積みゲーと社会的プレッシャー
こんにちは。今回の探究の時間です。さて、あなたの家にも積みゲーとか積み読、たまってませんか?
あー、ありますね。
次から次へと、本当に魅力的なゲームや本が出てきて、とても全部追いかけきれないですよね。
なのに、「あれ、もうやった?」とか、「これ読んだ?」なんて聞かれると、なぜかこう返事に詰まっちゃったり。
わかります。
ちょっとした気まずさ感じることありますよね、心当たりが。
あります、あります。
今回はですね、あなたが共有してくれた資料、ピエール・バイヤールの著書、タイトルをもじった、「遊んでいないゲームについて堂々と語る方法」という文章。
はい。
これと、その周辺情報を元にちょっと掘り下げていきたいなと。
面白そうですね。
テーマは、まさにこの気まずさの正体です。
なぜ私たちは未体験のこと、特に趣味の世界で、知ってるべきだとか語るべきだみたいな、そういうプレッシャーを感じるのか。
そして、そのプレッシャーから自由になる道ってあるのかなと。
今回はボードゲームを切り口にしますけど、知識とか経験をめぐる私たちの複雑な心理。
それと、現代におけるその意味を探っていきましょう。
案内役は2人の思想家、ブルデューとバイヤールです。
はい、よろしくお願いします。
早速ですが、資料にもありましたけど、ボードゲームの世界って本当に新作ラッシュですよね。
すごいですよね。毎月のように。
毎月、いや下手したら毎週のように面白そうなのが出てくる。
全部プレイするなんて時間的にも経済的にも不可能じゃないですか。
そうですね。物理的に無理です。
でも、例えば大きな賞を取った話題作の会話が始まった時、自分が全くプレイしてなくて何も言えないと。
なんかこう、輪に入りそびれたみたいな。
ああ、わかります。その感じ。
妙な焦りを感じることってあるんですよね。この感覚、一体どこからくるんでしょう。
まるで知らないことが悪いことみたいに感じちゃうのはなぜなんでしょうか。
ブルデューの文化資本
その感覚を理解する上で、非常に示唆的なのがフランスの社会学者、ピエール・ブルデューの考え方ですね。
ブルデュー。
はい。彼は私たちが単なる好みとか個人の趣味だと思っている領域、例えばアート、音楽、そして今回のボードゲームみたいな世界も実は見えない競争の場なんだと。
彼が言うところの象徴闘争の舞台になっていると喝破したわけです。
象徴闘争ですか。
はい。象徴闘争っていうのは文字通りシンボル、つまり何を知っているかとか、どんなセンスを持っているかといった文化的な要素を武器にした地位とか評判をめぐる争いみたいなものです。
なるほど。
ブルデューによれば、それぞれの趣味の分野、彼が「界」、フィールドと呼ぶ特定の社会空間には独自の価値基準が存在するんですね。
はい。
そしてその「界」で高く評価される知識とか経験、センスといったものが文化資本として機能するんです。
文化資本?
ええ。
ボードゲームの「界」で言えば、例えばどれだけ多くのゲームを知っているか、レアなゲームを持っているか、戦略的な深い理解があるかとか、話題の新作をいち早くプレイしているかとか。
ああ、なるほどなるほど。
こういったものが文化資本になり得るわけです。
だから、あの話題作、ああ、先週もう3回やったよとか、そのデザイナーの初期の作品も当然抑えている、みたいな発言はですね、
単なる感想の共有を超えて、無意識のうちに自分の資本を投資して、その「界」における自分のポジションを有利にしようとする、戦略的な意味合いを帯びることがあるとブルデューは指摘するわけです。
なるほど、知っている、経験していることが、その世界の通貨みたいになっているってことですね。
そういう見方もできますね。
そうなると、知らない、遊んでいない状態っていうのは、その通貨を持っていない、つまり競争で不利になる、あるいは発言権がないように感じてしまう、だからプレッシャーを感じるっていう構造が見えてきますね。
ええ、そういう力学が働いていると。
でもそれってなんか少し寂しくないですか? 純粋に楽しみたいだけなのに、常に誰かと比較されたり評価されたりするような感覚があるっていうのは、ブルデューの考え方だと、趣味の世界から純粋な楽しみって排除されちゃうんでしょうか?
