1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #26 【ナーガールジュナ雑談】..
2022-07-24 34:06

#26 【ナーガールジュナ雑談】哲学や思想が歴史を作っているね、という話

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


【内容】空の感想/哲学としての仏教/改めて感じるブッダやナーガールジュナのヤバさ/空の思想と無知の知/次のシリーズはデカルト/哲学を学ぶ意義/西洋哲学と東洋哲学の目的意識の違い/西洋哲学は共同体/東洋哲学は個人/哲学と国際社会/西洋哲学社会に東洋哲学をインストール/DAOやWEB3.0は東洋哲学的/十二縁起説


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00:00
(♪ BGM)
はい、ソレ鉄ラジオ、今日も始めていきたいと思います。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ついに前回で流れるジュナの回がすべて終了ということで、
今回はユルクですね、乾燥回ということでやっていきたいと思います。
はい、よろしくお願いします。
どうでした?
そうですね、思ったより話せたなという気はしつつ、
ちょっと改めてね、編集してもらったやつとかも聞いたんですけど、
逆に聞いた人がどう感じたかとか、どのぐらい伝わったかっていうのは
なかなか自信がない回だなぁと思ったので、改めて。
結構ね、深いこととか、やっぱり結構ズバッと言ってることもあるんで、
なかなか伝わりきれない部分もあったなとは思ってるんですけど、
だからこそ、聞いていただいたりとか、感想とかもいただいたり、
この辺もちょっと聞きたいですとかがあれば、
それもぜひ聞いてみたいなと思ったんですけど。
なるほどね。
今回聞いてみて、東洋哲学、仏教じゃなくて東洋哲学みたいなところで、
前回の仏陀から今回の流れるジュナまで話してもらったんだけれども、
確かに仏教の教えとか、精神世界的な話よりも、
確かにそういう論理的な、哲学みたいな話を教えてもらったなという感覚はすごいあったね。
本当によかった。
やっぱり一番最初に哲学と思想と宗教、何が違うの?みたいな話をさせてもらったんですけど、
やっぱその宗教として知ってる、閻魔大王がいて、天国と広がってっていう仏教、
全然多分違った印象だったと思うんですよ。
そういうのもやっぱり知ると面白いし、そこから入っていって、
仏教にどんな教えがあるんだとか、
逆に自分が浄土神宗とか浄土宗だとしたら、
そこの教えってどんなんだろうって知るだけでも結構面白いと思うんで。
確かにね。さっき言った天国だ、地獄だとか、閻魔大王にとか、
そういう話もおそらくこういう、これは勝手なここまで聞いた想像だけど、
多分その大本の土台としてこういう空の概念みたいなもの、
大乗仏教の土台として、こういうのがあって、
それを広げるためのストーリー的な話で、地獄みたいなものは、
そういうのも深掘っていくと、おそらくここにたどり着くみたいな、
こう、閻道大、格、中心みたいなそういうところの話をしてもらったという感覚でいいのかな、
仏教的な話でいうと。
まあそうだね。もちろん天国と地獄イコール空みたいにすぐはつながらないんだけれども、
やっぱり林念の考え方とか、あとはやっぱりこう、
まあ原生理学的なところもそうだけど、
結局やっぱりこう大衆化していくにあたって、
03:00
一般の、要は文字が読めないとか、
まあなかなかそういう知識学ぶ時間がない人にも伝えるにはどうしたらいいか、
というふうなまさにストーリーを作ったのが、そういった話だから。
そうか、それで言うと、そうか、なおさらすごいね。
どんぐらいの人は、文字を読めたとか、文字をちゃんと論理的に考えることができたか、
みたいな時代に、この前話しくれた君みたいなところを考えている人がいた。
まあ仏陀もだけどね。仏陀はさらに7,800年前だけど、
そういうことを言語的に考えて、
感慨的に捉えて言語で考えて、
それを表現して人に伝えている人がいたって、
改めて考えると相当おかしいね。
そうなんだよね、やっぱりそういう人たちって本当にその世の中の、
その時代の中の本当に人握りの人たちだから、
