1. normalize.fm
  2. 064. なにかであるということ..
2024-06-03 2:30:03

064. なにかであるということの それ以前に

@aualrxse さん(作家・デベロッパー・バックパッカー)をお迎えして、休学からの復学で見えてきたもの、テクノロジーに依存したくなかった当時の気持ち、バックパッカーとしての活動を続ける背景、行った先の土地と身体化の話、文脈がなくてもただただいいもの、祭とカルチャーショック、ポートフォリオのリニューアル、ミシェル・ゴンドリーみたいな映像を作りたい話、人と人との関わり合いの話、いつでもビギナーの視点を忘れないことのすごさ、ちゃんと大人であることの難しさなどについてお話しました。


* 作家性を持っていなかった時期

* プログラミングを始めた経緯

* 1つのものに依存する怖さ

* バックパッカーを続けている背景

* 軽率になんとなく行ったカンボジア

* 作品や制作とは切り離しておきたいもの

* 承認欲求はコントローラブルであってほしい

* バックパッカーとしての旅行先での振る舞い

* 旅先の経験を身体化する

* 写真と身体性

* コンテキストがなくてもいいと感じるもの

* 蘇民祭で受けたカルチャーショック

* ポートフォリオサイトのリニューアルの経緯や背景

* ミシェル・ゴンドリーみたいな映像表現

* 作品をつくることのモチベーション

* 人と関わっていたい気持ちと孤独に耐える精神

* SNS を通した薄い関わり合い

* いつでもビギナーになれるすごさ

* ちゃんと大人であるということ

* arata matsumoto


## show notes


* 制作・創作に対するモチベーション

* バックパッカーとして行動することの背景

* ミシェルゴンドリーみたいな映像作りたい


Summary

normalize.fmの第64回では、作家でありデベロッパーでもあり、バックパッカーでもある松本新田さんがゲストとして登場しています。松本さんの異色の経歴や作品制作についての話が展開されています。昨年はテクノロジーを使わないアート作品を制作していましたが、最近はインターネットアートの動向に興味を持ち、ウェブサイトの更新なども行っています。新田さんは自分がどの業界に入ってもやっていけると思っており、未来の自分を俯瞰しながらも自己成長を図っています。地球人であることに誇りを持ちながら、新しい経験を求めるバックパッカーの旅の目的や自己承認について考えています。旅行者の身体性と移動手段についての話もされています。また、作品制作を通じて人との対話を楽しんでおり、作家と同じ立場で喋ることを目指しています。新田さんは経験に基づいたこじつけから本当の作家が生まれていくプロセスを考察しています。 写真撮影の醍醐味は、撮った瞬間の気持ちや自身の感情が映り込んでいることであり、写真を通して他人に自分の感情を伝えることができることです。また、SNSを通じて人々と繋がり、薄い関係性を選択できることで、お互いの人生を監視し続けることができるという幸せを感じることができます。最近地元の同級生とご飯を食べたときに、海外から日本に来ている方々とのつながりについても話があります。 新田さんは年齢や肩書きに関係なく人と対等に接することが大切だと考えています。どんな人間像を目指すべきかについて考え、優しさだけではなく、様々なことを追求できる人間になりたいという話もしています。

