00:01
おはようございます。英語の歴史の研究者、ヘログ英語史ブログの管理者、そして英語の謎に答える初めての英語の著者の堀田隆一です。
9月30日、金曜日です。9月も最後の日になってしまいましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
英語の語源が身につくラジオheldio。本日の話題は、言語か方言かそれが問題だ、です。
どうぞよろしくお願いいたします。
今日は9月30日ということで、月の最後の日ですね。もう明日から10月かということで、いろいろと焦っている次第なんですけれども、
そして、年もですね、あと10、11、12、3ヶ月っていうことですので、うわぁ困ったというぐらいですね、日々時間が経つのが早いということなんですけれども、
月末とか月始っていうのがいろいろとあるものでですね、ここで2つほど、先に本題に入る前にアナウンスさせていただきたいと思います。
まず1つはですね、われわれKELF、KO英語史フォーラムという団体で、英語史の学び、それから啓発活動っていうのを一般にも行っているんですけれども、
英語史新聞の第3号がもうすぐ出ます。今、編集の最後の段階に来ていまして、おそらくですね、10月の上旬、早めにもうすぐ出ることになるだろうと思います。
今回もなかなか気合が入ってですね、第1号、第2号と、もちろん気合は入れてきたんですけれども、さらにパワーアップした状態でですね、編集なり構成なりっていうのを行いまして、非常に完成度、水準の高いものが出来上がってきたなということで、大変期待しています。
新聞といってもウェブ上での発行ですので、こちらですね、発行次第ですね、このVoiceでもまたお知らせしたいと思いますが、ぜひ楽しみにお待ちいただければと思います。これがまず1点目ですね。
そして2点目はですね、明日に迫りました、朝日カルチャーセンター新宿教室の講座のご案内なんですけれども、明日10月1日土曜日午後3時半から6時45分、全4回のシリーズ、英語の歴史と世界英語の第3回講座が開かれます。
タイトルは英米の英語方言ということですね。こちらウェブ申し込みですと、前日の今日までが締め切りっていうことですかね。
形式としましては、新宿教室での対面ということと、同時中継という形でリアルタイムでZoomでの参加も可能です。それからリアルタイムで参加が難しいという場合もですね、動画という形で録画されたものが残りますので、そちらをですね、向こう1週間オンデマンドで見ていただけるという、そういうサービスにもなっております。
この話題、世界英語という文脈の中でのイギリス英語方言、それからアメリカ英語方言というように、今回はどちらかというと歴史中心になります。
高英語、中英語、近代英語、現代英語に至るまでのイギリスやアメリカの英語の方言ですね。この流れを組んで今、20世紀後半から21世紀の世界英語ワールドイングリッシュという現象がですね、起こっているんだと。
現在を理解するのに、過去の英語の方言事情ということですね。これを理解しておくと、非常にスッと入ってくる。理解しやすくなるっていう、そういうことですね。このシリーズをお届けしてるんですが。その議論の流れの中心となる部分ですね、ボディとなる部分が今回第3回ということになります。
明日ということなんですけれども、先ほども述べました通り、リアルタイムでなくても、この講座自体はですね、受けることができるといいますか、後ほどオンデマンドで動画を見ることができるっていう、そういう用意もありますので、この話題に関心がある方はぜひ参加をご検討くださればと思います。
このチャプターに詳細へのリンクを貼っておきますので、そちらからご確認、そしてお申し込みなどをいただければと思います。
言語と方言の基本問題
そして、今日の本題なんですけれども、明日の朝日カルチャーセンターの講座の中でも、ちらっと取り上げる予定なんですけれども、方言っていう話がメインになりますので、この方言って何かっていう、そもそもの話からいきたいと思うんですね。
言語と方言、英語で言うとlanguageとdialectってどう違うのかっていう問題は、これは実は言語学において、とりわけ社会言語学において非常に古くて、そして新しい問題なんです。
