はい、すぐ終わります。今回のテーマがですね、AI時代に読むべき宗教本となってまして、宗平氏の本をご紹介いただきます。
ということで、2冊目でございます。今回はですね、スマナサーラ長老の無我の味方という本を持ってきました。
スマナサーラさんといえば、生き家さんは実は対談本を出しているんですよね。
懐かしいね、10年以上前なのかな。
僕は生き家さんの対談本を見て、読んで、仏教を読もうってなって、
仏教って僕は宗教だと思ってたので、
成仏みたいな、が仏教のイメージじゃないですか。
なんだけど、スマナサーラ長老と生き家さんの本を読むときに、
いわゆる仏教は科学である。お釈迦様は科学を説いたのであるっていう回答で、
マジで?みたいな、そういうところからすごいのめり込んでいって、
実はそれを、いろんな仏教の知恵とかを見たり読んだりすると、
ちょっと心が楽になるというか、そういった効果を感じて、
結構僕もいろんな仏教本を読んできたんですが、
いろいろ読む中で、いろんな仏教本が面白いんですけど、
スマナサーラ長老の本が非常にわかりやすくて、
読みやすいのと、たとえ話の神だと思ってて、
例えば、一切皆苦ってありますよね。すべては苦しみだと。
なわけねえやんって割と思うんだけど、
例えばスマナサーラ長老は言ってるのは、
ピアノでも同じドの音をずっとドだけやってたらきついやろ。
そうじゃなくて、音楽もドから見に行ったりとか、
それこそコード進行で変わるから音楽って楽しめる。
だから結局同じ音がずっと続くのは句だから、
その句が変わるから音楽って音楽を楽しめるみたいな、
たとえをしてくれてたりとか。
もちろんブッダ自体がたとえ話のすごい人みたいな感じなんですけど、
すごく本当に身近な距離に感じるような感じで書いてくれてる本なんですけど、
宗教本ということで、
いや、仏教は宗教って思うんだけど、
実はこの本の中では、宗教はあかんねって書いてる。
あかんねっていうか、
まさに今日のどういう本かというと、
宗教と少し離れるかもしれない。
無我って書いてるので、
いわゆる私らしさとかアイデンティティについて書いてくれてるんですね。
で、仏教の立場から書いてくれてるんだけど、
その中で、ちょっとこの後も話すんですけど、
宗教が結局自我を生み出して、
その自我によって僕たちは苦しめられているっていうような話をしてくれてるんです。
それが非常にわかりやすいので、
そういったところでちょっと話していきたいんですが、
池田さんも初期仏教とさっきお話がありましたが、
スマラサーダ長老が、いわゆるジョーザブ仏教、テイラワーダ教ですよね。
の教えの方で、
要するに仏教って大乗仏教とかっていろいろあるんですけど、
特にこの仏陀の教えを脈々とつぐしゅう派っていうのがジョーザブ仏教なので、
本当に仏陀が言ったことを割と本当にちゃんと現代に伝えてくれて、
やっぱり変わっちゃうんですよね。
やっぱ空とかの概念も結局仏陀の後の500年後ぐらいに出てきたので、
今日は結構割と仏陀が何を言って、
それをどう解釈、現代版で解釈するのかっていうような一冊にもなってるということなので、
3つのポイントで話していきたいと思います。
1つ目のポイントはですね、無我ですよね。
無我。
なわけないやんと。
私っていう感覚ってありますよね。
ありますよね。
うん。
荒子さんいないんですよって言ったらどうですか?
いや、いますよって。
冷静に言いますね。
なりますね。
そうそう、冷静にね。
なんだけど、実はですね、
これはちょっと仏教と、
ちょっとこの本の直接的な内容から外れるんですけど、
能科学的にも今無我って割と正しい。
明らかにされていて、
僕少し前に紹介した、
能の話のテーマあったじゃないですか。
あの時に、なぜ私は私であるのかっていう、
アニルセスさんの本を紹介したと思うんですよ。
で、あそこで何を言ったかというと、
結局その能科学的にも、
僕らのその私っていう感覚は、
結局いろんな感覚器官、
視覚とか目とか嗅覚とか耳とか、
いろんな感覚器官が音が入ってきて、
それを感じてるのが私なっていう話だったんですけど、
で、その感覚器官の束みたいなものが集まって、
それぞれ能は全て予測誤差を最小にする、
みたいなことをしてるわけです。
常に予測するのが能の器官だって話を、
あの中でしたと思うんですけど、
で、その予測誤差を最小にする見積もりを、
ずっとして続けてる自分の感覚の集まり、
みたいなのが私だっていうような、
感覚の束っていうのが私、
っていう話があったんですけど、
まさに仏教は2600年前に、
その話をしてるわけですよ。
すごくないですか?
