アメリカンナイトGOLD
アメリカからこんばんは、NAKAMURAです。
このポッドキャストは、アメリカ研究留学3年目を迎えた私、NAKAMURAが日常についてだったり、アメリカ生活を経験した、また今楽しんでいる方を招きして、その方のアメリカ留学を掘り下げていきます。
この前、出てくれたマッサンという人に教えてもらったんですけど、クロワッサン屋さんが近くにできた。本店は多分どこかにあって、なんか文店みたいな感じで、なんかすごい有名なところができたらしくて。それで、クロワッサン、普通のクロワッサンかなと思って食べに行ったんですけど、まずサイズが、何て言うんだろうな、成人男性の手のひら開いたぐらいの大きさで。
まずクロワッサンの形が好きじゃなかったんですね、そもそも。平ぺったい四角のクロワッサン。クロワッサンの定義はよくわからないですけど、もはや。それで普通においしそうだなと思って、チョコクロワッサンを買ったんですけど、そしたら中がとろっとろで、最初とろとろがチョコだと思ってたんですよ。
そしたらあんまチョコじゃなくて、なんか生地がとろとろだったね。だから多分あれバターがすごくて、とろっとろなような中身が。で、それ食べたんですけど、僕結構オイリリとか甘いもの好きなんですけど、それでも結構一個食べるの重くって。ただその分おいしかったんで、また食べたいなと思いつつ、誰かとちょっと分けながらじゃないと、ちょっとコレストロールの塊で死んじゃうなと思いました。
そんなオイリリな食べ物がたくさんあるアメリカから、今回もお送りします。さて、今回のゲストは清水さんをお迎えします。今週もよろしくお願いします。
アメリカンナイトGOLD
それでは今回のゲスト清水さんです。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。清水佐紀と言います。今はカルフォルニア州ベイリアのバイオテックで遺伝子治療の研究をしている会社で研究者として働いています。
もともと最初、このアメリカに来るきっかけから話せばいいのかしら。
そうですね。
私は東京出身で留学経験もなく、アメリカや他の外国で住んだこともなく、私は東京生まれ東京育ち。大学は名古屋一律大学、薬学部です。薬学部出てるけど薬剤師ではないです。
普通に学部の時は、もう皆さんよりは私は不真面目な方だったと思うんですけど、バイトとか旅行とか学業よりもそっちの方にすごく充実した毎日を送ってたんですけれども、
4年生になって研究室配属されて研究始めた時に、ちょっとこれ面白いじゃんとなりまして、研究にはまりだしたのが4年生の夏過ぎというとても遅い時期で、そうすると陰死は受けていないわけね。
確かにそう。夏っすもんね、あれ。
なので、私は結局浪人するつもりだった。この浪人という言い方が正しいのかわからないけど、大学は卒業した後、そっから自分探しじゃないけど、結局大学の4年生の時に4年間で自分のやりたいことが見つかなかったんですね。
これっていうのがなかったし、私ちょっと浪人、二浪してるんで、大学入る前に。二浪してるだけじゃなかった、ごめんなさい。二浪して、私1回法学部建築学科に入学してまして、実家が建築だったので、ちょっと建築都合かなと思って入ったんですけど、やっぱり好きじゃなく、辞めてしまったんですね。
なので、デストで学学部入ったんですけども、学学部入った時に教授の先生たちから、君は普通に就職はできないからねっていうのは、すごい1年生の時から言われてたんですよ。
なんでですか?
