#32-1 社会における労働の変遷と理学療法関連業務における生産性
2026-07-22 42:33

#32-1 社会における労働の変遷と理学療法関連業務における生産性

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堀 寛史

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田代雄斗

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サマリー

本エピソードでは、労働の意味と価値について歴史的変遷を辿りながら深く掘り下げています。狩猟採集時代から産業革命、そして現代に至るまでの労働の変化を考察し、賃金や富の分配、格差といった現代社会の課題に触れます。また、理学療法士の仕事における生産性や、教育・研究といった多様な働き方におけるやりがいや難しさ、そして個人のアイデンティティと労働の関係性についても議論を深めています。最終的には、変化する社会の中でレジリエンスを高め、自身の存在意義を見出しながら働くことの重要性を説いています。

労働の概念と歴史的変遷
こんにちは、田代です。こんにちは、堀です。 Advanced Therapist エピソード32本目ということで、今回は労働とか働く意味とか、ちょっとその辺りから問い直していきたいなと思うんですけど、個人的に最近メンタルヘルスとか、働く人のプレゼンティーズムっていうような、働いてはいるんだけど、なんか生産性落ちてしまっている現状みたいなことをちょっと考える機会があって、なんかそもそも働く意味とかですね、そこからちょっと考え直してみたいなと思います。
はい、よろしくお願いいたします。労働っていうことをちょっと考えてみようという話を先ほど田代さんとやって、それで話し始めてるんですけども、労働というもの自体が、なかなかこう改めて考えてみると難しいテーマであるなというふうに捉えています。なぜかというと、ものすごく簡単に言うと、労働イコール賃金というふうに見すぎている部分が、現代の人たちってのがあると思うんですよね。
労働というのはそもそも何で行うのかということを考えていこうとした時に、やっぱり歴史的な観点から見ると、現代におけるような労働というのはまさに現代に作られているわけであって、以前の労働というのはもう少し違ったんだというところになってくるわけですね。
我々は現代の労働というものと過去の労働というものをまずちょっとコントラスト的に明確にしておく必要があるだろうなと思うんですけども、そのあたりって田代さん、僕が言っていること分かりますか?
そうです。どこまで深掘るかですけど、もう本当に歴史的に見ていけば、城は最終から農耕になったりして、そこから第一次産業、第二次産業、第三次産業みたいな国もあったりして、最近だとどっちかというとものづくり的な、物は穂がした時代だとどっちかというとサービスとかデジタルとかが増えてきているようなエコ産業構造の変化はあるかなと思いますし、また医療・介護・福祉とかは変遷があるかなと思うんですけど、なんとなくそんなイメージです。
一番労働といったものに捉えなければいけないのは、先ほど田代さんが狩猟採集とかっていう話もあったと思いますけど、比較的古い1000年くらいのところ、比較的新しいですね、1000年くらいのところに戻ると基本的に自分で田肌を持ちとか、あるいは自分たちで魚を獲って、そしてそれを場合によってはお金に変えることもあったけど、いわゆる田舎の地域だと物々交換等々で、
行っていました。基本的に子どもをたくさん作る理由というのは労働力が欲しいからというところで子どもを作ると。家族もしくはその周辺の小さな村というところが経済的なものであったわけですね。欲しいものといえば、例えば塩が欲しいとか、そういう普段手に入らないものだけで交換していて、
養生なものを交換するという経済圏というのはあまりなかったわけですよね。例えば新しいiPhoneが欲しいとか、あるいは新しい時計が欲しいとかっていうのは、これは労働の対価という意味ではもちろん物がなかったということになりますけれども、欲しいものって言った場合は、本当に仕様がないから、あるいは鉄がないので、例えば釘が欲しいから鉄が欲しいとかっていう必要条件を求めていたわけですよね。
それが産業革命ぐらいが始まる段階で、結局労働というものはある一人の資本者が大量な金額を稼げる、そしてそれを誰かに分配して数多く何かを作るっていうところ。いわゆる余剰をたくさん生み始めたっていうことですね。
その余剰というのは物の余剰にもなりますし、あとは一人の人がものすごく取ってしまう、いわゆる特権階級の富の独占が起きたということが産業革命によって起きてくるわけです。