課題と言いますかね、はっきりとしたこと言えないんです。これが言語、歴史とした一つの独立した言語なのか、それともある言語のサブとしての位置づけ、一方言に過ぎないのかっていう、そういう問題なんですけれどもね。
例えばですね、沖縄で話されている言葉なんですけれども、これ皆さん、沖縄方言、つまり日本語の一種としての沖縄方言と言いますか、あるいは沖縄語と言いますか。
沖縄っていう表現をですね、琉球に変えても一緒です。琉球方言の日本語なんだっていう言い方をするか、あるいは琉球語だという言い方をするか、どっちでしょうか。
多くの皆さんは、これは沖縄方言なんだ、あるいは琉球方言なんだ、日本語の一方言なんだという見方が一般的かと思うんですね。
しかし、いやいや違う、これは沖縄語なんだとか、琉球語なんだっていう議論を、じゃあどうすれば知りづけられるのかというと、よく考えるとこれ自明ではないんです。
つまり、一言語なのか、あるいは一方言に過ぎないのかっていう、language or dialectという問題なんですけれどもね。
そして多くの人の反応は、理解可能性があれば方言、そして理解可能性がなければ別の言語というふうに分けるのがいいんではないかっていうことを言うかと思うんですね。
これ非常に直感的な答えですし、とても分かりやすいんですが、たちまちこれ破綻するんです。そもそも理解可能性っていうのは誰を基準にしたものなのか。
あなた一人、例えばバイリンガルだったら両方理解できちゃうんですね。
それが言語であれ、方言であれ、とにかくまだその区別は決めないとしても、とにかく2つの沖縄の言葉と、例えば日本語の標準的に話される共通語っていうのは両方完全に理解できるっていうバイリンガルの人から見たら、これ完全に理解できますよということは一つの言語ないっていうことなんで、沖縄方言ですねという理屈になります。
しかしこれはかなり個人的な問題です。結局言語能力ですから聞き慣れていれば、触れていれば理解可能性って上がるわけなので。
なのでこれはですね、理解可能性ということだけを基準にしてしまうと、個人個人によって違うので、これが言語であるか方言であるかっていうのは決められないという矛盾があるんですね。ジレンマが起きてくるんですよ。
そうするとですね、別の基準が必要になるっていうことで、もう一つよく出てくるのが、議論すると必ずあがります。国、国家という単位です。沖縄は日本国の一部ということになっています。
歴史的にはいろいろありましたけれども、現在ですね、現在日本国の一部ということになっています。だから日本語の配下にある一方言なんだっていう理屈ですね。
つまりこれは言語的な基準というよりも社会的な基準、国家の中にあるか外にあるかという政治的な問題ですね、ということになってきます。
もはや言語学の問題ではなくて、社会言語学であるとか、社会的な基準に基づく言語化、方言化という問題の解決の仕方、そういうことになると思うんですね。
沖縄語の独自性
そして社会的な問題ということになると、これ政治性が絡んできます。例えば沖縄は日本国から独立すべきだという考え方の人がいるとして、その人はですね、日本語のサブとしての一方言に置かれているなんていうのは耐えられない。
沖縄の言葉は日本語と別の、言語学的にはある程度近いとしてもですよ。そうではなく、社会的に社会言語学的に日本語とは異なる一つの歴史として独立した言語なんだと言いたくなると思うんですよね。
その場合、沖縄語であるとか琉球語である、一言語なのであるというふうに表現したいということがあると思うんですね。つまりこれはもはや言葉の問題ではなく政治の問題であるということなんですね。
チャプターを変えまして話を続けたいと思います。2010年にですね、面白い本が出まして、大阪国独立を考える回編大阪がもし日本から独立したらというマガジンハウスから出た本なんですけれども、これはですね、私もいろいろ社会言語学の授業なんかでよく取り上げさせてもらっている一つの話題なんですけれども、
もし大阪国が日本から独立した場合ですね、そしてそれを国際社会が認めた場合、おそらく日本は認めないのかもしれませんね、東京あたりが特に。
だけれども国際社会を認めたという場合、どうなるかというシミュレーションなんですけれどもね、架空の話ではあるんですけれども、とても面白いので、二段落ほどなんですが、ここで引用したいと思います。それでは読み上げます。
