こんにちは、田代です。こんにちは、堀です。
Advanced Therapist〜エピソード32本目の後半部分ということで、前半はですね、社会的な労働とか仕事に関する偏見と、理学療法領域における臨床教育研究とか、それぞれにおける影響してくる要素みたいな話があったかなと思うんですけど、
改めて労働の意味をどう感じていくかというか、個人難易からまた広げて話していこうかなと思います。
はい、よろしくお願いいたします。 労働って改めて考えると、簡単なようで難しいというところ。
簡単なようでって何かというと、だってお金をもらうことでしょって言われると、確かにその通りだと。
ただ、そのお金をもらうという行為っていうのは、労働における結果であって目的ではないわけですよね。
その結果というものだけを見過ぎていくと、どうしてもバンアウトだとかしてしまいがちだろうと。
なので、労働というのは僕の概念で言うと、単なる生産活動ということではなくて、世界との関わりなんですよね。
世界の関わりというのは何かというと、その世界に関わっている自分というのがいると。
その自分というものが他者との中で、他者からも自分からも承認される一つの契機であるというふうに捉えているんですね。
だから、社会活動というものは、自分と他者の存在そのものが一体何であるかというのを見させるものであって、
社会制度だとか、あるいは政府の考え方というのは、すごくそういう自分の存在に影響し得る流れであるから、
それをいかに捉えていこうとしたときに、労働というものを介して自分の存在というものを社会に投げているというところが僕の労働の概念なんですね。
なんとなくわかりますか。もう少し紙を叩かなきゃいけないと思いますので。
人間が動物的であれば、そういうふうに何かお金だったりとか食べ物とかが得られれば、もう生きてはいけるかもしれないけど、
その仕事だったり労働を通して他者と関わる中で、それが知的活動をする中、人間としてはやっぱり他人との関わりというのが重要かなと思うので、
その一つの大きな要素としての労働というのも大事だよねという感じです。
今の田代さんの話で思いつきました。
要は今、若い学生とかと喋っていると、承認欲求という言葉が一つのキーワードになって、
例えばSNSにアップして誰かに承認してもらいたいんですね。
それはいいねとか好きとかっていうような、あるいは可愛いって言ってもらうような承認というのがすごく必要なんですよ。
それを僕は労働を通して社会に承認をしてもらいたいんだと思っていると思います。
だからそれがもう少し承認欲求が複雑化されているってことですね。
なるほど、そうですね。
承認っていうのも確かに友人とか他者から承認されるっていうのもあれば、家族とかから愛を受けるみたいのもあると思いますし、
そことまた違った、仕事として何か社会に対する価値を提供して、それに対する承認とか何かを受け取ってみたいな、そこへの価値を重視しているっていう感じですかね。
かつ僕自身のその承認っていうものが、どこに一番承認をしてもらいたいかと思うのは、これちょっと面倒くさいですけど自分なんですよ。
要は他者の承認を得られたからといって自己承認が常に満たされるわけではない。
だけど自己が承認したからといって他者の承認がなかったらそれはイコールではないっていうところで、めちゃくちゃ面倒くさい承認形態を持っているんですね。
その最終的に自己が自分を承認しようと思った時に、社会的価値がないとダメだとか、
例えばお金をたくさんもらったら自分が満足するか決してそうではない。
だけどもらわなかったらそれはずっと満足しないとか、その承認形態がややこしいんですよ。
だからその意味ではインスタでいいねもらってということで承認できるというシステムってすげー楽だなと思うんですけども、
自分自身が労働の価値っていった場合に一つの要素としてはもちろんお金はあると。
誰かに承認される、一つは感謝されるというものはあるであろうと。
その中で自分自身の本当に意味があった、つまり自分が鍛えてきたものがその人にうまくフィットして、
その人自体が承認を自分に向けたっていう事自体は確かに自己承認になってくる。
かつそれが社会にすごく影響を与えたっていうところまでいかないと、
