AIの使用と学びの影響

いやー、AI使ってしまう時って一つ思ったのが、深い学びを要さない時というか、意識レベルとして、このタスクめっちゃやるべきだし重要度高いだろうなっていうところにはあんまりAIは使いたくないけれど、

こんなタスクしょうもないし、とっとと終わらせてやりてえって時にAI使うよねっていう。 そうねー、さっきゃっきゃと終わらせなきゃとか、時間がないとか、ちょっと賞味やる気ないみたいな時にね、ついつい手が伸びちゃうことはあるんじゃないかなって思いますけどね。
ただそれをだから中学生とか高校生の頃にね、中学生とか高校生の頃に宿題なんてめんどくせえからっつって、もうやらっしゃいってなっちゃうのはそれはそれで危ないというか。 俺もだってさ、高校生の頃ね、似たようなって言うとちょっと違うけど、ベラボーに通学ができなかったの、本当に。
一応宿題でさ、テストを解いてくるんだけど、もう全然できなくて。で、その先生が間違えた部分、答えを移して最低質みたいな感じで、そういうふうな宿題を課すタイプの先生だったから、でももうさ、当然宿題全然通学できなかったからさ、もうほとんど書き直しになるよ。
だからそうなるとさ、時間もねえしやる気もねえってなったら、もうただただこの問題用紙に答えを赤ペンで書き写すだけの作業になっちゃう。こうなると、もうなんか数学、この問題の云々とかどうしてこの答えになるのかとかもう考えてないじゃん。
だからもう赤ペンで書き写してるだけっていうふうになっちゃうし、俺の場合はその、だから怖いのがこの赤ペンで書き写すって言ってもまあまあ時間かかるわけよ。

そうだね。

でもこれが、この時間がなくなっただけで別に身についてないみたいな。なんかそういう怖さはちょっとあるな。宿題にAIを使っちゃうっていうのは。これになんか似た怖さがあるなって僕はちょっと思っちゃう。当時勉強ができなかった高校生代表として勝手に言っちゃうけどって。

でも確かにAIじゃないけど、あの高校生ぐらいの時にさ、なんか計算を、写真撮ったら計算やってくれるみたいなさ、やつあったじゃない。

出始めたね、当時ね。

そう、ああいうのやっぱちょっと頼りたくなっちゃうっていう気持ちはわからんでもないかもしれない。

そういうふうなことがあるから、まあそれで言うと、やっぱりその生徒さんの習熟何もよるんじゃないかな、やっぱりAIを、タイミングっていうかそういった意味でもあるんだ。それも長いスパンで考えればタイミングなんだろうけど。
なんかこのある程度もうね、やっぱ慣れてるとか得意教科でみたいな、AIを使ってってなったら多分もっともっとそのクリエイティブな発想であったりとか、論述ができるようになるかもしれないけど、もうマージで苦手教科で楽したいからつってAI使っちゃうとね、後々悲惨なことになりかねえんだっていうのはちょっと今しめとしても自分に言い聞かせたい感じはしますけどね。
かといってさ、どうしようもなく苦手なものを、AIを使ったことによって例えばモチベーションが上がるとかっていう話を、正直AIありなし関係なくやる気ないものはないんだろうなっていう。

ないんだろうなって感じだね。

結局だからAIがなかったら俺みたいにその赤ペンでひたすら書くだけの作業になるわけだし。

だからそれの赤ペンで書き写すのか、AIに解かせるのかっていう話ね。

っていう話だと思うし。

でもなんだろう、赤ペンで書き写すのとAIに解かせるのっていうのとなんか重みが全然違うみたいな、重み違わないなんとなくあの×としての重み。

それはなんか当然ね、赤ペンで書き写してるほうが大変だからね、あるけど。
でも基本そのネガティブな意味でね、宿題を課されてもあんまりやる気出ねえよなって感じはしますね。

それは本当にそうで。

だからそうだよね、こんな感じ。
だからAIってすごいむずいなって思う。今でもむずいなって思うし。
なんかそれを使えちゃうっていう状況がむずいなって。
10年前に、自分が10年前のタイミングでAIが使えますよってなった時に。
むずいなって思う。

むずいね。

むずいなって思う、やっぱ。

本当個人の良心じゃないか、そこによる部分もあるなっていうのは思いますね。
どうなんだろうな、どういう時に使うってよくてどういう時に使っちゃいけないかっていうことを話そうとすると。
やっぱ個々人の感想が出ますね。

って出ちゃうよね、そうだよね。
だからそのやっぱり宿題を解かせていいのかっていうタイミングもそうだし、やっぱその、そうだよね。
でもこれから多分無視はできないわけじゃない、僕たちのスマホだったように。