それができるぐらいの、それこそ仏陀も王族だとか、
ナーガルジュナもいいとこっていうか、
バラモン階級とかだったよね。
そうそうそう、生まれたっていうところで、
やっぱりそれだけの余果であったりとか、
余裕があるからできたことだとは思うんだけど、
やっぱりそれを余裕がある人の中に留めるんじゃなくて、
一般大衆というか、いわゆる普通の人たちに役立つものにしていこう、
っていうのがやっぱり大乗仏教の大きな流れだし、
仏陀のやっぱり苦しみとか目の前の生きる辛さっていうのを、
やばらげたいみたいなところがあるから、
やっぱりそれは前回も、
ナビダルマ哲学=造言をと、
みたいにちょっとチャカシーと部分もあるけれども、
やっぱりそうじゃない動きとか教えっていうのを広めようっていうのが、
すごい強かったんじゃないかな、当時でも。
なるほどね。
面白い。今回も前回も言ってもらったけど、
勝手にクーの概念とか、
勉強したことはなかなかなくて、
ただ言葉は聞いたことがある、
クーの概念とか、式、則、絶、空、ぐらいまではね。
だから勝手に古代西洋哲学の話とかしてたときに、
ゼロの概念に近いよねーとか、
勝手に話をしてて、強かったねみたいな話だったら面白かったし、
これはすごく、これもたぶんずれてるんだろうけど、
クーっていうものを改めて話を聞いたと考えたときに、
ムチの地、ソクラテスがムチの地だったと思うんだけど、
ムチの地のイデアがクーに近いみたいな。
あんまそういう例えをしてるとおかしくなっちゃうかな。
まあそうね、ちょっと違う概念ではあるんだけれども、
でも言いたいのは、いわゆる知らない、
知ることだったら何かを知るっていうのがあるから、
対象があるからわかりやすいけど、
知らないっていうことを知るみたいになると、
06:01
その時点で矛盾というか、イレコ講座になっちゃうじゃない。
それをあえて止めるというか、考えやすくするためにクーだったりとか、
そういう地点を置くみたいな考え方自体は近いものがあるというか。
そうそう。あと、ソクラテスの問答法って最後、
ギュシースの時にもやったけど、
友達ってそうかもしれないし、そうじゃないかもしれないねみたいな、
そういうもやっとく感じがある。
それがソクラテスの場合は、悪い本に出て訴えられてしまったとかあると思うんですけど、
そういうバランス感覚だったりとか、
多分、長留順はその中庸みたいな話も長留順だという話があったと思うんだけど、
そういう共通点を、多分浅いところしか教えてもらってないというかね。
こっちの素人の勝手な理解だから、勝手にそこを繋げて、近いのかなとかって考えちゃったっていう。
そういうのもあるかもね。
やっぱりソクラテス、ミスヨ、仏教とか仏教、目に見えるものとか、
すでに正しいもの、要はソクラテスの時代は伝論術みたいな、
相手を言いくるめるかみたいなものが前世紀だった時に、
そもそも何かを知っているっていうことは本当に正しいのかとか、
本当にあなたは知ってるんですかっていうことを投げかけることによって、
その当時の主流だった、その伝論術とか、そのスキルっていうものを乗り越えていくっていうのがあるし、
ブッダの時代も、バラモンのある種華麗な文化とか、そういう霊祭とかお祭りとかみたいなものを乗り越えるために、
ある種疾走というか、本当に素朴なところに行ったみたいなところで行くと、
マネーシャルにとっては両者ともそれまで各々もあったというか、
これが常識ではないみたいな思われたものを乗り越えたみたいな。
意味では偉大な思想って、何度も言ってるけど、やっぱりそういう当時の常識を乗り越えるものだし、
だからこそちょっと否定というか、ある種空とか無知の地みたいな、
ちょっと常識ではわかりづらいけど、聞いてみると、なるほどそういうことかみたいな、
どんな特感があるっていう教えになるっていうのはそういうことかもしれないね。
そういう意味での当時の時代だったりとか、乗り越えるべきものみたいな、
その時代観とそれに対する安置転生の出し方だったりとか、
っていうのがたまたまちょっと似てる部分もあるみたいな感じだったかな。
もちろん同じではないけどっていう。
そうだね。あんまり近づけすぎるのも危ないことだけど、
でもやっぱりそれぞれのいろんな文化があって、続いた歴史があって、
その中で偉大な思想が出てくるっていうのはきっとそういうことなんだなっていうのは思うかな。
