広島市在住のシャオヘイが、飲食店と顧客の間にある様々な課題や問題に対する僕の考えや、特定の料理についてお話します。
その他には個人的な体験や経験なども。
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快食ボイス704・湯島聖堂から日鉱記念館へ──日本の近代を支えた「静かな現場」
はじめに 三連休の旅行記の続きである。 前回は靖国神社と遊就館について書いたが、今その際に合わせて訪れた場所、そして茨城で巡った施設について触れていきたい。 いずれも、いわゆる「観光地」としては決して派手ではない。 しかし、日本という国の思想、学問、産業を考えるうえで、非常に示唆に富んだ場所ばかりであった。 --- 湯島聖堂という「日本の学問の源流」 長年行きたいと思っていた場所の一つが湯島聖堂である。 「聖堂」と書いて「せいどう」と読む。 江戸時代から続く、儒学の学問所だ。 ここには孔子廟があり、儒学の祖である孔子が祀られている。 儒教というと宗教のように語られることもあるが、ここで扱われてきたのは、より正確には「儒学」、すなわち統治と倫理、学問の体系であった。 さらにこの場所は、単なる思想施設にとどまらない。 - 昌平坂学問所 - 日本最初期の博物館(東京国立博物館の源流) - 高等師範学校(現・筑波大学のルーツ) - 高等女子師範学校(現・お茶の水女子大学のルーツ) こうした、日本の近代教育の原点とも言える機関が、ここから生まれている。 それにもかかわらず、目の前の神田明神が人で溢れている一方で、湯島聖堂は驚くほど静かであった。 観光地としての人気は、正直ほとんどない。 だが、その静けさが実に良い。 屋根の鬼瓦の場所で睨みをきかせる虎、「杏壇」と書かれた門、一つ一つの意匠に意味があり、それをChatGPTに解説してもらいながら歩く時間は、非常に贅沢な体験であった。 --- 湯島聖堂と中国料理研究部 さらに興味深いのは、戦後の湯島聖堂で中国料理研究部が開かれていたことである。 https://dancyu.jp/series/yushimaseidonoryoricho/ ここで発行された『中国菜』という書籍は、戦後日本における中国料理理解の礎となった。 現在では入手困難だが、「日本化された中華」ではない、リアルな中国料理がここで研究されていた。 その流れを汲む料理人は、今もなお存在している。 私が実際に訪れた中で最も印象深いのは、閉店した「知味 竹爐山房」だ。 店主の山本豊さんは日本における中国料理研究の生き証人のような存在だ。 店を訪れた時、山本さんの著書を持参してサインをいただいたこともあり、この中国料理研究部という存在には以前から強い関心があった。 そういう意味でも、湯島聖堂は「ようやく来ることができた場所」だった。 --- 原子力科学館――面白さと違和感 次に訪れたのは、茨城県東海村にある原子力科学館である。 東海村といえば、福島第一原発事故以前に起きたJCO臨界事故の現場である。 展示を見ていると「雑」という言葉が思わず浮かぶほど、杜撰な管理と判断の積み重ねで起きた事故であったことが分かる。 正直に言えば、この施設自体はあまりおすすめしない。 ただし、一つだけ例外がある。 霧箱である。 https://kiribako-rado.co.jp/ これは、放射線がどのように飛んでいるのかを可視化する装置で、自然界にこれほど多くの放射線が存在していることを直感的に理解できる。 実物が動いているのを見る体験は、非常に面白かった。 一方で、展示全体の構成には強い違和感が残った。 - 子ども向けの説明と、専門知識前提の解説が混在している - 事故の責任が「現場」に押し付けられ、マネジメントの問題が曖昧にされている 二つ目は、靖国神社・遊就館で感じた違和感と通じるものがあった。 放射線は、火と同じである。 便利だが、扱いを誤れば危険になる。 その「レベル」の話が、きちんと整理されていない印象を受けた。 --- 日鉱記念館──圧倒的に素晴らしい展示 そして、今回の旅で最も印象に残ったのが、日立市北部、山中にある日鉱記念館である。 