愛の楽曲工房
はい、どうも、Kiyonoriです。
太陽です。
青柳です。
さあ、今日も前回に引き続き、僕がやっている、
さえのワッフルから、RKB毎日放送アナウンサー、
武田早絵さんをゲストにお迎えしております。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回もお邪魔します。
はいはいはい。
いやー、前回もうめちゃくちゃ盛り上がって楽しかったんですけども、
はい。
いやー、そんなのはもう、もう、何て言うんですか、
いたずらにすぎませんよ。
いたずら。
もう今からやるのが、もう超メイン、大注目コーナーでございますから。
こっからが。
はいはいはい。
いたずらですよ、もう。
はいはいはい。
もう、ここからね。
これをやるために今日来てもらってますから。
はい。
さて、じゃあ、いきますよ、早速。
じゃあ、さえさん、今週はこちら。
武田早絵の、われ思う故に我あり。
めちゃくちゃいい声。
本物やん。
自称アナログ人間で人気アナウンサーの早絵さんが、今思うことを語ります。
ということなんですけど。
ちょっと待って。
はい。
自称アナログ人間って別に自分で言ってないし、自分で人気アナウンサーとか言ってませんから。
そこは、そこのとこよろしくお願いします。
あ、そっか。
自分で言ってなかったか。
自分で言ってない。
ちょっと正直さ、あの、ま、さっき1本目を撮って、ま、この2本目の間があったじゃないですか、時間が。
で、その間、ま、僕トイレとか行きながらずっとこのイヤホンとか繋いでるんですけど、
早絵さんときょんちゃんずっとおしゃべりしちゃうやん。
うん。
もうなんかずっと早のワッフル聞きよう気持ちないよなんか。
ずっとなんか。
そうですね。
でもヒグチさんそれこうじゃないですか。
ヒグチさん。
もうずっと早のワッフルもう今もう聞きよう気持ちないよ俺は正直。
ちなみにね、早のワッフルも曲の間とかCMの間とか、あと別番組挟んだりするんやけど、ずっとこんなに。
ちがう、早絵さんめちゃくちゃおしゃべり好きですよね。
早絵さんめちゃめちゃ開始も早いし、頭の回転が。
いや、ヒグチさんがそうさせるのかも。
あー。
やはり哲学を語る男ですから。
なるほどね。
突っ込まずにはいられない。
向いてる、向いてるかもしれません、哲学が。
かもしれません。
そうなんですよ。
どうだろう、いやーどうだろう。
哲学のコーナーですよ、今回は。
はい。
でね、あのー、いつも早のワッフルの中で僕が哲学を語っているコーナーがこれなんですよ。
そうですよね。
ヒグチ清則の我思う家に我ありっていうコーナーやってるんですけども、これがだいたい僕が毎週20分ぐらい一人で地上波をお借りして哲学を垂れ流すっていうのをやってるんですね。
すげーことしようよ、マジで。
ちなみにね。
すごいことしようぜ。
これね、ポッドキャストやったら20分ずっと思想を語るって普通やん。
なんか俺ら普通にやってきたやん。
やっちゃったもんね。
あのね、マジで異常なことらしくて、これ。ですよね、早絵さん。
ラジオではまあ20分ずっと一つのテーマを語り続けるってないですね。
一人の大して根拠がない思想を語り続けるのが全然日本らしくて。
最初その企画見た時どう思ったんすか、早絵さん。
私は非常に興味があって、どんな展開になっていくんだろうっていうワクワク感が大きかったですよ。
ただ、20分語るかねえと思って。
そうっすよね。
らしいんすよ。
なんですけど、今回はいつも話を聞いてくれてる早絵さんの哲学をお聞かせいただきたいなと思います。
ちなみになんですけど、さよならワッフルっていう番組自体は福岡近郊の方、もしくはラジコプレミアムの会員でないと聞かないんですよね。
ただ、この我が思う家に我がありっていうコーナーだけはポッドキャストで配信してるので、
全国どこでも世界中どこでも聞けますと。
ちなみに高井くんと太陽もゲストで来てくれてますね。
出させていただきました、僕らも。
出させていただきました。
ちなみにざっと振り返りで言うと、高井くんが3月16日に出演してもらって、その時のテーマが。
生きるとは甘えること。
青池孝也がいかに人生を甘えて生きてきたかということをお話したことですよね。
まとめ方違うね、なんか自分。
甘えたことで今があるから、もっと甘えるというところをみんな着目していくべきじゃないかと。
その部分の教育とかもしっかりしていくべきなんではないかという、非常に有意義な神会と言われている会ですよね。
正直面白かったわ。
それとはまたちょっと違う感じで、太陽が5月18日に出演しまして。
その時のテーマが何だった?
