家族との田舎道の散策
はい、それでは今日のライブを始めていきたいと思います。 まずですね、ちょっと今日、
午前中にですね、やってたことを少し話したいなと思ってるんですけど。 えっと、まあ僕の家族は結構
まあ行き当たりばったりというか、割と土曜日仕事がなかったりしたら、前日
妻と、どっか行こうかぐらいで少しアイデアを話すんですけど、割と
その日の雰囲気で、まあここ行こうとかね、決めることが多いんですよ。
もちろん時々外れたりはするんですけど、まあ割といい感じになることも多くてですね。
で、今日はですね、家族全員、まあいつも家族全員で行くんですね。 いつも家族全員で出かけるんですけども。
あ、キミさん。 キミHさん、こんばんは。
いつも家族全員で出かけるんですけども、今日はクリシャーの知り合いの方のご実家がある
ちょっと山奥の場所に行ってきたんですけども、その方のご両親が農業とかいろいろされていてですね。
こんばんは。 もう少し高齢になっているので、まあ
家業をね、いろいろ作られているんですけど、どうしようかって話をされていて、僕ら農業とかね、興味があるので
いいですねーって話はしていたので、まあちょっと視察じゃないですけど、どういう場所なのかなーっていうのを見に行ってたんですけども。
で、初めて行く場所だったんですけど、山と山の間の少し盆地っぽい場所なんですけど、すごい隠れ里みたいな場所で
その地域の市役所じゃなくて、町役場みたいな場所が道の駅というか少し特産品を売ってましてですね。
そこに行くと、僕らの知り合いのその方のご両親が作った食べ物であったり、
まあ今日は銀杏を買ったりもしたんですけど、いろいろ作ってくださったものが、まあ名前も書いているのでわかるんですね。
まあそういうのを売ってたりして、わーすごいって言って買ったりして、あと揚げパンとかね、買って、で、そういうのを食べ歩きしながら、まあ行ったことない町なんですけど、
ずっと子供と妻と5人で寒い中歩いてたんですけども、でですね、まず、昨日ね、池田はもうすごい寒かったんですけど、その地域はマイナス3度とかで、
えっとね、氷とか、あの氷がね、田んぼとか池、まあちょっとした溜め池とかね、氷が張ってるんですね。で、まあ1センチぐらい張ってるんですね。
で、大阪だとあんまりそこまで張ることはないんですけど、まあ少し山の方なので、子供たち、あまり見たことないんで、わーとか言って、でまあ、氷をね割って、乗ったら沈むでーとか言いながら割って、でその割って拾った氷を、その氷が張った池に投げたら、氷の上で投げた氷がパーンて綺麗に弾けて、シャーってこう滑っていくんですね。
まあそれが面白かったみたいで、結構長い間やってたんですけど、まあ僕らはそれを見守りながら、ああこんな楽しい遊びも田舎だとできるんだなーみたいな感じで見守ってたんですけど、まあそうしたらその後で、そこの溜め池に白い、白鷺ですかね、なんかすごい綺麗な鳥が来て、これ天使ちゃうかーみたいな話をしたり、まあ天使ではないと思うんですけど、
でもまあ神様が見せてくれてるなーっていうのは僕はその時思ったんですけど、そしてまた山の方に田舎道、まあ田んぼとか畑の間を歩いていて、そしたらまあ妻がですね、そば屋さんがあるとか言って、そば屋さんはそば食べに行こうとか言い出したんで、ああこんなところにそば屋あるのーとか、店はほとんどないですよ、すごい田舎なので、まあ行っても看板とかも全然出てないんですけど、
まさかこんなところにみたいな、普通の田舎道の畑の中に古民家があって、そこにおそば屋さんがあったんですね、でまあそのおそば屋さんもすごい素敵で、あのお庭も日本庭園で古民家を改築されていて、古民家の中に鳥居があって、稲荷さんを飾ってましたけども、
お店に入るとワンオペでね、一人でおばあちゃんが経営してたんですけど、本格的におそばを学ばれた方で、白と黒の2種類のおそばを出してくれさったんですけど、
でなんと、その方が無農薬のお米のぬかをただでくれたりしたし、まあその方とのお話も面白かったんですけど、その方が僕らの知り合いのクリスチャンの方も知っていて、「あ、知ってるよー、よくここ通るよー、この上あがって行ったとこだよー。」って言って、僕、意味知らなかったんですけど、その方が教えてくれたんで、「あ、そうなんすかー。」とか言って、
