新著「文献学と英語史研究」発売のお知らせ
おはようございます。英語の歴史の研究者、ヘログ英語史ブログの管理者、そして英語のなぜに答える初めての英語史の著者の堀田隆一です。
英語の語源が身につくラジオheldio。英語史をお茶の間におもっとうに英語の歴史の面白さを伝え、裾野を広げるべく毎朝6時に配信しています。
本日は1月12日木曜日です。いかがお過ごしでしょうか。
本日お届けする話題は、多言語使用は古今東西の常態である。
え?と思う方も多いんではないかと思いますが、おそらく一言語使用の方がマイノリティなんですね。これについて今日はお話しします。どうぞよろしくお願いいたします。
本題に入る前に新著のお知らせです。本日1月12日、ついに来ました。文献学と英語史研究が発売されます。
しばらく前からですね、このheldioでも毎日のようにこのタイトルをコールしてですね、今日出るということをですね、お伝えしていたんですが、ついにこの日がやってまいりました。
京都大学の家入洋子先生と私、堀田隆一の教授となる文献学と英語史研究が発売となります。開拓者より出版されていますけれども、こちらですね、最新英語学言語学シリーズの一環なんです。
22巻もののシリーズなんですが、そのうちの第21巻という位置づけで、この文献学と英語史研究がですね、企画され、ついに出版発売となった次第です。
最新英語学言語学シリーズということでですね、昨今の発展著しい英語学言語学の分野を構成する各領域ですね、それについて最近の研究動向をまとめ、そして今後の研究につなげる、今後の展望を示すといったシリーズなんですけれども、
その第21巻ということで、英語史を中心とする領域の研究の開拓と展望ということを試みています。
中身は、実は非常に具体的でですね、音韻論、つづり字であるとか、形態論、統合論のそれぞれについて、諸問題ですね、今まで研究所扱われてきた、そして未だ解かれていない問題をですね、リストアップして、それについて今どのようなレベルにまで研究がたどり着いているのか、いないのかといったことを細かくですね、
参考文献付きで紹介しています。ですので、テーマ探しに最適な本ということになります。レファレンスとしても使えますし、全体を通読していただくと、英語史研究の潮流がつかめるという、そういう本になっております。
関心のある方は、ぜひ手に取っていただければと思います。文献学と英語史研究、本日より一般に入手可能となります。このチャプターに本書を紹介する記事へリンクを貼っておきますので、そちらをご参照ください。
多言語使用は古今東西の常態である
以上、今日発売の新著のお知らせでした。よろしくお願いします。今日の話題は、多言語仕様は古今東西の状態であるという話なんですけれども、ここ数日取り上げてきた話題のある意味、延長線上にあるような、そういうトピックなんですね。
年が明けてから1月5日以降なんですけれども、Heldioではこんなラインナップでトピックを展開して、そしてリスナーの皆さんとのコメントのやり取りを通じて、議論が発展してきたという経緯があるんですね。
ざっと振り返りますと、1月5日です。584回、旧優語の言語事情、この辺りからスタートしたんですね。そして1月6日、585回、ウクライナ人がウクライナ語を学び始めてるってどういうこと、国家と言語の複雑な関係という話でした。
それから1月8日、587回、母語をめぐる諸問題。そして1月9日、588回、ネイティブスピーカーとは抜き差しならない問題に入り込んでしまったかも。
ときまして、昨日1月11日ですね、590回で、日本は言語多様性指数が極めて低い国という話題。続けて今日です。591回、多言語使用は古今東西の状態である。
多言語使用というのは英語で言うとマルチリンガルということですね。古今東西の状態っていうのは常なる態ですね。これがデフォルトのコンディションであるっていう意味ですよね。
このヘルディをお聞きの多くの日本人、典型的には日本で生まれ育ってほぼ日本語唯一で暮らしてきたような人々です。私もそうですし、あくまで英語であるとか他の言語はですね、教育過程において学んだりはしますが、実際のところ日常生活、日本での日常生活ではほとんど使わないっていう状況です。
ですので、モノリンガル、単一言語として生活しているというのが大多数の日本人だと思うんですね。
