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2024-07-01 1:47:02

#60|SESSION「文化と非凡」by 室越龍之介(muro)/ どうせ死ぬ三人 / のらじお & Mechikuro

from雑談[SESSION]では、雑談にお越しいただいた方との偶発的な”雑談”を不定期にお届けします。

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室越龍之介(muro) / どうせ死ぬ三人 / のらじお】

■どうせ死ぬ三人
泣いても笑っても、幸せでも不幸でも、どうせ死ぬ三人が、ぽつぽつと話すPodcast番組です。(Spotify

■のらじお
ノラ人間muroと、ノラ人間かえによるノラ話。(Spotify

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【Mechikuro】

マンガ・オーディオ・アート・クラブミュージックなどの第一線で、分野横断的に活動するクリエイティブディレクター。 グラフィック&プロダクト両面のデザインのみならず、編集&ライティングからブランディング&プロデュースまで多様なスキルセットを駆使する。 これまでの経験と知見を活かし、『JAPAN PODCAST AWARDS』では創設メンバーとして、2019年創設〜2021年まで3年に渡り理念&審査レギュレーション設計、選考委員選定、ノミネート作品選考、グラフィック&トロフィー造形など中核業務の全てを担当。 作品選考作業においては、年間平均2000作品・2000時間強に及ぶ聴取・リサーチ・分析を行い、アワードという一つの基準において、国内ポッドキャストシーンの可視化とクオリティの定性評価に寄与した。 現在、自身のポッドキャスト作品としては、ぷにぷに電機と共に制作する『LAUNDRY AM』を配信中。 『雑談』では、より広く、より深く、音声作品の可能性と魅力を伝えるべく、さらなる能力を解放する。@maticlog

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XIG

©︎雑談|https://zatsudan.co.jp/

00:01
ずるっと行きたいんですけど、この前from 雑談出演いただいて、結構反響はありますよ。
この間、あれですかね、podcastは手紙であるのか。
ある人によると、muroさんの能力の引き出し方として、あんな手があったのかみたいな。
そんなにみんなmuroさんというモジュールの扱いに苦慮してるのかなと思ったんだけど。
それはmuroさんは?
まず、from 雑談のpodcastは手紙であるのかい、僕めちゃくちゃ楽しかったんですよ。
で、収録後、めっちゃ楽しかったし、僕めっちゃいい話したって思ったんですよ。
で、配信をmechikuroさんが共有していただいて聞いた時に、僕、愕然としたんですよね。
何一つ僕の力じゃないと思って。これを全部mechikuroさんが引き出してると思って。
驚愕したんですよ。そんなことあると思って。
あんなに気持ちよく話してたのは、全部僕の愕さだったと思って。
その件をmuroさんののラジオっていうpodcastでも語ってくれてて。
改めてそういうことを言われると、俺も戸惑う。全然素でやってるだけなんで。
それでやっててね、これ怖いって感じですよ。みんな気をつけて欲しいな。
それも雑談に出る人。最近バレ始めてる。手のひらに転がされるみたいな。
それはそれでいいとして、僕もmuroさんと話したかったのもあって、
あの時のお話すごく楽しくて、もっとmuroさんとお話したいなと思ったところで、
ちょうど東京に住まわれるっていうことだったので、
なんかもう順レギュラーぐらいの感じで、muroさんとお話しできるようにしたいなと思いつつ。
こちらからお願いしたい。こちらからお願いすべきことですよね。すみません。ありがとうございます。
でね、muroさんの能力について改めて真剣にいろいろ考えてみたなと。
真剣に?すみません。そんなことに時間を使って。
それこそさ、muroさんのような才能って、今の現代のマーケットの中だとさ、どういう売り物なのかみたいな明確じゃない才能じゃない?
わかんない。才能があるかどうかもちょっと疑わしいですけど。
それはね、たぶんみんな感じてるんだと思うんですよ。
ありがとうございます。
それも含めて、muroさんの魅力がこうやってポッドキャストのトークによって、より皆さんに伝わるような内容ってどういう話題なのかなってことをちょっと一生懸命考えてみて、ちょっとあることに気づいたの。
03:12
muroさんってきっと、何かことが始まるようなとこに立ち会うような人が一番合うんだろうなと思って、より意思決定者からと一緒に動くような案件がより合うんだろうなと思って。
ってことはどういうことかっていうと、より理念、企業だったら企業、なんかそういう組織において理念を作るような立場の人、いわばこう意思決定者だったり社長だったりみたいな、そういう人からお声がかかるような人が一番合うんだろうなと思って。
はい。
なんかそんな気はする?
わかんないですけど、それが僕に本当に合うかどうかっていうのはよくわからないんですけど、それ以外の方法は僕にとっては結構難しいかもしれないと思ってます。
この前のお話でも、意外と振られた仕事を真面目にやるはできるんですよって言ってたけど、多分できるんだと思うんだけど、振る側が難しいなっていうのが正直なところかなと思って。
じゃあそういう室さんとお話しするのってどういうのがいいのかなと思ったときに、なんか今日あったことだったりテーマがはっきりしたこととかっていうそういう話題よりも、もっといわゆるデカい主語の話を室さんとする方がより魅力が伝わるんじゃないかなと思って。
ありがとうございます。 今日は主語のデカい話したいから東中野来てっていうのがあるんだよね。
主語のデカい話って何って話ですよね。 そう、だからよく言うとコムカだったりとかさ、なんかそういうこうよりデカいものを主語デカいってよく言うじゃないですか。
だからなんかそういう定義が曖昧なものを一緒に語るみたいなものをやったら永遠室さんを引きずり回せるかなと思って。
いや、頑張ります。引きずり回されます。 ありがたいです。で、役割的にはアカデミアをちゃんと通過した室さんと、アカデミアを一切通過してない道黒による主語のデカい話みたいな、なんかそういうざっくりテーマで話したいなと思うので。
ちょっと今日は本当に僕片道切符でしかイメージできてないので、戻ってこれるかもわかんないし、あとポッドキャスト上のトレだかは全くイメージしてないんだけど、ちょっとそれをお付き合いいただければ。 わかりました。
じゃあもう早速ね、本題のとっかかりしたいんだけど、今日のテーマに入る前にちょっと室さんに僕の相談的な意味で聞きたいことあるんだけど、室さんってなんで生きてるのか、自分はなんで生きてるのかって考えることってあります?
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ありますね。 なんかちょっと中二病っぽいさ、そういうのあるじゃん。僕意外とそういうのが大好きで、ちなみに室さんってなんで生きてるんだろう、俺って考えるときの最新の答えだったりエピソードってなんかあります?
僕の最新のそれに対する答えっていうのは、1989年に思いついたんですけど。 89年。
僕が3歳のとき、僕が父と母の子でもであり、室越龍之介という名前を与えられた存在として、この社会の中で室越龍之介に期待されている役割を演じなければいけないんだなぁと思って、それが今のところここまでです。
それが最新です。 最高だよね。 これを超える答えは今のところまだ見つかってないですね。
だから要はそのときに自分っていうものが輪郭を帯びた瞬間みたいな感じなのかな。 多分自我が生まれたんでしょうね。
そうだよね。なんかよく一時成長、二次成長ってあるじゃない。なんか一時成長のときで生きる意味みたいなのが止まってるのも珍しいなと思うんだけど、いわゆる二次成長以降の、その後の思春期っていうのが来る中二のタイミングぐらいのときってそういう悩みってなかったですか。
悩んでいたというか苦しかったですね。僕がその3歳のときになぜそのように思ったかっていうと、幼稚園の遊具で遊ぶ子どもたちを見て、世界っていうのには意味がないんだと思ったんですよ。
意味っていうのは、我々が意味と考えているものっていうのは、我々が付加した一つの社会的な約束ごとに尽きなくて、この社会的な約束ごとの背後にものそのものとしての僕たちとか、僕たちそのものとしての僕たちみたいなことを考えたときに、そこを後ろを立ててくれるものは何にもないんだって思ったんですよね。
もちろん、ここまで言語化されてないけども、3歳なりの感覚で。
3歳なりの感覚で、この子たちはなぜ遊んでいるのだろうと思ったんですよ。幼稚園の先生はなぜそれの面倒を見ているんだろうって思ったんですよね。それはそういう役割だからだと思ったんですよ。
09:01
要はパパでもママでもない誰かが、みたいなのも含めてだよね。
そうですね。なぜ毎日我々はここに来なければならないのかみたいな。この人たちはなぜ何の疑いもなくここで遊んでいるのかみたいなのが、ふって一瞬で体感されたっていうことですよね。
だから社会的生物としてのムロコシリュウノツケ、誕生の日がそれですね。
じゃあそこからいわゆる思春期を経て今に至るまで、そこが一番強くあった状態で生きているっていう感覚を持っているってことなんだ。
そうすると究極的に自分をひた支えするものがないという感覚でずっと生きていて、だからその思春期の時はつらかったですね。
いわゆる周りの同級生たちが抱えるような悩みっていっぱいよくあるパターンあるじゃないですか。そういうのと照らし合わせて自分を比べたりしたことってないんですか。
あんまりないですね。なんか同級生とかが恋とかに悩んでたので、愚かだなって思ってました。
その時点で。
いずれ死ぬのにって思ってましたね。
ああいいねいいね。じゃあ恋とか、あとはいわゆる就職とか、自己実現だったりとかみたいな、なんかよくあるパターンのそういうものも同じような感じ?
そうですね。で、そのような態度が本当に良くなかったなっていうのをこの15年ぐらい毎日のように思い知らされてますね。
今の、今言った言葉通りの感覚を態度で外に表してたんですね。
態度では表してないですね。態度では表してないけど、だから恋愛をするのとかも愚かしいと思っていたし、真面目に就職活動をするのとかも愚かしいと考えていたし、
自分の存在理由みたいなのを真剣に考えるのも愚かしいと思ってたから、やらなかったんですよね。やったほうが良かったなって思ってます。
ああ、いわゆる成功も失敗も含めた、その年なりに体験できることをやるべきだったなっていう感じ?
そうですね。
やる前にやらないを選んでた人生だった。
そうそう人生だった。
それは頭で理解してることとの擦り合わせみたいな、大人になってからの経験じゃ埋められないものなんですか?恋だったり、そういう成功。
埋められないものっていうか、その後自分を徹底できないということに気がついたわけですよね。
徹底か。
恋愛必要ないっていう自分を全然徹底できなくて、恋に落ちてしまうわけですよね。
なるほどね。
簡単に。恋に落ちたら恋に落ちたで、全てをそこから学び直しじゃないですか。
12:02
他の人は中学生、小学校の高校学年ぐらいから始まってる人は始まってるじゃないですか。
みたいな、もう10年のビハインドを経て、僕ここから始めなきゃいけないみたいなのがあるわけですよね。
それは賢い頭じゃクリアできないぐらい、恋っていう衝動っていうのが勝ってしまうんですか?
