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2023-10-21 52:12

YCAMぐるぐるラジオ Season2 #13_放課後ぐるぐるラジオ

放課後ぐるぐるラジオでは、過去の収録回と関連がある方をゲストにお迎えして、その感想をぐるぐる話していきます。


2023年2月にYCAM行ったイベント「私もアートがわからない vol.3 わからないの重さをはかる」で講師を務められた渡辺健一郎さん(俳優・批評家)をゲストにお迎えした#6〜#8の感想や、そこを起点に膨らむ「翻訳(インタープリテーション)とは」「学びの話」「死者(と使者)」などについて、独立行政法人国立美術館 国立アートリサーチセンターの原泉さんと一緒にお話しました。

サマリー

放課後ぐるぐるラジオでは、過去のぐるぐるラジオ収録会と関連のある方をゲストにお迎えして、その感想をぐるぐる話します。今回は3人のラジオです。公開収録パートではなく、振り返りの方が長く、アートや翻訳の話が盛り上がりました。アートセンターや美術館でのインタープリターや学芸員の役割や仕事についての話もあり、振り返って見て良かったと思います。また、喫煙やタバコのおいしさについても話が広がりました。樋口さんは爆音映画祭を通じて作品の声と鑑賞者の関係性について考え、作家やインタープリターの役割を思います。生命を吹き込む、死者としての作品、死んだものを感じる、ホドラーの作品、シグナルを見落とさないことが重要など、話題も豊富でした。今回のエピソードでは、原泉さんがYCAMの活動やアートセンターの役割について語ります。

放課後ぐるぐるラジオの始まり
放課後ぐるぐるラジオ
イエーイ!
こういう感じじゃなかった?
全然いい、全然いい。
放課後ぐるぐるラジオでは、過去のぐるぐるラジオ収録会と関連がある方をゲストにお迎えして、その感想をぐるぐる話していきます。
いつものラジオも十分緩めなんですけど、放課後はちょっとより緩く、いろんな実験的なことだったりとか取り組んでいきたいなと思っています。
はい、ゲストを紹介しましょうね。
ゲストは、独立行政法人国立美術館国立アートリサーチセンターの原泉さんです。
ただいまっちょ。
よっ!
おかえり。
おかえり。
久しぶり。
おかえりなさい。
原さんは元々、YCAMの教育普及のスタッフで、イベント、私もアートがわからないのシリーズなどを担当していましたよね?
していました。
そんな原ちゃんと、原ちゃんと、YCAMぐるぐるラジオシーズン2のシャープ6からシャープ8にかけて、俳優で非評価の渡辺健一郎さんがゲストに来られた回の感想を中心にぐるぐる話していければなと思います。
はい、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
話を聞いていくのは、YCAM教育普及担当のこんのと、
山岡と、
ゲストの原です。
なんか懐かしいね。3人でやってた時ってね。
懐かしいね。
そんな感じだったよね。
こういう感じで完全にゲストを、今回は原ちゃんがゲストだけど、この3人で公開収録でもなく収録したのは最初のゼロ回以来だね。
そうかもね。
これからどうやってラジオをやっていくっていう。
ゲストの原泉さんとの再会
一騎集会みたいな。
一騎集会でラジオをやるんだってみたいな。
そう。やることになったけど、みんな不安な顔で目を泳がせてみくばしし合いながら、第ゼロ回を撮ったこと。
あれ、1年前の。
1年以上前だね。
去年の4月とかじゃない?
そっか。
1年半ぐらいが経ってますね。
経ちましたね。
それ以来の3人のラジオになります。
原ちゃんは元々グルグルラジオでもナビゲーター側を私たちと一緒に勤めていたんですが、今年の3月にYCAMを退職されて、新しくさっきご紹介した職場ですね、国立アートリサーチセンターの方で働き始め。
東京に今いるんですよね。山岡さんもたぶん前々回ぐらいに原ちゃんは東京に行っちゃったんですけどみたいなことを言って。
なんて言ったらいいのかな?東京で。
東京に行った。
すごい含みがあったかもしれないんですが、原ちゃんファンの方ご安心ください。ちゃんとお仕事を東京でして。
元気ですか?
元気。
よかった。
元気だよ。元気だし、もし東京の感じになってたら教えて。
気にしては早くない?
私が変わってしまってたら教えて。
変わってしまってたら教えてくれるかな。
そんな変わってしまった可能性がある原さん。軽く自己紹介というか、改めてどんなことをしている人なのかお願いできますか?
私はYCAMに着任したときも同じ教育普及、けいなちゃんや山岡さんと同じように教育普及を担当していたんだけど、今働いている職場も結構それと近いというか、それの延長線と思っているようなそんな仕事です。
職場についてというか、所属もけいなちゃんが話してくれたんだけど、国立美術館っていうところに所属しています。
日本には国立美術館っていう名のつく美術館が全国で、組織が7個あるんだけど、国立新美術館とか、国立東京近代美術館とかがあって、それをまとめて組織としてっていうところに今います。
何してるかっていうと、国立アートリサーチセンターっていうのが最近、今年の最初の春にできて、そこにラーニング部門っていうのがあります。
私たちエデュケーターとか教育普及っていうけど、ラーニングも同じ学ぶっていう意味を持っていて、美術館に関する調査とか、さまざまな活動の他に、ラーニングって学ぶための部門っていうか、そういうチームがあって、今私はそこで働いているんだけど、
美術館の中というよりかは、全国の美術館に関する調査とか、プログラムを作るとか、割とそういう裏方とは言わないんだけど、土台を作る組織にいます。
だから学ぶことの基礎というか、それを調べて作っていくみたいな、そんな仕事をしています。
ワイカムで仕事をしていたこととすごく今の仕事がつながっているって言ってくれたけど、やっぱりちょっと見ているスケールというか、みたいなものが違うなと思って。
イベント「私もアートがわからない」の話
だからこそ原ちゃんが前に、自分で立ち上げたイベント、私もアートがわからないを、今もう一回振り返って原ちゃんがどう思うかっていうところもすごく聞きたいんだけど、
そもそもさ、私もアートがわからないっていうイベントが生まれた経緯とかからさ、またちょっと整理していきたいんだが、何年が最初だったっけ?