松本新田さんの異色の経歴
はい、始まりました。normalize.fmの 今日は第64回になります。
ちょっと期間が空いちゃったんですけども、 今日も元気に撮っていきたいなと思います。
今日のゲストは、normalize.fmのリスナーさんたちの中で どれぐらい知られているのか、私も全く未知数な感じの ゲストの方かなと思うんですけど、
私個人は結構昔からずっと知っていて、 その辺り本編でも話すとは思うんですけども、
知り合いというほどではないんだけど、ずっと 知っていてっていう感じの間柄ではあるんでね、
すごい楽しみにしてたんですけども、 今日のゲストは、作家でデベロッパーでもあり、
さらにバックパッカーでもあるという 異色の経歴をお持ちの松本新田さんに、
今日はゲストで来ていただきました。 松本さん、今日はよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
もうね、結構ずっと呼びたかったんですけど、 なかなかタイミングがなくて呼べなかったんですけどね、
結構面白い経歴だったり、あとは普段作られているものとかも かなり面白いものを作られているなという感じで、
私拝見してますので、その辺りの話とか聞いていけたら いいかなと思っておりますので、早速始めていきたいと思います。
はい、じゃあ松本さん、ちょっとまずは最初に、 簡単にでいいので自己紹介からお願いしてもよろしいでしょうか。
はい、松本新田と申します。 一応今ご紹介いただいたように、
肩書としては作家、デベロッパー、バックパッカーっていう 3つの軸というかを前面に押し出しては活動させていただいてます。
この春に一応大学を卒業して、 フリーランスのデベロッパーになったので、
基本的には最低限の仕事をしつつ、 作家であったりバックパッキング、
ライフスタイルとしてのバックパッキングっていう 3つをどう両立というか、
3本両立するかっていうのを考えながら生きています。
はい、お願いします。
はい、よろしくお願いします。
ちょっとね、多分異色な経歴というか、
こういう感じの人はあんまり今までゲストで いなかったなっていう感じのゲストかなと思うんですけど、
一応最初に、私と松本さんとの接点みたいなところで言うとですね、
一応スクールを受けてくれたことがあるんですよね。
そうですね、はい。多分2年ぐらい前のJSLスクールだったと思います。
僕が受けさせていただいたのは。
そうですね。で、その時に、私から見てると、
その当時から結構すごい、何ていうのかな、
なんかCG的にも普通のものというよりは ちょっと変わったものとか作ってる感じがあったし、
なんか結構個性的な感じだなって当時から思ってたんですけど。
本当ですか?
いや、結構なんか、何だろうな、
あんまりスクールに関連して別にスクールでやってるDiscordとかに貼るとかではなく、
普通にTwitterとかで、結構ウェブカメラからの映像をシェーダーで加工したやつとか、
ツイートしてたりとか、
ああいうのを見てて、面白いなって思ってましたね。
ありがとうございます。
なんか当時は結構、作家としての自我がまだなく、
松本さんの作家としての活動
当時はスタリワークスっていう製作会社でお世話になってたんですけど、
大学休学して1年間、1年半ぐらいスタリワークスって会社にお世話になってた時期があったんですけど、
当時は割と作家としての自我というよりは、
WebGL、3JSですけど、3JS勉強したいみたいな、
その習作のアウトプット的な感じで出していたので、
あまり今振り返っても、そんなに作家性のことを考えながら作ってはなかったので。
当時は普通にスタリワークスさんのスタッフっていう形だったんですかね、当時は。
一応学生の枠で申し込んだような気がしますね。
ああ、そっか。
学生紙はしっかり持ってたんで、その時は。
そうですね。学割だったか。
多分そうです。
学割のプランで申し込みしてもらって、確かにそうだ。
学生証を見せてもらって、そのメールのやり取りをやった記憶を今思い出しました。確かに。
そうですそうです。
ちょうどコロナ禍でスタリワークスとしてもWeb関連のWebGLを使った消息的なサイトだったりっていうふうな案件が多かった時期だったので、
個人的にも勉強したいなっていうのもあり、それで受講させていただいてましたね。
そっかそっか。
当時は、今まさにご本人からも作家制っていう話もありましたけど、
その当時はいわゆるクリエイティブなことをちょっとやってみたいなとか、あるいは仕事で使えたらいいなとか、そういう感じでCGと向き合ってたみたいな感じだったんですか。
そうですね。なんか結構、エンジニアとしてプログラム勉強し始めた当初は、当時はなんですけど、あまり作家制のことは考えていなくて、
っていうのも、元々バックパッカーになりたいっていうのが念頭にあったので、バックパッカーになるために独立しなきゃいけないみたいな観念がすごく、脅迫観念がすごく強く、
そのために独立するために独立できるだけのスキルを身につけなければみたいな、割と横縞な気持ちで勉強してアウトプットしてたと思いますね、今振り返ってみると。
そもそもプログラミングを本当にJavaScriptだったらコンソールログからやり始めたきっかけもバックパッカーになりたいっていうのがその時点であって、
フリーランスにならなきゃいけないみたいな、プログラマー儲かるらしいぜみたいな、未経験から3ヶ月でフリーランスにみたいな広告とかを見て、
スクールこそ、そういうプログラミングスクールこそ行ってないっていう独学ではあるんですけど、割とフリーランスになれれたらイラストレーターでもデザイナーでも何でもよかったってところから、
本当にルーレットぐらいの感じでプログラムを選んでっていうところから始まったので、自分の作品をちゃんと美大で作り始めるようになるまではあまり純粋な気持ちは作ってなかったと思いますね。
うーん、なるほど。休学してスターリーワークスさんのとこに行かれてたときは、まだ違う学校というか学科だったっていう感じなんですか、それって。
一応、大学に2019年に入学して2年通って1年休学してる間にお世話になり、復学してから2年間、また美大なんですけど通ってって感じですね。
そっかそっか、じゃあもともとそういう学部にいて、たまたまその間の休学期間中にJLSLスクールにいたっていう感じだったんだ。
そうですね、はい。
そっかそっか、じゃあそもそもなんでその美大に行くぞってなったり、もっと最初のきっかけとかはどんな感じだったんですか。なんでそもそもそうなったんですか。
これもなんか正直大した理由がなくて、僕の大学の学科、まあ学科名ちょっと今から悪いこと言おうとするんで学科名伏せますけど、
なんかあんまり人が集まってこない、もう定員割れしてるような学科で、定員がもう割れて0.4倍みたいな倍率になったんで、なってきて定員をどんどん減らしてるようなところだったんで。
逆に言うと全く勉強しなくても受かる学科があるみたいな、高3当時受験勉強1ミリもしたくなかったので、とりあえず行けるところに行ったみたいな感じだったんですよね。
なんで入学してからも授業も全く受けてなくて、単位もあと1校としたら留年ぐらいの感じでずっと1,2年はだらだら堕落した生活をしてたんですけど、バックパッキングだけは好きでやってたっていうふうな経緯があって。
なんで美大に行ってたとは言いつつ、1,2年生の頃は特に作品を作ってたとか、作家性が芽生えてたとか芽生えそうにもなってもなかったんですよね。
なるほど。じゃあそれは何?最近卒業する前に卒典とかもやってたと思うんだけど、何か心境の変化があって、やっぱり学問としての美大の授業だったりとかも、受け方というか受け止め方が変わっていった感じだったんですか、それは。
これがやっぱり休学するじゃないですか、休学するとやっぱ学生証持ってるんですけど、在籍はしてるんで、休学すると学生証持ってるとはいえ、学生記を取り上げられた感というか、もうがっつりフルタイムでお仕事させていただいたんで、その時にはなんかすごい大学で面白くない普通の教養の授業とかをガミガミ聞かされる感じとかがすごい実はありがたいなみたいなのを
なんか社会、多分あるあるじゃないですか、社会人になって、なんであの時ちゃんと勉強しておかなかったんだみたいなのを後から気づくっていう、それはなんか僕は休学することによってちょっとこう疑似的に実感させてもらえたみたいなところがあったので、
それでなんか副学して美大生の肩書きが戻ってきた、勉強しなきゃ、制作しなきゃみたいな、割と肩書きに依存して制作しなきゃみたいな、そのぐらいのでも割と不安定な、結構飽きやすいというか、そういう影響されやすいところもあるので、そうですね、そのぐらいのきっかけだと思いますね。
なるほど、いやなんか、そうだね、ここまでのお話を聞いてる感じだと、まあ確かになんて表現するのが正しいかわかんないけど、あんまりこうすごいこう心の通った信念みたいなのがあるっていうよりは、結構その場その場でふわふわふわふわ結構いろいろやってきたような感じにすごい見えますね、話だけ聞いてると。
なんか人生観みたいな、なんか結構昔からすごい考えすぎる性格で、人生観みたいなものがずっとこう寝る前、夜寝る前とかにずっとこう考えて考えてっていうのが続いてきてたので、そこのそういう意味でのなんかどう生きたいかみたいな抽象的な芯の部分、まあバックパッキングしたりとかもそうなんですけど、そういう割とライフスタイルとかいうレイヤーまで潜っていったところの芯の部分はあんまり変わってないんですけど、
その上でどうやってそれを実現するかみたいな手段とか表層的な部分はもうどんどんどんどん変わりまくっていってる感じはありますね。なのでちょっとまあよく言えばすごい器用貧乏な感じで、まあ器用貧乏って別によくも言ってないですけど、まあなんか悪く言えば何にも愛せないというか。
なるほど、いやでも結構なんかそのデベロッパーであったことあるいは今でもあり続けているっていうところは結構でもなんかそのさっきの話だとまあフリーランスで食っていければ何でもよかったみたいなこともちらっと言ってたけど、結構そのデベロッパーであることは割と肌に合ってるというか、性に合ってるみたいなとこはないんですか?
いやあんまりなくて、3年後はもうやってないんじゃないかなとか考えたりしますね、やっぱりそのまあ勉強し始めてである程度お仕事とかもらえるようになったら自分がそこにたどり着けるかどうかはさておき、割と業界もそんなに広くないんでトップレベルの人たちとちょっとお話しさせていただけたりとかはするじゃないですか。
松本さんのマルチなアプローチ
そうやってなんか結構頭打ちのすごい人たちを目の前にすると、とかまあ今だった小学生で言語作ってますみたいな人とか見ちゃったりするとなんかまあ別に自分がやらなくてもいいじゃんみたいな、俺って何なんだろうみたいな。
そっか、でもどうなんですか?なんか俺から見てると言うてでも楽しんでもいるのかなっていうふうには見えてたんだけど、それもだんだん変わってきたみたいな感じなんですか?
楽しんでいますね。ただ依存はしたくないって感じですね。
あーなるほどね。
なんか結構表層的なものに依存すればするほどちょっとそれを失った時の恐怖が大きいじゃないですか。なんかフラッシュ派の人たちのそういう話はもう嫌っていうほど聞かされますけど。
そうだね。
なんかそうですね、そういうのもあって最近すごい日本語を頑張ろうと思ってて、というのも自然言語の上になんか例えばわからないですけどそういうプログラミング言語、まあJavaScriptがあってその上にReactがあって上にNext.jsがあってみたいな。
今すごいフロントエンドのフレームワークとか開発環境ってすごいスピードで移り変わっていってるんですけど、なんかそういうところへのキャッチアップを自分の性に合わないまま無理してやるよりもJavaScriptのネイティブのAPIをずっと勉強してた方がその移り変わりにも対応できるし。
なんならそのJavaScriptよりも、フレームワークよりもJavaScriptの方が寿命長いし、もっと言えばJavaScriptよりも多分日本語の方が寿命長いなと思って。
日本語の勉強をすれば何かと通知は聞くだろうなっていうところをやっぱり作家活動すると、まあ現代美術の文脈とかで作品作ってると嫌でもコンテキスト求められたりとか大学の卒論とかも書かされたりっていうところで、日本語を勉強すれば何かとやっていけるっていう、それはもうエンジニアでもなくなっちゃいますけど、すごい実感はあって。
そうですね、あんまり表層的なものに依存したくないなっていうのはずっと思ってますね。
なるほどね、なるほど。でも言いたいことはなんとなくわかる気がする。私も結構、要は自然言語が一番強いじゃないけど、我々のコミュニケーションの基盤ってそこに近いところにあるから、
多分私なんかはスクールやったりもそうだし、記事書いたりするのもそうだし、あとはこういうポッドキャストとかもそうですけど、何でも言葉を操るスキルに結構寄ってる活動が多いのかなって自分で思うから、
多分それってすごいアドバンテージあんのかなっていうふうには、割と感じるというか、自分の言いたいことを世の中に伝えていく能力としてはかなり適した能力なのかなって思うから、そういう意味では確かにそうだね、なんか言ってることはわかる気がするわ、なんとなく。
はいはい、確かに。そうですよね。直接的に物作るのもそうですけど、教育活動されてるっていうのもまた一つそういう業界を土台から支えてるみたいな、なんかすごい、すごいですよね。
あんまりちょっとすごいですよねとか言い出すと、本当にすごい人なんだっていうのをはってなって萎縮しちゃうんで、あんまり言いたくないですよね。
そうだね。聞いてるリスナーさんにコンテキストがわかるように説明すると、収録をお願いした時に、あんまり年も離れてるし実績も差があるからみたいなことを結構松本さんが心配されていて、
そういうことを心配して肩苦しくなるより、友達感覚でラフに喋れた方がいいんじゃないかって思うんですよねみたいなことを事前に伝えてくださって。
いや俺も本当にそうだと思うから、けっこうノーマライズFMはそれこそね、雑談ベースの音を録りたい番組ではあるんで、そんな感じでいきましょうって事前にコンセンサート録ったんですけど。
僕の裏目標はもう独作さんと友達になるなんで、今日は。
いやもうそうだね。
頑張ります。
いやでもなんか俺のイメージは、けっこう松本さん、俺の中では脳内ではいつも新田君って脳内では呼んでたから、ちょっとここら辺から新田君って呼んでいこうかなと思うんですけど。
新田君でいいですよ、はい、もちろん。
新田君がやってることを俺、やっぱツイッター越しとかに見てて、なんかけっこう本人の自覚としてはどうかは一旦置いとくとして、
俺から見てる感じ、けっこうクリエイティブコーディングだったり、あるいはジェネラティブアーティストみたいなそういう文脈の素養をけっこう持ってる人なのかなって勝手に思っていて、
当時は美大に行ってる学生さんっていうこともあんまちゃんと把握してなかったから、俺の中ではスタリーワークスの人っていう感じでイメージしてたから、
だからなんかけっこう普通にプログラマーとして、デベロッパーとしても働きながら、でもクリエイティブだったり表現だったり、そういうことをけっこう好きでやってる人なのかなってふんわりツイッターから見えるなんとなく松本新田像を見てそういうふうに思ってたんですけど、
今現在はどうなんですか、一応学生としての美大生という学生としての活動がつい先日終わったみたいなタイミングだと思うんですけど、今の時点では両立してる感じなんですか、それって。
一応、制作会社にいた頃、一応制作の経緯の話で言うと、制作会社にいた頃にバックパッカーにあるためにプログラムを勉強して、
で、副学したタイミングで美大生という肩書が戻ってきたので、制作しなきゃみたいな。
制作しなきゃってなった時に、自分の足元を見た時に、ちょっとだけプログラムかけるかもみたいなスキルが転がってたので、割と最初そのスキルに依存してメディアート的なものを作ってたんですよね。
テクノロジーからの関心の回帰
結構そういう商業っぽさのあるような、面白いインタラクションに系統したような作品を作ろうとしていたんですけど、現代美術とかの昔の、いつでもアバンギャルドのものは結構好きだったりするので、
7、80年代とかのアバンギャルドな現代美術の作品とか見てると、やっぱすごいいいなっていう、この自分の心に訴えかけてくるものがあって。
ってなった時に、去年は大概的にハッシュタグとかつけて発信してたわけじゃないんで、あんまり知られてないと思うんですけど、去年は結構テクノロジー全捨てで作品をずっと作ってて。
確かにそうだね、そうだね。
なんかすごい、その時点では、そういうふうに目覚めた時に、自分の手元にあるテクノロジーに依存して作品作ってるっていうのが、ある種、全然ピュアじゃないなって思えちゃった時があって、考えれば考えるほどテクノロジーって現代的な、なんか根源的じゃないなって思っちゃって、その時には。今そうでもないですけど。