頭によってクリアできるというのに気づくのに5、6年かかりました。
それでも意外。本当にそういうのも含めて、いつも発言されてるような、ある意味論理立てたもので、
自分に起きてる恋っていう現象とかも分析しそうな感じだったんだけど、リアルタイムだとそれができない体になってた。
できない。僕、我が言だと何一つうまくできないですね。
一言だと語れるように。
それも含めて自分がすごい愚かだなって思ってます。
面白い。
恋で苦しんでる人を見て本当に愚かなのかなと思ったら、自分が苦しんでる時に、
じゃあ自分愚かだなって思うかって言ったら、まあ愚かだなと思うんですよ。
愚かだなと思いつつ、それをクリアできるかって言ったら全然クリアできなくて、
愚かだなと思いつつなおかつ苦しいっていう二重句になっちゃってるので。
いいね。
ちょっと何の意味もなかったですね。そこまでバカだと思った人全員に謝りたいみたいな気持ちですよね。
でもなんか本当にいきなり最初からそういうトロをしていただいて。
でね、今日のね本題につなげるので、ちょっと自分ごとで申し訳ないんだけど、
僕もなんで生きてるんだろうって考えるタイプで、なんか決定的に今の自分を作るぐらい考えてこれだって決めたタイミングが25ぐらいなんですよ。
なるほど。
その時になんで生きてんだろうみたいな、その相変わらずのお問いを自分に立てた時に、
その時に自分で思ったのが、生きた意味があるって言えることっていくつか思いついたのが、
いわゆる子子孫を残す、ホモサピエンスとして遺伝子を残すっていうことをもしできたら、
それはそれで立派に生きた意味って証明できるなっていうのを一個思ったんですね。
じゃあそれ自分やるのかなって25の時思った時に、その選択を選ばないなって思ったんですね。
じゃあ思った、よし、じゃあそれに変わるぐらい俺、メチクロが生きてる意味って何に定義したらいいのかって考えた時に、
うーんと唸っていろいろ考えた時に、じゃあ僕は文化に殉教しようと思ったんですね。
文化だったら、僕の50年か80年か100年かわかんないんだけど、
そのホモサピエンスとしてのメチクロっていう人間の人生がどっかで終えたタイミングでも、
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もし文化に殉教できれば、それは人類にとって何か利活用できるような貢献ができた証になるだろうから、
ちょっとかなり曖昧ではあるんだけど、その時僕なりに文化に殉教しようってことだけは決められて、
それ決めてから楽になったんですよね。
それこそ恋愛だとか就職だとかお金があるないだとかっていう属性で起きるようないろんなことで意思決定を迫られた時に、
じゃあ自分はこれが僕の思う文化に対して寄与してる選択肢なのかっていうのを一個置くだけでいろんな判断ができるようになったんですね。
そこが僕にとってすごく強かったので、改めて文化っていう話をしたいなと思って。
どうですか?
文化。
アカデミーを通った室さんって文化人類学みたいな文化っていう単語っていうものが定義された学問を通ってきたはずなので、
多分僕よりも文化っていう単語自体の改造が高いかなと思ったんだけど、
今時点で今日この瞬間の時点でも室さんの文化っていう言葉に対する定義ってどこからスタートできます?
これがねめちゃくちゃ難しくて文化人類学って文化を定義できてないんですよ。
だからこそ僕も置けるなと思った。
僕のいつも言ってる言い方だと国家よりも家族よりも宗教よりも上の階層にあるものが文化って認知してるんですよね。
ってことは定義されてないだろうけれども、なんかそのぐらいのレイヤーにあるもんだと思ってるから。
って考えるとなんとなく合ってんのかなって。
今日僕が文化っていうものをどのように考えてるかっていうと、
今日我々が宗教と呼んでいるものっていうのは本来文化と呼ばれるべきものだっただろうって思ってるんですよ。
僕たちが一口に宗教って言ってしまうと、
キリスト教的なものっていうか、これは専門の用語では創象宗教っていう作って、
創象の象はね、作るっていうのは天地創造の象ですね。
で、象っていうのは唱える。
唱えるなんだ、表すじゃなくて。
作って唱える宗教ですね。
だからキリスト教とかイスラム教とか仏教みたいなのは誰が作ったかわかってて、
その人がこう言ったっていう唱える教義みたいなのがカチッとしているってやつを創象宗教って言うんですけど、
いわゆる英語で言うとこのreligionっていう宗教っていう概念。
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今日僕たちが日本語で宗教っていう時ってこのreligionの訳語として使ってると思うんですけど、
このreligionっていうのはこのキリスト教を宗教だと考えた時に、
その現象を社会的現象を呼んでる単語だと僕は理解してるんですよね。
なので宗教っていうものが指し示す本来のところからものすごく小さいところを指し示しちゃっている言葉なんですけど、
この創象宗教とは別に僕たちの世界には民族宗教と呼ばれる、
日本で言うと神道のような、あとはアミニズムとか、
それぞれの民族が持ってる民族宗教みたいな感じで誰が唱えたわけでもない、
なんとなく我々みんなが持っている考え方の体系っていうか観念の体系みたいなものがあるんですよね。
宗教っていう単語はこの2つの概念を両方とも指し示しているんだけど、
僕たちが日常的に宗教っていうとどっちかというとこの創象宗教的なもののみを呼んでいて、
ただその宗教という単語の広がりっていうのはこの両方を実は指し示しているんだけれども、
じゃあこの考え方で宗教というのを見ていった時にどうなるかっていうと、
僕たちがこの世界っていうものをどういうふうに見ているのかっていうのを根拠付けているものとしての宗教っていうのがあると思うんですよね。
僕たちは一般的にはそれを前提的に受け入れていて批判しないっていうか、世界はそのようなものだと思っている。
誰かにすごく教えるっていうことをするわけでもないのに、なんとなく世代を通してその考え方っていうのは繋がっていくっていうような特徴があると思っていて、
文化と本当は我々が呼びたかったものっていうのはこれにすごく近いと思うんですよね。
この世界っていうのはどういうものかっていうのを説明しているものっていうのが僕が文化と呼ばれるべきもので、
おそらくだと考えていて、今日おそらく僕たちが一般的な意味で文化って呼ぶのはそのような世界の見方っていうものをわかりやすく作品にしたもの。
文学作品だったりとか演劇だったりとか映画だったりとか音楽とかポッドキャストもそうだと思うんですけど、そういうものを狭く文化と呼んでるんだと思うんですよね。
いわゆるサブカルチャーと言われるような、今現代カルチャーと呼ばれるものって、
みんなの雑としたイメージだといわゆるエンターテイメントとかアートとかに分類されるような、人が創作したそういう人文的行為みたいなものをカルチャーって呼んでるような気がするんだけども、
僕も本業はそこにしっかり軸足を置いてるんだけど、僕が思うイメージの文化って、今まさに室さんが言ったような宗教も含むし言語も含むしみたいな、
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そういうものをもっとより広く取っているんですよね。だから、それはある意味宗教的でもあるし、ナショナリズム的でもあるしみたいなところで、
そういうレイヤーで文化をもう一回語ってみたいというか、もうちょっと解像度を高くすることによって、
今言われてるカルチャーって言われてるものを一回引き剥がして、もう一回文化っていう枠に輪郭を与えれるかなと思ったんだけど、
前提はそういう感じで話したいなっていう。
なるほどですね、わかりました。僕も全くメチクロさんと立場が同じだと思うんですけど、
多分今日文化と呼ばれているものがなぜ小さくなっちゃったかみたいなのにも多分理由があって、
フランス革命が起きて、フランス人っていうのが文明というかシビライゼーションっていうのをすごく前面に押し出したんだ。
人類の歴史っていうのはいずれ文明に行き着くんだ、シビライゼーションに行き着くんだっていうのを打ち出した時に、
やっぱそれに対して本当にそうなのかと思ったのがドイツ人なんですよね。
つまりこれほっといたら我々全員がフランス人、フランス人というか近代人ですね、近代人になってしまうのではないかということを考えたわけで、
その時にドイツ人たちが何をさまかしたかっていうのがカルチャーなんですよね。
だからグリム兄弟がグリムドアを探したりとかしたんですよ。
文明というものに一層されてしまわない我々の民族というものが持つ文化というものを探そうと思ってグリムドアを探したわけですよね。
その仕事は日本では柳田邦夫がやっているわけで、だから僕は柳田邦夫っていうのが日本人を作った人だと思ってるんですけど、
それは日本人っていうのは何かっていうのは彼を探して、その日本人の文化っていうものを生み出していったんだと。
なので、ただ日本に入ってきたのはこの文明という概念と文化という概念が同時に入ってきたので、
なんとなくこの文化と文明の違いみたいなのがあんまり我々の中ではちょっとごちゃっとしたところがあって。
文明と文化ね。
だから文化住宅とか文化傍聴とか、そういう先進的なイメージをつけたいものになんとなく文化っていうものをつけちゃうっていうような、
ちょっとそういうところが日本の文化という言葉には混じっちゃってるんですけど。
今でいうデザインに近いかもね。デザイン家電とかデザイナーズマンションみたいな。そういう雰囲気だね。
多分そうだと思います。近代的なものとしてのイメージとしての文化みたいな、先進的なものとしてのイメージとしての文化みたいなのが、
ちょっと日本語の文化という言葉にはくっついちゃってるから、だからカルチャーを牽引するみたいなことになっちゃうんだと思うんですよね。
でもカルチャーって多分牽引されるものではなくて、我々の営みの中に存在するものだから、なんだろうなとは僕は思ってるっていう感じなんですよね。
24:07
じゃあさっきのグリム童話とか柳田邦夫が示したその文化みたいなものっていうのは、
いわゆるフランスを中心とする近代文明みたいなものに対するカウンター的な意味が、
当初はあったのだと思います。
それは柳田邦夫もしっかり、ドイツの方もしっかりで、かなりそこを意識されてたっていう記述というかはあるんですか。
カウンターであるっていうことが明らかであるみたいな。
カウンターというのが、具体的にこういう記述がありますっていうのは僕はちょっと今とっさには出てこないんだけれども、
そのような分析はよくされている。
面白いな。
なんていうかな、民族ということが大問題になってくるんですよ。
そうですよね。
その近代っていうのって、本質的にはコスモポリタンなんですよ。
なんていうかな、何人であるっていうことが大事じゃないんですよね。
まさに。
人間というのは人間であるだけで権利を持つ主体であるから、
じゃあこの人間のカテゴリーっていうのがどういうふうに必要なのかって言ったらそうじゃないんだけれども、
ただ現実的な問題として帝国主義っていうのが民族によって国を統治するっていう考え方が出てきちゃってるので、
じゃあそうすると民族とは何かっていう話が出て、
そうすると文化を共有する者たちであるっていう考えがあり、
じゃあ我々の文化とは何かっていう話になっていく。
面白いな、さっき僕が自分は文化は国家よりも上のレイヤーにあるものでいくと、
今ちょっと国家っていうところに線を引いて話したいんだけども、
いわゆる民族とか含めた国境とか民族とか含めたいわゆる国民国家の成り立ちって、
いわゆる第一次大戦あたりとか明治あたりとかも含めた、
僕らの実感的には近代というか200年くらい前くらいを示すんですかね、
にいわゆる世界中がある程度国っていうものによって国民っていうものが存在する、
そこは多くは民族によって定義されていて、国境というものによって境があるみたくできたところが今当たり前とされてインストールされてるけれども、
その混乱期にあったその頃っていうのは、それ自体がありかなしかっていうことが起きていて、
その時に表に出てきたのが文化っていうものだったっていう感覚で、とりあえずは今のところ線引いていいのかな。
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そうだと思います。
ちょうど僕が文化っていうものを考えたときに、もう一個文化についてすごく感銘を受けたエピソードがあって、
2017年に文化庁のメディア芸術祭とドミューンっていうウェブメディアが一緒にやった番組があって、
そこで当時の文化庁長官だった青柳さんが出演して、いろいろアーティストとトークセッションをするコーナーがあったんだけど、
そこの一節で、あるアーティストが青柳長官に、そもそも文化庁って僕たちに何をしてくれるんですかっていう問いかけをしたときに、
青柳長官が具体的な解を示さず、一個、一エピソードを引用したことがあって、それが僕にすごく刺さったんですよね。
そのエピソードっていうのが、アフガニスタン紛争があって、タリバンがアフガニスタンの地をごちゃごちゃにした後、
一回沈静化して国連軍が入ることができるようになったときに、もうめちゃくちゃになっちゃったカブールの国立博物館にある垂れ幕がかかってたんだと。
で、そこに書いてあった一文っていうのは、
A nation stays alive, when it is, culture stays alive.