現在は特権階級が富を独占しているという状況が改めて起きているということです。産業革命期に起きて一旦なだらかなように見えたんですけど、さらに現在は特権階級の富を独占。その代表が僕は好きなんですけどイーロン・マスクですよね。
日本でもやはり一部の株主が富を独占するというようなことが今も起きているということになります。このあたりでまず労働の根本の原理というものはなんとなく見えてくると思うんですけど。
フランス革命とかであれば貴族と一般市民の格差みたいな感じでしたけど、そういう形じゃなくても資本主義の中での格差が大きい中でどうしていくかというか。
さっきの消費するみたいなものも生活に必須なものだけじゃなくて規模消費的なブランドみたいなものとかもできているかなと思うので、労働するものと交換するものも現代に近づいていろいろ変わっていってるんだろうなと思いました。
そうですね今のフランス革命は一つすごく重要な例でフランス革命以前というのは王政が惹かれてたわけですね。それは国そのものは王の所有物であり土地にしろすべてのものは基本的に王や王あるいは貴族の所有物であって労働者っていうのはその人のために働いているというのが基本になりますから自分たちが所有物っていうものを根本的には持ってないわけですよね。
資本主義と格差の拡大
だけどもその民衆化することによって富の分配が行われて例えば土地あるいは家労働者というものをその人たちのものになった。だから王が持つものではなくて民衆が持つものに変化していったと。
基本的なバランスというのは選挙によって決めて誰かの代表に話し合わせて方針を決めていくっていうようなのが民主化なわけですね。現在は民主化でありつつもその民主化というのが本当に民主化なのかよくわからないような状況になっているというのが今の世界実情になってくるわけです。
1800年代にいわゆる作業革命だとか民主化というものが進む中でちょっとこれおかしいんじゃないかというところで出てきたのがマルクスになってくるわけですけど。マルクスはやはりそういった富の搾取とかっていうのとやっぱり労働の基本的な考え方っていうのが違うんじゃないかというのにアンチ提前を出して資本論というもので相当に影響を与えたということになりますし。
一番わかりやすい影響というのはいわゆるロシア革命になってくると思います。
なので我々自体が生まれた後にはもういわゆるその共産主義系の力ってのは弱まったと思いますけれども1970年代ぐらいまでは非常にこう共産主義というものが強く現状を中国も共産主義というものを使っているということにはなりますけどハイブリッドシステムなのでマルクスが言っているものとは違いますけれども
そのマルクスが掲げた共産主義というものは基本的には生き残ってはいないんですけどもただその考え方として僕は正しいと思っています。
マルクスの労働観と現代社会
なるほど。なんかその共産主義あたりだとやっぱりなんですかね所有の権利だったりとか職業選択の自由とかそのあたりも関わってくるという感じですかね。
いわゆるこうなんていうのかな労働というものが一体何なのかということになってくるんですけどマルクスあたりは労働というものを賃金を稼ぐためのものではなくて
我々が自然だとか世界とかに何を働きかけててそして自分自身の形成の手段であるというふうに捉えているわけです。
だけどそういうふうに捉えている人ってあまりいません。だから僕がマルクスが正しいって思うこと自体というのはその自分の能力であるだとか自分の意思だとかっていうのがその労働に反映されるということなんですね。
だからその自然界あるいは世界あるいは社会というものに投げかけていって自分がちゃんとそういうある種の社会インフラになっているというになってくるのがマルクスの考え方としてベースにあるわけです。
現状というのは自分たちが社会インフラになっているって考えると社会の歯車で何か搾取されている側みたいな考え方になってきますし
自分は本当はこんな仕事したくないのにってよく言う若者。じゃあ何がしたいんですかって言ったらないんですよ。要は現状だけが嫌だ。
つまり自分が何かしらその社会に働きかけているっていうような認識というのが非常に低いっていうところ。
マルクスにもう一回立ち戻ろうとするとそういったところがいるんじゃないですかということですね。
理学療法士の仕事と社会貢献
なるほど。セラピストがよく抱えるような医療介護福祉とかも社会インフラ的な仕事に近いでしょうし、教育とか大地産業とか生活に必要なところだと近いですけど。
社会に本当に必要な一方でそういうところの結構賃金が低くなってしまって、どっちかというと資本主義的な意味があるのかないのかプルシッドジョブみたいなものの方が意外と稼げちゃってるみたいなのが結構社会の歪みみたいな感じですかね。