え、だって普通はほら、
遊びまくってたから。
遊びまくる前です。
やっぱり留年してるし、浪人してるしか、浪人してるし、他の大学をちょっと仲大してるしっていう部分であまり良い印象がないから、普通に就職活動しても企業に入れることは少ないであろうと。
なので君の就職先は研究科薬剤師にするのがいいんじゃないか、的なことは教授に言われてた。
時代もあるんですかね。
それもあるね、確かに。
なので、そう言われつつも、じゃあって言って薬剤師も、面白かったけどめっちゃなりたいっていう職業ではなかったし、決まらなかった将来が。
なので、別にここまでも歳もとっているし、急いで就職する必要はないなと。
なので、大学卒業した後ちょっと考えて、そこからまた院師を受けるなり、なんなりすればいいかなと思ってたところ、研究がすごく面白くなっちゃって、私大学院に行きたいと。
4年生の夏過ぎに思って、そこからいろいろ調べたら、ちょうど偶然私が実際入った旧東京いかしか大学、大学院の医学修士っていうのがちょうどできた年で、その認可が遅れてて、本来ならば夏入試の4月入学だったのが、夏入試が遅れに遅れて4月入試。
えー。
5月入学。
お、すげーな。
合格発表の2週間後ぐらいにも入学みたいな感じで、すごい超ラッキーなことが起きたので、結局大学4年生を卒業するときには、教授に4月の入試の大学院を受けますと言って卒業して、
その4月に入試を受けて、5月から東京いかしか大学のウイルス制御学っていうところですね。
昔で言う医学部の微生物学科、微生物教室か、微生物教室に修士として入りました。
そこでここのウイルス制御学研究室って、ウイルスがHIVの、日本で初めてHIVを単位した先生がやっている研修室なので、メインはHIV。
もう1個はHTLVっていう、成人T細胞白血病ウイルスかな。大人に白血病を引き起こすウイルスっていうのがあるんですけども、そのHTLVと、あと胃がんを引き起こすと言われているEBバイラスの3つのウイルスを主に研究している教室で、
そこで私はEBを最初ちょぴってやったんですけど、すぐにHIVにちょっと変えて、そこからHIVの研究っていうのを始めて、もちろん研究が面白くなったところで大学院に入ったので、
毎日充実して、このまま博士行きますという形で、博士もそのまま同じ大学院の教室に行かせていただいて、ずっと続けていったんですけど、2年生の時かな、3年生の時かな、縁があって、東京の早稲田にある国立感染症研究所っていう厚生労働省の施設があるんですけど、
教授がちょうどそこのセンター長も兼任してたので、外見に行かせてくれと、ちょっとジキスをして、言ってみたかった、ジキスをして、最後の2年ぐらいはそちらで研究をしてました。
そこで研究してると、やっぱり海外で留学して戻ってきた先生たちっていうのがいっぱいいらして、そういう先生たちの話聞いたり、そういった先生の友達たちが日本に来日した時に講演会開いてくださったりして、それを聞いてすごく刺激を受けて、卒業したらすぐに私は海外でポストドックしたいと。
年も取ってるし、1年こっちでポストドックやってとかじゃなくて、もうすぐに卒業と同時に私は海外に行きたいですと、教授に私はジキスをして、ぶっちゃけ教授に留学先探してくれってやつですね。
本来ならばね、なんか自分で探さなきゃいけないんですけれども、私はちょっと先生にも頼んで探してもらいました。
ウイルスとかそういうHIVに興味を持ったきっかけっていうのは何かあるんですか?