なんで結構、去年はテクノロジー出すテクノロジーで、いかに人間の根源的な欲求とか欲望、欲求とか感情を、みたいなことになった時に、割と自分の生の物理的な身体を使ったパフォーマンスとかやってました、去年は。
確かに。
俺はそれも一応、そういう断片的な理解だけど、そういうの見てたから。
そう、なんか自分の生活そのものが見える状態でさらしていく中で、みたいなやつとかもあったと思うんだけど。
あ、睡眠薬飲むやつですか。
そうそうそうそうそう、なんかそういう、いろんな活動、俺は結構チラチラ、めっちゃ追いかけてるってほどではないけど、チラチラ見てはいたんで、また変なことやってんなーってすごい思ってたんですけど。
なんか去年の年末にあったイベントというか展示で、なんか身体アンデパンダンっていう展示があったんですけど、アンデパンダンってなんか、あの展示の審査なく、もう誰でも出せるみたいな、そういう展示形式のことを言うんですけど。
身体アンデパンダンっていう展示、パフォーマンスの展示があって、2023年の12月31日のゼロ時に集まって、そっから24時間みんなが持ち寄ったパフォーマンスをその展示会場の中でやり続けるみたいな。
で、それでその24年のハッピーニューイヤーと同時に終わるみたいなやつとか結構面白かったですね。僕はなんかずっと24時間ひたすら立った状態で折り紙を、無限に出てくるレシートをこう切り取って折り紙をずっと折り続けるみたいな、その間飯も食ってないし水も飲んでないし、トイレも行ってないし、もちろん寝てもないしみたいな状態でこう、どんどん疲れゆく様を見せるみたいな。
で、演技が演技じゃなくなっていく境界を見せるみたいな、なんかそんなんとか去年やってたりしましたね。なんか結構、もっともっと野球部で根性論みたいなのが自分の身体に根付いてたりするんで、なんかそういうしんどいことを自分の生の身体を持ってこうしんどいことやって、不快感も時には伴うような生々しさみたいなのを見せるみたいなのは結構好きだなって思ったので、
一回テクノロジーから離れてたりもしました。
バランスの難しさ
そっか、だからやっぱあれなんだろうね、もちろん技術みたいな部分は、どうしても社会の中で生きていくためにお金稼がなきゃいけないとかっていう、そういう文脈ではすごく役に立つし、技能として持っていることは全くもって損でもなんでもないんだろうけども、そこに完全によっかかっちゃうのがなんか嫌なって感じなんだね、たぶんね。
そうですね、今思えば、今思えばなんですけど、その技術勉強し始めた動機が不純だからこそ自分には、自分の作品にそれ使う必要がないって気づいたのかもしれない。
技術が好きで勉強してた人とかなら、よかったのかもしれないなと今思いましたね。
確かにそうだね。俺とかはたぶん、自分が作家だとは思ってないけど、例えば作家的なことやろうと思ったらやっぱりテクノロジーから入っちゃいそうな気がするし、それを嫌だなともあんま感じなさそうな、想像したときにあんま感じなさそうな感じもするから、確かにそこは根っこの部分が違うのかもしれないね。
そうですね、はい。確かに。なんか、結構そういう、自分、その間も仕事はしてたので、食っていくためにこう、プログラムは書かなきゃいけないけど、いや、俺がしたいのはそっちじゃないんだよなみたいな、その食い口と作家性がどんどん乖離していくみたいなのが去年は結構やりながら怖くって、それでなんかうつっぽくとかもなってたりしたんですけど。
でも、なんか最近は、なんか割と現代美術の文脈とかから、インターネットアートとかポストインターネットみたいな、インターネットを中心とした美術の動向にも興味があったりするので、最近ウェブサイトを更新したりとかもしたんですけど、そういうのも割とそういうインターネット的な文脈の、を意識しながら最近作ってみようかなと。
いうふうに思ったりしてるので、今は必ずしもそういうテクノロジー使わないぞみたいな感じでもなくなってきてますね。
はい、一旦こう、はい。なんでちょっとこう、復縁を試みてるって感じですね。インターネットとか。
なるほどね。
はい。自分勝手に振っちゃったんで、一回。
そうだね。
結構なんか今の話も聞いてて思ったのは、ネオルトのニーノミさんとかも、自分で作家として活動したいとか、作家の人をサポートしたいみたいな使命感がある反面、
とはいえでも会社としては経営的に成り立たせなきゃいけないから、自宅の仕事をやったりしてるんだなっていうのを、前にノーマルエースFMに出てくれた時に言ってたんですけど、
確かにその、俺それの話聞いてた時も、確かにその純粋な作家としてやっていくって、本当にいろんな大変さあるよなってその時も思ったけど、
はいはい。
ね、完全に切り離して考えるのも難しいし、かといってそれを作品に取り込めるかどうかっていうのもその時のね、心境だったり状況によるだろうし、やっぱ難しそうですよね、その辺りのバランス感覚が。
いやーそうですね、本当にそうですね。
まあ自分がやりたいことと、そこのベクトルが一致してるのは一番楽だと思うんですけど、そうじゃない以上自分に嘘をつくことになってしまうので。
結構まあ4、50歳ぐらいの中継の作家でも、今もう全然アルバイトしながら作品作ってるみたいな人とかも、本当にお笑い芸人とかとも下積み近いですけど、そのぐらい努力作下積みというか、もうやってる、割と商業的に消費されることを拒否した結果なのかもしれないですけど、
バックパッカーとしての持続性
まあそういう努力作下というかにも対しても美学は感じるので、僕もなんか最悪はバイトでも何でもしていけるんだろうなとは勝手に思ってるので、とはいえみたいなところで、なんか楽に金稼ぎてし最低限の金をみたいなところでずっと。
そうだねー。
うまい説中、なんとか解決策を探してますね。
そこはなんかそうだね、そういう難しい問題そうだし、なんか俺の中の新田くんのイメージだと確かになんか、最悪どうしようもなくなったらアルバイトでも何でもしてやってけそう感もあるし、
そこら辺はまあ、なんかこうバランス取るの大変そうだけど、まあでもなんとかやっていくんだろうなーみたいな感じには思うけどね。
そうですね、あとは結構自分でも意図的にもう全部捨てて新しい業界に入り込む可能性もあるなとは。
確かに確かに。
未来の自分をこう今、自分ごとじゃなく俯瞰して見ながら喋ってるんですけど、あるような気もします。
結構空きっぽい、結構まあ空きっぽい人って多いじゃないですか、業界にも。
あの一個のことを突き詰めていける人と、いろんな技術をこうつまみ食いしていくような、まあ空きっぽかったりとか、まあ全部ハイレベルにやってしまう人とかもいますけど、
僕もなんかその空きっぽい方で、僕の場合はもっとなんかこう、空きっぽいのこの受け皿が広いというか、
技術の中でこう渡り歩いていくというよりはもう技術全部捨てて急になんか、なんだろうな、もう急に、まあ自分の体験に基づくんですけど、
急になんかお祭り男になりたいとか言い出しそうなぐらいの、結構何事も3年周期ぐらいで飽きてってるなっていうのは最近思って。
なので、まあなんか何するにしてもあんまり未来のことを肯定したくない感じはありますね。
そうね。でもなんかそういう、そういうなんか飽き性、自分の認識としても飽き性だなっていう自認もあって、
で、まあ実際いろいろ突然こう思い立ってやってみたりっていう衝動に任せて動くようなところも自覚としてある中で、なんかそのバックパッカーだけがずっと一貫して残ってるのは何でなの、それは。
あー、なんでなんすかね。
なんかそこにはこう特別なものがきっとあるんですよね、そのまあ新田さん自身が自覚できてるかどうかは別として、なんかずっとそれは同じものとしてずっと自分の中にあるっていう感じなんでしょう。
まあそうですね、はい。
まあ割とバックパッカーはその3年周期の中でもずっとその下にずっと今います。
バックパッカーもずっと続いていくかって言われたらまだわからないんですけど、今もまだやりたいっていうのがあるのは、
そうですね、やっぱりなんかまああまり失踪的なところの話はしたくないですけど、
バックパッカーの思い
そのあまり日本に生まれた日本人っていうふうな民族的な意識というよりは、もうこうなんか地球人じゃないですけど、
地球に生まれたから、地球のいろんなところに行って、いろんな文化圏、宗教とか言語の人たちとこうコミュニケーションをとって、世界中に友達をつくりたいなみたいな思いはすごく強いので、
でもやっぱり一番はあれですね、人生の体感時間を長くしたいっていうのがすごくあって、新しいものに目を晒しておけば、人生の体感時間がこう伸びていくなっていうふうな実感があるので、
あまり同じところに立ち止まってしまうと日常がマンネリ化してしまうのが怖いと思っているところもあるかもしれないですね。
なるほど、そうか。じゃあ結構なんか俺の勝手なイメージね、今回収録するにあたってショーノットとかもいろいろ書いてくれたのとかも見たりして、
なんかそのバックパッカーっていうのは、なんか好奇心とかあるいはランダム性っていうか、予期しないことがいろいろ起こったりする、その刺激が病みつきになっているのかなって勝手に想像してたんですけど、
なんかでもそれに近い感じなんですかね、どういう感じなんだろうな、旅行が好きとかそういうことの延長線に近い感じなんですか、それって。
やっぱりでもその刺激の虜になってしまってジャンキーになっているところは多分ありますね。
そうか、いや結構俺とかね、ちょっと俺の話しちゃうんだけども、結構俺とかはやっぱり引きこもりタイプだし、
例えば旅行とか、別に行って嫌な気持ちになるってことはないんだけども、ただ行くってなるといろんなこうデメリットの方も考えてしまうというか、
あんまりこう身軽にパッと思い立ったらじゃあすぐ行こうみたいな風になりにくいですよね、その精神的な部分で、自分の場合は。
やっぱり仕事のことも考えちゃったりとか、言うてお金もかかるしなとか時間もかかるしなとか、いろんなこと考えちゃうと考えているうちにやめちゃうってことが結構多い感じがするんですけど、
なんか衝動的な感じなんですか、それはやっぱり。
衝動的ですね、すごく衝動的だし、基本的に何するにしても衝動的で、病院とかなんか、
何、そうっすね、なんか病院行ったりとか美容院行ったりとか、宿取るとかも基本当日にしかできないような性格ではあるんです。
髪の毛ちょっとまあ、昨日染めたんですけど、なんかそう、昨日それももう、あ、起きたときに今日染めようみたいな、急に置いたってこう。
コメに行くとか。
はありますね。まああとその、
そうですね、なんかそもそも結構家が厳しくってすごい、
制限されて育ってきたので、その反動もあって、大学生になって18歳のときに、
まず一人でこう、カンボジアに行ってみるんですよ。それでなんかまあすごい軽率に、本当に軽率に価値観を変えられて、
なんかまあ、そのとき本当にどこでも良かったんで、カンボジアじゃなくても良くて、そのとき全然、行った国に対してのリスペクトもあまりない状態で行ったんですけど、
18のクソガキが急に一人で海外行くとまあ価値観変えれるよね、ぐらいの軽率な感じで価値観が変わってしまい、
そういう刺激はありますね。なんか2回目またカンボジアに行ったんですけど、
それ、なんか、そのときになんか詐欺に遭ったりするんですよ。
はいはいはい。
詐欺に遭って、なんか詐欺集団のこのアパートに軟禁されてこう、なんか死にかけるみたいな、なんかそういうのとか、
まあそのときも僕が行った後にこうコロナになって、飛行機もキャンセルされて、帰れないどうしようみたいなこととかが、
結構2回目の旅が結構いろいろ危なくっていろんな人にも迷惑をかけてしまったんですが、
そういうのとかがあると、まああの、ギャンブラーと一緒ですよね、たぶん。
なんかそういうより強い刺激を求めてるみたいなところはあんまり言わないようにしてますけどありますね。
いやまあ、あのね、ちょっと違う話かもしれないんだけど、結構うち、俺の両親も、
まあ親父はそうでもなかったんですけど、母ちゃんのほうが保育士さんだったから、
子育てに対してすごいこだわりがあったっていうか、ものすごく全量に俺を育てようとしてたし、
まあ厳しい、まあ確かに厳しい部分もあったし、
なんて言ったらいいのかな、すごいピュアに、誠実に正義にのっとった人間を作ろうとすごいたぶんしてたと思うんだよね。
で、俺はそれ別に嫌じゃなかったけど、
そういう言い方ちょっとあれだけど、要は鳥籠の中で育てたみたいな、その精神的な意味でね。
普通にみんなと同じ学校に行ってたし、みんなと同じように部活とかもやってたけど、
ただ、なんかこう精神的な意味で鳥籠の中に入れようとするバイアスがすごい強かったから、
なんか俺はそれが結構途中で、あ、世の中ってそんなんじゃねえな、そんな人間って成人君子ばかりじゃねえなみたいなこととかが、
やっぱ分かってきてしまったときに、結構ヤンキーじゃないんだけど、逆方向にメンタルを振っちゃったみたいなときがあったし、
なんかなんとなくだから分かる気がするんだよな、なんかすごい精神の振れ幅がでかくなるっていうか、分かる気がする、ちょっと。
やっぱ反動はどこかできますよね。反動がきたところで、ちゃんと自我が芽生えて、そこで初めてこう自分一人で考えるようになるというか、
これから人生どうしていくの、そっからなんかすごい始まる感じはしますね。反動はやっぱりありますよね。
けっこう警察にカンボジアに行ってみて、2回目にはちょっとそれこそ危ない面とかにもあった中で、
もちろんいろんな人に迷惑かけたりとか、デメリットとか悪かったこともいろいろあったんだろうけども、その経験がやっぱりなんかこう、
今のバックパッカーとしての活動にやっぱ少なからず影響しているというか、そこが出発点ぐらいの感じってことな、それは。
そうですね。なんか一応、そうですね。なんかやっぱりだんだん年をとってくるにつれ、特に大学卒業するタイミングも近づいてきたりしたときに、
やっぱりそういうのにも、なんでバックパッキングするのかみたいなところにも、これまでの経験を踏まえた上で向き合うようになるんですけど、
なんかバックパッカーとしての活動っていうふうな言い方をすることもあるんですけど、正直バックパッキングに関しては、ただのライフスタイルで活動だとは一切思ってなくて、
っていうのは、バックパッカーである自分を承認してほしいっていう感情が一切ない、というと嘘になるんですけど、一切ないように持っていこうっていう意思がすごくあって、
っていうのはもう、仮にこの世界からもう人類がもういなくなったとしてもやりたい意味というか、
そういう他からの依存とか、他からの承認に依存しないものを自分の中で探したときに、わりとそれが残ったので、それをやろうっていうふうな、
なんで去年もヨーロッパに1ヶ月ぐらい行ってたりしたんですけど、その間もSNSを一切更新せずにっていうふうなことで、
そこの承認要求と旅をしたいっていう要求の分離を測ったりとかしたんですけど、
わりと本当にそれに関してはピュアに誰に言わずともやりたいなと思えることとして、自分の中で位置づけられたかなっていうのがいろんな経験を通じてありますね。
なるほどね。そっか。結構だから、少なくとも現時点では、あんまり作品、云々とか創作とか作家みたいなこととも切り離して結構あるって感じなの?それは。
なくはないんですけど、濁るなと思います、やっぱり。作品を作るっていう眼差しを向けた途端に何事も、それはもう何事もそうですけど、多少ピュアじゃなくなって濁っちゃうので、
その眼差しを向けるのはまだかなって、もうちょっと自分が成熟したときに向けれる日が来るのかなと思ったりはするんですけど。
なるほどね。いや、なんか難しそうだな。なんか難しそう。すごいなんか、俺は自分がやっぱ作家ではないから、本当にわかるかって言われたらわかんないと思うけど、でもなんか言ってることなんかすごいわかる気がするわ。
承認欲求との闘い
なんか、ドクサさんも写真撮られるじゃないですか。はいはいはい。写真撮られる?僕もなんか写真ちゃんとは撮らないですけど、日経的な日経映像みたいなニュアンスでカメラを回しながら散歩したりすることとかはあって、
なんかやっぱり盗撮ってすごいよくて、道行く人たちをちょっとパーッと撮っちゃうみたいな、その外にはもちろん後悔しないですけど、やっぱ撮られることを意識しない人たちの姿ってめちゃくちゃピュアな立ち振る舞いをしてて美しいなみたいなのを思っちゃって。
それがなんかやっぱり面と向かってカメラを向けるって行為にある種の暴力主体があってみたいなところで言うと、そうですね、なんかあんまりピュアなものを自分の手で濁したくないみたいな思いはめちゃくちゃ全てに置いてあります。
そうだね、なんか難しいな、確かにな。なんか作品にしようと思った瞬間に濁るっていうのがすげえ良い表現だと思う。確かに濁る感じするし。
そうだよね。
だからなんかその旅先から絵ハガキ送り回すぐらいの、そういう感じの軽い感じだったら全然いいっていうことなんでしょう、要するに。
