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社長に聞くin WizBiz
本日の社長に聞くin WizBizは、鈴木工株式会社代表取締役社長 鈴木美奈子様でいらっしゃいます。
まずは、経歴のほうをご紹介させていただきます。
東京都ご出身、日本女子体育単代卒業、その後、鈴木工にご入社され取締役副社長を得て、
今現在の代表取締役社長にご出任なさっていらっしゃいます。
鈴木工さんは、東商スタンダード市場に上場している上場企業様でいらっしゃいまして、創業は1961年の会社様でございます。
鈴木社長様、本日はよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
まず最初のご質問ですが、ご出身はどちらでいらっしゃいますか?
東京になります。
東京のどちらでいらっしゃいますか?
生まれたのが、慶応病院と聞いております。
ですね、あの周辺。
なかなかいい場所だと思います。
いい場所ですよね。
中央線というか、総武線というか、いいところでございません。
お金持ちでいらっしゃる感じですね。
そうではなかったようですけれども。
小学校時代はどんなお子様だったなんて、ご記憶ございますでしょうか。
そうですね、おとなしくインドア派ではなかったですね。
外で友達と遊ぶ、運動するというところの方が活発にやっていた記憶はあります。
じゃあ、今風に言うとアウトドア派というか、外でこの原で駆け巡って遊ぶみたいな。
お原かどうかは分からないですけれども、そうですね、外で遊ぶことが多かったですね。
なるほど、活発な少女がいらっしゃったと。
人並みに。
中学校時代はどんな子としてすごい人だったと思うでございますでしょうか。
中学から私学に入りまして、中高の学校なんですけれども、
中学校の時は一クラスしかないんですよ。
なので、中1から中3まで同じメンバーで3年間過ごす。
部活、運動部、バレーボールをやりたかったんですので、バレーブはないのか。
となると、中学生としてのバレーブはない。
ですので、高校生の上の先輩たちと共にその中に中学生として放り込まれるというような、
そういう形で、中学と高校ってボールのサイズが違うんですね、ネットもそうですし。
でも全て高校生のサイズで3年間通し、そして高1になってまたそこからバレーブで上がっていくと。
そういう形で6年間はずっと中高、バレーボールをやっていましたね。
毎日のようにやってらっしゃった感じで。
そうですね、休みもなく。
じゃあ、思い出はバレーボール一触ぐらいな感じですか。
そうですね、学校帰りに誰かと遊びに行くとか、高速的にどうだったのかわからないですけども、
そういう部分の記憶はないですね。
じゃあ、高校入ってもバレー一触という感じで。
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もう自動的に。
成績の方はよろしかったんですか。
中1の頃はバレーボールをやっていました。
成績の方はよろしかったんですか。
中1の頃は自慢じゃないけどトップでございました。
これは中学校受験をやったところの、いろいろなものが蓄積されていた、
残りの部分が活用されたんだと思うんですけども、
だんだん運動をする、それも高校生と一緒にやるという運動量という並大抵じゃないと思うんですね。
自動的に成績も下がっていくと。
エスカレーター的に下がっていくというところは実際ありましたね。
じゃあ元は頭もよろしかったけどと、そういう感じでございますね。
一時的に詰め込んだ余力で中1は頑張れたという感じですかね。
バレーボールの方の業績というか成績というかは、よろしかったんですか。
中学生はもうほとんど試合は出れませんので、
高校生になってから試合に出るというところになりましたけれども、
ベスト16くらいですかね、東京都で。
ポジションはどういうポジションでしたか。
私は途中から怪我しまして、高校3年間バレーボールは通せなかったんですね。
