遊びの定義と文化的視点
こんにちは。今日の探究の時間です。テーマは、「遊び」。
遊びですか?
ええ。誰もが子どもの頃から親しんでいる、一見シンプルな言葉ですけど、
はい。
突き詰めて考えてみると、これがなかなか奥深いんですよね。
確かにそうですね。仕事の対極? ただの気晴らし? それとも、もっと深い意味があるんでしょうか?
手元にあるのは、「ボードゲーム哲学」というメディアの記事からの抜粋なんです。
古今東西の思想家たちが、この遊びという現象をどう捉えて分析してきたか。
ホイジンガからヴィトゲンシュタインまで、本当にいろいろな視点がまとめられていて、
なるほど。それは興味深いですね。
今日のミッションは、これらの多様なレンズを通して、遊びの本質とは何か、あなたと一緒に迫っていきたいなと。
ええ、ぜひ。
早速、探っていきましょうか。
お願いします。今回の資料、ざっと目通しましたけど、
「遊び」という一つのテーマに対して、歴史学、心理学、社会学、哲学と、本当に多角的なアプローチが紹介されてますよね。
そうなんですよ。
それぞれの断片的な視点をつなぎ合わせることで、遊びが私たちの文化とか、心とか、社会の在り方とか、
いかに分かち難く結びついているか、立体的に見えてくるんじゃないかなと。
では、まずは古典ともいえる考え方からいきましょうか。
はい。
オランダの歴史家、ヨハン・ホイジンガ。
ホイジンガ。
遊びを文化の根源に位置づけた『ホモ・ルーデンス』、つまり、遊ぶ人。この概念で有名ですよね。
非常に重要な人物ですね。
彼のキーワードは魔法円、magic circle。これはどういう考え方でしたっけ?
ホイジンガによれば、遊びっていうのは、日常の生活とか、時空間から明確に区切られた、いわば聖域のような特別な場所や時間の中で行われるっていうんですね。
聖域ですか?
それが魔法円です。
なるほど。
その中では、現実世界の利害とか深刻さからは解放されて、遊びそれ自体が目的になる。そしてその遊び独自のルールだけが通用すると。
ああ、なるほど。例えば?
例えば、チェス盤の上とかサッカーのフィールドの中とか。それを想像するとわかりやすいかもしれません。
なるほど、なるほど。ゲームのルールが支配する現実とはちょっと別の小さな世界みたいな感じですかね?
まさに。
確かにボードゲームを始める時とか、「よし、やるぞ!」って、なんか日常からスッと切り替わる感覚ありますもんね。
ええ、ありますよね。
この日常からの分離っていうのがホイジンガの考える遊びの核心部分なんですね。
そうなんです。そしてその分離された空間での自発的で自由な活動こそが、法律とか芸術、宗教といった高度な文化を生み出す源泉になったんだとホイジンガは考えたわけですね。
へえ、文化の根源に遊びがあるんですか。壮大な視点ですね。
ええ。
心理学的アプローチ
じゃあその遊びが今度は個人の心、特に子どもの成長にどう関わるのか、心理学的な視点も見ていきましょうか。
はい。
フロイトの名前が挙がっていますね。
精神分析の創始者フロイトですね。彼は子どもの遊びに重要な心理的な機能を見出したんです。
特に子どもが現実で経験した不快な出来事とか不安を遊びの中で能動的に反復することで克服しようとする点に注目しました。
反復して克服する。
ええ。有名な例が彼が自分のお孫さんを観察した「いない・いない・ばあ」、ドイツ語だと「フォルトダー遊び」ですね。
あ、「いない・いない・ばあ」。あれってお母さんがいなくなってまた現れるっていうのを繰り返しますよね。
そうですそうです。
あれが不安克服に繋がるんですか?
ええ。フロイトの解釈によれば母親が視界から消えるっていう子どもにとっては受け身の不安な体験ですよね。
それを子どもは糸巻きを投げたり隠したりしていなくなった、現れたって再現するわけです。
ああ、自分で。
そうです。つまり自分でコントロールできる形で状況を反復することで、その不安を乗り越えて能動性を獲得していくんだと。
まあ辛い体験を遊びで飼いならすみたいなそんなイメージでしょうか。
へえ、面白い。受動的な体験を遊びを通して能動的なものに転換すると。
ええ。
自分でコントロールできる感覚っていうのが影なんですね。
そういうことになりますね。
そしてもう一人、子どもの心理発達と遊びを語る上でこの人も欠かせないですね。
ドナルド・ウィニコット。
ああ、ウィニコット。
彼には潜在空間という、また別のなんか興味深い概念がありますよね。
ええ、ありますね。
これはさっきのホイジンガの魔法円とはどう違うんでしょう。
いい質問ですね。
ホイジンガの魔法円が遊びと日常を隔てる、どちらかというと外側の境界に注目したのに対してですね。
はい。
ウィニコットの潜在空間、ポテンシャルスペースはもっと内的な領域、あるいは中間領域って捉えることができるかなと。
中間領域。内と外の間ですか。ちょっとつかみにくい感じもしますが。
ええ、そうですよね。具体的に言うと、完全に主観的な内的世界。空想とか幻想の世界ですね。
はい。
それと客観的な外的世界。つまり現実。その間に広がるスペースと考えたんですね。
間のスペース。
ウィニコットが特に注目したのが移行対象の存在なんです。
移行対象?トランジショナルオブジェクト?