大阪国オリジナルの施策として、第一公用語を大阪語とする旨が発布されました。しかし、大阪語は地域によっては全く異なる言語となることから、かつての船場言葉を基礎にした大阪標準語の制定作業が進められています。
天下の台所と称えられた時代から、日本列島の富を左右していた商業エリアで、篠木を削る商取引を正確かつ円滑に進めながら、和を損なうことのないコミュニケーションツールとして機能し続けてきた、船場言葉の特徴を大阪国民が受け継ぐことも狙いです。
第二公用語には、日本国標準語を採用、独立言語の社会活動をスムーズに継続させる実利面への配慮も怠りません。一方、国内各州の地元で親しまれてきた河内語、節語、泉語などは、各州間のコミュニケーションで誤解を招きかねないデメリットを考慮して、公用語に準ずる扱いを容認するレベルにとどめることにしました。
ということで、大阪の言葉への愛の詰まったシミュレーションだと思うんですけれども、これもしですね、本当になったら、大阪語と呼ばれることになると思うんですよ。
いくら日本国が、いやこれ大阪弁に過ぎないんだ、大阪方言に過ぎないんだということを言ったとしてもですね、特に東京の人々があれは大阪弁だ、何が大阪語だのような言い方をしたとしても、国際世論が認めればですよ、これ大阪語っていうのが出来上がるんです。
つまり、この世の中に一つ言語が増えるっていうことです。日本語と言語学的には明らかに近い存在です。しかし、社会的には一つ新たな言語が生まれたっていうことになるんです。言語実態としては大阪の言葉、何にも変わらなくてもです。
つまり、これは厳密に言うと言葉の問題そのものではなくて、社会の問題、政治の問題っていうことはとてもよくわかると思うんですよ。何を馬鹿なシミュレーションをと思うかもしれませんが、決して馬鹿ではなくて、世界中でこれは、しかもここん東西、起こり続けてきたことなんです。
これで、ある意味、世界の言葉の数が増えたり減ったりっていうことを繰り返してきたんです。実は言葉の数っていうのは言語学が決められる話題ではなくて、政治が決める話題っていうことになるんですね。
つまり、日本語という言い方も英語という言い方も、我々日常的に何のけなく使っていますけれども、極めて政治的な含みのある用語だっていうこと、これ大体の人気づいてないんです。
日本語といった瞬間に、ある政治的態度を我々は取っているってことです。そして同じように英語といった瞬間に、ある政治的態度を取っているっていうことになります。
ここまで聞いてもですね、まだピンとこないっていう方が多いんではないかと思いますので、具体的な例を一つ、非常に重要な例を挙げておきたいと思います。
それはですね、旧ユーゴスラビア連邦の諸言語と言いますか、諸方言の話なんですけれども、主に近代史を勉強すると分かるかと思うんですけれども、この旧ユーゴが収まっている、いわゆるバルカン半島ですよね。
第一次世界大戦の時に、世界の火薬庫と呼ばれた民族紛争の絶えない地域、今の今までですね、昔から多民族、多言語、そして多宗教が入り混じるエリアということで、一触即発ということで、世界の火薬庫と呼ばれていて、実際に第一次世界大戦が起こったっていうことになりますね。
言語と方言の違い
この地域は本当に複雑でですね、キリスト教があると思えばイスラム教もあります。そしてキリスト教の中でもカトリックとセルビア聖教って言いますかね、ロシア、ギリシャ系です。
いわゆる西欧的なカトリック系と東欧的な聖教系ということですね。キリスト教の中でも2つに分かれているし、さらにイスラム教もあるっていう状況なんですね。
それに伴って歴史的に使われてきた文字っていうのも違うんですね。西側の方はいわゆるローマ字です。東側はいわゆるギリシャ文字の系列ですね。
ただ言葉そのものは話し言葉そのものは南スラブ系の言語ということでお互いに通じるぐらいの方言関係っていうことなんですね。
ただですね、同じ言語の異なる方言だという意識でですね、例えばクロアチア語を話すクロアチア人にあなたセルビア語を話してますねって言うとものすごくですね自尊心を傷つけられると思うんですね、言われた側は。
あるいはとんでもないセルビア語なんて話してない一言も話してない自分はクロアチア語を話してるんだというと思うんですよ。逆も一緒です。セルビア人に対して極めて似ている話し方をするからといってあなたクロアチア語喋ってますねというとものすごく自尊心を傷つけられるというかそもそも侮辱されたと感じるかもしれません。
