YCAMぐるぐるラジオ Season2の始まり
YCAMぐるぐるラジオ Season2、10月21日土曜日、山口情報芸術センターYCAMからお届けしています。
現場にいるのは、YCAM教育普及担当の近野恵菜と山岡大一です。よろしくお願いします。
このラジオでは、YCAMのスタッフがナビゲーターとなって、YCAMに訪れる様々なクリエイターをゲストに迎え、
一緒にテクノロジーのこと、アートのこと、生活のことについて様々な問いを立てたり、悩みを相談したり、
そんな頭をぐるぐる動かしている様子を発信しております。
本日、すごく音声トラブルがありまして、たくさんの方に助けていただいて、何とか本放送にこぎつけることができました。
ありがとうございます。そんなラジオ、Season2なんかね。
ほんと、全員抱きしめてチューしたよ。
ありがとう。
本当に1年半ほどやってるんですけれども、まだまだ皆さんと一緒に作っていくラジオだなということを痛感した限りでございます。
そんなSeason2からは、YouTubeで公開収録の様子を配信しております。
YouTube見てる方いらっしゃるかな?
YouTubeの配信のコメント、気づき次第どんどん拾っていきますので、
もしYouTubeでも見ている方は、ぜひ何か気になったこととか、もしくは音声トラブル、YouTubeからしか気づかないこととか。
今度はYouTubeの方から。
気になるけど、ぜひ教えていただけると大変助かりますので、気づき次第拾っていきますのでよろしくお願いいたします。
何か意見来てるよ。
本当だ。温かいコメント。ホカホカ。
可愛いコメント。
ホカホカのコメントを引き続きお待ちしております。
YouTubeの配信なんですけど、YCAMのウェブサイトだったりとか、
あとYouTubeの方でYCAMグルグルラジオっていう風に検索していただくと結構すぐ出てくると思いますので、そちらからご覧いただければなと思います。
また本日収録される内容はデジタル配信サービスSpotifyにて、ポッドキャストの形式でも順次公開予定です。
これまでの2022年からのすべての回とSpotifyのみのオリジナルコンテンツ放課後グルグルラジオっていうやつもやってるんですけれども、
そちらもすべてSpotifyで無料でいつでも聞いていただくことができますので、詳しくはお使いのブラウザでYCAMグルグルラジオって検索してみてください。
ぜひ聞いてみてください。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
それでは本日、ゲストとして大変お待たせしてるんですけれども、
志村信宏さんのゲストインタビュー
ゲストとして11月25日土曜日からYCAMで行う展覧会、アフターノート山口市映画館の歴史のアーティストであり、
現代美術作家の志村信宏さんにオンラインからご参加いただいております。
志村さんよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
こんばんは。
こんばんは。
聞こえますか?
聞こえます。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
志村です。
温泉トラブルで多分一番お待たせしたのは志村さんだったと思うんですけれども。
ありがとうございます。
全然待ってないですよ。
本当に?
よかったよかった。
ありがとうございます。
強気な範囲じゃないですか。
慌てる?
ありがとうございます。
こちらも強気でいければなというふうに思います。
じゃあそんな志村さんと一緒に今日のお品書きいきたいと思います。
わーすごい志村さん手振られてますよ。
手振られてますよ。
志村さんの画角から絶対見えないと思うんですけど、今いろんな人が手振ってくれてます。
じゃあお品書きいきたいと思います。
本日のお品書きです。
まずは最初のコーナーはゲストインタビュー。
YCAMや山口にまつわる様々な方をゲストにお招きして、
普段の活動とその裏側を教えていただくコーナーとなっております。
アフターノート山口市映画館の歴史は、
山口市における映画館の歴史を市民の記憶や残された資料などを記録を通じて巡る展覧会となっております。
映画館にまつわる記憶をひも解くドキュメンタリー映像のほか、
当時の映画館に関する資料やすごく貴重な写真や映像なんかも展示する予定です。
志村さんの映画館にまつわる経験と展覧会準備
本日はその展覧会オープン前のこのタイミングに、
志村さんから活動とかお仕事を始めたきっかけだったり、
YCAMとの出会いとかなりそめだったり、
あと展覧会準備って実際どんなことがあるのかとか、
その裏側とかをいろいろ伺っていければなというふうに思ってます。
志村さんよろしくお願いします。
教えてください。
よろしくお願いします。
ありがとうございます。
そしてもう一つのコーナーが、ぐるぐる相談室。
YCAMぐるぐるラジオ宛てに届いた疑問・質問・お悩みをみんなでシェアして一緒に考えてみるコーナーです。
今回は過去回のゲストから寄せられたお悩みを中心に、
ゲストの志村さんと一緒にぐるぐるとさせていただく予定です。
こちらもよろしくお願いします。
お願いします。
じゃあもうちょっと時間を押してしまったということで、
早速最初のコーナーに行きたいと思います。
ゲストインタビュー。
まず最初に簡単に志村さんのプロフィールを私の方からご紹介させていただければなと思います。
志村信博さん、現代美術作家。
1982年東京生まれ、横浜美術館での滞在政策をきっかけに、
2010年から2012年まで横浜小金町を拠点にし、
秋代国際芸術村での滞在政策をきっかけに、
2013年から2015年までを山口市を拠点に活動されていました。
2016年から2018年まで、
フランス国立東洋言語文化大学、イナルコの客員研究員としてパリに滞在。
身近な日用品や風景を題材にした映像インスタレーションから、
近年では各地のフィールドワークをもとに、
ドキュメンタリーの方式を取り入れた映像作品を制作されています。
ローカルな視点から可視化されづらい社会問題や歴史に焦点を当てるプロジェクトを手掛けられていて、
現在は千葉県を拠点に活動されています。
いろんなところに行ってますね。
結構点々とされているイメージなんですけれども。
なんかね、点々としてますね。
すごい、志村さんが一番ちょっとびっくりしてる感じなんですけれども。
改めてそんないろんな場所でいろんな活動されている志村さんの話を伺っていければなと思います。
まず最初になんですけど、
結構そもそもお仕事というか作家活動というか映像とか映画みたいなものに興味を持ったきっかけとか、
いつから興味を持っているとかっていうのはどういう感じなんでしょう?
