例えば人形供養とかお雛様流しとか人形とかは捨てられないと思います。
北米でのリサイクルという考えは使用済みのものを一度原材料などに返し新しいものを作るというアプローチですが、
日本人のもったいない精神は新聞紙で箱を作ったり空きボトルで何かを作ったりと息を吹きかけて魂を再び注入しているような気がしています。
続いてうさぎさんからのお便りです。
日本人らしさといえば維新・伝心・和美・錆などすべてのものに気づくことかと思います。
先日たまたまお庭に案内いただいたのですが、
昔からの日本人は庭園の風景を見ながら水の音、風の音、生き物の音を楽しんだそうです。
そうした小さな気づきが日本人らしさなのかもしれません。
もちろんこれが過剰に出たら空気を読みすぎになるんでしょう。
これが日本人らしさであり、一長一短、表裏一体、引用和語であるように思います。
はい、ありがとうございます。
ジョイさん、このあずきやんこさんやうさぎさんのお便りにもあったように、
物に対して魂が宿るように扱うということや、維新・伝心みたいな、こういった考えは西洋にはあまりないんですか?
そうですね。このお便りにも出ていたように、同じふうにはないと思うんですよね。
このポッドキャストでも前も話しているけれども、神道のアニミズムと言われている、自然と人間が結構同じレベルにあって、
物とかにも魂があるっていうのは結構日本の伝統と今の多分ビリーフの奥にはあって、
これによって例えばロボットとかAIに魂あってもいいよねっていう考え方だとか、
あとはやっぱり環境を大切にするっていう、環境と人間も一緒になって環境を良くするとか、
そういう美学っていうのはすごく今の世の中にとって、もしかするとふさわしい哲学なんじゃないかなと。
西洋もそういうレスペクトとかなくはないんだけれども、やっぱり自然をコントロールするとか、
あとやっぱり人間が一番、神様が上にいて人間がいて動物がいて物があるっていう、
そういうヒアルキーっていうのは結構西洋哲学に多いし、
哲学者によってはまた奴隷とマスターの哲学みたいな感じで、キリスト教は奴隷側の立場だよねみたいなので、
ニッチェとかはもっと上のリーダーの方の哲学とか、そういう結構ヒアルキーを作っちゃう。
日本もヒアルキーなくはないんだけれども、こういう特にこの物とか自然に関しては、
結構同じ哲学的空間にいるっていうのはすごく僕はいいんじゃないかなと思います。
そうですね。さっきジョイさんが言ってくださった無っていう概念っていうのも日本人らしさかなと思うんですけれども、
最近ジョイさんもよく引用している千葉高大の設立にも関わった哲学者の西田喜太郎さんは、
日本文化を形なきものの形と定義しています。
この定義もやっぱり無っていうのも日本人らしさではありますよね。
そうですね。だからその無とかあとは西田さんは純粋経験とか、
特に西洋なんかはお金で完全するとか形にするとか、
数えられるものとかメジャーできるものが価値だっていうのって結構重要だと思うんですよね。
結構学会でもメジャーメントとかそういうのって結構大事で、
日本人は無くても何にもないのに価値があるとか、
一人一人同じなんだけども、一回一回のお茶会の一期一会っていうので全部が違うとか、
その違いの部分もそうだし、あとは人間が体験することの価値とかっていうのってすごく大切にしていて、
それが結構感じられると、例えばイーロン・マスクはよく我々はシミュレーションの中に住んでいると、
もしかすると誰かがコントロールしてるんじゃないかなっていう発想があって、
そのシミュレーション、完全にデジタルの中だけで全部リアリティが存在するっていう話と、
無に何か意味があるとか、一個一個の純粋経験に意味があるかっていうのと結構相反していて、
その純粋経験とか無の話になってくると人間の存在意義も出てくるし、
人間と機械の関係性がもっともっと分かりやすくなると思うので、
神道のアニミズムで機械とフレンドリーになれるっていうその文脈あるんだけども、
この禅とか、神道でも無の話は出てくるんだけども、
無の話とか純粋経験の話になるともっともっとこの機械の役割と人間の役割が整理されてくると思うので、
そういう意味では日本哲学と新しいテクノロジーにはすごく関係性はあるんじゃないかと。
そうですよね。
世界の人がテクノロジーの話もそうですけど、仕事をする中で感じてる、
ジョイさんも育った日本とアメリカで2つの国で育ってますけれども、
ポジティブな日本人らしさっていうのはどういうものがあると思いますか。
日本人の、これもだから全部日本人がそうなわけじゃないけども、
よくある日本のパターンとしては職人だとか、