大学4年生の時に、皆さん研究室に行く人たちが多いじゃないですか。
周氏だ、周氏の入試が終わった後にどこどこ行く、どこどこ行くっていうみんなの同級生の話を聞いて、あんまり仲がいい子ではなかったんだけど、その子が兄弟のウイルス圏に行くっていう話をしていて、何やるのって聞いたら、ちょっとその時は微生物とかウイルスとかにちょっと興味があったんで、何やるのって聞いたら、C型肝炎ウイルスだと。
C型肝炎ウイルスっていうのは聞いたことはあったけど、実際そんな全然知らなかったんだけど、彼女はそこでC型肝炎ウイルスでガンの研究をするって言ったんですよ。
それが私すごく、え、ガン?みたいな。ウイルスとガンっていうのが全然結びつかなかったから、すごくびっくりして、いろいろ調べたら、ガンを引き起こすウイルスがある。要するにガンがうつるっていうコンセプトを初めて聞いて、そこでちょっとウイルスに興味が出てきた。
で、いろいろ調べていったら、EBウイルスですね。胃ガンのウイルスとか、HTLVっていう白血病を引き起こすウイルスっていうのがあるっていうので、東京いかしか大学のウイルス制御っていうのを選んだんですね。だから、もともと最初は私はHIVっていうよりもガンウイルスに興味があって、その研究室を選んだ。
ウイルスってやっぱり見えないものじゃないですか。そういう点では僕はもうマウスとかそういう動物を使ってるんで、見えないものを使うっていうのが見てわかんないので、そこら辺はどういう感覚というか、どういう感情でやってるのかなって若干気になる。
DNAと一緒かな。あると信じて。ミニプレップしてもここにDNAはあるはずだって信じてやっていくじゃないですか。それと一緒。だから実際結果が出るまではめちゃめちゃドキドキする。わかんないから。
ウイルスできてんのかなとかウイルスかかってんのかなっていうのは毎回今でもちょっとドキドキする。良かったみたいな。
HIVとかってめっちゃ厳重なところで研究するんですか。
そうですね。日本は、当時まだ私は日本にいたので、日本だと一応P3ですね。こっちで言うとBSL3の形になるので、しっかりとした施設。だから感染研がいいんですけども、しっかりとした施設でやると。
でもHIVは空気感染ではないからそんなにマスクしなきゃとかそういうのではないです。
ああいうのってウイルスの研究してる人に聞きたかったんですけど、うつっちゃう時ってあるんですか。
実験していてうつったっていう過去の事例がないわけではない。要するにハリサシ事故で感染したっていう事例はあります。
あとまあ私は、私もマウスまでしか使ってないけど、猿とかちょっと人間に近い動物を使ったウイルス実験しちゃうと、
その糞尿が目に入ったとか、猿とかいたずらとかで投げつけてきたり、おしっこかけてきたりする時に、それがちょうど目に入っちゃったとか。
で、HIVに限らず、猿にはHIVないんですけど、
で、何か他のウイルスに感染してしまったっていう事例はあるそうです。
なんでもちろんすごい気をつけなきゃいけない。
そうですね、怖いな。他もAAVとかそんな大したやつしか使ってないんで。
まあね、実験に使うのはそうあるべきなんですけどね。
どうしてもHIVの場合は病原性とか病気としての研究だったから、AAVとかはベクターとしての使い方。
で、私はHIVの研究をずっとしてた縁で、レンチウイルスベクターとかもやるようになったんですけど、レンチを使う時はAAVと一緒な感じ。
レンチもまだBSL2、P2だとは思うんだけど、でもまあね、AAVみたいな感じでリラックスして使える。
最悪ついちゃったらやっべって思いますけど、まあ大丈夫かなってなりますもんね。
病原性はね、AAVはそんなにないと思うし。
最初は入り口はガンウイルスだったんだけども、興味の入り口は実際研究室に入って、実際ちゃんと実験をするとなった時にはHIVのお題が課され、HIVをどっぷり使って研究するようになりました。
それでウイルス研とかに行って、いろんな先輩の話を聞いて海外に行きたくなったっていう話でしたけど、どういう話を聞いたんですか、実際に。
あのね、コールドスプリングハーバーっていうところで、私たちのレトロとかは、HIVレトロウイルスは5月かな、に大きな学会があるんですよ。
