ずるっと行きたいんですけど、この前from 雑談出演いただいて、結構反響はありますよ。
この間、あれですかね、podcastは手紙であるのか。
ある人によると、muroさんの能力の引き出し方として、あんな手があったのかみたいな。
そんなにみんなmuroさんというモジュールの扱いに苦慮してるのかなと思ったんだけど。
それはmuroさんは?
まず、from 雑談のpodcastは手紙であるのかい、僕めちゃくちゃ楽しかったんですよ。
で、収録後、めっちゃ楽しかったし、僕めっちゃいい話したって思ったんですよ。
で、配信をmechikuroさんが共有していただいて聞いた時に、僕、愕然としたんですよね。
何一つ僕の力じゃないと思って。これを全部mechikuroさんが引き出してると思って。
驚愕したんですよ。そんなことあると思って。
あんなに気持ちよく話してたのは、全部僕の愕さだったと思って。
その件をmuroさんののラジオっていうpodcastでも語ってくれてて。
改めてそういうことを言われると、俺も戸惑う。全然素でやってるだけなんで。
それでやっててね、これ怖いって感じですよ。みんな気をつけて欲しいな。
それも雑談に出る人。最近バレ始めてる。手のひらに転がされるみたいな。
それはそれでいいとして、僕もmuroさんと話したかったのもあって、
あの時のお話すごく楽しくて、もっとmuroさんとお話したいなと思ったところで、
ちょうど東京に住まわれるっていうことだったので、
なんかもう順レギュラーぐらいの感じで、muroさんとお話しできるようにしたいなと思いつつ。
こちらからお願いしたい。こちらからお願いすべきことですよね。すみません。ありがとうございます。
でね、muroさんの能力について改めて真剣にいろいろ考えてみたなと。
真剣に?すみません。そんなことに時間を使って。
それこそさ、muroさんのような才能って、今の現代のマーケットの中だとさ、どういう売り物なのかみたいな明確じゃない才能じゃない?
わかんない。才能があるかどうかもちょっと疑わしいですけど。
それはね、たぶんみんな感じてるんだと思うんですよ。
ありがとうございます。
それも含めて、muroさんの魅力がこうやってポッドキャストのトークによって、より皆さんに伝わるような内容ってどういう話題なのかなってことをちょっと一生懸命考えてみて、ちょっとあることに気づいたの。
他の人は中学生、小学校の高校学年ぐらいから始まってる人は始まってるじゃないですか。
みたいな、もう10年のビハインドを経て、僕ここから始めなきゃいけないみたいなのがあるわけですよね。
それは賢い頭じゃクリアできないぐらい、恋っていう衝動っていうのが勝ってしまうんですか?
頭によってクリアできるというのに気づくのに5、6年かかりました。
それでも意外。本当にそういうのも含めて、いつも発言されてるような、ある意味論理立てたもので、
自分に起きてる恋っていう現象とかも分析しそうな感じだったんだけど、リアルタイムだとそれができない体になってた。
できない。僕、我が言だと何一つうまくできないですね。
一言だと語れるように。
それも含めて自分がすごい愚かだなって思ってます。
面白い。
恋で苦しんでる人を見て本当に愚かなのかなと思ったら、自分が苦しんでる時に、
じゃあ自分愚かだなって思うかって言ったら、まあ愚かだなと思うんですよ。
愚かだなと思いつつ、それをクリアできるかって言ったら全然クリアできなくて、
愚かだなと思いつつなおかつ苦しいっていう二重句になっちゃってるので。
いいね。
ちょっと何の意味もなかったですね。そこまでバカだと思った人全員に謝りたいみたいな気持ちですよね。
でもなんか本当にいきなり最初からそういうトロをしていただいて。
でね、今日のね本題につなげるので、ちょっと自分ごとで申し訳ないんだけど、
僕もなんで生きてるんだろうって考えるタイプで、なんか決定的に今の自分を作るぐらい考えてこれだって決めたタイミングが25ぐらいなんですよ。
なるほど。
その時になんで生きてんだろうみたいな、その相変わらずのお問いを自分に立てた時に、
その時に自分で思ったのが、生きた意味があるって言えることっていくつか思いついたのが、
いわゆる子子孫を残す、ホモサピエンスとして遺伝子を残すっていうことをもしできたら、
それはそれで立派に生きた意味って証明できるなっていうのを一個思ったんですね。
じゃあそれ自分やるのかなって25の時思った時に、その選択を選ばないなって思ったんですね。
じゃあ思った、よし、じゃあそれに変わるぐらい俺、メチクロが生きてる意味って何に定義したらいいのかって考えた時に、
うーんと唸っていろいろ考えた時に、じゃあ僕は文化に殉教しようと思ったんですね。
文化だったら、僕の50年か80年か100年かわかんないんだけど、
そのホモサピエンスとしてのメチクロっていう人間の人生がどっかで終えたタイミングでも、
今日僕たちが日本語で宗教っていう時ってこのreligionの訳語として使ってると思うんですけど、
このreligionっていうのはこのキリスト教を宗教だと考えた時に、
その現象を社会的現象を呼んでる単語だと僕は理解してるんですよね。
なので宗教っていうものが指し示す本来のところからものすごく小さいところを指し示しちゃっている言葉なんですけど、
この創象宗教とは別に僕たちの世界には民族宗教と呼ばれる、
日本で言うと神道のような、あとはアミニズムとか、
それぞれの民族が持ってる民族宗教みたいな感じで誰が唱えたわけでもない、
なんとなく我々みんなが持っている考え方の体系っていうか観念の体系みたいなものがあるんですよね。
