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社長に聞く in WizBiz
本日の社長に聞くin WizBizは、株式会社i-plug代表取締役 CEO、中野智哉様でいらっしゃいます。
まずは、経歴の本をご紹介させていただきます。
兵庫県生まれ、中京大学計学部卒業。その後、グロービスの経営大学院でMBMを取っていらっしゃいます。
株式会社インテリジェンスで10年間、求人広告修行で法人営業を経験され、
株式会社i-plugを設立、代表取締役、CEOにご主任になさっていらっしゃいます。
そして、2021年には当初はマザーズに上場、今のグロースCEOに上場している上場企業の社長様でいらっしゃいます。
中野社長、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
まず最初のご質問ですが、兵庫県ご出身ということで、小学校時代はどんなお子様でいらっしゃいましたでしょうか。
そうですね。私は兵庫県でも一番西の方の、今は辰野市になったんですが、昔はそうめんの伊母の伊東が有名な伊母群っていうすごい田舎に生まれ育ってましたので、
田舎の子供みたいな人でしたね、小学校の時は。
どんな遊びをしたとか、ガキ大将だったとか、そんな思いでございましたか。
本当に何にもないとこなんで、小学校の学区の中に信号もないんですよ。コンビニもなければスーパーもないみたいなとこなんで、遊びには、
お尻にまるまる鳥って、カブトムシ鳥とか、魚鳥とか、テミトリとか、そんな遊びばっかりやってたっていう、そういうタイプですね。なので、今でもやっぱり田舎に行くと元気になるみたいな、そういうタイプです。
割とガキ大将とかそんな感じになっちゃったんですか。
そんなことなくて、小学校2年生からずっと太かったですね、肥満だったので、ガキ大将っていうよりはニコニコしながら自由に生きる人みたいなそんな感じだったと思います。
健康有料児ってそんな感じですか。
そうですね。
中学も兵庫県でいらっしゃいますでしょうか。
中学校は5つの小学校がまとまるような中学校だったので、田舎にはよくあると思うんですけど、一気に変わりましたね。もともと小学校が当時、1学年30人だったんで、ずっと一緒なんですよ、保育所から。
中学校になったら5つの学校がくっつくみたいなニュースになるんで、いきなり小学校に170人とかかな。あと家から中学校まで10キロあるんですよ、めっちゃ遠くて。
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電車に乗って歩いていってみたいな形で、一気にこうなると環境が変わったっていうのが中学かなと思った。
中学時代はどんなことをして過ごしたのかお思いでございますでしょうか。
中学時代はバレー部に入ってバレーをやってると、あとはどうですかね。小学校の時も好きなことしかしてなかったんですけど、中学校はよりひどくて。
なぜか算数、数学が好きだったので、勉強は数学をするっていうので、他の授業も中学校入院の段階でほぼしなくなりまして、そんな生き方でしたね。
つまり得意側に寄る感じでいらっしゃるんですね。
そうですね。興味がないことはやらない、興味あることだけやるっていう人間になっていったのが中学だと思います。
でも数学はお得意でいらっしゃったんですね。
数学は好きだったんですよ。数字が昔から好きで、数字で計算しながら答えが出るとか、方程式解くとか、図形の角度のやつとか、クイズを解くような感じもあったんで、すごい好きでしたね。
お聞きしていると、頭いい少年、中学生だったみたいな感じのイメージなんですか?そんな感じ?
いや、全然数学だけなんです。他が全くやってなかったので、ただそれが好きだっただけって感じですね。
もともと数学できる人が中学校にいっぱいいたんで、それをやってバレエ行って、
バレエも太ってたんで、飛べないんで、全然レギュラーにもなれないんで、また家帰ってひたすら兄とゲームするみたいな感じでしたね。
なるほど、ありがとうございます。高校も兵庫県内でいらっしゃるんですか?
そうです。高校は、今、思想市っていうところなんですけど、山崎高校って家から25キロあって、めちゃくちゃ遠かったんですけど、そこに行きました。
高校は10キロ電車で出て、片道15キロ自転車なんで、毎日往復30キロ自転車に乗りながら通学しました。
なるほど。高校時代の思い出なんてございますでしょうか?
