内的自己と外的自己の理解
それでは、今日のライブを始めたいと思います。
まず、レターを頂きましたので、最初に紹介したいと思います。
外的自己、内的自己は、聖書の内なる人、外なる人、内なる人という言葉を使うと、どういうふうに捉えることができるのかな、という
レターを頂いたので、ちょっとそれでコメントしたいと思います。
聖書に、内的自己、外的自己、内なる人、外なる人でもいいんですけどね。これから使っていくのは。聖書ではそうですよね。多分かなり近いと思います。
なので、僕の使っている外的自己は、聖書で言う外なる人。内的自己は内なる人。意味としては、外なる人は社会的役割や行動で評価される自我ですよね。内なる人は、神と向き合う中心、霊や本質というのが内なる人だと思うんですけど。
イエスもパウロも、おぉ、村長ヨシトも来たぜ、ということでありがとうございます。
イエスが批判したのも、マタリの福音書23章25節で、
酒漬けや皿の外側は清めるが、内側は豪欲と法準で満ちているというふうに、外的自己、外なる人をイエスは批判したと思いますね。
これを偽善だとイエスも言ったと思いますし、その次の章では、説ですね。まず内側を清くしなさい。そうすれば外側も清くなるとイエスも言ってますので、
内的自己をまず取り扱う。そうした時に外的自己に変化が生じる。
世の中では、その内的自己の存在をないものにしたい。やはり力があったと思うので、外的自己からしかのアプローチしかできないような、
誘導が強かったんじゃないのかなって僕自身は思ってるんですけど、皆さんどう思われますか。
CM見てても化粧品であれなんであれ、何か外的自己を良くすることが内側を幸せにすることかのような印象があったんじゃないのかなと思うんですけどね。
なので、このレターでいただいたイエスの語った内なる人外なる人、パウロも語ってますけどね、たとえ私たちの外なる人はフロビットの内なる人は日々新たにされていく。第2コリント4章16節ですね。
パウロも使ってますので、やはり聖書の中で内なる人外なる人っていう概念がはっきりと示されていて、
それは僕が使っている外的自己、内的自己とほぼ同じ意味だと思いますね。ありがとうございます、レター。
能力の4段階
それでは前回の続き、ちょっとまだ復習からですね、僕がこの能力の4段階がとても好きと。
なぜかというと、霊的世界の成熟であったり、いろんな状態というのを的確に言葉で表現できているものだというのを前回少し話しましたけれども、
無能力の無自覚の第一ステージ、できないことに気づいていない状態から無能力の自覚できる状態、できないことに気づけた状態。
日本人の内的自己においては多くの人がまだ第一ステージの可能性が高いという話でしたよね。
無能力を自覚できるという上で、絶望や失望を通ることもあるという話をちょっとしたと思いますけど、
3番目が有能力の自覚段階。意識すればできる、頑張ればできるという状態ですね。
これ多分、僕で言うと、2020年にノートの記事を書き出したんですけども、あの時はこの段階だったと思いますね、すごく。
えっと、なんて言うんですかね、説明はできるし、語ることもできるし、そういうことが起きたりすることもあるっていうのがわかる状態でしたよね。
ただ、自分がまだそういう人生を歩んでいるというアイデンティティではなかったような気がしますね。
でも、もうそういうふうに歩んでいかなきゃいけないし、何か前進しなきゃいけないっていうふうな状況になった、こういう感じですかね。
はい、でも今本当にこの3の第3ステージだったと思います、非常に。なのですごい疲れましたね。
やっぱり頑張らないと生み出せないので、あの時は山に行って、ノートの記事一つ書くのに山にこもってましたからね。
で、遺言で40分祈って、主の声を聞いて、来たイメージを文字にするっていうことをしていたし、あとYouTubeライブ1年間やりましたけど、あれもこの3番、有能力の自覚段階ですね。
無意識にはできない。なので、何を話せばいいかわからなくて、直前に散歩に行ったり、そして本当にアップダウンがある中で難しい時には本当に一瞬で助けを求める、裏ではそういう追い詰められた状態の時も何度かあったのを覚えてますね。
