1. ボードゲーム哲学(ボ哲)
  2. 遊びの環境管理型権力と本質
2025-10-06 15:31

遊びの環境管理型権力と本質

spotify apple_podcasts

ボ哲コラム「盤上の環境管理型権力」⁠⁠⁠⁠をNotebookLMでポッドキャストにしました。

お楽しみください😊


⁠LISTEN(文字起こし)

サマリー

今回のエピソードでは、ボードゲームにおける環境管理型権力の概念を掘り下げ、プレイヤーの行動をどのようにデザインが促すかを考察します。また、遊びが文化に持つ意味に焦点を当て、様々な理論家の視点を交えます。このエピソードでは、遊びの構造と環境管理型権力の相互作用を探求し、アーヴィング・ゴッフマンやホイジンガの視点を通じて、それがゲームのアーキテクチャに与える影響を考えます。デジタル化されたゲームにおけるルールの厳格化とアナログゲームの自由度の変化についても議論されます。

環境管理型権力の概念
さて、今回の探究へようこそ。お手元にはですね、「ボードゲーム哲学」というメディアに掲載された、『盤上の環境管理型権力』というコラム、それと遊びに関するテキストがあります。
はい。
これ、ボードゲームを遊ぶ時って、あのルールブックだけがすべじゃないよなっていう、結構面白い問いから始まりますね。
そうですね。この資料が問いかけているのは、ルールっていう目に見える「法」がありますけど、それだけじゃなくて、もっと見えにくい力。
ゲームのデザインそのものとか、プレイヤー同士の暗黙の了解みたいなものが、どうやって僕らのプレイ体験を作っているのか、というところですね。
ふむふむ。
レッシグとか、フーコーとか、そういった思想家の考え方をちょっと借りながら、ゲームが持つ力とか、遊びってそもそも何なんだろうっていう本質に迫っていきます。
いやー、面白そうですね。今回の目的は、これらの資料から大事なポイントを引き出して、ボードゲームがどうやって僕たちプレイヤーをある方向に導いているのか。
そして、もっと広く遊びが人間にとってどんな意味を持つのかを、あなたと一緒に深く考えていくことです。
じゃあ、早速掘り下げていきましょうか。
まずは、そのコラムのタイトルにもなっている、「盤上の環境管理型権力」ですね。
ルールブックだけが我々の行動を規定しているのか? という問いかけ。
アーキテクチャとプレイヤーの行動
ここで、レッシグの4つの要素が出てきますね。
はい、そうです。
レッシグは、人の行動をコントロールというか、方向をつける要素として、法、規範、市場、アーキテクチャーの4つを挙げています。
これをボードゲームに当てはめて考えてみましょう。
はい。
まず、法、ローですね。これはもうシンプルにルールブック、はっきり書かれている公式ルールです。
これは分かりやすいですね。カードはこう出すとか、点はこう計算するとか。
次が規範、ノームズ。これはプレイヤー間の暗黙のルールとかマナー。
「長考をしすぎないようにしようよ」とか、「負けてもあまり不機嫌にならないでおこう」みたいな場の空気みたいなものですね。
ありますね、確かに。何度も一緒に遊んでいるメンバーだと、何となく暗黙の了解みたいなのが出来上がってきますよね。
そうそう。そして3つ目が市場、マーケット。
これは勝利点とか、ゲーム内の資源とか、そういうインセンティブですね。
「これをすると得だよ」という仕組みでプレイヤーの行動を誘導する、多くのゲームデザインの肝の部分です。
ふむふむ。勝利点が多い方が勝ちってなれば、自然と点につながる行動を取ろうとしますもんね。
最後に今回の話で特に重要になってくるのがアーキテクチャ。
これはゲームの物理的な作り、コンポーネントとかボードとか、あるいはシステムの構造自体が持っている行動を制限したり、あるいはこっちに進むように促したりする力のことです。
アーキテクチャですか? 建築とかソフトウェアの言葉ですけど、ボードゲームだと具体的にはどういうことでしょう? 資料には物理的なものとシステム的なものがあると。
