こんにちは、田代です。こんにちは、堀です。 Advanced Therapist エピソード32本目ということで、今回は労働とか働く意味とか、ちょっとその辺りから問い直していきたいなと思うんですけど、個人的に最近メンタルヘルスとか、働く人のプレゼンティーズムっていうような、働いてはいるんだけど、なんか生産性落ちてしまっている現状みたいなことをちょっと考える機会があって、なんかそもそも働く意味とかですね、そこからちょっと考え直してみたいなと思います。
はい、よろしくお願いいたします。労働っていうことをちょっと考えてみようという話を先ほど田代さんとやって、それで話し始めてるんですけども、労働というもの自体が、なかなかこう改めて考えてみると難しいテーマであるなというふうに捉えています。なぜかというと、ものすごく簡単に言うと、労働イコール賃金というふうに見すぎている部分が、現代の人たちってのがあると思うんですよね。
労働というのはそもそも何で行うのかということを考えていこうとした時に、やっぱり歴史的な観点から見ると、現代におけるような労働というのはまさに現代に作られているわけであって、以前の労働というのはもう少し違ったんだというところになってくるわけですね。
我々は現代の労働というものと過去の労働というものをまずちょっとコントラスト的に明確にしておく必要があるだろうなと思うんですけども、そのあたりって田代さん、僕が言っていること分かりますか?
そうです。どこまで深掘るかですけど、もう本当に歴史的に見ていけば、城は最終から農耕になったりして、そこから第一次産業、第二次産業、第三次産業みたいな国もあったりして、最近だとどっちかというとものづくり的な、物は穂がした時代だとどっちかというとサービスとかデジタルとかが増えてきているようなエコ産業構造の変化はあるかなと思いますし、また医療・介護・福祉とかは変遷があるかなと思うんですけど、なんとなくそんなイメージです。
一番労働といったものに捉えなければいけないのは、先ほど田代さんが狩猟採集とかっていう話もあったと思いますけど、比較的古い1000年くらいのところ、比較的新しいですね、1000年くらいのところに戻ると基本的に自分で田肌を持ちとか、あるいは自分たちで魚を獲って、そしてそれを場合によってはお金に変えることもあったけど、いわゆる田舎の地域だと物々交換等々で、
行っていました。基本的に子どもをたくさん作る理由というのは労働力が欲しいからというところで子どもを作ると。家族もしくはその周辺の小さな村というところが経済的なものであったわけですね。欲しいものといえば、例えば塩が欲しいとか、そういう普段手に入らないものだけで交換していて、
養生なものを交換するという経済圏というのはあまりなかったわけですよね。例えば新しいiPhoneが欲しいとか、あるいは新しい時計が欲しいとかっていうのは、これは労働の対価という意味ではもちろん物がなかったということになりますけれども、欲しいものって言った場合は、本当に仕様がないから、あるいは鉄がないので、例えば釘が欲しいから鉄が欲しいとかっていう必要条件を求めていたわけですよね。
それが産業革命ぐらいが始まる段階で、結局労働というものはある一人の資本者が大量な金額を稼げる、そしてそれを誰かに分配して数多く何かを作るっていうところ。いわゆる余剰をたくさん生み始めたっていうことですね。
その余剰というのは物の余剰にもなりますし、あとは一人の人がものすごく取ってしまう、いわゆる特権階級の富の独占が起きたということが産業革命によって起きてくるわけです。
現在は特権階級が富を独占しているという状況が改めて起きているということです。産業革命期に起きて一旦なだらかなように見えたんですけど、さらに現在は特権階級の富を独占。その代表が僕は好きなんですけどイーロン・マスクですよね。
日本でもやはり一部の株主が富を独占するというようなことが今も起きているということになります。このあたりでまず労働の根本の原理というものはなんとなく見えてくると思うんですけど。
フランス革命とかであれば貴族と一般市民の格差みたいな感じでしたけど、そういう形じゃなくても資本主義の中での格差が大きい中でどうしていくかというか。
さっきの消費するみたいなものも生活に必須なものだけじゃなくて規模消費的なブランドみたいなものとかもできているかなと思うので、労働するものと交換するものも現代に近づいていろいろ変わっていってるんだろうなと思いました。
そうですね今のフランス革命は一つすごく重要な例でフランス革命以前というのは王政が惹かれてたわけですね。それは国そのものは王の所有物であり土地にしろすべてのものは基本的に王や王あるいは貴族の所有物であって労働者っていうのはその人のために働いているというのが基本になりますから自分たちが所有物っていうものを根本的には持ってないわけですよね。
社会構造を一旦ちょっと切り替えて、堀先生自身で行くと仕事の意味とか、これまで生産性高く働けてるなっていう内容とか時期とか何か思えたことはありますか?