だから、もう喋ること万端で、さあ即、はいYouTube、はいポッ、みたいなね、出たたこ勝負でいけるっていう状況では2020年なかったですね。
なので、少し背伸びをしている。で、意識すれば、なんて言うんですかね、精霊の流れで何かを生み出すことができる、そういう段階だったと思いますね。
ただ、この4年間でいろいろなことを、その3番と4番を行き来することが増えたんだと思いますね。3番から4番に行って、4番から3番、2番、1番、
これを何度も何度も行き来する中で、有能力の無自覚、自然にできる、直感的無意識にできることが少しずつ、その当時に比べたら増えたような気がしますね。
なので、ラジオをやった理由もそうなんですけど、頑張らないでできるもんじゃないと長くできないなっていうふうに思ったんですね。
自己認識と聖書の教え
で、この頑張るっていうのは神様と一緒にやっていく上でちょっと相性が悪いなって自分は思ったので、なので、学べ保つの延長線上にあるもの、だからあまり無理しないでもできるもの。
ただし、もう隠れていてもダメだし、かといって声高に叫べばいいものでもない。ただし声を出していかなきゃいけないという中で、この半分クローズドの環境の中でラジオで語るっていうのがすごく自分の中でしっくりきてるんですね。
なので、話がだいぶ広げましたけど、有能力の自覚が2020年の僕だったと思いますね。あの時は特に本当にそういう時だったような気がしますね。
今、3番4番は両方の状態の狭間にいるのかなっていう感じはしますね。っていうのがちょっと復習なんですけど。
今日は日本社会全体にこれを適用する話もしたいんですけど、今日はちょっと個人での適用の話をしたいなと思ってまして、皆さんは今自分が1,2,3,4のどこにおられるとご自身では思われますか?
コメントで正直に1だ2だ3だ4だ。内的事故ですね。外的事故ではなく内的事故ですね。
私の例、神の前の私は今何番だと皆さん思われてますか? もしくは何番と何番と何番でもいいと思います。
無能力の無自覚もあるしとかね。全部っていうのもありだと思うんですけど、どうですかね。自分自身はどこによりいるかな。僕は2020年は3番という能力の自覚段階が強かったような気がしますね。
で、えっとですね。
これね、外的事故に関しては多分4番が理想で4番に留まれば職人熟練なんですけど、これ内的事故に関して言うと多分4番で留まることって不可能なんだと思うんですね。
今日ちょっとそこをね、いろいろ皆さんと一緒に考えていってもらいたいなと思ってるんですけども、えっとですね。
そうですね。えっと、まあ傾向的構造で言うとですね、多分1番っていうのはパリサイ人に例えれるんじゃないかなと思っていて、自分は見えていると思っている。自分は分かっていると思っているわけですね。
なので、自分がまさか無能力だ、例的には無能力なのだということに気づけていない。それがパリサイ人の特徴だったんじゃないかなと思いますね。
で、2番、無能力を自覚した段階がこれは主税人じゃないですかね。私は罪人ですと。まあ座解がいい例だと思いますし、お弟子さんたちも弟子になる前はこの2番じゃないですかね。
無能力を自覚して生きていた人たち。で、この1番はやはり1番難しいですよね。自分はもう何かを知っているんだと捉えていると思っている人は、あの、まあ恵みが来ないので、助けてくださいと言えないので、やはり目が開かれることがないような気がしますね。
で、主税人のように私は罪人であるということに気づけた人は、イエス様、神の子、俺はいつだって1番さん。ありがとうございます。村長吉友さん。
でも本当それがすごい大事ですよね。無能力の無自覚に戻ってこれるっていうのがすごく大事なんだと思うんですけども。
ちょっともうそれでネタバラシになっちゃうんですけど、主税人が2番ですよね。3番が聖書的に言うと御言葉に従おうともがいているお弟子さんたちじゃないですかね。
70人が権威を与えられてミニストリーをしに行くこともあったと思うんですけど、悪霊を追い出したり、病の人を癒したり、彼らは大いなる奇跡を経験して興奮しますよね。
でもイエス様があなた方の天に。
そうですね。キムさん、キムHさん。ありがとうございます。いろんな領域で行ったり来たりです。やっぱり皆さんはそうですよね。
たぶん一つのところに留まっている人はいないですよね。
