同音異義語と多義語の導入
おはようございます。英語の歴史を研究しています、堀田隆一です。 このチャンネル、英語の語源が身につくラジオ、heldioでは、英語に関する素朴な疑問に、英語史の観点からお答えしていきます。
毎朝6時更新です。フォローしていただきますと、更新通知が届くようになります。 ぜひフォローしていただければと思います。また、コメントやシェアの方もよろしくお願いいたします。
本日の話題は、リスナーさんからの質問にお答えします。 同音異義語と多義語は紙一重という話題でお届けしたいと思います。
6月10日にリスナーさん、小江戸のアルキニストさんによる質問なんですけれども、 読み上げさせていただきたいと思います。
毎回拝聴しています。言葉の歴史を知るようになってから、 辞書の語源の記述により注目するようになり、英語学習に新しい楽しさを見出せています。
さて、私は過去の放送などで、フラワーとフラワー、 花を意味するフラワーと小麦粉を意味するフラワーのことですけれども、が同語源であると知りました。
現在これらは同音異義語として扱われていますが、別の語として分かれるまでに多義語、 同音類義語の時期を経ていたということだと思います。
日本語の暑いと熱い。 熱書の熱と書ですね。それから資料と資料。
資質資格の資と歴史の資、資料ですね。それから収めると収める、収納のそれぞれの文字などは使い分けがある同音異義語であると同時に、
その細かい意味の違いや使い分けがわからなくても共通するコンセプトが思い浮かぶ同音類義語でもあると思います。
日本語、英語どちらにしても同音異義語はよく聞きますが、同音類義語はその言葉自体あまり聞きません。
しかし日本語では自身が日本語母語話者というのもあってか、先ほどのような例が割と挙げられます。
そこで英語の同音類義語と言えるものはどのくらい存在するのでしょうか。
よろしければ解説お願いします。という質問ですね。
フラワーの語源と多義語
これ非常に面白い問題で日英語の語彙、それから同音異義語、多義語というものをめぐる同じ点と違う点というのを浮き彫りにさせるような質問、着眼点だと思うんですね。
今回、小江戸のアルキミストさんが導入してくれました、同音類義語というこの新しい語と語の関係ですよね。
とても面白いなと思ったんですけれども、では英語にこういったものがどれくらいあるだろうかと考えたときにですね、一つこれ直接の答えにはなっていないんですけれども。
3つの互いに関係する、そして近い用語概念について整理する必要があるんではないかなというふうに思ったんですね。
それは同音異義語というものと同音類義語、そして多義語というこの3つの一種のグラデーションみたいなもの、これを考えていきたいと思うんですね。
今回の問題の出発点となったフラワーについて改めて復習しておきますと、もともとこれは花という意味ですね、植物の花です。
フラワーということなんですけれども、花というのは美しいものなので、中華の花に相当するんですけれども、その中の最良のもの、最上のものという意味ですね。
これが出てくるわけです。そして中世において粉のうち最も良質なもの、つまりキングオブパウダーみたいなものですね。これが小麦粉だったわけです。
白い小麦粉、これで練ったパンというのはなかなか食べられなかった。高値の花だったということでですね、このフラワーというのが粉の中の花ということで小麦粉の意味に転じたということですね。
この語源が理解されているあるいは共有されている間は、いわゆる植物の花の意味のフラワーと小麦粉の意味のフラワー、この関係が了解されているわけですから、これは全く別の単語ではなくてあくまで多義語。
フラワーという音の形あるいはつずりの形を共有している2つの語義を持つ単語なんだ。あくまで意味が分かれているだけなんだということですね。
辞書で考えれば1つフラワーという見出しがあって、その中に語義1、花の意味、語義2、小麦粉の意味とあるような感覚です。
ところが指しているものは確かにかなり違いますし、この語源的関連が徐々に忘れられていくと、これは多義語1つの見出しのもとにですね、語義1、語義2として設定しておくにはもうふさわしくないというふうに感じられるようになっていきますね。
徐々に忘れられていく。ただ、かろうじて意味の関連が分かっていれば、それは動音類義語ぐらいになるかもしれませんね。
違う単語と認識した方がよさそうだけれども、うっすらと関係は築いている。なので動音で異なる語だけでもあくまで類義語、関連がある単語だというふうに考えたりする、そんな時期があったかもしれません。
しかし最終的には、この語源的知識っていうのが忘れられ、指しているものもある意味全く違うわけですから、これは別の語である。
そしてこれが別の見出しとして立てられる。フラワー1、フラワー2のように、たまたま音は同じだけれども違う語ですよというふうに考えられるようになったという段階がきますね。
この単語に関しては、実際そのように全く別の単語だと思われたからこそ、綴り字も変えて、それぞれ不律した関係のない単語なんだよというふうに示すに至ったわけですよね。
このように考えてきますと、時系列でですね、最初は多義語、つまり一つの単語、一つの見出し語のもとにある語義1、語義2というぐらいの関係に過ぎないと言いますかね、一つにくくっていいんだっていう時代があったと思うと、次の時代にはその関係が怪しくなったので、一応2つ分けておこうと、別見出しで立てておこうということになる。