そうですね。なので需要と供給のバランスによって賃金が変わり、自分自身の努力値によって変わるものではないというところに絶望的な思いを覚えたりする人たちはやっぱりいるのかなと思ったりはします。
序盤らしさのプレゼンティーズムとか生産性みたいなところだと、そういう社会に必要なことをやってるんだみたいなところの意識が強くて、そこに意義を感じてる人は例えちょっと賃金低かったりしても生産性高く西に働けるかもしれないですけど、
自分の欲でというか何か所有したくてとかやりたいことがあってっていうとそれだと満足いかなくてっていうような形もあると思うんで、働く場と個人の特性みたいなところでも結構生産性とかメンタルとか影響してくるんだろうなと思いました。
労働の価値というところだと思うんですけども、労働をしないっていうこと自体は生きていく上ではありえないと思うんですね。どんなことでも要は労働になるわけですよ。例えば朝起きて布団を剥いで布団をちょっと畳むとか、それも労働じゃないかと思うんですよね。自分で朝ごはんを準備して食べるこれも労働なわけです。
なので労働といったものが必ずしも賃金というものに影響されないもの、それと誰かが望んでいる生産をすることによって賃金に影響するものだとかっていうように労働というものはいくつかの種類にある。それが活動と労働というものをどういうふうに分けるかというところになってくると思いますけども、現在我々は労働といった場合に誰かのためにやることであったりっていうところに一つ影響があって、
なので社会参加のところになってくるわけですね。活動を一個超えたところに労働というものが現れると。その労働を通して対価として何かしらを得る。それの代表が賃金であると。その賃金というもの自体が数字になってしまう。途端に数字になるわけですね。数字になった瞬間に人というものは誰かと比較ができるようになってくると。
その比較ができるようになって自分が能力がある、自分が能力が低いというような能力対価に変えられてしまったりだとか、自分の社会的評価というものに変えられてしまうことによって比較級的に自分が苦しくなってくる。あるいは自分が誰かに対してマウントを取ってくるということがあり得るということですね。
そうですね。労働の種類みたいなので、ちょっとはっきり覚えてないですけど、ハナーレントとかが労働と仕事と活動とかでしたっけ?生きるためにやる。
労働仕事活動です。
活動的なところは政治みたいなところも入ってきたような気がするんですけど、そのバランスというか自分にとって意味の感じるところみたいなことを見ていけると、個人にとっては改めて仕事について考えるきっかけになりやすい。
そうですね。アーレントのところで言うと、労働というのは生命活動に関係あるものであって、仕事というのは何かしらを政策するということ。活動は他社とともに公共世界に触れるということになってくると思いますので、
我々がどのように社会にコミットしようとしているのかというところは、確かに今のアーレントの労働、仕事、活動というところに分けていくと良くて、活動的な方が例えば意欲が湧くのかもしれませんし、
労働というのはあくまでも飯食うためにやってるんだ、みたいな。仕事というのは好きでやってるんだ、みたいな感じになるのかもしれないですね。
そうですね。その辺で行くと、何でしょう。さっきの共産主義とかで行くと、労働とどっちかというと活動が、あんまり仕事のやりたいことみたいなのは入ってきてないみたいな感じですね。
労働というのが社会構造の中でどのような立ち位置にありつつ、そして社会によって何が奪われているのか、社会によって何が得られているのかというところを、労働というものを主語に見ていくということが必要だと思うんですね。
ハンナ・アーレントの労働・仕事・活動
理学療法士という立ち位置でももちろんいいですし、先ほどのプレゼンティーズムとアブセンティーズムという、これはどこから出てきた言葉なのかなんですけども。
アブセンティーズムというのは働いていない状態で、プレゼンティーズムというのは働くときの労働性が落ちているような、要は仕事からドロップアウトしていく前段階ですよね。
アブセンティーズムというのは休んでしまうという状態で、これがメンタルヘルスにもフィジカルヘルスの影響でもいろいろなものとして最近語られているという言葉なんですけども。
だからそれらを労働となったときに、根本的に労働というものが嫌なものとしてあって、その嫌なものを我慢して我慢しきれる人は大丈夫だけど、我慢が効かなくなるとプレゼンティーズムになって、我慢できなかったらアブセンティーズムになるみたいな構造になっているなという感じはあるんですよね。
個人の合理性と組織の論理
社会構造を一旦ちょっと切り替えて、堀先生自身で行くと仕事の意味とか、これまで生産性高く働けてるなっていう内容とか時期とか何か思えたことはありますか?