分野によっては2から3かな。あれこれもしかして皆さんのコメントちょっと時間差なんですかね。今来ましたね。何でなんでしょうね。
分野によっては2から3。なるほど。たぶん僕も似たような感じですね。
ちょっと戻しますと、お弟子さんたちが3番だったんじゃないですかね。
4番は理想で言うと、考えていたんですねキムさん。理想で言うと、やはり聖書で教えられている御霊に導かれて歩む人ですよね。
だから無意識的に直感的に御霊に導かれて歩む中で、神の力で。
神の力というのも人によってイメージするものが違うんでしょうけども、
神の栄光と共に歩む人ですよね。
本当にしるし不思議軌跡が普通の人生になっていくって感じですね。でもそのしるし不思議軌跡っていうのも、
内的自己の重要性
別に僕は普通だと思っていて、それが現実にもとからあったものだと思っているので、
なのでそれを除外した、今の何かすごく寂しい世界においては、
何それっていう、すごく鮮やかで色とりどりで感動に満ちているので、神の国と共に生きる人生というのは。
でも多分神様がデザインした地球の歩き方というのは、本来神の栄光と共にしるし不思議軌跡、
神の臨在や栄光からあふれている豊かさにあふれてたんじゃないのかなって僕は思ってるんですけども、
それを回復されるのが、なので本来神様がデザインした、
僕は現実を生きることがキリスト教の本質だと思っているんですけども、
宗教ではなくてね、逆に現実主義なんですね、僕の中では、神と共に生きるということは。
ちょっと話戻しますけど、だからその状態が安定した人はきっと4番なんだと思うんですけども、
ここでちょっと問題があって、たまに4が現れる。
ああいいですね、その感覚すごいわかります。
たまになんですよね、あれ。
たまに4なんですけど、4に自称した、俺は4に行ったなって思った瞬間、
パリサイビットに戻るっていう不思議な法則がやっぱりあると思うんですね。
パウロは、私にはすでに得たのではないって言って、
晩年彼はどんどんどんどん自分を、自分のセルフイメージというか、自分の自称をレベルを下げていったというか、
最後は罪人の頭とまで彼は自分のことを言い出したので、
それは自虐なんではなくて、何度も4番に行って、そしてまた自分が1番だったんだということに気づけた。
なので、村長吉人もリスペクトするなら、俺はいつだって1番さ。
トロフィーってありますけど、本当そうだと思うんですよ。ある意味正解ですよね。
なぜなら、僕もこれね、この2020年からだけでも、大きいので3回4回はあるんじゃないですかね。
小さなのだと日々あるんですけど、俺はもう何かを得たなとか、俺悟ったな的なやつですよね。
そういう感覚を持つんですけども、でも自分の中にまた欺かれていることが見つかるんですよね。
昔と何も変わらない、無能力の無自覚の失望や絶望もまだ経験することがあり、
そしてそこから神様の恵みで励まされ、勇気を得て慰められ、
そして自分の通った試練は、自分がこの地上でより神様のに姿に変えられるためのある意味恵みだったんだ。
要はありがたいことだったんだっていう風に振り返れば今では思えるんですけど、
当時の自分がね、本当に苦しい中でこの辛さから救ってくださいっていう祈りを、
その当時の自分は現場では捧げているんですけども、
乗り越えて今思うと、大したことなかったとまでは言わないけども、
神の奇跡によって一時的に極度の無能力の無自覚という圧ですね。
神様の重い圧を受けた結果、自分はそれに自覚でき、
そしてまた悔い改めですよね。悔い改めと開放を経験できたなっていうのを繰り返しですよね。
トレードの教訓
これなんか仏教でも悟ったと思ったらそれは悟りではないっていう考え、
いや、無我を掴んだ瞬間それは我になるっていうのがあるみたいなんですけども、
まあ似てるんでしょうね。
神様はやっぱり人間の霊や魂、霊的成長っていうのはそういう風にデザインされたんじゃないですかね。
チェスさんも1、2、3、4、1の繰り返しですよね。
アリコさん、何でしょうこれは、その通りっていうことですかね。
皆さんも多分似たようなところを通られていると思うんですけども。
なので、僕は少年タモツ君のキャラがやっぱり強いので楽したいんですよね。