宗教っていう単語はこの2つの概念を両方とも指し示しているんだけど、
僕たちが日常的に宗教っていうとどっちかというとこの創象宗教的なもののみを呼んでいて、
ただその宗教という単語の広がりっていうのはこの両方を実は指し示しているんだけれども、
じゃあこの考え方で宗教というのを見ていった時にどうなるかっていうと、
僕たちがこの世界っていうものをどういうふうに見ているのかっていうのを根拠付けているものとしての宗教っていうのがあると思うんですよね。
僕たちは一般的にはそれを前提的に受け入れていて批判しないっていうか、世界はそのようなものだと思っている。
誰かにすごく教えるっていうことをするわけでもないのに、なんとなく世代を通してその考え方っていうのは繋がっていくっていうような特徴があると思っていて、
文化と本当は我々が呼びたかったものっていうのはこれにすごく近いと思うんですよね。
この世界っていうのはどういうものかっていうのを説明しているものっていうのが僕が文化と呼ばれるべきもので、
おそらくだと考えていて、今日おそらく僕たちが一般的な意味で文化って呼ぶのはそのような世界の見方っていうものをわかりやすく作品にしたもの。
文学作品だったりとか演劇だったりとか映画だったりとか音楽とかポッドキャストもそうだと思うんですけど、そういうものを狭く文化と呼んでるんだと思うんですよね。
いわゆるサブカルチャーと言われるような、今現代カルチャーと呼ばれるものって、
みんなの雑としたイメージだといわゆるエンターテイメントとかアートとかに分類されるような、人が創作したそういう人文的行為みたいなものをカルチャーって呼んでるような気がするんだけども、
僕も本業はそこにしっかり軸足を置いてるんだけど、僕が思うイメージの文化って、今まさに室さんが言ったような宗教も含むし言語も含むしみたいな、
そういうものをもっとより広く取っているんですよね。だから、それはある意味宗教的でもあるし、ナショナリズム的でもあるしみたいなところで、
そういうレイヤーで文化をもう一回語ってみたいというか、もうちょっと解像度を高くすることによって、
今言われてるカルチャーって言われてるものを一回引き剥がして、もう一回文化っていう枠に輪郭を与えれるかなと思ったんだけど、
前提はそういう感じで話したいなっていう。
なるほどですね、わかりました。僕も全くメチクロさんと立場が同じだと思うんですけど、
多分今日文化と呼ばれているものがなぜ小さくなっちゃったかみたいなのにも多分理由があって、
フランス革命が起きて、フランス人っていうのが文明というかシビライゼーションっていうのをすごく前面に押し出したんだ。
人類の歴史っていうのはいずれ文明に行き着くんだ、シビライゼーションに行き着くんだっていうのを打ち出した時に、
やっぱそれに対して本当にそうなのかと思ったのがドイツ人なんですよね。
つまりこれほっといたら我々全員がフランス人、フランス人というか近代人ですね、近代人になってしまうのではないかということを考えたわけで、
その時にドイツ人たちが何をさまかしたかっていうのがカルチャーなんですよね。
だからグリム兄弟がグリムドアを探したりとかしたんですよ。
文明というものに一層されてしまわない我々の民族というものが持つ文化というものを探そうと思ってグリムドアを探したわけですよね。
その仕事は日本では柳田邦夫がやっているわけで、だから僕は柳田邦夫っていうのが日本人を作った人だと思ってるんですけど、
それは日本人っていうのは何かっていうのは彼を探して、その日本人の文化っていうものを生み出していったんだと。
なので、ただ日本に入ってきたのはこの文明という概念と文化という概念が同時に入ってきたので、
なんとなくこの文化と文明の違いみたいなのがあんまり我々の中ではちょっとごちゃっとしたところがあって。
文明と文化ね。
だから文化住宅とか文化傍聴とか、そういう先進的なイメージをつけたいものになんとなく文化っていうものをつけちゃうっていうような、
ちょっとそういうところが日本の文化という言葉には混じっちゃってるんですけど。
今でいうデザインに近いかもね。デザイン家電とかデザイナーズマンションみたいな。そういう雰囲気だね。
多分そうだと思います。近代的なものとしてのイメージとしての文化みたいな、先進的なものとしてのイメージとしての文化みたいなのが、
ちょっと日本語の文化という言葉にはくっついちゃってるから、だからカルチャーを牽引するみたいなことになっちゃうんだと思うんですよね。
でもカルチャーって多分牽引されるものではなくて、我々の営みの中に存在するものだから、なんだろうなとは僕は思ってるっていう感じなんですよね。
じゃあさっきのグリム童話とか柳田邦夫が示したその文化みたいなものっていうのは、
いわゆるフランスを中心とする近代文明みたいなものに対するカウンター的な意味が、
当初はあったのだと思います。
それは柳田邦夫もしっかり、ドイツの方もしっかりで、かなりそこを意識されてたっていう記述というかはあるんですか。
カウンターであるっていうことが明らかであるみたいな。
カウンターというのが、具体的にこういう記述がありますっていうのは僕はちょっと今とっさには出てこないんだけれども、
そのような分析はよくされている。
面白いな。
なんていうかな、民族ということが大問題になってくるんですよ。
そうですよね。
その近代っていうのって、本質的にはコスモポリタンなんですよ。
なんていうかな、何人であるっていうことが大事じゃないんですよね。
まさに。
