デジタルアーキテクトで千葉高大の学長、伊藤穰一ことJoyさんが、
今、一番興味のある分野を深掘りしていくJoy Ito's Podcast。
今週も、クリプトカフェ&バーにお客様がいらしたみたい。
一体、どなたなんでしょうか?
Joy Ito's Podcast
結構、お道具の箱書きとか、道具屋の中で道具が回っているのと、
現代のこのWeb3に合ってて。
でも、そうですよね。誰がどう思ってて、その人からこう伝わってっていうのが、
アナログに残っていってるだけで、それがより残っていくのが、
Web3というかブロックチェーンのあり方みたいな感じですよね。
本来であればね。ただ、お茶よりもすごく歴史が短いので、
物理的なものってすごく長く持つけど、
デジタルは残るかどうかっていうのが結構課題だと思います。
より情報に特化してますもんね。情報というところに。
僕も最近、お茶ばっかりやってて、結構お茶のゲストが多くて、
藤田美術館の藤田さんとか、あとは、
戸田さんもなんかいらっしゃってましたね。
戸田さん、あとセン・ソークさんも来て、
お名前見ました。
れきもとさんもちょっと前に出てもらったので、結構レジストさんの周りの仲間はいっぱいいて、
ただ、僕は浦仙家なんだけど、浦仙家の人が出るのは初めてなんで。
お越しいただいたのは茶道資料館副館長で、茶道浦仙家の泉礼二郎さん。
浦仙家の前家元、セン・源室さんのお孫さんにあたる方で、
茶道文化の研究とイノベーションに貢献されている方なんですよ。
今日、少し自己紹介から始めてもらっていいですか。
分かりました。私は泉礼二郎と申します。浦仙家で生まれまして、
私の父が今のお家元、座坊祭セン・ソー室お家元の弟になります。
その泉政和というんですけども、先の私は次男で、
お家元を支えする弟筋の家という形で、浦仙家のお茶の普及や発展みたいなところに
携わらせていただいているというような形です。
今は浦仙家が運営している茶道資料館という美術館がありまして、
そこの美術館で展覧会の運営とか茶道具とか茶道の歴史を紹介する美術館なんですけども、
そちらで学芸員のようなことをやりながら美術館の運営に当たったり、
あとは浦仙家学園茶道専門学校という浦仙家のお茶を教える専門学校がありますので、
そちらで副校長として少し授業なんかも学生たちに教えたりというようなところで、
浦仙家のどちらかというと学術的なところとかを皆さんにお伝えするような役割が、
今のメインのお仕事というか役割という感じで務めさせていただいております。
ちょっと読んだインタビューとかだと、次男だとお茶に必ずしも入る義務はなくて、
で、ちょっと周辺にいてでも結局自分で選択して入っていったんですよね。
ちょっとその辺の経緯を話してもらっていいですか。
そうですね。私自身は親元からすると老い子という立場になりますけれども、
弟すじはだいたいその家元を継がない家はみんなこう苗字を変えるという習わしがあって、
私の父も生まれたとき仙っていう苗字だったんですけれども、
親元が継承されて、で、私の父が家庭を持つというタイミングで泉という苗字を起こして、
連家って言うんですね。連なる家と書いて連家と言うんですけれども、
浦川家の連家としての泉家というのがそちらでできました。
それは親元のお茶をお支えするような役割としての家なんですけれども、
私その中でもさらに次男という弟になりますので、
私の兄はもともとお茶の方をやるようなイメージがすごい昔からあったみたいなんですけど、
私自身はどちらかというと、お稽古なんかは早い段階からさせていただいてましたけれども、
なんとなく私はやらないんだろうな。
別に君はやるもんだよと周りからプレッシャーかけられたわけでも全然なくて、
どちらかというと、お前がやりたいんやったらやったらええけど、
別に自由にしたらどうですかというような感じの立場だったので、
私自身も兄もいるし、いとこもいましたので、
そんなお茶に携わるっていう仕事として携わるようなイメージはあんまりなかったんですけれども、
14歳の時に私の父が亡くなりまして、
少しそのぐらいからなんとなくお茶に対する気持ちが出てきて、
大学に入りいよいよちょっと自分自身が何をしたいのかとなった時に、
父が割とやっぱりお茶のことに対して、
特にコンテンポラリーな世界の人たちと一緒にお茶を新しくするというような活動をやってたので、
その楽しそうな姿みたいなのはすごいおぼろげながらに覚えていて、
お茶の世界でもこういう楽しそうなことができるのかっていうところに何か燃えるものが出てきて、
それで家元にお願いしてお茶の世界に入れていただいたというような流れになりますね。
で、浦仙家もなんかブランドからしても戦後、法運祭大宗祥も海外に行ったり、
結構こう外と接続するっていうのが文化に入ってますよね、浦仙家の。
そこの一環になるんですか、今レイジェンドさんが言ってるようなモダンなところとつなげるっていうのって。
私の中ではかなりイコールではありますね。
大宗祥15代の法運祭はやっぱり戦後からすぐ海外に出ていって、
海外での茶道普及っていうところに情熱を燃やしていたと思うんです。
それはお家元とか和歌頌将っていう家を継承する立場として、
外に向けてアプローチしてたので、私とはまたちょっと立場が違うとは思いますけど、
その中でやっぱりその時代時代のお家元の性格とかカラーっていうのがありますので、
その中でお家元が守られているものと、
なんかその外側につなげていく役割をできる人間がその時代にどれぐらいいるのかっていうのは、
やっぱり時代によって変わってくるかなと思うんですけれども、
私はなんとなく自分の役割として、
今の時代においてはそういう役割が自分にはできるんじゃないかなとは思っていて、
それでこうちょこまかと動き回ってるというような感じですね。
この間一度だけ法運祭大宗祥ってあったときもやっぱり、
まだパスポートがない時代にハワイに行ってお茶立てたとかってすごい話で、
すごいですよね。
今レイジロウさんも結構ニューヨークで、
なんかこの間連絡したニューヨークでお茶会やってたとかっていうのって、
あの辺は同じ動きなんですか?