高校は、テニス部に入ったんです。南式テニス部だったんですけど、そこでテニスにめちゃくちゃハマりまして、高校は本当にテニスをしに行くみたいな、そんな感覚になってたので、
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中学校の時はゲームやったんですけど、高校になったらテニスばっかりになったのと、勉強もより酷くなりまして、本当に数学以外何もしなくなったんで、さらにいびつな形になってきましたね。
でもバレーボール、テニスとすると、運動神経はよろしい方だったんじゃないですか?
いや、全然良くないです。本当にガッツリ太ってたんで、だから全然動けないですし、テニスも初めめちゃくちゃ下手くそだったんで、
ただちょっとできるようになるのとか、テニスはできないところからできるようになっていくのがわかるんで、それですごい楽しかったっていう思い出ですかね。すごいハマりましたね、本当に。
なるほど。テニスと数学の共通点は、対決できてくると楽しくなってきてどんどんやるってそんな感じでしたか。
それは多分あると思う。
なるほど。ありがとうございます。その後の大学が中京大学なんですが、中京大学を選んだ理由は何かございましたでしょうか。
中京大学は、計学部に行きたいというので計学部に行くんですけど、結局ですね、結論から言うと中京大学以外全部落ちたっていう、それだけなんですね。
なんでそんなことになったかって言うと、数学は高校になってだいぶ得意になってたので、そればっかりやったから、基本的に偏差値を言うと70は切ったことないぐらいの成績があったんですけど、他の教科は全くやってないんで、ほとんど偏差値が30とかなんですよ。
なので、2教科受験で偏差値50になるんですよね。3教科受験になったらもう40なんで、もう行ける大学がないんですよ、当時。
だから、ほぼ大学を諦めたんですけど、得意科目受験っていうのができた大で、数学2倍とかだったら、それだったらいけるとこあるんじゃないかっていうので、中京大学を選んだ理由は、計学部で得意科目受験がある大学のうちの一つだったっていうだけです。
なるほど、ありがとうございます。中京大学時代はどんなことをし過ごしたなんて思いでございましたでしょうか。
中京大学はさらに自由度が増してたので、まず好きなテニスをずっとやっててですね。テニスは大学から公式に変わりまして、公式テニスはもっと面白かったので、テニスをするのと。
マージャンが好きなので、マージャンやり始めてですね。高校の時もちょっとやってたんですけど、大学でもドハマリして、テニスとマージャンしかしてないぐらいですね。
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なるほど、ありがとうございます。卒業後一番最初がインテリジェンスでよろしかったでしょうか。
違います違います。私は氷河期時代なので、まず就職決まらず卒業してました。実家が岐阜郡から加古川市に引っ越してたので、加古川の実家に帰ってきて、車の免許を取って、6月に一社目に入社した。
それが新聞に入っている折り込み求人の会社でして、地元の小さい会社に入社したっていうのが一社目です。
なるほど。卒業した時には就職先はなかったという感じですか。
なかったですね。大学まで全然行ってなかったので、3年間で1,2,3年生で取得した隊員が66しかなかったんですよ。4年生で72隊員取らないと卒業できないという状況だったんで、就職活動しても意味がないっていう、成績証明書出したら終わりっていう感じだったんで、全くせずに。
ただ奇跡的に卒業もできまして、卒業できたからとりあえず実家に帰ってきたみたいな感じですね。
ご両親心配なさったんじゃないですか。
そうですね。やばいと思ったんじゃないですかね。
なるほど。ありがとうございます。
その折り込み広告の会社さんにお会いになって、その時の思い出なんでございますでしょうか。
それはもうすさまじいブラック企業だって、もうないんですけど、もうすぐブラック企業だったので、なかなか強烈な記憶しかないですね。