あれは全く作品じゃなく、なんで絵ハガキを送るので住所教えてくださいのフォームにもこれは作品ではないので批評はお断りしていますみたいなことも書いてるんですけど。
それはどちらかというと、承認欲求から独立していきたいっていう気持ちはあるんですけど、その承認欲求っていうのは不特定多数からのっていうのが括弧で隠れてて、
不特定多数からの見積もれない承認欲求は自分を暴走させてしまうみたいな、SNSとかってどれだけ承認されるかっていう見積もりが一切取れないじゃないですか。
もしかしたらめちゃくちゃパズってなんか1万とか見られるかもしれないし、全く見られないかもしれないみたいな、その承認の見積もりが取れないのが問題だと思っていて。
なんでこの、でも自分でこう、例えばDMでこんなところいるよって人に送るとか、えはがきとか持ってるような昔のコミュニケーション。
昔っていうほど昔じゃないですけど、ちょっと前におじいちゃんとおばあちゃんに手紙でやり取りしてたみたいなコミュニケーションの再演だったりしますけど、
なんかそういう特定の数人とのコミュニケーションは承認される、3人に送ったら3人に承認されるっていう数が見積もれるので、それはあっていいなと思いますね。
そういう意味でのえはがきっていうコミュニケーションは、そもそも開古主義的なところもあるので、昔のこう老なやり取りを再現したいっていうところと、特定の数人との承認し合いで満たされたいっていう気持ちですね。
だからそうだよね、だからあのえはがきはどっちかっていうとライフスタイルの方に属している行動ってことなんだよね、たぶん。
そうですね、はい。1ミリも作品ではないし、今後も絶対にならないと思います。
なるほどね、なるほど。
そっか、でもなんか俺、これ本当に悪く言いたくていいわけじゃないんだけど、結構俺の周りって、やっぱりデザイナーさんにしてもエンジニアさんにしても、結構職業プログラマーみたいな感じの考え方する人がやっぱり周りには多いし、
あんまりこう、なんかこう、例えば美大生の皆さんみたいな、こう芸術とかアートとかあんまりそういう表現寄りのことを考えてる人ってあんまり俺知り合いにいないから、なんかそういう人と喋っているとすごい刺激的で楽しい気持ちになるんだけど、やっぱなんか新田君と喋ってても、なんかそういう感じがしてすごい楽しいわ今。
本当ですか?
すげー楽しくなってきた。
ありがとうございます。はいはい、よかったです、お話できて。
いや本当にそう、なんかさ、こういう話って多分分かんない人にはすごい伝わりにくい話っていうかさ、その、なんかその人のことを悪く言いたいわけじゃないんだけど、こう、なんか心の中の話とか全然響かない人ってやっぱりいて、なんか本当に普通にただ生活してて何も、何もなんか自分の人生とは生き方とはみたいなこと考えなくて全然平気な人っていうのもいるし、
はいはいはい。
なんかもうそういうこと一切別に考えませんっていう人がいてもいいんだけど、でもなんかそういう話とかね、したくてもする相手もいないっていう感じだとなんかちょっと寂しいなって思っちゃうけど、なんか今日はそういう話ばっかりしてるからすごいなんか楽しい感じがするわ。
旅行者の身体性と移動手段
いやーそうっすね、結構あの飲み会、友達と飲み会とかしてももういっつも人生の話になってしまって、もうなんか最後にもうまあ生きていくしかないよね、やっていくしかないよねって話になって、すごいなんかにひりな感情になって帰るんすけど、いや楽しいっすよね、こういう話は。
いやこういうなんか俺ふわっとした話もすっごいなんか俺は好きなんだけども、そうねーそっかなんかバックパッカーとか俺そういうことやった経験ないけどさ、やっぱなんかどうな現地に行ってみたら、
こう、やっぱそこでの振る舞いに人によって差はあると思うのよ、同じバックパッカーの中でも、まあ割とこう言葉少なにその土地の空気に流される感じの人もいると思うし、中にはこうどんどんどんどん地元民と話をしたり関わったりで設定を多く作っていくみたいな人もいると思うんだけど、なんか新田君の場合はどんな感じなの?その初めて行く場所でどんなこと考えて何を見てんの?
一応、まだちょっと語学力が足りないんでコミュニケーションにまだ不安はあるんですけど、なんかその現地の人たちと仲良くなるみたいなことはすごくやろうとしてますね。
観光地とかの店員さんとかはすごい仲良く、仲良いふうに話してくれるんですけど、やっぱりそれは観光客と観光地の店員っていうロールプレイの上の関係性しかないんで、それよりはもっとローカルな人たちと喋りたいなと思って、割とヨーロッパの方だとカウチサーフィンっていうなんかサービスとかがあったりして、
カウチってソファーのことなんですけど、ソファーをサーフィンするみたいな、いろんな人の家のソファーを止めてもらう感じでテンテンとするみたいな、そういう旅行者と現地の人のマッチングアプリみたいなのとかがあったりするので、そういうのを使ったりして、常に現地の人とのコミュニケーションは取ろうとしていますね。やっぱり友達作りたいんで。
あとは、移動がすごく好きで、なんで、現地に着いたらまずひたすら歩くようにしてますね。歩かなかったとしても、よりローなアナログというか、よりローな移動手段を選ぶようにしてますね。
飛行機よりは絶対に陸路でバスとか電車使うし、タクシーよりは絶対に歩くしとか、歩かなくてもスクーターとか使うしみたいな、やっぱり飛行機とかを使ってしまうと、A地点からB地点まで飛行機で移動すると、気がついたら着いてるじゃないですか。
で、その車窓とかもあんまり見ても空だし、どこにいるかとかもわかんないしみたいな、なんかイメージ的に言うと、このRPGとかのマップで暗闇が、暗闇の中に自分がいて、A地点に行ったらそのA地点の自分の足元がクリアになる。
で、B地点に行ったらB地点のマップがちょっとずつ見えていくみたいな。でも、そういう旅行体験が理算的というか、点と点でしかないマップの開拓感になるのが、よりはやっぱりその間を徒歩なりローレベルな移動方法をすると、その間を保管できるじゃないですか。
通り持てるというか、マップでいうとその間も色がついていって、ていう、なんかそういう、その土地を身体化するみたいな言い方をしたりとかもするんですけど、あともうちょっと、わかりやすい言い方で、ザッコの猪田畑って言ったりするんですけど、何かカスの猪田畑みたいなことを猪田畑のやってることの全世界国内版みたいなことをやろうとしたり。
してますね。その土地どっちが身体化されていく過程とか感覚が良いですね。なんで結構、あの、わかった気になれるというか、1日歩いただけでも、まあ、もちろんわかった気になってるだけなんで、ゆっくりかもっとちゃんと理解したいんですけど、なんか4年前に1日だけ滞在しただけの場所のところとかもストリートビューで今戻ってみたら、こここう行ってこう行ったらあれがあるねみたいなのが。
面白いな。
割と鮮明に思い出せたりとかするので、めっちゃ、その代わりめちゃくちゃ歩くしめちゃくちゃしんどいんですけど、その土地ではよりローレベルな移動方法を選択して移動するっていうことにこだわってたりはしますね。
なるほどねー、なるほど。じゃあやっぱそこはなんか、自分の身体性とかっていう言葉、俺正しい使い方も意味もよくわかんないまま今からしゃべっちゃうんだけど、その、やっぱなんか、自分がこう身を子にして歩いたっていうことがやっぱ記憶にも残るし、なんか体の中にそれが刻まれていく感じが心地よいというか、楽しいのかもしれないね。
まさにそうです。自分のこの身体のスケールでその土地を吸収できるというか、飛行機に移動しちゃうと自分の身体のスケールが飛行機になっちゃうんですよ。
写真や映像作品における感性と感動
そっかそっか、なるほど。
でもまあ、徒歩で歩けば自分の身体のスケールがこの自分の物理的な身体のスケールで、より自分の実体験として、自分の物理的な身体に基づく実体験として、その土地を身体化できるので、それがすごくよいですね。
なるほどね。いやなんかその考えは面白いな。なんか俺そういうふうに考えたことなかったんだけど、俺が写真でやってるのもそれかもしんねえわ。
いやそうだと思います。それ今僕も思いました。
そう、なんか身体のスケールで考えたことなかったけど、確かにそうだわ。だから多分なんか俺、バスとか乗ってたり、あるいは電車乗ってたりとか、あるいはタクシーでもなんでもいいんだけど、なんか乗ってるときにその車内から写真撮るのはあんま面白くねえなって思っちゃうし、
その撮るなら車内を撮りたい。その自分がいる空間の方を撮りたい。その外を流れてる風景ではなくて、なんか自分がいる空間の方を撮りたくなる気持ちとしては。
多分それって同じことなんだろうね。その身体性って今新田くんが言ってるような、やっぱ自分の属している、今属している空間とかスケールについて俺は注意を払っていたいというか感じていたいみたいなとこがあるのかもしんないね。
はい、確かに確かに。写真も第三者が鑑賞したときに、例えばこのカメラアングルの高い低いでも、大人が撮ったんかなとか子供が撮ったんかなみたいな、そういう身体性が現れてるじゃないですか。そういう身体性が現れてることが面白みを感じられてるのかもしれないですね。
結構なんか、私もだから写真やってて、その写真について調べたり勉強したりしてると、結構なんか身体性っていう言葉が出てくるのよ、いろんな人の口から。写真も身体性があるからね、みたいなことをよく言われるんだけど。
なんか俺それよくわかってなかったんだけど、なんか今新田君と喋ってて、なんかそういうことなのかもってちょっとわかった気になったわ、少し。
なるほどなるほど、そうですね。なんか僕逆にその写真から身体性を排除するみたいなことにも興味があって、
なんかドイツかな、ベルントヒラベッヒャっていう夫妻がいるんですけど、写真家が、その人たちはこうあるモチーフに対して、
なんかビルだったらビルの写真を大量に撮って、そのビルの写真をずらーっとグリッド上に並べるみたいな展示方法をしたりするんですけど、
そうすると、感傷者は個々のビルを見るのではなくて、個々の写真同士の差分を見るように仕向けられてるというか、
した結果、いったら個々の写真がはらんでる身体性ではなく、写真同士の差分を見るとそのものの抽象的な概念を獲得するじゃないですか、
その意味でいうとビルっていうものの抽象的な概念を獲得するみたいな、なんかそういう、まあでも、
ものを学習するときのニューラネットの動きにも近いのかもしれないですね。
いろんなものを観察することによってそのものの抽象的な概念を獲得して、まだ見ぬ新しい問題に対して、
初めて見たビルに対して、これはビルだっていうようになるじゃないですけど、なんかそういう写真家だとそのベルントヒアベヒアっていう人がすごい好きですね、僕は。
そういう身体性を排除するみたいなのもあるなと思いました。
そうだね、いやなんか俺そういう話さ、やっぱ自分がこう、なんだろう、要はアートとか芸術、あるいは写真、現代写真とか古典的な写真とか、
なんかそういう歴史みたいなもの全然通ってきてないから、なんかアートの文脈でも語れないし、写真の文脈でも語れないし、
自分の中でこううまく言語化もできないし、すごい難しいなってずっとここ1年ぐらい思ってるんだけど、
でもなんか最近やっぱいろんな写真集見てみたりとか、まあもちろんwebも見るけども、なんかいろんなものやっぱ見たり読んだりしてきて、
なんかそんな中で自分は何すればいいのかなっていうのが、まあいまだに自分ではまだわかんないままなんだけど、
でもなんか、そういう、こう自分がそういうものに対してアンテナがこうだんだん鋭くなってきてるからなのか、
そういう話を聞くのが、まあ今めっちゃ楽しい時期なんですよ、今。
はいはい。
だからね、聞いてて楽しい。
ありがとうございます。なんかそうっすよね、なんか結構そういう、
そうっすね、なんかあの僕、スタリアワークスっていう会社にお世話になってたっていうのもあって、
その木村さんの出演会を昨日慌てて聞き直したというのを聞いたんですけど、
木村さんは逆にそういう美術のコンテキストみたいなものがわからないというか、
ただその瞬間で気持ちいいものを作りたいみたいな思いとかがあって、
それは僕も一緒に働かせていただいててすごい感じたし、ものすごい精度の高さにただただ驚かされるばっかりだったんですけど、
なんかやっぱ、なんか何が悪くて何がいいとかって全くないなってすごい、
僕はなんかどっちもやってみて思いましたね。
なんか逆、そういうコンテキスト外でものを作っている人からしたら、
なんかそういう言ったもん勝ちじゃないですけど、
何でもありな現代美術の感じとかをちょっと弥生するような風潮があったり、
逆にコンテキストの上でものを作っている人からしたら、
そういう中身何もないものを作ってるじゃんみたいな弥生の仕方もあったりすると思うんですけど、
なんか僕はどっちも好きだしみんな好きなようにやりゃいいし、
それについて自信を持っちゃいいじゃんって今自分自身に対してすごく言いたいです。
そうだね。
いやなんかそういうのもさ、俺ほんと最近すごい思っちゃう部分があって、
なんかこうちょっと前にそのノーマライズFMに出てくれた橋本博さんっていう映像作家の方がいるんだけど、
なんか俺の中では博さんってすごいアーティストだなとかってこう思ってて最初ね、
やられてることあるいはポートフォリオの内容とか見て、
すごいなんか芸術寄りの方なのかなって、
アートっぽい感性の方なのかなって勝手に思ってたんだけど、
実際に話してみるといや全然アートじゃないですよ。
映像作家っていうチャラい職業で世界の隅っこの方でやらせてもらってますみたいなことをご本人は冗談半分で言ってたんだけど、
でもなんか俺その感覚最近すげえわかるなって思ってきたりとかして、
なんか自分がじゃあ写真やってますって自信満々に胸張って言えるかっていうと、
いやーなんかそんなこと言えねえなとか思ってしまったりもするし、
アートとしてのコンテキスト、文脈がないものを作ってて、
そこに価値があんのかなとかこうとっさに自分を疑ってしまいそうになるけど、
でも一方でなんかCGとかやってていやバキバキに仕上がってるCGって別に、
文脈云々とかじゃなくて単純に映像として見てて気持ちいいし興奮するじゃんみたいな、
なんかそういう純粋な良さみたいなものも、
一方でちゃんといいって感じられる自分もいるしなみたいなこととか、
なんかすごいいろいろ考えちゃうことが最近多いんだけども、
なんかだから写真もさすごいコンテキスト込みの写真っていうものもやっぱりある中で、
でももっとカジュアルな普通に楽しく写真撮るでも全然いいじゃんみたいなところも、
やっぱ一般的に言われたりもするし、
なんか自分は一体じゃあどこに落ち着くべきなのかとか、
どこに足を踏み出していけばいいのかとかすごい最近考えちゃうんだけど、
結構なんか新田くんの中では今はどうなんですか?
自分自身が今何をまず直近で掘り下げていかなきゃいけないとか、
やんなきゃいけないとか、やってみたいとか、
なんかそういうのってあったりするんですか?
ありますよ。
それでかっこいいCGを見た時にコンテキストうんうんじゃなく感動するみたいなところも、
やっぱその最近は割とアカデミックに言語的にこうこうでっていうことを説明するというよりは、
感動させたもん勝ちだなって僕も思ったりしてて、
っていうのもなんかこうコンテキストを完全にしてたわけじゃなくて、
そういうリファレンスはたくさん見るんですけど、
感傷体験と言語のフィルター
どちらかというとこの自分の感傷体験にひも付く実感として、
なんか全然この映像何が言いたかったのか全然理解できなかったわって口では言ってるんですけど、
ひたすら鳥肌渡ってて、なんだら涙まで出てきてるみたいな、
そういうわからないけどすごいみたいな、
なんかやっぱこの言語的に咀嚼して、
こうこうこうだから、こうすごいのね、わーすげーっていうところで、
言語っていうフィルターがすごい感動の触れ幅を阻害してしまっているような気もして、
そうじゃなくて、その人のうちうちで概念としてこう需要させて、
そこでこう一気にバンってこう爆発して感動させるみたいな、
なんかそういう感傷体験って良いなってすごい最近は思うようになったので、
なんか最近はそういうわからなさみたいな直接的に言語的に自分の作品を消費させないとか、
わからなさとか気持ち悪さみたいなところ、
不快感を伴うような感傷体験みたいなところを最近はちょっとやろうとしてみてますね。
それ自分のホームページもなんか最近更新して、
それはもう全然ポートオリオとしての役目は全く果たしてない、
全く読めない言語的な情報がほとんどないサイトだったりするんですけど、
なんかよくわからなかったけど、具体的に何見せられたのかは一切理解できなかったけど、
なんか抽象的にはこういうことを見せられたんだなって、
その人の中でも言語化できないぐらいのぼんやりした感じで、
思ってくれたらいいなみたいなことは最近、
岩手国籍祭への参加による感動