人生は傾き続けるビリヤード台だ。さえのワッフルへの道。
っていうのはね、またこれも人生はずっと傾き続けてぶつかるしかない。
そういうんじゃない。
自分おらんかったんその場に。ずっとまとめ方間違い。
解釈が傾いちゃう。
ごめんごめん、ちょっと玉付き事故になってしまいました。
うまいこと言わんで。
いろんなことがありつつ人生は進むけど、ビリヤード台だと称えると傾き続けているから、
思っていない穴にゴールとして転がってそれがいいことかもしれないよっていう話ですね。
そうよね。これもかなり面白かったよね。
こうやってさえのワッフルに生出演させていただいているのも、傾き続けているビリヤード台のおかげで
生まれたようなものですよっていうことが言っておりますね。
ぜひ聞いてみてください。
聞いてみてくださいね。
で、本日でございます。
じゃあそろそろ参りましょう。いいですか、鞘さん。
準備はできてますか?
竹田沙耶のわれわれ家、今回のお話はこちら。
哲学がわからない。
もう終わり?このコーナー。
締め?
どういうことですか?
バイバイで終わるやつ?企画だ?
だってわからないのよ、哲学が。
このお話をいただいてから、哲学について語ってくださいって言われたんですけど、
考えれば考えるほど、哲学って何?って思ってしまって。
振り返ってみたら、樋口さんって本当にいろんなこと考えてますよね。
緊張とかしないほうがいいとか、
過去も未来も今が決めているとか、
樋口の金髪っていうのもありましたね。
あとね、納豆の食べ方について考えてみたっていうのもあるんですけど、
ちっちゃな入り口からどんどんどんどん広がっていって、
そこにたどり着くっていうところまで考え抜くじゃないですか。
そうですね。
すごいなと思って、私ここ1ヶ月くらい寝言で哲学って言ってましたよ。
病気やもん。
本当。で、私は自分の考えを人に伝えることも好きだし、
人のいろんな考え方を聞くのも好きなんですよ。
だけれども、突き詰めて考えていった時に、
結構まあいいじゃないって済ませてしまうことが多いなと思って。
まあいいよね、それでOKよねって終わりってしちゃうことが多いなと思ったんですよ。
ということは、私には哲学がないのかなってそこで考えた。
いや、わかったと。私はね、哲学がないんじゃない。
哲学がないという哲学があるのかもしれんなっていう域まで行ったんですよ。
なるほど。
哲学っぽくなってきましたね。
哲学っぽくなってきたよ。
哲学がないという哲学があるのかもってちょうど考えていた時に、
たまたま天神地下街を歩いていたんですね。
天神地下街っていうのは福岡市の中心部に天神というところがあって、
その天神に地下街があるんですよ。
およそ600mずらーっとこうまっすぐ道があって、
両側にはもう素敵なお店がたくさんあるんです。
最新のアパレルのお店とかオシャレなパン屋さんとか並んでいて、
そこ雰囲気もいいんですよ、天神地下街って。
19世紀のヨーロッパをイメージしてデザインされていて、
石畳とかレンガの道が続いている。
そんなオシャレなところなんですけど、
そこを私がちょうど歩いてたんです。
哲学とは哲学とはって考えながら歩いていたら、
目の前から40代か50代の男性が歩いてきたんですよ。
その時にたまたま天神地下街でBGMが流れてたんですけど、
そのBGMを聴いてたんですよ。
たまたま天神地下街でBGMが流れてたんですけど、
そのBGMが結構軽快なリズムだったんです。
そのおじさんは自然と踊ったんですよ。
その音楽に合わせて。
踊ったというよりは踊っちゃったんだと思うんですよ。
チャラリンっていうのに合わせて体をジュジュジュンって動かして、
左右にドゥンドゥンって体を揺らして踊ったんですけど、
その瞬間にそのおじさんが私と目が合って、
あ、しまったって顔をしたんですよ。
結構周りの人も、
わ、何この人踊っちゃってる?みたいな感じで、
ちょっと冷たい視線を向けたんですよ。
で、その時にハッとしたんです。
これ私、自分何か間違ってるんじゃなかろうかって思ったんです。
踊ってるおじさんを見た時に、
え?って思っちゃった自分って何なんだって考えたんですよ。
というのが、これが想像してください。
外国だったらどうですか?