そしてこうなんて言うんですかね。もう楽勝だぜーみたいな大きく伸びたい自分が常にいるんですよ。
要は調子乗りなんですよ、僕は。
やっちゃんにいつも言われるんですけど、タモツは調子乗りやからなとか言って。
もう調子にすぐ乗りたがる。
人生は楽勝だぜって言いたいんでしょうね。人生は素晴らしいもんだぜ、楽勝だぜみたいな言いたいんですけども。
それは半分間違ってはないと思っていて、僕はその少年タモツ君も好きなんですけど、ただ油断はできない。
油断は全くできないなっていうのをさすがに40にもなったのでね、学んできましたね。
4には留まれないっていうことですよね。
自分はもう無能力の無自覚人間には留まれないですよね。
いつも自分の中にまだ欺かれている領域がある。
そしてそう思い探求するのであれば神様は私の中にあるそこを気づかせてくれるんですよね、人生でね。
まあこれも多分求めよさらば与えられんっていうことなんでしょうけども。
そして減り下るものに主は恵みを授けるっていうのもきっと自分が読んだと思ったらもう無理だけども、いつも無能力を自覚する2番ですよね。
でも無能力の無自覚もやっぱり出てしまいますよね。気づけてないんですよね。気づけてない。
だから無能力であることにすら気づけてない領域も実際やっぱあって。
これ何か例え話できるかな。
無能力の無自覚。
そうですね。僕ね、ここだけの話、これ一応誰もが聞くいるんですけど、トレードに2年前からチャレンジしていて、
あれね、むちゃくちゃ難しいと思いますね、正直。
いろんなことをチャレンジしてきましたけども、
なんていうんですかね、難しいです、あれ本当に。いろんな意味で、外的事項では多分勝てないんだと思います、あれは。
よくある話が、ビジネスで成功する人はトレードでは負けると。
利益を最大化しようとしたり、効率を重視しようとしたり、いろんなことあるんですけど、
それをすればするほどトレードでは勝てない。
なのでトレードで勝てるのは完全な無欲な人か、完全なバカか、チャート中毒者みたいな。
勝ち負けとか利益とかを、もとかそこの興味にベクトルが向いてない人ぐらいだ、みたいな言葉もあるんですけど、
やってみてわかりますね、あれ本当に内的事項の力が如実に現れるのがトレードの世界だなと思いますね。
賢い人間がもし絶対勝てるんであれば、東大とかね、東大生は賢いかわかんないですけど、
要は本当に経営がうまくいってる人は全員勝てると思うんですけど、でも賢い人でも勝てないのがやはりトレードの世界で、
この2年間でミニストリーで成長できていなかった私の中にある無能力の無自覚領域がかなり明らかになったんですね。
これトレードを真剣にやられた方がもしいれば、多分深く納得してくれると思うんですけど、
例えば一晩で自分の年収ぐらいのお金を失う経験や、一晩で自分の年収と半分ぐらいのお金を得ることもあるわけですよね。
その時に自分の内的事項がどういう反応をするかと、それによって炙り出される自分の中にある未熟な声とかも見えてくるわけなんですね。
何に土台を置いていたのか。
例えば数百万を一晩で失いました。それに嘆くのであれば、自分は富に信頼を置いていたわけですよね。
これを得るためには自分はどれだけのものを犠牲にしなきゃいけないのか。
それはつまり、自分が今まで働いていたのは富のために働いていたのですか?ということになりますよね。
主のために働くというのが正解だと学び、それを実践しているつもりの自分は、この世の外的事項的には生きるのも当然大事だし、お金のことは絶対に無視しろと言わないんですけど、
でも、内的事項の軸をどこの置いているのかというのを神の前で真剣に持っていった時に、自分の軸はまだまだずれていたなというふうに気づかされたりもしましたよね。
なので、無能力の無自覚に気づけてないことはトレードに真剣にチャレンジする上で気づけたということはありましたね。
神との関係の探求
まあ一つ、この2年間での例えかもしれないですね。
こんなにお金の…お金なんてね、別にその瞬間生活が困るわけでもないし、命を奪われるわけでもないのに、目に見えないし、
未来、もっと言うとそれを失ったことによって得たことによって、具体的に何かが本当に変わるのかすらわからないですよね。
100万もし今日得たとしましょう。週末に焼肉のグレードが1個上がるかもしれないし、