人間というのは人間であるだけで権利を持つ主体であるから、
じゃあこの人間のカテゴリーっていうのがどういうふうに必要なのかって言ったらそうじゃないんだけれども、
ただ現実的な問題として帝国主義っていうのが民族によって国を統治するっていう考え方が出てきちゃってるので、
じゃあそうすると民族とは何かっていう話が出て、
そうすると文化を共有する者たちであるっていう考えがあり、
じゃあ我々の文化とは何かっていう話になっていく。
面白いな、さっき僕が自分は文化は国家よりも上のレイヤーにあるものでいくと、
今ちょっと国家っていうところに線を引いて話したいんだけども、
いわゆる民族とか含めた国境とか民族とか含めたいわゆる国民国家の成り立ちって、
いわゆる第一次大戦あたりとか明治あたりとかも含めた、
僕らの実感的には近代というか200年くらい前くらいを示すんですかね、
にいわゆる世界中がある程度国っていうものによって国民っていうものが存在する、
そこは多くは民族によって定義されていて、国境というものによって境があるみたくできたところが今当たり前とされてインストールされてるけれども、
その混乱期にあったその頃っていうのは、それ自体がありかなしかっていうことが起きていて、
その時に表に出てきたのが文化っていうものだったっていう感覚で、とりあえずは今のところ線引いていいのかな。
そうだと思います。
ちょうど僕が文化っていうものを考えたときに、もう一個文化についてすごく感銘を受けたエピソードがあって、
2017年に文化庁のメディア芸術祭とドミューンっていうウェブメディアが一緒にやった番組があって、
そこで当時の文化庁長官だった青柳さんが出演して、いろいろアーティストとトークセッションをするコーナーがあったんだけど、
そこの一節で、あるアーティストが青柳長官に、そもそも文化庁って僕たちに何をしてくれるんですかっていう問いかけをしたときに、
青柳長官が具体的な解を示さず、一個、一エピソードを引用したことがあって、それが僕にすごく刺さったんですよね。
そのエピソードっていうのが、アフガニスタン紛争があって、タリバンがアフガニスタンの地をごちゃごちゃにした後、
一回沈静化して国連軍が入ることができるようになったときに、もうめちゃくちゃになっちゃったカブールの国立博物館にある垂れ幕がかかってたんだと。
で、そこに書いてあった一文っていうのは、
A nation stays alive, when it is, culture stays alive.
もうボロボロになってカブールの国立博物館に書かれてた。
で、その一節を青柳長官はアーティストに対して返したんですね。
で、そこで僕が、ちょっと僕の思っている文化っていうのが一個輪郭を帯びてあるんですけど、
その英文の意味っていうのは、要するに文化が生きている限り国は生きているみたいな意味だと思うんですけども、
ってことは、国家っていうものは国境線でもなく、人民がそこに住んでるっていうその状態でもなく、
文化っていうものがあれば、それは国家なんだっていう人たちが中東の地にいるっていう事実が、
やはり西洋的なというか、日本に住んでる僕の国家感とちょっと違って、
むしろ僕の感覚に近かったので楽になったっていうエピソードがあって、
そこもいわゆる国家と文化っていうものの関係性を一個示しているなと思ったんだけど、
そこで僕は感銘を受けつつも、
いやでもやっぱり文化の方がもうちょっと広い意味を持ってるなっていうのも同時に感じたんですよね。
ここまでの僕のお話って室さんにはどう聞こえますか?
二つあって、一つは柳田やグリム兄弟、当時のドイツ知識人たちの大きな間違いっていうのは、
ドイツ人というものを探してドイツ文化を探し、
日本人というものを探し日本文化を見たところに間違いがあるんですよね。
そうすると見えてきたものが日本人に見えてくる、ドイツ人に見えてくる、逆なんですよね。
そこにドイツ人を見出したからそれがドイツ人のように見えるのであって、
でも文化っていうのはもう少し広くて、
あまり本質的には民族とかいうものとあんまり関係がないんですよね。
ちょっと僕も正確には知らないんですけど、
ハンガリーあたりにいつの時代かな、結構その昔の時代、文明がまだ生まれる、
登場する前の時代の文化っていうのがあって、
DNA検査をしてみたら、ハプログループっていう、
どの遺伝集団から登場した人かっていうのを分析することができるんですけど、
そこら辺に住んでいた、でっかい公益都市があったらしいんですけど、
でっかい公益都市に住んでいる人々っていうのが、
ハプログループ的にはめちゃくちゃ多様だったってことがわかるんですよね。
ただその人たちっていうのは身体改造っていう、体を改造していて、
頭に紐を巻きつけて頭蓋骨をちょっと伸ばしてたっぽいんですよ。
そうすると生物学的なっていうか、遺伝的な民族みたいなのっていうより、
我々がどのような行為をするか文化を持つかっていうことの方が、
すごく我々というものの集まりっていうものを実は表現しているのであって、
で、これがたまたま近代だったから国民国家と接合したのであって、
別のあり方っていうのは全然ある。
一つの文化というのは国を持たないことだってあり得るんだけれども、
ただ、今日我々が持っているイメージっていうのは、
一つの国家というのは一つの民族っていう大前提というか、近代に生まれた、
これも勝手に決めたことだから現実は全然違うんだけれども、
っていうのに乗っているから一つの文化が一つの国家を持っているっていうようなことがあるっていうのが一つと、