途中からマネージャー業に変わりましたので、
ポジション的にはレフト、アタッカーというんですかね。
そのポジションでしたけど、マネージャーの方に移動しましたかね。
ちょうど収録のこの期間はパリオリンピックが始まるタイミングでございまして、
レフトというとちょうどエースポジションということなので、
運動神経も相当よろしかったんじゃないですか。
いいかどうか自分でジャッジはできなかったですけれども、
大体何かするとそれなりにはやれていました。
ありがとうございます。
この大学は日本女子体育短期大学を選ばれたりしますが、
こちらの大学を選ばれた理由は何かございますでしょうか。
中高を学んだバレーブのところで、尊敬する顧問の先生が女性でいらっしゃって、
その方がOGの方だったんですね。
やっぱり憧れる存在、こんな先生になれたらいいなというところで、
保健体育の先生を目指そうということで、こちらの大学を選びました。
なるほど。では教師の免許もお持ちでいらっしゃるんですか。
中学の免許は持っています。
この日本女子体育短期大学での思い出とか、どんなふうに過ごしたなんてございましたでしょうか。
やっぱり皆さん全てにおいていろいろ運動機能が高く、
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普通の中高台と違って専門の授業がすごくあるんですね。
バレーボール、バスケットというのは当たり前、ハンドボール、水泳、機械体操、身体操、いろんな種目があるんですね。
全てにそういう授業がありまして、得意な方、球技やっている方はやっぱり体操とかそういうのは苦手、
球技やっている方は全般的にすべておできになるとか、そういう特色がある面白い学校でしたね。
なるほど。鈴木社長様は運動系は何か、女子体育大学ではやっていらっしゃったんですか。
バレーブに入ろうかなと、一回モントを叩いたんですけど、ちょっと身長が足らなかったらしく、
そのことをおっしゃられたので、分かりましたということで、そのまま帰ってまいりました。
なるほど。じゃあ何か、いわゆる体育界のスポーツはその時はあまりやっていらっしゃったんですか。
そうですね。大学ではやっていないです。
なるほど。ありがとうございます。
日本体育大学、女子体育大学単体を卒業後は、鈴木さんに入られるまではちょっと期間空いていらっしゃいました。
一番最初はどんな仕事をなさったんでしょうか。
最初はやはり教師になろうと思ったんですよ。
実習に行って、地元の中学に行ったんですけど、そこで教師熱が冷めまして、いきなり、
編入して4年のところに行って、高校まで取ろうかなと思ったんですけど、
そこで教師熱が冷めましたので、急遽社会人になると両親を驚かせましたね。
社会人は最初はどんなお仕事を選びになったんですか。
金属博明家、東海金属という会社なんですけれども、本社が神奈川県にありまして、
私は東京のオフィス、今でいうと東京駅の日本橋口の方ですかね、そこのビルで仕事を始めました。
アルミ箔、昔はタバコに紙を合わせたものが、タバコを開けるとまず破るところがありますよね。
そこに使われていたものとか、あとは家庭用のアルミホイル、あとはおかずを入れるカップとか、
そういうもののアルミ箔のメーカーさんでした。
そちらを選ばれた理由は何かございましたか。
大きな意味はなく、急に就職すると言い始めた娘に、親がびっくりして、いろいろ紹介をいただいたというところがあります。
でもちゃんと試験を受けましたけど。
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東海金属さんでの思い出なんてございますか。
私は日用品の事業部にいまして、小さいものをたくさん売り上げて、月の売り上げになるというところですから、数が勝負なんですね。
そのデータを打ち込むということで、電卓が気がつかないうちに異常に早くなりましたね。
それはもう辞めてから気がつきました。
なるほど。ありがとうございます。東海金属さんの後はどんな社会人生活を?