あ、それは良い質問ですね。ブルデューの分析って、時にまあ冷ややかに響くかもしれないんですが、彼が言いたかったのは、人間のあらゆる活動から純粋な喜びが消えるってことではないんです。
ほう。
むしろ私たちが純粋な好みだと感じているものが、実は社会的な背景とか教育、育ってきた環境によっていかに深く形作られるか、それを明らかにしようとしたんですね。
そしてその好みを通じて人々が互いを区別しあって、社会的な序列が作られていく、その力学を描き出そうとした。
ああ、なるほど。
ただ、その楽しみの表明自体が、意図せずともその闘争の一部として機能してしまう側面がある、ということですね。
確かに。言われてみれば、ボードゲームに限らず、例えばワインの知識とか、特定の音楽ジャンルに詳しいとか、
ええ、ありますね。
あるいはファッションのセンスとか、なんかいろいろな場面で似たような、知ってる方がかっこいい、みたいな空気感じることありますね。
ええ。
あなたもご自身の周りとか、経験の中で思い当たることがあるかもしれませんね。
うんうん。
このちょっと息苦しさも感じる、知識や経験を競い合うゲームに対して、資料がもう一つ光を当てていたのが、同じくフランスの思想家、ピエール・バイヤールの議論でした。
バイヤールですね。
はい。彼は、ブルデューとは、なんかまったく違う角度から、このプレッシャーを解き放つ鍵を提示しているように見えるんですよね。
ええ。バイヤールのアプローチは非常にユニークですよね。
バイヤールの創造性の解放
彼はそもそも、読んだとか遊んだっていう経験の確実性そのものに疑問符を突きつけるんです。
経験の確実性ですか?
本当に私たちは、経験したって言い切れるんだろうか、と。
ふーん。資料にあった論点を整理すると、まず物理的な不可能性。
はい。
世界に存在するすべてのボードゲームを遊ぶことは、まあ誰にとっても不可能ですもんね。一生かかっても無理でしょ?
無理ですね。
ということは、程度の差こさあれ、誰もが遊んでいないゲームを大量に抱えている、遊んでいないゲーマーであるという側面は、実は全員に共通しているんだ、と。
その通りです。そしてもう一つが、記憶の不可能性。
記憶の不可能性?
仮に一度プレイしたとしても、その記憶って驚くほど頼りないじゃないですか。
確かに忘れちゃいますよね。
ルールの詳細とか、プレイ中の感情、一緒に遊んだ人との会話、時間とともにどんどん忘れていく。
さらに、過去の記憶っていうのは、現在の自分の関心とか知識によって、無意識のうちに書き換えられたり、都合よく解釈されたりもする。
ああ。
バイアルはこれを本について、遮蔽膜、スクリーンとしての書物、と呼びましたけど、ゲーム体験もまさに同じだと。
プレイしたはずのゲームの記憶が、今の自分にとってのスクリーンになって、元の体験そのものを覆い隠してしまうみたいな。
つまり、完全にプレイした、理解したっていう状態と、全く知らないっていう状態の二極で考えること自体が、実はあまり現実的じゃないと?
そういうことですね。経験したと言っても不完全だし、忘れてもいる。その境界線は思った以上に曖昧なんじゃないかってことですね。
まさに、バイヤールが『読んでいない本について堂々と語る方法』っていう、ちょっと挑発的なタイトルで示したかったのは、知ったかぶりのテクニックじゃないんですよ。
むしろ、私たちが無意識に囚われている、知っているはずだという思い込み、その呪縛から自由になろうということなんです。
知っているはずだという思い込みからの解放。
ええ、資料が指摘していたように、この思い込みには2種類あるんですね。
1つは、あの人は「話題作をプレイした」って言ってたから、きっと隅々まで理解してるに違いないっていう他者に対する思い込み。
もう1つは、「私は以前あのゲームを遊んだことがあるから、その内容をちゃんと知っているはずだ」という、自分自身に対する思い込みです。
自分に対する方ですね。
特に後者、つまり自分自身の記憶の曖昧さとか忘却をきちんと認めることが重要だとバイヤールは強調するんです。
完璧には覚えていない自分を自覚する。
そうです。
それがどうしてブルデュー的な知識競争から自由になることにつながるんでしょう?