生産性が高いというところは実はそんなに感じたことはないんですけど、要は嫌なことはやらないっていうのを徹底してきた人生なんですよね。
だから嫌なことが見つかったらそこから離れるっていうことをやってきたなと。つまり自分自身が労働というものに食われていく感覚ですよね。
要はそこに本質的な意味が見れない。一番僕が最初仕事をし始めてとても嫌だったのが書類だったんですね。
要はカルテを書く、あるいは報告書を書くっていうところ。ここはすごい割り切って、今だったらあまり許されないかもしれませんけど本当に適当なカルテを書いてたんです。
なぜその適当なカルテを書くかというと、当時は担当制なんですよ。要は自分の症例を他の人が見ることがほぼないという状態ですね。
だから自分の中のデータベースに入れておけば、入院から退院まで基本全部自分が見る。報告書もドクターと会話してこんな感じですわみたいなんで話してる。
だから報告書も適当に書いてると。ものすごい短文でちょっちょって書いてあって、僕はカルテの不備っていうのは基本ないんですね。書いてるから。
だけどもしっかり書く人たちっていうのが書く時間がなく残業して書いて、あるいは残業している人の方がカルテ不備が多いんですね。報告書がないとか、この日のカルテの記載がないとか。
なのに上司から僕が怒られるんですよ。お前は適当にやりすぎだって。なんで不備の人は怒らないんですか。いわゆる病院に迷惑をかけてるのは向こうですよねっていうような、そういった上司とよく喧嘩してたんですよ。
そういう僕は無駄だと思われることっていうのにものすごくストレスを感じるんですね。
だから書類仕事っていうのがどうしても嫌だったっていうのがあって、最初の職場を、最初は辞める職場のきっかけはそれが主ではないんですけど、それもどっかに引っかかってあったなと。
だから嫌なことっていうのがすごくあったと。だからこう生産性とつながらないっていうものはすごく拒否していいだなというふうには思います。
そうですよね。その嫌なことから離れるっていうのも一つの戦略ですし、そういう感動性であれば効率化して合理的に考えればそれでいいよねって感じだけど、周りからというか上の人から見るとちゃんと考えてなさそうみたいな見えちゃうっていう。
個人にとっては合理的なんだけど、組織とか感情的には許せないみたいな感じがあると確かにストレスを持ってなさそう。
そうですね。だから組織の合理性というのは適切な記録を残すことではなくて、早く帰る人間がいるのは手を抜いているんではないかというような、精査されずに見られるってことですね。
そういうのが確かにあったなと。今の状況って逆に残業するなというのが理学療法の場面でもよくあると思いますので、そうなると僕の方が仕事はやりやすいのかなと思ったりはしつつ、
ただやっぱり18単位取っていくと考えた時に、だいたい労働時間が7時間から8時間の間になってくると思うんですけども、その間18単位っていうのは基本6時間。
それにいろんな移動だとか考えてプラス20分したとしても、まあまあカルテを書く時間だとかっていうのは余裕は取られてますし、
ここにカンファレンスだとか自己計算時間だとかと取られているので、本来は余裕があるように見えて、ただやっぱり18単位をきれいにぎっちり入れていくっていうこと自体がなかなか難しかったりするので、
働き方って考えた時に時間的余裕はないよね。僕らはなんで時間的余裕があったかって言ったら、9時5時の労働と考えてなかったからですよね。
9時8時とか9時9時ぐらいの労働時間で考えてたから時間的余裕があったっていうのは事実なんですよ。確かに5時で終われって言われたら無理だったんですね、僕らは。
時間の捉え方も時代によって変わりますし、理学療法士でいくと単位数みたいなのが結構わかりやすい指標ですけど、その中で患者さんとどう関わるかみたいな質的なところもあるでしょうし、