てかあれですよね、志村さんって最初現代美術作家って紹介してたけど、
主に結構映像とか映画みたいな近しいというか、そういうものを作られたりする印象があるんですけれども。
そのあたり最初に今のお仕事に興味を持たれたきっかけを教えていただいたんですか?
なんか高校時代に遡るんですけど、
まず美大とかそういうものを作る職業に昔からなりたかった。どうなんだろうな。
漫画家になりたかったっていうのがあったんですよね、小学生ぐらいの時。
漫画少年だったんだ。
自由帳に漫画とかいっぱい書いてた口ですか?
そう書いて、それをクラスの子たちに回してたみたいなことをやってたんですよね。
連載っぽく。
すごいめちゃくちゃ自分も身に思いがあって、今すごい記憶がバッと蘇ってきました。
ちなみにどんな漫画なんですか?
確かに気になる。
どんな漫画?スポーツ系かな。ジャンプが好きだったんで。
そういうジャンプとかの漫画に影響されたスポーツや冒険ものかな。
志村さんのタイミングだとスラムダンクはもうちょっと上?
ドンピシャか、なるほど。
そりゃ影響受けるわ。
でもなんか漫画って絵が上手いだけじゃなくて、ストーリーを考えなきゃいけないじゃないですか。
そうですね。
作品によっては絵を描く人と原作者が分かれたりとか、
なんか多くは途中で原作とかストーリーを考えるところまでできないなとか、
あとはなんか子供心に漫画家になるのは大変っていう、もう狭きもん。
だから気がついたらその夢はなくなってて。
でもどっちかっていうと絵作りみたいなことには引き続き興味があり続けたみたいな感じなんですかね。
絵というかビジュアライズというか。
いやそんなにないですね。
じゃあ一回その夢は難しいなと思って。
もう自然に消えましたね。
自然に消えていって、映画監督になりたいとか写真家になりたいとか全くなくて、
本当に僕平凡な高校生活を送ってて、サッカーやってたんですよ。
中学高校サッカー部で。
ガッツリだそれ。
ガッツリやってて。
平凡ってか全然イケイケっぽくない?
クラスのイケてる。
そんな上手くないし。
そうなの?
本当に?
2年生の時に怪我しちゃったんですよ。
怪我して、2年生の夏休みに合宿って行くじゃないですか。
ありますね。
運動部だとね。
ちょっと離れたところに行って、ナンパク化して練習するみたいな。
ちょうど怪我してたんで、怪我してる時に行ってもやることないし、
高校2年の夏をそうやって過ごしていいのかなとか思いながら。
たまたまサッカー部の顧問がクラスの担任だったんですよ。
正直に話したら、普通だったらそれでも体育会系だから、それでも来いって言うかと思ったら、
頑張れよみたいな。
仲間の応援とかできることあるぞみたいな。
高校がある最寄駅の近くに美術予備校があるから、そこに行ってデッサンとかやったらどう?
左側なんだ。
めちゃくちゃその先生の鶴の一声じゃないですか。
本当にそう。
渋谷さんがデッサン好きとか、絵が好きとかその先生は知ってたんですか?
そんなにそんなに。
なんで進めたんだろうね。気になるね。
それで夏休みの夏季講習に行ったんですよね。
それが結構衝撃的で。
最初はデザイン科だったのかな?基礎科だったのか忘れたんですけど、
そこでこういう世界に自分も行きたいなってものを作るっていう。
先生、専権の命あると思ってずっと見てるんですよね。
先生は本当に今でも感謝してるし、先生今でも僕の展覧会見に来てくれるんですよ。
そうなんですね。
目の付けどころとかで気になることがあったのかな?