生産性が高いというところは実はそんなに感じたことはないんですけど、要は嫌なことはやらないっていうのを徹底してきた人生なんですよね。
だから嫌なことが見つかったらそこから離れるっていうことをやってきたなと。つまり自分自身が労働というものに食われていく感覚ですよね。
要はそこに本質的な意味が見れない。一番僕が最初仕事をし始めてとても嫌だったのが書類だったんですね。
要はカルテを書く、あるいは報告書を書くっていうところ。ここはすごい割り切って、今だったらあまり許されないかもしれませんけど本当に適当なカルテを書いてたんです。
なぜその適当なカルテを書くかというと、当時は担当制なんですよ。要は自分の症例を他の人が見ることがほぼないという状態ですね。
だから自分の中のデータベースに入れておけば、入院から退院まで基本全部自分が見る。報告書もドクターと会話してこんな感じですわみたいなんで話してる。
だから報告書も適当に書いてると。ものすごい短文でちょっちょって書いてあって、僕はカルテの不備っていうのは基本ないんですね。書いてるから。
だけどもしっかり書く人たちっていうのが書く時間がなく残業して書いて、あるいは残業している人の方がカルテ不備が多いんですね。報告書がないとか、この日のカルテの記載がないとか。
なのに上司から僕が怒られるんですよ。お前は適当にやりすぎだって。なんで不備の人は怒らないんですか。いわゆる病院に迷惑をかけてるのは向こうですよねっていうような、そういった上司とよく喧嘩してたんですよ。
そういう僕は無駄だと思われることっていうのにものすごくストレスを感じるんですね。
だから書類仕事っていうのがどうしても嫌だったっていうのがあって、最初の職場を、最初は辞める職場のきっかけはそれが主ではないんですけど、それもどっかに引っかかってあったなと。
だから嫌なことっていうのがすごくあったと。だからこう生産性とつながらないっていうものはすごく拒否していいだなというふうには思います。
そうですよね。その嫌なことから離れるっていうのも一つの戦略ですし、そういう感動性であれば効率化して合理的に考えればそれでいいよねって感じだけど、周りからというか上の人から見るとちゃんと考えてなさそうみたいな見えちゃうっていう。
個人にとっては合理的なんだけど、組織とか感情的には許せないみたいな感じがあると確かにストレスを持ってなさそう。
そうですね。だから組織の合理性というのは適切な記録を残すことではなくて、早く帰る人間がいるのは手を抜いているんではないかというような、精査されずに見られるってことですね。
そういうのが確かにあったなと。今の状況って逆に残業するなというのが理学療法の場面でもよくあると思いますので、そうなると僕の方が仕事はやりやすいのかなと思ったりはしつつ、
ただやっぱり18単位取っていくと考えた時に、だいたい労働時間が7時間から8時間の間になってくると思うんですけども、その間18単位っていうのは基本6時間。
それにいろんな移動だとか考えてプラス20分したとしても、まあまあカルテを書く時間だとかっていうのは余裕は取られてますし、
ここにカンファレンスだとか自己計算時間だとかと取られているので、本来は余裕があるように見えて、ただやっぱり18単位をきれいにぎっちり入れていくっていうこと自体がなかなか難しかったりするので、
働き方って考えた時に時間的余裕はないよね。僕らはなんで時間的余裕があったかって言ったら、9時5時の労働と考えてなかったからですよね。
9時8時とか9時9時ぐらいの労働時間で考えてたから時間的余裕があったっていうのは事実なんですよ。確かに5時で終われって言われたら無理だったんですね、僕らは。
時間の捉え方も時代によって変わりますし、理学療法士でいくと単位数みたいなのが結構わかりやすい指標ですけど、その中で患者さんとどう関わるかみたいな質的なところもあるでしょうし、
処理業務も含めた雑務も含めての労働と考えると最適なのはどういう形なのかなと。
世代間の働き方と価値観の変化
僕らの時代はしんどくて、今の時代がしんどくないかっていうところで言うと、おそらく仕事の量と仕事の時間は僕らの時の方がしんどかったんですよ。
4週6休でしたし、休休は基本ゼロ、使えない状態で、9時8時ぐらいの仕事をずっと続けてきたっていうところ。
ただ何でそれができたかっていうと、将来的にこの修行が必ず賃金に結びつけられるというような、ある種のマントラのような捉えているものがあったわけですよ。
だから必ずここで頑張れば自分は次移る時とか、将来的に高い給与を得られるというような、ある種確信があったわけですよね。
その確信というものは最終的に裏切られることがほとんどなんですけども、それが自分自身の気持ちをつなぎ止めてたと思います。
逆に今の人たちっていうのは、働きながらそれが約束されないっていうこと自体がすごく辛さの影響になってくる。
つまり労働というものがその対価として帰ってこないっていうものを見せられてしまっているということだと思います。
そうですよね。
なので今現在の純粋にこう仕事量が多いかどうかっていうだけじゃなくて、それが未来につながるかどうかっていうのがイメージとか確信持てるかどうかでも、その時のメンタル状況って変わるような気もしますし。
労働の楽しみと理学療法の発展性
年代によっての変化でいった時に、ちょっとこの収録前でも中年危機とかミドルエイジークライシスみたいなところもありましたけど、
現場で働いてた人が管理職になるとか、そういう変化によっても起こるかなと思うので、年齢とか働く環境によっても結構違うんだなと思いましたね。
だから労働っていうもの自体を一つの楽しみとして捉えていくことができないとずっとしんどいだろうなぁと思ってはきますし、
特に理学療法士っていうのが大学卒業して22歳ぐらいでなって、現状だと60歳あるいは65歳定年までの中で、同じことをずっと発展せずに繰り返していくっていうことであれば、まあまあしんどいなぁとは思ったりするんですよね。
だけどこれが例えば落納だとか農業だとかっていうのも基本的には同じことを繰り返していく。だけどその人たちっていうのは日々の変化、特に自然との戦いになってくるので、その自然との戦いの変化の中に面白さと苦しさを感じていくわけですよね。
我々理学療法も人との対話なので、人とが変化していくので、同じことをやっているかっていうと全然同じことはやっていないっていうところに気づいていくっていうのはすごく重要なことかなと思ったりします。
なるほど。あとそうですね、教員的な働き方と生産性みたいなのを考えていくと、どんなフェーズがあるとか考え方はありますか?