すごく大きな学会って言い方は変だな。コールドスプリングハーバーはちっちゃいんだけどすごくインテンスな、少人数で朝から晩までずっとみんなで一つの会場も一つしかなくて、そこで議論し続けるっていう。
ご飯食べた後も、その後もまた発表があって、夜の9時まで発表があって、9時からはみんなでビール飲みながらまた実験の話して、それが1週間続くっていう。
1週間はしんどいな。
合宿の学会があるんだけど、その話を聞いたりするとすごいなんかうらやましくもあり、楽しそうでもあり、でもそんな英語力は自分にもないし、もちろんサイエンスの能力もないし、いつかコールドスプリングハーバーで発表したいし、その学会に行ってみんなとお酒を飲みながら酔っ払った状態でもサイエンスの話を英語でしたい。
っていうのを目標になりましたね。
確かに日本であんまりそういうのないですもんね。
普通の研究室にいてもそんななんか議論することもないし、ピザ食べながらとかお酒飲みながらっていうのはあんまりないですよね。
そうね。私いたこのウイルス業界はコールドスプリングハーバーのそれを真似して日本でもって言って、同じようなのはちらちらちっちゃな研究会みたいのは当時あったんですけども、でもまあみんながこれはコールドスプリングハーバーと同じ方法でみたいなことを言うから、実際本場の研究学会に行ってみたい、ずっと思ってました。
それで留学することに決めてすぐ行ったんですか?やっぱり卒業して。
論文出て、私がいた大学院は論文が出れば卒業が決まる、ほぼ決定っていうふうに言われてたところだったので、論文出たときに、出そうだってなったときに、とりあえず教授に、私海外に行きたいです。
どこでもいいんで、ヨーロッパでもアメリカでもいいんで行きたいです。
って言って、そこから教授はここ出せ、あそこ出せとか助言を出してくれるので、その通りにフランス行きたいんでフランス出しますとか、ベルギー行きたいんでベルギー出しますみたいな感じで送りつける。CV送りつける。
で、教授ここどうだって言ってくれるから、教授のお知り合いかなんかがいるのかと思いきや全くなくて、単に言ってるだけだったっていうのがほぼそうだったんだけど。
ほぼ無視された。CVを送りつけても、あなたの教室に行きたいですって言っても、別に私、グラントがあるわけでもないので、雇ってくださいっていうメールを出してたので、返信はなかったですね、ほぼ。
で、そんな中、そういうふうに私はずっと教授に言ってたので、教授が実は自分の教え子で、UCLAでずっとポスト読をやってたんだけど、その方が最近独立したと。
で、あんたが行きたいなら推薦してあげるよって言われたので、お願いしますと言って。
要するに、ラボの先輩になるんですけど、名刺のない、年数はかぶってないラボの先輩のところに応募して。
で、あともう一つは、当時のメンターですね、感染研でお世話になってた先生が海外どっかの学会に行ったときに、ちょうど売り込んでくれたの、私のこと。
最近、そろそろ卒業が決まってポスト読先を探している学生がいると言ったら、そこで興味を示してくれた先生がいらっしゃって、その先生からもうちにおいでっていうふうにオファーはいただいたんですけども、私はUCLAを選んで、4月から卒業したらすぐUCLAでお願いしますということで留学が決まりました。
それはUCLAともう一個どういう選択肢があったんですか。
UCSDかな。
ああ、なるほど。
まあ、どっちも場所的にはいいですね。
うん、そうそう。どっちもいい感じだったんだけど、SDの方がどっちかって言ったら、もう本当にモロ分子生物学っていう感じの研究室で、私が実際行ったとこはエイズインシティテュートっていうHIVの研究がそのまま続けてできる場所だったので、それでUCLAのエイズインシティテュートを選んだっていう感じですね。
そこでポスドクを、ウイルス、HIVを研究して、何か変わったことってあります?博士からポスドクの間で何か研究など。
もう全然違った。もう本当に全然違ったというか、HIVを使ってるっていうだけで、結局そのマスターとドクターの時って、そのHIV自体が研究対象だったので、HIVはこういう性質がありますよとか、HIVの転写の仕組みはこうですよみたいな、まあ教科書に載る仕事っていうのかなっていう感じだったので、
基本的な分子生物学の手法はそこで学んだっていう感じ。
