前回に続き、陶芸家・樂直入(らく・じきにゅう)さんとの対談をお届けします。
刀を置き、誰もが対等になって一服の茶を分かち合う。茶室とは、そんな平等の空間です。ところが、その中でただ一つ、茶入という道具だけが権威をまとい、特別なものとして扱われてきました。
もとは薬や香を入れておく、ただの小さな壺。
それがなぜ、うやうやしく拝まれる「大名物」へと祭り上げられたのか?
権威を取り去ったとき、そこに残るものは何なのか?
序列と効率にすべてが最適化されていくAIの時代だからこそ響く、「権威」を再分配するという問いに迫ります。
【編集ノート】
難しい単語や固有名詞などはこちらで解説しています。
https://joi.ito.com/jp/archives/2026/09/15/006154.html
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サマリー
陶芸家の樂直入さんと伊藤穰一さんが、茶室における「茶入」の権威性とその再分配について語り合う。本来は平等な空間である茶室で、なぜ茶入だけが特別な「大名物」として権威をまとってきたのか。西洋の完璧性を追求する美意識とは対照的に、日本の「わび」の美意識は不完全さや欠けたる部分に価値を見出す。この権威を「名もない石」のような存在に置き換えることで、新たな価値観や感動が生まれる可能性を探る。
陶芸家・樂直入のアトリエと撤退の思想
千葉高大の学長、Joyさんこと伊藤穰一が、最も鑑賞を寄せる分野に迫るJoy Ito'sPodcast。
先週とは打って変わって、京都の外れ、九田にやってきました。 ここは陶芸家の楽直入さんのアトリエがあるところ。
そんな雪深い甘い街、九田で繰り広げられる二人の対話。 楽直入さんとJoyさんとのトークをお楽しみください。
今日も詫びの話をしているみたい。
さて、まずここの話を少し知ってもらっていいですか? ここで何をしているかっていう。
ここで仕事をしてるんだけど。 この場所を見つけたっていうか、探したのは、イタリアから京都に帰ってきて、焼き物を始めようと決心ができた時ですよね。
イタリアでもそれが決心したんだけども、帰ってきて一番最初にした仕事が、できるだけ都市の及ばないところ。
それから人間のそういう文明というのか、現代の社会のできるだけ及ばないところを探し回ったわけですよ。
これでもまだ便利になったんですけどね。行く道、足なんかあったでしょ?割と大きな、近代的な。
ああいうものもなくて、本当に今日も一回すれ違えない時があったけれども、対抗者に対して。ああいうのが何回も何回もあって。
雪もっと積もるんですよね、本当はね。そういう場所を探し回ってようやくここに見つけたんですよ。それが僕の30代の前半半ばにかかる頃かな。
じゃあもう随分前からここで作ってるんですね。
だから撤退をする。30代で撤退したらどういうことになるのかっていうことだけれども、でも30代ですでにもう世の中から撤退したいという意識はどっかにあるんですよね。
でもこの家を建てたのはそれから7,8年してからようやく家が建って。ここはでもなかなか仕事ができるようにはしてあるんだけども、仕事を2つに分散することは難しくて、場所をね、空間を。
道具も全部違うし。だからここはずっとしばらく何十年も充填する場所として使ってたんですね。長くて1週間、短くて3日ぐらいかな、普通。
で、来て、自然を見て、ボケっとして、で、音楽を聴いて、本を読んで、それで駅を休まって帰るっていうかね。だからやっぱりこう、なんていうのかな。落ち込むことがあるんですよね、やっぱり。精神が。
落ち込んだ時にこう、様々なストレスも抱えながら、ここになんとかたどり着くわけですよ。して、それでしばらくここで生活してると、ここに建ってればいいんだっていう、人間が建っている場所というか、自分が建つべき場所っていうのがここなんだって、この自然の中に自分が建ってれば間違いないんだっていう、そういう、その。
満身感っていうのかな。そういう気持ちをもらって、それでストレスとかそういうものを解消しながら、できないストレスもあるけれど、それで京都に帰っていくっていう、そういう場所としてずっと使ってたんだけど。
本当はずっとここにすべて移したいんだけど、そうはいけませんよね、やっぱりね。家を背負ってるし、社会的に生活してるわけだから。でも陰境してからはずっとこっちですね。2019年に陰境して。
陰境してからはもう僕はこの家出て行くからって言って、みんなびっくりしてましたけど、売り切ってこっちに移った。犬一匹連れて。
異文化の音楽との対話と自己変革
今仕事をしてるのは、あれですね、2029年にあるオルガさんっていう、現代音楽のその彼女とコラボレーションする。その音楽がすごく自分には気に入ってて、そこら辺にあるCDは今はもうほとんどオルガの音楽だけども。
あるいはもうちょっと前だったらマレイビチとか、それからアルファンベルグとか、そういうアートとか音楽とか、そういったものとコラボレーションしてきた経緯があって。
そういうコラボレーションって、音楽を聴いてその気持ちを作品にして一緒に展示をするっていうパターンなんですか?