今から24年とか前なんで、23年、4年前なんですけど、車にGPSが付いてるんですよ。
車営業するんですけど、エンジンをつけた時間、切った時間とか、通常でどこに向かって走ってたかって全部出てくるんですね、会社帰ってきたら。
僕は粉体のニップをつけて行ったら、トイレとか、コンビニに寄ったら、それをGPSとかが出てくるデータと付け合わせたら、合ってるかどうかとかって見るような会社だったりとか。
あと9時から出社なんですけど、基本的に8時に行って、8時15分からクリアポー開始なんですよね。
かけてもだいたい誰もいないんですけど。
9時に朝礼が始まって、もう5分くらいで終わって、そこから事後厳禁で12時15分までテレワークをして、そこから絶対弁当じゃないとダメで、15分間でご飯を食べて、12時半に車の営業で1日だいたい13車か14車ぐらい回るみたいな。
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帰ってきてから残無処理するみたいなことをやるんで、なかなかな会社でしたね。
すごかったのが、70人ぐらいの会社だったんですけど、営業が25人ぐらい行って、結局4ヶ月間しかいなかったんですけど、4ヶ月間で25人辞めてます。
3日でいなくなったりとかすぐするんで、それぐらい強烈な会社だったなと思う。
なるほど。ありがとうございます。その後はどちらの会社ですか。
結局4ヶ月で辞めて、その後10ヶ月間は二度生活をしてまして。
それを開けてから入った会社がインテリジェンスが買収する会社で、もともと私は転職の理由だとか、アルバイトがあるとかを販売する営業をやっていまして、
そこが学生援護会っていう会社があって、そこの子会社の半分部合の営業で入社した会社がありました。
それが入社してから10年間で4回買収されて、途中でインテリジェンスになったっていうところなので、職歴を掛けるインテリジェンスなんですけど、インテリジェンスに入ったわけじゃなくて、なってたって感じですね。
なるほど。ありがとうございます。ちなみにニート生活のときは何して過ごしてらっしゃったんですか。
何もしてなかった。家にいる。
4ヶ月間働いたんで、ドライブも働いたんで、実家なんで全然お金使わないし、1年目なんで税金も少ないじゃないですか。
だからすっごいお金が貯まったんですね。すぐに免許と教習代を親に返して、それでも45万から60万ぐらいあったと思うんで、
それを持って大学名古屋に遊びに来ました。それも兵庫県加古川から原付で行って、3ヶ月間後輩の家に住んでました。それでお金が尽きて帰ってきて、7ヶ月間実家にいたんですけど、
本当にたまーに部屋通りのバイトするぐらいだったんで、ほぼやることがなくて、やることがなくすぎるんで、当時のMDとかあるじゃないですか。
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あれで音楽聴きながらペットボトルに水道水入れて10キロ歩くとか、そんなんです。とても見てられん状態です。
逆に健康的でいらっしゃいますよね。
そうそう、健康的かもしれないですね。
後輩の方はよく3ヶ月住ませていただきましたね。
絶対嫌やったと思いますけどね。僕がいるんで、すぐその子は彼女の家に移動して、私が一人でいましたみたいな感じだったんで。
選挙したみたいな。
そんな感じですね。だいぶやばいですね。
なるほど、ありがとうございます。ご両親はずっと家にいらっしゃるのは何かおっしゃらなかったんですか?
めちゃくちゃは言ってこないですけど、どないするんやってたまに言われるんで、居心地はよろしくなかったのと、
あの時代、ほんとSNSなくてよかったなと思いますね。世間からこうも置いていかれる感じって、それでもたまらんかったんですけど、
あんなSNSってみんな頑張ってるとこみたら、耐えられんかったと思うんで、なくてよかったなっていうぐらい家にいて、
たまに外歩くとかそんな感じですね。
なるほど、ありがとうございます。で、その学生委員会にご入社なさった経緯っていうのは何かございましたか?
