいのか、確かに難しいなと。
場所を表すにしても、ここがinなのか、onなのかみたいな。
ただ、私の大好きな小英語から一旦見てみると、
例えば小英語の時代でも、同じような文脈、同じような環境でもonを使うかinを使うかって、
多分ね、どっちでもよかったこととかも小英語あったでしょうし、
もしくは方言差もあったような気もしますし、
小英語時代においてもonとin、どっちでもいいとかもあった。
し、例えば現代語だけ見ても、例えばarriveなんかに注目しても、
arrive atとかいうのが標準でしょうけど、
arrive toって言い方も、もしかしたら言う人もいるんじゃないかなと思ったり。
これまで英語の中で見ても、常に全知詞の選択はネイティブでも揺れがある。
その中で我々学習者が難しいと感じるのも、そう思うと当然なのかな。
ネイティブでも揺れてる。
いろんな角度から攻められると思うんですけど、
一旦この辺りでパスを渡します。
これ自由討論っていうことですね。
なんか感じたことを自由に言う。
ちなみに今現状はですね、高崎オフ会ということで、高崎のとある会議室でですね、
12名のヘルメイトが集まって、いろいろ議論したりしているんですが、
今回のコーナーでは全知詞についていろいろ考えてみようということですね。
時間のおかげで一人一人の紹介は活躍させていただきますが、
いろいろな論客が集まっておりますので、どうですかね。
じゃあちょっと皮切りに、全知詞ですよね。
皆さんの好きな全知詞みたいなコーナーも割と最近にやったりしましたけれども、
確かに日本語に相当するのはあるかというと、
日本語は女子ですかね、テニオ派で、
ただバリエーションはそんなに英語の全知詞ほどはなかったりして、
日本人でもやっぱりちっちゃい子だとテニオ派の使い方というのが結構習得が難しいということで、
おそらく外国語として日本語を勉強する場合にはそういうところにつまずくんだろうなというのと、
ちょっと似てはいるんだけれども、英語はちょっと和をかけて数が多いですし、
続くコロケーションですよね、動詞との関係でも暗記字項に近くなっていますよね。
なんでこの全知詞なんだというのは、あんまり理屈がつかないことが多い。
強引に後から理屈化して覚えたりすることを頑張るんだけれども、話も踏み落ちていないというところがありますよね。
一つ思うのは、例えば音とか韻の話が出ましたけれども、
全知詞ってもともと弱い音説として現れることが多いので、
そうすると音も韻も母音が結局曖昧化するので、
会話の中ではどっちか分からないという状態なんですよ、音的には。
それぐらいどっちでもいいくらいのものなんだというスタートで始めると、
書き言葉だとちゃんと音なのか韻なのかはっきりさせなきゃいけないみたいなところがあって、
書き言葉に結構準拠している点がかなり大きいのかなっていうのは一つありますよね。
だからこそ、昔古い言語では書き言葉が今ほど立派化していないという状況ではあるべきところ、
我々が見て、韻だったりあっという間に適当というようなものが古い時代ほど見えてくるというのが英語史ありますね。
だから全部アンになってしまうし、次に来るね、必ず前置だから次に何か来るわけなんですけど単語が、
その先頭の音と合わさって、例えばDで始まったりすると、飲み込まれてアだけしか聞こえなくなるわけで、
というようなことがありますよね。
なので、もともとは本当は緩いはずで、何を取り替えても、
いいぐらいのところもある。しかも機能的にも複数の前置が重なっているじゃないですか。
手段とか、何でしょう、付帯状況とか、時間とかいうことなので、その中で細分化されることはあるにせよ、
わりとね、会話の中では現代でも一番弱く読んで、あるいはもう聞こえなくてもちゃんと通じるぐらいっていう、
日本語の転用版もそうですよね。前後があったるので、とりあえず用を足すっていうところの混乱ということは一つあるんですね。
書き言葉において使い分けみたいなのはかなり重視されて、規範として固まったみたいなところが大きいのかなと見てますが、どうでしょうかね。
たくさん指導の際に、コロケーションとかね、語法みたいな場合に、やっぱり日本語を使うときに、
手強いところ、多分英語をやっていて、全知識が手強いなぁと感じたことのない人は多分いないと思うんですけれど、
中でも手強いなぁと思う、工藤氏なんかは、本当にもうこれは同文化になっていると思うんですけれど、
特に苦戦するものとしては、時間とか場所のものですよね。
今インとオンの話とかが出ましたけれど、例えばウィーケンドみたいなのがあったときに、