2021年。
あってる?そうだと思う、2021年だと思う。
2021年に第一回をやって、2022年にボリューム2とボリューム3をやったんだね。
だからコロナ禍以降というか、コロナ禍に入ってからか、だからみんながもうオンラインとか対面のイベントとか、あるいは美術館自体がとか、ワイカム自体が閉まっちゃってた時とか、割とそういうのと重なる時期に生まれたっていう時代背景っていうか、
時期的な背景があって、で、私もアートがわからないっていうタイトルから決めたっていうのもそうなんだけど、
やっぱずっとさ、私たちは、なんていうのかな、あの、ワイカムの作品どうやって味わったらいいんだろうとか、興味はあるけど、なんか自分は少し行くの怖いなとか、
あとはやっぱワイカムの大きい特性の一つであるさ、映画館と図書館が一緒になっているっていうところがあって、たくさんの人が行き来するんだけれども、
その中の一体どれくらいがワイカムの展示とか活動のことを知っているかなっていうのを知ってほしいっていう啓蒙とかっていうよりかは、
隣、ご近所さんを知ってみませんかみたいな、そういうニュアンスで、ただ教えますっていう雰囲気にはしたくなかったし、
そういうプログラムではないかなと思ったので、一緒に考えません、だからぐるぐるラジオと似てるかもね、一緒にわからないなりに一緒に考えてみようっていう感じかなって思っています。
私もっていうのは、前も言ったかもしれないけど、私たちワイカムの作っている職員とかスタッフですらわからないところが実はあるんだよ、
だから私たちが知ってて、何かそれを試されているような場所じゃないよっていうのをどうにかシェアできたりしないかなっていうので生まれたと今は思っているかな。
よくお客さんもね、いやわからんかったわみたいなって帰っちゃうお客さんもすごく多くて、
あるいは過去見た作品が自分はわからなかったなっていうので、まるでわかっている人が偉いとか、
自分には面白がり方がわからないな、寂しいなっていうニュアンスで声を聞くこともあったりして、
だから本当に隣に座るとかお茶会を開くように、実は私たちもわからなくて、だから一緒に話してみませんかっていう話しかけのタイトルみたいなね。
これが面白いなと思うのがさ、この私もアートがわからないっていうのが、お客さんっていうか来てくださる方への声かけみたいなタイトルじゃない。
でも同時にゲストにもこういう声かけ方をしてるよね。登壇して講師をしてくださるゲストの方にも、何かその方の知識をインストールします、皆さんに、お客さんにみたいなことではなくて、
一緒に考えてくれる人、一緒に頭を悩ませてくれてる人にゲストとして声かけしてるよね。
学校の授業みたいな、いわゆるよくある学校の授業。教科書持った先生が教室に入ってきて、壇上に立ってテキストや資料をどんっておいて、
さあ今から始めます、教えます、みたいな、今日の資料はこれです、みたいなふうなのじゃなくて、
なんかみんないい意味でオロオロしてるといいなって思ってて、オロオロしてるっていうか、自信ないってわけじゃないんだけど、
けんけんさんの前回までのパートとかは、すごいまさにそんな感じだったけど、仮置きって言葉も前出てたじゃないですか、
仮でいいけど、一回みんなで置き合ってみたらどうなるかなっていうので、授けようとしなくていいです、みたいな話はよくゲストにしています。
そうよね、なんかすごく印象的だったのが、けんけんさんも、それこそさっき言ったシャープ6とか7とかのタイミング、6かな?の時に、
こういうタイトルだから講師を引き受けようと思いましたって言ってくれてて、
なんかそれも印象的だったし、ちょっと前になっちゃうんだけど、シーズン2、シャープ1、2に岩道さんっていう山口の大工さんに出ていただいていて、
聞いたよ。
岩道さんもお客さんとして来る方として、一番しっくり来たタイトルが、私もアートはわからないのだって。
そうなんだ。
ずっと山口に住んでる方なんだけど、一番来たいってパッと思ったのが、これだって。
岩道さんありがとう。
自信だ。
でもそれすごい印象的で、特に岩道さんってね、その前からYCAMと一緒に大工さんとしてお仕事をしていて、
転がる公園シリーズとかね、一緒に作ったりしていたけど、何かすごくこう、そうなんだ、YCAMの人もわからないところがあるんだって思って引き付けられたって言って。
ありがとうございますに尽きるし、それ割とこれまでの、私もアートがわからないの1,2,3、過去のシリーズでも来た人の来場者のアンケートで割と多いのが印象的でした。
やっぱりきっかけは何ですかっていうので、このタイトルに興味を持ったからっていうのを書いてくれています。
だから大成功タイトルだなって、いつも思って。
中身もどんどんそれに伴って進化というか、より良くなっていったらいいなっていう気持ちで作って、3回を迎えたかなという感じがします。
いよいよじゃあ、けんけんさんのラジオの内容の方に入っていきましょうか。
どうだった?聞いてみて。
これ話す前になんだけど、これって放課後だよね。
放課後だね、これは。
放課後のニュアンスっていうのは、真面目な授業とか、成績とか、取れ高とか、成果とかとは違う。
じゃない、もう。
だよね。
割と自由度高いと思ってる。
大丈夫です。
OK、OK。
けんちゃん前も言ってたけど、オールナイトしてもいいよみたいな言ってたから、私はそれを覚悟して、今メガシャキを飲んで臨んでいます。
コーヒーも飲んでるよね。
メガシャキとコーヒーを同時に飲んでる。
けんけんさんのラジオ、過去3回、6、7、8を聞きました。
大阪の公民館で収録したと言われる、大阪の、しかも技術室みたいなね。
そうだね、受講できそうみたいな。
しかもさ、あれ、私も後がわからないの、ボリュームさんの本番の時間より多分長い。
そうだね。
あれで編集して、45分とか50分を何回かに分割したんだけど、収録マジで3時間。
長い。