あったのかもね。
その作品の中でも。
その先生にも話を伺いたいなって思いました。
呼び出して。
いろんなところで話すとみんな関心してくれる話なんですよ。
本当に良かったですね。それこそ偏見だけどスポーツの先生ってね。
さっき志村さんも言ってたけど、それでもできることあるよとか応援しに来なさいとか言いそうなものって思っちゃうけど。
俺もサッカー部で深爪になっちゃってさ、全然ボール蹴れないみたいな。
走るのもやっとみたいな時があって。
先生にさ、ケガで辞めたいんですけどって言ったら、
ふざけんなよって大声で怒られて。
そっかーみたいな感じで辞めたんですけど。
でもその先生はすごいなって思ったんだもんね。
僕の人生って自分でこうしたいっていうよりかは、
誰かが現れて、その人の一声とかで、
そんな考え方とかそんな道があるんだって思って変わっていったりするのが多くて。
思えば高校生っていうからですね。
なるほど。それはじゃあその後の、例えばこの後、
こちらで書いてるメモに横浜時代、山口時代、パリ時代、
そして千葉時代みたいなことがメモで書いてあるんですけど。
この横浜美術館の方で滞在制作するようになったきっかけとかも、
割とこう自分で横浜でやるぞみたいなことではなく何か。
もう全然全然。
全然なんだ。
全く。
誰かからこうやってみるみたいなお話があったとか。
そうそう。割と受け身って言ったらあれだけど。
面白い。でも逆に言うと他の人との出会いで、
それを自分の力にできるというか。
そうですね。
あとコミュニケーションがすごく取れてるんだろうなっていうのは、
高校時代の先生の話も思うし、
他の方がサジェスションしてくれることがピタッとはまるのは、
そもそもその人と結構ちゃんとやり取りができてるところなんだろうね。
そうですね。
先生とは仲良かったしね。
そうですよね。
羨ましい。
羨ましい。いいことですよね。
英語の先生だったの。
へー。
コミュニケーションをしてた。
高校時代からの創作活動
部活はサッカーやってたけど、授業は英語やってた。
へー。
なんかそういうコミュニケーションに明るい人が英語の先生をやってる学校って、
めっちゃなんか素敵だなっていうふうに思っちゃいますね。
なんかその後の即席なんですけど、
じゃあまずそれで高校時代から何かを作る人になろうとか、
何かを作る人になりたいなと思って、
その後は大学の方は?
武蔵野美術大学っていう。
なるほど。武蔵野美術大学か。
そこでも映像を専攻されてたんですか?
その時映像ですね。
なんか面白いのが、美大っていう道があるんだと思って、
で、自分の実家の一番近い大学を探したら、
まず武蔵野だったんですけど、
道的に近かったんですか?
高校よりも近かったんですよ。
近所。
通いやすいじゃん、みたいな。
自転車で20分ところにあって、
こんな近くに美大あったのって、ほんと。
結構その近さがかなり大きいポイントとして。
近さはほんとね、後押ししてくれました。
そうですよね。
結構美大とかってそもそもお金がかかったりするから、
それでプラス下宿だとかいろいろなのがなかなか難しいけど、
実家から20分でチャリで行ける人。
高校より近いの?
圧倒的に有利だよね。
武蔵野美術大学での映像専攻
圧倒的に有利。
そこはもともと映像にしようみたいなのは受験の段階から決めてた?
そうですね、割と小規模っていうか、
こういうとすごい消極的だっけ。
いろんな試験があるじゃないですか。
デザイン家とかデッサンとかがあって、
自分は絵が子供の頃からうまいと思ってたけど、
美大に行くような人たちの絵って次元が違うんだよね。
そうなの?
ほんとに。
めちゃめちゃわかります。
私、高校がちょっと単位制の変わった高校で、
美術の授業とかも選択してもしなくてもいいような状態になってたから、
ちょっと好きだから美術の授業を選択してたんですけど、
周りが美大受験チームみたいなところに一人だけ、
予備校行ってますみたいな。
おのぼりさんみたいなのが入っちゃって、
本当に芸大美大を受ける子ってこんなにうまいんだと思う。
これは多分浪人しないと入れないなっていう世界だよね。
その時もまたちょっと偶然なんだけど、
高校生の時デニーズにアルバイトしてて。
ファミレスの?
そうそう。
デニーズにグラフィックデザイン専門学校に行ってる方がいて、
バイト仲間に行ったんですか?
バイト仲間。
ちょっと相談したら、これから映像の時代来るから、
映像の方がいいんじゃないかって言われて。
すっごい。
また鶴の一声の人だね。
そうそう。
そこで登場するんだって思った。
映像試験も見たらデッサンとかになって、
絵と文章みたいな。
これの方が向いてるっていうか、
インスタレーション作品と山口県での活動
受かりやすそうだなって思って、
そこで行ったって感じですね。
結構狙い通りに映像化に入るんですか?