それかもうちょっとそれはアートの世界のつながりなんですか?レイジロウさん。
私の方はどちらかというとアートの方のつながりですね。
法運祭の場合は戦後すぐ、もう本当に粗次がない状態で、
お茶を学びたいと思ってる海外の方々と、
一緒にその場所でコミュニティを作っていくような活動だったので、
お茶の修養というか稽古みたいなものを、
その場で日本の文化を求めてる人たちと一緒に、
そのコミュニティを作っていくみたいなところにエネルギーがあったと思いますね。
私はどちらかというともう大宗祥がいろんな場所に種をまいて、
水をやってということをずっと戦後から続けてこられているっていうような土壌の上で、
何ができるのかなっていうところで、
どちらかというとアートの活動とかとお茶をつなげていくようなことを、
これから一生懸命取り組んでみたいなっていう感じで動き回っております。
ちょっと僕も大宗祥と会ってすごく感動したので、
ちょっと大宗祥の話、結構仲いいんですよね、もちろん。
よく話してるって噂は聞いたんですけども、
今101歳ですよね。
もうすぐ4月で102歳になりますけど。
もうすごく元気で、まだ世界中飛び回ってお茶立ててて、
なんかいきなり肩組んで会いたかった、すごい力がすごくて、
もう目もピッとしてて、
でも彼もともと特攻隊のところでギリギリのところで戦争が終わって、
それで軍人にもお茶立てて、その後はアメリカのオキュペーションともやってハワイにも行って、
本当にすごい時代でお茶を通じて外交をやってて、
でも今でも続けてるっていう歴史的な人物のような気がするけれども、
でもあの若さはどっから来てるっていうか、あんまりいないですよね。
そうですね。
アメリカ全くいないですよね、そんな人ね。
あの年代でいうともう見たことないぐらい元気ですね。
やっぱりでもいろんな場所で自分の役割を見出してるんですよね。
なんか使命感みたいなものを持って動いてるから、
たぶんシャキシャキ動いてるのかなという気はしていて。
そうですね、パープルスがあるっていう感じですね。
それはものすごく感じますね。
自分が行かないといけないという使命感というのがあるから、
なんか活力が枯渇しないのかなという気がします。
泉さんはこれまで茶道を広くたくさんの人々に知ってもらう
開く活動とお茶の哲学をより深く掘り下げる
深める活動の両方を行ってきました。
まずはこの深める活動についてお話を伺いました。
今、礼二郎さんがアートとかテクノロジーとの接続を
ミッションのようにいろんなところで話を聞いていると
行われているような感じはするんですけども、
うらせんきもそうですけども、お茶の業界でも結構
今代表的な活動を行われているような感じはしますよね。
あんまりいないですよね、そういう。
そうですね。
いろんな場所でアートとお茶の関わりみたいなのを
作ってこられている方とかは、いろんな点のレベルでは
たくさんいらっしゃるとは思いますけど、
この仙家の近いところで動いている人間というのでいうと
あんまりいないかもしれませんね。
それこそ先駆者的には仙草奥さんとかいらっしゃるので、
その活動はすごく励みになってますけどね。
そうですね、仙草杉本博さんとかああいうところのネットワークがあって
結構いますよね。
でもこないだティアストリー・ゲイツもやってましたよね。
そうです。
僕もマッカーサ財団にいたときには、
僕シカゴにいたので、
そうですよね。
シカゴはもう彼のこと愛してて、
今度彼が日本に来て、実は日本とも相性があって、
お茶も好きだっていう話を聞いて、
あれは最後お茶会をプロデュースされたんですよね、確か。
そうですね、あの企画は去年やった企画の中では、
森美術館さんの個展を結構長いことやってたじゃないですか。
その中の一環で、どっかでコラボレーションのお茶会をしたいねって話をずっとしていて、
それで調整しながら、
彼と前、京都新聞さんの企画で、
お茶とかアートについて語り合うっていう企画があったんですけど、
その中でお茶に関する、
彼自身の受け止めみたいなのがどうかっていう話を聞いたときに、
茶会に参加したときに感じたのは、
美と寛容みたいなものを非常に真摯に向き合い続けてる姿勢だと、
それに非常に感銘を受けたっていう話をしてくれたので、
じゃあそれを一つテーマにして、
