1%の情熱物語
海外に住んでいる日本人は、日本人総数のわずかに1%。
この番組では、海外進出や起業を果たしたビジネスオーナーや経営者、また各業界のプロフェッショナルな方々へ、対談形式でインタビューをしていきます。
日本の未来を背負うグローバルなプロフェッショナルたちの仕事哲学と、そこに燃える情熱に迫ります。
1%の情熱物語374回目です。
みなさん、お元気でしょうか。
元気ですかね。もうすっかり冬になりましたかね。
寒くなってきた感じですかね。
シカゴはどうなんですか、ちなみに。
だんだんと明けめてまいりました。今22度ですね。
22度って言われても、あんまり俺わかんないんだよな。
まあでも、まあまああったかいんじゃない、それ。
まだ。
寒くはないけど、涼しくなってきたなみたいな感じです。
そうね、まあちょっとこれ収録してるのがね。
一番過ごしやすいかも。
まだ10月の中盤なのでね。
はい。
17日、え、今日何日だっけ、17日じゃない。
はい、10月17日です。
これが配信されてる頃には、もうすっかり冬かと思います。
うん、もっと寒いと思います。
はい、そんな中、なんかありましたか、最近。
あ、先日、ミシガン湖クルーズしてきました。
おー、言ってたもんね、前に。
ミシガン湖のちょっと周辺をぐるっと回って、戻ってくるクルーズで、
いろんな種類があるんですけど、ランチクルーズって言って、
中でランチ食べながらクルーズ回れるっていうのに乗ってみました。
いいね、なんか。
なんで乗ったかっていうと、誕生日だったっていうのと、
結婚記念日があったので、乗ってきました。
そっかそっか、おめでとうございます。
ありがとうございます。
あ、結婚記念日も近いの?
えっと、前日に。
誕生日の?
前日が結婚記念日です、そうです。
あー、それは。
というのも、29歳だったからっていう。
おー。
10月7日が誕生日だったんですけど、6日が29歳だったんで、いりいり。
そこに席を入れたってことね。
席入れて、
29歳のうちに。
そうです、そうです、そうです。
まあ、じゃあ一緒に、
覚えやすくていいかなっていう。
合わせて祝えるからいいかなっていうので、しました。
そっかそっか。
イメージしてたのが、日本のクルーズみたいなのだと、
ちょっとおめかしして、おいしい料理を静かに食べるみたいな感じかなと思っていたら、
思ってたよりパーティー感が強くて、昼間だったんですけど、
夜はパーティー感強いかなって思ったんですけど、
昼だったけれども、ポンポンポーンっていう音楽が流れてました。
DJみたいな人がいて、
なんかお誕生日とかお祝いごとで乗る人が多いみたいなんですけど、
誕生日の人みたいな感じでDJの人がいて、
みんな立ち上がって、
おめでとうみたいな。
一人ずつ誕生日の人の名前読み上げて、
みんなで握手して踊ってみたいな感じで。
驚きましたね。
もうちょっと静かな感じのイメージしてたってことね。
かと思っていたら、ダンスフロアみたいになってて、途中。
みんな踊ってて。
すごい、これがアメリカのお誕生日の祝い方かと思って、
眺めておりました。
そこはもうベイビーもいたんだよね?
いました、いました、いました。
それもなんか耳カバー要りそうだよな、先週の話。
そうなんですよ、持ってけばよかったと思って。
そんなにパーティーパーティーしてると思ってなかったから、
持ってってなかったんですけど、
でも、結構騒がしかったから、
ベイビーがちょっと泣いても、全然みんな聞こえないみたいな感じだったかもしれない。
そうなんだ。
ベイビーにしてはちょっとうるさい。
早く帰りたいと思ってただろうね。
そう思います。
驚きました。
こういう感じなんだ。
夜はもっとディスコみたいな感じになってるよって、
サーブしてくれた人が言ってました。
あなたたちも踊っていいからね、みたいなこと言われて。
じゃあ、エマさんも誕生日の名前呼ばれて、お祝いしてもらったってこと?
そう、みんなに、はい、コングラチュレーション。
あと、そう、アニバーサリーも。
アニバーサリーもそうだし。
いいですね。
楽しそうやな。
面白かったです。
シカゴを満喫してますね、いろいろ。
今週はね、スタジアムに行ったという話がありました。
はい、そうなんです。
クルーズは、そう、冬になっちゃうと凍っちゃうから、
今のうちに行ったほうがいいよっていうのを、
シカゴ歴長い方に教えてもらって、
じゃあ、早く行こうっていうことで予約しました。
それって、ちなみにランチを食べるテーブルとか、ダンスフロアっていうのは外にあるの?
それとも室内というか。
中です。
中にあるのね。
してない、はい。
で、外出たい人は、外出ていいよって。
はい、がんばるというか。
川じゃないから、流れもないし、揺れとかもなさそうだし、なんか気持ちよさそうだね。
でも、意外に揺れました。
あ、ほんと?