もうボロボロになってカブールの国立博物館に書かれてた。
で、その一節を青柳長官はアーティストに対して返したんですね。
で、そこで僕が、ちょっと僕の思っている文化っていうのが一個輪郭を帯びてあるんですけど、
その英文の意味っていうのは、要するに文化が生きている限り国は生きているみたいな意味だと思うんですけども、
ってことは、国家っていうものは国境線でもなく、人民がそこに住んでるっていうその状態でもなく、
文化っていうものがあれば、それは国家なんだっていう人たちが中東の地にいるっていう事実が、
やはり西洋的なというか、日本に住んでる僕の国家感とちょっと違って、
むしろ僕の感覚に近かったので楽になったっていうエピソードがあって、
そこもいわゆる国家と文化っていうものの関係性を一個示しているなと思ったんだけど、
そこで僕は感銘を受けつつも、
いやでもやっぱり文化の方がもうちょっと広い意味を持ってるなっていうのも同時に感じたんですよね。
ここまでの僕のお話って室さんにはどう聞こえますか?
二つあって、一つは柳田やグリム兄弟、当時のドイツ知識人たちの大きな間違いっていうのは、
ドイツ人というものを探してドイツ文化を探し、
日本人というものを探し日本文化を見たところに間違いがあるんですよね。
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そうすると見えてきたものが日本人に見えてくる、ドイツ人に見えてくる、逆なんですよね。
そこにドイツ人を見出したからそれがドイツ人のように見えるのであって、
でも文化っていうのはもう少し広くて、
あまり本質的には民族とかいうものとあんまり関係がないんですよね。
ちょっと僕も正確には知らないんですけど、
ハンガリーあたりにいつの時代かな、結構その昔の時代、文明がまだ生まれる、
登場する前の時代の文化っていうのがあって、
DNA検査をしてみたら、ハプログループっていう、
どの遺伝集団から登場した人かっていうのを分析することができるんですけど、
そこら辺に住んでいた、でっかい公益都市があったらしいんですけど、
でっかい公益都市に住んでいる人々っていうのが、
ハプログループ的にはめちゃくちゃ多様だったってことがわかるんですよね。
ただその人たちっていうのは身体改造っていう、体を改造していて、
頭に紐を巻きつけて頭蓋骨をちょっと伸ばしてたっぽいんですよ。
そうすると生物学的なっていうか、遺伝的な民族みたいなのっていうより、
我々がどのような行為をするか文化を持つかっていうことの方が、
すごく我々というものの集まりっていうものを実は表現しているのであって、
で、これがたまたま近代だったから国民国家と接合したのであって、
別のあり方っていうのは全然ある。
一つの文化というのは国を持たないことだってあり得るんだけれども、
ただ、今日我々が持っているイメージっていうのは、
一つの国家というのは一つの民族っていう大前提というか、近代に生まれた、
これも勝手に決めたことだから現実は全然違うんだけれども、
っていうのに乗っているから一つの文化が一つの国家を持っているっていうようなことがあるっていうのが一つと、
あともう一つ思ったのは、文化人類学と呼ばれている分野の中に大きく2種類あって、
一つは文化人類学、もう一つは社会人類学。
社会人類学はイギリスの人たちっていうのが始めた学問なんですけど、
アメリカの人たちは文化人類学っていうような名称で似たようなことを始めたんですよね。
このアメリカの文化人類学っていうのを牽引したのはドイツ系の人たちで、
だから文化というものに着目したんですよね、社会じゃなくて。
この人たちが主張したのは文化というのには優劣がないっていう、
文明というフランス革命で出てきたような考え方っていうのを考えると、
人間っていうのが野蛮な状態から未開な状態になり文明に至るんだっていう、
33:00
人間の営みっていうのは発達していくっていう考え方があったんだけれども、
このドイツ系の人類学者たちっていうのはいやいやそうじゃないんだと、
この野蛮な人とか未開な人とかがいるわけじゃなくて、
我々はみんな文化を持っていると。
この文化っていうのは環境に適応するための我々の技術なのであって、
それに優劣はないと。
そこにある環境に最も適応した文化であるという意味で、
相対的なものに過ぎないんだよっていう、これを文化相対主義って言うんですけど、
これが出てきたんですよね。
環境なんですね。環境に適応したっていう。
当時は考えたんですけど、僕も原則的にはそれを支持してます。
それはその通りだなと思っていて、だからさっきのカブールの話っていうのは、
確かにその通りで、文化がなければ国家はない。
それはゲームルールで始めちゃってるから。
なるほどね、スタートのね。
ただやっぱりあそこで書くべきだったのは、文化というものを奪うことはできないということだったと思うんですよね。
多分主張の意味はそれだったのかなとは思いますよね。
国っていうのが滅んだって、我々が文化というものさえ持っていれば、
そんなものはいくらでも作り直すことができるんだと。
ただ文化というものを失ってしまえば、もう二度と何も作り出すことができないっていう話だったと思うんですよね。
で、この文化というものは優劣があるわけじゃないので、
じゃあ例えばアメリカ人が来る、国連軍が来るって言って、
じゃあそれを従えばいいのかっていうのはそうではない。
我々の日々の営みの中にそれがあるのだと、
我々が作り出してきた芸術品や博物館に陳列されるような物事の中にそれがあるのだっていうような話なんだと思っていて、
まさにその通りだなと思うって感じですね。
で、そこに選ばれなかったものや、いわゆる状態として固定されたもの以外でも文化というものがあって、
そこも全部含むよっていうぐらい広くとるべきっていうのが僕の感覚ですよね。
その通りだと思います。
で、一方今の国家の話でいくと、今現代のエストニアのように、それこそロシアにすごく近接している国家で、
常に国家っていう形自体が過疎性が高い国家に住んでいるエストニアの方とかって、
それこそ電子政府的なというか、土地っていうものに縛られず、しかも民族っていうものに縛られず、
エストニア国民っていうものでユナイトしようっていうような、
それこそ土地からも離れたエストニアっていう概念を作ろうとしている人たちもいるので、
そこもある意味現代的な意味で文化的な国家だなと思うから、
そこまで広くとりたいなっていう感じなんですよね。
そうだと思います。
例えば土地のない人々の中にユダヤ人がいますけど、
彼らにはトーラー、立法というものがあって、
36:05
それを中心として自分たちの文化っていうものを持ち越していくし、
僕が文化というものを考えるときにすごく大事だなと思うのは、
系譜というか受け継がれていくことなんだと思うんですよね。
なんていうのかな、
現代っていうのはそれをある意味思想的に否定しているというか、
あずまひろきさんはそれをデータベース的だと呼んでるんだけれども、
データベースっていうのは時系列がないんですよね。
時系列に並べることもできるんだけれども、
データベースそのものにはデータがたくさん入って、
それが系統的に並べられているものであって、
つまりデータベースには歴史がないんですよね。
ある一つのデータと別のデータっていうのをフラットに扱うことができる。
そこには系譜がない、受け継がれるものがない。
だから現代というものはそういうものであるべきという考えがあって、
これはそのようになる理由があると思うんですよね。
例えば日本であったら、核不調性が持っている弊害だとか、
年功序列性が持っている弊害だとかっていうのがあるので、
何かを時系列に並べることの弊害が非常に大きいと、
じゃあ時系列に並んでないこのAとBっていうのがフラットにあるっていうことの大切さっていうのは非常にわかるんだけれども、
じゃあ文化というものを考えるときに何が必要かっていうと、
一つの人からまた別の誰か弟子なり子供なりに受け継がれていくことっていうのが非常に大切なんだなと思っていて、
そうすると受け継がれることの本質っていうのは人間と人間との繋がりというか、
人間と人間との営みであって、土地とか地とかそういうものじゃないんだっていう話だと思うんですよね。
なんか今の話で言う僕の定義が、
僕って語彙通りじゃないんですけど風俗と文化って分けてるんですよ、自分の中で。
風俗って僕の解釈で言うと、今。
今の、今ここの営みを僕は風俗って呼んでいて、
文化っていうのは過去と未来をつなぐための今っていうところを大きく分けていて、
それは僕の意思決定においてすごく重要で、
例えば僕はデザイナーとかアートをやってるんですけども、
それで自分の美だったり、これを作りますっていう最後決定するときの、
あとオーダーを受けるときの意思決定の大きな基準は風俗じゃなくて文化に寄与するための選択かどうかを選ぶんですね。
39:01
それって何かって言うと、いわゆる売れるとかバズるとか、今受けるみたいなものっていうのって非常に風俗的な機能として、
求められるんです。で、そこは今をドライブさせたり、過去から未来につなぐためのエネルギーとしてはすごく大事なんですけども、
しかも今のマーケットだけを見ると、でもそれを残す、それを作るっていう意味だけを考えて、
そこだけを考えると風俗的な意味って僕には重要じゃなくて、
じゃあ今のオーダーはそれっていうのは非常に風俗的な意味でよくわかる。
ただし僕がやる以上は文化的でなければいけないから、
過去の先人たちの意思を受け継いで未来に受け渡すためのメッセージが僕の作品には込められてないと、
僕の手を離してリリースするってことはしませんよっていうことを強く決めてるんですね。
そういう意味で風俗と文化って分けてるんですけども、
そういう意味でいくと僕もすごく継承するっていうことに対して文化っていうことに対してすごく意識的に動いてるので、
さっきの東さんの定義っていうのは理解した上で、
僕は基本的に文化っていうものは過去から未来につなぐ今の僕ができることっていう定義をしてるっていう感じですね。
そう、全く、僕一番初めの質問に戻ると、何のために生きているかっていうことを考えたときに、
僕はそれに対してあまり答えを与えていないっていうお返事あったと思うんですけど、