寿司の頼めるものがちょっと上にレベル上がるかもしれないけど、それもすごく不確かなもんですよね。
ちょっとあるかもしれないけど、でも失うかもしれないし、トレードという不安定なものに資産を置いている以上は。
なのでそこに信頼を置いて使う使わないというのも非常に不確かなものですよね。
でもそんな不確かなものにぬか喜びしたり悲しんだりしているという時に、私は
神を経験しているし、主に従うことや神様の臨在を喜びとするんじゃなかったのかい、自分の人生は、ということに気づけたわけですね。
その極度のストレスや難しさの究極の中で私の行き着いた答えは、
この選択決断が正しかろうが間違っていようが、私は主のためにこれをしたという私の心からの気持ちがあるので、
それに私は満足する。結果はもういいやっていうのが最終的にその時に学んだことだったんですけど、
その時に結果も良かった時も悪かった時もありましたね。でもいろいろ学びましたね。
ということで、もう時間になっちゃいましたね。
いいですね。全然進まないですね、この話題。
なので、自分がもう大丈夫だと思った瞬間が一番危なくて、
内的自己の無能力の自覚
本当にびっくりするくらい転げ落ちますよね、滑り台から。
これもうこれでいいかなと。もういいやみたいな。ちょっと楽しようとかね。
ちょっともう探求する道いいやみたいなね。
ちょっと油をかくとすぐに堕落、気づかないうちに落ちてしまうっていうのが本当に発生しますよね。
なので、でもだからいいんでしょうね、本当はね。
嫌なんですけど、それを何回もループしてると、どうですか皆さん。
僕以上に1から4を無限ループしてるうちに、このループにこそ人生だっていう風になってきた方いるんじゃないですか。どうですか。
もう足場が崩れたよね。
でもそれがあるから、振り返るとそうですよね、皆さん多分ね。
僕も振り返ると、ああでもあれ、あの試練通った方が良かったよねっていう風に思ったりしますよね。
アーメンということでね、チェスさんも賛同してくださってすごく嬉しいんですけど。
なので、できるだけラジオで皆さんを励ましたいと思ってるんですけども、
僕も正直ね、嫌なんですよね。1番に行ったり2番に行くのは嫌なんですけど、
でもそれをループしてるうちに少しずつ、これが恵みなんだなと。
これがこの地球での最もしっくりくる生き方って感じですかね。
なんか楽しいっていうよりもなんかしっくりくる、なんか中身が詰まってる感じですかね。
僕ね、多分ね、10代の頃、20代の頃なんか生きてる心地がしないというか、
こんなもんなのかな、なんかもっとあるんじゃないのかなみたいなね。
僕ね、ゲームとか買ったら説明書を全て読み込んでからスタートするタイプだったんですけど、
なんかね、地球で生きてるんですけど説明書がないみたいな感覚なんですよ。
これ何のためにやってるゲームなんだろうみたいなね。
ようわからないみたいなね。しっくりこないなみたいな。
これほんまになんか物語でスタートしてんのかなみたいなね。
そんな感覚があったんですけど、
この霊的無自覚の、無能力の無自覚というところに立てた時にやっとスタート地点に立ったような気がしますね。
そして、本当の意味での学ぶこと、学び方。
どうすれば内的事故を鍛えていけるのか。
内的事故はどうやって成長するのか。
それも皆さんとまた話していきたいと思ってるんですけど、そんな気がしますね。
自己成長の試練
はい、面白いですね、この内容。
また皆さんとね、いろいろ深掘りしていきたいと思っておりますので、
今日はちょっと時間になりましたので、
また今日の内容に関して感想や、逆に、
いや俺はちょっとそれ、俺はこう感じてんだけどどう?みたいなね、違和感とかも歓迎しておりますので、
ぜひぜひ、次のライブ、皆さんと一緒に盛り上げていきたいなと思っております。
はい、それでは皆さんおやすみなさい。
今日はこれで失礼いたします。
はい、有子さんもありがとうございました。
こちらこそ失礼します。
はい、マナさんおやすみなさい。
チェスさんありがとうございました。
めちゃくちゃ同意できる部分まで考えることが増えて感謝です。
ぜひぜひ長文でメッセージください、安さん。
いつも安さんのメッセージ楽しみにしてます。
失礼します。