まず少し休もうと。本当に何か自分がやりたいことは何なのかなというところを考えていて、
本当に安易なんですけど、やりたいことって考えていたときに、少しだけやってみたいことがあった。
やりたいことがあった。歯科助手。衛生師になりたいわけじゃないんです。
歯医者さんの助手。自分が歯医者に行って、横で歯を入れるときにセメントを塗ったり、練ったり、
そういうことをやって、こういう仕事もあるんだというところで、ちょっと興味があって、少しアルバイトしました。
なるほど。何年くらいやられたんですか。
1年くらいですかね。そのときに発揮されたのが電卓の速さです。
月末に保険点数をやるのに、もちろん電卓を見ないで打ちますから、
そこのご家族で経営されていた歯医者さんなんですけど、非常にびっくりされまして、
これはずっといてほしいと。そうはいかないんですけどね。
こんなところで役に立つんだなというのは、そのとき思いましたかね。
なるほど。ありがとうございます。しかし、助手の後はどうなさったんですか。
消費者の派遣の広告を見まして、相互消費者でこういう派遣業があるんだと。
当時、派遣業が結構出盛っていた頃なんですかね。
消費者はもちろん銀行さんでもそういうのがありましたし、
見ていなかった世界が見れるのかなと。大手の相互消費者でしたので、
そこに登録をして、派遣という形ではないんですけれども、
そこの派遣の会社の社員として相互消費者に出向くという形で仕事を開始しました。
どんな手の仕事をなさったんですか。
そこは自分の希望を言えなくて、嫌だったら断れるということは聞いていたんですけど、
私はお断りすることはなかったです。
宇宙航空機部という名前なんですけれども、やっている仕事は戦略物資。
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戦略物資自体は日本の法律で輸入はできませんから、
最終納品場所は防衛庁ですけれども、パーツで輸入するんですね。
そのパーツを各メーカーさんにお届けして、組み立てをしていただいて、
防衛庁に納品していただくという輸入のお仕事をしていました。
ちょっとというかだいぶ変わったお仕事ですね。
そうですね。だんだんそれも気になるんだと思いますね。
十何年かになりますね。十何年やってましたので、最初の数ヶ月だけはドキドキしたんですけど、
時期になくなってしまったという。
十何年もいらっしゃったんですかね。
そうですね。
何か十何年間で思い出深いことなんてございますか。
そうですね。やっぱり夜遅くまで仕事をしていましたね。
ですので、それだけ上司の方々も気を使っていただいていたし、
何よりもこの戦略部署を扱っているチームはいくつかあるんですけど、
チームワークがすごくいい部署で、楽しくお仕事はできたと思います。
一人一人にきちんと責任感を持てる仕事をきちんといただけたので、
充実した創造商社の勤務だったと思います。
ありがとうございます。
鈴木工さんに入られるきっかけなんてどこらへんからなんですか。
これは商社で働くようになってからですかね。
鈴木工の創業者は私の父親なんですけれども、
父が毎年1年に1回、うちに来ないかというラブコールがありました。
それを伺うために生意気だったんですね。
自分の力で今こうやって仕事をしているんだという気持ちがすごく強くあったせいか、
いかない、その一言でわかった。
また次の年になるとうちに来ないか。
いや、今はそんなことは思っていない。その繰り返しですね。
ただ、2003年の9月に鈴木に入社させていただいているんですけれども、
2003年の、ちょっと月は忘れましたけれども、
父親から今までとちょっと違った大向きで話したいことがあるということで、
ちょっとがんを患いまして再発をしたということで、
今後そんなに長くないよと。
ここは真剣に会社に来るということを考えてくれないかということを、
いつものラブコールとは全然違うトーンで話を受けましたので、
これはもう私は今まで一言ノーの返事しかしたことなかったんですけれども、
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これはもう聞いて、もう一発で行きますと。
もう最後は親孝行になるかもしれないという思いで、
イエスと返事を速答しました。
何年間ぐらいお断り続けてやっと入ることになったんですか。
10人強ですかね。
じゃあ十数回というお断りになったということですね。
大変申し訳ないなと思うんですけど。
なるほど、なるほど。
で、入られてからどんな系のお仕事をなさったなという思いでございますでしょうか。
そうですね、非営業の部分を主に見させていただいて、
最初社長室付近になっていたんですけれども、
創業者、当時社長ですね。
社長が曰く、全ての部署を見れるような形で、
まずどういうふうな目に映るか見てみるか。
で、やはり総合省舎にいた十数年というのは、
私にとって知らないうちにいろいろなものを蓄積させてくれた。
常識の範疇もそうですし、何もなかった、
それこそ最初金属メーカーにいてそのまますぐ入っていった時と、
その時とは全然違うと思うんですね。
ですので、普通こうこうこうなのに、
うちの会社は、この会社はこんなことしてていいのかなっていうところが、
いくつもやっぱり散見されまして。
それをレポーティングして、社長にお話をする。
それをチェックしてもらって、この部分そう思うんだったらこれやってみろと。
うまいように使われたんですけどね。
そういう形で、途中から入ってきた、
それも社長の娘であるっていうことは誰も知っていることであって、
それをきちんと打破していくための道を作ってくれたんだなと今では思っています。
なるほど。ありがとうございます。
本日も社長に聞くインウィズビズをお聞きくださり誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの成功社長、成功経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、
私どもウィズビズが運営するウェブサイト、
経営ノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、
皆様の会社経営に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、
サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索で経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき、
18:01
経営ノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長肉インウィズではここまで。また来週。