物理的アーキテクチャっていうのは、例えばコンポーネントの触り心地。手にしっくりくる木のコマとか、逆にすごく扱いにくい小さなプラスチックのチップとか、ボードのマス目がどうつながってるか、物理的にここしか進めないみたいな。
あるいは箱とかアートワークがすごく豪華で、「これは何か文化的なじっくり時間をかけて遊ぶゲームなんだ」っていう雰囲気を醸し出しているとか。
細かいこと言うとフォントの大きさなんかも情報の読み取りやすさに関わってきますからね。
確かにコンポーネントが豪華だと自然と没入できる感じがしますし、逆にちょっと安っぽい感じだと少し雑に扱っちゃうかも。というのはまさに物理的なアーキテクチャーの影響と言えそうですね。
そういうことです。
もう一つがシステム的アーキテクチャ。これはゲームのメカニクスそのものですね。
例えばオークション、競りのシステムを採用しているゲームなら、プレイヤーは必然的にいくらで値をつけるかとか、他のプレイヤーとの駆け引きを考えるじゃないですか。
考えますね。
デッキ構築なら、どのカードを自分のデッキに入れるか、その選択に集中する。
こういうメカニクス自体が、プレイヤーが何を考えどう行動するかのレールを敷いているみたいな、レッシグ風に言うと「コードによる規制」という言い方もできますね。
なるほど。つまりゲームデザイナーっていうのは単にルールを書いているだけじゃなくて、コマの質感とかゲームのシステム、そういうもの全部ひっくるめたアーキテクチャをデザインすることで、私たちが何を考えどうプレイするかをある程度ハンドリングしていると。
遊びと文化の関係
そうなんです。
これが環境管理型権力っていうちょっと大げさな名前の力の正体なわけですね。
その通りです。この力っていうのはミシェル・フーコーが論じた近代社会における権力の在り方とちょっと重なるところがあるんですね。
フーコーですか。
フーコーは権力っていうのは王様が上から罰を与えるみたいな直接的な支配だけじゃない。もっと巧妙に環境とか規範を通じて人々の自発的な服従というか、そういう行動を促す形で社会に浸透してるんだと考えたわけです。
『監獄の誕生』で描かれたような、互いに監視し合うことで規律が生まれるみたいなイメージですね。
でもボードゲームの場合ってプレイヤーはその権力というかデザイナーの意図みたいなものをむしろ楽しんでるわけですよね。嫌だったらそのゲームやらないわけですし。
まさにそこが面白いところで、多くの場合プレイヤーはこのデザインされた環境をポジティブに受け入れてるわけです。
それで時にはプレイヤー同士で「このゲームはこういう風に遊ぶのが正しいよね」みたいな規範を作り出して、互いにそのデザイナーの意図とされるものに沿うようにプレイを促し合うっていうある種の相互監視みたいな構造が生まれることもありますね。
これもプレイヤー間で環境管理型権力が機能している例と言えるかもしれません。
ただアナログゲームならではのゆるさみたいなものもありますよね。資料にあった例みたいに、「あ、ごめん今のなし」とか、『ザ・クルー』みたいな協力ゲームでついルール的にはダメなんだけどヒントになるようなことを言っちゃうとか。
ああ、ありますね。
あるいは公式ルールには全然ないハウスルールがいつの間にか定着してたり。これはどう考えたらいいんでしょう?
それがアナログゲームの非常に面白いところで、デジタルのゲーム、例えばBGA、ボードゲームアリーナなんかだと、プログラムがルールをきっちり適用するじゃないですか。
はい、絶対にごまかせない。
ええ、それとは対照的にアナログゲームでは決められたルール、つまりアーキテクチャによる拘束と、そこからちょっとだけはみ出す自由、逸脱、その間に常に揺らぎというか緊張関係があるんですね。
資料ではこの緊張感自体がフランスの社会学者ロジェ・カイヨワがいう、イリンクス、つまりめまいのような、ルールからの逸脱とか混乱がもたらす独特の快感、それに近いものかもしれない、なんていう示唆もしていますね。