狙い通りに第一志望に入れたんですよ。
でもチャリで20分で通うことに。
20分。
近い。
そうなんだ。
でも自分の人生とか振り返った時に、
俺が選んだっていう感じっていうよりかは、
やっぱりそういうきっかけとか。
出会いとかね。
たまたまとか結構あるよなって思いながら聞いてました。
でも入ってからすごい苦労したんですよ。
そうなんですね。
すごいどっぷりじゃないですもんね。
高2ぐらいでちょっと道を変えて入ってきたから、
周りの子結構美術どっぷりみたいな子が多かったんですよ。
同級生とかが映画監督目指してるとか、
写真家になるためにも来たとか、
アニメーションサッカーも卒業したらジブリ入るみたいな。
すごいモチベーションの子たちの中で、
僕は割とまだそこがふわっとしてたっていうか、
まだ何をやりたいか分かんないまま入っちゃって。
なんかこういい雰囲気そうだなとか、
いい予感がするなできてる人は多分志村さんだけだったんですもんね、周りでね。
そうそうそう。
だから最初の1,2年はね、
本当に入ったんだけど、この道でよかったのかなって思ってまして。
本当に。
結構それ聞くと本当に横浜に限らずなんですけど、
滞在政策に至るきっかけみたいなのもすごい気になるんですけど、
普通に大学卒業して、
でじゃあ院とかに行かれたんですか?
それとももうそこから作家活動?
卒業して、作家になろうと思ったんだけど、
学校の担当の先生に、
多分今卒業すると早いから、
もうちょっと大学で作品作ってから、
作家活動した方がいいって言われて、
で院に残って、
そうですね、そこから。
じゃあ最初の政策はもう学生時代って感じですかね?
学生時代。
で、インスタレーションを作ってたんですよね。
映画とか写真とかそういうものじゃなくて。
インスタレーションってあるんですね。
空間で。
フォローありがとうございます。
空間全体を作品とするものをインスタレーションって言ったりする。
それがね3年生の時で、
本当に3年生はね、
自分が何やるか全然決まってなかったんだけど、
3年生の時にインスタレーション初めて作って、
それが結構いい作品できたんですよ。
だから今から言うと向いてたんです、そういうことが。
だからちょっと映画とかいわゆる映像よりも、
空間全体を作るような作品の方が自分にしっくりきたっていう。
そう、空間も使うこともそうだし、
映像っていうメディアで何ができるかって考えた方が考えやすかったんですよね。
他の子たちは映画やりたいとかアニメーションやりたいとか、
特定のジャンルがあったんですけど、
そういうジャンルじゃなくて、
映像っていうメディアでどんなことができるのか。
それを空間でプロジェクションすると、
いろんなものになるっていう可変性みたいなところが面白かったんですよね。
なるほど、ちょっとそれ聞くと一歩引いてっていうか、
映像自体ちょっと半分疑ってっていうか、
それで遊んでる感じがしますね。
聞いてるとそういう学生さん、
今まさにそういうの悩んでる人いそうだなと思いながら聞いてたな。
それが変わるタイミングって、
インスタレーションの作品を学内とかで発表したタイミングって感じなんですかね。
意外とこれいけるかもとか。
4年生ぐらいのときにいけるかもって思いましたね。
そっかそっか。
すごい、ガッツリ手応え感じてる。
それで大学院で修了して、
展覧会で作品発表するようになって、
それを見た人が読んでくれてっていう。
で、大きいきっかけは横浜美術館の方が作品見てくれて、
横浜に滞在して作品を作りませんかっていう話が来て、
それがすごい楽しかったんですよね。
そういう普段の自分がいる場所じゃないところに行って、
そこで得たインスピレーションとかから作品作るっていうのが、
こんなのあるんだって思って。
結構ここから起点に、
一定の場所にずっといる方じゃなくてどんどん住み方というか、
拠点を変えながら活動されてるなっていう感じがしますね。
自分が知らない日常みたいなものに触れることがすごく楽しくて。
すごい興味があったり。
私もともと出身が神奈川県なんで、
さっきのプロフィールとかを見てるときに、
小金町って思ってたりしてたんですけど、
特殊な場所ですね。
ちょっと悪い。
悪が集まっちゃうみたいな。
ちょっとそういう特殊な場所で、
でもだからこそそこにある日常とかって確かにすごい面白いというか。
そうですね。
出会ったりとか、歴史があるんで、
背景にした作品であるとか。
ゼロから作るより自分の知らないところに飛び込んで、
何をそこで自分が見るのかっていうところから作品を組み立てる方が
作りやすかったんですね、最初の頃。
面白い。
なんか僕、ロストイントランスレーションだっけ?
ロストイントランスレーション?
ロストイントランスレーション。全然言えない。
フィアコップルかな?