正直、ここまで素晴らしいとは思っていなかった。 日立鉱山を起点として、 - 日立製作所 - 日本産業 → 日産自動車 - ENEOS - ニッスイ(日本水産) などにつながる系譜が、非常に分かりやすく、かつ誠実に展示されている。 鉱山ではガソリン機関が使えないため、電動モーターが発展する。 そこから日立製作所が生まれ、日本の重電産業を支える存在になっていく。 さらに、この展示の素晴らしさは「負の側面」から逃げていない点にある。 鉱害、公害、住民の苦しみ。 それらがきちんと記されていた。 久原房之助という人物は、強烈な志と同時に、冷酷さも併せ持った存在だったのだろう。 国家を豊かにするために、どこまで目をつむれるのか。 鉱山開発とは、そういう覚悟が問われる事業でもある。 私は結局、閉館時間まで2時間以上滞在し、それでも時間が足りなかった。 --- 地元の人が知らない名所 夜、日立市の居酒屋「忠」でこの話をすると、地元の人ですら 「そんなに良かったの?」 「行ったことない」 という反応だった。 それがまた象徴的である。 本当に価値のある場所ほど、派手さがない。 現在、日立グループも、日産も、決して楽観できる状況ではない。 円高による産業空洞化、工場の海外移転、その結果としての地方の衰退。 だが、そのルーツを知ることで、今がどこに立っているのかが見えてくる。 --- おわりに 湯島聖堂、原子力科学館、日鉱記念館。 一見、バラバラな場所だが、すべて「日本の近代」を構成する現場だった。 思想、科学、産業。 その光と影を、自分の足で確かめることができた。 派手さはないが、強く記憶に残った。 --- stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。 https://stand.fm/channels/664b04d7316143a77174b611
快食ボイス703・靖国神社・遊就館を訪れて考えた──「祀る」と「正当化」のあいだ
はじめに この三連休、茨城県を中心にあちこち旅していた。 一般的な観光地を巡り、写真を撮るような旅はあまり好みではない。 むしろ、自らが興味ある場所に行き、自分の目で見て、自分の頭で考えることに興味がある。 今回の旅の最大の目的は、茨城県大洗町にある月の井酒造を訪れることだったのだが、その前後でいくつかの場所を巡った。 その中で、今回は靖国神社と遊就館について書いておきたい。 --- 靖国神社ではなく「遊就館」に行きたかった理由 目的は靖国神社そのものへの参拝ではなかった。 関心があったのは、境内にある遊就館である。 https://www.yasukuni.or.jp/yusyukan/ いわゆる「靖国問題」、つまり政治家の靖国参拝に対して、中国や韓国が反発するという構図について、僕はこれまで十分に理解できていなかった。 マスコミが「問題だ」と報じているから問題なのだろう、という受け止め方は、さすがに思考停止だと感じていた。 ならば、自分の目で見て、実際に展示を確認し、何がどのように語られているのかを知るべきだ。 そう考えて、以前から一度は訪れたいと思っていたのだ。 --- 遊就館が生まれた背景──明治維新という成功体験 結論から言えば、遊就館がなぜ作られたのかはよく理解できた。 明治維新は、日本にとって極めて大きな成功体験である。 封建的な武士社会から近代国家へと舵を切り、日清戦争、日露戦争を経て、日本は列強の一角に加わった。特に日露戦争は、アジアの国が初めて欧州列強に勝利した戦争として、世界史的にも大きな意味を持つ。 その後、歴史は複雑にねじれ、第二次世界大戦へと向かっていくが、今日に至るまで日本がG7の一員であることのルーツは、やはり明治維新の成功にあると僕は考えている。 しかし、その道のりは決して平坦ではなかった。 --- 内戦と「武士の終わり」 明治維新の過程では、戊辰戦争があり、西南戦争があった。 旧体制を維持しようとする勢力と、新しい国家像を模索する勢力との衝突である。 