ですので、バイリンガルとかマルチリンガルと聞くとですね、バイっていうのは2って意味ですね。マルチっていうのは複数の複っていうことなんで、つまり日本語以外に別の言語を1つ以上喋れるっていうことはですね、これ、共嘆と称賛の的になるわけですよ。
英語そんなにできるんだ、すごいっていう話になるわけですね。中国語も韓国語もフランス語もできるんだ、もっとすごいっていう話になってですね、日本語以外の言語を流暢に扱えるっていうことは、一種の偉業であり、ものすごい才能であり、あるいは努力の証でありというふうに見る向きが多いと思うんですね。
一言で言うと、そのような人を見るとですね、すごいというわけですよ。これは私自身もとてもよくわかるんですね。だからこそこれまでもですね、英語を喋りたいなとか何言語喋れるようになるといいなということでいろいろな外国語を勉強してきたっていう経緯があるんですが、一種の憧れでもあり、やはりですね、そこに到達するっていうことは並大抵のことではなくて、到達したらそれは偉業であるわけですね。
つまり尊敬されるんだっていう発想があるわけですよね。だから勉強してきたっていう側面もあります。ところがですね、そんな私も言語そのものに関心を持ち始めまして、言語学であるとか歴史言語学、そしてこの英語史という分野にですね、足を踏み入れたことになったわけなんですが、
それでいろいろと言語について調べていくとですね、どうも日本のようなモノリンガル社会あるいはその典型的なメンバーである日本人ですね、モノリンガルなわけですが、これというのはむしろ珍しいんではないかっていうことなんですね。
珍しいという言い方が少し強いとすればですね、言い方を変えれば、意外と少ない、思ったよりはいないんではないかということは言えそうなんですね。
つまり古今東西の言語状況、世界のですよ。客観的に眺めてみると、むしろバイリンガルとかマルチリンガルな社会の方が多そうだと、ということはそのメンバーたちは個人としてもバイリンガルだったりマルチリンガルだったりする可能性が高いっていうことなんですが、我々の常識と思っていることって実はどちらかというと非常識なんではないか。
そして非常識だと思っていたことが案外常識、少なくともマジョリティなんではないかということがですね、分かってきたんですね。
まず第一にですね、この勘違いというふうに私は呼んでおきたいと思うんですが、この勘違いなぜ日本人が抱きがちかというと、最初から述べているように日本がまさにモノリンガルな社会だからですね。
ほぼっていうことですよ、99%。その中でどっぷり使っているので、まさかこれ以外の言語状況、つまりマルチリンガルが当たり前なんだっていう状況はそう多くはないだろう。世界にあるのは知っていてもですね、そんな多いはずはないだろうっていう思い込みにまずですね、陥るわけです。
さらに典型的な我々が最もよく知っている、あるいは付き合いのある言語というと、西洋の言語だと思うんですね。英語、フランス語、ドイツ語といったようなヨーロッパの言語ですね。
これらの言語というのも、本当はですね、その対応する国、イギリス、フランス、ドイツなどでは様々な言語がですね、話されていて、本当はマルチリンガル社会なんですけれども、それが覆い隠されていて、イギリスなら英語に決まっている。
フランスならフランス語、ドイツならドイツ語っていう風に、国と言語がイコールで結びつけられていて、周辺にある少数言語たちですね、それを合わせて本当はマルチリンガルな国なんですが、その辺のマイノリティっていうのが書き消される形で、大きな言語、いわゆる国語ですが、これが前面に出てくる。
なので見え方としては、結局日本と同じだよねという見え方になります。日本は日本語、モノリンガルでやっている。イギリスは英語、一つモノリンガルでやっている。フランスはフランス語、ドイツはドイツ語でモノリンガルでやっているという風に、日本人の多くにとって最も馴染みのある外国語を提供している西洋諸国ですね。
も結局日本と同じような構造ではないかというふうに見えてくるために、余計に世界全体もそうなんだという見え方になってくるっていうことですね。
ですが、これは世界の比較的特殊な事例を見ているに過ぎない。最近の言葉で言えば、いわばエコーチェンバーみたいなもんですね。似た者同士が寄って、同じような環境の中で、同じような話をしているので、その外に全く異なる世界。