はい。
なんでだろう?波があんのか、多少。風で。
波打ってる感じしましたね。揺れてました。
普通に海をクルーズしてるような感覚でした。
あ、ほんと。
なんか釣りとかしてる人とかもいるのかな?
釣りあんまり見ないですね。でも、奥の方にいるのかな?
クルーズの船乗る側では、釣りしてる人は見ないですね。
なるほどね。
まあまあ、でかい湖をちょっと体験してきたと。
はい、体験してきました。
いいですね。
なななな、シカゴ情報が増えてきたな。
なんとなくイメージがね、膨らんできていいですね、でも。
そうなんです。また何か体験したら、お話しします。
ということで、本編に入ってまいりましょう。
毎回1人の方のインタビュー、4回に分けてお届けしています。
1%の情熱物語。
今回はカリフォルニア州ライセンス助産市の青柳博子さんにお話を伺いました。
はい、博子さんのね、先週は、
キンドレッドスペースというバースセンターでのお話とか、
博子さんがやられているブルーウィローバースというね、
ビジネスの活動内容みたいな話をしてたんですけど、
今週は、なので例によって、
老いたちからなんでアメリカに来て、
なんで助産市になったとか、
42歳から学校に行き始めたという話があるんですけど、
右を曲折と言っていいと思うんですが、
いろんなね、体験談の中にその結構、
心に刺さるような話が多いかなと思うんですけど、
そんな感じになっております。
はい、それではじっくりお聞きください。
はい。
じゃあちょっと今から過去の話を聞いていきたいんですけど、
まずはお生まれが東京生まれ、横浜育ち、
どんな子供でしたか?
どんな子供だったんだろうね、
自分ではあまりよくわかんないんですけど、
私今でもそうなんですけど、
外向的に見えて割と内向的っていうか、
でも友達に聞くとすごいほがらかで、
いつもニコニコしてる感じとは言われ、
僕もそんな印象はありますけど。
でも意外と自分の中では割と内向的な部分も、
人見知り的な。
人見知りとか緊張しだったりとかもするし、
そんなに人がすごい大勢の人が来たりとかそういうのはないので、
自分の中では割と外向的っていうイメージはないんですよね。
だから両方持ってるのかな。
だからちっちゃい時はそういうふうに見えてるところもあったと思うけど、
学校では手を挙げられないとかそういうのは多分あったと思う。
目立つ方ではない?
ないと思います。
ちなみにご兄弟は?
弟がいます。3つ下に。
運動とかはやってたんですか?
運動は全然ダメで、私超運動ウォンチで、
だけど水泳だけはずっとやってたので、
泳ぐのが好きでやってましたね。
勉強は好きでしたか?
勉強は好きではないんですけど、
割と親が教育熱心で、中学受験とかもしたので、
好きじゃないけどやらされてたっていうか、
塾とかそれこそお受験とかそういうのはやってて、
好きかって言われると、
本当そういうレールにいわゆるあの時代のレールに乗っかって、
中学受験、高校受験、大学受験ってやったっていう感じ。
でもそんなに勉強が得意とかっていう感覚はないかもしれないね。
プロフィールを見るとね、
7歳の時に父の仕事でノース・キャドライナーに1年。
この時の記憶ってありますか?
結構すごい強烈な記憶っていうか、
7歳って言うと小学?
1年生とか。
でも1学年下げて入ってたかな、もしかしたら。
2年生だけど1年生とかそんな感じだったと思うんですけど、
でも全然日本人がいないエリアだったんで、
小学校の中にアジア人が私1人みたいな感じだったから、
全く英語も喋れないで、
普通の現地校に入って、
現地の子たちもアジア人見るのが珍しいし、
割と良い経験というか良い思い出。
年齢も良かったんだと思います。
まだ可愛らしくワイワイやってる年齢だから、
あんまり弾くよりもワーって来て、
私が今日ひろこを面倒見に来てるバンドじゃないけど、
私がひろこと遊ぶバンド。
割とそういう感じで来てくれて、
あとは父の会社が英会話の先生とかも付けてくれたりしてたので、
学校とは別に?
学校とは別に。
だから学校の例えば社会とか、
英語でか分かんないと意味ないようなクラスは、
その家庭教師の先生が学校に来て英語を教えてくれてるみたいな。
でも年齢が7歳とかだとものすごい英語を体得するのが早いので、
もう2,3ヶ月くらいで多分英語は喋れるようになってたんじゃないかなっていう。
あんまりそんな難しい言葉も必要ない年齢だったりする。
あと女の子だし。
自然に吸収しちゃってる感じ。
そうですね。
ザ・アメリカ、82年とかなんで。
いわゆるアメリカの時代で、
ほんとマイケル・ジャクソン、
マイケル・ジャクソンはもっと後か。
でもETとか、
アニーとか、
割と有名な映画がバーンってすごく出てくるような。
タント・バイミーとか、
そういう時代だから、
強烈にそういうアメリカンカルチャーを
吸収したっていう
覚えがあって、
ちょうどノース・キャロライナーの大学に
マイケル・ジョーダンがいる時代だった。
私全然覚えてないんですけど、
すごい盛り上がってたんですよね。
ノース・キャロライナー州も優勝したとか。
大学リーグのバスケが強かったってことね。
州自体がバスケのチームを応援して盛り上がってるし、
そういう子供ながらに、
ハロウィンとかクリスマスとか、
学校でそういうパーティーとかイベントとか、
いろんな行事に出て。
楽しそうだな、そりゃ。
その年齢だから楽しいって思ったんだと思うんですよね。
それって1年間ってことですよね?