この21世紀に入って、
いろんな神経とかの調べたり、
電子的な検査をして分かってきたことを、
2600年前にもうバシッと結論出してくれてるわけですよ。
かっこいい。
かっこいい。
それを、
仏陀はなんて言ったかって言うと、
五運無我っていう形で残してるんですよね。
さっきのその能の器官、
能っていうのもいろんな感覚器官の束であり、
それぞれを予測してる。
五運無我って何かっていうと、
人間を5つの集まりとして分析していて、
識、体ですよね。
寿っていう感覚。
相、イメージ、概念。
行、エネルギー、衝動。
識、認識。
この5つそれぞれが無我ですよと。
要するにこの5つ全て、
生成から消滅までずっと繰り返してる。
例えば体だってあれですよね。
細胞がずっと何十兆個って細胞があるけど、
たぶん1年ぐらいでガラッと変わっていて、
生まれたてのあれ子さんと、
生まれたての生き早さんと、
今のあれ子さん生き早さんって、
並べて見たときに別人ですよね。
160センチ、170センチで出てきたわけじゃないよね。
もう最初はみんな3キロぐらいで出てきて、
この人とこの人って、
30年40年経ったときに、
同じ人ですかって言ったらどうです?
同じ人?
聞いてました。
聞いてたけど、同じ人ではない。
だよね。でも名前は同じだよね。
名前は変わってないはず。
あれ子ちゃんって言われて育ってきたし、
生き早さんも生き早さんで。
生き早って呼ばれてたら家で面白いけどね。
友達からは呼ばれてる。
結局だから、生まれたての人と、
30年経った人とは同一人物ではないだろう。
細胞も全部変わっているんだから。
これがそのゴウムが。
それぞれが感覚だったり。
感覚もそうですよね。
痛かった。肘とか詰めて痛いってなっても、
5分ぐらい経ったら治るじゃないですか。
それが治んなかったら、
もう一生ずっと痛いって言ってるわけですよね。
そういうふうに5つのどれを見ても、
これが本当の自分だとか、
実体だっていうものはない。
この5つのものが連続していて、
いろんな感覚が切り替わったり、
同時に来たりとかしながらしてるから、
自分たちは無我ですよということを、
仏教は言ってくれてるんだけども、
それは自体は最新の脳科学的にも合ってる。
あんまりしっくり来てないんですか?
来てますよ。
来てる来てる。
ムッとしてるけど大丈夫?
大丈夫です。
実社会でも割と無我ですよね。
村上周平っていう感じで生きてるし、
池田ハヤトっていう感じで生きてるかもしれないですけど、
実は割と固定の自分はいないっていう感覚って、
正しいと思っていて、
これ平野圭一郎さんが、
私とは何か、個人から分人へという分人主義、
分ける人の話をしてるんですけど、
そことも仏教の無我ってすごいつながってくるというようなところで、
ちょっと最初に無我っていうのが、
まず脳科学的にも正しいし、
仏教はそれを2600万年前にボウム無我って形で解いていたし、
実社会でも、
今は司会の有子さんですけど、
家に帰ったら本名に戻りますよね。
池田さんも、みんなの前では池田ですけど、
家族の前とか娘さんの前では父親になって、
池田さんが多分インドネシアとか行ったら多分、
あんまり池田って知らないから、
ただの日本人とか、
または中国人、
僕もニューヨークとか行ったときに、
中国人ってよく思われてましたけど、
ってことは、本当に場所変えた瞬間に、
自分っていうものがどんどん変わって、
露天してしまうっていうところも、
実社会でいうと、
分人っていうものが無我に近い概念であるというようなことを思うんですが、
すごく魅力的な商品が自我であったということなんです。
で、ここまでどうですか?
まずその無我っていう考え方が、
脳科学的にも正しいとされていて、
じゃあなんで自我が生まれたのかっていうのは、
宗教の背景があると。
さっきの多分池田さんの神話にもつながるんですけど、
多分その頃ってあんまり自我がそんなに。
自分たちは自然の中にいて、
私というかもうみんな一緒だよと。
それは変わんないよねっていう話なんだよねっていうことから、
宗教とかもうちょっと神話、
老らしあがったの神話みたいなのが入ってきて、
より権力報道が出てきていう話になって。
語り直してもらった感じだし。
僕ちょうど会ったことあるからすごい分かるけど、
あの人めっちゃベランメイク帳なんだよね。
ベランメイク帳。
なんとかなんだよ。
江戸っ子っぽいね。
なんとかでいいみたいな感じだよね。
すげえね、江戸っ子っぽいんだよね。
めっちゃスリランカの人なのに。
YouTube残ってますけど、そんな感じですよね。
ベランメイク帳なんだよね。
っていうのをちょっとなんとなく思い出してしまいましたが、
結構挑戦的な本でいいですね。
そうそうそう。
最後3つ目のポイントなんですけど、
じゃあ、このテーマ自体は個性とかアイデンティティとか、
お前らしさを出していけって言われてるこの世界。
何ならAI時代ってまさにそれからもっと言われるじゃないですか。
汎用的なことはみんな言えるんだから、
お前の個性強みは何かって言われてるけど、
結構これって割ときつくないですか。
こんな従順に従えっていろいろ教育を受けてきたのに、
急に社会に出た時に個性出せる。
しかもAI、それはAIで言えるから。
じゃあ何やったらいいですかみたいな。
割と結構本当に困る社会だかなというふうに思うんですけど、
じゃあ仏教無が解いてるんだったら、
自分らしさってどうなるみたいな。
ここありますよ。
自我がない生き方は自由自在。
自由自在ってことは自分らしく生きてる感じがするじゃないですか。
なんで無我と自分らしさは相反しないのか。
実はむしろ無我から始める生き方は最高の生き方だっていうふうに
最後書いてくれてるんですが、
例え話の中に川です。
川。
思い浮かべてください。川。
何川が思い浮かびましたか。
何川?
