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2023-07-26 20:51

第341回 大澤陽樹氏(オープンワーク株式会社代表取締役社長)【前編】

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今回は、オープンワーク株式会社の大澤陽樹氏にお越し頂きました。

国内最大級の社員クチコミ数を有する、転職・就職のための情報プラットフォーム事業で上場。投稿された口コミから、会社の問題点などが分かるというお話から、経営のヒントが得られます。ぜひ、インタビューをお聞きください。

なお、過去にこの番組で配信した内容は、経営者インタビューメディア「経営ノート」にも掲載しています。ぜひこちらもご覧ください。

■経営者インタビューメディア「経営ノート」
https://keiei-note.com/

■WizBiz社長塾
https://www.youtube.com/channel/UC16VkcI4PaUISDD4UL7pFvQ




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社長に聞く＀in WizBiz
本日の社長に聞く＀in WizBizは、オープンワーク株式会社代表取締役社長)春樹さんまでいらっしゃいます。
まずは経歴をご紹介させていただきます。福島県いわき市でお生まれになっていらっしゃいます。
西宮と松戸で育たれます。その後、筑波大学にご入学。
その後、The University of Manchester、イギリスの大学を経て、東京大学大学院修士課程に進まれて卒業されていらっしゃいます。
その後、Link and Motivationにご入社。そして、2018年にはオープンワーク株式会社に参画。
そして、2019年にLink and Motivationを退職し、オープンワークへ転職。
2020年には代表取締役社長にご就任なさっていらっしゃいます。
そして、2022年の12月、東証グロース市場に上場した上場企業の社長様でいらっしゃいます。
大沢社長様、本日はよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
まず最初のご質問ですが、ご出身はいわきですが、育ったのは西宮松戸のことですが、小学校時代はどんなお子様でいらっしゃいましたでしょうか。
はい、私今もそうなんですけど、とても体が弱くてですね、運動神経もとにかく悪くてどんくさい子供だったので、何か得意なものを作ろうということでですね、当時は算数が非常に得意な子供でした。
非常にインドアな、ネクラな子供だったと思います。
エピソードとして、苦問式をずっとやっていたんですが、小学校2年生の時には高校生である微分析分がもう終わっていたというふうに、僕もうっすら覚えているんですけど、そのぐらい苦問式にはまっていたというふうに聞いています。
じゃあ、頭のよろしい子でいらっしゃったという、そういう感じでいらっしゃいますか。
そんなことはないと思うんですけど、本当にパズルみたいな感じで、ゲームよりはまっていたというふうに親からは聞いています。
なるほど。振動とか呼ばれたことはないですか。
いや、なかった。多分それ以上に運動神経の悪さが目立ったと思うので、隠れた才能ぐらいの感じだったんだと思います。
なるほど。ありがとうございます。中学時代はどんな子として過ごしたなと思うでございますでしょうか。
中学は茨城県にある私立の江戸川学園という高校を中学に通いまして、体の弱さがやはりコンプレックスだったので、剣道を始めまして、運動神経がある程度悪くても努力をすれば強くなれるよという言葉に騙されて剣道を始めまして、おかげさまで非常に体が強くなり、病気にならなくなって、非常に剣道に打ち込んだ。
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途中から大学進学にもつながるんですが、生物学に興味を持つようになりまして、真面目に勉強しないといい大学に行けないぞということで、高校2、3年ぐらいからは徐々に受験の方に力を入れ始めた。そんな真面目な学生だったかなと思っています。
なるほど。ありがとうございます。高校時代も剣道中心の生活でいらっしゃったんでしょうか。
そうですね。週6、週7も剣道で、休みの日は本当に朝から晩までやっていました。剣道は小学校からやっている子の方が強くて、大体中学生の時は一生もできなかった。元の運動神経の悪さもあって、1回も勝利できなかったんですが、ここでは大分大会もいいところまで進んだり、最後は部長もやらせていただいて、
部の数十人いる部で大将を務めさせていただいていたので、一定やっぱり努力が報われるんだなということを学んで、すごい夢中になっていた時代でした。