そうだね。

きっとこれから。
そうだね。
今13歳の子たちがAIが出始めて、多分僕たちと同じ年10年後になった時って、もっともっと想像ができないすごいものになってると思うのよ。
そうだね。
偶然の学びの機会

ってなったら多分、AIに嫌顔でも順応していかないといけないと思うし、
だからこそそれをじゃあどうやってその自分の勉強とかモチベとかと折り合いをつけていくのかって言ったところは、むずい。
むずいよねってやっぱ思うかなって感じで。

その観点で言ったら、モチベーション大事だねすごく。

大事だと思う。

モチベーションがある、むしろ逆にモチベーションある時にAIって使うべきだなって思ったなっていうか。

ポジティブな意味でというかね。

そう、探求したいから自分で考えるけれども、その考えるものをAIによってブラッシュアップするみたいな使い方が一番理想的というか、お互い人間としても成長できるなって話で。

そうだね。

ただね、そのネガティブな方でAI使うってこともやっぱり多々としてあるわけで。
ポジティブな方は正直なんかやってれば勝手に使ってるだろうなって思うけど、ネガティブな方の使い方についてはすごく考える必要があるかもしれない。

そうだね。そこはどう向き合っていくのか。
だって俺だって当時さ、赤ペン描いてた時間の時にさ、それAIがやってくれますよって言ってたら、これ使っちゃうもん。

使うよね。

使っちゃうよね。使っちゃうと思う、絶対。

問題はその、だから多分現実的な問題として喋ります。これは批判を覚悟、炎上も覚悟かなって。
一応覚悟で僕は言うんですけど、やりたくないというか意識レベルが低いものに対しては、人間ってどうせAI使って楽しようって考えるんですよ。
使っちゃよくないじゃなくて使うんですよ、多分。

まず人間の差がとして言えばそういうところはあるよね。

そう。問題はそういう、なんだろう、めんどくさいとかやりたくないっていうものの範囲が広くなっちゃうことが危ないなと思ってて。

確かにね。

そう、そういうAI使って楽できるんだっていうことを学んでしまってから、何でもかんでももうめんどくさいめんどくさいって言ってやらすようになっちゃうと本当にいよいよ新しいことに興味を持つこともできなくなってしまうとか、
耐えてやってみることに意味を感じるみたいなそういう学びとかも機会を逃してしまう可能性があるっていうか。

それ、だからそのなんだろうね、すごく今その話を聞いて僕は大学時代に受けてたメディアの授業で印象に残ってる言葉を思い出して、
図書館にあってインターネットの検索エンジン、Googleでも何でもいいけど、いないものは何だと思うっていうのを、
俺、教授に言ってる、質問されたことがあるわけ。授業中にね。あったときに、圧倒的に図書館よりもインターネットの情報の量で見ればいいわけじゃん。
そうだね。
圧倒的に。質っていう観点からしてみても、ある種VPNとか特殊な方法でそういうネット上のアーカイブにアクセスできるよってことを考えたら質も悪くはない。
ネットはネットで。じゃあ何が違うんだろうってなったときに、その先生が言ったすごい僕も印象的なことがあって、インターネットは自分が知ってる言葉しか調べられないっていうふうにおっしゃってる。
図書館は本棚に行ってみると、自分が借りようと思った本の隣に似たような本、別の本があるわけじゃん。
そうだね。
そういった本との出会いから自分の知識であったりとか、想像的なもの、いわゆる偶発的な学びの機会が得られるけど、インターネットっていうのはなかなかそういうのがない。
当然そういうふうにできてるわけじゃん、インターネットっていうのは。自分が知りたいものをすぐに出せるっていったところがある種インターネットの強みではある方で、
自分が別に知りたいとも思ってない、その意識外からの検索っていうものはできないっていう部分がどうしてもあって、それがさっき言ってたAIの話でも通ずる部分があるのかなというふうに思ってて、
そういうふうにどんどんどんどん自分のネガティブな理由、ネガティブなAI利用が増えていっちゃうと、多分どんどんどんどん、
なんていうんだろう、そういうふうな偶発的な出会いみたいなもの、偶発的な学びの機会っていうものが、どんどんどんどんなくなってっちゃうんじゃないかなっていうのは確かに今、坂木バラ君の話を聞いて思ったな。