そこもわかって、導かれるようにそこを歩いて、通って、そのエリア全体を見てまた帰ってきたんですけど、僕ね、こういう導かれるように家族でよく田舎の方に行ったり歩いたりするの結構好きで、割と20回、30回というかかなりの頻度で僕らは多分家族でこういう休日を過ごしかったりするんですけども、
なんか今日はそれをしてて思ったのが、家にいてYouTube動画を見たり、本を読んだり、いろいろなことが明らかになってきてる時代なので、すごい知識としても、種からのいろんな経路とかも、もちろんそれはそれであるのかもしれないんですけど、
でもそれと同時にやっぱり、この家族と一緒に外に出て、人生で開かれる神様の導きや出会いや、物語を共に生きるっていうのは僕はすごい楽しいし、すごい好きだし、あと教育的にもすごい大事じゃないかなと思っていて、
やっぱり今、お父さん、お母さんと子供の人生がちょっと分かれてしまったりね、子供は塾に行ったり友達と遊ぶ、親親で仕事や親の付き合いがあるじゃなくて、家族として神様のストーリー、物語を共有していくっていう経験をやはり回復していくことはすごい大事じゃないかなと思っていて、
そのまま鳥が来た、帰りまた黒い鳥も来るんですけど、そういう神様が見せてくれてるなっていう、何かこの普通の、普通といえば普通なんだけど、その中にもやはり祝福が見えるという、そういう物語を家族で共有し、そしてこの出会いですよね、出会いの奇跡ですよね、そしてその会話の中の共通点、そこからまた何かが発生するっていう、
僕はすごいこういう、ある意味旅のような、計画してないけどもうまくいくっていうのをすごい大事にしてるんですけど、すごいそれの中に神様と共に時を過ごすというかね、そういう要素があるんじゃないのかなと思っていて、そういう休日の過ごし方すごい好きなんですよ。
なのでまあ、皆さんも伝えてるかもしれませんけども、予定があり、楽しい場所に行くというか、神様と共に行く場所が楽しくなるというか、そういう家族で過ごす休日とかもすごい素敵じゃないのかなと思ってますね。
今日はちょっと我が家の、アーメン、ありがとうございます。ありこさん。休日の過ごし方を少し紹介しました。それでね、今日3時間以上歩いたんで、もう眠いんですよ、結構。はい、ということでもう眠いので、まったり喋りたいと思います、今日はね。
日本社会の無能力の無自覚
では、前回の続きで、能力の4段階の日本社会に当てはめて話したいですねっていう話を少ししたので、それをちょっと少し話したいんですけども。
個人で言うと、信仰者として無能力の無自覚で私がそれに気づけたことで、無能力の自覚から本当の意味でスタート地点に立ったっていう話をしましたし、前回は有能力の無自覚に留まることができないんじゃないのかっていう話で、
やはり自分はいつも1番と2番、時に3番っていうのを繰り返しながら、4番っぽいタイミングもあるけれども基本的には1、2、3に留まる中で成長していけるんじゃないのかっていう話もしたんですけど、今回はよりマクロの視点で、日本社会全体という視点でこの霊的な内的事故の能力の4段階というのを見ていきたいんですけども。
みなさんどうですかね。日本社会全体で言うと、この1、2、3、4のどの能力の段階に日本社会全体が今当てはまっているように感じられますかね。
多分、どうですか。みなさんね、やっぱり1番って感じてしまう方が多いんじゃないですかね。
1ですかね。君さん。 そうですよね。そうですよね。やっぱり、僕らが道高ではないけれども、無能力の無自覚に気づけてしまった、気づく恵みは、そういう立場に慣れた人っていうのは、ある、親がそうだった人も多いのかもしれないですけども、
やはり日本社会がそう見えてしまうんじゃないのかなと思いますよね。僕も実際そう思ってまして、日本社会全体が無能力の無自覚という構造的な闇に閉じ込められていると僕は思ってるんですけども、
政治家の方もですね、今ちょうど政治が盛り上がっているので、僕は以前はほとんどの政治家の方に、これ分からないですね。個人的に関係があるわけじゃないので、もしかしたら見た目で判断してしまっているかもしれないですけども、