だから、1回の表が30分で終わったとして、裏って言われる、裏の攻撃のほうが長いっていう。
しかも、第1回を踏まえて、けんけんさんこんなこと考えてたんだっていうのを、しかも時間を置いて振り返ってもらうのが、すごい良かったというか、私はそれを求めてたかもしれないって思いました。
アートの世界と翻訳の話
つまり、ゲストも、私たちも、そこに来てた人も、あの回に、あのイベントに参加して、楽しかった、次とかじゃなくって、あれに関してずっともやもやしてくれる人が1人でも増えると嬉しいって思ってたから、けんけんさん、それの先陣切ってて、めっちゃ嬉しい、3時間以上もって思います。
本当、まさにそのラジオの中でも、確か公開収録パートで山岡さんが言ってたけどね、その、「はい、良かったね、終わり!」じゃない、マジでその真逆みたいな。
振り返りのほうが長いっていうのがいいなって思った。
でも実際そうだよね。何か作ったりとかさ、イベントやった後って振り返りってすごく盛り上がったりとか、見せれないのがもったいないなって思う部分もあったから、だからぐるぐるラジオがあって本当に良かったよねって思います。
聞く機会がなかったかもしれないから、けんけんさんは相変わらずって言ったら悪い意味にとらえられるかもしれないけど、すごくいい意味で、相変わらずで嬉しかったと思います。
ずっと悩み続けてて、けんけんさんの口癖の話というか、何か言った後に、「それでもなお!」とか、「だがしかし!」とは言ってもっていうのを、やっぱりいつも使っているっていうのは、けんけんさんと一緒に、3人で、私、けいなちゃん、山岡さん、それからけんけんさんっていうので、一緒に、「それでもなお!」感をずっと持ち続けているのは嬉しい。
それから派生してたくさんの話が出てきたよね。
たくさん話したんだよね。
めっちゃ話したね。
あの時ね、本当にカットしてる部分も正直めちゃめちゃ多くて。
なんならさ、図工室みたいなところで収録し終わった後さ、居酒屋でも話してたよね。
居酒屋でもめちゃめちゃ話してて、居酒屋でも念のため録音回してたんだけど、それまで編集すると壊れちゃうと思って、一旦図工室で。
雑踏がすごかったって。
雑踏がすごい。
すんごい元気な高杉の飲み屋だったからね。
今のところ、カンパーイって。
あのラジオ自体もまずは、今改めて振り返って、私もアートが分からないどうでしたっていうことから始まって、だんだん食べ物とか、翻訳とか、感覚とかの話だよね。
エピソードが公開された時に自分も聞いてたし、
今日今収録している、ちょっと前に時間あったから、申し訳ない、1.5倍速で全エピソード聞いていたんですよ。
で、なんていうかな、もう今さ、自分は職場も変わっちゃって、東京に行って、しかもちょっとYCAMっていうアートセンターとは少し違う美術館とか、ちょっともうちょっと規模の大きいと言われているところで働いていたりしている中で、
翻訳のこととか、っていう話はやっぱすごい、当時は思わなかったけど、今すっごい興味を持っているところなんですね。
放課後だから、ブヤッと。
いいよいいよ、全然いいよ。
今自分が興味あることとか、美術館での起きていることとして、特になんか、欧米の美術館、博物館を中心に、インタープリターっていう職業や部門があるそうですね。
インタープリターは多分直訳すると、翻訳というよりかは多分通訳に近いのかな。
でも、他の言語で話されたことを、主に言葉というか、喋りで、喋りでっていうのかな、口で翻訳して、通えるっていうような役割とか仕事のことなんだけど、美術館、博物館にインタープリターがある。
それは多言語に訳すっていう、それだけではなくて、美術館の中の学芸員の人がいるじゃないですか、つまり専門家の人が、その作品について書いてる、美術館の中のキャプションとか説明文っていうのを、一回インタープリターの部門が引き取って書き直す。
で、それを最終の展示のキャプションとか説明文にするっていう、それに特化した人や部門っていうのの、育成とか研究とか実装みたいなのが、すごい盛んに行われているんだって。
で、だから、作品とお客さんとか、鑑賞者をつなぐ我々、教育普及とか、ラーニングっていうのと、インタープリター、翻訳っていうのを、実際にそういう流れをつなげて考えてしまって、すごい良かったっていうか、前思ってたのと全然違うことを考えながら、さっき聞いてたんです。
そのキャプションっていうのはあれだよね。同じ言語から同じ言語なんだけど、そこに専門家のインタープリターという役職の方が入るってことだよね。
そうそう。でね、って思ったんだけど、けんけんさんの話とか、みんなが話してる中でさ、哲学対話の話があったと思うんですよ。
哲学に出てくる専門用語を使わないで話すことが果たして良いんだっけっていう。
専門用語は確かに初めて聞く言葉で、意味もわからないけど、ただそれを言ったことによって、自分に新しいものとか、新しい解釈というか、チャンスがあるかもみたいな。
だから専門用語を使わずに、わかりやすく言うことだけが優しい、それこそインタープリテーションかな、みたいなふうに自分も思えてさ、わかりやすく書いてあげるとか、専門用語なくしたら良いインタープリターかなとか、
自分が何かそういうことをするって、もしなった時に、どんなふうに書くかなとかって思ってたの。
インタープリターや翻訳の役割
いやー、難しいね。
難しいね。
なんか、わかりやすくをどう捉えるかだよね。
あの時もそうだね、言葉を開くっていうのは、本質的にはどういうことなんだっけって話をしたりしてたよね。
自分の知ってる言葉で説明されることがわかりやすいのか、あるいはそれを読む人の外側にある言葉を、もしかしたらちょっと難しいかもしれないけど、あえて使うとか、なんかそういうことも起きそうだね。
なんか、それを考えたりして、通訳や翻訳のこと、翻訳、こんにゃくでこんにゃくの話とか、あったけど。
あれも面白かったの。
どれ?