あともう一つ思ったのは、文化人類学と呼ばれている分野の中に大きく2種類あって、
一つは文化人類学、もう一つは社会人類学。
社会人類学はイギリスの人たちっていうのが始めた学問なんですけど、
アメリカの人たちは文化人類学っていうような名称で似たようなことを始めたんですよね。
このアメリカの文化人類学っていうのを牽引したのはドイツ系の人たちで、
だから文化というものに着目したんですよね、社会じゃなくて。
この人たちが主張したのは文化というのには優劣がないっていう、
文明というフランス革命で出てきたような考え方っていうのを考えると、
人間っていうのが野蛮な状態から未開な状態になり文明に至るんだっていう、
人間の営みっていうのは発達していくっていう考え方があったんだけれども、
このドイツ系の人類学者たちっていうのはいやいやそうじゃないんだと、
この野蛮な人とか未開な人とかがいるわけじゃなくて、
我々はみんな文化を持っていると。
この文化っていうのは環境に適応するための我々の技術なのであって、
それに優劣はないと。
そこにある環境に最も適応した文化であるという意味で、
相対的なものに過ぎないんだよっていう、これを文化相対主義って言うんですけど、
これが出てきたんですよね。
環境なんですね。環境に適応したっていう。
当時は考えたんですけど、僕も原則的にはそれを支持してます。
それはその通りだなと思っていて、だからさっきのカブールの話っていうのは、
確かにその通りで、文化がなければ国家はない。
それはゲームルールで始めちゃってるから。
なるほどね、スタートのね。
ただやっぱりあそこで書くべきだったのは、文化というものを奪うことはできないということだったと思うんですよね。
多分主張の意味はそれだったのかなとは思いますよね。
国っていうのが滅んだって、我々が文化というものさえ持っていれば、
そんなものはいくらでも作り直すことができるんだと。
ただ文化というものを失ってしまえば、もう二度と何も作り出すことができないっていう話だったと思うんですよね。
で、この文化というものは優劣があるわけじゃないので、
じゃあ例えばアメリカ人が来る、国連軍が来るって言って、
じゃあそれを従えばいいのかっていうのはそうではない。
我々の日々の営みの中にそれがあるのだと、
我々が作り出してきた芸術品や博物館に陳列されるような物事の中にそれがあるのだっていうような話なんだと思っていて、
まさにその通りだなと思うって感じですね。
で、そこに選ばれなかったものや、いわゆる状態として固定されたもの以外でも文化というものがあって、
そこも全部含むよっていうぐらい広くとるべきっていうのが僕の感覚ですよね。
その通りだと思います。
で、一方今の国家の話でいくと、今現代のエストニアのように、それこそロシアにすごく近接している国家で、
常に国家っていう形自体が過疎性が高い国家に住んでいるエストニアの方とかって、
それこそ電子政府的なというか、土地っていうものに縛られず、しかも民族っていうものに縛られず、
エストニア国民っていうものでユナイトしようっていうような、
それこそ土地からも離れたエストニアっていう概念を作ろうとしている人たちもいるので、
そこもある意味現代的な意味で文化的な国家だなと思うから、
そこまで広くとりたいなっていう感じなんですよね。
そうだと思います。
例えば土地のない人々の中にユダヤ人がいますけど、
彼らにはトーラー、立法というものがあって、
それって何かって言うと、いわゆる売れるとかバズるとか、今受けるみたいなものっていうのって非常に風俗的な機能として、
求められるんです。で、そこは今をドライブさせたり、過去から未来につなぐためのエネルギーとしてはすごく大事なんですけども、
しかも今のマーケットだけを見ると、でもそれを残す、それを作るっていう意味だけを考えて、
そこだけを考えると風俗的な意味って僕には重要じゃなくて、
じゃあ今のオーダーはそれっていうのは非常に風俗的な意味でよくわかる。
ただし僕がやる以上は文化的でなければいけないから、
過去の先人たちの意思を受け継いで未来に受け渡すためのメッセージが僕の作品には込められてないと、
僕の手を離してリリースするってことはしませんよっていうことを強く決めてるんですね。
そういう意味で風俗と文化って分けてるんですけども、
そういう意味でいくと僕もすごく継承するっていうことに対して文化っていうことに対してすごく意識的に動いてるので、
さっきの東さんの定義っていうのは理解した上で、
僕は基本的に文化っていうものは過去から未来につなぐ今の僕ができることっていう定義をしてるっていう感じですね。
そう、全く、僕一番初めの質問に戻ると、何のために生きているかっていうことを考えたときに、
僕はそれに対してあまり答えを与えていないっていうお返事あったと思うんですけど、
じゃあその何のために生きているかのが分かんない中で、じゃあ何をしようかっていうことを考えているときに、
僕がこれを考えついたのはどれくらいかな、それこそ20か21くらいの時だったと思うんですけど、
何か一つの観念を見つけ出したいと思ったんですよね。
観念というのは受け継がれるから、で受け継がれるに値する、
ちょっとここ2年ぐらい僕がずっと考えてて難しいことなんだけど、
価値という言葉について考えているんですけど、
価値という言い方をしてしまうと、ものすごく資本主義的なものに回収されてしまうので、
そうね、バリルみたいなね、分かる分かる。
そういう意味で価値と言っているわけじゃないんですけど、
受け継がれるに値するもの、人類にとって価値があるものっていうのを僕が何か思いつけば、