無能力の無自覚にまだいるような素振りが見えるなっていうふうに見えてましたね。理由を一つあげると、言い切るし分かっているっていう立場で人をすごく裁く方多いですよね。それが何か当たり前で、それをしないと政治家じゃないみたいな空気あると思うんですけど、あれって典型的な一番の特徴で、
聖書では、裁いてはいけません、裁かれないためです。測ってはいけません、測られないためですって言葉もありますし、そもそも裁くことをあなたはできないですよねっていうことを神様に言われてるんですよね。実際そうで、私も間違う、私も分かっていないかもしれない。
なぜなら過去に無能力の無自覚だった自分がいい、そして何度も無能力を自覚させてもらえた神様に平行だりその恵みに感謝しているけれども、私があっち側だったこともあり得るっていう、やはりそれが本当の自分の姿に築けた一番ではない状態に立てた人間のポジションだと思うんですね。
そのポジション、態度からは、あれだけ表面的に一方的に裁いたり攻撃するっていう態度はやはり出てこないと思うんですよね。その視点でいうと、やはり三聖刀の神谷総平さんが一番僕は無能力の無自覚ではない態度を身につけておられるように見えるんですよね。
なのでその点からも三聖刀は好きなんですけども、そうですかね皆さん。それ以外にもそういう方もおられるとは思うんですよ。高市総理も素晴らしいし、そういう態度を持っているなとも思うんですけど。
でもやはり大多数としては、無能力の無自覚特有の言い切り、決めつけ、そして私はわかっているという態度を出してしまう政治家の方が多いように感じますよね。
そして権力欲を責任や現実予選と言ったり、何を教えているのかも本人も多分自覚していないような、内面の倫理が空洞でも制度で正道化されているというかね。
要はもう何と、内的事故に目覚めている人、内的事故により軸を置いている人と外的事故しかないと言って世界、だから霊や魂、神がいない世界だと信じ込んで生きている人ではもう全てが噛み合わないと思うんですよね。
だから政治の話でも、例えばね、安心・安全な暮らしをって言っても、安心・安全の方がいいけど、安心・安全のためにそれよりもっと大切なものを犠牲にしていたら意味ないよねって僕は思ったりするんですけど、命こそが生きてなければみたいなね。
じゃあ、生き延びたら何かを犠牲にしてもいいんですかね。ただ長生きし、権力にしがみつき、自分の立場にしがみつくのが何よりも安心・安全で生き延びることだけが優先されるのか、それとも命を捨ててでも覚悟を決めてでも優先すべきことがあるんじゃないのかっていう視点なんですけど、
それっていうのは霊や魂、目に見えない神様との関係、そして自分という人間を超えた永続性、永遠性、次の世代とかいうものがまで包括的に捉えないとやはり話にならないと思うんですよね。
そう考えると、もう今までの政治があまりにも外的事故、表面的なものに偏ってたっていうのはそう思いますよね。内的事故に関すること、信仰っていうのを回復しようとしてるのがやはり賛成党さんだと思うんですけど、すぐカルトとかね、独裁とかね、意味がわからないですよね。普通じゃないって僕は思うんですけどね。
政治とインフルエンサーの影響
だから政治の話をするとまた長くなりますけど、すべての政党が賛成党になってからが本当のスタートだと僕は思っていて、そこから分布分裂、いろんな主義主張があった上で建設的な話し合いをして、お前すごいね、そんなこと考えてるんだっていうね。神様がお前の与えた恵みってすごいねっていうのをお互いが出して高め合っていくね。それが本来の政治じゃないのかなと思うんですけど。
政治は政治を置いておきましょう。インフルエンサーの方々ですよね。証人欲求や市民を影響力と間違ってるような気がしますし、内的空虚を数字でね、フォロワーの数で埋めたりしようとしたり、自分が操られている、自分がなぜそれをしているのかっていうことに無自覚であるようにも見えますよね。
インスタすればするほど落ち込むとか鬱になるっていう話もありますけど、あれなんでフォロワーがいないと、いいねがつかないと自分は満たされていないって感じるんだろうかとか、なんで見栄えのいいものを映すけども本当の自分っていうのを見つめないんだろう。