そうですそうです。よくあるコラボレーションはみんなそういうのね、私はこの音楽を聴きました、これを表現しました、こういう音楽のところのこういうところを私は非常に感激して、それがここにこういう形で、こういう色使いで出てるんですって。
そういう話ではないんですね。だけど、やっぱりどっかに繋がっていく。どう繋がっていくかっていうことを探していく過程でもあるんですよね、その制作っていうのは。
だからオルガの音楽を聴いて確かに感じている。すごいエネルギーですよ、彼女の音楽は。それで、自分の中に感じながら接点みたいなのを探してるんだよね、たぶん。
これもそうだけどね、わけのわからないやつね。
真ん中の。
このブツブツのね。これもオルガの音楽の中に確かに触発されてるわけですよ。それはね、何かを表現しましたって客観的に何か表現されたものがここに存在するんではなくて、自分と切っても切り離れない、自分の分身みたいな形の関係なので、
オルガの音楽を聴いて何かを表現しましたっていう、そういうものではなくて、オルガの音楽によって表現したことがまた自分を変えていくっていうか、違った自分を見つけ出していくっていうか、そういう過程なんですね。
異文化の音楽との対話が自分を変えていく。
「わび」の美意識と西洋との比較
その話から、和美は日本だけの歓声か、という問いが生まれます。
西洋にも和美があるっていう話と、もともと日本って中国と日本っていうフレーミングがあって、そこの中に西洋の美学とかも入ってきていて、で、じくにゅうさんがヨーロッパにも結構今指定を向けてるので、ヨーロッパの方から和美の気づきとかってあるんですか。
和美っていうのが本当にその日本人だけのその美意識なのかっていう話ですよね。
で、高麗寺は見て、長寿郎見て、これが和美なんですっていう、そういう考え方ではなくて感じ方ではなくて、和美っていうのをもっともっと分解すると、
例えば完全性の否定とか官軍的な、例えば西洋はその論理を通していく。
やはりその一つの文脈をずっと通していくわけですよね。その文脈の中にしか物事は存在しないだろう、真理は存在しないだろう。
文脈と文脈が接合している部分、それはまさに空白の部分なんだけども、その空白の部分がどうなのかっていうことが日本の美意識ですよ。
野の花と何かにようにっていう、あれ空白の部分なんですよ。
その空白の部分をどう飛び越えていくかっていうのが日本的な非常に哲学かというふうに思うんだけども、
西洋の場合はやっぱり文脈の中にあるんですよね。文脈を通していく。そこから外れるものは斜視をしていくという流れの中にあって、
それは常に完璧性っていうのかな、完全性を追求していくわけですよ。
でも日本のものっていうのはそうじゃなくて完全じゃないよね。すべては完全じゃないよね。欠けてるよねっていう。
そういうものですよ。揺らいでるよね。あるいは雑音も入ってるよねっていうような非常に状況と接合しながら、
一つの意識の中の簡潔性みたいなものを異なる世界観みたいなもの。それは和美につながってる。まさに和美につながってるわけですよ。
吉田謙光の花は盛りに月は熊なきものを見るものかなっていう話が有名な一節あるでしょう。
完璧な光光と輝くお月さんを見るものでしょうかね。盛りの本当に満開の桜を咲いた咲いた全部満開だって喜ぶべきでしょうかね。
ひぬくやおじさんはですねいや言えそうではありませんよねってこういうわけですよ。そういう完全なもの完璧なもの完結したものというものをそれが悪いって言ってるわけじゃないんですよ。
それも認めながらそれを抗がんしながらそうじゃない世界がありますよね。やっぱりこう見えなくなる。
吉田謙光がすごいのはその相対的な美意識っていうわけだけども満月があってそれで雲隠れの月があって雲で時々こう一部分が隠れたり時にはこう全部隠れてしばらくなってくるとまたそこからぼーっと周りの雲が明るくなって月がこうふーっと出てくる。