水と米とこんにゃくのおいしさっていうのは、おいしさがふに落ちる時っていうか、おいしいおいしいって周りが言ってるのは知ってるけど、
自分はそれを体得っていうか、まだしてない状態っていうのと、他の言語、文化、文化圏に身を置いた時の自分の言語の習得の感覚がすごく似てるっていうか、近しいものがあるっていう。
けいなちゃんや山岡さんの話、かるてかちゃんの話とか、聞いてて、めっちゃおもろい。
私も最近、水の味わかってきた。
あるの?
いや、ある。
ほんと?
あるらしい。
ずっとさ、まろやかな味わいとかさ、優しい透き通るような、水って透き通ってるじゃん、そもそも。
もともとね。
水透き通ってるのに、味わいが透き通ってるかどうかとか、いうのよくわかんなかったんだけど、水にも味っていうのがあるかもしれないっていうのは、
喫煙とタバコのおいしさについて
もしかしたら、かるてかちゃんの話を聞いたから、そういうふうに水を飲むようになったかもしれない。
こんにゃくの話かな、の流れで、じゃあ果たして我々は本当にビールをおいしいと思ってるのかとか、
山岡さんかな、自分はビールもタバコも吸うけど、
いや、俺だね。
本当においしさがわかっているかどうかに関しては、ちょっと怪しいかもしれないみたいな話を。
俺はタバコのおいしさがわからないまま、タバコを吸い続けている人間だよ。
でもさ、その時に確か真似とかの話をしていて、誰かが味わって楽しんでる様子みたいなものを真似しているうちにとか、
だんだんそれが自分の感覚みたいになってきて、結果的に自分が自分の言葉として、タバコおいしいとか、お酒おいしいとか言うようになるみたいなのは、
学習だったりもしそうだよねって話をしてたんだよね、その時に何かを真似ると。
だから、おいしいみたいなことが、そうやって肯定的に習得し得るっていうのは、作品に対して向き合う時にも、ちょっと勇気になる話だなとかっていうのはすごく思う。
タバコってマジ何がおいしい?
だってさ、千人が霞み食ってるのと似てるじゃん。
こわすかもしれない。
煙っていうかさ、実体ないし、噛むとか飲むとかしない。
しないね。
フレーバーみたいなの言うけど、周りの人は臭いとしか言わない。
あれも不思議だよね。
カロリー摂取もしてないし、栄養素もない。
で、味が悪かといえば、何か葉っぱを燃やしたような味がして、しかもそれはみんなが臭いとか、忌避されるもので、一体何がよいの?
本当に百害当て一利なすっていう。
いや、ほんとね、言ったもんだよね。
喫煙者2人がニコニコしながら、タバコの悪口言ってるけど。
でもなんか、すごいさ、そういう人ばっかりじゃないけど、やっぱちょっと憧れで始めたりとかさ、
コミュニティに入りたく、喫煙所コミュニティみたいなのに入りたくて吸い出すみたいな人多いじゃない?
なんか、それすごいさっきの言葉を開くの方のことと、私なんかすごいつながる感じがしていて、
なんか、わかんないけど、チャレンジしたいって思えるのってすごいことじゃない?
あっちに行ったら面白いものがあるかも。
あるかもしれないとか、なんかそれは別に、タバコのおいしさを根節丁寧に説明されたわけでも、
それこそさ、あんま今2人ももうネガキャンしてるじゃん、タバコの。
いや、この後たぶん全然吸うけどね。
口にしたら、こんなのよくないんだよみたいな感じだけど、なんかその時の態度とかさ、楽しそうな雰囲気とかを見てさ、
でも自分もちょっと吸ってみようかなとか、お酒飲んでみようかなって思ったりするじゃない?
なんかその感じが、何かをいわゆる開く時に大事なのかなと思っていて、
別になんだろう、かっこよくなるみたいな話じゃなくて、
なんかそこに、かっこいいことがありそうとか、面白いことがありそうみたいな、いい予感みたいなのをどうやったらこう。
それで言うとさっきのタバコについてさ、我々は百害あって一理なしと言い続けてるのに、
なんでこの人吸ってんだろうが気になって自分も吸っちゃおうかなってなっちゃう可能性あるね。
それと、あとさ、百害あって一理なしだよってさ、深刻な顔して言う人いなくない?