へー、面白い。ルールがあるから面白いんだけど、そのルールをちょっとだけ逸脱するのもまた面白いと。このルールと逸脱の緊張関係っていう視点、これはもっと大きな遊びとは何かっていう問いにもつながっていきそうですね。関連資料の方では様々な角度から遊びが論じられてますね。
ええ、非常に豊かで色々な議論がありますね。全部を細かく見るのは大変ですけど、今回のテーマと特に関係が深そうなものをいくつか見ていきましょうか。
お願いします。
まず古典ですけど、非常に重要なのがオランダの歴史家ヨハン・ホイジンガ。彼の『ホモ・ルーデンス』、つまり遊ぶ人っていう本では、遊びは文化を生み出す、もう根源的な活動なんだとされています。
遊びが文化の根源ですか? かなり壮大な話ですね。
ホイジンガは遊びっていうのは魔法円、マジックサークルと呼ばれる、日常の利害とか現実から切り離された特別な時間と空間の中で行われるものだと主張しました。
魔法円。
その円の中では、遊び固有のルールと秩序が支配していて、人々はまあ、遊びそのものを目的として行為すると。ボードゲームを始めるときに、「よし、ゲームの世界に入るぞ!」っていう感覚はまさに、この魔法円への移行と言えるかもしれませんね。
なるほど。
そして、さっき話したゲームのアーキテクチャは、この魔法円を物理的にもシステム的にも作り上げて維持する役割を担っているとも言えそうです。
なるほどですね。ゲームのコンポーネントとかルールが、僕らを日常から切り離して魔法円っていう特別な空間を作り出していると。
で、その空間こそがある意味で、環境管理型権力が効果を発揮する場所とも言えそうですね。
ええ、そういう見方もできますね。
次に、先ほどもちょっと名前が出たロジェ・カイヨワは、彼はホイジンガの考え方を引き継ぎつつも、魔法円の考え方だけだとちょっと美しすぎるというか、とらえきれない、もっと多様な遊びの形があるだろうと考えました。
うん。
それで、遊びを「競争 アゴン」「偶然 アレア」「模擬 ミミクリ」「めまい イリンクス」の4つに分類したんですね。
さっきのルールからの逸脱の快感というのは、このイリンクスに関わるという話でした。
ホイジンガのある種、純粋で秩序だった遊びのイメージを、もっと現実のぐちゃぐちゃした部分も含めた多様な遊びへと開こうとしたということですかね。
めまいみたいに、必ずしも秩序たらしいものばかりじゃないぞ、と。
そうですね。
そしてもう一人、コミュニケーション論の観点から遊びを考えたグレゴリー・ベイトソンも、これはこれで興味深いです。
遊びの構造とコミュニケーション
彼は、遊びには「これは本気じゃないよ」という合図、つまりメタメッセージが不可欠だと指摘しました。
メタメッセージ?
例えば、子犬同士がじゃれて噛みつくのは、「本気の攻撃じゃない」というメッセージがちゃんと伝わっているから遊びとして成り立つんだ、と。
この、これは遊びだっていう枠組み、フレームですね。
これを理解して共有する能力が、人間とか動物の高度なコミュニケーションの基礎になっているんだ、と。
あー、今のは冗談だよとか、ゲームだから本気で怒らないでね、みたいな、そういう暗黙の了解ですね。
これもある意味では、規範と言えるかもしれません。
でも、この枠組みっていつもそんなにはっきりしているものなんですかね?
なんか、パーティーゲームとかだと、ゲームの中の出来事が結構現実の人間関係に響いちゃったりとか。
あー、良いところに気づきましたね。
まさにそこに注目したのが、社会学者のアーヴィング・ゴッフマンです。
ゴッフマン。
彼は、遊びの面白さっていうのは、必ずしも現実、彼が言うところの外部的価値ですね。
そういう現実の理解とか、人間関係から完全に切り離されることにあるんじゃなくて、
むしろその遊びの枠組み、フレームの中に、どれくらい現実の人間関係とか感情が持ち込まれるか、
その絶妙なバランスにあるんだと考えたんですね。