そうそう。僕あの映画すごい好きで、
あの映画って自分が住んでる日本ってこうだろうなとかって、
そもそもそういうふうに普段から意識してるわけじゃないんだけど、
外側から来た旅人っていうか、
ソフィアコップルから見た日本ってこうなんだっていうのがすごい知るのが面白くて、
渋谷さんの作品も、もしかしたらその拠点をちょこちょこ変えたりするのも、
旅人でしか見えない風景っていうか、
そういうところを探ったりしてるのかなっていうふうに聞いてて思いました。
そうですね。確かに1拠点にいる期間が大体2年から3年って、
そうですね。
ギリギリ客観的にいられる長さみたいな感じがしますね。確かにね。
結構、東京横浜間の移動ってかなり想像しやすいんですよ。
そうですね。
横浜の中でもちょっと特殊な場所ではあるけど、
近いよね。
近いし電車で行ける距離だし。
そうですね。
結構その次が山口。
特大の山口。
大ジャンプですよね。
大ジャンプですね。本当本州の端っこなんで。
もちろんきっかけとしてはね、先ほどプロフィールの方でも紹介させていただいた
秋吉大国際芸術村とかがあったと思うんですけど、
割とそれ結構勇気がいるジャッジというか、
でも全然行っちゃおうみたいな感じだったんですか、お声がかかって。
でも秋吉大は2、3ヶ月。
うんうんうん。
まあ短期間なんで。
それは自分で応募したんですよ。
あ、そうなんだ。
応募して通って、それで行ったのが初めて山口県上陸で。
それが2013年。
はい、2013年。
それで、ちょっといろんな文脈があるんだけど、
横浜にいる時に、僕次は何をしたいかって言ったら海外に行きたかったんですよ。
なんか女性勤とか、あとなんか、
実はその時いろんな賞の候補とかになってて、
賞を取ったら海外に行けるっていうのがあったんですけど、
なんかね、それがね、あんまり通らなくて。
ちょっとコンペが難しい時期があったんですね。
海外行けなかったですね。
なんか自責とか、あと一人で行けたと。
そういう。
難しい。
そうそうそう。
で、でも山口行った時に思ったのが、
海外に行かなくても、こんだけ移動したら、
全然その新鮮というか、知らないこと。
まあ海外みたいなもんじゃん。
ほぼほぼ海外に行ってもいいんじゃないかっていう。
結構気持ちわかります。
私本当さっきも言ったけど、神奈川出身で、
意外と関東圏って、東京に出られるとかになると、
割とそれで世界が完結して見えてるところがあり、
なんかガッツリ地方都市みたいなのに初めて行くと、
結構異世界だと思いますね。
思った、今山口に初めて上陸した時の気持ちを思い出してきました。
だからなんか海外に行く前に、
やっぱりもっと日本のこと、日本というか、
東京だけじゃないですよ、海外を知りたいなっていうのはあったんですよ。
それ面白いことに、秋代書代国際芸術文化に滞在してる時に、
2013年の滞在中に小金町の、僕は長期レジデンスって言って、
3年間ぐらい住んでたんですけど、
滞在生産ですよね。
僕ね、長期間部屋を借りてやってたんだけど、
ディレクターから連絡があって、
大谷さんの意向が変わって、
来年度から使えなくなったって、君の使ってるスタジオが。
あら。
それで、まだ引き続き小金町に残るんだったら、
新しい場所探すし、どうするっていう。
へー。
見た目の前に現れたんだ。
そうそう、だから帰ったら、横浜に帰ったら引っ越さなきゃいけなくて。
スーパー詰まった。
そうそう。
それで、やっぱりYカムの話に戻るんですけど、
Yカムがあるっていうこと、
その後Yカムでやることっていうのがあったので、
生口に引っ越そうって。
なるほど。
宇井英治さんのルーツ
拠点を変えたんですよね。
そこでもし大谷さんの意向が変わらなかったら、
普通に横浜に帰ってた可能性が大なんですね。
そうかもね。
大ですね。
普通にすごい安い家賃で。
3万円とかで借りてました。
えー、安っ。
すごい。
自転車で10分で港未来とかまで行けたんですよ。
すごい高所見だね。
本当すごい。
高リッチですね。
シティボーインを満喫してましたね。
横浜の風を浴びてね。
横浜。
港の風を浴びれてたんですけどね。
それが急に、ちょっともう戻る家ないよって言われて。
それで、秋代国際芸術村に行ったと。
秋代国際芸術村はワイカムから来るまで大体30分ぐらい。
そうだね。
ところにある、磯崎新田が建築をした、
まあ滞在施設、滞在政策を。
作品発表もできるし、滞在政策もできるっていう場所だね。
そうだね。
じゃあ全然山の中にね。
海か山かで。
山ですね。
山の中にずっと。
えー。
とかそっか。
で、山口の時代を過ごすと。
そうですね。
山を持ちして、その後海外に。
そうですね。文化庁を出して。
はいはい。
ついに海外に。
へー。
結構さっきね、打ち合わせの段階で、
これ発音なんて言うんですか?とか言っていた、
フランスの国立東洋芸術文化。
稲る子。
稲る子ですね。
稲る子とかは、もう客員研究員として行ってたんですよね。
はいはい。
そうですね。
受け入れ先がないと文化庁って通らないんですよ。
そうですね。
で、そこの大学のミカエル・リュケンさんっていう、
フランス人の研究者の方が受け入れ先になってくれて。
研究者ってなるとどういう分野を研究されてる方なんですか?
