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おはようございます。英語の歴史を研究しています。慶応義塾大学の堀田隆一です。
このチャンネルでは、英語の先生もネイティブスピーカーも、辞書も答えてくれなかった英語に関する素朴な疑問に、英語史の観点からお答えしていきます。
毎朝6時更新です。ぜひフォローして、新しい英語の見方を養っていただければと思います。
古英語の依頼の特徴
今回取り上げる話題は、古英語は無礼な言語だった?という話題です。
昨日、井上一平・堀田隆一英語学言語学チャンネルと題するYouTubeのチャンネルの第6弾が公表されました。
WOULD YOU?などの間接的な依頼の仕方は英語特有、しかも割と最近の英語の特徴という題でおしゃべりをしたわけなんですけれども、
井上一平さんは社会言語学であるとか、語用論ですね、そして今回取り上げたポライトネスのようなところがご専門なのですが、
私は英語士ということで、この2つを掛け合わせた、いわゆる歴史語用論、英語歴史語用論という分野ですね。
これ、近年流行ってきている分野なんですが、まさにその話題です。
英語では、丁寧な命令と言いますかね、言い換えれば依頼であるとか勧誘ということになると思うんですが、これを法上動詞を用いた疑問文で表すということが多いんですね。
Would you open the window?とかWould you mind opening the window?みたいな言い方もありますし、Would you?に代わって多少ニュアンスとか丁寧度、度合いは異なるんですけれども、
Could you?って言ったり、あるいは現在形の助動詞ですね、Will you?とかCan you?っていうのもあります。否定バージョンのWant you?っていうのもありますね。
いろいろと法上動詞を用いてですね、それを疑問文の形にすることで、主語はYouですね、してくれませんか?というふうに問うということですね。
実際に行っていることは、話者が行っているのは依頼、勧誘ということで、柔らかい命令ですよね。
なんですが、形上は疑問文にしておく。そうすることによって、一応定裁上、形上は疑問文なので、相手がYesかNoかを選べる。
言い方を変えれば、相手にYesかNoかを選ぶ選択肢、権利を与えるということで、相手の独立心を尊重するということになりますね。
なので、疑問文にするということは、これは英語に限らないわけなんですけれども、相手に選択の自由を与えるという意味において、一歩丁寧、相手のことをおもんぱかった依頼の仕方だということになりますね。
現代の英語では、非常にこれをよく使う。Would you? Will you? Won't you?ということですね。
ただ、これ使い方はそれぞれ難しくて、場合によってWill you?というのはかなり失礼な言い方、命令に限りなく近くなるということもあって、簡単ではない意味ですね。
このように、Would you?のような形で、疑問文という間接的な形で依頼・関与するというのが、英語の表現の一つの傾向だということなんですが、じゃあこれ、昔からあったのかというと、そうでもないですね。
この手の、現代英語風の疑問文によってポライトにすると、表現を柔らかく、そして相手に対して丁寧にするっていう、この気の使い方っていうのは、どうも小英語にはない、あるいはあったとしても非常に気迫だというふうに、英語歴史語用論の研究では言われています。
直接的な命令の表現
1000年ほど遡った小英語の時代に行ってみたいと思うんですけれども、小英語では、現代風のWould you?であるとか、Will you?というような形での依頼っていうのは、まずないと言っていいです。ないですね。
どういう形で、丁寧な依頼、丁寧な関与っていうのを行ったかというと、そもそも丁寧な依頼・関与というのが、例として上がってこないんですね。いろいろ調べても、探しても。
普通ではどういうふうに命令って言いますかね、依頼するかというと、非常に直接的なんです。なんだかの方法で、この勢いを和らげようと、より丁寧にしようという意図があまり感じられないんですね。
典型はですね、I bid thee all thatのように、これ何のことかというと、I ask you that…ということで、私はあなたにいかいかのことをするように頼みますとか命令しますと、ズバリ言っちゃうんですね。
つまり、I ask you to do somethingとか、I order you to do something。あまりに直接的な表現で、気遣いもヘタグレもないというふうに見えるわけですね。
他に多いのは、Thou shalt…のような形で、これ、Thou shalt…とか、You should…という言い方ですね。これなんかも、包条動詞を使って、いきなり命令形で始まるというわけではないにせよ、かなり強い、お前は何すべきだというような形ですね。
こういった表現、あるいは本当にズバリ命令形ですよね、というのは昔から今まであるんですけれども、このような気を使わない命令であるとか、ここまで強いと依頼とか勧誘って言っていいのかわからないぐらい強めですね。
こういう表現がたくさん出てきて、いわゆる現代の疑問文で相手の意思を聞く、相手の能力を聞くという形の柔らげたポライトな表現というのは見られないということなんですね。
ということで、少なくともこの依頼勧誘に関する領域においてはですね、どうも小英語にはポライトネスという概念がなかった、あるいは限りなく希薄だったぐらいに留めるのが正確かもしれませんが、そんな状況だったんですね。
これはなかなか驚きと言いますか、ショッキングなニュースですね。日本語にせよ、これ現代ですけれども、そして話題となっている現代英語ですね、ブッジューなんかを対応する現代英語にせよ、何らかの意味でのポライトネス、つまり失礼にならないように丁寧に相手のことを重んばかって依頼、命令するという様々な手段が用意されています。
日本語では典型的に敬語というシステムがそもそも存在しますし、英語にはいわゆる日本語流の敬語システムはないにせよ、様々な言い方手段でもってこのポライトネスというのを表現するわけですよね。
ですので、文化が違ってもですね、人との関係ですから、人間関係を円滑に進めるためには、何らかのポライトネス表現、特に依頼、勧誘なんかの場合には言い方を和らげるものというのが手段は違うにせよ、種類は違うにせよ、存在しているのが人間社会じゃないかというふうに思い込んでいたところ、
これは決してユニバーサルではないということを暗示するわけです。
ですので、時間が異なれば、同じ言語ですね、英語でも、現代と千年前の公英語とはポライトネスのあり方であるとか、種類というのは異なる。
あるいはもうポライトネスがそもそもあるかないかというはっきりした違いもですね、あるかもしれない。
これは空間的にも一緒で、異なる文化であれば、例えば現代のですね、一般的な日本語社会とか英語社会では当然視されているようなポライトネスのあり方というのが、ある第三の文化、言語文化ではないとかですね、あるいはあったとしても非常に希薄であるとか、というふうに相対化して捉えることがどうも重要だということに気づかされるわけです。
もちろん、公英語に本当の意味でポライトネスがなかったのかというと、これは文献でしか残っていないためにですね、いろいろ分からないことがあります。
ポライトネスというのは、例えばイントネーションというのは非常に大きいですね。
ところが文献からはそれを復元するのは非常に難しい。
さらにジェスチャーであるとか目配せであるとか、様々な言語以外の手段によるポライトネス表現というのは、いくらでもあり得たということですが、これも文献資料からだけではですね、なかなか容易につかむことはできないということなので、
公英語機に、いわゆる社会全般としてポライトネスが本当になかったのかどうかということについては、もちろん慎重にならなければいけませんが、こと言語表現に関する限りですね、文献に示されている言語表現で調査する限り、少なくとも現代流の英語の文化では一般的である類のポライトネス。
宇宙のようなタイプは存在しなかったということになります。今後もこの領域、英語歴史語要論はですね、発展していくと思いますので、新展開があるかもしれません。それではまた。