これ必ずオンのウィーケンドとかあったことがあったと思うんですけれど、
そういった場合に、やっぱり日本語を使うときに、
時間とか場所のものですよね。
今インとオンの話とかが出ましたけれど、
例えばウィーケンドみたいなのがあったときに、
これ必ずオンのウィーケンドとかあったウィーケンドっていう風に言われて、
インはダメなんだ、ダメなんだっていうところが一歩目なんですけど、
考えてみると、これは使ってはいけないって言われている組み合わせを、
なぜ使ってはいけないのか、というか一般的にはこの組み合わせにならないのかっていうのを考えたときに、
物の捉え方みたいなものは結構通じてみれるところがあるんじゃないかなっていうのは一つ思うんですね。
つまり、イン・ザ・ウィーケンドこれダメですし、
例えばイン・ディ・インターネットなんてとてもやりたくなる、
どうですかね、やりたくなるんじゃないかと思うんですけれど、
これはインターネットというものがどういうものなのかを捉えて、
捉え方によって、なんとなく日本語でインターネットっていうのから、
英語のインターネットっていう表現になったときに、
インターネット上にって日本語でも言うのに、
そのときはインではなく、アウフを使いましょうみたいな話があったんですけど。
そこで先生が付け加えるに、
とはいえ、便器の中に入りたい人というのはいないだろうから、
仮にそう間違えたとって、
ドイツ人に誤解をされることはないだろうけどね、っていうふうに使い、
なんかそれがついたときに、確かにそうだなって思うところがあって、例えばこれが何かドイツ語の語学の試験の問題であれば、
多分インって書けばバツでアークって書けばマルなんだけれどもっていう。
でもその実用上は何か、ああはいはいはいってわかってもらえるっていう話であれば、川上さんのところで出た前知詞はなぜ難しいのかっていうのも、
実用上っていう話と、先ほど規範の話もありましたけど、何かを規範としたときにテストで点を取るにあたって難しさがあるのはなぜかっていうところは分けて考えないといけないのかなっていうところは一つ思いましたが、
でもそれで何かそんなに難しく考えることないんだよって言っちゃうと川上さんの仕事がなくなっちゃうので、
やっぱり書き言葉上はしっかりしなければいけないっていうプレッシャーみたいなものもあって、それは書き言葉の社会的役割なんで無視できないっていうところはありますよね。
今のinとonとかだとそんなに起きないと思うんですけど、例えばfromとtoとかを入れ違えた場合にはコミュニケーション上の相互が起きるので、
まだ妥協できない点っていうのは必ずあると思うんですよ。
なので、じゃあこれは許せるけれどこれは許せないみたいなところとかもまたちょっと入りにくくしている原因なのかなっていうことが思いますね。
英語史的にはこれ、昔書くが担ってたことがだんだん全知識に出てきているせいでややこしくなっているみたいな可能性ってのはないんですかね。
そうですね、ありますね。書くというのもせいぜい4つしかなかったので、ちょうど日本語の定義大破みたいな少ないもので何とか回してきた。
ただ細かく言いたい時に、例えば何々でって言った時に、でにはものすごくいっぱい意味があって、
これをもう少し細かくしたいっていう場合、例えば道具、手段としてであれば何々を使ってという言い換えが日本語でもありますよね。
でを細かく言った。
他には何でしょうね、乗り物の場合は、乗り物、バス、でが一番。
あと他にいろんなでがあると思うんですが、やっぱり別の言い方って日本語でも細かくあると思うんですよ。
それと同じで英語ももともとは少ない格の表現とか、あるいは少数の前置詞だけだったんだけれども、細かくでと言ってもどういう意味のでとかね、
いんって言ってもどういう意味のいんっていうところを細分化したいっていう多分欲求があって、
中英語、近代、現代にかけてとにかく増加の一等をたどってるんですよね。
で、よく考えると日本語もやっぱり転用派だけじゃないなとさっき言って思ったのは、英語の前置詞を訳すときって、
例えばあずだったら何々としてですよね、ととしての部分に分かれていて、
それが複合助詞という形で、これ日本語でも近世以降に現れてきてるんですよ。
この場合英語の訳語としての意味合いが強いような複合助詞もあると思うんですよね。
日本語でもやっぱり一つ一つ意味を分けたい場合には、かなり長ったらしい前置詞に相当するものが複合助詞っていっぱいあると思うんですよね。
例えば何々にもかかわらずっていうのはインスパイトオブの役でやってますが、