処理業務も含めた雑務も含めての労働と考えると最適なのはどういう形なのかなと。
なので、あともう一つの観点だと研究者っていうような働き方もセラピスト領域ではあるような気がするんですけど、研究っていうとまたこう社会的な変化が起こるのもかなり遅かったりするし、どっちかというと自己満足的なことも入れながらやる必要もあるのかなと思うんですけど、
研究者のこうなんかメンタルマインドとか生産性みたいな感じでどう考えていくといいですかね。
今そのいわゆる臨床教育研究というまあいわゆる昔からの理学で申しの三本柱だと言うと僕のメインの仕事は研究者だけど一番研究が苦手だと思うんですね。
それはなぜ苦手かといったら成果が出ていないというところだと成果が出ていないというとちょっと変な表現になるんですけれども、
結局そのショートゴールをたくさん作ってショートゴールをうまくクリアしていくタイプのロングゴール設定をしてそのロングゴールに行きつかないと自分の研究が達成していないという考え方があったときに、
僕はロングゴール型なのでショートゴール一本の論文を通してどうとかっていうようなタイプではないからなんか自分の中で満足度っていうのがあんまり得られていないんですよね。
実際に積み重ねていったものをはっと振り返るといっぱいあるんですけども、そこに連続性はあるんですけども、なんかその自分自身ってすごいでしょうって思うところはない。
だから研究っていうのは得意じゃないよなというふうに自分で思いつつ、かといって諦めたら終わりなので継続的にはやっていくし、研究計画っていうのを延々と書くんだけども、研究計画が通らないっていう。
だからその他者視点にうまくなれていないっていうところが僕の弱点だと思います。
なるほど、難しいとこですね。
なんで臨床とか、そうか、さっきの例えば生計の臨床とかでいくと他者視点が仮にそこまでなかったとしてもこういう運動をすれば変化が出るとかそういうのもしやすいけど、
研究とかで除菌とか取るとか論文通すとかっていうと結局他者に評価されないとその成果が出ないから、その辺の難しさもあるんですか。
その他者評価のポイント、いわゆる研究費を取るのがめちゃくちゃうまい人っているんですよ。
で、その研究費を取っていってじゃあ抜本的に大きなアイディアを通していくかっていうと割とそうではないと。
結局そのショートゴール型の人たちっていう方がやっぱり実研究費で取れるんですね。
で、大風呂敷を広げてる人たちって基本通らないんですよ。
じゃあ萌えも大風呂敷広げずにやればいいじゃんって言うんですけど、なんかそこが下手くそなんだと思います。
難しいとこですね。でもまあその辺でこう他者の求めることを察知しやすくて、
短期的には論文通したりとか除菌取ったりとかしやすい人でもなんか長く積み重ねていった先に、
他者のことばっかり意識してなんか自分の本当にやりたいことできなかったなみたいな人もいるかもしれないですし、
その他者と意識し過ぎずに自分のことを貫いたからこう最終的に見えてくることがあるかもしれないんで、
なんかどっちもどっちかなって感じなんですよ。
まあ確かにこう言い訳をすると、そのそういうなんていうのかな、
人の顔色を伺った研究っていうのはしたくないっていうのが言い訳になるんですね。
だからニーズを満たすというよりも、自分でニーズを作ってそのニーズにクリアしていこう。
つまり自分が知りたいことをちゃんとやっていこうという気ぐらいはあるわけですよ。
だから誰かその社会からこれやってくださいって言ったことに対してやるんではないっていうところ。
まあなので我慢してやっていかなきゃいけない。
まあどっかで花開けばいいなとは思うんですけど。
なのでどうなのかな。
一つのこと自体よくそのあえて批判的に科学系の人たちを言うと、