はいはいはい。
さすがに言うと、次に結局いろいろ悩んだ結果、デカルトを取り上げたいなと思ってるんだけど、
09:06
デカルトも兄貴も「我を思うゆえに我あり」みたいな言葉を聞いたことあると思うけど、
うんうん、そうだね。それしか聞いたことないけど。
まあそうだね。でもやっぱりデカルトがやろうとしたのも、それまでのキリスト教的な世界の中で、
結局1500年ぐらいだったかな、時代もまたちゃんと調べて、次回ちゃんとお伝えしちゃうと思うんですけど、
その時にいろいろ、それぞれ航海で海を越えていろんなところに行けるようになったとか、
その天文学が発達して、いろんな地球以外の星のこともかわいいなったとか、いろんな時代背景の中で、
キリスト教、一神教とか、神が全部を決めているって世界観って本当に正しいんだっけみたいな。
はいはいはい。
そういうのを突き詰めたからこそ、やっぱりあれだけ残る思想とか、
哲学、中世、近代ではデカルトみたいになってるっていうのは、やっぱりその時代の流れもあるだろうなと思うから。
ああ、そうなんだね。そっかそっか、その辺はデカルト界でちゃんと教えてもらえるとは思うんだけれども、
そっか、そこみでは時代、ちゃんとソクラテスとかブッダがそういう時代に生きたように、
レナワルジュナもその後の仏教だとか、転換天にたまたま生まれ落ちて、たまたま天才も生まれ落ちたみたいな。
デカルトも結構そういう感じはあるのかな、もしかして。
そうだね。2000年前の人ほど劇的ではなかったりはするんだけど、
まあ逆に歴史というか、史実も残ってるから、変な伝説とかはあってくれないんだけれども。
まあ深刻化をされてないけどみたいな話ね。
そうそうそう。でもやっぱりね、そういう当時の時代背景があって、そこに何らかの課題意識を持ったりとか、
自分なりに乗り換えようと思ったところで、やっぱりいろんなことを考えて本にしたり、
いろんな人と議論しながら、思想を固めていったっていうのはあるから。
その意味では、そこまで抽象化すると、似たようなことが繰り返されているみたいなのはあるかなって思うよね。
はいはい。なるほどね。哲学ってこのラジオで話をいろいろ教えてもらうまで、全くイメージもなくて、
意味ないとまでは言わないけど、どういう意味があるのかわからないか、そもそもね。
確かにね。
ムチの血でもすらないっていう、ただのムチみたいな状態。
まあ知らないとだよね。
ただのムチだったんだけど、これはどこかで話したかな。
先ほどから教えてもらったことを、無理やり使っていこうかな。
アリスト・テレスでいうと、理論値と実践値みたいな話があったと思うんだけど、
どうしようも実践値的な方にばかり目は向くのかな。
12:07
理論値とかがあやふやになってきてるから、正しい例えとかはしないんだけど。
あれだよね。お医者さんの目の前の患者を救うというような知識と、
あとは医学とは、健康とはみたいな理論的な方角的な知識との比較の中でってことだよね。
そうそうそう、ありがとう。思い出してきた。
そういうときにどうしようも実践値の方に目がいっちゃったりとか、
ノウハウ的なところをどうしても勉強だと思っちゃうみたいな。
理論的なところももちろん大事だけど、どうしてもおろそかになってしまったりとか、
その存在へのアプローチする手段がどうしてもカロリーがいるというかね、
そういう格格があって後回しになっちゃうみたいなね。
現実、生活とか仕事がある中で後回しにしながらそのまま忘れ去られていくみたいな。
そういうところをこの哲学みたいな、多分具体的なものじゃなくて、
もうちょっとそういう知識だとか、理論と実践値とかに横串を刺してくれるような考え方だったりとか価値観みたいなものって、
すごく面白いなって思ってきた。思わされてきた。
まあ確かにね。それで僕が哲学のそういうところに面白みを感じてるから、どうしてもそれは出ちゃうっていうのもあると思うんだけど、
もうちょっと広い話をすると、実は西洋哲学とか東洋哲学でそれぞれ大きな目的が違ったりはするんだよね。
へぇ、そうなんだ。
うん。もちろん人か国にできるかっていうのはあるんだけど、東洋哲学とか仏教ってどっちかっていうと、これまで話した通り、
ある種一人の人間の生きる苦しみとか目の前にある辛さっていうものにどう取り組むかとか乗り越えるかっていう。
それが万人がその苦しみを乗り越えて生きていけるんだったら、それってハッピーではねみたいな結構世界観があって。