これなんかも一つ長いですけど、一つの複合助詞と考えることができるし、
むしろ英語教育の中でそういう風に刷り込まれてるわけじゃないですか、
インスパイトオブにもかかわらずとかいうところまで含めると、
日本語も同じ状況なのかなという気はしますよね。
だから時代を経るにつれて細分化してきているってのは日英で同じ状況。
英語の場合は外の言語からも持ってきちゃってるんで、ラテン語とかフランス語からも。
フランス語であるかわからないですけど、生配信フロム高崎オフ会みたいに言ったりするのは
中々カジュアルに日常化している日本語で言った場合、このフロムっていうのは
外来の女子日本語の場合ということになるわけで、という気もするんですよね。
細分化されてきたっていうのは面白いですよね。
今ので直接は関連しないかもしれないんですが、
ホームとかデアーとか福祉として現代で使えるもので、
デアーとかホームとかだけでアイムホームだったりとか、アイゴーデアーとかで済むのに、
あえてそこに意味をつけ、ここに行きたいな、アイゴーインデアーっていう風にして
中に入るみたいなニュアンスをつけたりとか、
リターントゥホームはそのままか、アイゴー、
トゥホームって別に無くても文としては成立するのに、
前置詞をつける方に言ってるっていうのとかも、
あえて入れる、無くてもいいものをあえて入れて、
表現したいものを表現しているのかなっていうのは、
種類が増えているのもそうですし、
ちゃんと言いたいことを強調して言うみたいな方法のせいで、
それよりも数も増加しているのかなみたいなことを今の話で思いました。
どうですかね、何かあります?
ちょっと話が変わってしまうかもしれないんですけど、
三谷さんどうですか?
私はそういう比較?
オンとインどっちかなっていうよりも、
単語が短すぎてヒントがないから、
例えば設備紙とかがあれば、
これがあるかな、この意味かなって推測ができるじゃないですか、
名詞とか。
でもアップとかインとかってシンプルすぎて、
本当に覚えないといけないって、
中学生の時思ってて。
例えばオンはくっついてるっていう本質の意味があるんだよって習ったんですけど、
くっついてるっていう意味とオンっていう綴りが私の中で一致しないから、
覚えてもそれぞれになっちゃって、
くっつくっていう元の意味があったのってオンだったかな、何だったかなって。
そこが苦労しました。
インはイメージ。
みんながよく使う全知事だからイメージしやすいんですけど、
それ以外も単語はシンプルなのに意味は何か、
意味も抽象的だし単語も抽象的だし、
どこをとっかかりにして覚えるのって。
暗記しかないって問題に。
そうすると動詞があって後ろに全知が入ります。
例えばカッコになっていて、1,2,3,4選べみたいな。
あれは悪問っていう、この場ではそんな雰囲気になってきてる感じですからね。
あれは覚えてるかどうかということ。
それが一概には悪いわけでもちろんないんですけど、
やっぱり暗記の部分大きいので間違いなく。
よく作りますけどね、カッコの中に適当な全知事を入れろとか。
英語教員としては作りやすいんですよね。
全知事を運用する力を測定したいと思って作ってるんだったら、
それはその問題によって判定がうまくいくんだったら、
それはテストとしての機能はちゃんと測れてると思うんですね。
ただその後ろにある能力が英語で物を伝える能力とかを測ろうとして
その問題を出してるんだとしたら、それは測りたいものが測れてない。
心配の機能を測りたいのに筋力のことをやらせてるみたいなところなので、
何を測定しようと思ってその問題を作ってるかっていうのは
結構大事なところかなって思うんですね。
本が例えばくっついてるって言いましたっけ。
確かにそういう面ってあると思うんですけど、
これの問題の難しいところって、
とても確かにその面もあるんだけれど、
すごく英語の経験を積んだ人がそのイメージを聞くと
確かにあれもんだしあれもんだから
これはとてもくっついてるってことだなってのが分かるんですけど、
最初にそのコアミーニングというかメンタルイメージというか
そういうものを出されても、
それを応用していろんなものに当てはめなさいっていうのは
結構難しいっていう側面があるんですね。
具体があってその後に抽象が来て、
それをさらに具体っていうのは結構できると思うんですけど、
まず抽象を与えられてそれを具体的なものにどんどん応用しなさいって
まさに英語のルールってそれが難しくしてる面いっぱいあって、
ルールを例えば時勢とかもそうですけれど、
こういう場合にはこうしますっていうのを与えられて、