いいよねーって月を見るわけですよ日本人は。満月があってすごいまんまるの月さんだっていうのももちろんいいですよ。それももちろん認めてるんだけども欠けたる部分っていうのかな。不足した部分。
未完の部分っていうのがその詫びの美意識のコンセプトですよ。だから最初の詫びっていうのはその詫びしいとかね寂しいとか恋が実らないとかあの人は来てくれないとかそういう悲しいことが詫びだったんだけどでもその詫びしい住まいっていうのもやればいいもんよねっていうところがあって
それだけをとっているとなんか人生の生き方みたいなそういうふうに取れる。そこにまず詫びの第一のコンセプトがある。でその次に現れてくるのが無数にその未完の世界とかね
そういう月は熊なきもの花は盛りに行ってそういうような盛りじゃない枯れし折れたら花を見るべしとかねそういうようなこの時間も含めて時間を含めるというのは自分たちの人生みたいなものももちろん含めるから最初の第一のその詫びのテーマのところに繋がっていくわけだけどそういうものが繋がりながら
やっぱり欠けたるものっていいよね。今金月とかすごい流行ってるんですよねヨーロッパで。それは何で金月が流行ってるのかちょっと違うところもあるんだけどもやっぱりそこにものがこう壊れたものが再生しているっていう意識もあって
そういうふうに詫びを分析していくとヨーロッパの文脈と十分にその互角に論じることができる。そうしないと詫びって何か貧しいことですよねとか粗末なことですよねとか粗末なことが詫びなんですかなんていう話になっちゃうんで
デザインと非デザイン、そして芸術の力
不安全さを包み込む詫びの美学。その話がデザインと非デザインという問いへと向かいます。
常に非デザインっていう言葉もあるかもしれないね。デザインと非デザイン。デザインするってことはまさにその文脈を通すことですよね。
超高速の自動車はやっぱり風の流帯力学を完璧にクリアさせて一つの文脈の中にデザインされていく。そこにノイズが入っちゃ困るわけですよ。
でもそうではなくて、非デザインっていうのはそういう文脈の統制っていうのかな。統一をあえて捨てている。そういう世界観みたいなもの。微妙に揺れているとか、つかみ切れないとか、壊れているとか。
そういうようなところの世界観ですよね。そういうふうにしてみると、これが詫びですよっていう話ではなくて、やっぱり西洋の論理とモロにぶつかって論理的に話すことができる。そこがやっぱり面白いんですよね。
西洋の音楽にしても何でもかんでも好きなわけではないんですよ。僕はものすごく、あそこにCDあるけど偏っていて、アルバンベルグだとか、1900年代初めのウインガク派のあの強烈な破壊性っていうのかな。
ジャーン、ジャーン、ジャーン、で全ての人はそれで、あっ音楽が終わった、こう感じるわけですよね。そういう和音の調和っていうのか、和音の歓声に染み渡った一つの暗臭みたいなものね。そういったものを全部破壊していくわけですよね。
その破壊力っていうのはすさまじいものであって、なぜそういうことをしたんだろうなってすごくこう、自分なんか何となしによくわかるんですよ。その気持ちが。
社会が摩擦してたりプレッシャーがあったり、社会がこう難しい時の方が芸術にパワーってあると思います。
例えば戦国時代だとかで、今これからなんか世の中結構大変になってきてるような気がして、なんかもっとパワーがある芸術が出てくる時期なのかなってどうなんですかね。
人類の欲望と悲観的な未来予測
人類が消滅するだろうと思ってますよ。最終的には。消滅しなきゃいけないんだろうなって思いますよ。やっぱり。
その右上がりの経済成長を追い続けたり、さまざまなことを追い続けてるわけだけども、その欲望の根幹というものを絶対に断ち切れないんじゃないかなって思うんですよ。
ひょっとしたらっていうよりも、僕どこまで現代の生命科学が進んでいるか正確にはわかんないからいい加減なことは言えないんだけども、本当に人間が人間を作るっていうことがとても耐えられないなと思いますよね。