制作テーマじゃないですけど、思ったりはしてますね。
あとなんかもう一つ根拠にあるのが、
2月にソミン祭っていう岩手の国籍祭、
ソミン祭自体は日本でもやってるところたくさんあるんですけど、
岩手国籍祭っていう祭りに参加してきて、
それがなんか本当に狭い教室ぐらいの広さのお堂の中に、
男が300人ぐらいギュウギュウ詰めになって、
一つの袋を本気で奪い合うみたいな、
みんな裸で奪い合うみたいなお祭りに、
僕もそのプレイヤー側で参加してきたんですけど、
その前にもいろんな男が冬の川で水浴びをしたりとか、
いろんな行事があったりするんですけど、
それに参加した時に、それはもちろん僕の作品でもなんでもないし、
それに対しては1200年とかの歴史があって、
それをずっと守り続けてきた、
団家さんとか青年部って言われる実質的な運営の方たちがいて、
成り立ってたりするんですけど、
それに参加してきた時にも、
わけもなくというか、ずっと涙があふれ出してきて止まらねえみたいな、
うおーってみんな叫んでるし、
自分もうおーって叫んでるうちにも、
涙がずっと止まらない、
本当に神の存在を感じるような、
ウェブサイトの反応と受け入れ
本当になんか、
言語ができない概念でしかないものに、
ずっと泣かされてるみたいな体験があり、
やっぱそういう体験をしてしまうと、
最近はまあそうですね、
なんかこの感動を自分が作った作品で再現できることはないだろう、
みたいなことも思っちゃったりして、
そういう意味ではちょっと制作のモチベーションも、
前向きな意味で最近なかったりする。
なかったりしますね。
なんかやっぱ本当には言語化できない、
うちうちから湧き上がってくる感動みたいなのはありますね、
現体験として。
なるほど、いやまあそうかもね、確かにな、
なんか、
いや、そうね、
だから人によってちょっと感じ方、考え方様々かもしれないけど、
結構やっぱり伝統的なものってさ、
伝統があるだけあるなって、
実際やってみると思うことって結構あるよね。
ありますね。
長くやっぱり、
本当にありますね。
いろんな人が長いことをかけて継承してきただけのことはあるんだ、やっぱりって、
なんか分からされるっていうか。
いやー本当にそうですね。
そうになるよね。
確かに。
戦略の歴史の持つもの、
自分の人生なんてたかが100年じゃないですか、
そこに対してどう、
自分一人で作れるものの限界を感じてしまいましたね。
それはもうやっぱりなんか何、
衝動的に行きたくなって行ってみたって感じだったの?
それは結構、
未族学好きな友達がいて、
その人に行こうよって言われて、
僕はあんまり詳しくない状態で行ったんですけど、
なんかそういう、
体を動かすのとか、
そういうパフォーマンスとかもしたりしてたんで、
身体的なこととか好きって、
行ったって感じですね。
結構、もう本当に、
伊天王のなだれの事故みたいな感じで、
ずっと、
もう本当に呼吸できないような状態で、
ずっとこう、
1時間ぐらい、
袋を奪い合うみたいな感じで、
なんか僕、ずっと中心にいて、
袋の最後のほうまで握ってたんですけど、
なんかすごかったですね、本当に。
それも多分、
それもよくないのが、
どんどんジャンキーになってきてしまうっていう。
たしかにね。
今すごい刺激を求めてしまってます。
そっか、なるほど。
それはでもさ、やっぱさ、
必要なタイミングだからなんじゃない?
今の新田くんにとっては、やっぱそういう時期っていうか。
そうですね。
多分それをやっぱり素直にさ、
そこに乗っかっていかなかったら、
多分次の変化がやってこないんじゃない?パソコンは。
そうですね、はいはい。
そうだと思います。
なんかすごい全部必然的にこう導かれてってるって言うと、
ちょっとうさんくさいですけど、
なんか感じはありますね。
なので、テクノロジーを捨て去る日も近いのではないかと。
捨て去る日もね。
いやまあでも、
リニューアルされたウェブサイトは俺も見たけどさ、
あれはなんか、
いわゆる涙が出るような、
体が本能的に涙を流しちゃうような神聖さとかっていうのとは、
またちょっと違う方向だよね、あれはきっと。
そうですね、はい。
あれは割と、
割とが好きなんですけど、
何これかっこわらみたいな、
肝わらみたいな、
ちょっとこうミーム的な感じで消費されたらいいなっていう風な思惑はあります。
なんか思ったより、やっぱりあんまり、
思ったよりは、
なんか自分の刺さってほしい人にはガツッと刺さったなって感じはあるんですけど、
思ったよりは広がらなかったなっていう。
いやあれ多分ね、
ちょっとハイコンテキストすぎる感じはするわ、ちょっと。
はいはい。
多分あれって、
俺らぐらいの世代の人から見ると、
あ、昔プレステで見た画面だなとかっていう風に思うけど、
それ感じ取れない層からすると、
よくわかんないで終わっちゃいそうな気もする。
はいはい。
いやー反省ですね、めちゃくちゃ。
いや俺は見てすげえ面白えなと思ったし、
そのなんていうの、
要は現代の技術であれをわざわざ再現してるわけじゃん、
あの世界観をさ。
それすげえ面白えなって、
俺は見てて思ったけど、
多分今の20代前半の子たちとかだと見てもわかんないもんね、多分。
はい、まあそうですね。
何もわかんない。
最近そういうレトロフィルターみたいなのもすごい流行ってたりしたので、
あ、これはと思ってやったんですけど、
なんかまあ、でも反応した人たちに反応してもらえたんで、
結構僕、自分で作ったものが良いのか悪いのかっていうところの感性が完全に死んでしまってて、
世に出してみないと全くわからないんですよ、色彩感覚とかもないし。
で、なんかそう出してみて、結構2極化してて、
結構反応もらえるけど、
あんまり自分が欲しかった人から反応もらえないときと、
あんまり反応全体でもらえなかったけど、
自分がさしたかった人たちから反応もらえるときが結構わかりやすくわかれてて、
後者の場合はだいたいドクサスさんとか大島さんとか、
あなたいる人たちがいいねって、こういいねしてくれたりして、
すごい救われますね。
いや、あれ多分、ちょっとハイコンテキスト過ぎたし、
なんていうか、掘り下げるのに何かしらのモチベーションが必要だったと思う。
そうですね。
初めて行ったときに何したらいいかまずわかんないから、
そこでちょっとどうしたらいいのかなって探りに行く。
何かしらのモチベーションがないと探りに行けなくて閉じちゃうと思うから、
多分そこだったのかなって思うけど、
俺は結構何かいろいろやってみて、
いや、でもこれは何か記事とかにはできねえわと思った。
いろいろ触ってみた結果、言葉にすることに意味ないなって思っちゃって。
何か説明する必要性とかないなって思っちゃって。
だから何か総本山とかで記事にしようかなと思ったんだけど、
いろいろ触ってみた結果、これは多分もう各々が感じるしかないやつだなと思って。
そうですね。
本当はチュートリアルに1つでも用意してあげたら親切だったと思うんですけど、
本当に言語的に説明したくないみたいなのもあったんで。
でもあれで俺は正解だと思うけど、
何だろうな、証人欲求とか、あるいは狙った人にメッセージとして届いたのかみたいなところはわかんないけど、
俺は結構あれはあれで正解だった。
でもね、何ていうのかな、正解だったかどうかは置いといて、
新田くんっぽいなっていうのは思ったよ、見たときに。
そうですね、はい。
何か美術の人もウェブの人も両方誘うとしたのが結構欲張りだったなって。
確かにそうかもね、そうかもしんないね。
両方誘うとしたんですよ。
何か作品としても独立してほしいし、ワンチャン仕事も来ねえかなみたいな感じだったんで、
ちょっと美術寄りで作ったなって感覚はありました。
いや、そうだと思う。
独作さんも見るためのモチベーションというかハードルみたいなところで言うと、
何かあのサイト結構隠しコマンドみたいな感じで、
このコマンド入力したらどういうイベントが起こるみたいなこととかをそれなりに実装してて、
何かノーマライズFMでここで口頭で一個コマンド言いたいなと思うんですけど、いいですか?
いいよいいよ。それなんかshow.noteに書いてくれたやつがそうなの。
何かトップページなんですけど。
トップページ、これトップページ、ドメインのルートに戻れば大丈夫。
そうですそうです。
ウェブサイトのトップページでコマンドがあって、
上向きにスライドしたら上っていうコマンドが右下にちっちゃく出るんですけど、
下とか横とかクリックとか。
こういうこと?
右下に今自分が入力してるコマンドがたまっていくんですけど、
このトップページで上、上、下、下、クリック、右、左っていうのをすると、
一個イベントが起こりますよっていろいろあるんですけど。
上、上、下、下、クリック、右、左、右になっちゃった。
右、左ですね。
右、左ね。上、上、下、下、クリック、右、左。
するとこう。
ポッドキャストなんで何が起きてきたかちょっと。
うん、わかんないけど。
結構これもう後半の方なんで、どのぐらい聞いてくださってるかわかんないですけど、
なんかこういうのをもう少しうまく発信できたらよかったかなとかも思ったりしますね。
これだってナチュラルにやってたら見つかんないでしょ、絶対これ。
もう絶対見つかんないです。
絶対見つかんないよね。
なんかだから壁にちょっと書いてあるとかさ、
なんかあればよかったのかもしんないね。
そうですね。
さすがにちょっと難しすぎたかもしんない。
まあちょっとやってみてほしいです。
上、上、下、下、クリック、右、左を。
右、左ね。
はい。
いやでもこのサイトね、なんつーの、俺はめっちゃ好きだけど、
多分こういうの刺さるタイプの人は絶対いると思うよ。
こういうの好きなタイプの人は。
これだってあえて解像度とか下げてあるんでしょ。
これあえて解像度落としたりとか、
そうですね。
ローポリでやったりとかしてるわけじゃん。
はいはい。
ベンチマーク的には全然解像度上げても、
ハイポリウムにしても問題はないんですけど、あえて避けてやってますね。
そうだよね。
なんかこのディザリングっていうかさ、
陰影の付け方とかも結構工夫された感じになってるし。
多分これ、そのWebGLやってる人間が見ると逆になんか面白っぽいといろいろあるんだけど、
なかなかそれが伝わりにくいよね、多分。
そうですね。
なんか自分の坊主の写真をこう今、坊主時代の写真、去年坊主にしたんですけど、
その写真を解像度を落としてコネックに回すみたいなところから、
いろいろやってみていますね。
なんでこの3Dモデルに貼ってるテクスチャーも自分の坊主のときの写真をこう、
グリアで引き逃して、
解像度を落としてやってますね。
なんか絵画とかが投資目的で購入されて、
倉庫から全然出てこずにイメージだけが出回ってみたいな話が、
ポストインターネットの割と基本的な話があるんですけど、
それをちょっと自分の坊主に投影してやってみたみたいな。
坊主したけど恥ずかしかったね。
外で一生帽子かぶってたんですよ。
なんで僕の坊主、期間長かったですけど、
生で見た人はほとんどいないっていうのを、
面白いかなと思って。
なるほどね。
いやそう、だから多分、
いろいろ説明聞いたら楽しいんだけど、
多分これ単体でたまたまここに訪れてしまった時に、
そういうことがあまりにもわからなさすぎて、
伝わりにくいコンテンツになっちゃってたよね、多分ね。
そうですね、反省ですね。
でも、俺は好きだから、
あえてもうこのまま行ってほしい感じはするけどな。
ちょっとこのノーマレーズFMの収録の後に、
アクセスが果たしてどれぐらいあるかわからんけども。
そうですね。
結構情報発信苦手なんで、
難しいですよね。
そうだ、なんかやっぱそのさ、
ポストインターネットとかもさ、
用語として聞いたことある人は、
多分これを見てそういうものを連想できるんだろうけど、
やっぱ開発者界隈って意外とさ、
ウェブに住んでるくせに、
ポストインターネットっていうことをちゃんと理解できてないというか、
どういうものかがそもそも文脈がわかってないみたいな人絶対多いから、
そういうところの難しさもあるよね、多分。
そうですね、はい。
まあ確かに、なんかパッと見て、
うわ、肝、なにこれってなってほしかったなみたいな。
いや、それは多分みんながあると思うけど、
多分拒絶反応をそれこそ示すタイプの人もいると思うし、
パッと見てまず顔が来るじゃん、でっかい顔がさ、
それにまずびっくりしちゃって、
思わず閉じちゃう人もいると思うけど、
でもなんかもう、なんていうのかな、
ポストインターネットっていう言葉とか、
その言葉が何を意味しているかを、
ふんわりとでも知っていれば、
もうパッと見て思うはずじゃん、この絵を見た時にさ、
あ、それ系だなってすぐわかるっていうか。
はいはいはい。
そういう人だったら楽しめるんだろうけどね。
まあ、確かに。
まあ、反省ですね。
なんかあんまり教養、
美術教のある人だけに理解できるものってクソだと思ってるんで、
そうはなりたくないなっていう思いはありつつ。
そうだね。
いやあ、はい。
そうだね。
いや、そういう思いはすごいあります。
そうだね。それはまあ、なんとなくわかるわ。
その、やっぱ、スタリーワークスの木村さんじゃないけどさ、
やっぱコンテキスト求められるのってやっぱり、
それはそれで一つ、
突き詰めていくっていう意味ではコンテキストを大事にして、
それを踏まえてやっていくってことも全然悪いことではないんだろうなとは思うけども、
一方で、それがわかんないんだったらわかんないものって、
果たしてなんなんっていうとこも同時に思っちゃうから。
はい。
いやだからなんか、それはさ、勉強してみりゃ面白さもわかるっていうか、
例えばシュルレアリズムとか、ああいうのもさ、
わかんなきゃわかんない、ただキモいっていうか、
ようわからんで終わっちゃうんだけど、
勉強してみたり背景調べてみたりすると、
なるほどなって思うこともあるし、
それはそれで面白いんだけど、
とはいえでもやっぱり一般的な感覚としてよくわからんっていうのもあるしね。
そうですね。
なんかわからない人をこう排除していってるような空気感もやっぱありますしね。
交渉だぜ、交渉な感じ。
それもなんかあんま良くないなと思いますね。
そうだね。
現代美術の中でこう閉じちゃってる感じは、
すごい感じちゃいますね。
なんかちょっとさっきの話に戻っちゃうような感じもあるけど、
結局その今の直近の新田くんの中の興味で言うと、
やっぱりその一般的な人たちも思わず心を動かされるものってなると、
やっぱそのコンテキストにあんまり依存してないものを目指していきたいというとこもあるだろうから。
そうですね。
なんかそういう意味ではちょっとそのポートフォリオがちょっとだけズレちゃってたのかもしんないね。
そうですね。
確かにね。
そう思います。
なるほどね、そっか。
両方差したいですね。
そうだね。
いや、だからどっちもできるのが本当だったら一番いいっていうかさ、
それはどっちも満足させられるんだったらそれに越したことはないっていうか、
そういうとこもあるもんね。
いや、それはめちゃくちゃあります。
そっか。
だからそのショーノートにさ、結構いろいろ書いてくれた中にさ、
そのミシェルゴンドリーみたいな映像を作りたいみたいなことも書いてくれててさ、
なんか俺それすっごいなんかいいなと思っちゃった、妙んで。
本当ですか?
なんか合ってる感じもするし、
その作風的に結構さ、
似てるわけではないんだけど目指してる良さの部分って近いのかなって思うから。
なんかそれこそさ、コンテキストがわからなくても何かを感じるし、
わかってたらわかってたですごさがあるじゃん、ミシェルゴンドリーの映像とかってさ。
そうですね。
多分そういうとこなんかなって今俺その話ちょっと思い出したりしてたんだけど。
確かに確かに。
それはすごいそうですね。
なんかその書いてくれた背景は何なの?
そのミシェルゴンドリーみたいな映像を作りたいっていう風に書いてくれたのは、
まさにその文面通りというか、
単純にそういう風に最近思うみたいなとこな。
それは割と今聞いて、あ、確かにって思いました。
どちらかというと、やっぱシステマチックなものやっぱ好きだなみたいなところに回帰していって、
方法的に最初に決められたものに対して作業的に取っていったら、
かっちりとハマった不思議なものができるみたいなのが、
やっぱりミシェルゴンドリー好きになったのは作品作る前で、
それこそ木村さんとかと事務所で話してる時とかに名前出てきて、
知ったぐらいの感じだと思うんですけど、
なんかそういうシステマチックに不思議なものを作るみたいなところでいいなと思ったのが最初ですね、多分。
あとなんかやっぱ映像っていいなと思いまして、
インタラクションって必ずしも必要じゃない、必要な時もありますけど、
絶対にインタラクションがないといけないわけではないなっていうのはすごく思いますね。
ウェブ作るならインタラクション必要ですけど、