だけど、ポスドクになってやりだしたのが、ちょうどそのUCLAのボスは遺伝子治療をやっているボスだったので、HIVの遺伝子治療をやるっていう感じだったから、分子生物学っていうよりも、もうイメノロジーだからもうファックス使ったりとか、
それこそヒューマナイズドマウス使って治療方法を見つけた。治療だったので、もう全然知らないことばかりで、大変でしたね。
確かに大変そうですね。
やったことのない実験を英語で、しかも知らない人から習わなきゃいけないみたいな。
ボスも立ち上げたばっかりの研究室なので、ポスドクが私しかいないわけで、何かを学ぼうとしたら隣のラボとか、ボスの共同研究先とかの人にすいませんって言って学ばなきゃいけないから、
私結構イントラバートなので、あんまり得意じゃないんですよね。そういう知らない人のとこ行って教えてくださいっていうのは。
そう、全然そう。
あそこですか。
でもそこでは本当に、もう学ぶことはないとか思ってたんですけど、そのところは鼻根高くなっているから、でも実際来て、もう使ったことのない機会もいっぱいあるし、本当に折れましたね。
いやけど楽しいですよね。LAっていろんな遊ぶところがたくさんあるし。
そういう意味では楽しかったですね。
しかもやっぱり、もう同じカルフォルニアとイドンも、こっちの北と南はもう天気も全然違くて、本当にノー天気にも雲一つない青い空なんですよ、ずっと。
何かうまくいかないことがあっても、外出ると、なんかもうすごい良い天気で、悩んでいるのがアホらしくなるぐらい、きれいな青い空みたいな、もう一回頑張ろうみたいに思える。
本当に天候に助けられたことは、とってもたくさんありますね。
確かに。晴れてる、サンフランシスコもそうですけど、天気で落ち込むことないですもんね。
嵐もないし、雨は多少ね、多少降るけれど、とても。
しかもそのUCLAってすごく良い場所にあって、ビバリーヒルズとサンタモニカ、ビバリーヒルズって聞いたことあるじゃないですか、サンタモニカも聞いたことある。
その2つの中間地形にあるんですね。
なんで本当にもうきれいで、どっちも近いし、海も見てる分にはきれいだし、すごい冷たくて泳ぐような海じゃないんですけど、本当に良い場所にあってきれいだし、高級住宅街だし、治安も良いし、すごく良い場所なんです。治安良いです。
治安なんか悪いもんだと思ったんですよ。
東側、ドジャースタジアムとかがある方はあまり治安が良しくないんだけど、サンタモニカ、ビバリーヒルズのあたりはめちゃめちゃ治安良いです。
金持ちの集まってますね。
そうそうそうそう。
それどんぐらいUCLAで過ごしてたんですか?
とても長く私は過ごさせていただいて、結局UCKってポスト学は5年間なんですね、マックスでも。卒業してから5年間っていうので。
5年間がっちりやりまして、その後もリサーチアシスタントっていう名前が変わったポスト学っていうのを結局3年やりました。
8年。
8年UCLAにいましたね。
じゃあだいぶエンジョイ。
もう私ポスト学はもう転職だと思ってて、好きでしたね。今でも一番好きな職業はポスト学ですね。
じゃあその8年間の間に夢であったコールドスプリンハーバーの学会に行かれたんですか?
そうですね、行かせていただきました。
今私大学院の最初の年にも行かせてもらったんですけども、4年生の時にね、すごくでも何もできなかったね。
何もできなかったですけど。
すげー気持ちわかりますね。
でもだからといってね、ポスト学で行ったからといって何かができるわけではないんだけど。
英語力とか。
英語力もそうだし、サイエンスももう全然。
やっぱりちょっとHIVって大きな話題なので、もう本当にピンキリなんですよ。
それこそ遺伝子治療から、それこそね、あの停車なりなんなりとか、ライブラリとか、もう全く知らない部分も全部漏らされるから、全部理解しようというのは本当に無理でしたね、当時は。
へー、そんな分野があるんだぐらいの感じで。
そういうやっぱり一つの病気にでもやっぱり、そうか病気ってなるとやっぱり知見が広くなりすぎるのさ。
で、HIVだけじゃなくてそのレンチも入ってくるし、あとHIVってほらHuman Immunodeficiency VirusでHumanしかないんだけど、SIVっていうサルバージョンとかもあるね。
で、そのSIVもそこに含まれるので、あのSIVの話も100%HIVと同じではないから、あ、そこ違うのかみたいな前提がないと話についていけない、バックグラウンドがないと話についていけないので、いやー何も分からないのが分かるってやつですね、本当に。