それは人類にとって受け継がれるだろうと。
そうするとそれは人類の歴史に貢献したことになるだろうと思ったんですよね。
だから僕が研究者になりたいって思ったのは、究極的にはそれで何か観念を見つけ出したいと。
僕が研究の道っていうのを飛んだ時に思ったのは、
研究者じゃなくても運が良ければ思いつけるだろうと思ったんですよ。
全く違う、別々のものになってしまうっていうふうなことを考えたときに、
僕はそういうことをしたいと思ってるんですよね。
僕の名前とその観念とか結びついている必要はないんだけれども、
その言葉によって後の人々っていうのが豊かになるようなというか、
そのように世界を見れる可能性に開かれたものっていうのになっていくんだと。
そういうことで僕は理解していて、
多分、メチクロさんの作品に対する態度っていうのも、
そこの部分で通底してるんだろうなと思っているっていう感じですね。
そういう意味で、いわゆる自然科学と呼ばれているもの、
人文と呼ばれているものを僕は同じと思うのがまさにそういうところで、
共通するのはそれぞれが人類の認知をアップデートし続ける行為。
それはある意味、サイエンスによって新しい自然っていうものを発見して、
そこで認知がアップデートされることによって、
次の発見に行くっていうものはサイエンスだし、
アートみたいなものも、いわば認知革命みたいなものをアートっていう手法で寄与して、
アートで一番わかりやすい代表的なものでいくと、
ルネッサンスのときにレンズっていうものが実は大きく寄与していて、
ルネッサンスでレンズによって世界が一枚の写像として、
リアルな写実画のようなものが生まれていったんですけど、
そのレンズを通して見る以前の人間っていうのは基本世界をそのように見てなかった。
それによって初めてルネッサンス以降写実画のようなものが生まれて、
人々が世界を今みんなが認知しているかのような絵画や写真のような見え方を初めてした。
それと同時にサイエンスも世界を観察して分析するっていう行為が、
そこで同時に根付いたからそこで同時にサイエンスを爆発したっていう現象が、
ルネッサンス時にすごくわかりやすく起きたんだけど、
それもいわば世界をどう見るのかっていう認知が変わった瞬間の話で、
それってもう本当人文も自然科学も一緒だなって思ってるからこそ、
そういう大きなルネッサンスのような大きい流れがあろうがなかろうが細かいことでもいいから、
細かい認知革命みたいなものに寄与するっていうのが、
僕のざっくりした文化寄与のイメージっていうかね。
そうですね。
それっていうのが確かに大きな発明があると思うんですよ。
社会契約というものの発明とか、
おっしゃったようなレンズの発明みたいな、
全てを根底から変えてしまうような大きい発明もあるんだけれども、
でも人類の営みっていうのはそれだけで構成されていない。
そこに至るための無数の人々の営意によって支えられているので、
そこになんていうのかな、
だから我々っていうのは基本的に何かをしようがしまえば、
その流れの中に実は存在しているんだけど、
だけどなんていうのかな、そこに存在しているんだという態度を取るか取らないかって結構大きい違いだったなと思っていて、
それはなんていうかな、系譜を受け入れるっていうか、
レビナスというフランスの哲学者がいるんですけど、
彼はいろんな人から教えを受けた大学の教育ももちろん受けてるんですけれども、
彼が人生の中で死と呼んでいるのは一人のラビーだけなんですよ。
レビナスってユダヤ人なんですけど、ラビーってユダヤ教の生殖者なんですよね。
その人はレビナスが若い時にレビナスの家に居候をしていた門無しだったんですよね。
レビナスは彼からユダヤ教の教えを受けたっていうことを教えを受けたんですけど、
そのことをもってレビナスにとっての死っていうのは彼、生涯の上で彼だけになっていくっていうことを。
面白い、何それ。
ここでなぜレビナスがそのラビーを死としたのかっていうことを考えると、
レビナスは多分彼を通して自分より大きいものの存在っていうのを受け入れたんだと思うんですよね。
それは確かに僕も大学に入って三人先生がいたんですけど、
三人先生に教えを受ける中でそれを非常に感じたんですよね。
確かに僕と先生の差っていうのはめちゃくちゃでかいんだけれども、
これは別に人知を超える大きさの違いじゃない。
僕が乗り越えられるかって言ったら別に乗り越えられないんだけど、
優秀な人間だったらきっと乗り越えられるだろうっていう違いなんだけれども、
じゃあ今ここで2000年代の時空の中で僕の目の前にいる先生たちっていうのまで繋いできた
この学問の歴史みたいなものを考えた時に、その大きさっていうのはやっぱり果てしがない。
一人の人間としては到底手の届くことのない大きさ。
自分よりはるかに大きいものに対するイフの念というか、
それを受け入れてその流れの中にまた自分もあるのだという態度みたいなものが
その文化に寄与するということなのかなというのを何となく思うっていう感じですね。
だから巨人の肩に乗るっていう言葉はね、サイエンスの世界でも皆さんおっしゃいますもんね。
だから僕もそういう意識があって、さっきの継承していくもの、イコール文化って言ってるんだけど、
儲かってないとか、僕このまま死ぬんじゃなかろうかみたいな、儲からずに死ぬんじゃなかろうかみたいなのはあるんだけど、
それって僕の中ではサジというか、私ごとじゃないですか。
でも、なんていうかな、刑婦とか文化の中に自分が態度を示すことっていうのは、社会的な行為というか、公のことなので、