教育における即時効果と経時効果
これはねとても難しい問いで、理学療法って僕自身は即時効果と経時効果っていうのを2つ見てるんですけども、即時効果が出しやすい現場が僕は好きなんですね。運動機なんかっていうのはその都市療法とかを使うと即時効果が出やすいと、その即時効果の連続性としての経時効果を僕は見るタイプなんですよ。
だけども、経時効果だけを見ていくっていうと、狙いが当たってるか外れてるかが分かんないんです。例えば脳卒中の麻痺とかもそうですし、肺腰症候群の人の体力の増加とかっていうのは本当に自分がやったかどうかが見えないっていうのがすごく、あとは担当性じゃなくなると自分の効果ではなくてチームの効果になってくると、
労働の中での自分の立ち位置というのが見えなくなってくるっていうのがまず理学療法としてはあるだろうと。だから僕はものすごく単純に自分の即時効果が出せる分野が好きだっていうことなんですよ。これ教育ってなってくると、教育って即時効果が出ないんですよ。
だから即時効果が出ないこと自体になんとなく不安を感じつつ、ただ4年間の変化の中でその満足度が高くなってくればいいなという形で見ているということはあると思います。あとはその教育自体は僕のスタンスは僕が与えて何かが変わるっていうような見方をするよりも
アクティブラーニングのような方法を学生が身につけてくれる。つまり授業を聞くっていうこと自体で何かを得るというより授業後に机に座って考え直してもらうというリフレクションの時間をどれだけ持てるかということを僕は重視しているんですね。
だから授業そのものの例えば決められた教科書を一冊きれいに終わるということよりも、その教科書を後で見直そうとすること自体に重きを置いているんですね。だから自分自身にとって労働の対価があるとすれば学生がそういうことをやってるっていうことがわかったら、これは少なくとも自分の教育の効果かなというふうには見ます。
なるほど。
理学療法でも患者さんの即時的な変化とか、さっきの農業とかでも自分が介入したら変わるみたいな。自分が介入して変わるものっていうのは自分の存在意義を感じやすいと思うんですけど、
教育みたいな本当に自分が関わったことで価値があったのかどうかわかりづらいところだと先ほどのリフレクションみたいなものとか、何か自分の中での存在意義というか関わった価値みたいなものを軸を持っておかないと結構きつくなってきたりしますね。
だから他社の中、特に理学療法もそうですし教育っていうのは、効果っていうのが対象の中に見るわけですよね。その対象の中に、人の中に見ようとした時に何かしらその人に傷跡を残せるっていうこと自体は目標にしようとはしています。それがいい場合もあれば悪い場合もあって、自分の授業の中の雑談しか覚えてないとかですね。
もうちょっと違うことを覚えておいていいみたいなことはあるんですけども、ただその学生が数年後にふと思い返した時にこういうことを言ってたなとかっていうのってすごい重要だと思うんですよね。僕自身も学生時代のことを思い出して授業のことなんてほとんど思い出せないんですけども、何かしら自分が考えて、例えば疑問を持ってそれを教員に質問した内容とかよく覚えてるわけですよ。
アクティブに自己意思がうまく反映した時っていうもの。だからそういったものを作らなければいけないということで、僕は教育の中ではインタラクション、つまり相互性というのはものすごく重要視しているので、いかに質問をさせるかというものを作っていくということにやってる。
その質問をするっていうこと自体は覚える。だけど僕らがわーっていったことは覚えていないっていう、そういう意味での教育の記憶に残るような教育っていうこと自体は目指してはいますし、これが理学療法の場面になった時に、この先生がこういうことをやってくれた。
この先生がこういったことをしてくれたので、すごくうまくいったというような記憶に残るようなことっていうのはその人のアクティブな活動に影響してくると思うんですよね。だから単に歩いたではなくてうまく歩かせた。単に膝を曲げたではなくて痛くなく膝を曲げたとかっていうような意味の生成というものをいかに作り出していくかっていうのはすごくそのセラピストあるいは教職員としては重要かなと思います。
そうですね。
研究者のマインドセットと生産性
なので、あともう一つの観点だと研究者っていうような働き方もセラピスト領域ではあるような気がするんですけど、研究っていうとまたこう社会的な変化が起こるのもかなり遅かったりするし、どっちかというと自己満足的なことも入れながらやる必要もあるのかなと思うんですけど、
研究者のこうなんかメンタルマインドとか生産性みたいな感じでどう考えていくといいですかね。