いない。
ちょっと楽しそうに言うんだよね。
なんかちょっと笑って、呆れたような感じで笑いながら、
百害あって一理なしだよ、吊らない方がいいよとか言ってるやつめっちゃ楽しそう。
ぽかーって。
ぽかーみたいな。
その時にリアルタイムで吸ってても。
って思うとさ、エピソード何かどっか忘れたんだけど、けいなちゃんが小さい頃に漫才とか見てて、
何が面白いかは理解できないけど吊られて笑う時がある。
めっちゃあった、本当に。
めっちゃあった、めっちゃあった。
そう、と、なんか良くないって言われて、やめたほうがいいよこんなのって言ってるのに、
すごいみんなが楽しそうにしてるってどういうことよっていう、
その謎を探るために、われわれは、
Amazonの奥知恵と、みたいな感じで吸うようになった人多いかもな。
山口の平知恵入った。
ぼん知恵。
ぼん知恵。
いや、本当にそうだと思うんだよね。
なんか憧れとか、予感とか、なんかそういうのが結構、
さっきはタバコとかお酒の例だったけど、学習の最初のきっかけとしては、かなりでかい気がしてて。
うん、で、それはなんか、アートでも同じこと起こってると、
起こって、アートの世界とか、アートの世界っていうのかな、そっちに足を踏み込んだりとか、
一歩踏み入れた人も多いと思ったの。
何かわかんないんだけど、でもなんかあるかもとか、ちょっと無関係じゃないかもとか、
知らないことがわかるかもとか、学べるかもとか、
って思ってはないかもしれないけど、なんか予感とか感覚みたいなのが生まれて、
知らない分野とか、まだそれこそ哲学の用語わかんないけど、
なんかあるかもって踏み込むみたいなのと、
タバコと一緒に吸ってすいませんみたいなのがあるかもなって。
いやでもわかりやすい例だと思うんだよね、タバコすごく。
何か魅力をそこにね、少しでもキラッってところを感じたり、
それこそ何か多分言葉ではわかんないけど、なんかもう嫌みたいなところが、
何かちょっと真似してみようかなって。
何かちょっと近づいてみようかなみたいな。
けんけんさんのエピソードの後は、それこそ爆音映画祭の樋口さんをゲストというかに招いて、
樋口さんと爆音映画祭
たくさんお話をしていたじゃないですか。
で、まさに今今日その爆音映画祭の真っ只中の日に、今私収録させてもらってるんだけど、
今日どんなこと話そうかなって、基本的にもう丸腰で乗り込んできたんだけども、
ただなんか、自分のiPhoneのね、to doリストに話すかもみたいなことを今メモってて、
今日の爆音映画祭の樋口さんが出てた爆声リツアー、
けなちゃんが司会して、えもかさんも映像を流したりとかしてたじゃん。
あそこで樋口さんが、ちょっと話変わるかもしれないけど、
監督じゃなくて映画の声を聞くために、自分は調整したり爆音を続けてるのかもしれないです、
みたいなことを言ったときに、一番響いたのそこだったかもって、今日思い出したの。
けなちゃんの進行も、えもかさんの作った撮影ができるまでみたいな映像は、
それの前段階というか、場所を整えるためにあって、
最後にその樋口さんが、監督じゃなくて、
映画、作品の声というか音を突き詰めて、それを探って言ってるんですって言ったときに、
結構稲妻走ったというか、
グッと来たよね、あれ。
しかもその下のto doリストの項目に、日本総樋口計画って書いてある。
みんなが樋口さんみたいになったら嬉しい。
そのto do怖くない?
チェックリスト、チェック作る日が来るんだ。
チェック作る日が来る、怖い。
分かる分かる、分かるって言うと怖いけど。
けなちゃんがすごい分かるみたいな顔で、今それみたいな顔をして、今私のことを見てくれてたんだけど。
それこそ本当に作品と鑑賞者の関係性にも近い。
もちろん作家の意図みたいなものはあるものの、自分と作品の間で関係性を作っていって、
それがさっきの原ちゃんで言うところの旨味とか面白みになるかもしれないってなったときに、
樋口さんのことを、作家だしキュレーターだし、それこそインタープリターだなって思ったんだよね。
私も同じこと思った。
なんか究極のインタープリターの形かもしれないって思って、
今上映されてる映画の中にもさ、もう監督が亡くなってしまったものあるから、監督の声をもう二度と聞くことができない。
で、なんか監督のコメントとかさ、過去言った話とかは分かるけど、
でもそれが今も同じかどうかは分からないとかもあって、
だから頼って目の前にあるのは、監督じゃなくて作品で、そっからどんな音が聞こえていて、
それをみんなに見せるとき、上映っていうのをスタイルにするときに、
一体どのバランスの音だったら、作品を一番作品たらしめるのかっていうのを、ひたすらこう、
樋口さんよく死んだ人の話とかするじゃないですか。
そうだね、めっちゃそれするね。
死者との対話を、ずっと暗闇のスタジオAの広いところで、爆音で大きい音を流し続けながら、
7日間ぐらいかな、1週間弱ぐらいずっと調整って言われるのをやってる樋口さん。
なんかその、すげえって思って。コミュニケーションを黙ってずっとやってる人かなって思ったので。
あれがだからその調整っていうのが丸ごと、映画の言っていることを聞いてる時間って考えるとね。
で、樋口さんの応答としては、ここをちょっと上げてみましょうかとか、
このシーンはこうだと思うから、こうしてみませんかみたいなのをやって、
作品の声と鑑賞者の関係性
ちょっとずつちょっとずつ変えていきながら、作品とコール&レスポンスしてるのが調整って言われるものなのかな。
で、その結果というか、ひとまず上映の時期が来るから、それを私たちは見ているっていうものだとすると、
その樋口さんの役割というか、で、どう言えるのかなとか、作品を鑑賞する私たちも、
それとどう向き合うんだろうかみたいなのを、今日爆成リツアーで思ったんですよね。
なんか今日登壇していた音響エンジニア、マイカムの音響エンジニアの安藤くんが、
すごく調整が取れてバランスのいい音を作ることはできる。
でもそれが面白いかどうかは別って話をしていて、
で、やっぱりそう、作品の声を聞くんですっていうのが僕もすごく引っかかってて、
なんかそう、音じゃなくて声なんだっていうのもすごくびっくりしたんだよね。
音だとさ、もう2時間の映画だったら2時間の映画で変わんないかもしれない。
再生する時に、このシーンで音があって、こんな音楽流れてとか、それは変わらないかもしれないんだけど、
なんかそれをこう、作品をたかも、まるで人のように見ること。
