1. ボードゲーム哲学(ボ哲)
  2. 「長考」は悪いこと?
2025-09-25 15:23

「長考」は悪いこと?

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ボ哲コラム「『長考』は悪いこと?」⁠⁠⁠をNotebookLMでポッドキャストにしました。

お楽しみください😊


⁠LISTEN(文字起こし)

サマリー

ボードゲームにおける「長考」の問題を探求し、その影響が本当に絶対的なものかを考察します。哲学的視点から実在論や反実在論を通じて、「長考」に対する感情や文化的背景がどのように影響を与えるかについて検討しました。また、「長考」はボードゲームにおける行為として、道徳的な観点から多角的に考察されました。このエピソードでは、「長考」が許容される場面やその背景にある客観的理由を探求しています。

長考の探求
こんにちはー。今回の探究へようこそ。
いやー、ボードゲームって本当に面白いですよね。
でも、こう、ゲームを囲んでると、時々
うーん!ってなる瞬間ありません?
特にね、よく話題になるのが、「長考」。
誰かがこう、じっくり考え込む時間。
あれって、本当に単純に悪いことなんでしょうか?
今日は、この、もしかしたら誰もが一度は感じたことのあるような、そのモヤモヤを
えーと、一緒に深く掘り下げて考えていきましょう。
あの、私たちの手元にあるのはですね、この長考問題について
まあ、いろいろな角度から光を当てた資料なんです。
これは、「シュピール・フマニタス」っていう、ゲームの哲学とか
倫理について深く議論する、そういう場での考察が元になってるんですね。
単なるルールブックっていうよりは、なんていうか、なぜ私たちが特定のマナーを大事にするのか、
その、もっと根本を探るような、そんな内容です。
さて、今回のミッションですが、
なぜ私たちが、長考とか、まあ、時には口三味線、相手を惑わすような発言ですね。
あるいは、協力ゲームで時々見かける奉行プレイ、一人が全部指示しちゃう、あれです。
そういう行為に対して、直感的に
うーん、ちょっとそれはどうなんだろうって感じるのか、
その感覚の、こう、裏にある理由を探っていきたいんです。
今日は特に、「長考」に焦点を当てますけど、
ここで考える視点っていうのは、他の気になる行動にも応用できるかもしれないですね。
ちょっと、思い出してみてください。
持ち時間が結構長いゲームで、誰かの手番が、なかなか終わらない。
まだかなーって、ちょっとそわそわしたり、まあ、内心イラっとしちゃった経験、ありませんか?
でも、その感情って、どこからくるんでしょう?
その行為自体が、どんな状況でも、絶対に悪いと、
そう言い切れるんでしょうか?
さあ、この問いの迷宮に、一緒に足を踏み入れてみましょうか。
長考に対する一般的考え
まずはそうですね、一番分かりやすい考え方から見ていきましょうか。
まず、多くの人がこう、直感的に思うかもしれないことですね。
長考は、よくないよ、
だって、ゲームがダラダラ長引いちゃうし、他の人が待たされるじゃないかっていう。
これは非常に一般的な考え方ですよね?
ええ、おっしゃる通りですね。
それは、あの、資料で示されている考え方で言うと、
道徳的実在論と一般主義という哲学的な立場。
これを組み合わせた考え方と、まあ、非常によく似ていますね。
この見方ですと、「他者の時間を不必要に奪うべきではない」といったような、
個人の感情とか、その場の雰囲気に左右されない、こう、
普遍的な道徳ルール、あるいは真実が存在すると、そう考えるんです。
そして、信頼できる道徳的な原則があって、「それに従うべきなんだ」と考えるわけです。
ふむふむ。
ですから、この立場からすると、長考というのは、
「ゲーム全体の進行を妨げて、他のプレイヤーの時間を奪う」という点において、
客観的に、そして多くの場合において、「悪い行為」だと、まあ、結論付けられるわけです。
例えば、ゲームの序盤で、特に複雑な状況でもないのに、
延々と悩むというのは、この原則に反する、と、そう見なされる可能性が高いですね。
この視点だと、私たちがマナーと呼んでいるものは、こうした客観的な悪を避けるための、
まあ、みんなが従うべき、普遍的なルールセットのようなもの、と、そういうことになりますね。
なるほど。
ルールとして捉えるのは、確かに分かりやすいですね。
これを守れば、まあ、円滑に進むよね、っていう、そういう共通認識があると。
でも、それだと例外っていうのは、全く認められないということになるんでしょうか。
例えば、もう勝敗がかかった最終盤面で、どうしても時間が必要な場合とか。
ああ、そこはよい点ですね。
厳密な一般主義なら、まあ、そうかもしれませんけど、多くの実在論者は、
原則には優先順位があったりとか、特定の状況下では、例外が適用されたりすることも認めることが多いです。
ただ、基本的には、時間を尊重するという原則が、デフォルトとして強く存在するという考え方ですね。
反実在論と道徳的特殊主義の考え方
なるほど。
この視点だと、例えば、口三味線も正直であるべき、という、また別の原則に反するから悪いんだ、と、