そうね、本当にネットってそこがすごく効率された、効率化された分、そういう偶然の出会いってなかなかないなっていうのは思うわけで。

意外とそういうさ、たまたま見つけた論文とかがさ、意外と自分の研究分野にどんぴしゃだったりとかさ、新たな視点を与えてくれたりするわけじゃん。
これはなんか、僕たちがそういう答えのない研究をしてるからこそって部分もあるかもしれないんだけど、それでもやっぱそのなんか、そういうたまたま知った知識で歴史のこと好きになったりとか、
そういう何気ない理由でちょっと勉強のこと好きになったりってこともなくはないと思うから、なんかそういった機会をもう、なんかAIに奪われるわけじゃないけど、なんか自分からある種手放す声になっちゃうっていうのはちょっと危惧すべきなのではというふうに思う部分はあるし、
AIと自己表現の葛藤

ちょっとさっき話してたけど、そのなんかAIに作らせたものっていうものを自分のものとして言っていいのかっていう話どうだろうねみたいな話もね、ちょろっとしてたんだけど、なんかそこもある種変わっていきそうだなというか。
もうまるまるAIがそのまま出したものをもう、はい私が作りましたっつって、出すのは当然なんか、少なくとも今の世の中じゃ、お前それお前のじゃねえよっていうふうに絶対言われると思うけど。
なんかそこを、じゃあ例えばそのAIでとりあえずその下地は作らせて、でちょっと自分の中でちょっと気になる部分は加工してとか、ちょっと細部は自分でこだわりましたってなってくると多分もっと議論の余地が生まれてくると思うし、じゃあそういうふうに細部にこだわるためには当然知識であったりとか、基本的な技能ノウハウっていうものが求められるようになると思うんだよ。
うん、なんかそう考えてくると、まあそれもやっぱり、そのAIに対しての向き合い方とかもどこまで使うのかも、なんか人が誰ぐらいそのAIをネガティブに使ってるのかポジティブに使ってるのかでなんか変わってきそうだなっていうのは当たり前なんだけど、やっぱありそうだなっていう部分はやっぱありますよね。

そうだね、なんか今の話を聞いたところで少し思ったんだけど、そもそも何だろう、教育、13歳からの話だからちょうど中学高校で教育の場面に結構いるじゃないですか、その教育に対して求められる指標っていうのがだいぶ変わりそうだなっていう。
何だろう、別にAIを使うことはまああるかもしれないが、何だろう、いわゆるAIが作ったものがいいみたいな、何て言うんだ、AIの方が、AIが作るものの方が正確だし、それが当たり障りのないことを書いていてよくまとまっているっていう価値観が変える必要があるなって思って。
スポーツとかも何だろう、もちろんチャットGPTで作ったかっていうし、言語的に不自然じゃないかみたいなのを検出するものを使うっていうところの対策もそうなんだが、そもそも出す課題をチャットGPTではなんかできないようなものにするみたいなっていう取り組みも必然的にこれから必要なんじゃないかというか。
そういう教育の観点からそういうのを変えていくものとして、例えば家で喋る話とか、そういうのが求められないような会話をするとか、なんかそういうのがAIではわからないようなことを探求するようなことが家族内で発生するとか、そういう状態が理想的なんじゃないかなって。
何だろうな、いろいろあると思うけど、えー何だろう、なんか具体的な例っていうとパッと思いつくかっていうと難しいんだが、何だろう、団子虫が何であんな丸まってるのかみたいな話を家にしてるとか、そういう何だろう、あまりにも無駄というかユーズレスというか、そういう話をどんどん深掘っていくみたいなところに良さというか面白さみたいなのを感じていくようなものをやっていくことによって、
そういう知的好奇心みたいなのが保管されていくんじゃないのかなっていう、そういう取り組みを家庭内でもやっていく方がいいと思うし、教育のところから入れてみてもいいんじゃないのかなっていうのはなんとなく思いました。

まあその今AIの話も出てきたし、社会学で言うと効率化というものがある種一個キーワードとして登場するわけで、すっごい乱暴に言うと何でもかんでも効率化していいのかなっていうのがある種疑問としてあるわけ。
そういった多分AIも絶対効率化側だし、俺たちが使ってきたネットスマホだって効率化側、効率化するものだと思うんだけども、ある種そのじゃあそういった効率的なものの文脈にないものっていうのは絶対必要だと俺は思ってるし。
それが文化を作るわけだからね。 そうそうね、そういったところから新しいものが生まれたりとかすると思ってるから、そういった意味で言うと、ある種一見無駄に見えるものであったりとか、本当に自分のこと、こんなん他の人が知ってどうすんねんみたいな、そういうとにかく効率とは無縁のものというか、真反対のものって言ったところに、
きっと新たな知識の源泉があるんじゃないかなと思うし、今後AIの付き合い方のキーワードにもなるんじゃないかなと思うね。だから結構先の話に戻るけども、AIの言うことだけ聞くのは良くないよって話は2人でしてて、
AIはあくまで今まで人間たちが発してきた情報の集積の集合体なだけであって、決して神様でもないし、AIが言ってることが全て正しいってわけではないって部分があったわけで、
当然世界中の誰もがあなたの日常的なことを今日誰々さんと会ったとかお小遣いもらえたっていう話は当然そのネット上に上がってくるわけないのよ。だからAIが学びようのないことだとやっぱ思うわけ。だからそういったところをある種より大切にするというかしようみたいな感じになっていってもおかしくないなと思うし、
実際大切にするべきだと思うし。だからやっぱりAIとの向き合い方と、効率化していく世界っていうものの向き合い方として一方、すごくローカルなものであったり無駄なものっていったところに逆にそのフォーカスを集中して見ていくっていうことは、ある種、今はうまく言語化できないけど重要なキーワードになってきそうだなというふうに思いますね。