特に西南戦争は、「武士の時代の終わり」を象徴する出来事だったように思う。 西郷隆盛をはじめ、薩摩武士たちは、どこか「どう死ぬか」を決めるために生きているような、極端に研ぎ澄まされた侍精神を体現していた。 これはあくまで私個人の解釈だが、彼らは最後に武士としてのケリをつけるために死んでいった──そう俯瞰して見ると、一定の納得感はある。 こうした内戦を含め、多くの死者の上に、現在の日本が成り立っているという認識に異論の余地はない。 --- 遊就館の本質──「残された人」のための施設 靖国神社が英霊を祀る場所であること、そして遊就館がその延長線上にある施設であることも理解できる。 遊就館の根本的な役割は「あなたの子ども、親、友人、恋人は無駄死にではなかった」と、残された人々の心をケアすることにあると感じた。 日本には、敗者であっても、志を持って戦った者を祀る文化がある。 平将門が祀られていることなど、その象徴だ。 この感覚は、日本文化として理解できるし、否定するつもりもない。 --- 大東亜戦争以降で、何かが変わる しかし、展示が第二次世界大戦、いわゆる大東亜戦争に入ったあたりから、強い違和感を覚え始めた。 例えば、人間魚雷「回天」。 人が魚雷に乗り込み、敵艦に体当たりする兵器である。 展示では「本来、海軍は認めていなかったが、作られてしまった」というような説明がなされている。 しかし、作られてしまったからといって、なぜ実際に運用されたのか。 その責任の所在は、極めて曖昧なままだ。 沖縄戦についても同様である。 本土決戦の時間稼ぎのため、沖縄の人々を事実上見捨てたという側面について、自己反省はほとんど見られない。 --- 美談化と、欠落している「自己反省」 ひめゆり学徒隊に関する展示もそうだ。 「よく戦った」「立派だった」という美談が前面に出る一方で、なぜ彼女たちがそのような状況に追い込まれたのか、国家としての責任はほとんど語られない。 途中から、正直なところ、僕はかなり腹が立っていた。 これだけの国民を、これだけ無理な形で死なせておきながら、その死に至る判断や構造への反省が、あまりにもない。 これでは、中国や韓国が反発するのも理解できる、と感じた。 --- 一方的すぎる展示が生むもの 私は、遊就館のような施設そのものが不要だとは思っていない。 むしろ、残された人の心を慰める場として、存在意義はある。 だが、展示があまりにも一方的で、フラットさを欠いている。 その結果、本当にひどい目に遭った人々(国内外を含めて)へのケアが、著しく不足しているように感じられた。 東京裁判が一方的だったことは事実だと思う。 だが、それを強調するあまり、自らの過ちや責任から目を背けてしまっては、結局、同じ過ちを繰り返すことになる。 --- おわりに──自分の目で見て、考えるということ 靖国神社は、立派な神社であり、広大な敷地と厳かな空気を持つ場所である。 その存在自体を否定するつもりはない。 ただ、遊就館の展示については、「これはないだろう」と思う部分が多かった、というのが率直な感想である。 だからこそ、ぜひ多くの人に実際に足を運び、展示を自分の目で見てほしい。 僕と同じ結論に至る必要はない。 自分なりの考えや意見を持つこと。 それができて初めて「靖国参拝とは何か」という問題について、他人の言葉ではなく、自分の言葉で語ることができるようになるのではないか。 そう強く感じた訪問だった。 --- stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。 https://stand.fm/channels/664b04d7316143a77174b611
快食ボイス700・麩の焼き→文字焼き→お好み焼の神話を解体する(前編)