打ちのめされます。
面白いですね、そこまで分野が。みんなでそれを勉強するみたいな。
勉強するし、それがまたちゃんとさ、天才はいるわけじゃないですか、そこでも全部になんかすごい積極的に質問する若い人たちとかもいて、うわー、あの人たちにはもう勝てないと思っちゃいますね。
いやーいますよね、なんかアメリカ、日本であんまり言わなかったですけど、アメリカ来ると異次元の天才たくさんいますもんね。
それが英語力を理由にできない、英語のイントネーションからセカンドラング1だろうなって分かるような人とかでも、すごい積極的に発言して、頭良いじゃないですか。
アメリカ行くと、やっぱそう言って質問とかしたり、ちょっと外交的に無理矢理に慣らされるから、そういうところは結構いいところですね、アメリカ。
僕はアメリカ来て、無理矢理外交的にならないといけないんで。
耐えられますよね。
逆に今の状態で日本行ったら、なんか鬱陶しいかもしれないですけど。
まあそれはそんなように、アメリカだとね、おとなしいやつなのに、日本帰ったらうるさい奴になるんですよね、きっとね。
でもまあそれがまたね、それこそ私みたいに学生さんにはいい刺激になるんですよ。
あのうるさい人何?みたいな感じで言われて、いやアメリカから来てる人だよ、みたいな感じになると、ああいう風になろうって、頑張ろうって思う学生さんもいるかもしれないから。
確かに確かに。
そう、そう思うようにしてました、私は。
いいスパイスになればいいですね。
そうそうそうそう、思い込みかもしれないけど。
アメリカンナイトGOLD。
いやだから本当にアメリカのサイエンスの環境、私はもう刺激的で楽しくてしょうがなかったので、なので8年ももう帰ることを考えてなかったですね。
そっから8年いて、どう、どういう道を選んだんですか?
結局そのやっぱりボス独家はもうすぐ終わりそうだってなった時に、ちょうどビザの期限もあるし、ちょっと真剣に今後どうするかっていうのを考えるじゃないですか。
で、私ボスは若い先生だったし、いいよこのままずっといてって言ってくださる先生だったんですけども、
やっぱり自分としてね、いやそれじゃいかんだろうとちょびっと思いまして、
2つ、アカデミアに残るかインダストリーに行くかっていうのを考えて、
アカデミアは私には無理だと、もう能力が足りなさすぎるっていうのは身に染みてこの5年間で感じていたので、
まあボス独でいさせてくれるって言うんだったら全然ね、いたかったんですけど、私は多分PIとかは無理なので、
インダストリーに行こうと考えて、そこで次に問題になるのはビザですよね。
で、インダストリーに行こうと決めた時にもうグリーンカードと思って、
で、そこでグリーンカードを取るためにはどうしたらいいかっていうのでちょびっと活動をして、
その時そんなにね、必死にグリーンカードを取りに行ったわけでもなかったので、
ボス独じゃ取れないよみたいな感じで言われたら、
じゃあリサーチサイエンティストになってからやるわみたいな軽い感じでやってて、
結局そのリサーチサイエンティストになった時に、
同時にJビザだったのをHビザに変えたんですけども、
その時にHビザに変えたと同時にグリーンカードの申請をした方がいいみたいなことをすごい言われたので、
で、そこでもすぐ相談に行ったんですね。
ちょうど私その時はスクラブメディスで医学部の所属だったので、
医学部のそのビザのオフィスに行って、
グリーンカード取りたいんだけどっていう話をしに行ったら、
UCLAとしてもちろんサポートはすると、
サポートはするが、君はまだ1ビザが、3年の1ビザが2回あると、
6年待ってくれと言われて、
要するに他にもっと切羽せまっている人たちがいっぱいいるから、
そっちを先にサポートしたいから、余裕がある人は後回しと言われて、
自分はインダストリー行こうと決めてやりだしたから、
もう6年って言ったら、待てない、待てないと思ってしまって、
じゃあ他に方法はないかっていうので、
今度は弁護士のUCLAとHビザを取った時に、
お世話になった弁護士の先生に相談したの。
そしたら、UCLAのサポートなしでも取れる方法があるので、
そちらで取ったらどうかって言ってくれたので、