5年に1回やってることが変わるっていう人がいるんですね。
そうなった時にあなたは何の研究者ですかっていうようなことになってくると。
僕自身も長期的に見るといろいろやってることは変わっているんですけど、
ベーシックな部分の本質論っていうのは変わってないところがあって、
それがベースは哲学にもなりますし、
哲学的に本質を見た時にその本質のOSの上に何を載せてるかっていうところは変わっていないので、
なので継続的に続けて楽しくやってるよなとは思います。
そうですよね。
研究だけじゃなくて労働的な仕事であっても自分の土台というか、
OS的なものがある中で表面的にやる内容は変わっても、
自分の中でも繋がりを感じていれば意味を感じてやれるかなと思いますけど、
土台がないと表面的にコロコロ変わっちゃうと、
自分は何のために仕事してるんだろうみたいなことを迷いやすいような気がするので、
どこかのタイミングでそういう軸がはっきりしてくると良さそうかなと思いました。
なので労働といったところと活動といったところの仕事という近さになってくると思いますけど、
これも自分がやりたいことしか研究においてやっていないという、
わがままかつ我慢が強いられるというのはそこだと思うんですけども、
もともと僕自身が哲学系とかあるいは最初は精神分析系のところにいたわけですけども、
こういうことがあったらどうっていうアイディアをもらったことはないんですね。
あなたは何に興味があるんですかしか問われてないわけですよね。
でもあなたはこういうことをやってみたらどうって言って繰り返されてる人たちっていうのは、
ある種支持待ちになりがちなんですよ。
その支持待ちによって作ってきて、ある種その人のアイデンティティというのが何かしらの形になった時に、
本当にこれ自分がやりたかったことなんだろうかというような時にクライシスが起きると思うんですよね。
こういった人たちは僕はいっぱい知ってるんですよ。
だけど僕自身は誰かがやった方がいいですよって言ったことを全くやったことはないわけではないですよね。
根っこの部分っていうのは自分の考えでしか動いていないので、
だからそういった意味でのクライシスっていう悔しさもたくさんあります。
窓打ちさんみたいな。だからクライシスはないが悔しさがある。
なるほど。
どっちがいいのかですよね。
そうですよね。そういう意味だとやっぱり今のというか、
現代の日本の教育だと与えられたものに応えるとか、
その先に就職していかれていくっていうのも既存のルートに則って働く人が多いからこそ、
クライシス的なことにはマジョリティーはなりやすそうな環境だなと聞いてて思いました。
そうですね。ルールに従いすぎるとしんどい。
ルール側に従ってた時に、ルールが急に変わった時に一つのクライシスが起きるかもしれないっていうのはまさにそうで、
僕らよりも、あるいは僕らよりも10年ぐらい早く理学療法士になっている人、
あるいは僕よりも10年理学療法士後になっている人っていうと、
理学療法の業界っていうのは全く違うんですよね。
特にこのアドバンステラピストでもよく言うんですけども、
2006年の疾患別リハビリテーションの始まりによって、
理学療法士の給与っていうのがもう全部決められてしまうような状態になった。
あるいは、理学療法士、作業療法士っていう言葉が法律の中から消えてしまって、
リハビリテーションに統合されてしまったっていうこと自体のある種の虚しさがあるわけですね。
これは職域を狭められた、あるいは職域を国から奪われたっていうことになってきますので、
その前後によってやっぱりリハビリテーションという概念は、
理学療法士という職業は大きく変わったなと思うわけですね。
僕よりも10年上ってなってくると、今60前後の人たちになってきますけど、