はじめに 今回はお好み焼の話をしよう。 お好み焼と聞いて、多くの人が一度は目にしたことがあるであろう言説がある。 千利休が安土桃山時代に作った「麩の焼き」が、江戸時代に文字焼きとなり、そこからお好み焼が生まれた。 とりわけ大阪あたりでは、半ば定説のように語られている話である。 千利休が堺の人なので、支持されやすいのは理解はできる。 しかし、資料を集め、時代背景を整理し、事実を積み上げていくと、どうしてもこの話には強い違和感が残る。 今回はその「なぜ納得できないのか」を、順を追って整理してみたい。 話がやや長くなるので、2回に分けることになるだろう。 今回はその前編である。 --- 小麦という作物の出自 まず前提として、小麦という作物について触れておく必要がある。 小麦の原種が見つかっているのは、メソポタミア文明圏である。 小麦は農耕文明の成立を支えた、極めて重要な作物の一つだ。 一方、日本は伝統的に米食の社会である。 米の原産地は、中国雲南地方、ミャンマー北部、あるいはタイ北部あたりとされている。 湿潤で水の多い環境に適した作物であり、日本の気候条件とは非常に相性が良い。 実は、日本に米と麦が伝来した時期自体は、ほぼ同じで、弥生時代とされている。 それでも、その後の日本で圧倒的に主流になったのは米だった。 --- なぜ日本は「米の国」になったのか 理由は単純である。 同じ1ヘクタールの土地で栽培した場合、米はおよそ5トン、小麦は約3.5トンしか収穫できない。 日本は山が多く、平野部が少ない。 水は豊富だが、耕作に適した土地は限られている。 その条件下で、より収量が多く、水を活かせる米作りが選ばれたのは自然な流れだ。 さらに重要なのは、水田は連作障害を起こさないという点である。 同じ土地で延々と米を作り続けても、問題が起きにくい。 これは他の作物では非常に珍しい特性だ。 小麦には連作障害があり、土地を休ませながら作る必要がある。 広い土地がない日本では、明らかに不利な作物だった。 --- 粉にする、という途方もない手間 もう一つ、決定的な違いがある。 米は脱穀すれば、玄米のまま粒として食べられる。 一方、小麦は粒のままでは美味しくもなく、消化も悪い。 食べるためには「製粉」という工程が必要になる。 これは現代人が想像する以上に大変な作業である。 昔はすべて人力で、石ですり潰し、何度もふるいにかけ、粒度を揃えなければならなかった。 ヨーロッパで水車が発達したのは、まさにこの製粉のためである。 それほどまでに、小麦を食べ物にするにはエネルギーが要る。 つまり、日本において小麦粉は、基本的に贅沢品だったのである。 --- 千利休と「麩の焼き」 千利休が活躍したのは安土桃山時代、16世紀後半である。 彼が茶菓子として供したとされる「麩の焼き」は、何度もふるいにかけた白い小麦粉を使った、極めて贅沢な菓子だった。 当時、砂糖はほぼ使えないため、味付けは味噌が中心だったと考えられている。 それでも、小麦粉そのもののおいしさは十分に人を喜ばせただろう。 ここで重要なのは、「麩の焼き」は徹頭徹尾、茶の湯の世界の菓子だという点である。 客を思い、時間をかけ、心を尽くす。 その文脈の中で成立した食べ物である。 --- 300年の空白 問題はここからだ。 文字焼きが史料に登場するのは、江戸時代後期、化政文化の頃である。 つまり、千利休の時代から約300年が経っている。 この300年間「麩の焼き」がどこで、誰に、どのように食べられ続けていたのか。 それを示す連続した記録は、ほぼ存在しない。 京阪の超上流階級の茶菓子が、江戸の町民、しかも子どもが食べるストリートフードになる。 その社会的落差はあまりにも大きい。 ここを説明せずに、「似ているから繋がっている」と言ってしまうのは、あまりにも雑である。 それなら小麦煎餅でも同じではないか、という話になってしまう。 --- 麩の焼きは、ちゃんと残っている さらに言えば、麩の焼きは「消えた」わけではない。 尾道の老舗和菓子屋「中屋」には、「ふなやき」という菓子が今も残っている。 小麦粉を薄く焼き、餡を包んだ、明らかに茶菓子の系譜にある存在だ。 滋賀、九州の柳川や久留米周辺など、似た菓子は各地に点在している。 使われる場面も、文脈も、連続している。 だからこちらには納得感がある。 --- なぜ、ふの焼きは文字焼きにならないのか まとめると、問題は三つある。 