じゃあその何のために生きているかのが分かんない中で、じゃあ何をしようかっていうことを考えているときに、
僕がこれを考えついたのはどれくらいかな、それこそ20か21くらいの時だったと思うんですけど、
何か一つの観念を見つけ出したいと思ったんですよね。
観念というのは受け継がれるから、で受け継がれるに値する、
ちょっとここ2年ぐらい僕がずっと考えてて難しいことなんだけど、
価値という言葉について考えているんですけど、
価値という言い方をしてしまうと、ものすごく資本主義的なものに回収されてしまうので、
そうね、バリルみたいなね、分かる分かる。
そういう意味で価値と言っているわけじゃないんですけど、
受け継がれるに値するもの、人類にとって価値があるものっていうのを僕が何か思いつけば、
それは人類にとって受け継がれるだろうと。
そうするとそれは人類の歴史に貢献したことになるだろうと思ったんですよね。
だから僕が研究者になりたいって思ったのは、究極的にはそれで何か観念を見つけ出したいと。
僕が研究の道っていうのを飛んだ時に思ったのは、
研究者じゃなくても運が良ければ思いつけるだろうと思ったんですよ。
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だからそういった意味で一倉さんと僕ってもしかしたらすごく近しい、
世界に対する構えが近いのかもなって思いました。
だからなんか、いわゆる自然科学的なお作法もそうだし、言語的なお作法もそうなんですけれども、
基本的に人って物事を形にして理解したがるじゃないですか。
形って要するに、形っていうものの惑星を引くことによってその中と外っていうものを決める。
言語っていうものも曖昧な世界の事象っていうものを一個圧縮して形にするっていうことだと思うんですよね。
それによって人は伝達できるようになるし、それこそ継承できるようになるから、
便利なツールとしては形っていうのはすごくいいんだけども、
僕の世界の捉え方って物事が形の集まりでできてるとは思ってなくて、
どっちかっていうと生物学的なというか動的平衡のようなもの。
人体そのものも動的平衡として捉えてるし、
世界の成り立ちそのものも動的平衡的に考えてるので、
物事っていうのは基本的には一個の形として形になってるんじゃなくて、
常に流れていったり入って出ていくものって考えてるので、
そこを時間的に捉えてもいいし、動的平衡的に捉えてもいいんだけども、
そういう感覚なんですね。
だからさっきまるで僕が1アーティストとして風俗と文化を切り分けて文化的なことを決める。
僕が決めて、僕の名前を歴史に残したいかのような聞こえ方をしたかもしれないんだけど、
全くそうじゃなくて、
僕は全体の流れの中に、文化の流れの中にいる、
たまたまいたこのホモサピエンスの形の物体であるぐらいなイメージなので、
ぶっちゃけ僕の行為っていうものが長残ったりとか、
そういうことは全く求めてなくって、
むしろこの流れに対して影響、
僕が思う文化が先に進むっていう流れの方向、
ベクトル付けに僕っていう人間が作用したかどうかぐらい、
かなりざっくり捉えてる。
なんかそんなイメージですね。
全く理解できます。
本当?
だから、例えば、自由という言葉を誰が考えついたのかっていう、
今日的な意味での自由というのを、
誰が提起つけたのかっていうのは一定程度あると思うんですけど、
じゃあ自由という言葉を誰が考えついたのかって言ったら多分わからない。
歴史に残っていないと思うんだけれども、
自由という観念があることで、
我々の世界の味方っていうのは全く違うわけですよね。
自由という言葉がある世界とない世界で考えたら、
45:00
全く違う、別々のものになってしまうっていうふうなことを考えたときに、
僕はそういうことをしたいと思ってるんですよね。
僕の名前とその観念とか結びついている必要はないんだけれども、
その言葉によって後の人々っていうのが豊かになるようなというか、
そのように世界を見れる可能性に開かれたものっていうのになっていくんだと。
そういうことで僕は理解していて、
多分、メチクロさんの作品に対する態度っていうのも、
そこの部分で通底してるんだろうなと思っているっていう感じですね。
そういう意味で、いわゆる自然科学と呼ばれているもの、
人文と呼ばれているものを僕は同じと思うのがまさにそういうところで、
共通するのはそれぞれが人類の認知をアップデートし続ける行為。
それはある意味、サイエンスによって新しい自然っていうものを発見して、
そこで認知がアップデートされることによって、
次の発見に行くっていうものはサイエンスだし、
アートみたいなものも、いわば認知革命みたいなものをアートっていう手法で寄与して、
アートで一番わかりやすい代表的なものでいくと、
ルネッサンスのときにレンズっていうものが実は大きく寄与していて、
ルネッサンスでレンズによって世界が一枚の写像として、
リアルな写実画のようなものが生まれていったんですけど、
そのレンズを通して見る以前の人間っていうのは基本世界をそのように見てなかった。
それによって初めてルネッサンス以降写実画のようなものが生まれて、
人々が世界を今みんなが認知しているかのような絵画や写真のような見え方を初めてした。
それと同時にサイエンスも世界を観察して分析するっていう行為が、
そこで同時に根付いたからそこで同時にサイエンスを爆発したっていう現象が、
ルネッサンス時にすごくわかりやすく起きたんだけど、
それもいわば世界をどう見るのかっていう認知が変わった瞬間の話で、
それってもう本当人文も自然科学も一緒だなって思ってるからこそ、
そういう大きなルネッサンスのような大きい流れがあろうがなかろうが細かいことでもいいから、
細かい認知革命みたいなものに寄与するっていうのが、
僕のざっくりした文化寄与のイメージっていうかね。
そうですね。
それっていうのが確かに大きな発明があると思うんですよ。
社会契約というものの発明とか、
おっしゃったようなレンズの発明みたいな、
全てを根底から変えてしまうような大きい発明もあるんだけれども、
でも人類の営みっていうのはそれだけで構成されていない。
48:04
そこに至るための無数の人々の営意によって支えられているので、
そこになんていうのかな、
だから我々っていうのは基本的に何かをしようがしまえば、
その流れの中に実は存在しているんだけど、
だけどなんていうのかな、そこに存在しているんだという態度を取るか取らないかって結構大きい違いだったなと思っていて、
それはなんていうかな、系譜を受け入れるっていうか、
レビナスというフランスの哲学者がいるんですけど、
彼はいろんな人から教えを受けた大学の教育ももちろん受けてるんですけれども、
彼が人生の中で死と呼んでいるのは一人のラビーだけなんですよ。
レビナスってユダヤ人なんですけど、ラビーってユダヤ教の生殖者なんですよね。
その人はレビナスが若い時にレビナスの家に居候をしていた門無しだったんですよね。
レビナスは彼からユダヤ教の教えを受けたっていうことを教えを受けたんですけど、
そのことをもってレビナスにとっての死っていうのは彼、生涯の上で彼だけになっていくっていうことを。
面白い、何それ。
ここでなぜレビナスがそのラビーを死としたのかっていうことを考えると、
レビナスは多分彼を通して自分より大きいものの存在っていうのを受け入れたんだと思うんですよね。
それは確かに僕も大学に入って三人先生がいたんですけど、
三人先生に教えを受ける中でそれを非常に感じたんですよね。
確かに僕と先生の差っていうのはめちゃくちゃでかいんだけれども、
これは別に人知を超える大きさの違いじゃない。
僕が乗り越えられるかって言ったら別に乗り越えられないんだけど、
優秀な人間だったらきっと乗り越えられるだろうっていう違いなんだけれども、
じゃあ今ここで2000年代の時空の中で僕の目の前にいる先生たちっていうのまで繋いできた
この学問の歴史みたいなものを考えた時に、その大きさっていうのはやっぱり果てしがない。
一人の人間としては到底手の届くことのない大きさ。
自分よりはるかに大きいものに対するイフの念というか、
それを受け入れてその流れの中にまた自分もあるのだという態度みたいなものが
その文化に寄与するということなのかなというのを何となく思うっていう感じですね。
だから巨人の肩に乗るっていう言葉はね、サイエンスの世界でも皆さんおっしゃいますもんね。
だから僕もそういう意識があって、さっきの継承していくもの、イコール文化って言ってるんだけど、
51:02
それは世話になった師匠とか世話になった親とかっていう言葉、
単一の人間ではなくて、そこまで築き上げてきた名もなき何かみたいなものの巨大さみたいなものの価値を僕は感じてる。
だからこそそこの流れに僕も一緒に乗るってことが社会的な生物である僕っていうものを示してるみたいな、そういう感じなんですよね。
そうだと思います。そうするとそこに大きい仕事と小さい仕事はあるんだけれども、やはり優劣ではないというか。
まさにまさにまさに。
小さい仕事がなかったら多分大きい仕事は生み出されなかったっていうような、ジェンガみたいな。
まさにそう。だから僕もそれこそ世界的な〇〇だったりも関わることもあれば、名もなき何かと関わることもあるんだけども、
僕の中ではやっぱり等しいんですよね。それこそギャラの大賞やバズの大賞ってことなんかにおいてはまさにどうでもいいっていうか。
もう一個僕が現代の問題で引っかかるのが、この自己責任とか人権みたいなものと今のお話をくっつけるとややこしくなることがあって、
小さかろうが大きかろうが、社会的に正しかろうが正しくなかろうが、自分でこれを意思決定したっていうことの崇高さみたいなことを僕は言いたいんだけども、
それを現代の議論において言葉を変えると、自己責任論みたいなものや、自由でいいねあなたはみたいな話に回収されることがあって、そこの戸惑いがある。
だからやっぱり世界の認知の仕方のギャップによって、今のこの概念の使い方ってすごく気をつけなきゃいけないシチュエーションがすごくあるんだけど、
今、むろさんと話してる議論においては全くブレてない気がするから安心するんだけど、
まろさんってそういうギャップに苦しんでるシチュエーションをこまごま見かけるんだけども、同じような悩みって持ってたりします?
