そうそう、まあ変わると思うんだけどさ、それにはね、少し焦らない方がいい。
そうですよね。
時間をかけた方がいい。
今はさ、そういうふうに考えてお茶をする人っていないんですよね、世の中には。
で、ちょっとずつちょっとずつそういう意識を育てていかなきゃいけない。
でもね、現代のお茶もね、なかなか難しい。やっぱり、こんだけ歴史を得てくると、本当にマニュアルになってるんですよね。
で、確かにそのマニュアル通りにやってると、ピシッと締まるんですよ。
まあ、こういう使い方がいかれたらわかるように。
マニュアルで、この時はこういうふうに道具を使って、木漬けの時はこうして、カラカラの花入れでと。
それにもう、なんかがんじがらめっていうかな、そこがね、もうちょっとしんどいよね。
確かにそれは素晴らしい道具の取り合わせだったり、素晴らしいバランス、素晴らしいハーモニーっていうのがあるんだけども。
それで一体どうなんだろうなっていうふうに、だんだんこう、もう十分だよねって思っちゃうんですよね。
そういうものも僕にとってはもう十分だな。お茶会も行かないし。ちょうど77になるから、お茶会したいと思うんだけど。
今、ものすごく制作に忙しいし、うちの女房はそれをいろんなところで連絡を取ったり何とかしたりする。雑用に追われるし。
とてもじゃないけど、お茶事をしてられない。
だからお茶はお茶事に尽きる。絶対に尽きる。
僕、今年官暦なので、たかし君と一緒に毎月茶事を一年間やるんですよ。
一回来てください。そしてびっくりさせるやつをやりますから。
お茶事ってね、でもね、茶室の中の出来だとか、その時の料理だとか、その時の道具だとか、過ごす時間とか、それだけじゃないのよね。
たとえば庭とか。庭は一日でできないから。
365日は一年あるわけで、365日毎日庭のなんかやってるわけでは僕はもちろんないけども、でもやっぱりすごく目をかけている。
それが庭なんていうのは本当に生き物だから、違った枝も生えてくるわけですよ。
枝も一年一年全く形を変えていくし、そういうものを見ながら考える。
やっぱりここで未生で生えてきた植物をどうしようかな、切ろうかな、抜こうかなっていうふうに考える。
っていうところにすごい面白さがあって、それでモミジの時はモミジがいっぱい落ちるからプロペラ飛行機の竹トンボみたいなモミジの種を手で拾うんですよ。
つまんで。僕腰悪いから中腰にはなれないので、飛び石の上にベタってお尻を落としてこうやって拾う。
就命のお茶事した時も、うちの息子と東大と一緒にあったから、2人で。そういうところからお茶事って始まってるんですよ、本当は。
だから就命のお茶事に呼んだ時にある方がね、なんか褒めてくださったの。
隣にいた方がね、「何言ってんのよ。あなたね、この庭よって。この庭こそすごいのよ。それこそ1日や2日で作ったりしたもんじゃないよ。
昨日掃除したばっかりの庭ではないよ。ずっとこの庭を維持していこうということがどれだけの努力が必要だったかということは、この庭見たらわかんない?」っていうふうに言われた方がおられて、それはすごい嬉しかったですよ。
道具を褒められたり、長寿郎を使って、「さすが安楽さんとか長寿郎を使う。すごいですね。」なんていうのは別に何にも嬉しくはないんだけど。
見えないところにこそ本質がある。そんな話は、表現とは何かという問いへと繋がっていきます。
もっと面白いのはね、この作品を作ってる時にね、どんどん大きくなるんですよ。これ大きいでしょ。
これ茶せんやったら中に入っちゃう。僕はこれを見ながら、これはもう僕の作ってる今の茶碗は買って茶碗といいしもの。
とてもじゃないけど、これでお茶を飲む茶碗だっていうふうに言えないよねっていうふうに僕は自分で自覚してるんですけど。
表現っていう一つの在り方を突き進んでいくと、大きくなっちゃうんですよ。
だってそうじゃないですか、これ。例えばペッて絵の具が飛んでるところに、リキュウさんの茶碗の頂上みたいにこんな小さいところにペッて飛ばしても、これ何かシミですかって話になって。
そこに勢いだとか、生き生きとしたビビッドな感覚っていうのは表現できないし、ということは結局表現は大きくなっていく。
大きさと一つの心の在りようというものとものすごく別間に結びついてるわけです。
大きいものと小さいものとの心の在りようが違うんですよね。だから蝶々の茶碗って確実に小さいでしょ。
僕はその表現には軸足を置くと大きくなっていく。
キザな言い方をすると、時々リキュウさんに尋ねて行って、「リキュウさん、茶碗って表現ですかね?」って聞くわけですよ。
リキュウさんは立ちどころに、「バカモノ、表現じゃねえ!」って言うわけですよ。
でもリキュウさんも表現したでしょ。一つの茶の湯という薔薇を持って、秀吉に対峙しながら表現をしたでしょ。
やっぱりそこでノンも言ったでしょ。ノンを突きつけたでしょ。それって表現でしょ。最大の強い表現でしょ。
っていうふうにリキュウさんとの対話が始まるんだけどね。
でもなんていうのかな、やっぱり表現ではないんだろうと思うんですよね、茶碗は。
人間が生きてるっていうことは表現してることですよ。常に表現をしている。
泣いたり喚いたり喜んだりね、恋をしたり、飯食いたいと思ったり。
常に表現をしている、それが人間が生きてることだと思うんだけど、表現ではないっていうふうなもの、あるいは表現でないというふうに生きれるのかな。