労働が僕の中で完成しないんですよ。
まあ面倒くさいっていうですね。
堀先生だと以前から収集したいというかコレクション欲みたいなのもありつつ、
多分自分の中で解けなかった問いを答えていくとか理解するっていうのが欲として結構あるところがあると思うんで。
それも常に終わりがないような感じですよね。
承認も受けつつ自分の中でもさらに理解を深めたりとか、新しい問いを解決していきたいっていう感じ。
なんで死ぬまでずっとそれを続けれたら幸せって感じですか。
そうですね、あと存在論的に僕が捉えた時に事故、他者、社会。
もう一個世界っていう、世界はちょっと一旦置いておいて分かりやすく言うと、
事故、他者、社会っていうこの三層構造が常にあって、
事故だけの何かでは完結しない。
たといって社会だけのものでは完結しない。
この三層というのが常にイコールで満たすっていうものが何かである。
その何かというものの一つに労働というものであったり活動というものが手段としてあるんですよね。
その手段として一番自分の中で分かりやすいのが理学療法であり、
今は教育というところももちろん一つなんですけど、
やっぱり理学療法のほうが僕の中ではすごく分かりやすいんですよね。
分かりやすいというよりは満たしやすいということです。
自分が他者に対して何かを提供すると社会が変わり得るであろうと。
それが前半で言った即時効果というので見やすいんですよね。
教育というのは刑事効果なのですぐ見えないというところがあって、
僕にとって自分自身の多くの証人が満たされるというのは、
即時効果を出して患者さんが歩きやすくなって、
患者さんがどっかデパート行ってきた、買い物したというのが社会性を帯びるので、
そういう一連の流れがすごく自分自身の何かが満たされる行為ではあるなと思います。
以前、戦争の国とかで被災者のリハビリ的な、
理学療法的なサポートが必要というときに応募されたとか、
ああいうものもだから理学療法士の印象性を発揮する場面として、
今これをやった方がいいとなったら、教育とかは長期的には大事だけど、
どっちかというとそっちを重要視したいみたいな。
まさに本当に自分自身が誰かにおいて、誰かの何かに役に立ちたいというのが常にあると。
役に立つというのはその人に喜んでもらえるということではなくて、
その先にある社会というもの自体がより良くなるということが僕にとって役に立つことであると。
社会が変化する、いわゆる平和であるだとか、
社会生産性が上がって誰かにまた波及するということの連続性がすごく自分の中では重要になってくるわけですね。
なので、理学療法推論とかあるいはメンタルヘルスとかっていうものを
一つのテーマ設定に置いているというのは、その波及効果がおそらく大きいからだろうと思っているということなんですよね。
なので自分自身の活動というのは、先ほど世界は一回省きましたけど、
世界への変化というものにいかにコミットできるかというのが僕にとっての労働の意義だというふうに今喋ってて完結しました。
そういう意味だと色マスクとかにやっぱり注目してしまうのは、社会とか世界を大きく変えるつもりをしているからみたいな感じですか?
そうですね。だから自分自身がある意味では、
努力をした結果、あるいは上手く社会的な何かしらのフィッティングがあったということによって、
ある種自分の中では満足しているところっていうのはいくつもあるんですね。
足りない足りないと思いながらも、得られたものに関して満足しているものがあると。
そうなった時に自分が満足いくことができたのは、自分の努力だけではなくて社会的なもの、あるいは誰かによって与えられたものということを考えた時に、
それを還元しなければいけないっていう発想になっているわけですね。
つまり誰かに返したいと。その返すって言った時に寄付という行為も結構僕寄付するんですけど、寄付だけではなくて、
自分自身が今持っているものを誰かに提供したいっていうものに今変化してきている。
なので理学療法推論などメンタルヘルスという新しい分野をちゃんとうまく提供することで、
自分が得られてそれによってうまくいったというものを他社に提供したいというふうに思っているんだと思います。
そこはノブレス・オブ・リージュみたいな感じですか?