悩んでるというか、ちょっと恥ずかしいんですけど、怒ってはいますね。
最近単語もそれを使うようになってきてるね。しっくりくるのがその単語なんだ、怒りなんだ。
怒りですね、だって悩んでないから。
そっかそっかそっか。
なんていうかな、その怒りの結果としての小さいものとしての悩みっていうのはありますよ。
54:01
儲かってないとか、僕このまま死ぬんじゃなかろうかみたいな、儲からずに死ぬんじゃなかろうかみたいなのはあるんだけど、
それって僕の中ではサジというか、私ごとじゃないですか。
でも、なんていうかな、刑婦とか文化の中に自分が態度を示すことっていうのは、社会的な行為というか、公のことなので、
なんていうかな、公のことがあるのに対して僕が食えないみたいな、私ごとでどうするみたいなのは、やっぱちょっとどうかなって僕は思ってて、
で、他方、私ということが非常に大きい人がいて、それは別に現在の日本社会で別に責められるべきことではないと僕は思ってるんだけれども、
じゃあそういう人に、なぜそのように私ごとを扱うのかっていうことを言われた時に、やっぱ僕が思うのは、
あなたは近代を十分に理解していないってことなんですよね。
フランス革命から戻ってやり直してくださいっていう気持ちなんですよね。
もしあなたが僕に助けてほしいなら、僕はそれを助けるけれども、
あなたの言ってることは、フランス革命の17世紀から考えたらおかしいっていうのが僕の考えなんですよ。
だから怒ってるんですよね。
僕はフランス革命の時に作られた様々な諸観念っていうのを支持していて、
その支持した結果これを言っているっていう。
あなたはどういった何を支持して結果それを言っているのかって思うんですよね。
僕から見ると、それはあなたの私ごとからしか支持されていないんだけれども、
別に私ごとから支持されていること自体に関しては問題ないんだけれども、
じゃああなたはあなたの私ごとっていうのを担保するこの社会全体をどう考えているのか、
その社会で生かされているっていうことをどう考えているのかってなって、
じゃあ今の社会っていうのがどうなっているのかっていうことを一緒に考えませんかっていうふうに思うっていうことですよね。
それが僕のさっきの自己責任論につながるんですけど、
あなたのそのアプローチが社会的行為なんですかどうなんですかってことが握手を握れてないと、
それはそれこそひろゆきさんじゃないですけど、あなたの感想ですよねのように僕の発言が相手に聞こえてしまったりとか、
さっきの公と私の切り分けも僕もすごくわかる。
よく社会で生活していて、僕は怒りはしないんだけど衝突だなと思うときってまさにそういう、
社会をどのように認知していて、その社会の立場の僕とあなたっていうのの、
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先引きって言い方変だな、そこの握手が握れてない状態で社会的行為をさせられたときみたいなときに衝突が起きてるなと思うんですね。
僕は怒れないんだけども同じような違和感みたいなものはやっぱり同様に抱えていて、
僕はどっちかっていうと優しく怪獣するようにして、最初冒頭の話じゃないんですけど、
できるだけ手のひらで転がす方に人を誘導して煙巻いていって自分の社会性の方に近づけようとすることをやるんですけど、
でも納得は一切してないっていうのはやっぱ常。
なのでお話をもう一回ちょっととっちらかしたんで戻すと、
なんで僕が25の時に文化に準拠するって決めたら楽になったかっていうと、
先の僕の言い方でいくと風俗的に起きる様々な衝突や圧力や、
それこそ破産をするとか人と別れるとかでも何でもいいんですけども風俗上起きる問題っていうのは、
文化的な価値っていうものを上に置いてる僕にとってみたら、
今日起きたことでしかないっていう風に捉えられるようになったっていうことなんですよね。
確かにそれはその通りだな。
なんかある意味宗教的というか、
僕がその概念を持ってからアウトプットとしては人に優しくなれるとか、
自分の悩みっていうものの向き合い方っていうか、
社会と自分っていうものの捉え方っていう、それこそ認知革命がそれによって起きたっていう感じなんですよ。
その通りですね。ちょっと教えていただきました。
そういうつもりじゃなかったんだけど。
なんか捉え方?
それこそ、さまつな話題って言ったら起こる人いるかもしれないんだけど、
SNSで日替わりで起きてるような、いろんな話題って起きてるじゃないですか。
要はままならない社会のイシューみたいなものをいろんな意見皆さんに言ってるんですけども、
そういう問題を捉えてるときも基本的には僕はさっきのルールで見てるんですよね。
なるほどな。
みたいなことをやってるって感じですね。
なるほどな。えらいな。
えらいっていうか、考え方一つ、さっきの自分の概念っていうか、
基本的な自分の考え方の基準を置くことによっていろんなものがそう見えたから、
僕の知識が拙かろうが、僕のスキルが拙かろうが、
1:00:01
基本的にはそのOSをベースにして動けば、僕的に納得いく今日を過ごすことができるっていうか。
なるほどな。わかりました。
わかりました。
おっしゃる通りで、ちょっと全然違う話なんですけど、
中国の歴史ドラマで、三国志をモチーフにした歴史ドラマで、
Three Kingdomsっていうドラマがあるんですよ。
僕、全部見れてないんで、日本で見るのちょっと難しいので、
バラバラでしか見てないんですけど、そのドラマの中でよく言われるのが、
漢と俗とは並立せず、王法は変案せずっていう言葉が出るんですよ。
なんかスッと入ってこい。
三国志なので、漢帝国っていうのが滅びて、いろいろな軍輸が滑挙して戦争するっていう話なんですけど、
主人公陣営の劉備玄徳が率いる諸君は、大漢帝国を再興するっていうのを大義に掲げてるので、
その人たちっていうのは、大漢帝国ですね、漢と漢に逆らう人たち、俗は両立はしない。
漢か俗かというのは選ばなければいけない。
王法は変案せずっていうのは、漢帝国が国家を治めるその普遍の法則っていうのは変わることはないっていう、
それによって安定っていうのはもたらされるはずだっていう話をしていて、
僕、結構近代的な諸概念に対して、この態度なんですよね。
だから、僕は結構今の社会っていうのはある程度気に入っていて、不完全だからより良くなっていけばいい。
で、そのより良くなっていくっていうのは、この近代的な諸概念っていうのをベースに、
さらにより良くなっていけばいいっていう理念っていうのは既に打ち出されているので、
その理念に近づいていけばいいっていう立場なんですけど、
そうすると、さっきの全てを自己責任に返してくる人とか、
自己利益を追求しないことに対して文句を言ってくる人っていうのは、
やっぱり近代が指し示している理念みたいなものに相当反してると思うんですよね。
近代っていうのは今の。
今の自由平等博愛ですよね。
自由平等博愛に参加する主体的な理性を持った自我としての人間っていうのを仮定するっていう。
さっきのフランス的っていう言い方でいいですか。
認知科学とか人間の生態学的な研究では、
人間に主体的な意識とか自己自我みたいなのがあるかって相当疑問されてるんですけど。
自由意志の話ね。
分かる分かる。
ただそれがあるとみなしてやろうっていう社会理念にあってるので、
1:03:03
あるとみなそうっていうのは僕の立場なんですよね。
で、それに、
そこの理念っていうのにやっぱ反してる人と僕っていうのは、
僕の中でやっぱ観と俗とは両立せずって感じなんですよね。
そういう考え方なのか。
室さんのOSの何か取っ掛かりが見えた感じがすごいする。
あと、正善説、正悪説とかプライドの話にちょっともうちょっと進めたいんだけど、
良き人であるっていうのは誰もがおそらく否定しない概念だと思うんですけど、
僕が良き人である行動をする理由っていうのは、
おそらく世間の人と違うなって思うんだけど、
僕って、僕自身を信用してないんですよ。
だからある意味なんですけど、これ言うとよく驚かれるんですけど、
僕って人を殺すとか、人を裏切るとか、
そういうあらゆるそういう良くないとされることをしないと思ってないんです。
基本的に僕はそういうことをするし、そういうことをする自由っていうものを持ってる。
後で法で裁いたり、反撃を食らうっていうことによるアクションによる何か社会からの反応はあるだろうけど、
基本的に行動を起こすっていう意思決定をすることにおいては、
そのすべて、戦争をする核ボタンを押す自由すら僕にはあるって思ってるので、
基本僕は自分を信用してないんですね。
だからそこのベースっていうのは、
親から言われたから人を殺しちゃいけませんってことを守るロボットのような判断をする僕じゃなくて、
基本的には不定も働くし、人も殺すし、人も裏切るし、金も盗むっていう欲望みたいなものっていう根源を持ってる僕っていうものがある中で、
今日起きてる日々のジャッジっていうのをギリギリ文化に寄与してるかどうかっていう定義を置くことによって、
ギリギリ僕は良き人であろうとする判断を取れてるっていう、
この危うさっていうものを僕は認知してるから、
決して僕の知識やプライドみたいなことによって起こしてる行為じゃないんですね。
こういう考え方、天室さん的には違和感ある?