でもそれが和美の美学の一つなんじゃないですか。
一生懸命やりすぎようとしてるのはかっこ悪いけど、あんまり頑張ってないけどできちゃってるのはかっこいいとか、
権力を取ろうとしているように一生懸命やってるとかっこ悪いけど、自然に権力がついちゃった意思とかはかっこよかったりするっていう、
武士枠は寝堂、高葉寺みたいな日本の美学ってあるじゃないですか。
それはね、自然にって言われたでしょ。そこがキーポイントなんですよね。
自然っていう言葉ではなくて、もう少し古い時代だと自然って言ったんですね。
自らそうあるようにって、これももう本当に仏教の根本みたいな。
全ての仏教は禅宗であれ浄土であれ、やっぱり自然に生きつくし、仏教ばかりではなくて老僧の思想もやっぱり自然。
無以孤立自然って言うけど、要するに自らあるものだと。自らあるようにって。
明尉聖賢はあるべきようにって言った。その自然がやっぱり思想の根本にあって、それが和美を築いている、形成している。
ただ自然にそうなっているように、やっぱり心がそういうふうに動いていくんですよね。
なかなかそうはいかないのよ。なかなかそうはいかなくて、ついつい画が入ったり、欲が入ったり、見せたいっていう欲とかいろんな欲が入るわけですよ。びっくりさせたいとか。
あるレイヤーではそれはまた一つの人間の自然の部分もあるんじゃないですか。
まあね、そう言ってしまえば全てはいる。
そことの戦いですよね。利権と利給と引用で、それをかっこよくまとまるかどうかじゃないですかね。
まあそうね。かっこよくどうかしない。
かっこいいかどうか。言葉難しいですよね。だから和美みたいなちょっとわからないような言葉になっちゃうんでしょうね。
かっこいいって言った途端にかっこ悪いから。
そうです、そうです。
なかなかたどり着きない自然という境地。日本の中にいると、かえって本質が見えなくなることがありますよね。
では、外からはどう見えるのか。2人のトークは続きます。
外国で、まあお茶もそうですが他もそうですけども、やっぱり日本をいい形で入ってくるとノイズがないからもうちょっと芯についたりもっとハードコアになる人っているような気がするんですよね。
で、最近建築家でも熊さんとかも海外に行って日本を振り返った時に良さが見えたとかってよく話聞くんですよね。
だからなんか日本にいるといろんなノイズがあるから本質が見えなくなる部分もあるんじゃないかなと思うんですよね。
僕でもそうですよ。
ノイズがいっぱいあるからお茶が嫌いになるでしょ。お茶の良さはいっぱいあるのに日本文化も後を継がなきゃいけないとか、あの人は後継ぎだとかいう目で見られるからそれがものすごい嫌だから抵抗があって、
日本文化にもそう安々と簡単に近づかないぞと拒否してたわけですよ。
で、家でお茶会があっても絶対お茶室なんかに行かないし手伝いはしないし見もしないしっていう、そういう少年時代を送って。
で、ローマに行って。
いやお茶はね本当にね、狭いそのマニアックな世界だけではないんですよね。
僕お茶はね、そうして逃げ回ってたわけですよ。ブロックアウトしてたわけですよ。
でもそのお茶を勉強したのは、一からボンデ前っていう一番最初のお盆の上でこうやるやつね。
ボンデ前から勉強したのはイタリア。
ああ読みました。本西大荘書に紹介してもらった。
そのイタリアでね、野次さんっていう東京芸大の養顔でて、僕よりも14歳上だったな。だから今90か。
で、父が本西大荘書から紹介されたからお前ちょっと行った時に訪ねてみなさいって言われんだよ。
で、若干バカにしていったわけですよ。
ヨーロッパに絵の勉強に行って、芸大卒業して、阿部くんの果てにお茶の先生して。
何それって言ったらとんでもないことになってて。
僕はまあ、あちところに首根っこ押さえられて、ぐどんでも出ないっていう状態になっちゃったわけですよ。
日本文化も知らないし、彼女はものすごく知ってるし、禅のことにもめっちゃ詳しいし。
で、そればっかりじゃなくて西洋美術にもめっちゃ詳しいし、具の根もなくて。
で、やってるお茶を見るとね、そこは最初にね、みんな座禅を組むんですね。
ちゃんとした。お線香がずーっと消えるまでだから、40分くらいかな。
座禅をしてからお茶をするわけ。で、その時に日本人はほとんどいない。
イタリア人とかフランス人とかそういう、ヨーロッパ人ばっかりなんだ。それがすごいんですよ。
例えばね、チェルシーなんていう現代音楽の作曲家、有名な作曲家いたし、モラビアの奥さんもいたし、
そういう人たち、ヒッピーみたいな若い人も一人二人いましたよ、ミケールなんですけど。
それからバチカの神父さん。そういう人たちがお茶をやって。
で、それぞれが自分の生涯をかけた人生の中でお茶に出会ってるわけですよ。そこが日本人とは違う。
バチカの神父がね、イエス遣いのその当時も60過ぎてた神父がこう言いましたよ。
自分はね、神のしもべとして誠実に生きてきた。
だけど、日本人は我々が考えている在り方とは、世界の見方とは全然違っている。
我々は心と物は分けてきた。物は物だって。茶碗が壊れたら買い替えればいい。
だから日本人は一碗の茶碗にしても一輪の花にしても、本当に人に接するように尊敬なり敬意を込めて物と接している。
我々の物に対する接し方とは全然違う。
だから私は神のしもべとして使えてきた。私の在り方をもう一度お茶を通して検証したいというか、新たな世界を見てみたいというふうに言うわけですよ。