その方ですね。
うん。
その方が実は日本のことを研究していて、
日本美術であったりかは日本の文化のことを研究してるんですよ。
へー。
その方と出会い方も結構すごくて。
ほうほう。
山口市のブックオフってありますよね。
ありますね。
山口市のブックオフですか?
ブックオフにたまたま行ったら、
ほんとね、1センチくらいの薄い冊子があって、
それがね、早稲田大学のシンポジウムの記録集だったんですよ。
すごいの売ってるな、ブックオフに。
すべての地が集まってくる。
そうそうそう。
それ100円くらいだったんだけど、
なんかわかんないけど面白そうだなって思って。
へー。
その中にね、ミカエル・リケンさんのシンポジウム記録が載ってて。
へー。
こんな人面白いなと思って。
それで行くのを決めた?
それでこの人のところに行きたいなと思ってパリにしたんですよ。
パリで観光したんです。
アートと地域の関わり
すごーい。
なんか人生にドラマが多いですね。
そうですね、ほんとに。
ちゃんと自分のことも思い出したら
自分の人生もこんなにドラマチックなんだろうかとか
話し聞きながらすごい思っちゃうんですけど。
ブックオフで出会った一冊の本を。
一冊、はい。
でもなんかいい感じで身軽っていうのもすごくいいね。
うんうん、そうだね。
ブックオフで出会った本でさ、この人面白いなって思ってもさ、
まあ面白い人いたな、おやすみって言って寝ちゃうことだって多分たくさんあると思う。
でも行っちゃおうって思えるっていうね。
確かにそれはすごい身軽さかもしれない。
あとすごい面白いなと思うのが、
なんかさっきそれこそロストイントランスレーションの話山岡さんがしてくれたけど、
まさにフランスから日本を見つめる研究。
あーそうだね。
そうなんですよ、そうなんですよ、ほんとに。
すごいいいつかみ方するね。
あのね、ミカエル・ルケンさんが最後、2年の研修だったんですけど、
最後お別れするときに言ってくれた言葉がすごくて、
やっぱり2年間母国を離れるっていうのは、すごい貴重な時間なんだと。
で、あなたが今これから日本に帰ったときに、
すべてが新鮮なものに移ると思いました。
で、その違和感、新鮮さっていうんですよ。
その違和感を忘れないでくださいって言ってくれたんですよ。
だから要は、ストレンジャーとして母国っていうか、日常を見てくださいっていう意味だったんですけど。
すごい、なんか今までのお話を聞いた上で改めに、
さっきのプロフィールのテキストとかを見ると、
まさにこう、ストレンジャーで居続ける取り組みというか、
だからこそこう見えてくるローカルな視点みたいなものとか、
に焦点を当てるプロジェクトをされてるんだなっていうのを改めて思いますね。
そうですね。
慣れちゃわないようにする。
慣れちゃわないようにする。
いかできたりとか、違和感みたいなものを大事にし続けられるような作品制作を続けていらっしゃるんですね。
ありがとうございます。
そしたら話をじわじわと、YCAMの話というか、
アフターマウント山口市映画館の歴史の展覧会の方の話につなげていければなと思うんですけど。
お願いします。
ありがとうございます。
そんな風にいろんな各地で、今千葉が拠点ということなんですけど、
各地点々としながら、それこそずっとこう、
違和感とか、自分の目だから見えるものみたいなのを大切にされてこられたと思うんですけど、
このアフターマウント山口市映画館の歴史っていうのは、
多分元々YCAMのシネマキュレーターの前原の方からお声掛けがあった形だと思うんですけど、
どんな風にコミュニケーションが始まったかとか、
どんな声掛けがあったかとかって覚えてらっしゃいます?
覚えてます。
すごい、2021年の七夕に、
七夕にめちゃめちゃ覚えてる、本当に。
まずは、前原さんと僕は面識なかったので、
アーティスティックディレクターの藍田大也さんから連絡があって、
YCAMのね。
ちょっと相談したいことがあって、
あれなんか、なんだろうな、僕はYCAMで展示したことないんですけど、
どっちかっていうとすごい、なんだろう、
テクノロジーをたくさん使うようなタイプの作家ではないので、
プロジェクターは使います。
志村さん自身がね。
だからなんか、YCAMとの関わりで言うと、
僕がYCAMで展示するってことはあんまないだろうなって思ってたんですよ。
アフターマウント山口市映画館の歴史の展覧会
そうなんですね。
あんまイメージができなくて。
何か頼まれるって、ワークショップとかが何かなって。
最初のZoomのミーティングの時に、
前原さんと藍田さんが一緒に出て、
20周年、2023年に実はこういう展覧会をやろうとしている。
映画館を題材にした。
で、何かそこで作品を作ってもらえないかっていう話をして。
そういう発売だったんですね。
そうなんですよ。
まず思ったのが、
映画館の歴史。
もう約100年ですよ。
そっか。
映画館で。
日本に映画館ができ始めてっていう意味であってますか?