人間の安給心とか、新しいものを作り出す欲望とか、あるいはもっと下世話な欲望でいうと、それをお金に変える欲望とか、権力と結びつける欲望とか、さまざまな欲望が交差しながら進んできたんだけども、歴史って一度たりともその欲望を抑えられたことはないですよね、人類が。
もちろんそれはしちゃいけない、手振れちゃいけないって思いながらも誰かが手振れる。誰かがやっちゃう。世界はそこで変わっていく。ギリギリの縁まで来てるような気がしますよ。そういう意味では僕はもうすごい悲観的ですよ。
欲望を断ち切れたことは人類には一度もなかった。その先に茶入れという一つの道具が現れます。
茶入の権威性と茶の湯の精神
例えば茶入れっていうものの歴史っていうのか、茶の湯の精神みたいなものと、例えばあそこは一味同士にするわけですよね。
武士でも権威の象徴、自分の力の象徴である刀を駒の刀掛けに置いて、そして丸腰で狭い部屋の中に入る。一服のお茶を飲み回すという、まさに一味同士、領土の世界。人間と人間がそのままそこで直に分かち合う、そういう世界なんだけども。
その中で茶入れっていうのはとんでもなく権威主義的なんですよね。やっぱりそぐわないなって思うわけ、その精神に。
もともと茶入れっていうのは室町時代だから中国の元の時代かな。元明の時代ですね。そういう時代に入ってきた小さな骨棒で、その中にはお薬が入ってたり、長寿が入ってたりする、そういう容器だったんですよね。
それを室町将軍が取り上げて、そして流霊の業物になって、そこからいろんな人物の手を得て、信長に至っては本当かどうか知らないけども、この一つの茶入れがお前、これ領地と失敵するんだぞとか。
これを敵型の武将にこの茶粒を渡すぐらいなら、俺はこの炎上する天守閣で茶粒と共に死ぬとか。そういうような話になっていって、極端に茶入れっていうのが権威化されていく。今でもそうですよ。
茶会に行くと、茶入れだけが空物の器になって、器の上に乗っかっていく。お盆の上に。なんかそれに這いつくばって拝見するんだけど、気に入らないよね。なんか嫌だね。なんか違うだろう。もっとフラットでいいだろうと思うのに、突出していくっていう。
そうしてみていると、権威には必ずヒエラルキーがつけられるんですよね。格付けですよ。本当に空物のなんとかかんとか。和物がこうなって、和物でもこうなって。相撲の番付表みたいなものが作られて格付けされている。
そのことによって茶入れの権威は普遍性を持つわけですよ。実際にものを見れば確かにシンプルな形で緊張感があって、きれいな薬がかかっている。それだけの話でしょ。そこから権威を取っちゃったら、一体何が残るのかっていう話ですよ。
1990年の展覧会のときに初めて茶入れを作って、そこからずっといろいろ考え続けてきた茶入れの変遷が今の茶入れになっているんですけどね。
権威の再分配と「名もない石」の尊さ
軸乳酸も権威じゃないですか。
そうです。
それを作っている表現ってどういう気持ちなんですか。
楽器っていうのも一つの茶の世界におけば一つの権威でもあるし、それをどうこうするっていうわけではしょうがないですよね。引き受けざるを得ない権威ってあって。
でもその権威が何か別な形に変わればいいなって思ったわけです。
茶入れから権威を取ったときに、パンナの小さな骨棒、腸児が中に入っているのか合心瘤が入っているのかわかんないその小さなシャツ帽なんだけども、取り去ったときに権威が何に変わるべきかっていう話なんですよね。
それと同時に権威というものが社会の中でどういうふうに機能しているのか。
じゃあ全て権威をなくしたらどういうことになるのか。
茶の世界だけでいうと、つまり茶入れの位置っていうのは、僕も思うんだけど扇広げるじゃないですか。
いろんな絵が描いてあったりする。
その一番こっちにぽっちりがあるじゃないですか。
そのぽっちりが、いわゆる権威みたいなものなんですよね。
本当はそこに何ら価値もなくて何もない単なるぽっちりなんだけども、それがなかったらバラバラになっちゃう。