いや、それ考え方自体はすごくよく分かりますね。
その通りだなと思ってて。
そうですね、僕もそのベースの人間観自体はメチクロさんと一緒なんですよ。
我々は悪を成し得る存在であるっていう。
だから僕たちの主体的な自己決定っていうのが非常に大切になってくるんだと思うんですけれども、
1:06:02
でも究極的にはそれを動向する道徳みたいなのがない。
道徳を下支えする根源的なものっていうのはないので、
その判断基準っていうのを何かに根拠を求めることができないってなったときに、
その一つ一つの行為っていうのは結果として世界に問われていると思うんですよね。
だから僕は自分という存在が基本的に問いとして世界に現れてると思ってる。
問いとして現れてる、分かる分かる。
そうするとその僕という現れに対して社会の反応があり、
その社会の反応があることによって僕が裁かれたり褒められたりほっとかれたりすると思ってるんですよね。
なので僕はおそらくメチクロさんと似たような行動原理で善悪の判断をしているんだけれども、
基本的にはあんまり自分の判断というものを真を置いておらず、
ただ問いとしてそこに現れるのだという考えで行為をするっていう感じです。
だから究極裁かれたり刺されたりしてもしょうがないかなと思って生きてます。
一番最初の話に戻ると、恋愛っていうものを思春期時代の人並みに体験してなかったムロさんは、
理性じゃないく、いまだに恋愛っていうものに対して、ある意味アニマル的に行ってしまうから、
いろいろ多分ことが起きるんだと思うんですけど、恋愛をする自分っていうのとって、
ある意味安定した自分よりは不安定な自分の方に突入する状態じゃないですか。
そこの話まで戻すと、今の話ってすごくわかりやすいなと思ってて、
結局、思春期の時に現代社会における人並みな恋愛をしたことで、
いくらムロさんにそこの経験をインストールしたところで、
多分ムロさんの行動の原理って、今話した悪である自分みたいなものっていうのを
当たり前に給養してる行動をとる人なんだよって言って。
そう言うとやっぱ頭おかしい人なんですよ。
基本僕もそうなんですよ。
そこをギリギリ、今今日の僕を安定させる判断ができてる唯一のポイントは、
過去から培ってきた文化における美みたいなものが僕にインストールされてるから、
文化的な美っていう判断かどうかっていうことを選んだ時に、
さっき言った不定や悪っていうものと、断罪されないギリギリのチョイスを僕が選べるようになってるみたいな。
1:09:07
今すごい、いくつかのことが僕の中でまとまって、
少し前に美学の研究をしてる、芸術人類学をされている先生が、
平凡とはどういうことか、凡庸であるっていうのはどういうことかっていう話をしていて、
凡庸であるっていうのは社会規範っていうのを内面化しており、それに気づいてないことだ。
気づいてないことなんですね。
今、ちょうど収録の時、都知事選の抗議をやっていて、
その都知事選でいろいろな逸脱行為をやっているんだけれども、
あの逸脱抗議がなぜ平凡なのか、つまり、
というと彼らは社会規範っていうのをめちゃくちゃ内面化しているんだけど、
その内面化した社会規範っていうのから逸脱するっていうことだけで事項を規定している。
だから凡庸なんだっていう話をしていて。
そうなんです。自分の中の社会規範っていうのを問うことでしか、
その非凡にはなれない、凡庸さというのは突破できないなと思っていたんですよね。
さっきのメチクロさんの話っていうのは、一般的に道徳である、
一般的に良い人間であろうとする、自分のことを良い人間だと思うっていうのは、
この社会規範を内面化するっていうことと同じことなんだと。
凡庸になるということであるんだっていう話があって、
メチクロさん、美という言葉遣いをしたんだけれども、
美であるっていうことはどういうことかっていうと、やはり凡庸ではないっていうことだと思うんですよね。
非凡であるっていうことだと思うんですよ。
そうすると、非凡であるためにはどうするかっていうと、
悪である自分っていうのを引き受けるしかないんだと思う。
本当にそう思います。
悪である自分っていうのを引き受けるっていうのは、
だからといって社会的に不法な行為っていうのをいくらでもしろっていう話ではなく、
そのような存在である、それのことを成し得る存在である自分っていうのを、
まず引き受けなければ、社会規範の奴隷となる、
メチクロさんの言葉遣いで言うと、ロボットになってしまうんだよっていう。
その凡庸さこそが最も目も当てられないものなんだよっていう話だなって。
だからわかりやすく美っていうものを置くとさ、
アーティストが求められていることでイメージしやすいと思うから、
より使いやすいと思うんだけど、
アーティストってどの時代でも、
非凡であるっていうことを現象化する役割を求められてるじゃないですか。
だからまさにそういう役割を課せられていて、
わかりやすく言うと、役物をやって捕まるのはアーティストっぽいよねだったりとか、
お金で失敗するの、恋愛で失敗するのはアーティストっぽいよねっていうのが、
わかりやすく非凡であるようなイメージなんだけれども、
僕はそれがアーティストらしいとは思ってないんだけど、
少なくても美っていうものだけで言ったら近いかなと思うんで、
1:12:02
やっぱり美っていうのは非凡であるっていうことは、
まさに本当に言葉通りだと思ってて、
ただ非凡っていう単語をこうやって使うと、
非凡であるからオンリーワンでかっこよくてイケてて、
上でバズるみたいなタレントみたいなイメージすると思うんだけど、
そんな大層なものじゃなくて、
ダセーことしたくねえんだよっていうような言い方でもいいと思うんだけども、
ダセーことしたくねえんだよっていうジャッジをしてる限りは、
いわゆる僕の悪っていうものは社会的に義理、
折り合える文化の系譜の中にいる自分っていうものの表明になるかなっていう程度のことでしかない。
今日のお金の使い方、程度でもそうだし、
今日何食べるでもそうだし、
作品作りにおいてもそうだしっていう、
本当単純に同じような定義を置いてるだけだよっていう意識なんですよね。
まさにそうで、しかも僕の理解では、
近代の理念ってまさにそれだと思うんですよ。
我々が人権を持った個別の主体であるっていうのはそういうことだと思うんですよね。
本当そう。
ただ、それを要求すると
ハレーション起きるなってことを日々感じてるって感じ。
そうか。
だから僕は近代を理解してくれって思ってる。
そうなんだよね。
だからあなたが、あなたの能力が低いとか才能がないとか、
特別な技能がないとか言ってるのではなく、
あなたは自分があなたであることっていうのを
あまり理解していないよねっていう話ですよ。
でも一番残酷な言葉らしく、本当にそれを言うと、
僕は違う言葉でよく言うんだけど、
世の中のお悩み相談とか、ネットで溢れてるそういうものって、
僕からすると、小学校の3年生までに履修できることにしか過ぎないように見えるんですよね。
だからその悩みを本気で解決したかったら、
本当に小学校3年生ぐらいの時に経験できることを、
もう一回履修するとクリアできるよみたいに、僕は思っちゃうんですよ。
だからそれに近いように感じた。
近代を学習しろっていうのと、
小学校3年生ぐらいのことまでに学べることで、
それってクリアできるよっていうのと同じような言葉に感じちゃうのかなと思うんだけど。
でもこういう言い方すると大抵はトラブルになりますよね。
ありますね。
だからきっと僕らは、このこれを今現代においては悪の言葉になっちゃうから、
それをギリギリさっき言ったような美、
非凡であるかどうかも含めた美っていう定義を当てて、
そこの感覚を伝える言葉選びを日々してるのかなと思っていて、
だから言葉で発せることや表情っていうのは、
1:15:03
逆のアクションを僕は取ったりするのかなって思ってる。
なるほど。
モノさんは僕よりは正面からそこに向き合ってる人にもたまに。
社会経験が少ないからかな。
厳しい局面に立たされてないからだと思います。
松岡外相堂々退場するみたいな人生なんで。
でもちょっと破滅願望みたいのはあったりするのかな。
ちょっと気づいてるけどアプローチでアウトプットそういうことしちゃう時って、
オチは見えていてやってるようなものなのか、
毎回ピュアにぶつけてみたらオチが変だなって感じるのか、
もしくは今言葉で言ってるだけでそんなことは言ってないのかだとどれなんですか。
ダメだなって思ってます。
自分に?
これを言ったら僕はパージされるだろうなと思っているんですけど、
それが相互理解につながる可能性を常に信じてます。
めっちゃわかる。
だから僕で言う文化OSと風俗OSの話で、
風俗的な自分っていうのはそこに対してパージされないような言葉選びをするけれども、
それをなぜできるかっていうと文化的なものっていうのを信じてるからっていうのが近いかもしれないですね。
だからやっぱりそこでパージされないような立ち回りっていうのは、
僕の中ではやっぱり私事なんですよね。
そうなんだ。
でもそこでそれを言うっていうのは公のことなので、
私のために公を犠牲にするっていうのは良くないなと思って、
それができないときには辛い気持ちになりますね。
私のために公を犠牲にしたという気持ちになります。
ちなみに今室さんはさ、この数年で結構ライフスタイルや社会的立ち位置変わってるじゃん。
実感的には自分がイメージした通りになってる?
それともイメージよりも遅れてたりうまくいかなくなってる?
それともうまくいってる?
思いも寄らなかったことになってますね。
そうなんだ。
それは思いも寄らないっていうことは、思いを持ってイメージして何か行動してたってことなの?
イメージは元々あんまり持ってないんだけど、
大体こんな感じかなみたいなのがあったわけですよね。
全くなってないから、それもかなり広い年次でこういうパターンとこういうパターンがあるなみたいなことを考えてたのに、
1:18:00
全く考えてなかったようになってて。
こんな東中野でメチクロさんと収録してるなんて、1年前には思いも寄らなかったし、
2年前なんか全く思いも寄らなかったですよね。
それを5年前になってみたら無相談にしないことですよ。
コロンビア時代ってこと?
コロンビアにこのまま外務省に入るかなって思ってたから。
振り返ると今の状態って、自分らしい方に来てるなっていう実感はあります?
それとも思いも寄らないって意味はイコール自分らしくない方まで行っちゃってるような気がします?
僕の心の在り方と社会というのが比較的座りがいい状態になってるって感じですかね。
5年前の当時と今を比べると。
そうですね。
やっぱり多分外務省に入れてもらえるか分かんないですけど、
相当私のために公を犠牲にしてるっていう気持ちで働いたと思うんですよね。
そのような自分っていうのを受け入れなければいけないって悪い人間としてこの後生きていくんだっていう気持ちで生きていったと思うんですよ。
今は別にそういう感じでもない。
思ったこと言ってるし、思ったこと言って殴り返されたりとかしてて、殴り返されたなーみたいな感じで生きてるから、
それで報酬もらえたりとかもしてるんで、すごく嬉しい状態だなとは思うんですけど、あんまサッセナブルではないですけど。
室野さんって自分の能力だったり自分のやりたいことを、自分から生まれる動機みたいなものを実現したいみたいな気持ちって人並みに持ってる人ではあるんですかね?