100年っていうのは大体。
そうですね。およそ100年。
芝居小屋から映画館になる。
なるほど。
だから、歴史って言っても、
本当に100年規模の歴史をリサーチしないといけないなと思ったんで。
これすごい大変な仕事だと思った。
でかいぞと。
これ、今までいろんなことやってきたけど、
これ結構なボリュームだぞと思って。
うん。
で、ただ幸い、僕は住んだこともあるし、
土地館っていうんですかね、初めての場所ではないので。
むしろ他の映像作家さんとかが、これゼロからやるってなったら結構大変だなと。
結構他の人の心配までしちゃった。
そうですね。
もし僕がここで断ったら。
他の人に白羽の矢が出て、そしてその人は苦労するだろうっていう。
優しくない?
優しい、確かに。
で、あとやっぱり、僕がやった方がいいなって思ったのは、
まだ説明してなかったんですけど、
山口市拠点にしてた時に、
そのワイトアムシネマで映作技師をやったんですよ。
そうですね。
僕が来た時は、松冨康子さんがシネマ担当で、
その時、元スカラザの支配人の方が35ミリフィルムを回してたんですけど。
元々はワイカムの一番近くにあった映画館ですね。
そうですね。
スカラザさんは。
そちらの映写技師さんから教わりながら、一緒に映写技師をやってたってことですよね。
やってたんですよ。
なかなかそういう経歴の人っていない?
いないですね。
作家活動をしていて、山口のローカルの映画館の方とめちゃめちゃ知り合いで、
映写技師の経験がある人って、もう志村さんお一人だと思うんですけど。
確率で言ったらすごいですね。
本当ですよ。
めちゃめちゃ覚えてます。志村さんが映写技師をしておられた姿。
我々も2013年ぐらいからワイカム全然勤めてるので。
そうですね。
映画館の人だって最初思って接していたんですが。
復旋回収じゃないですか。
10年前にやってたことが、このタイミングで復旋回収する時が来たんだ。
いろんな点と点が繋がって、このアフターノート山口氏映画館の歴史っていうところにたどり着いた感じがありますよね。
そうですね。
確かに志村さんしかできない。これ必然ですもんね。
この展覧会なんですけど、具体的にクリエーションとしては、
ヤバいぞ、100年分の歴史を調べなきゃいけないっていうことに気づかれてからは、
どういう手つきでっていうか、どういう方法を使ってその歴史を調べていったんですか。
まずは映画館をやられてた方ですよね。
映画館を経営されてた方へのコンタクトと、
あとは面白かったのが、
映画館が一番多かった時代っていうのが、昭和35年、1960年前後なんですよ。
その時代一番、山口だけじゃなくて、日本全国の映画の黄金期で一番映画館が多かった時代。
そうなんだ。
7000館あったんです。
結構戦後すぐみたいなイメージのタイミングなんですけど、
その時期に黄金期があったんですね。
そうなんですよ。
昭和35年だから、1960年の山口氏、地図をまず手に入れて、
その中で地図を見るだけでも面白くて。
もちろん映画館は載ってるんですけど、
映画館以外にもこんなに食べ物屋さんがあったんだとか、
実際自営業の店がたくさんあって、
今の商店街があるところに集中してたんですよ。
だいたい今から60年ぐらい前ですよね。
そうですね。
で、今も残ってる店ももちろんあって、
そういうところに飛び込みじゃないですけど、
地図を持っていくと、やっぱり懐かしいっていうのがすごい盛り上がるんですよ。
直接楽しみですね。
この地図欲しいみたいな。
地図だけでもう話が止まらない。
すごいですね。地図というメディアを介してめちゃめちゃ話が盛り上がるのは、
中でも想像つきますね、すごくね。
なので、映画館をやってた方プラス、
映画館が身近にあった、映画館にいてたっていう人たちの話を聞くところから始めましたね。
地図とかもさ、僕らにとっての地図と、
話を聞きに行った方々にとっての地図って全然意味合いが違ってて、
今はさ、Googleストリートビューとか普通に残ってたりするけど、
昔、あのあたりにあれがあったような気がするけど、でも定かではないみたいな、
当たり前に残されてない歴史ってたぶんたくさんあるんだろうね。
だからこそ地図欲しいのかなって。
私たちも、それこそ下村さんも含めて、世代的にはさ、
人生の前半はあんまりこんなにアーカイブ残らないタイミング。
普通に家庭のビデオとかさ、写真とかで残る。
ローカルで保存されてた。
ローカルで保存されてて、それがなくなっちゃったらもうない、みたいなところから、
今もう息をしてるだけでもどんどんデジタルアーカイブが残るみたいな。
今まさにYouTubeに。
今まさにYouTubeにもアーカイブが残ってるけど、
昔の映画館と映画の歴史
確かにそこら辺の感覚が全然60年前だと全く違いそうだね。
だからこそ嬉しくて、話してもらわなさそうだなって想像しました。
面白いな。
そういう地図を持ってまず街に出て、そういった話を聞くというところから始められたと思うんですけど、
そういうリサーチの中で、特にこれは覚えてるな、みたいなこととかエピソードとかってあったりします?