まず大きな転機があったのが、ミートの時にずっとテニス動けるレベルって言われたんですけど、
シンプルに練習量減るんで動けなくなってきまして、それで50歳ぐらいのおっちゃんとテニスして負けちゃったんですよ。
それでもう最終手段だっていうので痩せるって決意をしまして、
まずミートの期間の10ヶ月間、最後3ヶ月前ぐらいから痩せるって決めたんで、そっからダイエットを始めてまして、
決めていったら結構やり尽くすタイプであったんで、
だいたい毎月5キロぐらい減ってたんですね。90キロぐらいあったんですよ。90キロ切ってるぐらいかな。
あったんで、そっから毎月5キロずつ減っていくみたいな。
その中でもう一個、さすがにそろそろ働かんとあかんなっていうのもあって、
ちゃんと転職活動をしだしたのもその頃からで。
結局いろんな会社を受けたんですけど、当時やっぱり景気悪かったんで、
ニート上がりの若手がやるって、営業職で言ったら訪問販売か、
通信機器のOAの営業か、あとは部外の営業かみたいな感じで。
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結局一緒にやってたのは求人広告の営業なんで、
それ自体は面白かったから、もう一度同じ領域を最後選んだ。
だけど泣いてもらったとこもあったんですけど、ほとんど部外の訪問販売でしたね。
教材売るか布団売るかみたいな。
なるほど、ありがとうございます。
ちょっと教材売るか布団売るかの部分が、ニシャンは若い方がいらっしゃってわからない方がいらっしゃいますから、
昔で法犯って言ってピンポンピンポンっていうふうにですね、
個人宅に訪問して布団とか教材売ってですね、ものすごい稼いだ、
1億円稼いだとか3000万稼いだとかいう人もいる中で、
ほとんどの8割9割方の方、挫折してそっちもやらなくなって、
道館に消えていくみたいなのがこの法犯の世界でして、
布団とか教材っていうのは我々世代からすると、
あったあったみたいな、最近ないなみたいなこういう世界ですね。
ちょっとインターネット時代の方々には分かりにくいお話でございません。
一応解説を入れてきます。
ありがとうございます。
元々の話もありまして、学生英語界、インテリジェンスですが、
その時はどんなふうに過ごしたなんてお思いでございますでしょうか。
まず改めて入社して、とにかく営業が全くできなかったんですよ。
もう本当もう、親会社学生英語界の西日本の営業さんと、
子会社合わせて500人くらい多分いたと思うんですけど、
その中でも断トツ再開だったので、何とか抜け出したいっていうのは、
初めの1年半ぐらいはずっと始発終電で働いてましたね。
けどすごい楽しかったんで、そんな仕事やってなかったんで、
好きでも何業種とか、パソコンも使えないし、
提案書もワードしか使ったことなかったんで、
Excelを覚えるとかPowerpointを覚えるとか、
あと当時、いわゆるIT化が進み出した2002年に僕入社してるんで、
実際、リューダもアンもフリーペーパーに変わっていくとか、
インターネットのPC版に変わっていくとか、
アンもガラケのモバイル対応したりとかって、
どんどん新しく変わっていったので、
ウェブのエンジニアの職種の募集が始まったりとかって、
結構今まで知らないものがどんどんできてた時代だったので、
覚えることもめちゃくちゃあったんですけど、
お客さんのとこ行って教えてもらって、
それでまた提案書作って、
求人の受注もらって、
効果が出てみたいなのを繰り返してて、
すごいのめり込んでいったっていうのが、
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2年ぐらいかけてやっと1人前ぐらいの営業になったっていう、
同じ時代。
でも楽しかったってことは、
仕事としては面白い仕事でいらっしゃったってことですか?
そうですね。もともと1社目のブラック企業の時も、
仕事は好きだったんですよ。
営業してたって面白いなって思ったんで、
2社目もやっぱり、
ブラック企業の時に、
好きだからやってるみたいな。
ただ当時、初めの頃は1日3時間ぐらいしか寝てなかったんで、
体はだいぶボロボロになってきてましたけど、
楽しかったなって思った。
本日も社長に聞くインウィズウィズをお聞きくださり、
誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月に放送されます。
ご視聴ありがとうございました。
ご視聴ありがとうございました。
ご視聴ありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの成功社長、成功経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、
私どもウィズウィズが運営するウェブサイト、
経営ノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく、文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、
皆様の会社経営に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、
サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索で経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき、
経営ノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長に聞くインウィズではここまで。
また来週。