ええ。赤ちゃんがいつも肌見放さず持っている毛布とかぬいぐるみとかありますよね。
ああ、ありますね。お気に入りのタオルとか。
そうそう。あれが移行対象の典型例です。
ウィニコットによれば、この対象というのは赤ちゃんにとっては自分の一部、つまり主観的なものでありながら、
同時に自分ではない外部のもの、客観的なものでもあるという領域的な存在なんだと。
ああ、なるほど。自分のものでもあり、自分ではないものでもある。
そうなんです。この移行対象はいわば、その内的な世界と外的な世界をつなぐ架け橋のようなもので。
架け橋。
母がそばにいないという現実、つまり外的世界の不安を和らげつつ、一人でいられる能力、自立ですよね。
内的な世界の育ちを助ける。
この移行対象が存在して機能する場所こそが潜在空間であって、
ここから遊びが生まれて、さらには文化、芸術、宗教といった人間の創造的な活動全般が展開していくんだとウィニコットは考えたわけです。
なるほど。移行対象がその間の空間を作り出す最初のきっかけ、楔(くさび)になるみたいな感じなんですね。
そういうイメージですね。
確かに子どもがお気に入りのタオルをギュッと握りしめて安心している姿を見ると、
あれが単なるもの以上の心の世界と外の世界をつなぐ特別な存在なんだなって感じられますもんね。
ええ、そうですね。
ホイジンガは文化のいわば外枠としての遊びを考えたのに対して、
ウィニコットは心の内側から文化が生まれるプロセスとしての遊びを見たって言えるかもしれないですね。
ええ、その対比は面白いと思います。発達心理学的な視点が強いですよね、ウィニコットは。
社会的な視点からの遊びの理解
なるほど。さて、個人の心理から今度はもっと社会的な文脈に目を向けてみましょうか。
はい。
20世紀半ばになると社会学とか人類学の分野からも遊びへの関心が高まるんですね。
そうですね。
ここで重要なのが、フランスの社会学者、ロジェ・カイヨワ。
カイヨワはですね。
彼はホイジンガを継承しつつも批判的に乗り越えようとしたとありますね。
ええ、カイヨワはホイジンガのホモルーデンスに深い敬意を払ってはいるんです。
でも同時に、ホイジンガの遊びの定義はある種、美しすぎるというか、
理想化されすぎていて、現実の多様な遊びの姿を捉えきれていないんじゃないかと感じていたんですね。
ああ、理想化されすぎていると。
ええ、そこでもっと包括的で精密な遊びの分類を試みたんです。
ホイジンガの定義をどのあたりがカイヨワには不十分に思えたんでしょう、具体的には。
まずですね、ホイジンガはルールに乗った競争、ギリシャ語でアゴンって言いますけど、
これを遊びの典型みたいに考えましたよね。
はい、チェスとかスポーツとか。
ええ、でもカイヨワは人間の遊びへの衝動っていうのはもっと多様だろうと、
彼は遊びを駆動する根源的な衝動として4つのカテゴリーを提示しました。
4つですか。
ええ、意志の介在とルールの有無っていう2つの軸で整理すると分かりやすいんですが、
なるほど。
1つ目は意志があってルールもある競争、アゴン、これはホイジンガも重視したスポーツとか多くのボードゲームですね。
2つ目は意思はなくてルールがある運、アレア。
ルーレットとかサイコロ遊び、宝くじなんかもそうですね。
結果は偶然に任せる。
うんうん、運任せ。
3つ目は意思はあってルールはない模倣、ミミクリー。
子供のごっこ遊びとか演劇、仮装なんかがこれに当たりますね。
何かになりきる。
ああ、ごっこ遊び。
そして4つ目が意志もルールもない目眩(めまい)、イリンクス。
ブランコとかジェットコースターとか、あるいは子どもがわざとぐるぐる回って目眩を楽しむような、
ああいう感覚的な陶酔を求める遊びです。
へえ、競争だけじゃなくて運、模倣、目眩。
確かに言われてみれば遊びには色々な種類がありますね。
そうなんですよ。
ホイジンガが見落としていた側面をカバーしようとしたわけですね、カイヨワは。
まさにそうです。
さらにカイヨワはホイジンガが遊びは現実の利益から自由であるとした点にも疑問を呈してるんですね。