一つは、300年に及ぶ時代のミッシングリンク。 さらに二つは、社会階層と地域の断絶である。 これを説明しない限り「麩の焼きが文字焼きになった」という説明にはならない。 文字焼きからお好み焼へ、という流れは解明されている。 しかし、その前段を雑に繋げてしまうのは、歴史の扱いとして誠実ではない。 もう一つ、非常に重要な視点がある。 それについては、次回あらためて話したい。 --- stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。 https://stand.fm/channels/664b04d7316143a77174b611
快食ボイス701・麩の焼き→文字焼き→お好み焼の神話を解体する(後編)
はじめに 前回に引き続き「麩の焼き」と「文字焼き」の関係について考えていきたい。 一般には、麩の焼きが文字焼き、ひいてはお好み焼きの源流である、という説明がなされることが多い。 しかし、史料を丁寧に追い、文化の文脈を考慮すると、どうしても腑に落ちない点がいくつも浮かび上がってくる。 本稿では、その違和感の正体を、歴史・階級・地域、そして江戸文化の性格という観点から整理してみたい。 --- 300年の「ミッシングリンク」 最大の疑問点は、時間の断絶である。 麩の焼きが登場するのは、千利休の時代、すなわち安土桃山期である。 一方、文字焼きが都市文化として姿を現すのは、江戸後期から幕末にかけてである。 このあいだには、実に約300年の空白が存在する。 しかも問題は、単なる時間差だけではない。 - 食べられていた地域が異なる - 享受していた階級が異なる - その300年間に、麩の焼きがどこで何をしていたのか分からない という、三重の断絶がある。 分かっているのは、麩の焼きが茶事の世界、すなわち上流文化の中では連綿と生き残ってきた、という事実である。 茶の湯の世界は「型」と「継承」を重んじる。 千利休に由来する菓子が、オマージュとして残り続けるのは、むしろ自然なことだろう。 しかし、それが庶民文化へと降りていった形跡は、少なくとも記録の上では確認できない。 --- 「庶民も食べていたのでは?」という仮説への疑問 「記録に残っていないだけで、実は庶民の間でも食べられていたのではないか」そう考える人がいるかもしれない。 だが、江戸時代、とりわけ後期という時代を考えると、この仮説は弱い。 江戸後期は、驚くほど記録が多い時代である。 食べ物、風俗、流行、戯作、見世物──ありとあらゆるものが書き残されている。 その中で、文字焼きについての記述は存在するにもかかわらず、「麩の焼きがルーツである」と明記した史料は、今のところ見当たらない。 誰かがそう考えていたのであれば、誰かがどこかに書き残していてもおかしくない。 だが、それが見つからない。 これもまた、無視できない事実である。 --- 上流の食が庶民化するには「理由」が要る 確かに、上流階級の食文化が庶民に降りてくる例は存在する。 砂糖がその典型だろう。流通革命が起き、沖縄や奄美で生産された砂糖きびが大量に入ってくることで、価格が下がり、一般化した。 小麦粉も、製粉技術の進歩によってコストが下がり、近代以降は巨大産業となった。 寿司もまた、保存食・高級食から屋台食へと姿を変え、庶民のものとなった。 重要なのは、必ずそこに技術革新や流通構造の変化といった「理由」があるという点である。 では、麩の焼きに関して、同様の理由は存在しただろうか。 現時点で、それを裏付ける材料は見当たらない。 --- そもそも江戸とは、どういう場所か ここで視点を大きく変える必要がある。 江戸は徳川幕府の所在地であり、政治・行政の中心ではあった。 しかし、日本の「首都」はあくまで京都であり、それを経済的に支えたのが大阪である。 京と阪は文化的にも極めて近く、「京阪文化圏」を形成していた。 その京阪から見れば、江戸は新興の都市であり、武士の田舎者が集まる場所だった。 「東夷(あずまえびす)」という言葉が象徴するように、どこか野蛮で、洗練されていない存在として見下されていた。 