なんていうかな、公のことがあるのに対して僕が食えないみたいな、私ごとでどうするみたいなのは、やっぱちょっとどうかなって僕は思ってて、
で、他方、私ということが非常に大きい人がいて、それは別に現在の日本社会で別に責められるべきことではないと僕は思ってるんだけれども、
じゃあそういう人に、なぜそのように私ごとを扱うのかっていうことを言われた時に、やっぱ僕が思うのは、
あなたは近代を十分に理解していないってことなんですよね。
フランス革命から戻ってやり直してくださいっていう気持ちなんですよね。
もしあなたが僕に助けてほしいなら、僕はそれを助けるけれども、
あなたの言ってることは、フランス革命の17世紀から考えたらおかしいっていうのが僕の考えなんですよ。
だから怒ってるんですよね。
僕はフランス革命の時に作られた様々な諸観念っていうのを支持していて、
その支持した結果これを言っているっていう。
あなたはどういった何を支持して結果それを言っているのかって思うんですよね。
僕から見ると、それはあなたの私ごとからしか支持されていないんだけれども、
別に私ごとから支持されていること自体に関しては問題ないんだけれども、
じゃああなたはあなたの私ごとっていうのを担保するこの社会全体をどう考えているのか、
その社会で生かされているっていうことをどう考えているのかってなって、
じゃあ今の社会っていうのがどうなっているのかっていうことを一緒に考えませんかっていうふうに思うっていうことですよね。
それが僕のさっきの自己責任論につながるんですけど、
あなたのそのアプローチが社会的行為なんですかどうなんですかってことが握手を握れてないと、
それはそれこそひろゆきさんじゃないですけど、あなたの感想ですよねのように僕の発言が相手に聞こえてしまったりとか、
さっきの公と私の切り分けも僕もすごくわかる。
よく社会で生活していて、僕は怒りはしないんだけど衝突だなと思うときってまさにそういう、
社会をどのように認知していて、その社会の立場の僕とあなたっていうのの、
基本的にはそのOSをベースにして動けば、僕的に納得いく今日を過ごすことができるっていうか。
なるほどな。わかりました。
わかりました。
おっしゃる通りで、ちょっと全然違う話なんですけど、
中国の歴史ドラマで、三国志をモチーフにした歴史ドラマで、
Three Kingdomsっていうドラマがあるんですよ。
僕、全部見れてないんで、日本で見るのちょっと難しいので、
バラバラでしか見てないんですけど、そのドラマの中でよく言われるのが、
漢と俗とは並立せず、王法は変案せずっていう言葉が出るんですよ。
なんかスッと入ってこい。
三国志なので、漢帝国っていうのが滅びて、いろいろな軍輸が滑挙して戦争するっていう話なんですけど、
主人公陣営の劉備玄徳が率いる諸君は、大漢帝国を再興するっていうのを大義に掲げてるので、
その人たちっていうのは、大漢帝国ですね、漢と漢に逆らう人たち、俗は両立はしない。
漢か俗かというのは選ばなければいけない。
王法は変案せずっていうのは、漢帝国が国家を治めるその普遍の法則っていうのは変わることはないっていう、
それによって安定っていうのはもたらされるはずだっていう話をしていて、
僕、結構近代的な諸概念に対して、この態度なんですよね。
だから、僕は結構今の社会っていうのはある程度気に入っていて、不完全だからより良くなっていけばいい。
で、そのより良くなっていくっていうのは、この近代的な諸概念っていうのをベースに、
さらにより良くなっていけばいいっていう理念っていうのは既に打ち出されているので、
その理念に近づいていけばいいっていう立場なんですけど、
そうすると、さっきの全てを自己責任に返してくる人とか、
自己利益を追求しないことに対して文句を言ってくる人っていうのは、
やっぱり近代が指し示している理念みたいなものに相当反してると思うんですよね。
近代っていうのは今の。
今の自由平等博愛ですよね。
自由平等博愛に参加する主体的な理性を持った自我としての人間っていうのを仮定するっていう。
さっきのフランス的っていう言い方でいいですか。
認知科学とか人間の生態学的な研究では、
人間に主体的な意識とか自己自我みたいなのがあるかって相当疑問されてるんですけど。
自由意志の話ね。
分かる分かる。
ただそれがあるとみなしてやろうっていう社会理念にあってるので、
でも究極的にはそれを動向する道徳みたいなのがない。
道徳を下支えする根源的なものっていうのはないので、
その判断基準っていうのを何かに根拠を求めることができないってなったときに、
その一つ一つの行為っていうのは結果として世界に問われていると思うんですよね。
だから僕は自分という存在が基本的に問いとして世界に現れてると思ってる。
問いとして現れてる、分かる分かる。
そうするとその僕という現れに対して社会の反応があり、
その社会の反応があることによって僕が裁かれたり褒められたりほっとかれたりすると思ってるんですよね。
なので僕はおそらくメチクロさんと似たような行動原理で善悪の判断をしているんだけれども、
基本的にはあんまり自分の判断というものを真を置いておらず、
ただ問いとしてそこに現れるのだという考えで行為をするっていう感じです。
だから究極裁かれたり刺されたりしてもしょうがないかなと思って生きてます。
一番最初の話に戻ると、恋愛っていうものを思春期時代の人並みに体験してなかったムロさんは、
理性じゃないく、いまだに恋愛っていうものに対して、ある意味アニマル的に行ってしまうから、