そういうふうに説明できるかもしれません。
原則は原則としてちゃんと存在している、と。
しかしです。
誰かが、こう、長く考えていることに対して、
本当に誰もが同じように悪い、と感じるものなんでしょうかね。
ここからが、また非常に興味深いんですが、
もし、その悪さというのが、例えば、このサイコロは
6面体だ、というような、そういう客観的な事実ではないとしたら。
まさにそこが、次の視点への入り口ですね。
反実在論です。
まあ、あるいは、非認知主義とも呼ばれますが、
この考え方では、「善い」とか「悪い」といった、そういう道徳的な価値は、
世界に客観的に存在している事実じゃなくて、
むしろ、私たちの主観的な態度とか感情、
あるいは、その集団とか社会の約束ごとによって、形作られるものだと、そう主張するんです。
ほうほう、主観や約束ごと。
具体的に言えばですね、彼の長考は迷惑だ、という発言は、
例えば、「この部屋は暑い」と客観的な温度を述べているのではなくて、
「私はこの遅延に対してイライラしている」という個人的な感情の表明、
あるいは、「私たちのグループでは、こういう遅延は好ましくないとされているんだ」
という、その社会的なルールの確認に過ぎないのかもしれない、そういうことですね。
ということは、「あの長考ひどいよね」って言ったとしても、
それは世界の真理を語っているんじゃなくて、
「私はあれが嫌いだ!」と、まあ叫んでいるようなものだと、
それが、この反実在論の考え方ですか。
ええ、そのように解釈できますね。
この立場から見ると、例えば奉行プレイが問題になるのも、
それが客観的に間違っているからじゃなくて、
単に「『他のプレイヤーが指示されるのが不快だ』と感じるからだ」ということになります。
この見方のまあ面白い点は、
文化とかグループによって許される長考の長さとか、
適切な発言というのがまったく異なる可能性があること、
これをうまく説明できる点ですね。
ああ、それは確かに現実のゲーム会での感覚に近いかもしれませんね。
グループによって全然その場の空気って違いますもんね。
ただ、もしすべてが主観的な感情とか、その場の空気だけで決まるんだとしたら、
誰も何も言わなければ極端な話、
どんなに遅くても、どんなに一方的なプレイでも許されちゃう、みたいな、
そういう危うさはありませんか?
なんか、寄り所がなくなっちゃうような。
それは、あの、重要なご指摘です。
反実在論の中でも、特に単純な主観主義とか、相対主義に対しては、
まさにその、何でもありになってしまうんじゃないか、という批判がありますね。
客観的な基準がまったくないと、意見が対立した時に、
こう、解決する手段がなくなってしまうんじゃないか、という可能性も指摘されています。
うーん、難しいですね。
一方は、普遍的なルールがあるから悪い。
もう一方は、どう感じるかは人やグループ次第。
どっちも、まあ、一理ある気はするんですけど、なんだか両極端な気もします。
その間、というか、もう少し、こう、状況に即した考え方はないものでしょうか。
ええ、そこで光を当てたいのが、哲学者のジョナサン・ダンシーが提唱した、
道徳的特殊主義、パティキュラリズム、という非常に興味深い考え方なんです。
ダンシーによればですね、ある行為が良いか悪いか、それを最終的に決めるのは、
普遍的なルールを機械的に適用することでもなければ、
単なる個人の主観的な感情の波でもない、とそう言うんです。
ほう、ルールでも感情でもないと。
ええ、彼が重視するのは、その特定の文脈、その特定の状況に中に客観的に存在する、
理由の形、Shape of Reasonsなんです。
これは、その状況を構成している様々な要素が、
どのように組み合わさって、特定の行為を支持したり、逆に支持しなかったりするか、
その構造そのものを指しているんですね。
理由の形ですか?ちょっと抽象的ですね。
例えば、それはお医者さんが患者さんを見る状況に似ていますか?
熱があるなら解熱剤っていう、まあ一般的なルールだけじゃなくて、
その患者さん固有の体力とか、
持病、他の症状、アレルギーといった、様々な文脈、
つまり理由を総合的に見て、
この患者さんには今は解熱剤よりもまず別の処置が必要だと判断する、みたいな、
そういうイメージでしょうか?
まさに、それは非常に的確で素晴らしい例えですね。
ダンシーが言うところの有徳な人物、あるいはこの文脈で言えば、
熟練した、思慮深いプレイヤーというのは、まさにそのような鋭い、
道徳的視力を持っていると考えられるんです。
道徳的な視力。
その場の無数の要素、ゲームの残り時間は、今の盤面はどれほど複雑で重要か、
長考しているプレイヤーは勝利に近づいているのか、それともただ困っているだけなのか、
他のプレイヤーの様子はどうか、このゲーム会の雰囲気は、主催者の意図は、などなど、
長考の許容
これらを、まるで経験豊かなお医者さんが患者さんの全体像を把握するように、繊細に認識するわけです。
なるほど、なるほど。
そして、この多角的で文脈に根差した認識に基づいて、
「なるほど、この終盤の局面で彼/彼女が10分考えるのは、勝利をつかむために必要な、