パーティーゲームで、誰かと一時的に協力したり、逆に誰かをちょっと意地悪く攻撃したりする、
あの面白さっていうのは、まさにゲーム内の役割と現実の関係性が微妙に混じり合うからこそ生まれるんじゃないかと。
なるほど。完全にシャットアウトされるんじゃなくて、
現実との境界線がどこにあるのか、その揺らぎ自体が面白いんだと。
これはホイジンガの魔法円とも、ベイトソンのフレームとも、またちょっと違う視点ですね。
そうですね。他にも資料では、精神分析のフロイトとかウィニコットが、子供の発達における遊びの重要性を論じていたり、
哲学者のシラーが、人間は遊んでいるときにのみ完全に人間であるといったり、
ヴィトゲンシュタインが、言語の柔軟性を言語ゲームに例えたりと、本当に多様な視線があります。
いやー、こうやって見ると、遊びって単なる気晴らしとか暇つぶしじゃなくて、
文化の根源にあって、心理的な発達にも関わって、コミュニケーションの基礎でもあって、
そして社会的なやりとりの中で、常に現実との関係性が問われる、
ものすごく複雑で豊かな人間の活動なんだなっていうのがわかりますね。
ええ、まったくです。
そしてこれをボードゲームっていう文脈で改めて考えると、
ゲームデザイナーが作るアーキテクチャっていうのは、
ホイジンガの言う魔法円を作り出す土台であり、
カイヨワが分類したような色々な遊びの体験、競争とか偶然とか、
模擬とか、めまいとか、そういうものを生み出す装置でもあり、
ベイトソンやゴッフマンが言うところの遊びの枠組みと、
その境界線をある程度設定する力を持っているということになりそうですね。
まさに環境管理型権力が僕たちの遊びそのものをデザインしていると。
ええ、そういう繋がり方が見えてきますね。
そしてアナログゲームにおけるルールからの逸脱の可能性っていうのは、
このデザインされた環境に対するプレイヤー側からのささやかな抵抗というか、
遊び心の現れとも言えるかもしれない。
それは完全にコードで縛られたデジタルゲームではなかなか見られないアナログならではの揺らぎであり、
面白さの源泉の一つとも言えるでしょうね。
いや、深いですね。
今回はボードゲームにおける環境管理型権力というルールブックを超えた力の存在と、
その力がゲームのアーキテクチャ通じてどう作用するのかを見てきました。
そして後半はその話を遊びとは何かというより広く深いテーマへと広げて、
ホイジンガ、カイヨワ、ベイトソン、ゴッフマンといった人たちの考えを借りながら、
遊びの持つ多層的な意味を探求しました。
ゲームのアーキテクチャが設計するのは単なるルールの枠組みだけじゃなくて、
ある種の考え方とか感情の動き方さえも方向づけるような経験の環境そのものと言えるかもしれませんね。
そしてそのデザインされた環境の中でルールにきっちり従うことと、そこからちょっとはみ出すこと、
その間のダイナミズムこそが遊びというものの本質的な豊かさを示唆しているように私には思えます。
なるほど。では最後にこれを聞いているあなたにも考えていただきたい問いを投げかけて、今回の探求を終わりにしたいと思います。
デジタルゲームの影響
はい。
資料でも触れられていましたけど、BGA、ボードゲームアリーナのようなデジタルプラットフォームは、
プログラムコードによってルールを非常に厳格に適応しますよね。
そうですね。
こういうゲームのデジタル化が進むことによって、アナログの場で時に見られるようなルールの解釈の幅とか、
意図的なあるいはうっかりした逸脱みたいな自由、そしてそこから生まれるかもしれない独自のローカルルールとか、
予期せぬ面白さはこれからどうなっていくんでしょうか。
うーん、興味深い問いですね。
デジタル化によって、私たちは何を得て、そして何を失う可能性があるとあなたは考えますか?
この問いをぜひ、あなた自身のゲーム体験と照らし合わせながらちょっと考えてみていただけると嬉しいです。
15:31

コメント

スクロール