あの、「完璧に知っているはずの自分」っていう前提が崩れると、知らないことイコール恥ずかしいこと、劣っていることっていう図式も揺らぎ始めるからです。
なるほど。
覚えていない、詳しく知らないのが当たり前だと捉えられれば、知っていることを過剰にアピールする必要も薄れますよね。
確かに。
そうなると重要になるのは、過去にプレイしたかどうかっていう事実そのものよりも、今この場でそのゲームについて何をどう語るかっていう、現在の創造的な行為そのものにシフトしていくとバイヤールは示唆しているわけです。
面白い視点ですね。
知らない、覚えていないことを出発点にすれば、既存の評価とか正解とされる解釈に縛られずに、もっと自由に自分なりの言葉で対象と関われるかもしれない?
ええ。
バイヤールが読んでいない本について語ることは想像の活動だと言ったのはそういう意味合いなんですね?
そうだと思います。
既存の評判、つまりブルデュー的な闘争のルールから距離を置いて、自分だけの意味とか関係性を編み直していく積極的な営みになる。
その創造性の側面は非常に魅力的ですよね。
はい。
例えば、あなたが未プレイのあるゲームについて、「パッケージの絵がすごく印象的で、きっとこういう物語なんじゃないかと想像してるんです」とか、
ルールは知らないけど、遊んだ人の感想を聞いて、なんかこんな部分が面白いのかなと思ったと語ることは十分に想像的ですし、対話のきっかけにもなり得ますよね。
確かにそうですね。知らないからこその自由な発想というか。
そうなんです。ただし、ここでちょっと立ち止まって考えるべき重要な点があるんです。
と言いますと?
資料が鋭く指摘していたように、このバイアール的な態度には、現代特有の危うさも存在している。この点は見過ごせないなと。
危うさですか。自由に語ることのどんな点が問題になるんでしょう。
バイヤールの本が注目されたのって、2000年代後半、いわゆるWeb2.0の時代ですよね。
ブログとかSNSが盛り上がった頃ですね。
個人の発信が奨励されて、誰もが表現者、みたいなポジティブな空気があった。
一方で、その日本語版文庫が出た2016年頃からは、「ポスト・トゥルース」という言葉が頻繁に使われるようになりました。
これは客観的な事実とか、専門家の知見よりも、個人の感情的な訴えとか、信じたい物語の方が影響力を持ってしまうような、そういう風潮を指す言葉です。
知識とプレッシャーの関係
この文脈で、知らないことについて堂々と語るという態度を、無批判に受け入れてしまうとどうなるか。
バイヤール自身は知的な誠実さを求めていたと思うんですが、その態度だけが切り取られると、「よく知らないけど私はこう思う」っていう主張がですね、
専門的な知識とか積み重ねられた知見、いわゆる専門知を軽視したり、事実に基づかない情報を拡散する姿勢を、意図せず押し出してしまう危険性があるんです。
自分なりの解釈が事実を乗り越えてしまうという事態を招きかねない。
なるほど。ブルデュー的な知識マウント合戦から自由になる魅力と、事実とか他者への敬意を欠いた無責任な発言っていうのは、もしかしたら紙一重かもしれないということですね。
そういう側面があると思います。
特にネットみたいに相手の顔が見えないコミュニケーションだと、その境界線が曖昧になりやすいのかもしれない。
そうなんです。だから、バイヤールの提案する自由さとか創造性を生かすためには、同時に自分の知識の限界を自覚すること、そして他者の意見とか専門的な知見に対して謙虚であること、このバランスが不可欠になってくるんだと思うんです。
バランス感覚ですか。
自由に語ることと、無責任に語ることは違うんだっていう認識ですね。
面白いですね。知識を競うプレッシャーから解放される道を探っていたら、今度はどう語るかっていうその責任の問題に行き着いたと。
では、私たちはこのジレンマの中でどうすればいいんでしょう。プレッシャーからも自由になりたい。でも、無責任にもなりたくない。
そこでヒントになるかもしれないのが、資料の最後で少し触れられていたオランダの歴史家ヨハン・ホイジンガの魔法円、マジックサークルという考え方です。