作品が言ってることじゃなくて、作品が言わんとしてることを、いかにこう受け取ることができるかとか、
引き出すことができるのか、それをこう調整してるんだろうなって、
なんかそれがギュッと詰まった一言だったよね。
そうだ、確かにね。声っていうと、いわゆるセリフっていう声ではなくって、
後ろで流れてる環境音、森のザザザーっていう音とか、水の流れる音と、
このセリフとこの場面っていうのは、つまりこういうことを言わんとしてるのかもしれないのところが声って言っているものかもしれないし、
それ別に映画とかそれと樋口さんの関係にかかわらず、多くの作品で同じことを言えるかもって思ったんですよ。
インタープリターの人も、まずはしっかり作品だったりとか、
あるいは作品もそうだし、専門家の人の言葉っていうのをしっかり読み込んだ上で、
その専門家の人が書いたことがどういうことを言わんとしてるのか、
それをしっかり引き出して、次の人にバトンを渡すみたいなことをやってるんだろうなって聞いた。
なんか私たち、教育普及だったり、ラーニング部門だったりすると、
その鑑賞者のクリエイティビティみたいな言葉ってよく使うじゃない。
その作品を作る人がクリエイティブな人である、クリエイティビティを持っているみたいなのはまずあるとして、
それを見る人っていうのはどういう要素が必要なんだろう。
その人側にも想像的な、想像性みたいなものが必要なんじゃないか。
それはなんだろう、想像性がない人がダメみたいなことじゃなくて、
そもそも作品を鑑賞する、作品と関わるっていう意味では、
それ自体がクリエイティブなことなんじゃないかっていうようなことで、鑑賞者のクリエイティビティって言うじゃない。
なんかすごくその、鑑賞者のクリエイティビティを感じた、樋口さんからのこと。
そうだね。
なんかこの話と繋がるなと思ったのが、
今爆音映画祭期間中だからいろんな映画上映してるんだけど、
裸の夢っていう作品の監督が、音楽も制作されているんですよ、映画の。
ライブとトークみたいなイベントが、ほんと今しがたさっき行われていたんだけど、
その中で監督が、いい意味で自分の思いというのが映らないんだなって思いました。
って言ってたのに。
なんかそれもすごく印象的で、
樋口さんの、爆音元々好きだったんだって。
ホキモト監督って方なんだけど、好きだったんだって、爆音映画祭自体が。
で、なんか爆音映画祭で自分の作った映画をかけてもらえるっていうことが、樋口さんからの批評だなと。
樋口さんにやっぱり批評してもらってる気分に、気持ちになります。
って言った上で、いい意味で自分の思いって映らないんだなって思いました。
っていう風に言っていて、
それすごく面白いなと思ったんだよね。
はい。
それ聞くとさ、作家も作品を通して、観賞者を完全にコントロールできないってことだと思ってるっていうか、
自分の知らないとこまでミス化されるとか、
解像度ものすごく上げて自分のことを作品を通して初めて見られるみたいな感じがあるって監督は思ってたのかなと思います。
話ちょっと変わっちゃうかもしれないんだけど、
今年やっていた波の下にも魅惑のサブローゾっていう展覧会で自分が映像も撮影したり、
カメラマンとして入ったりだとか、あるいは自分が作った映像だったり、
イベントもそうなんだけど、
なんかさ、作ってる最中って自分で形を作って育ててる感じがするの。
まだへそのほうが繋がってる感じがするんだよね。
だけどそれが人前に出ていって、それ自体にみんなが思いを寄せたりとか、
何か考えたりするときって、
なんか自分の、男性なんでへそのでないかもしれないですけど、
母親から昔は繋がってたんですけど、
なんかそういうへそのが切れるような感覚あるなって思いながら聞いてた。
めっちゃわかる。
めっちゃわかります。
わかるよね。
めちゃくちゃわかる。
何かを作ったものが、私はよく手離れっていう言い方をしていて、
なんだろう、手離れする怖さと嬉しさみたいなものが両方あるなと思ってたから、
なんかへそのって手離れよりしっくりくる例え。
なんかそれは作る、
作家とまで言えないんだけど作る活動とかもしてたりとか、
テック側に私もいたりしたときは、
すごくどうやっていい感じで手離れするかっていうのはすごい考えてた。
なんかそれはあれみたい、
生み落とすのと息吹き込むのは違うっていうのを今思って、
生み落とすのは作家や作った人かもしれないんだけど、
へそのが切れると、一回それ世に放たれて、
そこに息を吹き込んだり、
人間関係とか関係が構築されて作品が育つとしたら人間みたいに、
命を吹き込むのは作家じゃないなって思ったんです。
そうだね。
親のずっと監視官に置かれてさ、四角い墓の中で完璧に制御とかされてたら、
なんかそれって本当にその子にとっていいのかなって思うしね。
だからなんかその、
樋口さんがよく死者の声を聞くみたいなことを調整で、
いかにできるかみたいなことを言ってて、
最初、さっきまで怖いこと言うなって思ってたの。
でもたぶん死者っていうのは、この世にいない人間とかじゃなくて、
一回生み落とされた作品にどう命を吹き込んだり、
ここに息を見出すとか、
っていうことを言い換えてるのかなって勝手に自分は思ったのね。
面白いね。
って考えるとさ、
自分は今、国立美術館っていうところにいて、
すみません、正確な数わからないけど、
8割か9割所蔵されてる作品の作家ってもう死んでる。
生命を吹き込む作品
生み落とされたものだけがたくさん収蔵されて展示されてる機械がある。
それに命を吹き込むとか、死者としての作品に声とかを見出して、
あるいは映ってしまったとか書かれちゃったものも合わせて見て、
息を吹き込むみたいなことをやるのが鑑賞者だったり、
それが見る人の学びにつながるかどうかみたいなところを、
自分は仕事にしていってるのかもしれないみたいなこと。
そうなりたいなって思いました。
そうだね。必ずしも作家は死んでないかもしれないし、
今まさに絶賛作品作ってる人たちがいるんだけど、
でも死者っていろんな漢字があってさ、
死んだものっていうのもあるし、使いのものっていうのもあるし、
だから作者の人が自分の思いを寄せて、
誰かに送る使いのもの、死者として、
自分の元になってくるってことはあるなって思いましたし、
死者とも言葉が入れて、
タバコの話に戻ってくるなって思いました。
すごくない?そこはちょっとギュンってなったな、今。
どうしようかな。いっぱい質問があるから、
いいとこ取ってもらえたらいいかもしれないけど、
作品見て死者感じたことありますか?