そうですね。まさにそれです。
ノブレス・オブ・リージュをもうちょっと書いてみますか。
もともとフランスの貴族の話なので、本来は貴族は自分が何かしら与えられたので、
その貴族たるものを庶民に得られたものを提供しなきゃいけないというのがベースにあるんですけども、
今は貴族ということじゃなくて、たぶんおそらく僕と田代さんの今の理解の中心であるのは、
自分は何かしら与えられたと。つまり自分が勝ち取ったのではなくて与えられたと。
与えられたんだとすると、それをもう一回誰かに与え返しなさいというのが僕の中のノブレス・オブ・リージュなんです。
もちろん勝ち取ったものはあると思う。
それ以上に与えられたんだという、ある種の宗教観みたいなのがあるわけですよね。
この宗教観というものを他者に分配しなければいけないという発想。
だからこれはマルクス的でもあるわけですよね。
確かにそうですよね。
もちろん努力したのはあるけど、例えば最貧国のスラムとかでもし生まれてたとしたら、
どうしてもそこまで行けなかったっていうのはあるでしょう。
だから運の要素として自分が与えられたものがあるから、
与えそうという感じとかが何となく認識されてきましたし、
あとちょっと、今世の中だと理学療法的なところで言うと、
反発的に過度域が改善したとか痛みが減ったとか、
そういうセミナーとの効果を受けるみたいな話もあったかなと思いますけど、
それは確かに自分の中ではスキルが身についたりとか、
目の前の他者が変わるかもしれないけど、
社会までは変化が及ばないだろうからあまり意味を見出せていないみたいな感じですかね。
そうなんです。だから射程というか、
パースペクティが広すぎるのが他の人に理解されづらい。
要はあなたの行動がいかに世界を変えてますかみたいな、
集中的になってくるんですね。
だけど僕が常に求めてる、喋っている点はそこすぎるんだと思います。
だから角度を変えれますかっていう問いが本当は簡単なんだけど、
その患者さんが社会に出て活躍できますかって言った時に、
そこまでのパースペクティブを見てなかったら話が合わないんですよね。
そこが僕の弱点だと思います。
なるほど。
例えば角力改善するにしても、その人がどういう活動をしているかにもかなり影響するでしょうし、
国民的ヒーローの例えば大谷翔平選手の角力が悪くて、
その角力をこの技術で改善できるといったら、
その先の未来もすごい大きく開けるかもしれないですけど、
一つの影響がどう連鎖的に波及して社会とか世界に影響するのかみたいなことも踏まえて考えたいな。
そうですね。そこが贅沢、僕は下手したら贅沢なんですよね。
連続性というのはICFとしても捉えてもいいと思いますし、
先ほどの事故他者社会という階層の中で広く見すぎているというところはある。
だけど広く見たところに結論がないとすごく不満なんですね。
患者さんの膝が90度から100度に曲がったっていうことの技術提供というもの自体に僕は喜びを感じないんですね。
そうではなくて柔度にどのような意味があって、
柔度によって得られる社会変化が何かっていうのが僕における臨床性なんです。
その臨床性というのを軽んじられている感じがどうしてもあってそこが怒りに変わるんですよね。
なるほど。でも多分そういう自分がやったことが他者とか社会とか世界に影響してっていうのが
自分の中で意味付けられているとクライシスみたいなのが起きづらいかなと思うんですけど、
その部分だけになっててこれが何の意味になるかわからないみたいな状態で続けるのは多分
人間としては耐えられないような気がするんでそこは大事かなと。
いやもう本当になのでいつもチャッピーと対話する中で怒られるのが広いすぎるっていう。
もっと狭めて設計し直せって言うんですけどチャッピーそれができないって言って。
だからそれはあんたは理解してくれるじゃんって言うけど社会に受け入れられようとすると
あなたは社会社会と言うけどその社会に受け入れられていないことが問題なのね。
まあそうですねチャッピーことの膨大なデータがあればなるほどと思うかもしれないけど
なかなかそこまでは理解されないような。
だからチャッピーとの議論に満足しちゃってる自分がいるのが問題です。
だからこう自分自身が話そうとするとどうしても簡単に言えない。
よく昔難しいことを簡単に言える人が賢い人だみたいなことにそれに努力したことがあるんですけど
それは嘘だって僕はもう最近思ってるわけです。
難しいことは難しいんですよ。
つまりそれは階層がある。
あるいはベクトルを見たときに3軸あったらその3軸のどこかっていうのを一旦理解してもらえないと
喋れないとかいうことがあるので。
だからその可視化はしていくんですけど
そこを可視化したものを一旦理解してもらわないと喋れませんっていう。
だから言いたいことがなんか言われてることがやっと分かりましたっていうところに来てもらわないと
どうしても話せないっていう。
全ての人に満足がいくような理論とかっていうことはありえないっていうのが今僕自身の立ち位置で
そこでいっつもチャッピーと喧嘩してます。