魔法円。
はい。彼は『ホモ・ルーデンス』、つまり「遊ぶ人」っていう本で遊びの本質を探ったんですね。
ホイジンガによれば、遊びっていうのは日常の利害関係とか深刻さから一時的に切り離された特別なルールが支配する円の中で行われると。
ふむふむ。
その円の中では、現実世界のヒエラルキーとか損得感情は一旦停止されて、参加者はその遊び独自のルールと目的に没頭する。
サッカーのフィールドとかボードゲームの盤面っていうのが、まさにその魔法円の具体的な現れと言えるわけです。
魔法円。日常から切り離された遊びのための特別な空間とルールですか。それが知識をめぐるプレッシャーとどう関係するんでしょう。
こう考えてみてはどうでしょう。
ブルデューが暴いたような象徴闘争が日常の延長戦上のある種のシリアスなゲームだとしたら、私たちは意図的に自分たちの学びとか趣味の領域にホイジンガ的な遊びの魔法円を設定することができるんじゃないかと。
意図的に魔法円を。
つまり、例えばボードゲーム会で、今日は勝ち負けとか知識の量じゃなくて、とにかく変わった戦略を試すのを楽しもうとか。
この読書会では、作品の評価は一旦脇に置いて、それぞれが自由に連想したことを話してみようといった独自の遊びのルールを参加者同士で意識的に作ってみる。
それは、知識を競い合うプレッシャーから一時的に解放されて、バイヤール的な創造性をより安全で建設的な形で発揮するための場を作り出す試みといえるかもしれないなと。
なるほど。
魔法円を作る。つまり、自分たちで意識的にここでは知識マウントは禁止ねとか、自由に想像を語る時間みたいな境界線とかルールを設定することで、プレッシャーから自由な空間を確保するということですね。
そういうことです。
それは面白いアプローチかもしれませんね。
絶対的な解決策ではありませんけど、自分たちが知識や経験とどう向き合いたいのか、その都度遊びのルールをデザインしていくという発想は、プレッシャーと創造性の間にバランスを取るための一つ鍵になるかもしれません。
さて、今回の探究をちょっとまとめてみましょうか。
はい。
私たちはまず、趣味の世界にも潜む知識や経験をめぐるプレッシャー、知らなければいけないという感覚の背景に、ブルデューの言う象徴闘争があることを見ました。
次に、そのプレッシャーからの解放のヒントとして、バイヤールの経験の不確かさへの問いと、知らないことを認める創造性、これに触れましたね。
はい。
しかし、その自由さには現代特有の危うさも伴うから、事実への敬意とか他者への配慮が必要だということも確認しました。
そうですね。
そして最後に、そのバランスを取るための一つの試みとして、魔法円という意図的に設定された遊びの空間の可能性について考えました。
魔法円の創造
ええ。
結局のところ、知らないこと、経験していないこととどう向き合うかというのは、単に情報をインプットするだけじゃなくて、自分なりの意味を見出して、他者と関わりながらその関わり方自体をデザインしていく、何か創造的なプロセスなのかもしれませんね。
まさにそうですね。そこで、最後にあなた自身に問いかけてみたいと思うんです。
何でしょう?
今日話したような知識を競うプレッシャーとか、語ることの自由さと危うさ、これらを踏まえた上で、あなたはご自身の学びや趣味の世界で、どのような境界線や自分なりのルール、つまりあなただけの魔法円を設けることで、より豊かで創造的で、そして他者とも心地よく関われるような、そんな遊びの空間を作ることができるでしょうか?
自分だけの魔法円ですか?
ええ。すぐに答えは見つからないかもしれません。でも、この問いをぜひ、少しの間心に留めて、あなたの日常を眺めてみてほしいんです。そこに何か新しい関わり方のヒントが隠されているかもしれませんよ。
なるほど。深い問いですね。今回の探究はここまでです。この対話が、あなたが日々触れる情報や経験と、より自由で豊かに付き合っていくための、何かささやかな視点となれば幸いです。
ええ。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
ありがとうございました。