その人たちっていうのはものすごく華やかだったですし、
この前ちょっと聞いて、あ、そうだったんだって思って笑ったのが、
1982年かな?3年だったかな?に金沢大学の医療短期大学っていうのができましたと。
金沢大学の医療短期大学ってすごい偏差値が高いように見えるけど、
ほとんどの人が専門学校全部落ちて、行くとこがなくなって、
最終的に受験というのが一番後にあった金沢大学に入ったっていうことですね。
あるいは広島大学っていうのは1992年にあったんですけど、
広島大学の1期生で受験が3月末か4月に入ってあったっていうんです。
だから基本的には優秀な人たちはみんな専門学校に行ってたっていう。
だけど今それを言ったところで金沢大学と広島大学に、
専門学校の人の方が優秀って言っても誰も信じてくれないんですよね。
僕よりも10年前っていうのがそういった人たちがいて。
今だと価値観っていうのが真逆にひっくり返ってるっていう、
なかなかこんなことってなくて。
専門学校行ってたんですっていうのが言いづらいっていう状態になる。
ただ昔は専門学校の方がずっと難しかったっていうのは、
なかなか信じてもらえない。
価値っていうものが変化していっているので、
そういうクライシスなんかはやっぱり起こりやすいし、
例えば分かりやすく言うと、
広島大学の一期生と専門学校に行ったときに、
専門学校行った人が偏差値的な能力が高かったとしても、
後の10年20年では明らかに広島大卒の方が給与が良かったりだとか、
その立ち位置が良くなるわけですよ。
だから難しいよなって。
難しいですね。
なので今、今後さらに働いていこうっていう人であれば、
後の10年20年後の社会とかルールがどうなってるのかみたいなことも、
うまく予想して微調整していけば、
そういうクライシス的なものになりづらいかもしれないですし、
とはいえ予測しきれないですけど、
最近だとホワイトカラー的な仕事の人が生成されてきたことで、
自分の存在意義を感じづらくなるみたいなのもあるかなと思うので、
直近では多分その辺は大きいのかなと聞いてて思いました。
そうですね。なので社会を見たときに、
自分の状況が変化し得るかもしれないってなったときに、
違うアプローチに行けるかどうかがある種レジリエンスであると思いますし、
メンタルヘルス自体を保つにはすごく良いことだと思うんですよね。
堅くなり、自分はどこかで評価されるから大丈夫だと思ってしまうことが、
クライシスの一つの原因になると思うんですよ。
だから研究においてもそうですし、臨床の場面でもおいてもそうですけど、
俺が評価されるべきだ、つまり社会と自分の立ち位置というものを、
自分を中心において社会が変わるべきだってなったときに、
社会は変わりませんよと。
社会が変わるとなったときにネガティブに変わることの方が多いかもしれないし、
逆に例えば、今だったら記憶者の株をたまたま持ってたら、
40倍になったとかっていう人もいるかもしれませんけど、
それ自体はチャンスとなったときにそのチャンスをいかに生かすか、
で、ビハインドになったときにそのビハインドの状況っていうのはどういう風に回避するかっていう、
空気読みっていうのがやっぱりすごく重要だと思うんですよね。
それが専門職だから大丈夫、あるいは自分は高学歴だから大丈夫ってなってしまうと、
かなり失敗してしまうケースがあるかなと僕は思います。
そうですよね。
なので時代によって資格の価値みたいなのも変わりますし、
学歴の価値みたいなのも変わるかなと思うので、
ラベルというかそういう旗描きみたいなところに縛られちゃうと動きづらくなるような気がするんで、
もうちょっと本文実存的な自分とはみたいなことを考えて、
働き方は時代の流れで調整できる方がさっき言ったレジリエンスとか上がっていくなと思いました。