とんでもないクロアチア語と一緒にするなこれはセルビア語であると。旗から見るとほとんど同じ言葉でしょと言うんですが、いやいくらなんでもこれを同じ言語と言ってくれるなというような反応がですね帰ってくる可能性が非常に高いと思うんです。
この地域の様々な民族言語宗教を持つ人々がある種の夢を持って1918年今から100年ほど前ですがユーゴスラビア連邦という国を建国しました。
これまでいがみ合ってきたけれどもやはり基本はですね南スラブ語族の仲間として仲良くやっていこうということでですねまとまって建国したんです。
ところがそれから80年と続かなかったわけですね。
1990年代前半ですから今から30年ほど前です。
再び分裂しました。旧ユーゴと言われますがユーゴスラビア連邦が崩壊し分裂しました。
この70数年のユーゴスラビア連邦という一つの国だった時代にはですね一応のところ形式上は国語としてセルボクロアチア語というふうにセルビア語とクロアチア語をある意味混ぜたというか接中した形でこれが国語なんだよと言い方で奥義の要みたいな役割を果たしていた。
ところが連邦が解体することによってそれぞれ再びですね1918年の建国以前の状況に戻ったわけです。
国語として名前を連ねるのも嫌だということでクロアチアはクロアチア語を国語としセルビアはセルビア語を国語としました。
他にもスロベニアとかボスニアヘルツェゴビナとかモンテネグロとかそれぞれ独立していったんですがそれぞれの言語の名前を打ち立てて一国の言語だよっていうふうに歌いだした。
今まではセルボクロアチア語の名のもとに方言に過ぎなかったものが国が独立したことによりそして独立した他のライバル言語ですねと一緒にされたくないっていう思いで自分独自の言語名を主張しだしたわけです。
そしてこの解体されたそれぞれの国を国際世論がですね認めたということになるとそれぞれの国語の存在を認めたということなので今まで一言語だったものセルボクロアチア語一言語だったものが複数言語に分かれたということです。
当然今だって話せば通じる方言ぐらいの関係なんですけどもね。
エンディングです。今日も最後まで放送を聞いていただきましてありがとうございました。
言語認識の政治的側面
今日の言語が方言かそれが問題だという話題はですね本当に重要な言語学上社会言語学上の問題解決できない問題です。
ある言葉を指してそれが歴史とした一つの独立した言語なのかそうではなくて別の何々語という偉い言語の配下に入っている一つの方言なのかというこれは極めて政治的な問題であって言語学的には完全に解決することができない問題っていうことなんですね。
言葉と社会あるいは言葉と政治が分かちがたく結びついている例として非常にわかりやすい例なんではないかと思うんですね。
今回は旧優語というですね非常にわかりやすいと言いますかね見えやすい例を引き合いに出してこの問題について語りました。
これが明らかでない自明でないっていうのが例えば英語とか日本語みたいな問題ですね。
旧優語のような複雑な問題は一見なさそうに見えるのでちゃんと言語とか方言きれいに切れるんじゃないかっていうふうに思われがちですがそれも程度の問題です。
やっぱり英語にもですねどこまでが英語なのあるいは英語の方言と言うべきかみたいな問題もありますし沖縄方言沖縄語っていう話題も触れましたが日本語だってですねどこまでが日本語でどこからが日本語でないのかっていうのは極めて流動的です。
政治状況が変わればこれ変わっちゃうわけですからという実は頼りないものがですね何々語とか何々方言という呼び方なんです。
なので私たち日本語をしゃべるとか英語をしゃべるとか日常的に何々語っていう表現を使いますけれどもこれ自体が全くですね正確性が担保されていないいわばフィクションに近いものであるっていう。
これが社会言語学の言語感と言いますかね言葉の見方なんです。
なかなかショッキングな見方だなというふうに思った方も少なくないんではないかと思いますけれどもこのように言葉って本当にわからないわからないからわかろうとして私は言葉を研究しているとそういうことになります。
このチャンネル英語の語源が身につくラジオヘルディオではあなたからのご質問ご意見ご感想をお待ちしています。
Voicyのコメント機能を通じてお寄せください。
それでは今日も皆さんとって良い1日になりますようにホタリウチがお届けしました。
また明日。