じゃあ、若い時から努力かけらっしゃったんですね。
そうですね。本当に努力しないと運動神経が悪すぎて本当についていけなかったので、そういうところはもしかしたら今でも通じているかもしれないですね。
なるほど。ありがとうございます。大学は筑波大学にお勧めになったりしましたが、こちらを選ばれた理由は何かございましたでしょうか。
はい、もうだいぶ昔の話になっています。私は今38歳なので、もう20年以上前の話になりますが、ちょうど当時、遺伝子工学が非常に流行っておりまして、
例えばテロメアと呼ばれるような、人間が不老不死になれるんじゃないかみたいな話とかが、どんどん研究が進んでいて、
私は勉強というよりは、そういう雑誌を紹介してくれる先生に高校生に出会って、そこから興味を持った時に、当時、遺伝子工学で非常に先進的な研究をされていたのが、筑波大学に何人か教授の方がいらっしゃいまして、
どうせ行くんだったら、筑波大学でもっきり生物工学を学びたいなということで、筑波大の方を志望させていただきました。
生物工学というと理系でいらっしゃいますよね。
そうですね、理系になります。
じゃあ、相当高校の時は勉強なさった感じでいらっしゃいますか。
そうですね、ラッキーなことに私は最後、筑波大学はいわゆる推薦入試で合格することができまして、その時の科目が本当に英語と生物学だけだったので、たまたま英語も生物学も得意だったので、
それを血の量を生かしてですね、奇跡的に合格することができたというような状態でございました。
なるほど、ありがとうございます。その筑波大学時代はどんな思い出とかございますでしょうか。
そうですね、実はそんなかっこいいこと言ったんですが、筑波大入ってすぐ挫折をしてしまいまして、遺伝子工学、もちろん植物もあるんですが、やはりメインは私が当時興味があったのは動物の方だったんですね。
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ただ、そうすると解剖の実習というものがこうありまして、私自身今もそうなんですけど、血を見るのが苦手なんですね。
解剖の実習というのはちょっとグロテスクな話になってしまうんですけど、例えばマウスの解剖とかそういうのが実習であったときに、私はどうしてもできなくてですね。
早々に動物学といいますか、そういったところから授業を受けたり単位を取ることが難しいんじゃないかと自分で思うようになりまして、あまり途中から大学に行かなくなってしまう。
もちろん最低限必要な単位は卒業するために取っていたんですが、やる気がなくなってしまってですね、大学の友達と遊びつつひたすらアルバイトをして、
貯めたお金でバックパック、海外にカバン一つで旅行に行くみたいなことを繰り返しているような大学生活をしばらく送っていました。
【佐藤】アルバイトはどんなことをなさっていらっしゃったんですか。
本当にいろんなことをやりまして、鉄板のコンビニのアルバイトから飲食店のアルバイトから、それこそ例えばアイドルのライブの警備員をやっておさらいでくださいっていうのをやったりとか、
引っ越しのバイトもやりましたし、本当にありとあらゆるバイトを週10回ぐらいですから、ほとんど学校に行かず、
下手したらそこら辺のサラリーマンよりも稼いでるぐらいアルバイトに1個のめり込むと入ってしまうので、やっていたっていうのはありましたね。
【佐藤】じゃあダブルヘッダーで働く日も結構なかったですか。
【佐藤】そうです。朝から夕方まで働いて、ちょっと大学のレポートとかやったら、夜からまた朝までコンビニのバイトをするみたいな生活を送っていました。
大学に行っていた意味がほぼなかったという状態でございました。
【佐藤】なるほど。ありがとうございます。バックパッカーはどんな国に行かれたんですか。
【佐藤】そうですね。ヨーロッパにすごい興味があったのと、私自身がちょっと古い本なので、もしかしたらでもこれを聞いている方なんか知っている方多いかもしれないけど、
深夜特急って沢木幸太郎さんが書いている小説に、高校時代にすごい感銘を受けまして、いきなり深夜特急で紹介されている国を僕も歩きたいなということで、
中東であったりだとか、アジアの方ももちろんそうなんですけど、一番多かったのはヨーロッパ周りが多かったかなというふうに思っています。
40カ国ぐらい全部で回ったような状態でした。
【佐藤】深夜特急読んでバックパッカーやってという方のインタビュー、お二人目ですので、
業場企業の社長は深夜特急を読んだ方がいいのかもしれないですね。
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ありがとうございます。その後、マンチェスタ大学の方にオススメになっていました。これ留学ということでらっしゃいますか?
【佐藤】はい、まさに先ほど私が大学にあまり行かなくなってしまったことをですね、当時のクラス三人という、