それとももっともっと違う捉え方してます?自分の人生みたいに。
あんまり自己実現みたいなのないんですよね。こうなりたいみたいなのなくて、
これをしたいとかこれを成し遂げたいとかもないから、
たぶん一人で仕事やっちゃダメな人なんだと思うんですよね。ないから何もやらなくなっちゃう。
だから僕もそっちの人間で、こっちの人間の特性としていいところって、
いわゆる自己実現欲がないからこそ、自己実現に関する闇とか悩みっていうものから解放されてるじゃないですか。
てことはさっきの僕のルールなんですけど、僕が生きた理由みたいなものっていうのを照らし合わせると、
1:21:01
こういう人間ほどやっぱり人と繋がったり社会と織り合うことによってのみでしか自分が生きた証って残せないタイプなのかなと思うんですよね。
例えばすごくセリフィッシュな愛、セリフィッシュな動機だけで、例えば子孫を残して死ぬっていうことも人は選んでいいじゃないですか。
僕らってたぶんそういうタイプじゃないから、セリフィッシュな欲求っていうものが行動原理にあんまりないタイプだとすると、
だからやっぱり社会とも付き合っていかなければいけない。
てことはやっぱり何かしら、社会と付き合って生きるための何か能力だったり、さっきの価値の話ですよね。
自分が社会的生物として生きて死ぬために、やっぱり等価交換するための価値みたいなものっていうのは、やっぱり何か持たなきゃいけないのかなって僕は思ってるんだけど、
ムノさんもそれはある?
ありますね。僕自身にあんまり価値がないから、ちょっと申し訳ないんだけど、売れるものだったら全然売るっていう感じだし、
だからその辺はすごく僕の能力みたいなものだったら、結構基本的に何にでも売るみたいな感じはあるんですよね。
でも仕事ってそれ以上のコミットメントを求められるっていうか、心を求められるじゃないですか。
心ね、心か。
能力は売るけど、心を求めるんだったらそれ相応の心を要求しますよ、僕もみたいな。
なるほど、その時にさっきみたいな近代からみたいなものがバッタバキ上がるみたいな。
そうそうそうそう、って僕は思ってて。
なんて言うかな、僕はこれまでの経験でやっぱ耐えがたいって思ったのは、
その人が僕に嘘つくのならいいけど、その人がその人に嘘ついてた場合、
僕は何にコミットしたらいいんだって思うから。
わかるなあ。
それは自分のルールではそういうことはしないってことですよね?
僕はなるべく人にそれをしないように気をつけてて、
してるなって気づいた時には謝るようにしています。
その話題に関しては僕もルールがはっきりあって、
僕、人に嘘はいくらでもつくつもりなんですよ。
人には嘘つくけれども、自分には嘘つかないっていうルールを決めていて、
それがさっきのような原理主義みたいなOSにすごく相性がいいからそうやってるんですけど、
僕って信頼ってそういうものでしか生まれないなと思ってるというか、
ぶっちゃけアートとかやってると基本、嘘をついて社会と契約してるんですよ。
1:24:06
例えばデザインの発注きました、絵を描いてください、物を作ってくださいって、
発注の段階でそれが納品して相手の望みどおりの物が作れるなんて絶対約束できないんですよ。
でも僕は受けてるってことはやっぱ嘘をついてるんですね。
狼少年で終わらないようになんとか形をこしらえて、
あの契約は嘘じゃないようにし続けてるだけなので、
基本僕は社会とは嘘をつき続けて契約してる。
その代わりそれを受けたっていう責任を自分に負うためには自分に嘘をつかない。
イコールさっき言ったように文化に寄与できてるのかっていう
ジャッジを自分でしましたって言えるかどうかだけは
信用してくれって思ってる部分があるので、
さっきの室さんの信頼の話って僕はそういうふうに捉えてる。
そうですね。だから僕としてはどっちでもいいんです。
社会的に栄達したい、自己実現したい。
もしくは社会の中で良い価値を出したい。
これが一致してる場合もあると思うんです。
どっちでもいいんです。
でもそれが一致しておらず、
僕に対しては社会的価値っていうのを出すのにコミットしてほしいって言われて、
でも本当は自己の栄達っていうのを求めてた場合、
なんていうかな、コミットしようがないので。
分かる。
そうだよね。
それって事例としては室野さんの経験の中ではすごく多いな。
そこのギャップがあったっていうことが。
一致することの方が少ない。
いや、僕にあんまり思考回数がないから。
なるほど。
巨大組織にいる場合、役所みたいな。
それが一致することがないので、
それはそれとして受け入れられるんですよね。
とはいえ市民のために、とはいえ国民のために働かなきゃいけないからっていうのがあるから、
それはいくら理不尽でも、
いくら自分の1校へとか2校へとか3校への人が原稿不一致でも、
全然問題ないんですよね。
それは大きい方向性っていうのはありますからねっていう。
1日12時間働かされるとか、
100日連続働かされるとか、
全然コミットできるんだけど。
分かる。
国家不一致になってるとやりづらいなって思う。
そうなるともう言うしかないじゃないですか。
そうだね。
近代性に対してあなたが何を考えているのかっていうのを問い詰めるしかないから。
でもそんなこと問い詰められたくないわけじゃないですか。
メチクロさんおっしゃったように。
そんな僕もやりたくないし、僕もやりたくないみたいなことを
本当に僕ってやるっていう気持ちにはなるんですけど、
そうするとやっぱり心の話は置いといて、
じゃあ技能これぐらいで買いますみたいな話だったら
1:27:03
全然いくらでも受けますみたいな感じですよね。
でもさ、今言った心の部分もつながった仕事だったり
日々の時間が多い方が室さんは多分求めてるよね。
面白いっすね。そっちの方が。
今日も多分個人としての室さんなのか、
詩人としての室さんなのかって
多分曖昧な形で僕と話をしてると思うんだけど、
多分室さんってこういう時間がより多いほど
社会的な価値っていうものを生み出せる人な気がすごくするんですよ。
わかんない。ありがとうございます。
だから、前ほらセクシーだって言ったのもその部分なんだけど、
より詩的な室さんっていうもので社会と長い時間を過ごした方が
おそらく社会的に何か、僕の言い方でいくと
文化企業できるような結果を残せるような気がしていて。
もうちょっとわかりやすい例でいくと、
例えば性愛みたいなものってすごく詩的なものだけど、
あれってルールすごいわかりやすくて、
結婚してます、付き合ってますみたいな形式上の契約があったところで、
今日、僕とこの時間を過ごすっていうことを
あなたが選択したって、ちゃんと責任を取ってくれないと
喧嘩すらできませんよって話じゃないですか。
それがさっき言った室さんのどうコミットしたらいいのかの話とイコールで、
例えば、恋愛関係における2人が喧嘩しましたっていう時の喧嘩って
本来そうあるべきじゃないですか。
なんだけど、結婚っていう契約を裏切ったとか、
今日ここにいるはずだったっていう約束を破ったみたいなものの
千和喧嘩って本当おちがつかないじゃないですか。
よりも、今日この場で一緒にいるっていうことを
あなたも望んで一緒にいるっていう前提がありさえすれば、
どんなトラブルでも何かコミットして話し合いをして、
何らかの解決を見出せるんだけども、
それっていうものが形式上になっちゃってたりすると、
どんな大事でもどんな小事でも絶対おちがつけられるコミットができないっていう意味でいくと、
すごく私的なこういうものって、僕はすごくやりやすいんです。
でも社会みたいな、さっき言った価値を売りまっせだけの契約だと、
そういう心って言われるものがいらないから、ある意味それもやりやすいんだけども、
そこを完全に切り分けるのが、やりやすい人とやりにくい人がいると思うんですよ。
多分僕はそうなんだけど、室さんもそんな気がしていて、
おそらくそこが混ざってる方が、より室さんらしいポテンシャルが出るような気がしてるんだけど、
それって望んでますかね。
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それを案外望んでるかもしれないって、ここ数ヶ月で覚えようになりました。
っていうのは、なんていうのかな。
僕が自分の欲望として、天下取ってみてと思ったんですよね。
何かわからないけど天下みたいな。
僕ってそういうこと思うんだって思ったんですよ。
言ってみた後に。
天下取るっていうのは、偉くなりたいとか誰かを支配したいじゃなくて、
やっぱ何か人間の観念に対して何かしてみたいっていうことなんですけど、
パラダイムみたいなものを作るのに寄与したいなっていうのがあって、
じゃあ僕がそれを何ていうのかな、主導してやりたいのかみたいなのは結構また別の話で、
じゃあ僕がやるのかっていうと全然やりたいと思えないなと思うんだけれども、
天下取れそうな話っていうのに参画するのは案外好きかもしれないって思ったんですよね。
まさに僕が見た室さんの能力ってそこだなって思うっていうか、
おそらくリーダーシップを取って名を残す誰かが室越龍之介であるイメージは全くないんだけども、
そういう人が日々一番長い時間過ごすのが室さんのような人であるイメージなんですね。
だから室さんとおそらくソリューションを期待されるようなオファーって向かなくって、
フィロソフィーを練り上げるような役割として同行する人みたいなオファーの方が絶対合うはずで、
だからそういう出会いがより多くなるような方向づけっていうか、
されればされるほど僕の見たい室さんになる気がすごいしていて、
ありがとうございます。
わかんない。
わがことは何もわかんないですね。
ただの役立たずに見るけど。
そっちに誘われるような誘導をおそらく今室さんの周りにいる人たち僕も含めて、
みんなでそっちにこう室さんの流れを持っていこうとしているような感じがすごいするんだよね。
それはね、すごい感じる。
メチクロさんもそうですし、
みなさん僕のことを引き立てていただいて本当に恐縮だなって思って毎日生きてます。
この前も確認したけど、みんなソリューションが明確に見えて協力しようとしなくて、
やっぱりこうでっかい守護のところで後を自信を持つ。
室さんのことを。
今日困ってる1000円渡すぐらいだったらできるんだけども、
向こう5年食いっパグれない何千万の暗記みたいな話っていうのはなかなか思い浮かばないもんじゃないですか。
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だからやっぱり室さんってソリューションで解決できるタイプじゃなくて、
なんかフィロソフィーのところをはめると室さんってガチッとはまるんだろうなっていうイメージは多分みんな持ってると思うんだよね。
ありがとうございます。
誰かの役に立てればいいんですけどね。
本当に今日オチをつけずに話してきたからさ、文化のお話のオチじゃなくなるんだけど。
今日大冗談に文化とかでかい守護で話しようって言ったものの、そもそもの発端は室さんと関わり続ける理由づくりをしたいだけなので。
ありがとうございます。恥ずかしい。よろしくです。
だからなんかこんな感じでちょっと、今回ちょっと文化っていうかなり聞きづらい。
聞いてる人にとって見たら何やってんだこいつはっていう話をしちゃってるんだけど、
こういうお話をちょっとすることによって、なんか室さんのエネルギーみたいなものの輪郭が、
室さん自身がなんか気づくような体験になったら嬉しいなと思って。
ありがとうございます。
そういうのに俺は器用できてるから、今日の話だけでね。
俺だけが空回りしてる気がすごいしてきたんだけど。
いやいや、そんなことです。そんなことです。
なんか、ソッカーって思いました。
ソッカーって思ったのは、
メチクロさんに愛されてて嬉しいなってやつですけど。
ありがとうございます。なんかね、最近気づいたんですけど、
最近気づいたっていうか、これね、どこで聞いたかちょっと忘れちゃったんですけど、
九州人の誰かが上京するってなった時に、先に上京した九州人の先輩から、
お前だよって。東京では謙遜したらいかんぞと。
自分が何ができるか、自分がどれだけすごいかっていう話はせんたあかんぞって言われたらしくて、
確かに東京に行ったらそうだったっていう話を誰かがされていて、
これをポッドキャスで聞いたのか対面で聞いたのかちょっと覚えてないんですけど、
僕は東京に出てきて2ヶ月、それをめちゃくちゃ感じてるんですよね。
九州の文法で言うと、誰かに褒められた時に、ありがとうございますとか言うと、
ちょっと何ていうかな、言いづかっていうか、ちこほの言い方なんですけど、
にやがっちゃおってものですよね。にやがってるって、のぼせあがってるってことですよね。
調子のんなと。
で、くらされるっていう、ボコボコにされると。
お前にやがっちゃおぞ、くらすぞって言われるわけですよね。
なので誰かを褒められた時は下から行かないといけないし、
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自己紹介の時も下から行って、下から行った人を下に置かないみたいなのが作法としてあるんだけど、
東京違うなと思って、この間ジャーナリストの津田大輔さんのポリタスTVで話させていただいたんですけど、
その時もボコ持ち上げるような発言されたので、そんなことないんですよって言ったら、
すっごい気まずい雰囲気になったんですよね。
そっか。
だからちょっと今僕難しくて。
ちなみに九州のルールだと、自分の望んだ未来を手にしたい時ってどういうアプローチで行くものなの?
