「あの子は障害があるから仕方ない」──学校でよく聞かれるこの言葉、実は社会の設計が生み出した「余白」かもしれません。
2026年2月、文部科学省の検討会議で、全国の先生の養成カリキュラムに「障害の社会モデル」を盛り込む案が審議されました。障害はその人にあるのではなく、社会の環境との間に生まれる、という考え方です。
当事者として歓迎しつつも、「今頃か」という気持ちも正直あって。その間ずっと、学校という場所が知らないうちに子どもたちを余白に置いてきた現実があります。
先生一人の視点が変わると、教室の設計が変わる。そんな話を、今回はつぶやいてみました。
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📝 https://note.com/besus/n/n46743e937720
📺 手話・音声・字幕付動画(YouTube):https://youtu.be/Z2YCgez40RA
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みなさん、こんにちは。べぇぇこと伊藤芳浩です。 前回は配慮という言葉の裏側にある罠についてお話ししました。
今回も、似たような余白の話です。 場所は学校。ちょっと想像してみてください。
聞こえない子がいる。でも授業は音声だけ。 車椅子の子がいる。でも学校にエレベーターがない。
こういう場面を見たとき、多くの人はあの子は障害があるから仕方ないと思う。 でも待ってください。音声だけの授業の方に問題があるんじゃないか。
エレベーターのない学校の方がおかしいんじゃないか。 この見方の違いが障害の社会モデルです。
障害はその人にあるんじゃなくて、社会の設計との間に生まれる、という考え方。 前回の配慮の話で言えば、
してあげる側としてもらう側という構図そのものが、 社会の設計が作り出した余白なんですよね。
2026年2月19日、文部科学省の検討会議で、この考え方を全国の先生の養成カリキュラムに入れる案が審議されました。
当事者として本当に歓迎したいニュースです。 ただ正直今頃かという気持ちもあって、
日本が障害者権利条約を批准したのは2014年。もう10年以上経っています。 その間ずっと社会モデルを知らないまま先生になった人たちが、悪意なく子供たちを余白に置き続けてきた。
これは先生個人の問題じゃなくて、制度の設計の問題だったと思っています。 一つだけ、もっと踏み込んでほしいことがあります。
手話や点字を障害のあるこのための特別なものとして扱わないでほしい。 言語としてすべての子供が触れられる選択肢としてカリキュラムに入れてほしい。
聞こえないこの周りの子供たちが手話を少しでも知っていたら、教室という空間の設計がそこから変わっていく。
良かれと思って作られた学校の仕組みの中に気づかれないまま残っている余白がある。 それを変えるのは大きな予算じゃなくて先生一人の視点かもしれない。
そんなことを今日はつぶやいてみました。 また次回お会いしましょう。
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