今そのいわゆる臨床教育研究というまあいわゆる昔からの理学で申しの三本柱だと言うと僕のメインの仕事は研究者だけど一番研究が苦手だと思うんですね。
それはなぜ苦手かといったら成果が出ていないというところだと成果が出ていないというとちょっと変な表現になるんですけれども、
結局そのショートゴールをたくさん作ってショートゴールをうまくクリアしていくタイプのロングゴール設定をしてそのロングゴールに行きつかないと自分の研究が達成していないという考え方があったときに、
僕はロングゴール型なのでショートゴール一本の論文を通してどうとかっていうようなタイプではないからなんか自分の中で満足度っていうのがあんまり得られていないんですよね。
実際に積み重ねていったものをはっと振り返るといっぱいあるんですけども、そこに連続性はあるんですけども、なんかその自分自身ってすごいでしょうって思うところはない。
だから研究っていうのは得意じゃないよなというふうに自分で思いつつ、かといって諦めたら終わりなので継続的にはやっていくし、研究計画っていうのを延々と書くんだけども、研究計画が通らないっていう。
だからその他者視点にうまくなれていないっていうところが僕の弱点だと思います。
なるほど、難しいとこですね。
なんで臨床とか、そうか、さっきの例えば生計の臨床とかでいくと他者視点が仮にそこまでなかったとしてもこういう運動をすれば変化が出るとかそういうのもしやすいけど、
研究とかで除菌とか取るとか論文通すとかっていうと結局他者に評価されないとその成果が出ないから、その辺の難しさもあるんですか。
その他者評価のポイント、いわゆる研究費を取るのがめちゃくちゃうまい人っているんですよ。
で、その研究費を取っていってじゃあ抜本的に大きなアイディアを通していくかっていうと割とそうではないと。
結局そのショートゴール型の人たちっていう方がやっぱり実研究費で取れるんですね。
で、大風呂敷を広げてる人たちって基本通らないんですよ。
じゃあ萌えも大風呂敷広げずにやればいいじゃんって言うんですけど、なんかそこが下手くそなんだと思います。
難しいとこですね。でもまあその辺でこう他者の求めることを察知しやすくて、
短期的には論文通したりとか除菌取ったりとかしやすい人でもなんか長く積み重ねていった先に、
他者のことばっかり意識してなんか自分の本当にやりたいことできなかったなみたいな人もいるかもしれないですし、
その他者と意識し過ぎずに自分のことを貫いたからこう最終的に見えてくることがあるかもしれないんで、
なんかどっちもどっちかなって感じなんですよ。
まあ確かにこう言い訳をすると、そのそういうなんていうのかな、
人の顔色を伺った研究っていうのはしたくないっていうのが言い訳になるんですね。
だからニーズを満たすというよりも、自分でニーズを作ってそのニーズにクリアしていこう。
つまり自分が知りたいことをちゃんとやっていこうという気ぐらいはあるわけですよ。
だから誰かその社会からこれやってくださいって言ったことに対してやるんではないっていうところ。
まあなので我慢してやっていかなきゃいけない。
まあどっかで花開けばいいなとは思うんですけど。
なのでどうなのかな。
アイデンティティとクライシス
一つのこと自体よくそのあえて批判的に科学系の人たちを言うと、
5年に1回やってることが変わるっていう人がいるんですね。
そうなった時にあなたは何の研究者ですかっていうようなことになってくると。
僕自身も長期的に見るといろいろやってることは変わっているんですけど、
ベーシックな部分の本質論っていうのは変わってないところがあって、
それがベースは哲学にもなりますし、
哲学的に本質を見た時にその本質のOSの上に何を載せてるかっていうところは変わっていないので、
なので継続的に続けて楽しくやってるよなとは思います。
そうですよね。
研究だけじゃなくて労働的な仕事であっても自分の土台というか、
OS的なものがある中で表面的にやる内容は変わっても、
自分の中でも繋がりを感じていれば意味を感じてやれるかなと思いますけど、
土台がないと表面的にコロコロ変わっちゃうと、
自分は何のために仕事してるんだろうみたいなことを迷いやすいような気がするので、
どこかのタイミングでそういう軸がはっきりしてくると良さそうかなと思いました。
なので労働といったところと活動といったところの仕事という近さになってくると思いますけど、
これも自分がやりたいことしか研究においてやっていないという、
わがままかつ我慢が強いられるというのはそこだと思うんですけども、