表現するってなった時に必ずしもインタラクション体験に、直接的な体験にひも付いた感傷になってなくても、
強度はいくらでも保つ方法あるよなっていうのも思ったりしたので映像を作りたいなって思いますね。
なんかやっぱ、たぶんそこら辺はきっとあれなんだろうね。
自分の中でもやっぱりまだ正解が全然見えてないからこそ、そこ突き詰めていきたいみたいなところもありそうだよね、なんか。
全くもう正解、もう何も見えてないっすね、もう。
そうだね。
まだ全然字がないです、もう赤ちゃんだと思います。
作家としてもデベロッパーとしても、何事においても。
そうだと思うわ。だから俺もなんかまさに写真に対してそういう状態だからさ、なんか何が正解かもわかんないし、
いわゆる社会が求める正解と自分の中の正解があるとしたらどっちもわかってない状態っていうか、
どっちにも慣れてない状態だから、せめて自分の中の正解をやっぱり探していろいろやってはみるものの、
何が正解なんだろうなーって思いながら過ごしてんだけど。
そうっすね。確かに。自分の中で納得で、少なくとも自分では自分の作ったものを愛してるようにはなりたいっすよね。
なんかちょっと聞いてみたいなと思ってたのが、何かを作るときって何がその燃料になるというか、
作品作りのモチベーション
これまで作ってきたもの、それこそいろいろあると思うんだけど、
身体性を露出させたいっていうようなモチベーションの作品とかもあったと思うし、
それこそさっきの自分のポートフォリオみたいにポストインターネット的な文脈を表現してみたいとか、
その時々によっていろいろあるんだろうけど、そういうのって急に思いつくもんなのか、
日々感じてるものがいってたまったときに、もう今ならこれしかないみたいな感じになるのか、
どういうモチベーションで作品につながっていく感じなの?
なんか、割と自分の中でこれは気づいちゃったなっていう感じにはなるんですけど、
結構ニヒルに掘り下げていったら作品作りたい理由なんてなくて、
究極的に言うと、美大生だから作品を作るみたいな。
美大生で作品作らないといけないじゃん。
じゃあ、美大生だから作品作るみたいなところとかはあって、
そういうところから自分自身に嘘つかずに突き詰めていったら、
作品作ることに関しては作家と喋りたいから作品作ってるんだなっていうのはめちゃくちゃ思いましたね。
作品作る過程で会話が発生するじゃないですか、
とか作品作って発表して見てもらう段階で、
作家とかいろんな人とかとの会話が発生すると思うんですけど、
そういう特に僕の場合、
鑑賞者と喋るのもすごい楽しくて、
それも一つあるんですけど、
同じ作家っていう立場の人たちと、
僕自身も同じ作家っていう肩書きで対等に喋ることが、
しのほど楽しいなって最近気づいて、
作家と喋るためのパスポートとして自分も作品を作ってるなと思ったので、
それもなんか気づいちゃった案件なんですよね。
自己表現とアーティストとしての役割
なんで作品も今後作ってない可能性あるなって、
そういう意味ですごく思いますね。
でもそれさ、ちょっとなんか逆説的っていうかさ、
自分がこうありたいっていうものがまず先にあって、
そうあるために作品が必要って、
なんか順番逆なんだけど、
ちょっとそれはそれで面白い感じがするね。
そうですね。
なるほど。
なんか基本的に何するにしても、
割とその業界に擬態してるっていうふうな感覚があって、
アーティストならそのアーティストごっこをしてる感じがあるんですよ。
なんかそういうアーティスト作品のステートメントとかも書かされるとか書かないといけないんですけど、
なんかその自分の内から出てくる生の文章をこう書くというよりは、
どういうこういう文章を書けばいいんでしょうみたいな、
こういう難しい単語を使えばいいんでしょうみたいな、
みんなこういう単語を使ってるからねみたいなところで、
割とこうごっこ遊びっていうか、
擬態して書いて、
でもなんか割とそういうものを擬態して書いてみたりして、
作家とアーティストの駆動力
後からこうこじつけで理由とかをこじつけていったりする段階で、
そこのこじつけはなんかすごい自分の人生観とかこれまでの経験に基づいて、
割とピュアにこうこじつけだけどピュアにこうこじつけていった結果、
全然こじつけじゃなくなってるみたいなこととかもあるので、
必ずしももう不純すぎると自分自身は思ってるわけじゃないですけど、
一回不純にごっこ遊びで何事もやってみてる感じはありますね。
なるほどね。いや、そこら辺は確かに気づいちゃった案件だね、それはね、確かにね。
確かにね、そうだね。
結構なんか俺、世の中の、分かんないよ、
ステレオタイプに自分が勝手に偏見で思っちゃってるだけかもしれないけど、
世の中の作家とかアーティストと呼ばれてる人たちって、
一体何によって駆動してるんだろうってすっごい不思議でさ、
自分が写真好きになったっていう自分の今のステータスがあって、
心のステータスがあって、で、写真好きだな、楽しいな、
で、なんか憧れるじゃん、かっこいいなとかすごいなっていう気持ちがある中で、
自分はじゃあどういうふうにそこに近づいていけばいいんだろう、
で、その近づいていく方法に教科書通りの正解のルートってなくてさ、
自分で探り探り寄っていくしかないわけじゃん、たぶん。
そういう時に悩んだり苦しんだりする中で、
じゃあ世の中のすでに作家とかアーティストとして一つの形を成してる人たちは、
一体どういうモチベーションでやってるんだろうっていうのがすごいやっぱ気になるし、
何によって駆動してるんかなって結構思っちゃう。
で、なんか新たく見てると、割とちゃんとアーティストの方に足入っちゃってる感じに見えてたから、
いや何で駆動してるのかなってすごい気になってたんだけど、
でもなんか作家であろうとするから作品を作るっていう、
なんかちょっとそれはそれで面白ええなって思っちゃったけどね、俺は話聞いてて。
なんかたぶん本当の作家全としている人たちは本当にピュアに作ってると思うんですよね。
孤独と人間関係
本当に呼吸でそれって、作品作ってないと死んでしまう。
デベロッパーでもプログラム書いてないともう死んでしまうみたいな人とかもいると思うんですけど、
俺はもう作品絵を書いてないともう次の瞬間には死んでしまうんだ。
だから書き続けなければいけないみたいな人たちってやっぱりいて本当にすごいなと思うんですけど、
なんか僕はそういう人たちと対等にしゃべるためにアーティストの顔をかぶって、
なんか狼の群れに、自分は犬なのに狼のふりして招待されて入っていくみたいな。
なんか本当にピュアにやってる人たちは呼吸としてそれをやってるからこそ叶わないなっていうのは、
それは作品作るにしてもプログラム書くにしても、
すごい人たちはもう本当にやってることを気づかないうちにやってるぐらいな感じなんで、
やるぞってやってる以上は叶わないなって思っちゃったりしますね。
それはそうだね、確かにね。
だからなんかさ、ちょっとあんまり話が抽象的になりすぎるのもあれなんだけどもさ、
やっぱ俺なんか話聞いててすごい思ったのは、やっぱ新田くんの場合は、
もちろん承認欲求とかいろんな事故の内面的なものはいろいろあるんだろうけど、
多分なんかやっぱ他人と関わり合っていたいんだろうね、きっとね。
なんか通編する部分としては。
すごいよくお気づきですっていう感じですね。
なんかバックパッカーとして、自分の知らない世界、知らない人たちの群れの中に飛び込んでいきたいし、
お祭りみたいなさ、自分の知らない世界の中に体で丸ごと飛び込んでいきたいし、
すごいってわかってる人たちと対等に喋りたいから自分も作家でなきゃいけないって思ってしまうし、
だから多分なんか根っこの部分は、人とやっぱり関わっていたいんだろうね、きっとね。
はい、なんか最初の方に僕何も愛せないって言ったんすけど、
人以外何も愛せないなって思ってます、正確には。
なるほどね。
もう何も信じれずいろんなものを点々とするけど、
人との、人と人の間に成立する愛だけはもうずっと信じてて、それを起点に多分回ってますね。
なんかどうやったら幸せになれるんだろうっていうところですけど、
それは本当にそうですね。
なんかやっぱり人を愛したいし、人に愛されて生きていきたいなっていう思いはあります、めちゃくちゃ。
多分そうだね。なんかそういう部分がバックパッカーとしての自分とかも形作ってきたんだろうし、
深い関係と抽象的な思考
だからやっぱ直近で作ってた卒典とかで作ってた展示とかも、やっぱりなんか自分が作品の中に入っちゃってるじゃん。
それってやっぱ多分さ、鑑賞者と自分をつなげたいんだろうね、きっと関わり合いを持たせたいというかさ。
お客さん、なんかまあ卒典の説明を軽くすると、卒典の会場にこたつを置いて、そこでずっと炭薬飲んで寝る、寝たり生活するっていうパフォーマンスをしてたんですけど、
起きてる時間とかに普通に見に来てくれたお客さんとかがこたつ入ってきて、雑談したりとか。
あと僕が寝てるときに、寝てる僕とツーショットの写真を撮って送ってもらったりとかしたんですよ。
なんか僕は相手を認知してないのに、相手が僕を認知してくれてるみたいな、なんか酔っ払ってるときのファーストコンタクトじゃないですか、ベロベロのときのファーストコンタクトじゃないですか、なんかそういうことをしたいなと思って。
で、なんかそういう自分が知らない人が自分とツーショット写真を撮ってるのとかが後から送られてきたりすると、なんかすごい泣きそうになったりとかしましたね。
なんか自分が共通用したものであるんですけど、愛を感じてそこに。愛って存在肯定とかそのぐらいのニュアンスで僕は使ってますけど。
なんかそういう人と人とのつながりみたいなのは、結構育ってきた環境にも起因してるし、自分のそういうこれまでの中高時代とかの人間関係とかにもかなり起因してるなと思うんですけど。
もうあの人徳に生きようと思ってます、これからずっと。
なるほどね。いやまあ、そうだね。
いやでも、なんとなくわかるけどな。なんか俺はまあまあ、わりと引きこもりだし、小味称だったりもするんで、なんかついつい一人でいたいなって思ってしまうけど。
あーはいはいはい。
でも、俺の場合は結構偏ってるっていうかさ、あんまりこういろんな人と仲良くなりたいっていう感じじゃなくて、
俺結構一点突破で、なんか例えば自分の嫁さんみたいな、もうものすごい自分のそばにいる人に対する愛がめっちゃ深くなるタイプだから俺はその、いろんな人に幅うまく分散できないんだよね、それが俺の場合は。
えーでも、それでこのポッドキャストやられてるのえぐいっすね。めちゃくちゃいろんな人と喋ってるじゃないですか。
いやまあそうなんだけど、それはなんていうかその、そこまで俺の中では大変なことではないのよ。
みんなから見るとストローク見えるかもしれないけども、俺の中ではそこまで、まあまあ大変じゃないかって言ったら大変なんだけども、
ただその、自分の人生レベルのスケールにして思ってた時にはそこまでじゃないのね。
あーなるほどなるほど。
そうだからなんかこういろんな人と喋って楽しいなーとかも全然あるし感覚としてあるんだけど、なんか俺の人生なんなんだレベルになっちゃうとそういうことって構成要素のせいぜい一部だなって感じになるけど、
なんか本当に太い人間関係の部分はもう自分自身のど真ん中を貫いてズドンって柱みたいになってるから、そこはやっぱ自分を見た時に外せないなーみたいに思っちゃう。
はいはいはい。
だけど、
あー確かに。はいはいはい。
たぶん新田くんの場合はまだそれがなんかこういろんなとこに伸びてるというか、ね、たぶんまだまだいろんな関わり作っていきたいなっていう衝動があるんだろうねたぶんね。
そうですね。結構なんか僕もどちらかというとそっちのタイプというかそういう気質もめちゃくちゃあって、特にあの高校生からコロナ禍の3、4年ぐらいは本当にずっと一人で、まあ海外も一人、基本一人でしか行かないんですけど、
本当にずっと一人で、もうずっと一人で内省的にもう自分自身の人生について振り返り続ける期間とかがあったんですけど、なんかやっぱ今でもあのめちゃくちゃ人に会う時期と本当に人に会わずに一人で行動する時期を1ヶ月式ぐらいで繰り返してるような感じなんですけど、なんかやっぱりそういう意味では、
視聴者の人と深い関係を築くとか、もしくはそういう孤独に強いみたいな、そういうしたたかさもすごいわかります。実感するし、そういう要素も自分は持ってたいなってめちゃくちゃ思います。
だってね、実際海外行ってさ、それはいろんな人と関わり持とうとはするけど、基本はやっぱ一人なわけじゃん。だから多分、共存させ、その強さも自分を支える強さも持ってないと多分いけないんだろうから。
そうですね、はい。
だからやっぱ孤独と向き合うことに、まあそれが好きか嫌いかを置いといて、少なくともそれに耐えられる状態じゃないと多分できないもんね、きっと。
なんか最近すごい思ったのは、孤独であるしたたかさも持った上で人といっぱい関わると、人と関わってるけどちゃんと個人のバウンダリーは保持した状態で、同化しない選択ができるっていうか、
なんか、ただ人とは関わるって仲良くして、同化してアイデンティティが曖昧になっちゃうんじゃなくて、孤独をしてるからこそ、すごい一個人として集団の中にこう保ったまま入っていけるなっていう感覚があって、
うん、なるほど。
それはなんかすごく大事にして、なんか今大阪に住んでるんですけど、東京に住む気があんまりないとかいうのも割とそういうところに近いですけど、孤独を知った上で、大勢の人と関わりたいみたいな、すごい相乗効果があるような気がします。
うん、確かにそれはそうかも。なんか、最悪自分一人でも大丈夫じゃないと依存しちゃうもんね、誰かにね。
そうですね、はい。
確かにな。
そうですね、ほんとにそうです。
結構そういう、まあコミュニティとか、やっぱ東京、やっぱコミュニティめちゃくちゃ強いじゃないですか、何事も、特に、まあ学生のコミュニティとかめちゃくちゃミディアート界隈とかも強くて羨ましいなと思うんですけど、大阪でこう孤独にやってる、なんかちょっとこう野蛮というか、野蛮活したたかな感じも、
はいはいはい。
大阪っぽいってよく言われるんですけど、作品とかも、大阪のちょっとなんか何でもあり感とかも大事にしたいなってすごく思いますね。
いやーなんか、あれだね、やっぱ話聞いてるとすごいなんか面白いわ。なんかそういうこう、自分の内面的な部分とか、やっぱ普段から結構考えちゃうんだろうなって思うし、そういうこと考えてる人と話してるのを俺多分すごい好きなタイプなんだろうね。すごい聞いてて楽しくなってきちゃう。
わかる気がするわ、なんか。結構やっぱ俺もさ、なんか最近はそうでもないんだけど、昔とかよく寝る前に布団入ってずっと考え事始まっちゃって寝れないみたいなのとかさ、よくやってたし、わかるわ、なんかこうすごい抽象的なことばっかりぐるぐる考えちゃったりとかして、
なんかどこかこうナイーブな部分もあるんだけど、一方でなんかそれ蹴っ飛ばしてなんか弾けちゃうような部分も同時に持ってたりとかして、なんかすごいこじらせてる感じとかすごい楽しいわ、聞いてて。
あ、なるほどなるほど。いやでもなんかすごい深い受け皿みたいな感じですよね。もういろんな人、まあでもその多分聞き上手じゃないと、聞き上手じゃないとこんなに絶対続かないっていうのはあると思いますけど、毎回必ずこう1時間、ミニマム1時間半は喋ってみたいなのとかを見てると、なんかそういうあのサムネイルの並びと再生時間だけ見てるだけでも、
あーなんかそういう方なんだろうなっていう感じがすごく、多分何の話でも多分できますよね、受け上げるっていうか。
そうだね、でもなんかね、やっぱノーマライズFMはどっちかっていうと、なんていうんかな、割とその技術の話とか経営の話してみるとかデザインの話してみるみたいなのが多いから、あんまりこうなんか心の心象風景みたいなところってあんまり深掘りして喋ることって、まあゲストによりけりではあるんだけど、
結構、あらたくんはその心象風景よりな感じだから、俺はすごいなんか聞いてて楽しくなっちゃうんだけど、
あ、よかったです。
そう、やっぱなかなかね、なんかやっぱエンジニアの人たちって、まあなんだろうな、なんか人の性格にもよると思うんだけどさ、やっぱ自分をこう見せたいっていうのがちゃんとある人だと、あんまりそこをさらけ出してくれないタイプの人とかもね、いるし、
そういうときはまあ無理に聞かないし、それはそれとして面白い番組になるように喋ることは確かにできると思うんだけど、なんかこういうなんかふわふわした答えのない話をしてるのが、俺は結構好きだから、個人的に。
いやー、僕もほんとに友達と会うといつもこんな感じなんで、ほんとにこういうふわふわした話ばっかりするんで、まあ今日ももうWebGLの話とかも正直全然するつもりなくやってきましたけど。
いい、それでいいと思います。
そうだね、やっぱ人間、人間について語りたいよね、やっぱね。
人間ですかね、僕らは。
そう、人間とかさ、感情とか心とかさ、なんかそういうものについて語りたいし、
写真撮影の醍醐味