ジャズで有名なニューヨークで音楽が鳴っていた。
それに合わせて歩いてきた人が体を揺らしていたら、
最高だね、かっこいいねってなりません?
なりますね。なりそう。
なのに、この天神地下街で、
確かに周りの人は踊ってないかもしれないけれど、
ただ同じ軽快なリズムのクラシックに合わせて、
ちょっと体を揺らしただけなのに、
わ、踊ってるよって見られる。
そして私も、え?って思って見てしまった。
それって何が違うわけ?って思った時に、
私、去年まで、下の子が今2歳ですけれども、
およそ2年間育休を取っていて、
その間、タイで暮らしていたんですよ。
そうなんですよ。
夫の仕事の都合で、タイのバンコクで暮らしていたんですけれども、
タイも結構大らかな国で自由だから、
音楽が鳴って誰かが踊っていたのも多分気になってないんですよ。
実際気になったな、タイでどこかで誰かが踊っていたことを、
わーって思ったなっていう記憶は全くないので、
引っかかってなかったっていうことですよね。
そうなった時に、
なぜ私はそこで違和感を覚えてしまったんだろうかと、
ちょっと突き詰めて考えてみたんです。
おー、哲学っぽいよ。
そうでしょ?で、
あーでもこれって、例えば海外だったら許せるし、
外国人だったら許せるけど、
自分の中で日本人だった、日本人だったら許せない。
だったり、身近だったら違和感って思っちゃうこと、
結構あるかもしれないと思って、
例えばタイでは、自由な接客をする方が多いんですよ。
というのが、皆さんお店に入ってもレジにいる店員さんって、
お弁当を食べながらスマホをいじっていて、
それ普通。
で、買い物しますって言ったら、
そのお弁当をレジの横にポイってどけて、
はいどうぞって、それも全然嫌な気しないんですよ。
それが普通というか、
それがスタンダードというか、
よく見る光景だから。
でもこれを、じゃあ日本で自分が通うお店で、
お店入りました。レジの横で店員さんが、
お弁当ものすごく食べてます。
で、接客時もずっとスマホをいじってますって言ったら、
なんかあれ?って思うかもしれないなって思って、
そう考えた時に、他にもあるかな、
例えばファストフード、
日本でファストフード行った時に、
注文してすぐ出てくるのが当たり前ですよね。
結構早いでしょ?
で、すぐ出てくるから、それが当たり前で、
でもタイは本当に遅かったんですよ。
ファストフードで注文しても、
20分くらい待つとかが平気であったんですね。
全然ファストじゃないな。
そうなんですよ。
だから私、何本かバスに乗り遅れたっていう経験もしたんですけど、
でもそれもイライラしないんですよ。
タイだしなって思うんですよ。
で、そこでそういうもんだよねって思った時に、
すぐに人は、文化の違いだもんねって言うじゃないですか。
これって文化の違いだからねって言うけど、
この文化の違いという言葉を、
気軽にというか便利に使いすぎてない?って思ったんですよ。
いいっすね、いいっすね。
で、それを言えば簡単だけど、
天津地下街でちょっとリズムに乗って体を揺らしたおじさんは、
何か悪いことをしたわけでもないし、
周りに迷惑をかけたわけでもないし、
何にも本当に悪いことを誰にもしてないのに、
私はえ?と思ってしまった。
でも外国人だったらそれをきっと思わないっていうのは、
文化の違いだからねで、本当に片付けていいんだろうかって。
それは人として区別じゃないけれども、
自分の中で違いを見つけて、
この人だったらOK、この人は違うみたいなことを知らないうちに、
自分の中で何かを作っちゃってるんじゃないかって思ったんですよ。
はいはいはい。
で、うーんって考えたときに、
やっぱりみんな違ってみんないいじゃないという結論まで一気に。
っていうことは、みんな違うからそれでいいんじゃない?