偶事さんもそうだし、もしかするとシェフとかもそうなんだけども、
限られた空間の中で拡大をしようとするよりも、拡大しなくても生きがいを感じて一生懸命やると。
こないだ伊勢神宮に行って偶事さんと話しても、
1200年前からずっと同じようなことやってるんだけども、すごく元気ですごくやりがいがあって、
そういうのって多分、クオリティを上げるとかコンテンツを作るとか、
今の日本の日本文化らしさっていうのは、そこから出てくるものは結構多いと思うんだよね。
その拡大したくないっていうのは、ベンチャー経営者にはもしかしたら向いてない特徴かもしれない。
やっぱり今の資本主義経済とかベンチャーキャピタルで成功するのに、
やっぱり競争して戦って拡大して、会社が伸びなくなっちゃったらもう死んじゃうみたいな、
多分これ両方共存していて、
例えば伊勢神宮の森の中では一人一人の一つ一つの木は競争してるし一生懸命伸びてるけれども、
この森全体としては増えようとしてなくて、そこの決まった大きさの中で一生懸命しげしげしてるわけなので、
上の概念とか文化のレイヤーでは生きがいとか和みってすごく大事で、
一つ一つの競争にはもしかすると資本主義っぽいものがあるかもしれないけど、
ただ今の世の中の問題はこの資本主義が上のシステムの概念になっちゃってるので、
結構パンチクリンになっちゃうリスクがあるかなっていうので。
上の概念ってのはどういう意味ですか?
だから国が拡大しようとしてたり、世界が拡大しようとしてて、地球の大きさって決まってるし、
あと地球のリソースも決まってるので、みんなが地球のレベルで拡大しちゃうとガンになっちゃうんだよね。
だから森の中の一個ずつは拡大したり死んだりしたりして、
総合的に森って同じ大きさになってるし、人間の体温も安定するんだけども、
ただ中では生きたり死んだりすることがあるわけなんだよね。
だからその会社が一生懸命一個ずつ伸びるっていうのはいいんだけども、会社が国家のレベルに強くなってくると、
そこでガンガン拡大しちゃうと、多分消費しきっちゃうのとか、他のものを潰しちゃったりすると思うんだよね。
普通の森みたいなシステムっていうのは、ちゃんと増やす力もあれば倒す力もあるんだけど、
この引き止めたり倒す力っていうのが、あんまり今コントロールが効いてなくて、
そういうところで、必要以上なものはいらないとか、英語ではmore than enough is too muchとか、
日本人は今もったいないっていう話があったけども、多分他の国によってはもったいないがかっこいい。
もったいないぐらい持ってないとゆとりがないとか、
例えば中近都なんかだと、お金持ちのお家に行くと絶対食べきれないぐらいご飯を出すのが礼儀です。
これがもてなしなんだよ、礼儀なんだけど。
日本はやっぱり食べられるだけ出して食べきる方が美学が合ってるっていう。
だからこれはもしかすると今食べすぎてる世の中だから、システムのパーツは拡大中心になってもいいけども、
システム全体がこれ以上拡大できないレベルでも拡大しようとしてるから、いろいろ摩擦が起きてるんじゃないかなと思う。
日本型の経済ってもともとサステナブルだし、三方良しっていう概念もあって、長く続ける。
決して繁栄とかではなくて、長く続けて社員さんの健康とか、社員さんの家族の健康も養っていくみたいな経営だったと思うんですが、
でも今生きてる現在は資本主義なわけであって、アメリカ型のビジネスや経済っていうのが今のスタンダードじゃないですか。
日本の経済に関しては福井の起業家さんというリスナーさんの方からお便りが届いています
日本人らしさといえば来年新紙幣の顔になる渋沢栄一さんの論語とソロ版精神だと思います
倫理と経済をバランスよく考慮しながら今注目されているダオのように権利が中央に集中するのではなく権利を分散させながらみんなで幸せになっていく
養われた40年にならないようにWEB3の時代は論語とソロ版精神でダオを運営していくことで日本人らしさを発揮できるのではないかと思っています
はいありがとうございます
渋沢栄一さんとWEB3がこういったオマールのところでマッチしたように感じましたが
資本主義が今成熟して飽和してるって今の日本だからこそ
このダオと意外に親和性が明治時代に戻って意外とここに親和性があったということがあると思いますがジョイさんどう思いますか
はい今渋沢栄一のwikipediaを見てわかったんだけど
福祉武器を彼は明治維新だと思ってきてるんだよね
僕はだからその資本主義そのものお金が悪いっていうよりも今の短期の全部お金に換算してしまう
今の資本主義の形がちょっと悪くてそれは僕は福祉武器のリミットに来ちゃってるような気がして