信濃川。
トネ川とか荒川とか、
あとは池谷さんのニオド川っていうのが、
日本一水質がきれいな川がある。
めちゃくちゃきれい。
カヌーとかすごいいいんですけど、
そんな川があるんですけど、
川ってさ、
どこからどこまでがそれこそ信濃川なのかって、
地理的には決まってますけど、
例えば何でもいいですよ。
もしニオド川でも眺めたときに、
10秒、20秒こうやって川を眺めたら、
何が起こりますか。
何が起こる?
何も起こらない。
確かに。
水がどんどん流れてますよね。
流れていって、
でも20秒前の川と全く同じかっていうと、
どうです?
20秒前の水じゃない水が来てますよね。
来てますよね。
あとはコップとかで、
あれ子さんがそのニオド川の水質がきれいだから、
すくうじゃないですか。
これはニオド川ですか?
川、リバーではない。
ないですよね。
でももともとの水っていうのは水であり、
川にもなるし、
それがダムにもなるし、
噴水にもなるし、
なんなら気水域に行ったら淡水に混ざって、
海にもなったりすると。
水ってすごいどんどんどんどん流転して変わって、
存在自体が変わっていくと、
コップの水からね。
まさに自分という存在も川みたいなものだと。
自分、私がいるって固定の私がいるんじゃなくて、
因縁の流れなんだっていう。
それをめんどくさいから自分っていうふうに、
概念として1回置いてるだけですよっていう。
その面白いのが、
さっきの細胞が変わってるって話があったじゃないですか。
1年とかでガラッと変わるってことは、
それだけじゃなくて、
この話を聞く前とか、
池谷さんの神話を聞く前の自分と変わってるわけですよね。
考え方とか知ることによって。
それだけ変わるってことは、
部屋から入ったスマナサーラちょうどが、
たぶんこの部屋に現れたときに、
その瞬間スマナサーラ1号だと。
ここで話してもらったら2号、3号、4号になって、
出ていくときにはスマナサーラ302号みたいになると。
でもバージョンがどんどん変わってるからね。
でもそれをいちいち、
スマナサーラ1号が出ていって、
スマナサーラ302号が来てきたよって、
めんどくさいやん。
めんどくさいから、
じゃあこれスマナサーラでいいやんというような書き方をしてくれて、
これめちゃくちゃ面白いようになってますね。
だってトネ川とかシナノ川とかニューノ川は、
もうたぶん変わってるんですよね。
だけどそれを、
いやもうそれは川があるっていうふうに言った方が楽だよね。
っていうふうにしてるから、
自分っていうものを、
その流れのパターン、
川の流れのパターンってやっぱあるじゃないですか。
こうやって曲がったり下がったりする。
それは自分らしさと似てるよねっていうことを書いてくれてるんですよね。
流れのパターン自体は、
自分らしさ自体は変えることは可能だと。
で、その自分という存在を小さな川に例えたときに、
この小さな川をどういうふうに管理していくか、改善していくかってことが大事だと。
いわゆる倫理学、どうやって生きていくかってことですよね。
だからその川の中に、
それこそ黒いインクとか落としたらどうなりますか。
川に。
汚れちゃうんですね。
汚れちゃうんですよね。
それがきれいになるのは結構時間かかるわけですよ。
たくさん水が流れないと。
だから自分にも悪い言葉だったりとか悪い人とかがついたりとかすると、
やっぱそれがきれいになるのに時間がかかるし、
そのパターンが変わるのにもやっぱ時間が変わってしまう。
僕も昼まで寝てしまうっていう、
その自分らしい川の流れがあるんですけど、
これ良くないですよね。
この川の流れはやっぱちょっとずつ改めないといけないけど、