で、西洋哲学はどっちかっていうと、やっぱりこう、ポリスっていうその共同体の中で生まれている人間がどう生きるかみたいなところから出てるから、
なんだっけ、アリストテリウムですか、人間はポリス的動物であるみたいなことも残ってるくらいなんだけど、
要は共同体をどう作るかとか、いわゆる社会とか倫理とか、そういう道徳みたいなところと結構近いんだよね。
ハァ~なるほどね。そっかそっか。個人がどう生きるべきかっていうところと、社会がどう生きるべきかみたいなところで、
社会みたいなものにしてしまうとどうしても普遍性とかイデアみたいなものがどうしても出てきてしまうみたいな感じだよね。
そうだね、共通善みたいな感じかな。やっぱりこれを指針にしようとか、これを大事にするからみんな同じような世界で生きていけるよねみたいなやっぱり共通理解が生まれる。
うんうん。そっかそっか。個人だとまだ空みたいな、有楽器みたいな、空と空促是式の式の部分がまだ許される感覚ってあるけど、
15:09
それを社会でやっちゃうと、そんなベクトルとか認識がずれまくってると、もうやばいでしょ、混沌するでしょみたいな。
そうかそうか、そういう意味では面白いね。この前ほら、空って少し古代西洋哲学のイデアみたいなものを少し先に進めたというか、
物事に対する認識っていう意味ではだってか。
はいはいはい。そうだね。ないっていうことに向き合えるっていう意味では、ちょっと一歩進んでるって話をしたかな。
ああはいはいはい。そうするとちょっとその部分で一歩進んでるかってちょっと確かに思ったんだけど、今の話を聞くと、
やっぱり社会とか人間社会をちゃんとうまく回していく、経由していく、運営していくっていう意味では、
やっぱり西洋哲学的な考えっていうのは、一定のノウハウというか方向性、問いみたいな意味では、やっぱり一律の調があるというか、
そこはお互い保管し合いながら、延長戦場ではぐるぐると回ってる感じがするね。
はいはいはい。そうだね。それはあるし、だからこそヨーロッパ西洋において、たぶん世界連合みたいなものが出てくるとか、
それこそいろんな同盟環境を経て、国が変わっていくっていうのが、やっぱりその思想とかその生きる人たちの考え方とは、
やっぱりきっと切り離さないだろうし。ああ、それはね、確かにポリスで良かったのが一つの国、ポリスが大きくなって、
それが国同士みたいなさらになっていくっていう、確かにそれも面白そうだね。
だからやっぱりその国際連合かな、当時でと。やっぱり第一第二世界大戦があった後に、国際的な組織をつくんなきゃいけない、
みたいなところも、やっぱり何らかの哲学者の思想とか考えが生きている部分もあったりするし。
うーん、そうだ。大丈夫、それは言い過ぎじゃない、大丈夫。
言い過ぎじゃない、大丈夫。
あの、カントがね、実際書いてるの、世界平和のために、えー、平和のために、ちょっとタイトル忘れちゃったけど、
そういう、要は、国家をこういった共同体をつくんなきゃいけない、みたいなこともやっぱり言っている哲学者もいたりして、
それがなぜかというと、やっぱり人間がちゃんと生きていくためには、そういう共同体とか、今で言うと国家、あるいはその国家を超えた、
えー、何だろう、共同体みたいなものをやっぱり想定して、それはどういう風に運営されるべきかとか、
そういうのっていうのは、結構、その近代の、これから今後取り敢えず行動しているやっぱり哲学者は、結構中心的なテーマだったりもするから。
へー、あっ、そうなんだね。
そうそう、だからやっぱりね、その、なんだろうな、別に知識点だかってわけじゃないけれども、
やっぱり、どうしたら、今いる人たちとか、今後未来に生きる人たちが平和に生きれるかとか、
18:00
最近に言うと、それこそ持続可能な社会とかって言われたりもするけれど、
そこに、対して、何らかの、切り口とか、発見を与える思想っていうのが、やっぱり強いというか、意味のある思想だよね、っていう風には思われるから、
多分その根底には哲学的な、なぜなら人間というのはこういう生き物でとか、こういう風な考え方をするものだから、みたいなところがやっぱりないと、
この、なんだろう、ロジックとして破綻しやすくなるというか、ちゃんと主張が伝わらなくなるよね、っていうのがあるから。