そうなんですよ。たったの1年間なんですけど。
それで戻った時はどうなんですか?
ウェブサイトとか編集したりとか、
その当時ってガリガリHTMLを書くような作り方だったんで、
それで裏で書くみたいな仕事もやってたんで、
そのちっちゃい企業のウェブサイトの更新したりとかする仕事を子育てしながら、
家でやったりしてたんですよね、リモートで。
リモートワークね、今で言うね。
いやでも本当最先端っていうか、その頃に活躍してたのが堀江門とか、
そうかもしれないですよね、超テックな人たちなんで、
私はインターフェースよりももっと書いたりする方の仕事が多かったんですけど。
その後2005年にアメリカに旦那さんの仕事を機にという。
そうですね、結局一人子供を産んで、日本で病院で産んだんですけど、
3歳になるくらいの時まで日本にいたんですけど、
もう幼稚園とかっていうことを考え始める時期じゃないですか。
その当時大田区の下町の大森とか、下町の方に住んでたんですけど、
どこで子育てしようかなっていうか、いわゆる学校入って、
幼稚園入って、学校入って、どこで子育てしていくのがいいんだろうみたいなのを考えた時に、
自分の経験で考えると、日本の学校システムみたいなのが、
もう自分自身が無理っていう感じが、いわゆるその公立の学校システムの感じが、
義務教育だね。
うーんっていう、合ってるのかなっていうちょっと疑問があって、
その当時住んでるところでずっと子育てしていくっていう感じが見えなくて、
じゃあ日本国内で引っ越すのか、だからといってお金がいっぱいあるわけじゃないから、
そんな良いエリアにも住めないし、もうなんか近郊に引っ越すかみたいな感じになってくるじゃないですか。
でも通勤も大変だしとか、いろんなそういうこの満員電車の生活を続けていくのかとか、
うちの旦那さんも。
海外で、うちの夫もテネシーで高校行ったりして、
日本人なんですけどテネシーで2年半ぐらい高校行ってて、
同じ大学だったんですよ。
だから割とバックグラウンドも似てて、
アメリカの雰囲気は分かってると思う。
うーんっていう、
アメリカじゃね?みたいな話になりそうだね。
これだけずっと英語でいろんなことやってきたの、このままずっと日本に住み続けるのかとか、
いろんなことを考えてて、
でもじゃあどうやって海外に行くオプションみたいなのを探すかとか、
日本なのかとか色々模索してる時に、
その夫の仕事は一応海外事業部みたいなところにいたので、
いつか海外で働くチャンス欲しいです、みたいなことも言って入ってたんですよね。
だからそれでなんかこう、
これを押してどっかに行くしかない、みたいな。
転勤させてくれとか。
すごい掛け合って、そういうチャンスがあったら行かせて欲しいっていうのをずっと上司に言ってたんですよね。
そしたらちょうど2005年ぐらいに、
ロサンゼルスでアメリカのヘッドクォーターを日本の会社なんですけど、作ると。
で、偉い上の人たちが先に行ってて、
平社員第一号じゃないですけど、
その平社員が行く段階になってから、
今立ち上げたから後はこっちを回してくれと。
っていうのでチャンスが巡ってきたんですよね。
めっちゃラッキーですね、でも。
そうですね。
でも本当にラッキーだったというか、
私がUCアーバイに行った時の友達とかも、
遠くないしね。
ロサンゼルスに住んでる友達が多い。
だってそれこそね、
ノースカルライナーとかテネシーとかに行っても、
ここかってなりそうじゃないですか。
LAに行ってこいっていうのはめちゃめちゃラッキーですね。
そう、だからあんまり抵抗もなく。
でもヨーロッパもありかもとか、
いろんな話もあったんですけど、
でもたまたまそのチャンスはロサンゼルスで。
あったらいいよねって感じですよね。
それでも何年とか決まってたんですか?
いや、もう転席扱いで、
駐在ではなく、
アメリカ法人の社員になる。
完全にこっちにトランスファーしてくるってことだったんで、
戻るっていうのはヨーロッパの関係にないっていう感じで来たんですよね。
でもそういう素養があったというか、
やっぱり英語もできたし、
それもあったと思います。
任せられるかなっていうとこだったってことでしょうね。
そうですね。
あとたまたま来たばっかりの、
ここに立ち上げたばっかりの時の
入るポジションがあったっていうか、
なるほど。
そうかそうか。