もともと僕自身が哲学系とかあるいは最初は精神分析系のところにいたわけですけども、
こういうことがあったらどうっていうアイディアをもらったことはないんですね。
あなたは何に興味があるんですかしか問われてないわけですよね。
でもあなたはこういうことをやってみたらどうって言って繰り返されてる人たちっていうのは、
ある種支持待ちになりがちなんですよ。
その支持待ちによって作ってきて、ある種その人のアイデンティティというのが何かしらの形になった時に、
本当にこれ自分がやりたかったことなんだろうかというような時にクライシスが起きると思うんですよね。
こういった人たちは僕はいっぱい知ってるんですよ。
だけど僕自身は誰かがやった方がいいですよって言ったことを全くやったことはないわけではないですよね。
根っこの部分っていうのは自分の考えでしか動いていないので、
だからそういった意味でのクライシスっていう悔しさもたくさんあります。
窓打ちさんみたいな。だからクライシスはないが悔しさがある。
なるほど。
どっちがいいのかですよね。
そうですよね。そういう意味だとやっぱり今のというか、
現代の日本の教育だと与えられたものに応えるとか、
その先に就職していかれていくっていうのも既存のルートに則って働く人が多いからこそ、
クライシス的なことにはマジョリティーはなりやすそうな環境だなと聞いてて思いました。
そうですね。ルールに従いすぎるとしんどい。
ルール側に従ってた時に、ルールが急に変わった時に一つのクライシスが起きるかもしれないっていうのはまさにそうで、
理学療法の業界変化と価値観の転換
僕らよりも、あるいは僕らよりも10年ぐらい早く理学療法士になっている人、
あるいは僕よりも10年理学療法士後になっている人っていうと、
理学療法の業界っていうのは全く違うんですよね。
特にこのアドバンステラピストでもよく言うんですけども、
2006年の疾患別リハビリテーションの始まりによって、
理学療法士の給与っていうのがもう全部決められてしまうような状態になった。
あるいは、理学療法士、作業療法士っていう言葉が法律の中から消えてしまって、
リハビリテーションに統合されてしまったっていうこと自体のある種の虚しさがあるわけですね。
これは職域を狭められた、あるいは職域を国から奪われたっていうことになってきますので、
その前後によってやっぱりリハビリテーションという概念は、
理学療法士という職業は大きく変わったなと思うわけですね。
僕よりも10年上ってなってくると、今60前後の人たちになってきますけど、
その人たちっていうのはものすごく華やかだったですし、
この前ちょっと聞いて、あ、そうだったんだって思って笑ったのが、
1982年かな?3年だったかな?に金沢大学の医療短期大学っていうのができましたと。
金沢大学の医療短期大学ってすごい偏差値が高いように見えるけど、
ほとんどの人が専門学校全部落ちて、行くとこがなくなって、
最終的に受験というのが一番後にあった金沢大学に入ったっていうことですね。
あるいは広島大学っていうのは1992年にあったんですけど、
広島大学の1期生で受験が3月末か4月に入ってあったっていうんです。
だから基本的には優秀な人たちはみんな専門学校に行ってたっていう。
だけど今それを言ったところで金沢大学と広島大学に、
専門学校の人の方が優秀って言っても誰も信じてくれないんですよね。
僕よりも10年前っていうのがそういった人たちがいて。
今だと価値観っていうのが真逆にひっくり返ってるっていう、
なかなかこんなことってなくて。
専門学校行ってたんですっていうのが言いづらいっていう状態になる。
ただ昔は専門学校の方がずっと難しかったっていうのは、
なかなか信じてもらえない。
価値っていうものが変化していっているので、
そういうクライシスなんかはやっぱり起こりやすいし、
例えば分かりやすく言うと、
広島大学の一期生と専門学校に行ったときに、
専門学校行った人が偏差値的な能力が高かったとしても、
後の10年20年では明らかに広島大卒の方が給与が良かったりだとか、
その立ち位置が良くなるわけですよ。
だから難しいよなって。
難しいですね。
レジリエンスと変化への適応
なので今、今後さらに働いていこうっていう人であれば、
後の10年20年後の社会とかルールがどうなってるのかみたいなことも、
うまく予想して微調整していけば、
そういうクライシス的なものになりづらいかもしれないですし、
とはいえ予測しきれないですけど、
最近だとホワイトカラー的な仕事の人が生成されてきたことで、
自分の存在意義を感じづらくなるみたいなのもあるかなと思うので、
直近では多分その辺は大きいのかなと聞いてて思いました。