面白いなあ、そういう意味では、世界的に、いわゆる西洋哲学的な価値観だったりとか、論理展開、考え方みたいなものが、すごく日本もだけどね、
こう、馴染みが、どっちかというとある、さっきの空みたいなものよりは馴染みがあるというか、それも理解できる気はするね、どうしても社会的に使えるのはどっちだ、みたいなところとか、面白いね、その視点は、もちろんなかったというか、そっかそっか、すごいね。
そうなんだよね、逆なんだよね、逆なんだよね、てか僕が思ってるのは、そういう考えのもとに社会が使って、要は、第一、第二次世界大戦を経て、そういう資本主義とか、民主主義が広まったから、やっぱり僕らは西洋哲学的な思想の中で生きてるんだよね。
はいはいはい。
それがやっぱり馴染む社会だし、馴染む生活をしているし、だからこういう東洋哲学とか仏教みたいな、それこそマインドフルニスとかもだけど、それがアメリカとか、ヨーロッパ、イギリスとかの方、フランスとかに行くと、なんだこれは、みたいな感じで、すごく新しいものとして取り入れたりとか、それがまたその西洋的なものとして発展していくみたいな流れっていうのはね、あるなと思う。
うーん、そっか、そういう意味では、西洋が拡大して、西洋的な概念というか思想みたいなのを拡大して、それが東洋と融合してきているっていうのは、ある意味大きな流れから言っても自然なことなのかもみたいな感じだね。
そうだね。
そこができる時代になってきたっていう、まあ既になってると思うんだけど。
でも、本当それはそうと思う。でも、なかなかね、ここまで5人のこういう人たちを、今の25回分だから多分もう10時間ぐらい喋ってると思うんだけど、兄貴とも。
うんうん。
で、やっぱりここまで話すと、なんとなく、それってすごいなとか面白いなとかってなると思うんだけど。
そうだね、なんかそう、すごそうとか、面白そうかもって思える段階か。もちろんね、全然知識もないんだけど、まだ入り口も入り口。古代西洋哲学、スクラテス、プラトン、アリスト、テレスと、ブッダ、ナーガルジナ、まだね、本当入り口も入り口みたいな。
まあそうだね、言っても全員2000年前ぐらいの人だからね、まだまだ。
21:04
うん。まあでもちょっとそんな感じで、まあ空から少し離れてしまったけれども、やっぱりその空っていうのはそういう西洋思想的なものからすると少し異質だし、なかなか取り扱いづらいものなんだけど。
確かにな。ある意味そうだね、さっき教えてくれた、その方向性が違うみたいな、社会っていうものをその規定していく、運営していくのか、個人の生き方ってものをハックしていくのかみたいなことで考えたときに、ちょっとそこってその、干渉するかもしれないよね。
干渉っていうのはどんなイメージ?
例えばその西洋哲学的な概念で社会を運営していきましょうと、みんなで共通の目的とか理想みたいなものを追い求めてやっていきましょうっていうものが仮にその西洋哲学的な思考というかベクトルだったとすると、
それに東洋哲学の個人のバランスが大事だよねとか、空っていうものがあってそれをどう認識するかっていうのはある程度人によるというか、そこのバランス化学って大事だよねみたいなもの。
それをインストールしてしまう、西洋哲学的な社会にインストールしてしまうと、たぶん空ってものを全員が正しく、市民全員が理解した世界があったとすると、それはもう天国だと思うんですよ。
そうだね。
ありえないじゃん。
ありえない。
全員が悟ってる場所って、二千何百年経っても実現してないわけじゃん、仏教国でも。
そんな簡単に空とか悟りができたら、そりゃ苦労しないし、それはもうユートピア実現するわって話だと思うんだけど、たぶんそうはならないから、
そういう意味で表面的に理解した人だとか、理解しようとして理解できない人とか、いろいろ混在した世界が西洋哲学、社会的な規定とかの中で、そういう人たちが生まれてしまうとグチャグチャになるよねっていう。
実際そういう事件もあって、一千九百年代の半ばなんだけど、それこそインドの思想家というかそういう人がアメリカに行って、自分の教えを説いた結果、アメリカ人からすると「これはすごい」と。
それまでの物質主義的なところから精神的な豊かさとか、個人に縛られないみたいな格闘技だったときに「これはすごい」ってなって、めちゃめちゃ信者が増えて、
それがたぶん一個の国というか、町を作ろうとしたのかな。でもやっぱりそれって既存の行政とかからすると、めちゃめちゃ怖いわけよ。