そう、なんかやっぱ写真とかもさ、写真って何とでも解釈できる、その見る側が好きなように解釈していいと思うけど、でも俺はやっぱなんか心みたいなものを映したいというかさ、なんか自分の被写体の感情っていうよりは自分の感情が映り込んでほしいなって思うし、
なんか自分で自分の写真見てるときは少なくともそうなのよ。
ただなんかそのさ、新田くんがさっき言ってた、バックパッカーとして目にしたものってすごい身体的に残ってるし思い出せるっていうのと一緒で、写真ってめっちゃ思い出せるのよ、その撮った瞬間の気持ちだったりとか、なぜそれを撮ったのかとかっていうのが、もうありありと思い出せるわけ、もう何万枚も写真撮ってるのに。
なんかそういうなんか良さに気づいちゃったわけよ、俺はなんか写真をやり始めて。
そうですね、それはめちゃくちゃいいですね。
僕もそれは音楽とかにあります。
なんかもういくらこう空でこうその時の感情を思い出そうとしても思い出せない、とてつもない解像度で、かつ体験的になんかその本当にその時の感じって感じで入ってくると思う。
そうそうそうそう。
感じ、あの時の感じだみたいな感じで、すっとこう降りてきて没入するみたいな、あれめちゃくちゃいいですよね。
いいよね。
なんかよく言われるのはさ、音楽もそうだし、あと匂いとかもそうだよね、なんかこう嗅いだ瞬間にさ、感じが降りてくるんだよね。
あの感じが降りてくる。
感じが降りてきますね。
なんかそれがやっぱ気持ちいいっていうか、なんだろうね、なんかノスタルジーな感傷みたいなのもあるし、いいなって思っちゃうのも。
なんか俺はやっぱ写真やってて、それがすごい気持ちがいいっていうか。
なんか僕は、僕もなんか写真外には発表しないですけど、自分で撮るんですけど、僕も写真はそういう意味で追憶、後から遡って追憶するためのメディアだと思ってるんで、
なんか本当にそういうニュアンスで撮りますね。
なんで僕ラーメンとかめっちゃ好きで、よくラーメン食べるんですけど、ラーメンの写真はもうあえてめちゃくちゃ適当に撮るっていうなんか謎のマイルールがあって、
もう本当にスマホを出してもうパッて撮ってこう腕止めずに一連の流れで撮るみたいな、なんかぐっちゃぐちゃの写真になるんですけど、
そうやって撮られたブレてたり解像度の低い写真とかってこう後から追憶するときとかに、より想像の余白を残してくれてるというか、
なんかバッキバキに加工して、バッキバキに綺麗に撮ろうとして、
なんか多分自撮りとかでもこう顔がめっちゃで線細くなってたりとかしたときに、後から見直すとなんかあまり自分ごととして感じられないっていうか、
そういう意味では多分のくささんもかなり、まああのもちろん画角とかは気にされると思うんですけど、
そのときの無心というかピュアな感情で撮られてるからこそ、そういう追憶としての機能があるのかなって感じはめっちゃ聞いてて思いました。
そうかもしんない。なんか俺すげえわかるなって思ったのは、そのラーメン雑に撮っちゃうっていうのはすごいわかる気がする。
なんか別に構図がいい写真撮りたいとかさ、写真賞に応募するような作品として写真撮りたいっていうわけじゃないじゃん。
だからなんか意識的にそこを避けようとしてしまう心理が働くというか、
あえてやっぱりなんか外してみる、何かしらのルールから外れた写真を撮ってみるみたいなのはやっぱり思っちゃうことがあるし、
なんかすごいいい景色とか見たらさ、とっさにやっぱりカメラを構えたくなるし、撮っては見るんだけど、なんか観光写真になっちゃうのよ、それって。
なんか俺がよく感じるのは、なんか初めて行った、例えば京都とかに旅行に行って、いやめっちゃいい、この風景やべえなみたいなとこに出会うと、思わず写真撮るんだけど、それって後から見返しても観光写真なんだよね。
なんかその思い出残してるっていうんじゃなくて、なんかとっさにきれいなものをただ画角に収めたみたいな写真になっちゃって、
全然こうなんかいつも普段スナップ写真として街中で撮ってる写真と同じ写真の感じに全然ならなくて、
なんかやっぱ俺は日常、自分がこう毎日散歩で歩く日常を撮る中で何かこう、気持ちとか感覚を捉えようとしてるっていうのが多分俺の写真のやり方なんだなっていうのを、なんか本当に感じる、その外に。
なるほど、なるほど。
観光とかに行ったとき強く感じる、なんか。
あー、なんか思ったこと言ってもいいですか。
はい。
なんかその、多分そういう独卒さんのお写真ってそういう、あの単発でこうこのショーにとか、そういうこの展示にとか、そういう、なんかそういうモチベーションではないじゃないですか。
多分本当にどちらかというと日記的なニュアンスに近いというか、こう日々撮ってて日々のそういう心情とかが反映されててっていう風な感じだと思うんですけど、なんかそうです。
なんか僕のおじいちゃんもそんな感じでずっと写真を毎朝庭の、毎朝庭の手入れして花の写真撮って、で、まぁインスタに上げるっていうのがずっと日課になってるんですけど、なんかそういうのとかをこう見てると、
まぁおじいちゃんも結構な年なんで、まぁもう今80とかなんで、まぁあと40年生きれないじゃないですか。
ってなった時に、まぁいつかはもう自分も含めて死ぬってなった時に残された人とかがそういう、単発の作品ももちろんいいんですけど、そういう本当に日記的にこう日々積み重ねていたものとかをこう、
残された人たちが見た時にやっぱり多分めちゃくちゃ来るものがあるんだろうなっていうか、なんか、なんかまぁその人が作ったものを、作家が作ったものを他の人が、
観賞者が見るっていう行為自体が、まぁこれ作家である自分自身が言うのだいぶおこがましいんですけど、作家の作品を鑑賞するっていうのは、その作家をめでる、その作家を愛する行為だなっていうふうに思ってて、
そうなった時に、まさにそういうおじいちゃんがずっと撮り続けてきた写真とかをこう、何十年とか後にこう見るのって、なんでいい、なんかいいなぁ、めっちゃいいなぁこれってなると思うんですけど、それなんでいいかって言ったらやっぱその、その作品を見ることがそのおじいちゃんを愛する行為につながってるからこそなんだろうなぁっていうのはめっちゃ思って、
なんで独作さんもたぶんそういう日常的に写真を撮られていて、そういうのを、まぁあの、もちろんそんな存命の時でもそうですけど、息子さんとかお孫さんとかができた時とかにこう、お父さんがとか、こう撮っててみたいなのとか、やっぱり、あの、愛す、なんかすごい愛を感じますね、すごくから。
そうだね、そうかもしんない。だからたぶんなんか、すごく身近な人たちだけじゃなくって、たとえばXみたいな、SNS越しに俺の写真見てる人たちにも、たぶん、その密度とか濃さは違うかもしんないけど、同じものがたぶんあるんだろうね、たぶんね。
うん、絶対あると思います。
俺の、その、ドクサスあるいは杉本っていうアイデンティティを通して、てか、それがある前提で、この写真を見た時に、なんかいろいろみんなの中に感じることがあって、で、いいねするしないとか、いろいろある人によってね、スタンスはあるだろうけど、たぶんみんながほんの、ほんのひとかけらでも何かを感じてる。たぶん、それがたぶん小さい愛のかけらじゃないけどさ。
はいはいはい。
なんかやっぱそういうのがあるんだろうなと思うけどね。いや、あってほしいなと思って俺は投稿してるから少なくとも、その。
そうですね。
やっぱ誰にも何にも感じてほしくない。単なる自己満だったらたぶんSNSには出さないから。
ね、なんかたいそうなことは言わないよ、その、俺は写真家でこういう表現がしたいからみんな見てくれみたいな、たいそうなことは言わないけども、でもやっぱなんか共有したいだったり、自分がすげえ今日の朝見たこの光と影の感じすごいよかったな、みんなにも見せたいなみたいな、なんかそぼくなさ。
そぼくな感情があるからやっぱ出すわけで。
はいはいはい。
そうだね、だからその、それこそおじいちゃんずっと写真撮ってるみたいな、そこまでなんかピュアで濃いものではないけども、でもやっぱり俺はそのSNSにあげるときは、なんかおすすわけじゃないけど、俺はこんなふうに感じてるんだっていうのをやっぱなんか表明してる感じはちょっとするかもしれないわ。
なるほどなるほど。
なんか、やっぱそうそうですね、その独作さんの写真を見て、見る人がその、まあその、明確に意識しなくてもその独作さんを愛する行為につながってるっていうのはめっちゃあると思います。
でかつなんか僕自身はその人に愛されたいし、愛したいって言ってると思うんですけど、なんかその愛されるのもすごいもちろん満たされるし、自分が主体的にこう愛してる瞬間も人を愛してる瞬間もすごい満たされるなって実感からやっぱその人を愛する行為ってその愛する主体側にも良い影響があるなと思うので、なんかその愛するための素材をこう、
あなたは人を愛して満たされたいですよねみたいな、あの愛するための素材ここに置いておくんで、愛してくださいみたいな、めっちゃ言い方悪いですけど、割とそういうモチベーションで作品を作ってるんで、愛する対象を作りますよみたいな。
なんでそのすごい、もうずっとやってほしいですね。
ずっとやってほしい、そっか。
もうXが滅びてもなんかもう独自のSNSを作っても。
そうだね。そうだね。
やってほしいっすね。
そうだね。
はい。
いや、なんか自分の話しちゃってごめんねっていう感じではあるんだけど。
あ、いいえ、全然全然。
そっか。
めちゃくちゃいいっすね。
なるほどね。
いや、まあでもそうだよね。
やっぱりそういう意味では俺もなんか人との関わり合いを求めてるのかもしれないわ。
やっぱそこに。
まあ、そうっすね。
今なんか程度結構選べるじゃないですか。
SNSと薄い関係性
特にバーチャル上でのソーシャルネットワークも紛れもなく社会活動だし。
なんか昔、昔もまああったと思いますけど、今そういう本当になんか今すごいいいなと思うのはツイッター、Xとかインスタグラムでこう薄くつながっとける、とりあえず薄くつながっとけるみたいな関係性を選択できるようになったんで、それがすごい良いなと思いますね。
うん、たしかに。
インスタさえ、もうなんかそんなに仲良くなれなかったとしても、仲良くなれなかったというか、単発で会って、そのわずか数時間でめっちゃ仲良くなれるほどの猶予がなかったとしても、とりあえずインスタさえ交換しておけば、今後一生会うことはなかったとしても、お互いにうっすら相手の人生を監視し続けられるじゃないですか。
そうだね、そうだね、たしかに。
なんか幸せそうに会ってるな、いいなみたいな。
だし、また会おうと思えば会える。
これ特にバックパッキングするとめちゃくちゃ効果を感じるんですけど、海外で会った人とか、本当にちょろっと会った人とかって、そのSNSがなかったらもう街中でたまたますれ違うなんて絶対ないし。
うん、たしかにそうだわ。
そうなるとやっぱ、インスタなりSNSを交換しておくことって、そういうすれ違うとはちょっとまた違いますけど、また会える可能性が1%だけ残るんですよ。
それがなんかすごい、実際に会うこともよくあるし、もう一回会おうよってなって会うこともあるし、その可能性が残ってるって事実だけでもめちゃくちゃ精神的に良くって。
うんうん。
そういうでも薄い関係性を選択できるし、まあ嫌になったらミュートすればいいしみたいな。
そうだね、そうだね。
薄くつながる関係性
そういう関係性めっちゃいいなと、特に思いますね。
なんかね、フォローするしないとかって、それこそ別に非同期的に世界中のどこからでもどんなきっかけでも確かにできるんだけど、実際に出会って作ったものはやっぱ見た目はただのフォローとフォロワーなんだけど、中身は全然違うもんね。
そうですね、はい。
うん、たしかにね、そうだね。
学生時代の友達とかって、だんだん会わなくはなっていくじゃないですか、その頻繁には。
けど、友達、そうですね、なんかそういう、最近地元の同級生とかとご飯食べたときにすごく思ったんですけど、やっぱりそうやってなんか薄くつながっておけるのっていいなと思って、薄くつながっておけば急に会いたくなったときにまた会えるよなっていうのが。
たしかに。
はい。
そうだね。
そうだわ、ほんとそうだと思うわ。
たしかに。
いや、俺すげえ感心しちゃったわ。
ほんとにフォローとフォロー、フォローしてるしてないなんてほんとにいつでもどこでも誰にだって誰に対してだってできるけど、出会ってお互い交換してる関係って全然違うもんな、全然違うもんね、感覚的には。
うん、ほんとそう思います。
特になんか、そうですね、SNS基本めちゃくちゃ嫌いなんですけど、その点はもうめちゃくちゃ良いなと。
そうだね、そうだね。
思いますね。
たしかにな。
はい。
あんまり自分で外出ていかない、その散歩してるぐらいしか外行かないから、あんまり知らない人とアカウント交換し合ったりみたいなことってないけど、
でもなんだろうね、でかいミラーレスを片手に持ってプラプラ歩いてるから、カメラ好きな人同士って、お互いに視界の隅にカメラ持ってる人いたら絶対気づいてるわけよ、お互いに、このでっかいミラーレス持ってる者同士はさ。
はいはい。
で、結構、日本人同士だと、言うて別に声はかけないというかさ、同じカメラをたしなむ者同士、お互いに認識はするけど、別に声はかけないっていう感じなんだけど、
結構、海外から日本に来て、観光なのか休暇なのか、あるいは仕事なのかわかんないけど、同じようにでっかいカメラぶら下げて歩いてる海外から来てる方たちって結構声かけてくるんだよね。
あー、はいはいはい。
あなたのカメラ何ですか?みたいな感じのノリで来るわけよ。
海外のノリだなって俺それ思うんだけど。で、その時にやっぱお互い言葉もわかんないし、いまいちよくわかんないわけ。なんか、深いコミュニケーションができるわけじゃないのよ。
だけど、写真とかあるいはインスタがあることによって、あ、この人こういう人なんだっていうのが、もうそれ見りゃ一発でわかるわけ。
なんかその、あ、普段は商業写真でこんな感じのバチッと決まった風景写真とか撮ってるカメラマンさんなんだなっていうのが、もうSNSを見れば一撃でわかる。
そうすると、言葉わかんないなりに、お、めっちゃいいねとかいうのがこうできるわけよ、リアクションがさ。
そういうのがやっぱ現代的っていうか、現代ならではのコミュニケーションの形だよね。
そうですね、確かに。で、いいっすね。やっぱ写真やってる方は言語の壁越えて写真っていう視覚的ななんか共通言語がある感じもやっぱいいですよね。
もう見たらだいたいわかるじゃん。なんかその、わかるじゃんっていうのはちょっと語弊があるんだけど、俺はわかる気がするのよ。
あ、こういう感じの写真撮る人なんだっていうのが、俺はわかるから。
はいはいはい。
なんかほんとね、全然自分は英語もしゃべれないしさ、なんかかたごとなスピーキングも怪しい感じではあるんだけど、
これめっちゃいいやんみたいなのは、これ言えばなんかやっぱリアクションは伝わるじゃん、すごく。
あー、はいはいはい。
そういうのはやっぱ海外のね、人たちはほんとに臆せず来るから、すげえなって思うけどね。
そうっすよね、たしかに。
いやー、なんかまあ、そうっすね、はい。
特にインスタやっちゃいいなって思いますね。
うーん、それはそうかもね。
うーん、やっぱその人たちも海外行っちゃったらもう絶対会えなくなっちゃいますもんね。
そう、だからそこで一回交換しとけば、たしかに新田くんが言うとおりなのよ。
別に積極的に関わりはしないんだけど、フォローしてる限りはたまーに流れてくるわけよ、タイムラインに。
それを見て、あーこの人またやってんだな、世界のどっかで同じようなことやってんだなーって思うし。
はいはいはい。
だからそういうのがなんかこうさ、世界中に枝葉のように散らばっていった世界が、新田くんにとってはやっぱ楽しい世界というか、そこが好きな世界なんだろうね。
言うとけーです。
で、そのバックパックが、いつまで続けるかはたしかにわかんないけど、続けていく中でそうやって枝がいっぱいいろんなところに広がっていくのがいいんだろうね。
そうですね、はい。それほんとに最近の同級生ととどめかけて思いました。
でなんか、大学卒業してその、いわゆる同級生と会うみたいなのが、大学卒業してから初めてだったんで、
でなんかやっぱしっかりちゃんと、あの、もう同級生で結婚した人いる?とかなんか、しっかりそういう話をみっちりしましたね。
めっちゃイニシエーションだなと思いました。
ちゃんと自分もこういう話するんだみたいな。
結婚式呼んでね?とか。
俺結婚式呼んでね?とか言ってるやんみたいな。
いやいろんなことあるよ、これからきっと。いろんなことあるぜ。
なんかだって、やっぱ俺らぐらいの年になったらさ、
うん、やっぱその年になったらやっぱこういうこと言うんだなって、自分に対して思うこといっぱいあるし、
なんかね、老害とまでは言わないけどさ、やっぱり年取った年取った人間っぽいこと、おじさんっぽいこと言っちゃうなって思ったりもするし、
はいはいはいはい。
あると思うよ、これからいろんなことが、たぶん。