だってみんなに幸せそう美味しいもの食べて美しい姿でいいなーって言われてても、それ外的事故ですよね。本当の自分ではない。それのために内的事故を犠牲にしている。その動きを導かれているのにそれにすら気づけれてない。そしてそれが成功、幸せだと思っている。
まあ欺かれているようにしかやはり見えないですよね。だって本当の自分はどんどん貧しくそして悲しんでいるわけですからね。やはりインフルエンサーの方々を見ても本当に内的事故の無能力の無自覚状態なんじゃないのかなーって見えたりしますよね。
あと、そんなんも知らないんですか?みたいなね。いやこうですよとか。人を小バカにするように知識をひらけらかす方々もいらっしゃいますけども、やっぱり何かを知ってるしすごい成功してるのかもしれないけど、それをした瞬間も一番ですよね。
だって神様じゃないし、それも正しいかもわからないという中でそれをしちゃった時点でも、過去に2番3番4番になったことのある人だとしてもまた無能力の無自覚で落ちちゃったわけですよね。
たぶん、誘惑ですよね。善悪の知識の木の実を食べ、ゆえつかんで浸ってしまい、僕からすると闇落ちのような状態になってしまったのかなーって見えてしまいますよね。自分がそうならないのに気をつけなきゃいけないんですけど、それもちょっと違うんじゃないのかなと思って、僕は見てますね。
【コメント】君さん、主人は賛成党誌です。 いいですね。でも本当、賛成党さんが躍進すると思ってたんですけど、本当に躍進ここまですると、日本人やるやんってちょっと見直してます、僕。いや、わかってる人がこんなにいたんだみたいなね。それは希望ですよね。
【コメント】有越さんは世の中の言葉狩りや裁きの飽和状態に感じて疲れてますが、神の元に戻ることに感謝です。 いやー、本当にそうですよね。それをたぶん皆さんも感じてるからこそ、このラジオもしたいんですけども、僕らの役割と生存戦略をね、このラジオでも話していきたいんですけども。
まあちょっと後で話しますけど、社会全体が、つまり、もう考えないことが最適化されている。内面よりやはり外的には感じの良さ、そして炎上を回避することは優先され、違和感を感じるっていう人が、まあめんどくさい奴、組織や、教会でも一緒なんですけどね。
違和感を感じ、自分で考える人間がちょっとめんどくさい人じゃないかなっていうふうに思われるような感じですよね。なので、内的に無能力の無自覚が社会システム化として、社会システムとして固定化された状態になってしまってたと思うんですよ。
三島幸男の警告
今ちょっとマシになってきましたけどね。賛成党さんはしっかりですけども。で、戦前と比較しても面白いんですけど、ちょっと今日それするともう時間がなくなるので。今は、戦前もね、簡単に言うと、全く違うもので、天皇国家大義っていうものが題外となって、そして内的事項の問い、違和感を言う人は非国民、軟弱だっていうことが今よりも強かったと思うんですね。
でも、あの時は、死と戦争と国家崩壊っていう極限状態の中で、無能力の自覚に叩き落とされる瞬間があったと思うんですよね。日本負けるんじゃないか、俺らどうなるんだって。そこでの、我々の極限状態の中で、今とは違う目覚め方があったと思うんですよ。
今はどうなったかというと、まず飢えることはほとんどないですよね、普通は。で、死なない。普通にしてて死ぬことはない。そして責任をどんどん取らなくていい。誰も責任を取らないですよね。コロナ叱り、ワクチン叱り、責任を誰も取らない。
そして不快なものを即ミュートできる。要は、もう自分の前から消えてっていう、もう私はそれが嫌なのっていうことをどんどんどんどんミュートできるように社会がなってきますよね。
つまり、神様はそういうデザインにしてなかったのに、人間が無能力の無自覚で一生を終えられる社会が良い社会だという方向に政治が作ってきてますよね。だから最初の話で言うと全く話が合わない。
共産党さんとかね、公明党さんとか、立憲民主党さんもそうかもしれないですけど、要は食えない、死なない、責任取らなくてもいい、不快を即ミュートできる、そういう社会ができたときに、それは一生、無能力の無自覚で内的事項が眠ってても生きていける社会。