そうですね、今やってる取り組みも私も始めたばっかりなんですけど、
かなり苦しみはあります。やっぱりその裏線型というお茶の中で、
お茶を勉強させていただいていて、そこをこう何か飛び越えるというと、
ちょっと言葉が正しいかわからないですけど、カートの方向に持っていこうとするときに、
どうしてもはみ出ちゃうものっていうのが出てきてしまうときっていうのはあって、
その中で私も総計の一人なので、総計の立場として正しいのかどうかとか、
ここまで振り切っていいのかどうかっていう葛藤は常にありますけれども、
なんかその葛藤があることが良いのかなという気はしてます。
なので自分がこう、こういうことをやりたいという世界にぐわっと邁進していくことも素晴らしいと思いますけれども、
つどつどやっぱりなんか伝統みたいなものに戻されるというか、
それでこう調整していってもらうような感覚はあって、
なので少しずつこう歴史とか伝統みたいなものの強い力に、
自分がこうやりたいっていうものを引っ張り戻してもらって、
でそれでも自分がどう生きたいのかっていうのを引きずっていってっていうのの繰り返しの中で、
なんか一歩一歩進んでいってるような感じはします。
見方によってはそれが逆に良いテンションになっている可能性はあるわけですよね。
あります。
好き勝手にやるよりも、そういう意味でアートもそもそもコンストレートがないとできないものですよね。
そういう意味で礼二郎さんもテクノロジーとか海外のインパクトで、
この辺ってこうそろそろ変えてもいいんじゃないかなっていうこうエクスポレーションをやってる感じはあるんですか。
あります。
それをこうお茶という形の中で、例えば浦川家のお茶の実験的な取り組みであるというような形でやると、
どうしてもやっぱりどこかで角が立っちゃったり、ハレーションが起きる場合があると思うので、
そこはなんていうんですかね、一つのお茶というものに紐づいたアートというものとして表現してます。
というような形に変えることで、いろいろ実験的なことをしていきたいっていうのは一つあって、
その中で何かこううまくいったものがあれば、それはお茶の世界に還元できるだろうし、
うまくいかなければそれは一つのうまくいかなかったねということで、それはそれでノウハウだと思うんですけど、
お茶の世界の中で、特に私のような立場の人間があまりにもこう突き進みすぎると、
やっぱりちょっといろんな場面でおかしいことも起こってしまう可能性があるし、
そこは何かそのバランスの中で気をつけるために、今そのアートと茶の湯、特にコンテンポラリーアートですけど、
コンテンポラリーアートと茶の湯というものの接点を作る場としての茶の日に会う、
茶の日という活動を今は主催としてやっているというような感じですね。
泉さんが精力的に行う現代アーティストと茶の湯を掛け合わせたプロジェクト、
もともとはお父様の泉正和さんが行っていたサビ絵という活動が原点にあるようなんです。
そのサビ絵はお父様が作られたプロジェクトなんですね。
そうですね、はい。1988年ぐらいに立ち上がったプラットフォームというかプロジェクトなんですけれども、
その時は茶道具とかを作る職人さん、伝統工芸の作家さんが、
自分が作った作品をどういうふうに使われているのかをあんまり知らずに作っている人が多かったと。
だからその職人さんをお茶会の提手みたいな形で引っ張り出して、
お客さんに直接対峙するっていう場を作るっていうので、
クラフトシアターサビ絵っていう活動をし始めたのが一番最初だったんですよね。
それで父が主催としてタクトを振って、
実際に職人さんたちがお客さんにお酒を注いだり、お菓子を持って行ったり、料理を運んだりする。
それでお客さんと交流して自分の新作の、
このここに使われているお皿はこういうもんでっていうようなプレゼンテーションをするっていうようなリアルに
コミュニケーションを取る場として提案していたのがクラフトシアターサビ絵という企画で、
その後その流れを受けてグラフィックデザイナーの田中一光さんとか、
ファッションデザイナーの三宅一世さんとか、
そういうデザイン界隈の第一線で活躍されてた方々がサビ絵の活動にジョインしてきてくださって、
で、エキシビジョンとお茶会を兼ねた、また別の新しい芸術運動みたいになっていたっていうのは90年代の初頭ぐらいの動きで、