いろいろ多分ことが起きるんだと思うんですけど、恋愛をする自分っていうのとって、
ある意味安定した自分よりは不安定な自分の方に突入する状態じゃないですか。
そこの話まで戻すと、今の話ってすごくわかりやすいなと思ってて、
結局、思春期の時に現代社会における人並みな恋愛をしたことで、
いくらムロさんにそこの経験をインストールしたところで、
多分ムロさんの行動の原理って、今話した悪である自分みたいなものっていうのを
当たり前に給養してる行動をとる人なんだよって言って。
そう言うとやっぱ頭おかしい人なんですよ。
基本僕もそうなんですよ。
そこをギリギリ、今今日の僕を安定させる判断ができてる唯一のポイントは、
過去から培ってきた文化における美みたいなものが僕にインストールされてるから、
文化的な美っていう判断かどうかっていうことを選んだ時に、
さっき言った不定や悪っていうものと、断罪されないギリギリのチョイスを僕が選べるようになってるみたいな。
今すごい、いくつかのことが僕の中でまとまって、
少し前に美学の研究をしてる、芸術人類学をされている先生が、
平凡とはどういうことか、凡庸であるっていうのはどういうことかっていう話をしていて、
凡庸であるっていうのは社会規範っていうのを内面化しており、それに気づいてないことだ。
気づいてないことなんですね。
今、ちょうど収録の時、都知事選の抗議をやっていて、
その都知事選でいろいろな逸脱行為をやっているんだけれども、
あの逸脱抗議がなぜ平凡なのか、つまり、
というと彼らは社会規範っていうのをめちゃくちゃ内面化しているんだけど、
その内面化した社会規範っていうのから逸脱するっていうことだけで事項を規定している。
だから凡庸なんだっていう話をしていて。
そうなんです。自分の中の社会規範っていうのを問うことでしか、
その非凡にはなれない、凡庸さというのは突破できないなと思っていたんですよね。
さっきのメチクロさんの話っていうのは、一般的に道徳である、
一般的に良い人間であろうとする、自分のことを良い人間だと思うっていうのは、
この社会規範を内面化するっていうことと同じことなんだと。
凡庸になるということであるんだっていう話があって、
メチクロさん、美という言葉遣いをしたんだけれども、
美であるっていうことはどういうことかっていうと、やはり凡庸ではないっていうことだと思うんですよね。
非凡であるっていうことだと思うんですよ。
そうすると、非凡であるためにはどうするかっていうと、
悪である自分っていうのを引き受けるしかないんだと思う。
本当にそう思います。
悪である自分っていうのを引き受けるっていうのは、
だからといって社会的に不法な行為っていうのをいくらでもしろっていう話ではなく、
そのような存在である、それのことを成し得る存在である自分っていうのを、
まず引き受けなければ、社会規範の奴隷となる、
メチクロさんの言葉遣いで言うと、ロボットになってしまうんだよっていう。
その凡庸さこそが最も目も当てられないものなんだよっていう話だなって。
だからわかりやすく美っていうものを置くとさ、
アーティストが求められていることでイメージしやすいと思うから、
より使いやすいと思うんだけど、
アーティストってどの時代でも、
非凡であるっていうことを現象化する役割を求められてるじゃないですか。
だからまさにそういう役割を課せられていて、
わかりやすく言うと、役物をやって捕まるのはアーティストっぽいよねだったりとか、
お金で失敗するの、恋愛で失敗するのはアーティストっぽいよねっていうのが、
わかりやすく非凡であるようなイメージなんだけれども、
僕はそれがアーティストらしいとは思ってないんだけど、
少なくても美っていうものだけで言ったら近いかなと思うんで、
それを案外望んでるかもしれないって、ここ数ヶ月で覚えようになりました。
っていうのは、なんていうのかな。
僕が自分の欲望として、天下取ってみてと思ったんですよね。
何かわからないけど天下みたいな。
僕ってそういうこと思うんだって思ったんですよ。
言ってみた後に。
天下取るっていうのは、偉くなりたいとか誰かを支配したいじゃなくて、
やっぱ何か人間の観念に対して何かしてみたいっていうことなんですけど、
パラダイムみたいなものを作るのに寄与したいなっていうのがあって、
じゃあ僕がそれを何ていうのかな、主導してやりたいのかみたいなのは結構また別の話で、
じゃあ僕がやるのかっていうと全然やりたいと思えないなと思うんだけれども、
天下取れそうな話っていうのに参画するのは案外好きかもしれないって思ったんですよね。
まさに僕が見た室さんの能力ってそこだなって思うっていうか、
おそらくリーダーシップを取って名を残す誰かが室越龍之介であるイメージは全くないんだけども、
そういう人が日々一番長い時間過ごすのが室さんのような人であるイメージなんですね。
だから室さんとおそらくソリューションを期待されるようなオファーって向かなくって、
フィロソフィーを練り上げるような役割として同行する人みたいなオファーの方が絶対合うはずで、
だからそういう出会いがより多くなるような方向づけっていうか、
されればされるほど僕の見たい室さんになる気がすごいしていて、
ありがとうございます。
わかんない。
わがことは何もわかんないですね。
ただの役立たずに見るけど。
そっちに誘われるような誘導をおそらく今室さんの周りにいる人たち僕も含めて、
みんなでそっちにこう室さんの流れを持っていこうとしているような感じがすごいするんだよね。
それはね、すごい感じる。
メチクロさんもそうですし、