複雑な計算をしているからで、十分に理由があるな」とか、
逆に、「ゲーム序盤のこの単純な場面で10分もかけるのは、
ゲーム全体の流れを著しく停滞させるだけで、それを正当化するだけの理由は、今の状況には見当たらないな」
といった判断に至る。
同じ10分間の長考でも、その「理由の形」がまったく異なるわけです。
ということは、同じ長さの長考であっても、ある状況では、それは必要な時間だと許容されて、
別の状況では、それはちょっと配慮にかけるんじゃないか、と問題視される。
そして重要なのは、その違いが単なる気まぐれとか感情論ではなくて、
その状況特有の、客観的な理由の組み合わせに基づいている、ということですか?
ええ、その通りです。
これは、単にルールを適用するだけでもないし、かといって、単なる「嫌だ」という感情の発露でもない、
その場の状況に対する、より深く、より繊細な認識と、それに基づいた判断が求められる、という考え方なんです。
この視点は、アリストテレス的な徳倫理学、つまり、普遍的な規則、
カント主義的ですね、や、結果の最大化、功利主義的ですね、だけじゃなくて、
状況に応じた実践的な知恵、フロネーシス(phronesis)、といいます。
や、有徳な在り方そのものを重視する、そういう考え方に通じるものがありますね。
いやー、これはかなり奥が深いですね。
「長考がよいか悪いか」という一見シンプルな問いが、こんなに多様な視点から考えられるとは思いませんでした。
では、この一連の話を踏まえて、
あなたが次にボードゲームの卓を囲むとき、具体的に何が変わるでしょう。
誰かの長考に対して、よい、悪い、と即断する前に、考えるべきことがたくさんありそうです。
そうですね。
この探求が、例えば、「長考は何分までならセーフ」といった、そういう単純なルールを提供してくれるわけではないんです。
むしろ、何かに対して、こう反射的に、「それはダメだ」とか「不快だ」と感じたときに、
一歩立ち止まって考えてみることを促しているのかもしれません。
一歩立ち止まる。
ええ。なぜ自分は今、この状況を不快に感じているんだろうか。
それは、共有されているはずの原則が破られていると感じるから。
それとも、単に個人的な焦りとか、早く自分の番が来てほしい、という、まあ、欲求から来ているんだろうか。
あるいは、ひょっとしたら、相手が長く考えていることには、この複雑なゲームのこの局面において、十分に正当化されるだけの理由があるのではないか。
ダンシーの特殊主義的な考え方は、そう問いかけることを促してくれるんですね。
なるほど。
特定の状況をこう、注意深く観察して、様々な要素を考慮に入れること。
そして、時には他のプレイヤーと、今どう感じているかとか、このゲームではどのくらいのペースが心地よいかといった期待について率直に話し合うこと。
そういうコミュニケーションの重要性も、この視点は示唆しているように思いますね。
これは私たち自身にも問いを投げかけますよね。
どうすれば私たちは、自分が所属するゲームコミュニティの中で、互いに対するそうした繊細な道徳的な視力を共に育んでいけるのでしょうか。
うーん、深い問いですね。
さて、今回の短期をまとめてみましょうか。
今日は、「長考」というボードゲームでしばしば話題になる行為を切り口にして、それが悪いのかどうかを3つの異なるフィロソフィカルな視点から見てきました。
普遍的なルールが存在するという道徳的実在論。
いやいや、それは主観的な感情や社会的な約束ごとに過ぎないんだ、という反実在論。
そして、そのどちらでもなくて、特定の文脈における客観的な理由の形こそが重要なんだ、という道徳的特殊主義。
少なくとも、長く考えすぎるな、と一言で断罪できるほど単純な問題ではないということははっきりしましたね。
ええ、そうですね。決定的な正解を示すというよりも、私たちがゲームという、社会的な営みの中で避けられない、こうしたちょっとした摩擦とか対立の瞬間に、より豊かに、より思いやり深く向き合うための思考の道具箱を提供した、と言えるかもしれません。
自分の判断とか感情の奥にある「なぜ?」を、もう少し深く丁寧に掘り下げてみること。
それが、よりよいゲーム体験につながる可能性を秘めているんじゃないでしょうか。
判断の背景
なるほど、思考の道具箱ですか。よい言葉ですね。
それでは最後に、リスナーのあなたに少し考えてみて欲しい問いかけです。
ボードゲームの場に限らず、あなたの日常の中で、何かを判断したり、誰かの行為について考えたりする際に、これはルールだからダメ、とか、なんとなく嫌だからよくない、とすぐに結論を出すのではなくてですね、
待てよ、この状況特有の背景とか文脈、見えている以外の理由は何だろう、と立ち止まって考えることが、特に大切だと感じる場面はありますか?
あるいは、後から振り返ってみて、あの時もっと状況をよく見て判断すればよかったな、とそう思った経験は?
少しご自身の経験を思い巡らせてみてください。
15:23

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