まあいいかになったんです結局。
だから結局ぐるーっと回って、
やっぱり私はまあいいかってなっちゃって、
やはり私は哲学がわからないってなった。
そういうことか。
わからない。なんだ哲学って。
私はすべての哲学をまあいいかって片付けてはいないかい?
と自分で思いまして、いかんなと思ったんです。
え、でもこれないわけじゃないですね。
ですよね。今の話はもうない話ではなかったですけどね。
はい。たぶんですけど、
それぞれの哲学というものがあるって話と思ったんですけどね。
むしろ。
じゃあやっぱり哲学がないという哲学があるっていうのもあるってこと?
ちょっと今わかんない。もう足し算。
図で書かないと。
あれ?えっと。
これあれですね。無知の知。
無知の知やねこれね。
わからないことがわかったから、
あの価値があるっていうことですかね。
じゃあやっぱり哲学がないというわけではないってこと?
哲学がないというわけではないってこと?
んーと。
ないないない。
お前はわかっちゃうけど。
ないないない。
むしろまとめてくれた鞘師さんに対してフリーズしちゃうもんね。
いやごめんなさい。
でもそのわからないっていうことが、
たぶんこの哲学について考えるまではあまり思ってなかったってことですよね。
そういうことですね。
哲学がわからないって。
だからそれがわからないって自信を持って言えるのも、
いろんな哲学に触れたからなんじゃないかなっていう。
いやと思いますよ。
毎週かなり濃い哲学には触れてるんですよ。
だしまあいいかに毎回答えが至るみたいなこと言うじゃないですか。
今の天神地下街で踊ってた人の話もまあいいかに最後着地したけど、
言葉がまあいいかですけど、
まとめると許容するってことじゃないのかなっていう感じがしたんですよね。
だから許容していくっていうことが鞘師さんの哲学というか、
人の在り方を。
なんかそんな感じはしましたけどね。
だからまあいいかってたぶん二つの捉えられ方があると思うんですよ。
この言葉だけ聞くと。
おそらく一個の捉え方としては興味がないだったり、
思考停止だったりいうときにまあいいかって使いますよね。
もう知らん、もうどうでもいい、まあいいみたいなときに使う。
で、最終的にたどり着いたところのまあいいかって、
全部オールオッケー、いろいろ考えたけどオールオッケーっていうみたいなまあいいかなんですよ。
だから同じまあいいかっていう言葉でもニュアンスが全然違うなっていうことを。
哲学でしたね、じゃあ。
いや、違うな。
哲学でしょ。
いや、そうですそうです、マジでマジで。
そうか。
哲学ですな。
一個いいなと思ったのが、
実は僕もこれ、台湾に行った時に結構似たようなことあったんですね。
15年前ぐらいですけど台湾に行った時に、
同様にコンビニの、
店員がちょっとこう態度悪かった時に、
なんか起こらなかったんですけど、
最初の話の中で、
一番いいなと思ったのは、
文化の違いよねっていうのじゃないっていう話が、
めっちゃいいなと思ったんですよ。
要は、文化の違いだよねっていう時って、
文化って自分の外側の話なんですよね。
国とか、みんなの価値観の話なんですよ、多分文化って。
でもそういう文化って、
だから問題となってたのは、
実は文化の違い、つまり外の世界で起こってたことだと思ってたのが、
外じゃなくて、私の心の中の話だったっていうことになった、
っていうことだと思うんですよ。
認識。
そう。認識あったんやっていう。
なんかここの気づきめちゃくちゃ重要だなと思ったんですよ。
今すっごくすっきりしましたね。
そう。
そう。
えー、何が何が何が。
まとめてもらって、ありがとうございます。その通りだわ。
わー、スカッとしました。
そうなんすよね。だから多いと思うんですよ。
自分の外の問題にしちゃう人結構多くて、
いろんなことを。
でもなんか、ほとんどの問題が僕、感じる側の、
なんていうんですか、主体側というか、
思う側のことだと思うんですよ。
そう。
そう。
そう。
そうか、いやでも確かにそうかもな。
外側の話じゃないかもね、なんか。
うん。
めっちゃ今その、踊る話で言うとあれですけど、
僕、改札の前とかでチューしてるカップルみたいなのめっちゃ嫌いなんですよ。
うん。
そう。
うん。
うん。
うん。
うん。
うん。
うん。
でもこれが、外国人の方が海外で駅でしてたらどうですか?