つまり江戸は「伝統」を持たなかった。 その代わりに、江戸は自分たちの文化を自力で作り出す必要があったのである。 --- 江戸文化は「アンチ京阪」である 文化文政期、いわゆる化政文化の時代に、江戸の町民文化は一気に花開く。 この文化の根底にあるのは、明確なアンチ京阪の精神である。 京阪が「伝統」や「技の粋」を誇るなら、江戸は「当世」「今様」を掲げる。 「通(つう)」という言葉が好まれたのも、その表れだろう。 食文化も同じである。 京阪が鱧や鯛を尊ぶなら、江戸は鰹を誇る。 京阪が洗練された伝統的な料理なら、江戸は蕎麦を自らの食と定義する。 これは模倣ではない。 対抗であり、自己定義である。 --- 「粋(すい)」と「粋(いき)」の違い 同じ漢字でも、意味が違う。 京阪の「粋(すい)」が技術や芸の到達点を指すなら、江戸の「粋(いき)」は、生き方そのものを指す。 表に出さない美学。 裏地に凝る着物。 あえて説明しない態度。 これは、プラスの美学ではなく、どこかマイナスの、内向きの美学である。 長く田舎者として扱われてきた者たちが、ようやく手に入れた自分たちの文化。 そこには皮肉と反骨が染み込んでいる。 --- 麩の焼きが文字焼きになる、という違和感 この江戸文化の文脈において考えると、疑問はさらに強まる。 京阪の、しかも上流階級が楽しんでいた茶菓子を、江戸の町民がありがたがって真似るだろうか。 江戸文化の成り立ちを見れば、その可能性は極めて低い。 江戸は常に歯向かってきた。 蕎麦も、鰹も、味付けも、生き方も、すべてが「俺たちは違う」という宣言だった。 その江戸が、三百年前の京の上流文化を下敷きに、自らの粉もの文化を作った── どう考えても、納得できない。 --- 結論として 以上の理由から、僕は次の二点を大きな根拠として、 - 300年に及ぶミッシングリンク(時間・階級・地域の断絶) - 江戸文化そのものがアンチ京阪として成立していること この二つにおいて、麩の焼きが文字焼きの直接的なルーツであるとは考えにくい、という結論に至っている。 もちろん、これは現時点で僕が調べ得た範囲での結論に過ぎない。 新たな史料が見つかれば、考えを改める必要があるかもしれない。 だが、ファクトを積み上げていく限り、今のところは、この結論以外に行き着かないのである。 本稿が、皆さまが粉ものの歴史を考える際の、一つの視点となれば幸いである。 --- stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。 https://stand.fm/channels/664b04d7316143a77174b611
快食ボイス699・まぜ麺の現在地と、その正当進化の可能性
はじめに 今回は、まぜ麺という料理について考えてみたい。 ラーメン店などで時折見かけるまぜ麺。 「食べたことはない」という人がいるかもしれないが、広島市では汁なし担々麺がまさにその代表例である。 中国には古くから多様なまぜ麺文化があり、日本でも台湾混ぜそば(名古屋)や油そば(東京)など、各地に派生形が存在している。 にもかかわらず、まぜ麺はなぜラーメンほどの市民権を得ていないのか。 今回は、その課題と将来性について整理してみたい。 --- まぜ麺が抱える「飽き」の問題 まぜ麺の多くは、味付けが強い。 濃いタレ、パンチのある油、ニンニクや卵黄、甘じょっぱい方向性。 そして、提供時に美しく盛り付けられた具材を、ぐちゃぐちゃに混ぜて食べる。 結果としてどうなるか。 最初から最後まで、ほぼ同じ味が続く。 若い世代であれば、濃い味とボリュームを代謝できる。 しかし年齢を重ねるにつれ、この「同一味が持続する料理」は徐々に厳しくなってくる。 二郎系の汁なしなども、同様の構造だ。 --- 中国におけるまぜ麺の位置づけ 一方、中国ではまぜ麺は小吃(シャオチー)。 つまり小腹を満たす軽食として提供されることが多い。 上海の葱油拌面(ネギ油和え麺)なども、パンチのある味だが量は少ない。 するりと食べ終え、「もう少し刺激が欲しい」という余韻を残して終わる。 