つまり、神様がいなくていい。神様の助けがなくてもいい。神様のデザインした世界が消える方向に政治が世の中を導いてきたと思うんですよね。
これは戦前よりも、ある意味、霊的に感染した地獄だと思っていて、だから平成には何かフワフワしてて安全安心だったんだけど、二度と戻りたくないっていうのは僕はそういうことで、要は霊的に感染した地獄だったと思うんですよね。
霊はハラハラドキドキしますよね。でも、すごく生きてる感じがするんですね、僕は。なのでやはり日本っていうのは、そういう構造になってるなっていうのは思いますよね。
で、35、30超えたぐらいから、小学校の時からテレビで見てたんですけど、三島幸男さんですね。自殺するね、山荘に籠ってとかね、ショッキングなニュースとして、へーみたいな、芸能人が言ってる程度の知識しか小中高大ではなかったんですけど、
30超えてぐらいからちらほら考える人たちの中で名前を聞くようになって、少し三島幸男さんの主張や言葉が目に入るようになり、そしてこの人昔から今のすごいわかってたなーみたいな、そういう印象に変わっていったんですけど、
三島幸男さんが日本人は豚になるっていうね、まあ予言に近い言葉を残してますけども、あれ侮辱というよりも、まあ本当に的確な今の日本を表した言葉だと思うんですよね。
豚というのは考えない、疑わない、だが満たされている。そして自分も豚だと思っていない存在。これがまさに内的事故の無能力の無自覚の感性系だと思うんですね。
たぶんあれですよね、千と千尋の神隠しで千尋の両親がご飯を食べていた豚になりのシーンがありますよね。たぶん宮崎駿監督も同じイメージであれを描いたんじゃないのかなって僕は思ってるんですけど、考えない、疑わない、そして現代社会で常識的に優秀な夫婦としての二人が
豚としての食べる、満足することをしたときに自分は豚になっているけどそれにさえ気づいていないというような完成された状態を、ちょっと皮肉っぽく映像化したんじゃないのかなと思ってるんですけども、でも今は豚であることで罪悪感すらない。
だから三島幸男さんの時期はそれに対して警告したり、それはちょっと恥ずかしいぞと、日本男子としてみたいなね、それは豚だぞお前らみたいな、まだそういう感覚はあったんでしょうね。でも今はもうそれの罪悪感すらない。むしろ豚として生きることが生きやすさや確実さとされている。
信仰の重要性
つまり三島が恐れていた堕落よりも、もう堕落に気づかない感性に今は至ってるっていう視点があるんですけども、これ僕すごいわかるんですよね。
絶望したと言いにくい世の中ですね。そうですよね。豚であることがむしろ生きやすさ賢い。だから豚になれない人を、なにあの人、俺バカねーみたいなね。なんかそんな生き方ね。
いや僕もね、これね、なんていうんですかね。お前ら変やねんみたいなやつですよね。こっちは少数なんだよいつも。正しい側はいつも少数ですよね。イエス様も細い道ですよって言いましたけど。
なので、やっぱこう、大多数だっていう。あれなんなんですね。間違ってても大多数だっていう。そういうね、クエリーみたいなね。小バカにしてくるとかありますよね。そっちの方が正解だみたいなね。気をつけなきゃいけないですけど。
まあでも構造的にそうですよね。外的事項、内的事項の無能力の無自覚に気づけてない人間は、どうしても外的事項だけで判断しようとすると、やっぱり多数派?みんなが?常識?権威がどう言ってるか。それしかやはり軸を置けないので。自分で考えないので。
疑わないので。って考えると賢いとされる日本人の多くはやはり気づけない状態になっていると思いますよね。ではですね、ここからちょっと皆さんと。
その中で我々が何ができるのか。そしてこの時代にあって日本人に効果的な伝道とはとか。そこをちょっと掘り下げてしていきたいんですけど。
豚に真珠ってマタイ7章6なんやね。ああそうですね。すごいな。豚に真珠を与えてはいけない。おお確かに。さすがフレグランスマナさん。三島由紀夫と聖書はね、同じ真理を伝えてますね。
有子さん。タイムリーに今週ある人のことを思い出していました。三島由紀夫を崇拝する人で大喧嘩しました。自分の根から鱗が落ちたので昔の情報をくげられてました。今ならわかります。