ただし、一部この語源的関係について、まだ記憶をとどめている人もいればですね、そうでない人もいるっていうぐらいなので、動音類義語ぐらいで呼ぶのがふさわしい関係かもしれません。
それが最終的に完全に記憶から、人々の、皆のですね、記憶から忘れ去られると、2つの全く異なる単語、ただし発音は一緒ということで、動音異義語ということになるわけですね。
整理しますと、まず多義語だったものが動音類義語になり、そして最終的に動音異義語になるといった時系列のプロセスを踏んできたということになります。これは通常的時系列の変化がグラデーションで起こるということを、今示してみたんですけれども、実はある時代、1点の時間に止めてですね。
日本語の同訓字の考察
その中で、境地的に考えても、人によってはですね、十分に語源的関係がある、意味的関係があるというふうに記憶している人もいれば、そうでない人もいるっていうことで、境地的に考えても、やはり理解の上で、解釈の上で揺れがあったんではないかと思うんですね。
個人個人によって。その意味では、境地的にもグラデーションと言いますか、バリエーションと言った方がいいですかね。これというのはあったんだろうと思います。
現代、我々ですけれども、この2つのフラワーとフラワー、この語源を知ってしまった今となってはですね、実は今まで完全に別語として認識していたのに、この語源的知識を得たことによって、関連付けというのを強く意識して、これは完全に異なる単語、同音異義語だと思っていたけれども、実は同音類義語ではないかと。
そのように考える人が出たとしても、これは不思議ではないんですね。さらにもっと言うと、いやこれ多義語と言うべきだとすら考える人もいるかもしれません。解釈一つなんですよね。語源的知識を知らなかったら完全に同音異義語だったでしょう。
ところが今は知ってしまったので、これを同音異義語として考えることがもはやできなくなってしまったという人もいるかもしれません。
これ考え方一つなんでね、同音類義語であるとか、あるいはかなり極端ではあると思うんですが、多義語であると言い張ることだってできなくもないっていうことなんですね。
つまり、同音異義語なのか、同音類義語なのか、多義語なのかというのはグラデーションの問題であって、時系列として考えても、そして教授的に考えても個人によって捉え方が異なるし、これというのは本当に程度の問題なんではないかということなんですね。
言ってみれば、ある数直線があって、それを3分割する。そのそれぞれの分割された区域について名前をつけるということですね。
同音異義語、同音類義語、多義語というふうにつけるんですが、その境目の際と言いますかね、境目の近辺に関してはかなり人によって判断が揺れるんではないかということもありますし、時代によっても判断が揺れる。
グラデーションなんだ、連続体なんだっていう、このように考えた方がいいんではないかっていうふうに思うんですね。
小江戸のアルキニストさんが挙げてくれました日本語の例を考えたいと思うんですね。
暑いと暑い、熱所、それぞれの熱と所と書く、あの暑いと暑いですね。
これはいわゆる日本語の同訓字の問題というふうに言われているものですね。
この2つの暑いは当然ながら意味的に関係がありありですということで、これはですね、明らかに語源的意味的につながりが深いということは誰でも知っているということですね。
つまり本来的にはこれは多義語ということになります。
1つの見出しのもとに語義1語義2とあって、客観的に温度、気温が高いというのであれば熱の方、そしてそれが感じられて暑い。
この場合には書の方を使うという大雑把な括りですけれども、このような意味が分かれている、そのように捉えることができると思うんですね。
これ1つの見方です。
一方で、いやこれは2つの異なる単語なんだと。意味は確かに似ているけれども異なる単語だ。
だから同音類義語と言うべきだと考える見方もあると思うんですね。
この見方を後押しするのは漢字です。漢字が違うということはやはり違う語なんだという見方を後押ししてくれます。
このような立場に立つ場合には同音類義語の関係になるということです。
さらに言えば意味が似ているという点を過小評価して、むしろ書き方が違う、漢字が違うということを過大評価するのであれば、場合によっては同音異義語であると言い張ることすら可能といえば可能ですね。
これは見方1つということになります。
実際にはこの3つ目の見方、同音異義語であるという立場ですね、あまりないかなと思うんですけれども、最初の2つ、多義語なのか同音類義語なのかっていうのは割と揺れるんではないかと思うんですね。
実際に国語辞典を見ますと、例えば、孔子園と岩波国語辞典では、これ1つの見出し、厚いとひらがなで書いて、括弧してその後に書き方として、熱書、両方ありますよという言い方で、その中で語彙区分しているということなんですね。
つまり辞書の見出しだけで判断する限り、この2つの辞書の変算者はですね、1つの単語だと、その中に2つの語彙があるんだという形で、つまり多義語として処理していることになります。
一方、明教国語辞典は2つの厚いを別見出しで立てています。つまり処理の仕方としては、この2つの単語を別々に扱っている。つまり同音類義語、おそらく同義語とは考えていないんじゃないかと想像されるんですけれども、ここわかりません。
同音異義語と多義語の理解