あ、そこもですか。
ええ、例えば賭け事、ギャンブル、これは明らかに金銭っていう現実の利益が深く関わってますよね。
確かに。
それからスポーツ選手とかギャンブラーが自分の活動をこれは作り事だ、虚構だって意識しながらプレイしてるとは限らないだろうとも指摘しました。
ああ、本気でやってますもんね。
そうなんです。つまり遊びと現実の境界っていうのはホイジンガが考えたほどそんなにくっきりと分けられるものじゃないんじゃないかと、より現実の複雑な遊びの実態に即した分析を目指したんですね。
なるほどなあ。ホイジンガの魔法円っていうちょっとクリーンなイメージに対して、カイヨワはもっと現実のドロドロした部分も含むような多様な遊びの地図を描こうとしたみたいな感じでしょうか。
そういう捉え方もできるかもしれませんね。
現実とのつながりという点で言うと、グレゴリー・ベイトソンのメタ・メッセージっていう考え方もこれまた面白いですね。
ええ、これはコミュニケーションにおける遊びの重要性を示す概念ですもんね。ベイトソンは動物の、例えば子犬とか子猫がじゃれあって噛みつくような行動を観察したんですね。
はいはい、じゃれあい。
これは「本気の攻撃じゃないよ、遊びだよ」っていうメッセージについてのメッセージ、つまりメタ・メッセージが必ず伴っているんだと考えたんです。
ああ、これは遊びだぞっていうその場の空気というか合図みたいなものですね。
その通りです。
この、これは遊びの枠組みフレームの中での出来事なんだっていう共通理解、まあメタ・コミュニケーションの能力ですね。
これが人間を含む動物の高度なコミュニケーション、例えば冗談とか皮肉、比喩、さらには演劇とかフィクションなんかを可能にする基盤になってるんだとベイトソンは考えたのです。
なるほど、言葉通りの意味だけじゃなくて、それがどういう文脈フレームで語られているかを読み取る能力、それって日常のコミュニケーションでもめちゃくちゃ大事ですよね。今のは冗談だからねって顔とか態度で示すみたいな。
まさにそうです。
このフレームっていう考え方は社会学者のアーヴィング・ゴッフマンも使ってますね。彼は遊びと現実の関係をどう捉えたんでしょうか。
ゴッフマンはですね、遊びが現実から完全に切り離されているわけではないっていう点をさらに掘り下げたんです。
遊びのバランス
彼によれば、遊びの面白さとか、そもそも遊びが成立するかどうかっていうのは、現実世界の価値観とか人間関係といった外部の事柄が遊びの枠組み、フレームの中にどの程度どのように持ち込まれるかっていうその絶妙なバランスによって決まるんだというんです。
えー面白い。完全に分離するのでもなく、かといって、ごちゃ混ぜになるのでもない、その匙加減が重要だと。
そうなんです。例えば、友人同士でやる人狼ゲームとか、あるいはお互いのことをちょっとネタにするようなパーティーゲームとか考えてみてください。
はい。
まったくの他人とやるよりも、お互いの性格とか普段の関係性みたいな外部の事柄がゲームの中に持ち込まれるからこそ、駆け引きが面白くなったり、なんか意外な一面が見えたりしますよね。
あーしますします。あいつならこう言いそうとか考えますもんね。
ですよね。でもそれが度を超えてしまって本気の悪口になったり、人間関係の破壊につながったりすると、もうそれは遊びじゃなくなってしまう。
確かに、嫌悪になりますね。
この現実との接続具合のチューニング、匙加減が遊びを遊びたらしめているんだとゴッフマンは考えたわけです。
うわーそれはなんかすごく腑に落ちます。現実から切り離されすぎてもつまらないし、逆に現実に侵食されすぎても壊れてしまうと。
その良い塩梅で現実を取り込むから遊びは面白くなるんですね。
これはホイジンガの魔法円とはかなり違うというか、現実との連続性に注目した視点ですね。
そうですね。対照的と言えるかもしれません。
カーニバルの力
一方で遊びには現実の秩序をむしろひっくり返す力もあると見たのがロシアの思想家ミハエル・バフチンです。
バフチン?