今回のケースで言えば、マルチリンガルな世界っていうのが、そんなに広く存在していようとはですね、なかなか思えないわけですよ。ところがどうもですね、マルチリンガルの方が多いかもしれないっていうことなんです。これはなかなかですね、正確に統計をとったりですね、分布を調べたりするっていうことが難しいので、きっちりとした数値というのはありません。
ただですよ、昨日の放送でも取り上げたんですけれども、世界に国はおよそ200、言語の数は7000ですから、単純に考えて1国家イコール1言語なはずがないんですね。平均とると1国家に対して35言語ぐらいということになるわけですから。
まず単純な算数、これによって社会っていうのは基本的にマルチリンガルっぽいなという想像はまずつくんですね。簡単な算数です。これは客観的な数値ということになりますね。
我々の典型的な日本人の主観としては、1国イコール1言語というふうに信じて疑わない。少なくともそう生活、日常生活の中では思い込んで何ら問題はないというような、そんな暮らしをしているわけですが、主観としてはそうなんですが、客観的に見るとそうではなさそうだということにまずなりますね。
西江正幸先生の言葉から見る多言語社会
ここを受け入れるところから始めましょう。ただ、これは本当に単純な算数です。実際の統計値というのは細かく出されていませんし、ここで頼りになるのは文化人類学や人類言語学の分野でフィールドワークをしてきた研究者の意見ということになりますね。
私の大好きな言語学者で、2015年にお亡くなりになったんですけれども、西江正幸先生という言語学者、文化人類学者で、人類言語学者と言っていいのではないかと思います。
私が大学生の時に、実際、人類言語学という名前の講義を持たれていまして、それを受講していたものなんですが、たくさんの本を書かれていまして、その中から今日は、2012年に白水社から出版されました新言葉の課外授業。
こちらより西江先生の言葉を引用したいと思います。
では引用します。
二言語どころか、三言語、四言語を話すのが常識であって、日常生活はそんなものだと思い込んでいる社会も、世界には意外と多いのです。
もちろん、それらすべてを一人一人の人間が同じレベルでということではない場合が多いのですが、この状況を確認しておくことは、今、とても重要なことだと思います。
日本では、外国語が一つできただけで、すごい!と思うような感覚がありますけど。
例えば、ケニアに住むマサイ人。彼らは家では当然マサイ語を話しています。
ところが、彼らはマサイ人であると同時にケニア人なので、スワヒリ語と英語ができなかったら、一般的な国民としての生活ができないんですね。
街に出て食堂を経営しようが、お店に勤めようが、お客さんはみんな英語やスワヒリ語を使っているわけですから。
一人の人間が二つ以上の非常に異なった言語を日常的に使い分けて話しているという社会が、実は世界には非常に多くあります。
中南米では、現在でも先住民の言語を話している人たちが数多くいます。
例えばそれがメキシコだったら、ユカタン半島のマヤ人たちはマヤ語を母語としていますが、
メキシコ人ですから、公用語であるスペイン語も話せなければならないのです。
ここで引用を終わります。
典型的な日本人にとっては、日本がモノリンガル社会ですので、他の言語を習得するということは確かに一つの偉業なんですね。
非常に多くの時間と労力を要するからです。
つまり英語ができるとなると賞賛されるっていうのは、ゆえあることなんですね。理由があるわけです。
頑張ったねっていうことになるわけですから。
なので、このマサイ人の話であるとか、ユカタン半島のマヤ人の話を聞くとですね、
え、二つ言語できるんですがすごいですね、という発想になってしまう。
ただ状況が違うんですよ。
彼らにとってはバイリンガルあるいはマルチリンガルな、そもそも社会、環境にあるから、
それを習得せざるを得ないっていうことで習得してるんですね。
ある意味では彼らは自然に、そして無意識的に習得するっていうことなんです。
それに対して日本で、例えば英語を習得するっていうのは自然なわけはないですね。
意図的です。そして意識的に勉強して習得するんです。