何でもかんでも株式会社で直そうとすると難しかったりするんだと思うんだよね
もしかするとダオとかブロックチェーンとかWEB3が福祉武器の次に来る新しい会計で
その会計の中ではお金に換算できないものとか市町村だとか
単純なお金儲けじゃない最適化だけじゃない日本っぽい文化を
もう少しスケール大きく社会全体でやるような非中央集権型でできる可能性は僕あると思うので
このダブルエントリーブックキーピング福祉武器が明治の大きな変革だったとすると
このWEB3がこの次の大きな変革の根っこになるっていうことは僕ありだと思うので
だから今の福井の企業家さんが言ってる話は僕すごく面白いと思うし
この渋沢さんにつないだのは僕もいいアイデアだと思う
その福祉武器明治版福祉武器が令和でWEB3になってくると面白いですよねそれも
一方でこのWEB3や生成系AIなど新しいテクノロジーが登場した今だからこそ
ガーファム今一興の時代から日本が経済力を取り戻すチャンスみたいな意見もあります
今後テクノロジーを取り巻く経済のあるべき姿っていうのはジョイさんはどんなものになると思いますか
このWEB3の時代でこれは本当に仮説なんだけどもコミュニティとかファンカルチャーとか文化とか
でみんなで一緒にシェアしながらうまくやろうとかっていうようなのが日本の強みだとすると
もしかするとこのWEB3の一番のコンテンツっていうのはみんながコミュニティにジョインして
そして行き来を感じながらなんかオープンソースもそうだしファンフィクションもそうだし
ゲームの中のコミュニティもそうなんだけどもそういうのはもしかすると日本初から出てきて
ゲーム業界というのは今まで大きいけれども新しい世の中を見ていく
自分の事前事業に参加するのとか学びに参加するとか人間が日常的に参加するいろんなシステムというのが
もしかしたら日本から出てくる可能性はなくはないと思うし
本当にAIとかロボットがすごく発展してしまうと人間はどっちかというと
人間同士のコラボレーションとかエンターテインメントを作るとか
そういうコンテンツの方に我々の重心が行く可能性っていうのもあると思う
だからいろんなもしかするとっていうのはいろいろあるしリスクはたくさんあると思うんだけども
この文化とコンテンツがWEB3とAIの時代で大きくなると
そこが日本からの産業になっている
その産業の在り方は大量生産ではなくて一人一人が違うことを一人一人が体験をして
やっぱり人を感動させるっていうのが日本がうまくやれると
それがもしかすると未来のとても重要な資産になるんじゃないかなと思うので
そこだけに全部かけるんではなくてそれは一つかけるべきエリアだと思います
ジョイさんの今までのお話を聞いていると
日本はもともとあったものに対して魂が宿るとか
一心全心とか無みたいなそういった概念
日本古来の概念がこれからのテクノロジーで活かせるようにも思うんですけれども
この辺今後日本はテクノロジーの部分で日本人らしさを活かしつつ
どういうふうなリーダーシップを取るべきだと思いますか
そうですね多分日本人らしさはコンテンツには出てたと思うんだよね
アニメだとかゲームとかそれでプロダクトの開発にもデザインとかにも出てきていると思うので
そこは今はなくはないと思うんだけども
でもやっぱりもっともっとWeb3とか金融とかテクノロジーの違うレイヤーでも
日本人らしさを出してくるのとか
あとはこの教育システムの変革っていうのもこのAI時代に必要になってくると思うので
こういうAIっていうアシスティブなものが出てきたり
そのAIとどうやって迎え合うかとか
そうするとあとはこのDAOとかこういうガバナンスの問題
今スキャンも多いし結構短期になって遠期目的も多いので
やっぱりこれはすごく単純な資本主義じゃない
目的で参加した方がうちの変革のコミュニティなんかでも少しあるんだけども
そういうガバナンスのレイヤー
今までなんか日本人のガバナンスって儲からないから日本の会社ダメだよねみたいな感じで結構叩かれてきてくると思うんで
さっき奥井さんが言ってた日本のトヨタはお客さんより社員を大事にしてるんじゃないかなっていう批判だったんだけども
そういう経営学とかそういうところにもちょっと日本人らしさを見て
多分海外のことは全部学ばなきゃいけないと思う
そのまんま日本でやってルースにしちゃうのも良くないと思うし
もしかするとそこに武士道って入ってくるのはやっぱり武士道の中とかお茶もそうなんだけど
無駄遣いも良くないけど無駄の動きも良くなくて
やっぱり日本の保守的官僚的なシステムの中では結構無駄な儀式とか活動もたくさんあると思うので