昔喧嘩したってことですね。今ならわかると。なるほど。なるほど。
まあそうですね。僕も昔はわからなかったと思いますね。35ぐらいから非常によくわかるようになったかもしれないですね。
で、この状況、ある意味この最も深い闇が見えて、皆さん時間大丈夫ですか?ちょっと延長してますね。延長あとちょっとだけしますね。
この闇が見えている人がどこに立てばいいのかだと思うんですけど、一つが義憤に行くっていうパターンが結構あると思うんですけど、まあ義ですよね。正しい憤慨、怒りに行っちゃう。
世の中を捌いちゃう。これに行くと破壊的になると思うんですね。多分大和の由紀夫の視聴者さんの皆さんはこれには行ってないと思うんですよね。行かれる方もいますよね。すごく怒ってね。世の中を捌くと。
バカだお前らは!みたいなね。まあ時々ね、なりかけますけどね、僕もね。で、優越に行くっていうのが、これインフルエンサーに多いと思うんですけど、なのでまあスピリチュアル系でも多いんですかね。
自分はわかってると。で、アメリカでもWAKEのWokeっていうムーブメントで、私たちは目覚めた側だみたいなね。で、悪魔のやり方としては善悪の知識の木で、まあ要は陰謀論とかこの世界の本当の真理とかを教えるけども、でもそれを知ったことに満足してしまう。
で、この知ったっていうのは結局まだ外的事故なので、すごいことを知ってはいるんだけど、結局プライドが高くなって優越に行ったってことですよね。で、例的に今もっと死に近づいていっているだけなんですけど、これは多いですよね。インフルエンサーに多くて、そして真理に目覚めたけどもそっちにミスリードされる方も多いと思うんですよね。
やはりこう、その人たちはお金を持ってたり、立場があったりするし、フォロワーもいたりするので、すごいと思ってついていきやすくなりますよね。で、我々も優越に行きかけ、そっちを失踪にもなることもあると思うんですよ。
僕もまあ、誘惑はありますね。いつもね。知っている知識で勝負するのか、それとも主とともに無能力の無自覚にとどまって、まあまあできることをしていくのかっていうね。いつも誘惑は感じますね。なのでまあ優越に行くのもまた一に逆戻りで、多分してはいけないですよね。
そして、多分皆さんの中で一番多そうなのが絶望に行くっていう、そして沈黙するしかないっていうところですよね。これもやはり義憤も違う、優越も違う、じゃあもう絶望しかないよね、そして沈黙する。これが日本じゃもしかしたらね、多いかもしれないですよね。
そうすると闇がどんどん拡大していくだけになってしまうということですよね。なのでやはりそうとは違う我々の立ち位置、主とともにとどまるべきところは何なのかというと、やはり2番ですよね。無能力の自覚にとどまり続けるんだけども、絶望し沈黙するのとは違う立場を取るっていう視点だと思うんですね。
これは内村勘蔵さんとかはね、多分こういう視点をその時代に持っていた方だなと思うんですよね。無教会主義っていう、要は教団とかね、教会っていうもんではなく個人の信仰を大切にしようとされてたんですけども。
そうですね。なので、僕が思っているのは、さっきちょっとだけしゃべりましたけど、自分も無能力の無自覚に陥る存在だというヘリクラーだった。実際そうですよね。恵みに追って救われただけなので。
なので、裁かない、断罪しない、上に立たない、でも沈黙しないっていうポジション。ここにやっぱりとどまるしかないんじゃないのかなと思っていて。そして、正しさで何か主張していったり、俺らは目覚めてるんだとか、日本はもうダメだ、終わってるとか、そういうことをするんじゃなくて、
何て言うんですかね、このままで問いを置いていくというかね。イエスがやったのと同じようなことをしていくっていうイメージなんですけども、もちろん裁きというか言うべきことは言わなきゃいけない。
イエス様ってすごくラディカルで、あなたにとって最も大切なものを捨てなさい、手放しなさいということを平気で言うところがあるので、そう考えるとそういう厳しさもいると思うんですけども、それを前面には出さないという感じですよね。
そうですね、上からではなく。イエス様と共に帰るという位置。
ちょっとこれは長くなるなぁ。