筑波大学って非常に小さな大学でして、それぞれの学科に教授が人生相談を持ってくれたりとかしてくれる方がいまして、私のクラス三人の教授の方から、
海外でも行ってみたらと、そんなにやることなくて、でもなんか変えた方がいいんじゃないという話を少しいただいたり、
友人からも、俺も海外ちょっと目指してるから一緒に行かないっていうのを誘ってもらって、すごい友達や師に恵まれてですね、
機会をいただきまして、一定条件をクリアしたら、筑波大学に払っている学費と、あとは単位も交換できるという、いわゆる交換理学の条件を
受けてですね、マンチェスター大学の方に行くことが決まりまして、何やるか全く決まってなかったんですが、とにかくこの大学に興味を持ってない状態を改善したいということで、
非常に贅沢なんですが、マンチェスター大学の方に留学をさせていただいたというきっかけでございました。
なるほど。マンチェスター大学であると女子として都合したなんて思いでございませんでしょうか。
そうですね、やはり英語が得意とはいえ全く喋れなかったので、最初はですね、本当にどうにか研究室で生きていけるように基礎的な英語力をつけようということで、
実は研究室には入らないでですね、最初はもうひたすら語学学校に通っておりました。
1ヶ月くらい語学を突き詰めてですね、ようやく研究室やゼミで議論ができるぐらいのレベルになったタイミングで、
研究室の方いくつか訪問させていただいて、面接をしていただいて、受かったところが砂漠の緑化を研究する研究室でして、
それが非常に僕にとっては面白くてですね、世の中のためになっている研究を動物じゃなくて植物でもできるんだということと、実は遺伝子、遺伝工学にも勘でいる部分でしたので、
この辺りがもう1回勉強したいという熱が復活してきてですね、どうでしょう、6、7割は研究に費やしていて、
残りの3、4割はやっぱりせっかく海外に来たので、サークルに入らせていただいて、現地の方とイギリスに行ったんですけど、結局テコンドーやってたんですけど、
テコンドーサークルで試合に出たりとか、またやっぱり休日は友人たちとイギリス中を旅行したりとか、そんなことをしていました。
なるほど、ありがとうございます。お戻りになって卒業後だと思うんですが、東京大学大学院にお進みになったりしますが、こちらで研究は環境系ですか、それとも生物系ですか、どちらでらっしゃったんですか。
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環境学の方に進みまして、イギリスでの研究を通して一番感じたことがですね、やはり当時ですけど、今はどうなったかわからないんですけど、当時はやはり遺伝子の工学系に対してやはり臨時的な問題というのが付きまとってですね、
研究がいくら進んでも社会に実装されていかないみたいなことを感じることがちょっと多かったです。そういった時にやはり、工学だけではなくて社会学とセットでこういった物事を進めていく必要というのをすごい感じまして、
つくば大学に戻った時に、その工学と社会学、社会工学と呼ばれる領域で、町づくり、環境と人間の営み、例えば区役所、市役所、行政とどう連携して人を動かしていくかというのをセットで研究している方のところに従事したいというふうに入ってですね、
ただその方が私が卒業するタイミングで、私はその方の中心のところにつくば大の中心の研究室に行こうとしていたら、東大に移動が決まってしまいまして、俺の研究室に来たかったら東大受けろというふうに言われてですね、東大を急遽大学院を受けることになって見事合格いただきまして、東大の方に大学院は進ませさせていただいたというのがきっかけでございました。
なるほど、ありがとうございます。東京の大学院ではどんなふうに過ごしたりしたと思うでございますでしょうか。
そうですね、東大大学院は本当に僕の中でとにかく楽しかったというのと、ものすごい厳しく、教授が有名な教授の方なので苦しいことも多かったんですが、100%研究しかしなかった2年間だったと思います。
もちろん就職活動もしていましたが、正月も含めて研究をしていましたし、これもう今だから言っていいと思うんですけど、1ヶ月の間に家に帰れる日が1日とか2日しかなかったです。
ほとんど研究室に泊まるように、今はないと思いますよ、東大はそんなことないと思うんですが、私が所属していた研究棟は地下にシャワーとかもあるので、なんだお前帰ってる暇があったら研究しろみたいな、今はないですよ、掃除。
本当に新職を忘れて研究に打ち込み、たくさん賞もいただいたり、学会賞を取らせていただいたり、非常に大きな学会で発表させていただく機会があったり、実は未だに私が出した論文を引用いただいたりしていて、非常にここでも努力は身を結ぶと言いますか、
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打ち込んだ分だけ帰ってくるというのは非常に短期間ではありますが、経験させていただいたなと思います。