でもなんも思わないんでしょうね、きっと。
うん。
ですよね。
多分もう風景の一つになっちゃうんでしょうけどね。
うん。
うん。
でもね、なんか突き詰めて考えたら別に悪いことなのかなと思っちゃいますね。
確かに悪いことじゃないですもんね。
うん。
うん。
もちろんね、私たちが生きてきた中で、すごく良しとされるマナーっていうものはどうしてもあるから、
うん。
それから外れたものを目の前にしたときに、オララって思うことはあると思うんですよ。
はい。
だけど、なんかそれをなんかね、ズバッとこう切り捨てるっていうのもなんか違うんじゃないかなって思ったりしたんですよね。
うん。
なんかね、僕のイメージで言うと、否定するものでもないと思っていて、その自分の価値観みたいなもの。
多分だから、外国人やったら怒らないけど、日本人やったらイラッとしちゃう、この自分の価値観嫌だなって思わなくていいと思っていて、
うんうん。
僕のイメージで言うと、へー、俺って外国人やったらなんも思わんけど、日本人やったら怒るんや、へー、なんでやろ、ぐらいになると思うんですよ。
うんうんうん。
で、なんかこれっていうのが、本当はおかしいけど思っちゃうよねみたいなことを気づけてるっていうことがめちゃくちゃ重要だと思ってるんですよね。
なんかそれに気づけると、どう言ったらいいんだろうな、なんか自分が今思っている価値観とか、自分の思想みたいなものって自分で思おうとして思ってるんじゃなくて、
いろんなものがインストールして勝手に思わされてるだけだなって思うことができると、いかに自分が思っていることが絶対的じゃないかっていうことがわかると思うんですよね。
はい。
今の話、たかやくんわかるかな。
え、なんとなくわかる。
でもほとんどの場合そうじゃないっていう、いろんな要素で俺が思う状態に刺さられてるんだなってことだと思うんですよ。
なんか、だから、それを考えることによって、何もわからなくなる。
本当に自分だけでオリジナルなものだと思ってると思うんですよ
でもほとんどの場合そうじゃないっていう
いろんな要素で俺が思う状態に刺さられてるんだなってことだと思うんですよ
なんかだからそれを考えると僕が思ってることとかって全部僕のもんじゃないみたいな感覚なんですよ
そうねー
なんか今まで生きてきたいろんなことをただ抽出してパンって出てるだけで
僕だけのオリジナリティとかないみたいな感覚になっていくんですよね
分かるでも形成されたすべては外的なものであってということだろ
要は外的な情報であり教育でありそういったものを接してきた友達だったりとか
なんかそんなことが蓄積されて集約されて今の自分の考えがあるということは
つまり自分の考えは自分のものではないというか
そうそうそう
みたいな
だけのものではないってことですね
自分が生きの改札でキスしてる人を見て嫌だと思ってるんだったら
同じように育ってきた同世代の人が友達が
同じことを感じるかもしれないなぐらいのなんか観察材料になるよね
自分がそう思うってことはそうかもなみたいな
私は本当にひぐちさんも青柳さんもおっしゃった通りですけど
嫌って思って別にいいと思うんですよ
だけど嫌って思った時に
そのなぜ嫌って思ったんだろうとか考えた時に
それは文化の違いやねとかで
本当周りのせいじゃないけど
そういうことで片付けるのは何か違うかもなって
本当のことを分かるための答え探しまでたどり着けない気がしたんですよ
そうそうそう