おっ、イエス様いなかったら絶望してました。アーメン自覚しようとしたぞ、お前なんかという攻撃をますます焼きますが絶望しないために戦っている感じです。
そうですね。
いや、これ本当に簡単ではないですよね。
でも本当に感謝ですね、僕ら。イエス様が与えられているというのはすごい感謝だし、
そしてやっぱりイエス様がやられた枯らし種というか、小さい、遅い、目立たない、でも不可逆的なパンダネ、枯らし種、種まき、小さいところからスタートする。
でも、神様の働きというのはやっぱり不可逆的だと思うんですよね。
一旦1番から2番目覚めたら、また泣くはないけど基本的には戻らないですよね。目覚めたので、気づけたので。
なので、やっぱり焦らないこと、そして絶望しないこと、小さい、遅い、目立たない。
無能力の無自覚と神の隠蔽
そしてこの本当の意味で、僕ね、本当の意味で2番、無能力の自覚になった人って、社会からね、ある意味隠れていくと思ってて、ある時思ったんですよね。
あ、こういうことかと。なんで真理や正解が見つけにくくて、偽りや不正解が溢れてるんだって思った時に、言い方悪いですけど、神様が隠すし、悪魔はバカを表に出すんですよね。
そういう構造なんですよね。証人欲求や、俺はわかってるぜって欺かれた人は、わかってるって思い込んでるから一生懸命言うんですよね。
そこに人が集まっちゃうので、結局それが正しいかのように見えちゃうし、それがやっぱり若者にミスリードを与えてしまいますよね。
じゃあなんで正しい人はもっと言わないのって言ったら、正しい人は言えなくなるんですよね、結局。
さっき言った、1番に戻れなくなるので、自分も無能力の無自覚だったし、だから裁けないし、
正しい時に正しい方法でしか語らない人間になってきますよね。神と共に歩み出すので。
だから見つけにくくなるし、目立たなくなるし、小さく遅く、そして本当に探さないと出会えなくなっていくと思うんですよね。
でもこれが神様のやり方だなって僕は思っていて、神様はやっぱ隠すのが好きなお方。
圧倒的に自信があり、不可逆的。だから、神の国は本物なので、見つかりさえすればもう戻り戻らないと神様は知っているので、だから隠されると思うんですよね。
簡単には見つからないように、ちゃんと霊的世界でブロックしている。私たちの内的事故が本当にそれを求め、探し行き着くまで、やっぱ隠す神だと思うんですよね。
でもそれは、神様はやっぱり作ったやり方だと思うんですよね。
なので我々も、その神様の圧倒的勝利者、そして神の国の圧倒的勝利に向かって、イエスと共にこのイエス的革命をやっていけばいいと思っていて、
間違いなく今は日本は一番が完成したかのように見えたという、ある意味ブルーオーシャンですね。
オセロで言うと、僕らは白だとして相手が黒だとしたら、四つ角を我々が抑えているみたいな状態でひっくり返したい放題かもしれないですね。
もうだって神様が要所を抑えてますのでね。
そして、でも我々もさっき言った、義憤に行かない、そして優越にも行かない、そして絶望や沈黙にも行かない、神と共に変えていく。
その二番、無能力の自覚のポジションでやっていく。
それは小さくなるし遅くなるし目立たなくなるけれども、ただ神と共にやる動きは不可逆的であるという。
間違いなく違いを生み出していく。そういうもんじゃないのかなと思ってますね。
キリスト教の壁と日本の神のミステリー
ということで、それでは具体的に次またこの続きでね、それはどういうものなのかっていうのを。
これはね、多分ね、キイスト教が作った馬鹿の壁があるんですよね。
言葉の壁もそうですし、伝道の中でのやり方の壁もそうですし。
で、ちらっと最近話題に出た日本の神と聖書の神、そのミステリーですよね。
ミステリーというのは、日本に居る時の神と聖書での神と聖書は、
神から聖マジカルな神と聖マジカルな神が創り出し合ったという形を、
状況の中でも きっとね我々の生存戦略というかね
やるべき できることがあるんじゃないのかなと思っています ありこさんハレルヤありがとうございます ということで今日はちょっと長く話しましたけども
はい これで終わりたいと思います皆さんありがとうございましたおやすみなさい
失礼しまーす
ありがとうございました