じゃあそちらで取りますと言って、
要するにEB-2のNIWっていう、
ナショナルインタラストウィーバーっていうカテゴリーがあるんですけど、
そこだとサポートなしで。
セルフサポートみたいな。
それで、グリーンカード取りました。
結構時間かかりますよね、グリーンカード取るの。
それがね、当時はね、本当に20年って言っちゃあれかもしれない、
20年前のお話で、私半年で取れたかな。
早っ。
ちょっと書類用意するまでには時間かかって、
しかも私6ヶ月、書類出してからの間にエッジビザがちょっと1回切れちゃったのね。
なので、追加書類みたいな感じでエッジビザ切れたけど、
まだ次のエッジビザあるし、UCLAでまだ同じように雇用されてるよっていう書類を出してっていう
クエストが来て、それ出したからちょっと遅くなっちゃって6ヶ月になっちゃったんだけど。
でもまあ。
今だって1,2年かかっちゃいますもんね。
本当に。
今はね。
グリーンカードは取れたんだけど、その後に職探しが1年かかって、
なかなか仕事が見つからなかったので、トータル8年。
それは何が難しかったんですか、そのインダストリーの職を得るのは。
まあやっぱり全くコネがない状態で、
本当に候補しか出してない。
誰かの推薦でとか、自分がこのUCLAに来た時みたいに教授の知り合いとかそういうことも全くなく、
本当に一般でやるたので。
確かにしんどそうだな。
全然、全然呼ばれなかったですね、面接にも。
それは結局その方法で職をつかみ取ったんですか。
そうですね、結局1年やり続けて、1年後に候補で出した会社が面接呼んでくれて、
実際オファーをくださったので、
それで、それがちょうど、その時はバックレイだったんですけど、
バックレイ、エメリービルですね。
エメリービルにある会社だったので、そこでエメリービルに引っ越しますって言って、
UCLAを辞めて、こっちにベイリアンに引っ越してきました。
ここでやっとベイリアンに来るわけですね。
そうです。8年いたLAがもう恋しすぎて、本当はね。
恋しいですよね、LAに住んでたの。
やっぱり本当全然違いますからね。
そう思います。
やっぱり8年いるとそれなりにお友達もできるし、自分の世界もできてくるから。
確かに確かに。
それで企業はHIVの研究を10年以上してきたわけじゃないですか。
企業もウイルス系なんですか?
そう思って最初はウイルスが、HIVがいいとかウイルスがいいとか思って探してたんですけど、
なかなか引っかからないし、やっぱりそんなに数はないですね。
HIVやってる会社っていうのは、ギリアンとか有名なとこあるんですけども、有名なところには引っかからなかったので、
どんどんずれていって、結局レンチウイルスベクター。
そこの会社はカーティー、癌に対する遺伝子治療っていう言い方していいのかな。
カーティーをやりたいっていう会社で、カーティーをやりたいから、
レンチウイルスを使える人、遺伝子治療をやったことある人、
T細胞に対するバイオロジーがわかっている人っていうような募集で、ぴったりじゃんみたいな感じで、
そこにオファーを無事いただけて、そこの会社に1年間働きました。
企業で働くって研究者としてじゃないですか。
それはポスドクと変わるんですか。
これがね、私は最初は変わらないと思ってたんですけど、めちゃめちゃ変わりましたね。
私はアダプトするまでに結構時間かかってしまって苦しんだ方なんですけど、
結局ポスドクの時って1人しかいなかったし、後で最後の方は何人かポスドクもいたんですけど、
1つのテーマを自分の研究、自分のテーマとして実験をしていくじゃないですか。
だから、私ウエスタンしかやらないよとかそういうんじゃなくて、
全部研究の論文になる道筋の実験は全部自分でやるし、
あんまり人にやらせちゃうと自分の研究じゃなくなっちゃって、
ファーストオーサーももしかしたら取られちゃうかもしれないから、
頑張ってね、全部自分が責任を持ってやっていく。
オーダーシップは自分だっていうので、主張してやっていくじゃないですか。
そこで一年間働いて、
そうですね、一年間働いて、
一年後にレイオフされまして、
レイオフ、初めて、
初めてのショックで初めてレイオフされて、
すごいショックだったし、
レイオフって首じゃないですか、
ドラマとかだとよくその日に首になるじゃないですか、
そんな感じなんですか?