彼は中西ヨーロッパのカーニヴァルに注目しました。
カーニヴァル、お祭り騒ぎっていうイメージですけど。
まさにその通りです。
カーニヴァルっていうのは、普段の厳格な身分制度とか教会の権威みたいなものが一時的に停止されて、
人々が王様とか聖職者をパロディー化したり、ちょっと猥雑なジョークを飛ばしたりして、身分を超えて笑い転げる、そういう開放的な祝祭空間だったんですね。
バフチンは、このカーニヴァル的な笑いとかパロディーに、公的な権威とか常識を相対化して、
転覆させるような遊びの根源的な力、一種のカウンターカルチャー的なエネルギーを見出したんです。
なるほど。日常からの逸脱、開放、転覆。
そういう側面ですね。
日常からの分離、ホイジンガ、日常との接続、ゴッフマン、そして日常の転覆、バフチン。
いやはや、遊びと現実の関係だけでも、こんなに多様な捉え方があるんですね。
本当にそうですね。
哲学的視点の探求
最後に、哲学的な視点も少しだけ触れておきましょうか。
はい。
遊びは単なる気晴らしじゃなくて、もっと根源的な人間存在の本質に関わるんだ、という見方ですね。
ドイツの詩人であり哲学者でもあるフリードリヒ・シラー。彼は、「人間は遊んでいるときにのみ、完全に人間である。」という非常に有名な言葉を残しています。
遊んでいるときこそ、もっとも人間らしい。
彼は、理性と感性とか精神と物質とか、人間の中にある様々な対立する力が、遊びにおいて最も自由に、調和的に統合されるんだと考えて、遊びを人間の自由の最高の表現だとみなしたんですね。
深いですね。
そして、20世紀の哲学者、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン、彼も「言語ゲーム」という比喩を使っていますね。
ええ。ヴィトゲンシュタインは、言葉の意味というものが、辞書的な定義だけでカチッと決まるんじゃなくて、それが実際に使われる具体的な文脈とか生活形式の中で、多様なルールに従って運用される、一種のゲームのようなものだと考えました。
言葉を使うこと自体がゲーム。
そうです。言葉を使うという行為そのものが、固定的なルールだけじゃなくて、状況に応じた柔軟な運用、つまり遊びの要素を含んでいるんだ、ということを示唆したわけですね。
いやはや、遊びという、たった2文字の言葉の背後に、これほど豊かで多様な思想の歴史が広がっていたとは正直驚きました。
ホイジンガの魔法円から始まって、フロイトやウィニコットの心理的な真相、カイヨワの多様な分類、ベイトソンやゴッフマン、バフチンの社会的なコミュニケーションや現実との関係性、そしてシラーやヴィトゲンシュタインの哲学的な洞察まで、なんか万華鏡みたいに次々と違う側面が見えてきて面白かったです。
まさにそうですね。これらの異なる視点っていうのは、それぞれが遊びっていう、こう、複雑で捉えどころのない現象のある特定の側面を鋭く照らし出してくれているんだと思います。
だからどれか一つだけが絶対的に正しいってわけではなくて、これら全体を重ね合わせることで、より豊かな遊びの理解に近づけるんじゃないでしょうか。
なるほど。こうしていろいろな視点に触れて見ると、あなた自身の遊びに対する見方も、もしかしたら少し変わってきたかもしれませんね。
そうだといいですね。
例えばあなたが普段楽しんでいるゲームとか趣味とかは、ホイジンガ的な日常からの分離の要素が強いでしょうか。それともゴッフマン的な現実との絶妙な接続がその面白さの肝になっている。
あるいはウィニコット的な創造性の源泉としての意味合いを持っているかもしれませんしね。
ええ。ご自身の経験と照らし合わせて考えてみるのも面白いかもしれませんね。
そうですね。
さて今回は、遊びをめぐる様々な思想化の視点を探求してきました。ホイジンガ、フロイト、ウィニコット、カイヨワ、ベイトソン、バフチン、ゴッフマン、シラー、ヴィトゲンシュタイン。本当に多くの知性がこのテーマに取り組んできたんですね。
改めてそう感じますね。これらの議論を踏まえて最後に一つあなたに考えてみてほしい問いを投げかけて終わりにしたいと思うんですが。
何でしょう。
ウィニコットは遊びとか文化が生まれる潜在空間を主観的な内的世界と客観的な外的世界の中間領域に見出しましたよね。
はい。移行対象が存在する場所。
では現代のようにインターネットとかSNS、VRみたいなデジタルな仮想空間が私たちの生活とか意識の中にも深く浸透している状況でですね。
ウィニコットが言ったような中間領域あるいはそこで行われる遊びの質っていうのはどのように変化しているあるいはこれから変化し得るのでしょうか。
デジタル空間は新たな潜在空間となり得るのか。それともそれはまた全然違う性質を持つものなのか。これは現代における遊びを考える上で非常に重要でかつ難しいというかもしれないですね。
ええそう思います。
ぜひあなた自身の考えも巡らせてみてください。
それでは今回の探究はここまでとしましょうか。
はいまた次回新たなテーマでお会いできるのを楽しみにしています。
ありがとうございました。
ありがとうございました。