ストリートフードとして、極めて合理的な設計である。 問題は、日本ではこれを丼料理と同じ、一食完結型の食事にしてしまった点にある。 単品で満腹になることを求めた結果、量は増え、途中で飽き、義務感で食べ進める構造が生まれてしまった。 --- 味変が救いにならない理由 この構造的課題は飲食店側も理解していて、卓上に多くの味変アイテムが用意されていることが多い。 だが、これもまた諸刃の剣である。 あれこれ足した結果、どの店で食べても似た味に収束してしまう。 違いを出せる要素が、最終的には「麺」しか残らなくなるのだ。 ニンニク、卵、醤油、甘じょっぱい方向性。 構成要素が似通えば、個性は薄まっていく。 --- まぜ麺の完成形は、すでに存在している ここで、身も蓋もない話をしよう。 まぜ麺という料理の「完成形」は、すでにパスタとして存在している。 ソースと麺を最初から和え、最適な状態で提供する。 料理としての完成度は、圧倒的に高い。 客に「混ぜさせる」という行為は、マーケティング的な面白さはある。 しかし料理的合理性という観点では、意味はほとんどない。 パスタのグラム数が60〜100gに抑えられているのも、麺というものを美味しく食べさせる構造を熟知しているからである。 一方、まぜ麺は少なくても150g、普通で200g、時には300gへと膨張していく。 これは構造的に無理がある。 --- では、まぜ麺はどこへ向かうべきか まぜ麺をパスタ化すればいい、という話ではない。 それでは「パスタを食べればいい」で終わってしまう。 まぜ麺の魅力は、あの独特のジャンクさにある。 ならば、そのジャンクさを残したまま、料理としての完成度を上げる道を探るべきだ。 そのヒントは、すでに日本各地に存在している。 --- 「後半で別料理になる」という進化 広島の汁なし担々麺における後入れご飯。 盛岡ジャジャ麺のチータンタン。 これらは共通して、途中で料理の体験が変わる構造を持っている。 麺料理から、ご飯もの、あるいはスープへと変化する。 チータンタンは「白龍」の初代店主が生み出したようだが、汁なし担担麺の後入れご飯は、ユーザーイノベーションとして生まれた。 ポケベルの数字語と同じ構造だ。 これらは汁なし麺の弱点を、極めて自然に補っている。 --- 「混ぜれば混ぜるほど美味い」は幻想である まず捨てるべきなのは、このフレーズである。 合理性がまったくない。 最初からある程度味を麺に乗せておき、混ぜなくても美味しく食べられる設計にする。 そうすれば、具材の位置関係によって味が変わり、口飽きしにくくなる。 これは南インドのミールスと同じ理屈だ。 全部を一気に混ぜれば単調になるが、徐々に混ざっていくことで、最後まで楽しめる。 人間は同じ味が続くと飽きる。 これは感覚論ではなく、科学的事実である。 --- まぜ麺の「正当進化」とは何か ・途中で料理が変わる ・水分を補って胃を温める ・満腹感ではなく、満足感を設計する この3点について指摘した。 後入れご飯でもいい。 チータンタンでもいい。 最後をお茶漬けや粥にしてもいい。 あるいは、麺の種類を変えるのも一案だろう。 ご飯を専用の味付きご飯にするのも面白い。 背脂を加えて最後までジャンクに振り切るのも、思想としてはアリだ。 重要なのは、「料理をメタモルフォーゼさせる」発想である。 --- おわりに まぜ麺は、現状のままではメジャーになりにくい。 それは味付けの問題ではなく、料理構造の問題である。 もし、途中で体験が変わるまぜ麺を本気で仕掛ける店が現れたら、僕は諸手を挙げて応援したい。 残念ながら、今のところ広島市内ではまだ見かけていない。 進化か、変化か。 その瞬間を、気長に待ちたいと思う。 --- stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。 https://stand.fm/channels/664b04d7316143a77174b611
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