死者を感じるか、死者を感じたか。
これは平仮名で死者ですか?
死んだものを感じる。
今これ自分が目の前にしてるのは死者、
もしくは死者の何が死かだなみたいなのっていうか、
ホドラーの作品と感傷
なんかそういうの思ったことありますか?
監督が死んでるとか、そういうレベルのかもしれないけど、
さっき今までずっと話していた、
言い換えたら自分が息を吹き込んでるって実感した作品って何かあったりするのかな?
絵画作品とかを挙げると、
それこそ原さんとかがさ、
原ちゃんが紹介してくれたやめるバランティームの作品とかは、
みんなで一緒に鑑賞していって、
なんか一見下手くそに描かれたような時計であったりだとか、
ぐちゃぐちゃっと描かれたような赤い丸みたいなのも、
その作品の背景であったり、みんなで鑑賞を進めていくうちに、
その時間を忘れてしまいたい。
自分、
画家であるホドラーが、
自分の愛する、
本当に愛したかどうかは知らないけれども、
自分のパートナーを、
死に向かっていくパートナーを描いていた作品で、
それを描いている間、
時間を忘れたいがために時計を小さく描いているのかもしれないとか、
赤い丸って、
自分のパートナーと自分の間に生まれた子供のことを、
なんか比喩していたりするんだろうかとか、
絵でそういうふうに、文字で描かれているわけではないんだけども、
そういうふうに自分から解釈をすることで、
そういうふうに見ることもできる。
ホドラーがどんな眼差しでパートナーを見つめていたんだろうっていうのを、
自分なりに解釈をして、
ある時はすごく愛してたんだなって思う時もあったり、
日によっては実は浮気とかしたんじゃないっていうふうに思っちゃう感傷もあったり、
それこそ日によって生き返り方は違ったなっていうのはあるな。
感傷はすごく思い出深いね。
そうだね。
一緒に3人で見てそれを、
多分ちょっと遅らいりしちゃってるんだけど、
ラジオっていうか音で残してるんだよね。
やってたね。
なんかそのタイミングで、
これ言わないほうがよかったらあれなんだけど、
私がずっと実家で飼ってた、
20年くらい生きてた猫が死んじゃった直後くらいで、
山岡さんが、おばあさまが亡くなられた直後。
亡くなってすぐにやったんだね。
なんかね、昨日何があったかとか、
その日の天気と近いかもしれないけど、
によってあの時の経験は多分あの日しかできなかった、
みたいなのも合わさっているなっていうのも思った。
私が今死んだ死者がいるなとか、
それこそ競争かもって後から今考えられるのは、
2人はもう知ってるかもしれないけども、
ソフィー・カルっていう作家の、
盲目の人々っていう写真の作品のシリーズがあります。
写真だけではなく厳密に言うと、
印刷されたテキストと写真と、
ポートレートみたいなものからなる作品シリーズなんだけども、
詳しくは多分調べると出てくると思いますし、
国内だったら豊田市美術館がそのコレクションを収蔵しているので、
ぜひ展示された暁には絶対見に行こうと思っているんだけど、
その作品見た時に、もうタイトルにもある通り、
盲目の人、生まれつき目の見えない人が、
あなたにとっての美のイメージは何ですか?って問われた時に、
どう答えたかと、それを受けて、
ソフィー・カルの作家自身が撮影した写真っていうのが、
たてかけられてるっていう作品だったんです。
で、その時に、昔一緒に他の人と見てた時に、
あ、お供え物みたいですねって言われたことがあって、
その題が出てるし、取り替えれるような立てかけられ方をしているから、
鑑賞者である自分自身も、こうだと思うっていうのを言えるかも、みたいな話になったの。
で、お供え物って言い方面白くって、もう死んじゃった人が相手というか、
もう声聞こうと思っても、肉性の声は聞けないっていう相手とか、
一緒に同じもの見ようと思っても、絶対に見れない盲目の人と私っていうのがあって、
それと向き合って、ずっと何時間も喋ってる時間が競争的だなって思ったし、
お供え物って、相手がどうアンサーするか分かんない状態で想定しながら、
あの人きっとこのお菓子が好きだったはず、みたいな感じで備えていくものだからさ。
それはでも、同じようなことを他の作品でもできるかもしれないとも思った瞬間だった。
なんか備えるとか、あの人がどう思うかとか、どう答えるかはもう聞けないかもしれないけど、
でも私はこういうふうなことを思ったよって備えるみたいなのが、
自分が死者というか、息吹き込み続けられるかなって思った作品だったなと思いました。
お供え物するときってそうだよね。この人生きてるときどうだったなとか。
まるであとは今も生きてるかのように、この人可愛いんじゃないかなって差し入れするときだったらしい。
混乱しそうなのは、それは死んだ作家がどうだったかなっていう意図だけに限らないと思ってて。
色や形や音や、いろんなものはそれはあるなと思うから。
何の話をしてたんだっけ。あっちー放課後だって答えた。
あっちー放課後か。
まだ公開、このラジオ撮ってる段階だと、これから公開っていう形なんだけど、
山城さんっていう、なんてご紹介したらいいんだろうな。
YCAM的にはアルスコーレ、架空の学校アルスコーレというプロジェクトのディレクターを担当してくださっている方で、
ご自身も作家活動をしている山城さんっていう人にラジオに出てもらって、その音源これから公開するんだけど、