なので意図的に目標を定めてそれを達成したときの異業観というものですね。
これが評価されるっていうことなんです。
マサイ人やユカタンハントのマヤ人はですね、
もちろんですね、自然で無意識的といっても全く努力が必要でないっていうわけではありません。
やはり異なる言語を学ぶわけなんで、一定の訓練というものですね。
それは必要なんですが、いわば生活の中に埋め込まれているっていう状態です。
あえてそれを大きな目標として、ちょうど日本人が英語を学ぶような心持ちで態度でその言語に対しているわけではないっていうことです。
ここが根本的に異なっている。
歴史から見る多言語社会の例
そして今日の話はですね、この日本のような状態というのが言語状況っていうのが、
古今東西の中でおそらくなんですけれども、正確な数値はありませんでおそらくということなんですが、マイノリティなんではないかと。
ものすごく少ないというつもりもありませんけれども、どちらかといえばマジョリティなのは逆にバイリンガルとかマルチリンガルの社会なんではないか。
今回の例で言えば、ケニアのマサイ人あるいはユカタンハントメキシコのマヤ人。
彼らが置かれているようなマルチリンガルな言語状況、社会状況の方がむしろ一般的なんではないかということですね。
もしそれが本当だとするとですね、日本のような状況こそがマイノリティなので、説明を要するっていうことなんですよ。
ここで英語史の話少しだけしますとね、今イングランドっていうのはちょうど日本と同じように事実上モノリンガルな国です。
細かく丁寧に見れば、そこには例えばインド系の移民もたくさんいますし、ジャマイカ系の移民もいますという形で、それぞれの言語コミュニティが小さくあるわけなんですけれども、
あまりに小さいので書き消されて、表向きにはイングランドといえば英語、そういうモノリンガルな国になっています。少なくともそういう見え方になっています。
ですが歴史を遡って中英語の時代、1100年から1500年くらいではですね、イングランドの中にまだケルト語を喋るような人々もいましたし、
さらにはノルマン政府によって多くのノルマン人、フランス語話者ですが入ってきたということもあって、多くといっても全体の比として言えばですね、少数派ではあったんですがかっこたるコミュニティを持っていて、しかも影響力のあるコミュニティです。
これがノルマンフレンチというフランス語を母語としていたし、さらに一部学識のある聖職者であるとか学者たちはですね、ラテン語も喋るというそういうコミュニティもあったということで、まさにマルチリンガルな社会だったんです。
このように、古今東西からマルチリンガルな社会の例というのはどんどん上がってきます。むしろ、現代の日本のようなモノリンガルな例を集めてきなさいと言われると、そちらの方が難しいくらいなんですね。
現代日本人の言語観と相対化の視点
さて、今日の話から、現代の日本として典型的な我々日本人が抱いている言語感というものはですね、どうやら多数派では少なくてもなさそうだということがわかってきます。
我々の置かれているこの言語状態ですね、言語状況こそが、むしろ世界から見ると説明を要する現象だというふうに見えるということです。
この観点、相対化した視点というのを私たちは持った上で、世界の言葉の問題を見ていく必要があるのではないかと思います。
ということで、今日は少々ショッキングな話題だったかもしれませんが、多言語使用は古今東西の状態であるとしてお話をお届けしました。
エンディングとリスナーへの呼びかけ
エンディングです。
今日も最後まで放送を聞いていただきましてありがとうございました。
本編の中で触れています西江正幸先生の新言葉の課外授業、白水社から2012年に出ている本なんですけれども、こちらのチャプターにリンクを貼り付けておきますので、そちらからですね、詳細を確認していただければと思います。
非常に噛み砕いた形で言語学、特に今日お話ししたようなマルチリンガルの話などが、たくさんの具体的なエピソードを添えてお話しされています。
よろしければ覗いてみてください。
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それでは、今日も皆さんにとって良い1日になりますように。
ホッタリウイチがお届けしました。また明日。