ありがとうございます。その後、リンク&モチベーションにお住まいになっていらっしゃいますが、環境系ではない企業でいらっしゃいますが、環境系のほう側に行こうとはあまり思われなかったんでしょうか。
最後までとても悩んだところでして、ありがたいことにやはり大学院で一緒に研究していた企業の方や、私自身大学院の時にアルバイトと言いますか、業務委託で環境系のコンサルをやらせていただいていたので、その会社からそのままうちに入らないかいとか、いろんなところからお声掛けをいただいていたので、
正直、自分のこれまでやってきた経験を生かすのであれば、そちらの道に進むということを選びたかったんですが、どこまで行っても、特に業務委託でコンサル担当をやっているときに、どんなにきれいな計画を作っても、結局それを実行するのは人組織であって、
人組織が動かないと何も世の中が変わらないというのを、大学院時代に強く経験をしまして、やはり研究だったりシンクタンク、非常に大事だと思うんです、こういう基礎研究も、これはもう向き不向きだと思うんですが、私自身はやはり手触り感を持って社会が変わっていくというのをもっと味わいたいというふうに思って、
組織、人を動かしていくコンサルティングをやっているであったり、それを実業として、事業として伸ばしていく、ビジネスの世界を一度経験したいというふうに思いまして、組織、人のコンサルティングの、当時リーディングカンパニーの一社であったリンク&モチベーション社に行って、修行しようというふうに決めたのがきっかけでございました。
なるほど。ありがとうございます。リンク&モチベーションでの思い出なんてございますでしょうか。
そうですね、もうここもありすぎて話せないぐらいなんですが、一つは、私は非常に、今話しててもそうだと思うんですけど、口下手でコミュニケーションがあまり得意ではなくて、リンク&モチベーション自体も1年目、営業をやらせていただいたんですが、全く売れなくてですね。
本当に営業成績としては、全新入社員でビリのような成績を出し、すごい迷惑をかけた1年目だったかなと思っています。
当時の上司の方からしたら、なんでこんなやつ取ったんだっていうふうに、きっと思われてたんじゃないかなっていうぐらい成果を全く出すことができませんでした。
ただ、その後少しずつ目が出るようになり、営業でも成果が出て、その後コンサルタントとしてプロジェクトマネージャーとかをやるようになったんですが、2つ目の思い出は、その時に私はベンチャー企業の担当していたんですが、同世代の経営者の方の支援をさせていただくことがすごく多くてですね。
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今のジョジョ企業でラクスルの松本社長であったり、ちょっとご退任されてしまいましたが、あかつきというゲームの会社の塩田さん、高田さん、高田さんまだ残られてますね、であったり。
他にもですね、たくさんの企業の経営者の方の支援をさせていただく中で、自分と同年代ほぼ同い年の方が命を懸けて社会を変えようとしている。
哲学を持って仕事をされているというところに強く影響を受けまして。
私自身も民間のモチベーションでもっと面白い事業を作っていきたい。であったり、民間の中心の中で経営者として、社会にもっと大きな影響を与えていきたいと思うようになったのが、当時一番の思い出、そして非常に良かった経験かなというふうに思っています。
ありがとうございます。ラクセルの松本社長、私も食事をさせていただいたことが大昔になりますが、徐々に器用ですよ皆さん、ラクセルさん。テレビチームもやってるから、ご存じの方は多いかもしれないですね。
本日も社長に聞くインウィズビズをお聞きくださり誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの成功社長、成功経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
その内容はすべてテキスト化いたしまして、私どもウィズビズが運営するウェブサイト、経営ノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、皆様の会社経に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索で経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき経営ノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長に行くインウィズではここまで。また来週。
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