なのでコンテンポラリーな世界とお茶っていうものを考える運動だったと僕は思っているので、
で、私自身もそのサビ絵にものすごく情熱を持っていたので、
今必要となるサビ絵の活動ってのは何なのかなっていうのを考えたときに、
やっぱり今の時代に茶道具の形とかいろんなもののデザインのバリエーションを増やしても、
二番煎じになっちゃうかなというか、必要とされるのかなっていうのはちょっと疑問があったので、
よりこう何かコンセプチュアルなものとしてアートの方向に振り切ってやってみたらどうなるんだろうっていうのをいろいろと考えて、
今はそっちに特化してやってるっていう感じですかね。
でも面白いですよね、アートって結構新しい変わったことをやろうとしているのと、
もともとのリサーチって結構古い窯とかリキューの形とか、それのリサーチだったんですよね。
それってどう繋がるんですか。
私自身は本当にかなり古いところをずっと研究していて、大学院で研究してたのはお茶の窯の研究でお湯を沸かす窯ですね。
それがこう中国から例えばお茶の文化が日本に入ってきて、
じゃあその入ってきたときに中国ではどういう道具でお茶を飲んでたんだろうっていうのはイコールどうやってお湯を沸かしてたんだろうっていう話と結構等しくて、
なのでお茶の飲み方と道具の歴史っていうのはやっぱりリンクしてくるんですよね。
その中で茶の湯文化っていうものが日本で生まれてきて千利休が登場して今に至るっていう中で、
お道具の形もいろんなバリエーションというか寸法感とかが定まってくるっていうような研究をずっとしてて、
で一時期からは特にその千利休、堺市博物館というところにお勤めさせていただいたときは千利休のふるさとなので、
利休を検証する記念館みたいなのを作るという話があって、そこの立ち上げに学芸員として関わっていて、
で利休の茶みたいなものをずっと研究してたんですけれども、やっぱりその利休がやったお茶っていうのはかなり裁判年の5年間ぐらいに凝縮されてるんですけれども、
さっきおっしゃっていただいたみたいにかなりパンクな世界観なんですよね。
でとってもコンテンポラリーなんです。
それまではやっぱり古い中国の美術とか博来品の中に美しさを見出してそれを鑑賞するっていうような茶会の形が一般的でしたけれども、
利休さんはそのときに生きていた河原職人の張二郎さんという人に茶碗を作らせて今焼茶碗として使った。
竹を切ってきて竹の花入れにしたとか、で自分が支持している禅僧の掛け軸を掛けたとか、
それまではもう古いお坊さんのお軸が一般的でしたけれども、そういうこう要素要素を見ていくととってもコンテンポラリーな世界を表現していってるんですよね。
ただその利休の作り上げた世界っていうのは今の中ではお茶の世界ではやっぱり伝統的な保守的なものとして捉えられていて、
果たしてその利休が求めていたその本来の心みたいなものを表現するのに、例えば竹の花入れを使えば利休の心を表現できるのかと言われると、
今また違う形もあり得るよねとかっていう風に考えていくと、やっぱりコンテンポラリーな世界の視点っていうのは今必要になってくるのかなっていうので。
その僕結構コントラストが面白くて、大地愛子さんも、彼は利休は今言ったら佐藤なんかやってないかもみたいな、俺はあの時の利休やりたいとか言ってて、
僕も初釜やって、利休花入れに蒼太の掛け軸に今の16代の今焼だったんだよ。
でもこれはもう一番コンサーバーの人が喜ぶセットアップで、今は全然パンクじゃないんだよね。これも結構わかりやすい取り合わせで、
そのIf I Were a Rikyuっていうのと、もう利休を拝んでる人たちって、この美学ってでも、僕もここ結構コントラスト感じながら、
でも、こないだ穂荘さんとも会ってて、彼ともう一人の着物屋さんが、もう500年ぐらいこの和美やってるからそろそろ宮美に戻ろうぜみたいな話になってて、
結構その利休の時のかなりピュアな和美と、その後結構みんなまた派手になって、今のお茶でもどっちかっていうとこう利休のお茶よりもフラッシーなお茶も出てきていて、
本当にこう思いっきり利休の方に戻ると、そのパンクにつながるのか、本当のパンクはリクに戻らないのかとか、ちょっとパンクXのレシピとかもし意見があれば。