そうですね。なので社会を見たときに、
自分の状況が変化し得るかもしれないってなったときに、
違うアプローチに行けるかどうかがある種レジリエンスであると思いますし、
メンタルヘルス自体を保つにはすごく良いことだと思うんですよね。
堅くなり、自分はどこかで評価されるから大丈夫だと思ってしまうことが、
クライシスの一つの原因になると思うんですよ。
だから研究においてもそうですし、臨床の場面でもおいてもそうですけど、
俺が評価されるべきだ、つまり社会と自分の立ち位置というものを、
自分を中心において社会が変わるべきだってなったときに、
社会は変わりませんよと。
社会が変わるとなったときにネガティブに変わることの方が多いかもしれないし、
逆に例えば、今だったら記憶者の株をたまたま持ってたら、
40倍になったとかっていう人もいるかもしれませんけど、
それ自体はチャンスとなったときにそのチャンスをいかに生かすか、
で、ビハインドになったときにそのビハインドの状況っていうのはどういう風に回避するかっていう、
空気読みっていうのがやっぱりすごく重要だと思うんですよね。
それが専門職だから大丈夫、あるいは自分は高学歴だから大丈夫ってなってしまうと、
かなり失敗してしまうケースがあるかなと僕は思います。
そうですよね。
なので時代によって資格の価値みたいなのも変わりますし、
学歴の価値みたいなのも変わるかなと思うので、
ラベルというかそういう旗描きみたいなところに縛られちゃうと動きづらくなるような気がするんで、
もうちょっと本文実存的な自分とはみたいなことを考えて、
働き方は時代の流れで調整できる方がさっき言ったレジリエンスとか上がっていくなと思いました。
過去の経験と現在のアイデンティティ
そうですね。だからアイデンティティの置き方っていうところで言ったときに、
僕自身もこんな風に偉そうに言ってますけど、
昨日たまたまコンビニに行って、ダイヤモンドか何か出してる雑誌で、
高校のランキングみたいなやつがあるわけですよ。
僕が行ってた高校って、もともとは良かったんですけど、
最近ずっといろんな意味で落ちてきてるんですね。
だけどダイヤモンドっていうものは入学の時の偏差値ではなくて、
出た時のランキングでやってくれてて、
そうしたら福岡県で4位だったんですね。
全国で70位ぐらいで、良い庶民にいるじゃんみたいな。
これ今違う、入学の時になったら福岡県でもう10位とか10何位に落ちてるんだけど、
卒業の時はこんなに良いんだみたいなところを見て、
自分自身のアイデンティティ、卒業して30年経ってても、
そういったところを一つのものとして見てしまうっていうことはあるんですよ。
ただそれは自分の巻き戻した時に、
自分がここで頑張って良かったなっていうようなところで捉えて、
ただそれをずっとひけらかすしてもどうしようもないと。
むしろその後に自分がそこを通してどう生きたかっていうことを考える。
ただふと思った時にどうだろう、良かったみたいなことはやっぱりあるのは正直あります。
なるほど、そうですよね。
やっぱり人間なんで過去を生きてきた中で、
日本人として生まれてきたと言われば、
日本がどうなるのかみたいなことにも左右されてるでしょうし、
通ってきた学校とか、
例えば働いてた組織が今もあるのかないのかとか、
発展してるのかどうかみたいなことで、
結構そこと自分の存在意義みたいなのはどうしても重ねちゃうと思うので、
そうですね、コントロールしきれないところもあると思いますけど、
人間ってそういうもんだなと思いました。
なので前半戦の終わりからすると、
労働を積分的に捉える視点
労働といったものを時間的に経過としてちゃんと見なきゃいけないですよ。
要は微分的に見るんじゃなくて積分的に見るというか、
一つの長い時間制の中で、
過去現在未来のつながりをどういうふうに見ていくかというふうに捉えないと、
メンタルっていうものはすごく影響がありますよっていうのが、
僕の前半戦の一つの提言ですね。
そうですね、歴史的な労働の変遷とか、
自分の労働履歴というか、
活動してきた流れみたいなことが、
おそらく現在のメンタルにも影響してくるでしょうし、
後半ではまたさらにそこから先で、
理想的な働き方とか、
未来よりポジティブに生きていくためには、
アドバストの形を模索していけたらいいかなと思うので、
後半はもうちょっと深掘って話していけたらなと思います。
はい、前半はこの辺で。ありがとうございます。
ありがとうございました。
42:33

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