褒められたら謙遜しなきゃいけないし、自分のアピールが多いと調子に乗ってると思われる文化として捉えた場合、
どうやって自分の望んだ形って得られるの?
それって与えられることでしかいけない世界なのか、自分で勝ち取ることができる世界なのかどっちなんですか?
多分ちょっと良機的なんだけど、いい兄貴分に作ってことですよね。
なるほど。
血とか家みたいなもの、文化の話でいくと、要はそこの流れに乗るかどうかっていう話ですね。
だと思ってて、だから古典ラジオの樋口さんとかは完全にいい兄貴ですよね。
九州の兄貴で、だから彼の、樋口さんはそう思っていらっしゃらないと思うんですけど、
その弟分というか、樋口さんに恩を受けた人っていうのがいっぱいあって、
その人たちが東京でも活動してるし、福岡でも活動してるし、高輪でも活動してるし、いろんなところで活動してるっていう、
九州の兄貴分というか九州の親分だなと思っていて。
じゃあさっきの言い方で、そこに所属することができると、さっきのマッチングの精度っていうのは格段に上がるようなシステムがあるんですね。
そうそう、親分っていうのは分配するものだから、こいつがこういうことできるんだったらこういう仕事を任す、
こいつがこういうことできるんだったらこういう仕事を任すっていう、そういうことをする。
で、自分をアピールするっていうのは、自分の兄貴分が見る目がないみたいな言ってるものだから、
それはニアガッチを暮らすぞってなってくるわけですよね。
確かにそのルールだと、九州の世界観も外、特に東京とかはそうだと思うんだけど、マッチしないかもしれないよね。
だから、僕はこの18とか22ぐらいの時に、20代の時に東京出てこれたらよかったかもしれないですけど、
今頃出てきてるんで、この東京システムにいまいちアダプトできてなくて。
いやいや、そんなことないんですよって言って、みんなにそんなことないんだって思われてる。
僕のそういう時のスキルというか考え方でいくと、褒められてそんなことないですよっていう謙遜するっていう意味で言ったら同じ言葉を発するんですよ。
逆に言うと、僕はそれを言わせた時点で負けだと思ってる。
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ただ褒めさせるワードを言わせる、もっと前の時に自分が言わせたっていうような誘導ができてないといけないって思ってるって話かな。
エレベーターピッチの前で勝負はついてるよみたいなイメージというか。
面白い。考えたことなかったです。
そう。だから結局褒められちゃうみたいなことってあるじゃないですか。
その時は多分同じ出力を出すんですよ。
多分そこって僕の姿じゃなくて、もっと手前、褒められ方自体を自分でコントロールするようなプレゼンテーションをいかに日々するのかみたいなイメージだから。
室さんはそっちの方が向いてるような気がする。
心がけます。考えたことなかった。
僕は謙遜してりゃ親分に引き上げられると思ってたから。
確かに。だからそこかもギャップっていうか、室さんそのやり方じゃない方がいいよなと思ったのは、
自分はこう褒められるようにこの人を仕向けようっていうようなことすらできる頭を持ってる人だと思います。
いや考えたことなかったですね。
天下人ってそういう人じゃない?
確かに。
そういうのだったらいっぱい協力できるかも。
結構現象が起きてる時って勝負ってついてて、特にこういう速くもすごい早いことが起きてる東京みたいな世界だと、
その現象が起きる手前に自分がどういうアプローチをしたのかっていうことが実は重要で、
僕は地雷みたいなイメージなんだけど、
この先この人がたぶん次僕と会った時にこの地雷を踏んでこういうことを言うだろうなってことを、
全段階で1回プレゼンテーションをしてるっていうイメージっていうか。
なるほどなぁ。
あれですね、めち黒の棚心ですね。
手のひらですね。
精術っていうか、じゃないと、そのための目利きっていうか、人をどう見るのかって話なんだよね。
この人と僕は添い遂げそう、少なくても何かの案件で見えた時っていうのは、
会った瞬間の時の僕っていうものの行動がすごく大事なので、何か起きるすごく手前に自分が気づいてなきゃいけないんですよ。
なるほどなぁ。
さっきの怒らないみたいなのとすごい近いと思う。
だから基本戦略が僕やっぱどついてみるんですもんね。
どついてみた後に食らされるか食らされないか、食らすか食らされるかみたいなのをちょっと見てるから。
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多分ね、俺よりはそういうのすごくできる人だと思うんだけど、
室さんの能力は本来そっちよりももっと手前の時に発揮する人だと思う。
なるほど。僕の能力はそうかどうか自分ではよくわかんないけど、
何て言うかな、ちょっと今目から鱗でしたね。
告白される室さんなんじゃなくって、告白させる室さんになってほしいっていうか、
されて、もしくは自分からアタックして相手がどうなるのかって、
多分今までの人生でいろんな経験値あると思うんだけど、
多分室さんが輝くのって、こいついいなって思った人に後日自分にくどいてくるというか、
告白してくるようなアプローチをいいなって気づいた時にできる人になってほしいっていう。
なるほどな。
それってなんかさ、いいじゃん。
なんかさっきの文化の美の話じゃないけどさ、ひぼんな感じがすごいするっていうか。
まあ確かに、確かに。
なんか多方それをある意味で上品にするのが結構むずいなと思いましたね。
僕は他人をコントロールすることみたいに関してちょっとやっぱりよく考えていて。
分かる分かる分かる。今のコントロールに聞こえるもんね。
そうそうそうそう。コントロールはしたくないんですよ。
でそれをコントロールじゃなくやるっていうのは、やっぱこうセンスというか上品さを要するなと思って。
そうか。
ちょっと練習がいるなって思いましたね。
結構5、6回痛い目にあわないとダメだろうなって思いましたね。
でもそれってさ、いい痛い目な気がするんだよね。
ちょっと痛い目にあってみます。
だから本当に今の話ってコントロールしてるとか手のひらで転がすかのようなテクニックに聞こえると思うんだけど、
むしろ逆で、なんかよりアニマルなっていうか感じのイメージなんだよね。
僕のイメージって。
ってことはやっぱり品がなきゃいけないっていうのは確かにそうなのかもしれない。
次品の話しよっか。
はい。
確かにな。
品の話しよう。品いいと思う。
品って、なんかここ10年20年くらい言っちゃいけない話になったと思うんですよね。
確かに確かに確かに。
なんかすごい社会階級みたいなのを支持する言葉になっちゃって、
それを言うっていうこと自体があまりポリティカルにコレクトじゃないっていう感じになったと思うんだけど、
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やっぱ昨今の状況見ていて、やっぱ品って大事だよなって思ったんですよね。
いや、品でしかないと思ってるんだけどね。
そうですね。そのように僕は思います。
やった、じゃあ次の機会に見かけた。また会える。
次は品の話です。
いや、今の僕のさ、今言ったのこのまんま置いてっちゃうと、
おそらく僕は人をコントロールする欲求がある人のように捉えられると思うので、
それは品で話をしたい。
そうですね。そうじゃないんだっていう話ですもんね。
僕がエレベーターピッチをしない理由は、品を求めてるから。
なるほどね。
ってことは、エレベーターピッチをする前にことっていうのは済ましとかないと、
エレベーターピッチをしなければいけなくなっちゃう。
なるほどね、なるほどね。
それが品。
ちょっとわかってきました。
ちょっとわかってきました。
じゃあ次これ話しよう。
わかってきました。
なるほど、わかりました。
よかった。
じゃあちょっと次回、
次回は品の話で。
じゃあちょっと今日の編集するので、ここまでで。
はい、どうもありがとうございました。
本当にありがとうございました。
室さんでした。
ありがとうございました。
この番組は東京東中野にあるクラフトビアバー雑談で収録しています。
厳選されたクラフトビールとこだわりのスパイスカレーを楽しみながら、
世な世な繰り広げられる雑談に参加したい方は概要欄をチェック。
では、次回の更新をお楽しみに。
クラフトビアバー スタジオ
雑談
01:47:02

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