そんな信者が町を作って、どんどん政治とかに反響してきたら怖いんで、だからそろそろ追放されたりとか、取り潰しみたいなことが行われたりするっていうのは実際にあって。
24:05
なるほどね。今聞いたと思ったけど、あれもそうかもしかすると、1900の半ばのヒッピーとか。
ヒッピー文化とは結構近い。
あれも失敗じゃ失敗だもんね。
やりきれなかったんだろうね。多分。多分カチューの人たちは幸せだっただろうし、自分は正しいことやってるって思ったんだろうけど、
やっぱり後から歴史で振り返ればとか、その周囲にいる、いわゆる民主主義的な秩序からするとずれてる。
でもそれはあくまでも民主主義中心の見方だったりとか。
そうか。まあ、失敗というのは遅くか。そういう前提条件からすると。
そうそう。西洋中心的な見方からすると、やっぱりなってしまうから。それをどう反省するかみたいなことも、やっぱり鉄悪の歴史の中であったりするし。
これはちゃんと勉強すべきだね。面白いわ。
そうね。勉強すると自分の視野も広がるし、変にこだわりすぎないというか、ちゃんと本当の意味でいろんな感が世の中にあるし、だからといって何でもいいわけじゃない。
ちゃんと社会を維持するにはとか、ちゃんとお互いに心地よく生きるにはこういうやり方が必要だよねっていうこともすごく大事だなって思うし。
確かにね。これが確かに許されるのかは分からないけどね。この前もほら、ハヤト言ったけど、これを空的に考えるとこうで、イデア的に考えるとこうみたいなさ、同じあの実像みたいなものをね。
それを多分自由に本来やっていいんだろうしね。
そうだね。やっぱりなんだかんだ、結局行き着くところまで行き着くと、その同じ共同対抗コミュニティの中で合意ができたものを大事にするしかないよねみたいな話もあって。
結局だからこの例えばAっていう神を信じるべきみたいになっちゃうと、もうそれって本当にいわゆる圧制っぽくなっちゃうけど、Aっていう神もいるし、Bっていう神もいてもいいよね。
でもこの場においてはやっぱりAっていう神に沿った、あの、秩序っていうのを大事にしていきたいよねみたいなことがちゃんと議論できるとか、ちゃんと合意できるみたいな。
いやー、まあ、あれだね、こういう話すると政治だとか宗教が近くなってくるのも、そっか、面白いなー。
哲学ってやっぱ面白いね、そういう危うさっていうとね、それこそ民主主義的なとか、
あれだね、その社会とか、哲学で社会とかを作ってるのに、その社会をぶっ壊す方向にも働くっていう恐ろしいね。
そうだね、そうだね。
今、ハヤトが言った話から、どうしてもほら社会を規定する、神A、神Bがいてもいいみたいなものがあるみたいな話が聞いて思ったのが、
27:03
例えば、西洋哲学的な話で言うと、社会っていうものを規定していくっていう人があって、
それを、そういう社会っていうものを今度、会社で言うと、法人ってさ、法人格って、組織だけれども一つの人格として扱われてると思うんだけど、
それをコミュニティとか国みたいなところで考えたときに、やっぱり国とかコミュニティにも人格っていうものがあって、
西洋哲学的なイデア的な理想的なものを追い求めて、それを普遍的なものとして固めた組織とかコミュニティがあったときに、
それで作ったものが、限りに「空」っていう東洋哲学的な概念を備えたとすると、かなり良さそうじゃないみたいなのを思った。
だから、そうやって俺たち作ったけど、果たしてそれはその、仮に空的な話で、これは仮のものなんだ、みたいな、あくまで仮の理想なんだ、みたいなものを自己認識しつつ、
組織としてそれがどんどんアップデートされていくみたいな状態で、でも理想論だよねっていう。
さっきの全員が悟った状態と近いけど、そっちよりは実現性は高そうだなぁ、みたいなね。
でも、それがまさに今言われているところの、事実分散型組織だったりとか、いわゆる「DAO」っていわれるものとか、
多分Web3.0みたいな、いわゆる脱中心みたいな考え方に近くはあるから。
やっぱりそういう考え方で見ると、これまでの資本主義っていうのは西洋哲学的で、やっぱり今後のWeb3.0とか、自律分散的なものは東洋哲学的だよね、みたいに言う話も、
なんとなくわかるというか、単純化しすぎだけどね。
実際そういう風に捉えられている向きもあるの? ある。でもやっぱりね、仏教はさ、前提として、参画というか共同体を作って、資本主義的な活動をしないっていうのがやっぱり折り込まれているから、