だからそういう意味で言うといろんな意味で無駄をなくすっていうのも僕重要だと思うので
だからなんとなくこうちょっとふにゃっと入っちゃってるところをもうちょっとピシッと仕切り直す必要があって
英語ではrefactoringって言うんだけども
refactoringって何かって言うとぐちゃぐちゃになった複雑なものをシンプルにする
だからソフトウェアを無駄を削るっていうのがあって
法律とかソフトウェアとかプロセスっていうのはリーダーシップがいないと無駄ってなくならないんだよね
だから例えばソフトウェアってフィーチャーを足すのは簡単だけど
わさっと切るのってすごくエネルギーかかるし誰もインセンティブがないよね
それにはやっぱりスティーブジョブズみたいな人が来るとシンプルにバサッとできるんだけども
いないと今のOSみたいにぐちゃぐちゃに複雑になっちゃったりするので
日本でバサッとシンプルにする権限持ってる人がいないんで
だからそれが明治維新とか戦争でバサッとシンプルになるんだけども
ただその武士道の美学の中には少しバサッという感じなくはないと思うので
だからもしかするとそこに何かヒントがあるのかちょっと分かんないけど
そのシンプリファイするためのミニマリズムのところを
経営学とかでどうやっていくかっていうのも一つ課題かなと
そうですよねなんか今01って1を作るっていう風なのがいいとされてるけど逆ですよね日本は
10を1にするっていうか0にするっていうか無駄をいかになくすかっていう方が
私も日本は大事だなと思います
なんかそのシンプリシティとかジョブスがカリオグラフィーを習ってたとかも有名ですけど
なんかそのシンプリシティのヒントをもらうために学んだ方がいいことって何かジョイさんありますか
お茶
分かんないけど
お茶ってシンプルなんですかね
お茶は無駄がないんですよ
ちゃんとした作動っていうのは無駄の動きが1ミリもないっていうのが1個だし
あとはそのお茶室には無駄なものないのよね
お茶室には持ち込んだものしかストーリーはなくて
お茶室っていうのは限りなくこう
自然はあるんだけどもそこに何かアートとか掛けとかないじゃない
自分が持ち込んだ掛け軸だけだし
あとは例えば長次郎のお茶碗っていうのはもう限りなくこう無に近づいていくんだよね
でこの間の楽塾乳さんと話してた時も長次郎のお茶碗には自分のこのアーティストの表現もなくて
黒でもないなんか薄暗い部屋で見るともうほとんどお茶碗として存在がないのが長次郎のお茶碗だったんだよね
でそれはやっぱりこの無駄なエネルギーをどんどん引くと本当にその茶人とお客が直接つながって本当の一期一会になるっていうのは
この禅のこのミニマリズムの世界でそこは本当に無駄を消していく
もちろんいろんなお茶の流れがあって少し派手になったりちょっとガチャガチャしたりする表現もあってもいいと思うんだけども
ただそのリキューとか長次郎の原点のところっていうのは本当に無駄がないんだよ
ちっちゃな部屋で薄暗いところでほとんど美しいとも言えないようなお茶碗で体験をするっていうところからなんかやっぱりルーツがあるのは
だからそういう意味で言うとガチャガチャしてたお茶をリキューがバサッとミニマリストにして
ただすごく上手にバサッとしたからそのやっぱり美学ってまだ残ってるんだよね
ただこの間この番組にも出た中津さんは俺は嫌だと俺はギンギラギンがいいんだみたいな人ももちろんいるのでそれもお茶なので
全部のお茶がスッキリかどうかっていうのは僕が好きなお茶はスッキリなのかな
でも経済の今の経営的にもやっぱり色マスクがレイオフしたり
あとクレディスイスで働いたUBSが従業員結構多くを今切るって言ってたりとかちょっとそういうなんか経営的にも
メイキシンプルにして全部バサッと切るような時期なのかもしれないですね今
そうだね
最後にですね田中さんからお便りが届いています
私が思う世界に広めたいポジティブな日本人らしさは昔の子供の遊びの中にあると思います
それはミソッカスのようなちょっと発達の遅れている子供も特別ルールをみんなで考えて一緒に遊べるようにしていたことです
日本の公平で平和な原風景のように私は感じられます
AIを社会に実装するにはダイバーシティの強みがつながりあって生かされるように生活者としてみんながいろんな方向から動き出すことが必要ではないでしょうか
だから様々な立場にいる人が垣根を越えて社会実験をしながら学び合うというコミュニティがもっと増えてほしいです
そしてそれができる措置が日本にはあると私は思っています
ありがとうございます
ジョイさんはずっと遊びが学びにつながるというふうにも言ってますがこのお便りどう思いますか