エッセイ書きゃいいんじゃないんすかね。そんなの13歳はエッセイ書きゃいいんじゃないんかな、じゃあ。
効率化の影響

そうね。でも13歳のうちに自分の黒歴史1個や2個作った方がいいから。いいよ、なんか中二感増し増しの日記書いといて、ノートの中に死神とかさ、チェーンとか一回書いちゃったりとかしてさ、やったよ俺も。

やろうな。

やろうやろう。俺だってあれだもん、ガムのおまけについてくるシールを貼り付けたコレクション。

コレクションのノートが作ってたし、当時の流行ってたアニメのオリジナル必殺技とか考えた自由帳とかあったし、そういうのをAIも並行しつつやってた方がいいよねって。そういうのって結構その人の根幹作る部分でもあるし。

あったりするしね。

なんだろう。

だから、そうだよね。だからAIっていうある種その他人の意見の集合体に全てを委ねるんじゃなくて、一方でちょっと自分の軸みたいなものはね、持っておきたいなと思うよね。

いや、だから結構ダラダラと喋って言ってたことをまとめるのって難しいんだけど。

難しいんですけど。

難しいんだけど、要はAI、何か新しいことを学ぶというか、知的好奇心があるものに対してはAI使うことが効率化できるから賛成。
新しいことを知るっていう場面で全体像を知るって意味でのAIを使ってるのもあり。

ありあり。

で、無駄だしどうしてもやりたくないようなことをAIに任せていってしまう流れはもう仕方ない。
ただその中で、自分が大事にしたい感性とかっていうところはAIでは作れないから、エッセイを書こうとか。

エッセイを書こう。

自由調に好きなものを書こうとか。

書こうって。

そう、そういうことになる。

そうってことだと思います。
そういう、ある種本当に自分しか知らないことだったりとか、本当に無駄なことだったりとか、そういったものをある種10年前の自分にも大切だよって言ってあげたいですね。

大切だけどね、それをどれぐらい大切に思うかっていうところも変わってくるし、もしかしたらね、もしかしたら今の13歳ってそういうことは別に大事だと思ってないみたいな。
だからいっぱいいるんじゃないかっていう。

そんなニヒルな感じ?

ニヒルになり、なんだろう、そこにあんま意識が向いてないというか、そういうのもありえんじゃねえかなと思って。

勝手に大人が危惧してるだけかな、そういうのが。

いやー。

あれかも、あの、無駄なものも大切にしようとか。

そう、逆にそういうこと言われると嫌じゃねえ。
無駄なこと大切にしようって言われても、じゃあ無駄なことを大切にせなあかんのか、めんどくせえなーって。

俺だったらちょっと下に構えそうだな、確かに上の人が。

別にいらないものはいらないしなって、なっちゃうというか、その傾向が顕著に現れてる言葉がありまして。

何ですか。

タイパでございます。

タイパ、出た、タイパコスパって言うとおりますけどね。

なんか今の若い子で言うとなんか自分たちがおじさんくさい話になっちゃうかもしれないが、でもタイパって言葉をすごく言うようになったじゃないですか。
言いますね。
その中で、だからもっとタイパ傾向が強くなってるのもあるんじゃないのかなっていう、特にながら、いわゆるタイパって言葉が何で生まれたかって話をすると、
これ多分AIの使い方のところからブレつれそうだから、なるべく短めにしとかなきゃいけないんだが、
タイパって言葉が何で生まれたのかっていう傾向を自分なりに分析したことがあって、
これはAIでは多分言い尽くせない話だから、僕の仮説が含まれてるので、これは面白い話として受け止めてよ。
で、何でタイパが生まれたのかっていうと、人と関わる時間がスマホによって増えたから、
プラスネットでもらう情報が圧倒的に増えたっていう、この2つがあると思ってて。
だからそれを選別するためにAIっていうのも使われたりするだろうし、
あとはその、要は人との関わり合いの方が自分にとっては大事だから、
それと関係ない自らの学びっていう部分はもう全部AIに託しちゃおうっていう、そういう傾向があるんだなっていうのを何となく思ってて、