みなさん僕のことを引き立てていただいて本当に恐縮だなって思って毎日生きてます。
この前も確認したけど、みんなソリューションが明確に見えて協力しようとしなくて、
やっぱりこうでっかい守護のところで後を自信を持つ。
室さんのことを。
今日困ってる1000円渡すぐらいだったらできるんだけども、
向こう5年食いっパグれない何千万の暗記みたいな話っていうのはなかなか思い浮かばないもんじゃないですか。
だからやっぱり室さんってソリューションで解決できるタイプじゃなくて、
なんかフィロソフィーのところをはめると室さんってガチッとはまるんだろうなっていうイメージは多分みんな持ってると思うんだよね。
ありがとうございます。
誰かの役に立てればいいんですけどね。
本当に今日オチをつけずに話してきたからさ、文化のお話のオチじゃなくなるんだけど。
今日大冗談に文化とかでかい守護で話しようって言ったものの、そもそもの発端は室さんと関わり続ける理由づくりをしたいだけなので。
ありがとうございます。恥ずかしい。よろしくです。
だからなんかこんな感じでちょっと、今回ちょっと文化っていうかなり聞きづらい。
聞いてる人にとって見たら何やってんだこいつはっていう話をしちゃってるんだけど、
こういうお話をちょっとすることによって、なんか室さんのエネルギーみたいなものの輪郭が、
室さん自身がなんか気づくような体験になったら嬉しいなと思って。
ありがとうございます。
そういうのに俺は器用できてるから、今日の話だけでね。
俺だけが空回りしてる気がすごいしてきたんだけど。
いやいや、そんなことです。そんなことです。
なんか、ソッカーって思いました。
ソッカーって思ったのは、
メチクロさんに愛されてて嬉しいなってやつですけど。
ありがとうございます。なんかね、最近気づいたんですけど、
最近気づいたっていうか、これね、どこで聞いたかちょっと忘れちゃったんですけど、
九州人の誰かが上京するってなった時に、先に上京した九州人の先輩から、
お前だよって。東京では謙遜したらいかんぞと。
自分が何ができるか、自分がどれだけすごいかっていう話はせんたあかんぞって言われたらしくて、
確かに東京に行ったらそうだったっていう話を誰かがされていて、
これをポッドキャスで聞いたのか対面で聞いたのかちょっと覚えてないんですけど、
僕は東京に出てきて2ヶ月、それをめちゃくちゃ感じてるんですよね。
九州の文法で言うと、誰かに褒められた時に、ありがとうございますとか言うと、
ちょっと何ていうかな、言いづかっていうか、ちこほの言い方なんですけど、
にやがっちゃおってものですよね。にやがってるって、のぼせあがってるってことですよね。
調子のんなと。
で、くらされるっていう、ボコボコにされると。
お前にやがっちゃおぞ、くらすぞって言われるわけですよね。
なので誰かを褒められた時は下から行かないといけないし、
自己紹介の時も下から行って、下から行った人を下に置かないみたいなのが作法としてあるんだけど、
東京違うなと思って、この間ジャーナリストの津田大輔さんのポリタスTVで話させていただいたんですけど、
その時もボコ持ち上げるような発言されたので、そんなことないんですよって言ったら、
すっごい気まずい雰囲気になったんですよね。
そっか。
だからちょっと今僕難しくて。
ちなみに九州のルールだと、自分の望んだ未来を手にしたい時ってどういうアプローチで行くものなの?
褒められたら謙遜しなきゃいけないし、自分のアピールが多いと調子に乗ってると思われる文化として捉えた場合、
どうやって自分の望んだ形って得られるの?
それって与えられることでしかいけない世界なのか、自分で勝ち取ることができる世界なのかどっちなんですか?
多分ちょっと良機的なんだけど、いい兄貴分に作ってことですよね。
なるほど。
血とか家みたいなもの、文化の話でいくと、要はそこの流れに乗るかどうかっていう話ですね。
だと思ってて、だから古典ラジオの樋口さんとかは完全にいい兄貴ですよね。
九州の兄貴で、だから彼の、樋口さんはそう思っていらっしゃらないと思うんですけど、
その弟分というか、樋口さんに恩を受けた人っていうのがいっぱいあって、
その人たちが東京でも活動してるし、福岡でも活動してるし、高輪でも活動してるし、いろんなところで活動してるっていう、
九州の兄貴分というか九州の親分だなと思っていて。
じゃあさっきの言い方で、そこに所属することができると、さっきのマッチングの精度っていうのは格段に上がるようなシステムがあるんですね。
そうそう、親分っていうのは分配するものだから、こいつがこういうことできるんだったらこういう仕事を任す、
こいつがこういうことできるんだったらこういう仕事を任すっていう、そういうことをする。
で、自分をアピールするっていうのは、自分の兄貴分が見る目がないみたいな言ってるものだから、
それはニアガッチを暮らすぞってなってくるわけですよね。
確かにそのルールだと、九州の世界観も外、特に東京とかはそうだと思うんだけど、マッチしないかもしれないよね。
だから、僕はこの18とか22ぐらいの時に、20代の時に東京出てこれたらよかったかもしれないですけど、
今頃出てきてるんで、この東京システムにいまいちアダプトできてなくて。
いやいや、そんなことないんですよって言って、みんなにそんなことないんだって思われてる。
僕のそういう時のスキルというか考え方でいくと、褒められてそんなことないですよっていう謙遜するっていう意味で言ったら同じ言葉を発するんですよ。
逆に言うと、僕はそれを言わせた時点で負けだと思ってる。