今はね、違うけど、本来は、出家した人はお金を稼いじゃダメだから宅発をしたりとか、寄付、寄付だよね。
財産家の人からお金をもらって生活するっていう。要は、資本主義とかそういう経済圏とやっぱりずれたところに置いてるんだよね、ちゃんと共同体を。
はぁ、はいはいはい。 そうしないとやっぱり、もっと稼ぎたいというか、執着にどんどん繋がっちゃうから。
だからやっぱり、もしやるんだとしたら、今の資本主義的な、その、共同体の外に、どう経済としても回りつつ、個々人の理想を追求できる共同体を作るかみたいな、多分そういうチャレンジになるんだけど、まあ難しいよね。
30:00
まあね、確かに、無理に融合するでもなく、そっかそっか、まあ、融合するのも含めてってことか、どこに、どうやって置くのっていうのが課題ではあるんだね、そこを実装していこうとするとね。
そうかっていうとね、本当にもう話もどこまでも広がっちゃうから、でも最近やっぱりそういうのを考えたりとか、その根底にある思想とかを考えたりすると、やっぱ面白い、面白いというか理解も深まるなと思うし、多分議論も深まるから。
なるほどね、そういうある意味、経済的なというか、すごく現実的な話をするにしても、やっぱりそういう哲学の素養だったりとか、そういうのを抑えておくというのは、あれだね、やっぱりそれがないと、シャリの大発明じゃない、再発明じゃないけども。
再発明?大発明しちゃった。
大発明。
やったーみたいな。
あとほら、巨人の肩に乗るか。これはやっぱり実践的な話とかすごく重要、学問的な話はすごく重要だけれども、こういう思想的な話でも同じことが言えるんだろうねっていうのをすごく感じてる。
そうだね、本当に。
やっぱりいろんなものごとに共通点があるというか、結局これってこの考え方から派生してるのに対して思えればやっぱり理解も早いし、話もやっぱりしやすくなるから、そういう意味ではやっぱり第一哲学、毎日、原因かその哲学ってやっぱりそういった根本とか、その一番そもそものところは何かみたいなものを突き詰めていくやっぱり思想ではあるから、やっぱりそういった意味での、身につけておくというか、それを知っておく、
よく強さっていうのはやっぱりあるなと思うよね。
うんうんうん。面白いなぁ。
そうそう。次回デカルトやりますっていうことを言ったんだけど、ちょっと一個実は補足でやりたいテーマがあって、それが仏教の中の十二縁下説っていう話なんですけど、十二は普通に数の十二ね。縁下は縁とか怒る、要は原因と結果みたいな話で、十二個の原因と結果で人生っていうのは表現できるようみたいな話があって、
それ本当は仏陀とか長路の中で触れたいなぁと思ってたんだけど、全然はめ込む隙間がなくて。
結構大事な概念なのかな?
そうだね。大事な概念だし、最近では言われなくなってきてるんだけど、例えば仏陀が悟ったって言われるじゃないですか、木の下で瞑想してるときに悟ったって言うんだけど、結局悟ったって何よっていうときに、この十二縁下説のことを理解したイコール仏陀の悟りだみたいなことを言われた時期があったくらいなのね。
へぇ~。そうなんだ。ど真ん中だねそれは。
そうそうそう。ただやっぱり解釈が結構いろいろで、難しいというか、いろんな言われ方をしちゃってるから、それを説明しようと思うとなかなかできなかったんだけど、
33:00
僕自身が仏教を一番面白いと思ったのが、この十二縁下説っていうのを知ったときで、その苦しみとか、生まれると辛いみたいなことをどう理解したのかとか、こんな風に理解したら確かに分かった気になるよねっていうのを感じた説なので、
ちょっとそれを次ね、雑談会の続きじゃないけど、ちょっと補足的に説明させてもらって、一旦それで仏教の初期の頃は終了にして、次いきなり近代の西洋哲学にまたちょっと飛んで、そっちをまたこういろいろと漁ってみようかなっていう風に思ってます。
おぉ~。了解です。
じゃあまた次回はその十二縁下説っていうのをちょっとやって、改めて仏教の初期仏教の最終回ということでやっていこうと思うので、ぜひ次回も楽しみにしてください。
了解です。じゃあまた次回もよろしくお願いします。
はい、お願いします。
♪~
34:06

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