そうですね、なんかあの、どうなろうと、なんかあんまり今の段階でこうはなりたくないみたいなことを決めつけちゃうんじゃなくて、
どうなろうとその時その時で楽しかったり、まあ割と切な主義的な価値観はあるんで、
その時々で楽しかったら良いなと、どうなろうと自分を認めてあげたいなって気持ちはあります。
いいと思う、いいと思うわ。
写真とコミュニケーション
道徳さえ踏み外さなければ。
そうだね、それはその通りだわ。
俺は結構さ、それこそ若くして結婚しちゃったから、
君たちぐらいの世代の頃って、自分は最後、優先順位的に、もうとにかく金を稼いでこなきゃいけない。
それだけが俺の人生っていう感じで20代30代を駆け抜けてきたから、
逆に今になってやっと自分のことをやれるようになってんのよ、割と。
俺なんかはね。
はいはいはいはい。
だから順番的には結構逆なんだけど、
でもやっぱ今WebGLに出会ってとか、写真と出会ってとかって、
だんだん自分の人生が、自分というものの中にいろんなインプットが溜まっていくフェーズに今入ってて、
だからどっちがいいかは分かんないんだけど、
でもやっぱりいろんなこと経験してきたこと、
それこそなんか土木作業員や日当の土木作業員として、
日当7000円ぐらいでなんか警備員やったりとかさ、
なんかそういうことってやっぱり無駄じゃなかったなとは思うから。
あーはいはいはい。
だからいろんなことこれから経験すると思うけど、
やっぱ自分で自分のことを嫌いにならないようにするというか、
そういう生き方ができるとたぶんいいんだろうね。
なんかやっぱドクサスさん、もうほんとに日本WebGLの父たるドクサスさんだと思うんすけど、
始められたの遅いみたいなお話とかもよくされてるじゃないですか、
30代になられてからみたいな、
なんかそういうのとかをやっぱ見て、
始めるのが遅くてもこれだけ影響力を持ってっていうところとか見ると、
やっぱりめちゃくちゃ月並みですけど、
何かを始めるのには遅すぎるなんていうことはないみたいな月並みすぎますけど。
そう思う、ほんとにそう思う。
だって写真もね、
すごい勇気づけられる感じは。
40になってから写真始めてさ、
まだ人生、下手したら3、40年あるなって思ったら、
何だってできるなって思っちゃうよね。
はいはい。
ほんとに。
なんかそのマインドってすっごい大事だなと思ってて、
木村さんの会でも木村さんもすごい今でも新しい技術をこう勉強し始めて、
どれだけのキャリアとか、
どれだけのキャリアがあろうとまたビギナーから入っていけるっていう、
そういう何か僕最初に何て言うんだろう、
そういう経験の差、キャリアの差とか膨大だけど、
同じ目線にしゃべりたいみたいなのって、
何かそういう大人がすごい好きで、
何て言うんですかね、
いくらでも自分の触れてこなかった分野に対しては、
他の分野で自分がどれだけ認められてようと、
自分が知識のない分野に対してはプライドゼロから入っていけるような人とかって、
めちゃくちゃ尊敬するんですよね。
新たな経験と柔軟なマインド
結構その一分野で認められちゃったら、
あたかも全智全能のように、
他の分野にもその一分野のプライドが波及してしまって、
会話してるような人とかってやっぱりいっぱいいると思うんですけど、
何かやっぱもう自分の倍以上も年離れてる人とかとしゃべってて、
相手の守備範囲なく自分の守備範囲の話とかをしたときに、
それってどういうことみたいな、
めちゃくちゃ年上の人とかがすごい、
減り下ってておかしいですけど、
そういうキラキラッと目でフラットに聞いてくれるのとかを見てると、
めちゃくちゃかっこいいなって思って。
そうね。
いや、木村さんとかまさにそんな感じじゃん、ほんとに。
木村さん、俺もだって驚いたもん。
今興味があるからとりあえずこれを、
またピアノとか習ってるんですよねとか言っててさ、
いや、すげえなって思ったよ、ほんとに。
それ僕も知らなかったです。
昨日ピアノって鳴りました。
うん、ほんとに。
ほんとにすごいなと思うし、
だから逆に俺はもう気をつけてるまであるね、それは。
やっぱ自分は何かの対価であるかのように言われるがちだけども、
そんなたいそうなもんじゃないし、
謙虚っていうのともちょっと違うんだけど、
あんまり自分をヘリクダったりヒゲしたりしすぎるのも良くないって思うのよね。
それは例えばウェブジェールについて、
何もないかって言われたらそんなことないし、
やっぱ努力してきたっていう自負はあるけども、
ただやっぱ例えば写真初めて見るとかってなったときに、
写真、自分にとってすごいこれはいい趣味になりそうだなって。
最初に写真をアップロードして見てもらいたいなってなったときに、
ドクサスと切り離した別のアカウントでアップロードし始めたのよ。
それはなぜそうしたかっていうと、やっぱり俺という文脈の上に乗っからない、
ゼロの状態でまずやってみたかった、最初は。
何も起こんない可能性の方が全然高いってわかってても、
でも始まりはそういうふうにしたかったし。
なんかやっぱ新しいことやるとか、
あるいはノーマライズFMで全く文外観の、
全く知らないジャンルのゲストが来てくれるとかっていうときは、
やっぱり意識的に自分をリセットして話してる感じはある。
確かに。
なんかドクサスさんのノーマライズFMをお聞きしてても、
やっぱりそのプライド持たないでいいところはとことん持たないし、
持つべきところではすごい持たれてる、いい意味で持たれてるところもあるじゃないですか。
特にWebGL。
WebGLに関しても減り下るときもあれば、
人との対等な関係
すごいちゃんとオレすげえんだぜっていうのをちゃんとわかってらっしゃるところもあって、
なんか面白いですね、聞いてても。
そうね。難しいけどね。
でもなんかやっぱなんだろうな、
ある一定まで突き詰めてみると初めて見えるガチ勢のヤバさってあるじゃん。
あります、はい。
何事においても一定まで行ったからこそガチ勢の本当のヤバさがわかってしまうっていうのあるじゃん。
何事にもそれあるなと思ってて。
なんか例えばなんだろうな、
わかんないけど本当に今誰っていうことなく何となく思い出したことをふんわり言葉にしちゃうんだけど、
例えばなんか普通の主婦の方が、
例えば主婦の方がスーパーで起こった小さな出来事にすごい怒ってるツイートをしてるとか、
あるいはなんかすごいサラリーマンが電車の中で起こったことにすげえキレてるとかっていうツイートとかを見たときに、
簡単にそうやって人を否定できるのすごいなって俺は思っちゃうわけ。
相手はめっちゃいろいろ考えた結果、
どうしようもなくてそうなってるかもしれないのにそういうこととか考えずに簡単にそんな100%否定できちゃう人いるんだって思っちゃうんだけど、
やっぱ何事にもすごいこういろんな事情とか背景があるはずだし、
すごい人はやっぱりすごいんだよね。なんかいろんな背景があるからこそその人はすごいし、
自分から見て表層的にパッと見てわかることなんて、素人がパッと見てわかることなんて、
それこそたかが知れてるというかさ、
本物のプロフェッショナルには自分の押し量れないすごい部分があるなってやっぱ思うから、
どんな出来事とかいろんな目にするもの、体感するもの、見聞きするものに対して、
やっぱ警察に判断しちゃいけないなっていう注意喚起が自分の中に常にあって、
いろんな人を見てしまう、そういうふうに。
自分がいろんなものを観測する行為って、もちろん自分の視観を通して全てのものを観測してるんで、
全部本質的に自己投影だと思ってて、
自己投影したときに自分のシルエットの中で捕捉できるものしか捕捉できないじゃないですか、
でも相手はもっと大きなシルエットとか別のシルエット持ってるのに、
だから本質的に自分が何かを観測してその何かについて語るっていうことは、
全部自己投影であるっていうことを認識した上で、
要はその自己評価とか自己認知のバイアスがかかってることを認識した上で、
慎重にしゃべるっていうのは僕もめっちゃ気をつけてます。
特に自己評価バイアスに関しては自分が思ってるよりも、
1、2段ぐらいはちょっと低めに見積もった状態でしゃべるぐらいがちょうどいいなとか、
そういうのはめちゃくちゃ注意してますね。
そこの測りがバグってくると、いわゆる老害って呼ばれるような人たちになっていってしまうのかなと。
でもちょっと難しいのが、そのバイアス聞かせすぎちゃうのもダメじゃん。
本当にそうです。
その表現とか、自分が何か社会に対して向けてメッセージがあるときに、
そのバイアス聞かせすぎちゃうと、やっぱり当たり障りのないものしか作れなくなっちゃうし、
だから作家という肩書きを持ち続けるために、
自分が人がやらないような自分なりの独自の表現であったりとか、
強いメッセージ性を発露させようと思ったら、やっぱりそこはそこでまた一歩踏み切るじゃないけどさ、
ハードルを飛び越えるパワーも必要になったりして、そこら辺難しいよね。
そうですね。それを獲得するためにも一生を費やしてると言っても過言じゃないのかなとかすら思ったり。
そうだね。
あらたくんが途中で、息を吸うように芸術にやってしまう本物の競いの人たちがいるって言ってたけど、
そういう人たちは、たぶんバイアス側ができないんだろうね。
そうですね。
自分にバイアスをかけるということができないから、
周りから見てると、いろんな意味で飛び抜けて、突拍子もないことを言ったりやったりするように見える。
そこら辺ってバランスとんの難しいよね。
そうですね。
両方の気持ちがわかるってなると余計に。
そうですね。
自分を過大評価しすぎちゃったとか、過小評価しすぎちゃったっていうのがいっぱいある中で、
だんだんここの振り幅がちょっとずつあっていくみたいな感じ。
僕自身、昔めちゃくちゃ自分のことを過大評価しすぎてた人間関係とかにおいてっていうのがあったからこその反省で今生きてるんですけど、
そういう、まずは過小評価しすぎるぐらいがちょうどいいっていうところから、
でもそれだと自己嫌悪に陥っちゃうんで、
だんだんこう慎重に慎重に、周りからの評価と自分の中の自己評価が一致するように慎重に慎重にチューニングするみたいな、
めちゃくちゃ難しいですけど、難しいし、一回できたからでいってまた悪い方向に触れていく可能性も全然あるので、
一生続くなと思ってるんですけど、
それが特に取れば取れるほど難しくなるんだろうなっていうのはなんか、
特に経験が生じき、経験を得てしまうと。
そうだね、確かに。
なんかこの間大島さん、出てらっしゃいますよね、ノーマル前編目もおそらく。
うん、出てる。
大島さんとご飯行かしてもらって、なんかそもそも大島さんはなんか絵描き送ってほしいみたいな、
なんか僕が絵描き送りますみたいなことを言ったときに、送ってほしいっていうので、
大島さんもオーストリアに短期で滞在していらっしゃったこととかあったりしたんで、
オーストリアで解体をオーストリアから送ったりとかしてた関係で、
この間東京に行ったときにご飯行かしてもらったんですけど、
なんか本当に5時間くらいぶっ通して、そのときずっと喋ってて、
大島さん、僕と絵と同じなんですよ、同じ立ち年で、僕が24の年で、
なんで大島さんが2週後の48の代で、ちょうど倍の年齢差があるんですけど、
なんかもうずっと5時間くらい喋ってると、なんか本当に途中からずっともう、
友達だと勘違いしてきてしまって、自分の中で。
たまにハッとするみたいな、あ、こいつすごい人だったみたいな。
なんか本当にひどいとき、途中、なんか僕が大島さんに技術の話をしてるみたいな、ありえないのに、
なんかそういう意味で、なんか本当に友達と錯覚させてしまう、
飯太と関わるときに、なんかいい意味でプライドを持ってないからこそ、
僕がそう錯覚してしまうみたいな。
でもそれって、経験とか年の差があるのに、
こう友達みたいに喋れてしまう状況って、その目上の人の努力というか、
そういう作用があってこそ成立してる空間だと思うんですよ。
僕はそのときは無邪気に、こういうことがあったんですよ、あったんですよみたいな、楽しく喋れてしまってるんですけど、
終わった後に、あの空間って、以前にもそういう尊敬する大人の人とかで、そういうことよくあったんですけど、
その大人の人のそういう作用があったからこそ、あの空間は成立してたんだなっていうのを、
特に終わって、熱が冷めた後に気づいて、はっとして、
俺はこういう大人にならないといけないみたいなのを毎回思うんですよね。
なるほどね。
それってでもすごい、僕もそういう大人になりたいなと思います。
なんで結構、後輩とかと接するときとかも、そもそもなんか敬語とかは使ってほしくないなってずっと思ってるんですけど、
自分のわからないこととかあったらこう、どういうことみたいな、
とことんこう、へり下って聞けるようにっていうのは、特に今のうちから心がけてはいますね。
うーん、なるほどね。いやでも、大島さんは確かに、なんかそういうオーラを持ってる人だよね。
なんか、こう、安っぽい言葉になっちゃうかもしれないけど、すごい謙虚に接してくれるというか、
それこそすごいフラットに、別に上下関係とかひけらかさずにフラットに喋ってくれる感じだから。
多分そうだよね。だから大島さんがああいう空気を、そういう世界を作ってくれてるからそこに入っていけるわけで。
そうですそうです。
そうじゃなかったらね、やっぱり全然違ったコミュニケーションになっちゃうと思うから。
そうね、だからやっぱなんか、だから新田くんは本当にあれなんだろうね。
なんか、やっぱ人間大好きなんだなっていうのがすごい一貫してて感じるわ、今日のお話ずっと聞いてきた中で。
だし、人間だと思ってます、自分のこと。
そうだね、そうだね。人とやっぱり関わってその人間であることを実感していることが君にとって今すごい幸せというか、
自分たらしめる部分なんだろうね、きっとね。
なんかいろんな人間があって、例えば表層的、表層的って言うとよくないですね。
大人としてのバランス
人によっては私はエンジニアですとか、WebGLエンジニアですとか、私はエンジニアですとか、私はクリエイターですとか、
私は日本人ですとか、男です、女ですとか、何歳の男ですみたいなところで言うと、結構僕はもう人間として生きたいなっていうのがあるんで、
そんな言語とか性別とか年の差とかで対等に話せなくなるのもったいなすぎるなってめちゃくちゃ思うので、
可能なことなら全ての人と対等に払わってしゃべりたいなっていうのは今、まだ若いからこそ思えてるんですけど、
それを年下の人が増えてきたときにも同じことをずっと、年下なら全然払わってしゃべりたいよって言い続けられるように、
ずっとそれは自立しながら、自分を立地しながら、立地し続けながらいきたいですね。
いやー、いいと思う。で、たぶんね、これはあくまでも俺個人の言ってることなんで、
なんかすごい大層なことを言いたいわけではないけど、たぶん君はずっとそのままで大人になっていけるというか、
歳をとっていけると思うから、たぶんそうだね。難しいのはどっちかっていうと、
その時々どういうふうに感じるかわかんないけど、やっぱり30代、40代ってなってくると、
ちゃんとした大人でなければならないバイアスっていうのがすごいかかってくるから、自分に対して。
それとどう折り合いつけるか、たぶん難しいポイントになりそうな気がするわ。
だからなんか、若者に対してフラットに接すられるように、
ちゃんと相手のことをないがしろにせずに接してあげられるとかっていうのは、
それ心の持ちようだからいくらでもできる、歳とってもできるんだけども、
一方で、ちゃんと大人として素晴らしい大人だなって思ってもらえるような状態でいることにはすごいコストがかかるから、
そことの折り合いのつけ方が難しいよね、たぶんね。
だからそこで悩むことになるかもしれないけど。
そうですね、本当にそうですね。
大島さんも大島さんの空気感は確かにすごい、俺もわかる。
バランスの難しさ
新田くんが言ってることわかるけど、やっぱ大島さんはああいう人柄でありつつ、
社長さんでもあり、すごいデベロッパーでもありっていう、ちゃんと人としてっていうものを持ってるじゃん。
そこがやっぱすごいじゃん。
気持ちをずっと持ち続けたいっていうのは全然難しくないっていうか、絶対できると思うけど、
肩書とか、あるいは社会が求める大人としてのステータスをちゃんと共存させられるかどうかっていうのは難しい問題だから、たぶん。
確かに。
そこで悩むことになるかもしれないね。
確かに、大島さんに対等にしゃべってもらってるから嬉しいのかなと思いました。
電車の中で喚いてるようなおじさんとかに対等にしゃべられても全然そんなに。
自分が尊敬できる、すごいなって思える人が、そんな人なのに普通に接してくれるんだっていうことがやっぱ嬉しいわけじゃん。
たぶん新田くんが後輩とか自分の関わってきた人たちにフラットに接したい、
人として同じ人間じゃんってフラットに接したいと思っても、たぶん君がちゃんと人間じゃなかったら自信を持って話すことに意味が生まれてこないから、
そこのバランスが難しいと思うわ、たぶん。