そこだよね、人との繋がりに占める部分が多すぎるなっていうと、10年前からずっとだいぶ増えたよねっていう、当時の子たちって。
それはそうだと思うし、AIもアルゴリズムもそうだけど、見たくないものを見なくて良くなってきた部分があるのかなっていう。

TikTokでね、だいぶ自分が好きなものにアルゴリズムがどんどん変わっていってっていう、好きなものばっか流れてくるっていう、それで時間が遂げていくっていう。
子供の感性を大切に

そうですね、だからある種そういうふうな、さっき坂木晴翔くんがいろいろとまとめてくれたけども、そういったことも含めてなおかつ偶発的なもん、偶然のものだったり、
ある種別に見たくもないものを見るっていうのはあるし、それはそういう大切にしてほしいなっていう。

でもネットで見たくもないものを見るっていうのって難しくなってきたよね。

別にそれはね、さっきも言ったけどネットじゃなくても良くて、図書館に行ってみるとかっていうとでもいいし、普通に、要はどうだろうな、普段行ったこと帰り道を行ってる人とかでもいいし、そういうのでもいいんじゃないかなと思いますけどね。
多分ネットはでも難しいと思いますよ、ネットで見たくないものを見るって。見方わかんなくね、ネットで見たくないものを見るって。

ツイッターで、もう昔の人がツイッターって言っちゃうんだけど、ツイッターで見たくもないような議論とか散々見させられてるからな、俺たち。

そうね、その辺もある程度ね、好き嫌いとかでね、どんどん寄せようと思い寄せられるからね、自分のためにね、と思いますので。

その感性を大事にするのもそうだし、回り道してきてその中で見つけたものに対して、それをこういうのがあったよっていうのを認められることが大事だなと思ってて。
それは家族でもいいし、友達でもいいし、そういったものを認められるものがあれば、もっと文化的にも豊かになるっていう言い方にもなるかもしれないが、
自分の感性っていうものの軸が決まっていって、それはAIでは見つけられないあなただけのものだよっていうふうになっていくことだよ。

逆に俺たちが、そうそう、10年後、大人の立場になった時に、お前何無駄なことしてんの?っていうような大人になりたくないなと思うよね。
今日は、仮に自分の子供とかがさ、今日はいつもとは違う通学路を帰ってきたんだって言った時にね。
何があったの?って言ってあげたいよね。そういう大人でありたいと、私も思います。

本当にそれはマジで今感心した。
そんな、そんなんどうでもいいから勉強しなさいっていうような親には絶対なっちゃいけないな。

本当に。でもついつい言いそうになりそうになるのもちょっとわからんでもないが、わからんでもない。

自分の仕事が忙しいっていうのもあるだろうし、家事とかが大変で、もうそんなことに気が回らないっていうのもあるだろうし。
ただ、その子の感性というか、AIでは見捨てられないような知的好奇心、探究心、そういったものを養うものとしては、そういったものを認めてあげていくこともすごく大事。

そういった雰囲気を作るのはあるし、やっぱり男の役目ってあるよね。

このラジオって13歳からのポッドキャストって言ってるから、13歳の子を聴いてほしいなと思ってやってはいますが、
その裏テーマとして、よくああいう13歳からのっていう書籍って大人が買うじゃないですか。
大人が買うのもそう。大人が買って自分も感心したみたいなことがよくあるわけで、そういったところにも届けていきたいっていうのが僕らの裏テーマとしてあるので、
そうですね。このラジオを聴いて子供に聞かせてあげたいなと思ってる親御さんとかは、そういった子供の感性というところを大事にして育てていくことが、
AI時代における新しいその子の知的好奇心を育てる上で大事だと思うので、そういったところにも支えになってもらえたらなということで、
今回のトークテーマなんですが、チャットGPTを、チャットGPTはいつから使うというテーマでしゃべってきましたが、
AIとの向き合い方

AIとの向き合い方というところを含めて、13歳の子たちがどういうふうな時に使うべきかというところを議論してまいりました。
ということで、ここまで長くなりましたが、今回の13歳からのPodcastの方を締めていきたいと思います。
今回も皆さんご視聴いただきありがとうございました。
ありがとうございました。
是非皆さん次回もご期待ください。
ありがとうございました。
またねー。