うん、その日に首でした。
そんな感じなんだ。
思い出ないな、朝だったかな?
私2回くらいレイオフされてるんで、
その時は多分朝だったと思うけど、
違う、夕方だったんだ。
普通に1日過ごして、
4時くらいとか3時くらいからいきなりボスのミーティングが入って、
なんだろうみたいな突然ミーティングだって言って、
ミーティングの部屋に入ると、
HRってHuman Resource人事の人がいて、
もうそこであって分かる。
アサイエンスの話じゃないな、これはっていうので。
で、そこで言われて、
レイオフって結局会社都合でやめてくださいなので、
私が悪いとかパフォーマンスが悪いとかではないんですけれども、
でもやっぱり自分ではそう思うじゃないですか。
うん、気分は良くないですね。
そうそう。
なので、要するに会社にいらないと言われてるわけなので、
それに対する精神的なショックっていうのはものすごくあったし、
自分的にはUCLAの楽しいポス独自家、
ポス独の環境を捨てて、この子に来たのに、
1年でクビになって、レイオフになって、
私、LAからこっちに来たのは間違った選択だったんじゃないかとか、
なんかもうすごくショックでしたね。
確かに、メンタルやられますよね。
けど、それどうしようもないから、次のショックを見つけないといけないですかね。
そう、その時は本当にどうしようもないというのが分からなかったので、
私結構反論しちゃったりしてたんですけども、
なんでだみたいな感じで。
だけど、今だったらもうたぶんそんなことしないと思うけど。
やっぱりあがいても無駄なんですね。
うん、もう決まったディシジョンなので、あがいても無理だし。
それなりに退職金もいただけるので、
すぐに経済的にはどうのこうのというのはないんですけど、
職探しはしなきゃいけないし、
そもそもアメリカのシステムもよく分かってなかったりするので、
一応カルフォルニア州から、あれ私お金もらえるのかなとか、
いろいろそんなもらえるはずだよね。
グリーンカードまだ取って1年目だけど、2年目だけどもらえるのかなとか、
分かんないことだらけで、
すごくどうしようというのがすごく多かったですね、大きかったですね。
でも同僚もすごく優しくて、
同僚たちもそういう経験をしてきてる人たちだから、
すぐにメッセージくれたり電話くれたりして、
大丈夫だよ、ベイリアってやっぱりそれなりに会社も多いし、
私たちがここにいる理由はすぐに他の仕事を見つけられるからだよというので、
ここにいたら地方から、私がLAからこっちに来るのに1年かかったじゃないですか。
だけどここにいて1回このインダストリーのこの中に入ってしまえば、
そんなにかからないから大丈夫と言われて、
それで泣きながらまたCV書いてまた送っていて、
そこでもまた私は1年間全然日本人の集まりとかアメリカ人の集まりとかも行ってなかったので、
コネクションがなかったから、
あの、応募です、また。
応募でもう1回があって応募して。
ベイリアの方が若干楽というか、結構早く見つかるものなんですか?
次の仕事は3ヶ月後に見つかったかな。
なんで、クビになってから3ヶ月後には新しい会社で仕事が始められた?
なんでホントホッとした。
ホントだった。
そうか、レイオフの話は結構よく聞くけど、やっぱり実際にドラマのそのままなんですね。
そうですね、私は今までは、2回目のレイオフの時には、
そこもすっごいちっちゃな会社だったんですけど、
一応夕方にまた面接で呼ばれて、ミーティングで呼ばれて、
でもこのままコンピューター置いて帰ってっていう形で、
その日に。
そう、その日に。
要するにその面接、ミーティングが終わった瞬間から、
もうHRの人がそばについて、
で、ダンボール持って、そこに私物全部入れて、
そのままでコンピューターこれですって置いて、そのまま帰って、
IDとかも全部置いて、一緒にHRと一緒に玄関に出てくる。
よく聞くのが、Googleとかパソコンを開くのが怖いっていう、
ログインできなくなるっていうのはよく聞きますね。
そういうのはやっぱ怖いっすね。