少なくとも2つの異なる単語として立てているということなんですね。つまり辞典によって変算者によってこの辺りをどう考えるかという文字通り温度差がですね、あるっていうことになります。誰もズバッと決めることはできない。グラデーションだからです。
時代によっても違いますし、あるいは教授的に考えても個人によって考え方が違うかもしれません。このように多義語か同音異義語かどっちなんだということですね。さらに中間的に同音類義語という部分もこの辺りの区域もあるっていうことが問題をさらにややこしくさせているわけなんですけれども。
考え方一つということだと思うんですね。その際に文字が違うっていう場合にはおそらく同音異義語の方向へ異なる単語なんだという方向へ誘われるということが多いんではないかと思うんですね。
あついあついもしっかりですし、英語のフラワーフラワーもそうです。しかし見た目に惑わさらずにあくまで意味の関連、語源的関連であるとかそれを一旦知ってしまうと十分に近い、この2つが近いというふうに感じられるので、多義語という方向に考え方が惹かれていくっていう傾向はあるんではないかっていうことなんですね。
これを誰が最終的に判断するのかっていうことはなかなか難しい問題です。個人によって違うんではないかということなんですね。この知識によって語源的知識、意味的関係の捉え方によって立場が変わる、多義語か同音異義語かが変わるというのはですね、結構身近にあるんじゃないかと思うんですね。
英語でもですね、いくつか例を挙げたいと思うんですけれども、例えばクレーンっていう単語ですね。CRANEです。これは鶴なわけですけれども、もう一つの意味としてですね、機銃機、クレーンですね。工事現場のクレーンという意味があります。
さあ、この2つどう結びつけるのかつけないのかっていうことで、異なる2つの単語だ。つまり同音異義語だと考える向きもあるかと思いますが、一方で工事現場のクレーンの形と鶴の首の形。
この辺りが接点となって、いわば比喩、メタファーによってこの機銃機の意味が発生してるんですね。この事実を知ってしまうと、確かにこの2つは関係あるということで、じゃあ多義語ということにしよう。一つのクレーンという見出しのもとに語義1、語義2と挙げようと。こういう風な発想になるかと思うんですね。
このことをもし初めて知ったとしたら、その知る前は完全に別語だと思っていた。つまりクレーン1とクレーン2、たまたま形が同じなだけなんだと思っていたかもしれません。この辺りは知識によって、あるいは意味上、語源上の接点が明らかになったか否かということによっても、だいぶ判断が左右されるということはあり得ると思うんですね。
逆もあります。英語でlightのlightっていうことですが、これ様々な意味ありますけれども、形容詞としてのlightです。これは軽いって意味がありますね。それから明るいという意味があります。軽いと明るいっていうのは、なんとなく似ていますので、これは多義語なんだろうと思っている人がほとんどなんではないかと思うんですね。
ところが、語源を探ると、これは異なる形の異なる形容詞なんです。それが発音上を合一してしまったということです。ですが、多くのネイティブスピーカーも含めてなんですけれども、同じ形容詞ですし、全体的に色が明るいであるとか、色が薄い、軽いというような、例えばその辺りを接点にして、明るいと軽いっていうのが意味的にも関係するだろうと捉えられ、
すると、これは一つの見出し、lightという形容詞の見出しの中の語義1、語義2というふうに考えたくなるんではないかと思います。ところが通じ的、語源的にはこれは全く異なる語源の単語だったということなんですね。見方一つで、これは多義語とも言えますし、同音異義語とも言えるということなんですね。
これまで辞書の比喩を使ってきました。辞書においてクレーン1、クレーン2とするのか、あるいはクレーンは一つだけ立てておいて、その中で語義1、語義2とするのか、これというのは常に全ての辞書編参者が頭を悩ませているところなんですね。
そしてある辞書では、ある辞書編参家はこっちの選択肢を選ぶ、別の辞書編参家は別の選択肢を選ぶというようなことで対応が分かれるということもあるんですね。
したがって、この問題は捉え方一つということで、何か客観的にあるものを客観的に分析すると、必ずこれは多義語で、こっちは同音異義語だというふうに答えが出るタイプの問題では必ずしもないということなんです。
言語の解釈の多様性
捉え方一つで、どっちにも転びうる、つまり多義語と同音異義語、そしてその真ん中である同音類義語、これらの間の境目というのが非常にぼやけているということが分かったのではないかと思います。
エンディングです。今日も最後まで放送を聞いていただきましてありがとうございました。
小江戸のアルキニストさんからの質問にお答えしたわけなんですけれども、直接真正面から答えたかどうかは分かりません。
日本語の問題、英語の問題、これを合わせて比較対象しながら、もう少し多義語、同音異義語、そして真ん中の同音類義語みたいな問題については考えていきたいと思います。
そのような機会をいただいたと思います。ありがとうございました。
このようにリスナーの皆さんからのご意見、ご感想、ご質問、私自身もインスピレーションを受けながらですね、日々の放送というのを作っていきたいと思っていますので、ぜひチャンネルで取り上げてほしいトピック、その他ありましたら、
Voicのコメント機能、あるいはチャンネルプロフィールにリンクを貼っています専用フォームを通じてお寄せください。
それではまた明日。