シグナルを見ることの重要性、美術館の考え方の転換
山城さんにもけんけんさんのお悩みというか、競争、共同って難しくないですかっていうのをちょっと問いかけとして聞いていて、
そこで何が大事か、当然、ほんと難しいよ競争はっていうのはまず大前提、山城さんとしても。
この中でコミュニケーションがとはいえやっぱり大切で、
ただコミュニケーションの中でも、シグナルを見落とさない、相手コミュニケーション対象が発するものを見落とさないことがすごく大事かもしれない。
それは言葉以外の部分にたくさん込められているものかもしれないっていう話をしていて、
この時は結構そのいわゆる競争、それこそアートコミュニケータープログラムっていうのはすごく全国で今多くなっている、
アートコミュニケーター的な人を育成するようなプロジェクトでもあるから、
割とほんと直接人と関わることを想定したアンサーだとは思ったんだけど、
今日の話を踏まえて聞くと、シグナルを捉えるっていうのが結構、何て言ったらいいんだろう。
それで言うと、それまで当たり前にあったようなものに、
あ、これって上手いんだ、上手さとかあるんだ、これって意味とかあるんだとか、
その原ちゃんが最初に言ってくれた自己紹介の時に話してくれたさ、
あ、美術館って確かに来たいと思っても来れてない人がいるんだとか、
これまで透明だったりとか、ないことが当たり前だったことについて、
いや待てよと、いやここにあるぞと、届いてなかったりとか、
それは具体的に来れてないお客さんもそうかもしれないし、
作品のことで言うと、いやここにも鑑賞できる余地があるかもしれないって、
なんかそれってすごく、ワイカムに行った時だったり、
その作品の鑑賞だったり、原ちゃんの今の仕事だったり、
なんか全部共通してるのかもなって思ったの。
シグナルを見落とさないってすごく難しいけど。
他者って使者かもみたいな印象もあって、
何だろう、完全に理解し合えない度合いで行った時に、
今隣にいる人と作品を見てる作家で、何か変わりがあるのか、みたいな気持ちがしてきて、
あ、だからもう死んじゃった人が何考えてたかって考えあぐねることと、
隣にいる山岡さんが何考えてるかって考えあぐねることとそんなに差がないかもっていう話かな。
だから死者っていう言葉遣いがあんまり適切じゃないかもしれないんだけど、
そのぐらい変わらない、わからなさみたいなのが改めてあるなっていうふうに。
だしなんかその自分自身も死者になる可能性あって、
だってさ、普通にその細胞とかどんどん生まれ変わっていってるし、
さっきのソフィーからの話というと、その時の人が美しいと思っていたものって、
今はもう変わってるかもしれなくて、
それって自分の中の過去、要はその時の自分に、
もう今の自分は話しかけたりとかさ、確認することってできないはずで、
だからそういう意味でもお供え物、お供え物って漢字に友って入ってて、
競争を思い出したりするね。
なんかそういう死者、自分自身についてもあり得るなって。
そうだね、そうだね。
だからこそお供え物的な思いやるところだったりとか、
過去の自分からですら何かしらのシグナルが受信できるかもなって。
これはもう余談だと思って最後ちょっと話してもらって。
ごめん、今自分が美術館に関する仕事についたからっていうのを。
80年代とかそのあたりから、
二人は知ってるかもしれないけど、美術館がどうあるべきかみたいなのの、
考え方の転換期みたいなのがあって、
それがテンプルからフォーラムへっていう考え方。
テンプルっていうのは、いわゆるすごい荘厳な寺院とか神殿みたいに、
偉い人とかありがたいものがあって、
それをありがたやって受け取りに行く場所としての美術館から、
フォーラムっていう特定の誰かじゃない、
さまざまな人が等しく意見を言えて、
それで何かが出来上がっていくみたいな状態になるといいねみたいな、
そういうのがあって、それをこれまで目指してきたみたいな流れがあるんだけど、
YCAMの活動
でも今話聞いてるとテンプルじゃねってちょっと思って。
使者がいるっていう。
テンプルからフォーラムへなのか、
テンプルの中にフォーラムがあるって考えるのも面白いかもな、みたいなのを思いました。
そうね、すごい分かる。なんだろうな。
祈りのようなコミュニケーションというか。
どこまで行っても確実性はないから、
祈り性みたいなものを保有せざるを得ないというか。
お供えしに行くって意味では同じじゃないかなとか、
テンプル的だけど、そこに競争っていわゆるフォーラムみたいに近いものが同時にあるってどういうことかなとか、
美術館に限らずアートセンターのワイカムも同じかもなとか思いながら、
今日は目がシャキで冴えた目でもっとちょっと放課後の放課後をやりたいと思います。
アートセンターの役割
どんどん無限に話しちゃうよね。
この後、いつか行こう。
飲みに行こう。
すみません、我々はちょっと飲みに行かせていただくんですけれども、
じゃあこれで終わりにした気がするか、改めてちゃんと紹介しよう。
改めて本日のゲストは、独立行政法人国立美術館国立アートリサーチセンターの原泉さんでした。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
帰ろう。
52:12

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