本当にいっぱいあるっていうか、話を聞いただけの数だと200人超えてるんですよ。
200人から話してたんですか?
200人超えてて。
すごい。
本当、昭和一桁の方。
97歳とか、無性映画の時代を覚えてる人。
人の話とかっていうのはやっぱ貴重でしたね、本当に。
自分も映像を作ってるんで、すごく映像の歴史とも関わりがあるっていうか、
映像ってもともと音がつけられなくて、色さえなくて。
保管するためにリアルな弁紙とか楽器をそこで、映画の伴奏じゃないんですけど、盛り上がるシーンで演奏するみたいな。
映画館は楽師っていうんですかね、楽器を演奏する楽師も雇ってたとか。
無性映画時代、なるほど。
そうそう。
面白いな、無性映画って聞くともうなんだろう、もちろん言葉としては知ってるし、
歴史的にそういうものがあったんだよって学ぶものっていうイメージなんですけど、もちろん体験されてる方がいて、
かつそれがあった時って映画館自体も、映像がさっき映像というメディアでできることを考えるって作品制作の中でおっしゃってたけど、
映画館っていうメディアがどういうふうに人に機能してたのかみたいなことも考えられそうですね。
だからそういうことを改めてこのタイミングで出すっていうことは、今の若いっていうか、若い人にとってはすごい新鮮なんじゃないかなって。
そうですね。
携帯で映画が見れる時代に。
スマホ一台でYouTubeすぐ世界に公開できる時代に。
もう一つ面白いのが、それは記憶の部分ですよね。昭和一桁の年配の方たちの。
記録もすごいたくさん積めていて。
映像とか写真とかっていうふうな記録。
写真も映像もあるんですけど、文章、例えば新聞記事とか。
新聞記事も。
新聞記事を大正時代から遡るみたいなこともやっていて。
新聞記事に書いてあるんですか?映画。
そうなんですよね。新聞記事をたどって、その中で映画館の記事を探してもらうっていうことを、若いリサーチャーの方に入ってもらって。
ひたすら県立図書館のアーカイブから、新聞記事の映画館について書かれたものを探してもらうってことをしてもらったりとか。
こういうアーカイブだとどうしても写真とか映像データとかを想像しがちなんですけど、たくさん人に触れるメディアってその時やっぱり新聞とかですね。
そうなんですよ。あとは写真であったりとか。
あと映像がすごくて、今回の見どころの一つが、昭和4年1929年のフィルムが見つかったんですよ。
1929年。
それが66分の映像で、映画って言っていいのかな。
山口長が山口氏になったお祝い。昭和4年間。
山口長が山口氏になったお祝い。なるほどなるほど。そういうタイミングもありますよね。
そのお祝いことを記念したセレモニーを記録プラス、山口氏の観光名所であったりとか、
あと普通に商店街のお店の営みみたいな撮影したフィルムが見つかって、
それってなんかもう、懐かしいとか超えてるんですよ。
今生きてる人にとっては、新しいっていうか見たことない世界。
それさえも見せれるっていうことを考えたときに、
なんかこれはすごい展覧会になるんじゃないかなって思いましたね。
展覧会の見どころと新たな世界の発見
懐かしいを超えると新しくなる。
懐かしいから新しいを往復するような展覧会になるんじゃないかなっていうのを聞きながら。
知らなかった世界。でも確実にあったり、誰かの親戚が写ってるとか。
面白いな。今話聞いてると、山口氏の人からしたら、
懐かしいな、この場所みたいな風にすごく関係を感じられる気がするんだけど、
外から来た人とか若い人とかって関係ないかもしれないと思いつつも、
でも確実にそれが今も残っていたりとか、新しさをそこで感じられるかもしれないっていうのは、
自分の人に見てほしいかもしれないなって思いますね。
なんかその親戚が写ってるとか、現在はこれになってるみたいな知識があるとかっていうことが、
すごいなんかアンカーを打つというか、なんかフワフワしちゃわずに、
そこにある歴史みたいなのを感じられるけど、
とはいえまじで見たことない新しい世界だし、みたいな。
なんかそれってすごくこう歴史に対するアプローチとして、
誠実かつなんかどっしり見れそうだなっていう。
面白そう。すごいより一層興味がめちゃめちゃ湧いてきました。