大きく世の中に広げると秩序がバラバラになっちゃうっていうような、そういうものだろうと思うんですよね。
だからそれは決してお金に換算されたり、政治権力に換算されたりするものでは本当はないんだけども、どうしてもそうなってしまうっていうところで、
確かに権威っていうものがないわけにはいかない。どこかで機能しなきゃいけない部分がある。
それがどういうふうに機能したらいいのかなって思うわけですよ。
政治に終奪されるわけではなく、お金儲けに終奪されるわけではなく、漢人要の黒い点のようにね。
ちょっと話が違うかもしれないけど、その点は確かに空みたいなものなんだよね。空なんだよね、きっと。
その空が打たれてる、そこにポーンって。それがすごい意味のある変われるもの。
権威ではなくて権威と変われるべきもの。そんな時にこの村を散歩するんですよね。
朝早く散歩して、太陽が上がってきて、杉の木の枝の間から光がスーッと降りて。
道端に転がってる何でもない石がですね、とんでもなく尊いものに見える。美しいものに見える。
瞬間、本当にそんなものがそこにあったのかっていうような、新鮮にその単なる石がね、見えてくる瞬間がある。
あ、これだって思ったんですね。それは一種の露坊の石だって思った。道端の石だね。
何もない。名もない。価値もない。意味もない。何ら付与されてるものがない。
そういう石ころが、もしも権威と変わることができたら、ああ、尊いもんだよね。
この石ころの存在が、一つの存在が、ああ、すごい尊いもんだね。
しかもその状況と一つになりながらね、風だとか苔の匂いだとか、木漏れ日から落ちてくる光がそこに当たった一瞬の時間とか、
そういったものと絡み合いながら、その露坊の石の存在がとても美しくて、とても尊くて、すごく感動するわけですよ。
茶室の拡張と新たな価値観の創造
そういったものが茶入れになったらいいよね。
単なる本当に茶室に、からもの茶入れの大名物の私服が何個もついていて、
信長が持ちました、秀吉が持ちました、徳川家が持ちました。すげえですね。
お盆にその上に乗っかってからものの、それだってもう何千万円するようなお盆に乗っかってきて、みんな手をついて、
ハイツク割ってほーっと見るような、そういうものじゃなくて、たったの石ころがやっぱりもっと心を込めて手をついて見ることができたら世界が変わると思ったの。
だからそういうものの存在っていうのかな。
なんでもないものの存在がそれほどに尊いものだっていうことを、もし我々が本当に心から感じることができたら、やっぱり世界は変わるだろうなって。
あるいはそれが少なくともそういうことを何人かの人が感じることができたら世界が変わるだろうなっていうふうに思ってるわけですよね。
この茶入れは最終的にどこに行くべきなんですか?
もちろんそのお茶席の中でさ、日本というのかそのお茶っていうその一つの世界観が変われば、それは非常に大きな力ですよ。
そこで変わることができれば、例えばどこかの立派なサロンに棚の上にこれがポコッと置いてある。何これこんなところに石を置いちゃってるとか言う。
でもよくよく見るとなんかすごい感動しちゃうわって。
じゃあ最終的にちゃんとまた茶室に入っていくべきものですよね。
そうなってくると茶室はすべてになるよ。サロンにもなる。すべての空間が茶室っていうそういう感覚じゃないかなと思うんですけどね。
そこですごい宝物でこれ何何セザンヌなんとかこれはなんとかなんとかなんでこんなところに石を置いてるのかねなんてこの人はとか思ってよくよく近づいてみると素敵っていう。
なんかこれこの石が一番好きとかそういう感覚から始まって何でだろうって人は考える。
何でだろうっていうところから思想が生まれてくるという風になっていけば一番素晴らしいな。
ジョイさんと陶芸家らくじきにゅうさんによるトークはまだまだ続きます。お楽しみに。
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