00:14
はい、えっと今日は、武蔵、大安寺、まあ副住職です。
そうですね。
長岡俊成さんと、大安寺山、ちょっと歩きながら、散歩しながら、話してみようと思います。
じゃあ、よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
大安寺山って言うんですね。
そうですね。略称が大安寺山なんですけど、地元の人はボンズ山、ボンズ山って言います。
昔はこんだけ木が成長してなかったみたいで、結構ハゲ山だったらしいんですよね。
ここがですか。
ボンズが居る寺の裏にあるハゲ山だからボンズ山ですね。
そういうことでした。
いや、すごいな。
町のちょうど中心にある小高い山なので、どこの方向からも入って来れるんですね。
入って来れない。
入って来れるので、勝手に入ってきて山菜とったり。
昔はここ、中学生が自転車乗ったりして、勝手に自由を無尽に歩いてましたね。
へえ。
息切れてるんですけど。
こっちがお寺の家族。
ああ、そうなんですね。
祖母がだけしか入ってないんですけど。
へえ。
あとこっちがその歴代のご住職の奥さんだったりお弟子さんだったりがお墓があったり。
へえ。
ここに長岡家が墓って、私長岡なんですけど、ここにあるっていうのはちょっとおかしいなって私は思うんですよ。
なんでですか?
あの、世襲で私で3代目なんですけど、やっぱりこっちはお寺の奥さんなんでまだ分かるんですけど、
こっち側にあると一族老党のいわばお墓がある。
一般の母子とは違うちょっと高い台にあるっていうのは個人的におかしいと思います。
そうなんですか。
利益誘導じゃないですか。
なんでここ作ったのかちょっと余談ですけど。
そっかそっか。
ここも親戚なんですよ。
あ、そうですか。
で、その上に歴代住職の一応母所がある。
03:08
夏はヤブカが多くてなかなか来れないんですよ。
今日はちょうどいいですね。
いや、今日は本当に山散歩するには寒くもなか暑くもなく。
これが歴代ですか。
ここに当時解散って書いてあります。
実際の一等院大和尚、ここの初代住職は生まれ育ったのが岩手県の豊稀村、今は山田町豊稀地区っていうんですけど、
そちらに最終的には帰って、これも伝説なんですけど穴を掘って木敷っていうんですかね。
それで鈴かなんかを持って竹の筒で一応呼吸できるようにして、
自分の死去を悟ってその穴の中に入って鈴を鳴らしながら最後はそこで入場したっていう、
そういう説があって、そっちにお墓があるんで。
一応こちらには埋葬されてないんですけど。
歴叙もそうですね、それぞれの、ここに入っている方もいれば別なとこに転住して、
他のお寺の住職している人もいるので。
でも一応こうやって並べて墓所を作ってあるという。
こっちが祖祖父。
こっちが祖祖父で、こっちが祖父。
私の母親の父になるんですけど。
母さんのお父さん。
18歳が非おじいさんで、その息子で、
娘の旦那が今の住職、私も父ですけど、で29歳。
29歳。
29歳でした。
この後ろにカモシカがよく寝てるんですけど、今日はいないですね。
こっちが住処ですか。
住処です。
ここの墓回りに来ているのに、カモシカに威嚇されたことがありますけど。
多分ここから里に降りていって、民間でいろいろ食べたりとかして、
また大安寺山からカモシカが来たって言って、迷惑がられるっていう。
昔は本当にここに同級生とか後輩とかが集まってきて、
裏山でかくれんぼとかなんとかごっことかやってて、
裏山でみんなで遊んでたんですよ。
遊びがありますもんね。
ここはもう隠れても見つからないね。
見つからないまま終わっちゃうこともあり得るんですよね。
06:04
昨日ちょうど5月8日の花祭り。
そうでしたね。
その時は、私が小学生くらいまで、この山全体が神取っていう秘密基地を作って、
それをお互いに奪い合うみたいな。
神取?
神取っていう子供たちの遊びがあって、
ちょうど今あそこにお経入れている蔵があるんですけど、
そこの辺りにも神があったんですね。
本橋とか東橋とか各町内の子供たちが、
自分たちの場所を決めて、前もって決まってて、
そこに杉を切ったり、ひばを切ったり、
あと黒文字ってありますでしょ。
香りがするお茶のつまようじとかに使ったりする木があるんですけど、
それを裏山から切ってきて、
自分たちの秘密基地を作るんです。
1ヶ月間かけて。
学校終わったら、みんなここに集めに来て、
上級生からナイフの使い方を教わって、
紐の結び方を教わったりして、
自分たちの町内の神を作るんですね。
すごい町内ごとになってるんですか。
町内ごとに。
どこどこは寺の本とかっていうのがあるんですね。
それは5月7日の夜にみんな、今は考えられないですけど、
困りがけで他の神を子供たちが壊し合いをするんです。
来ないように防御をしたりとか、壊されたとこ直したりして、
ほぼ徹夜で次の5月8日の朝に迎えるっていう。
青少年健全育成所はありえないです。
面白いですね。
いつぐらいまでやってたんですか。
昭和50、多分56年ぐらいまでだと思うんですよね。
日露戦争の後に全国各地で人取りとか、戦争ごっこが始まって、
こういったところに積物が。
全国にあったと思うんですよね。
それがだんだん地方に残って、
ギリギリここにも50年代半ばぐらいまで残されてたんじゃないかなと思うんですけど。
だから地域公認ですよね。
地域公認、大人も公認で。
大人は5月8日の朝になると、子供たちがいるところに集まって、
そこでお目立ちよく頑張って、神、公平だなと、守ったなと言って褒めながら、
みんなでそこで花見をしたらしいんですね。
その頃、今ほどこんなに杉も高く伸びてなかったので、
09:02
あちこちにある山桜がもうちょっと綺麗に見えたらしいんですよ。
それをみんなで眺めながらどんちゃん騒ぎをして、
学校もその日は反動運転ですか、午前中で終わって、
みんな集団下校で大安寺に来て、
大人は花見をして、子供たちは露天でヒヨコを飼ってみたりとか、
あとガマの油織りが昔は来てたらしい。
いろんな工場を楽しみながら、春の良き日を楽しんだっていう。
いいですね。
そういう性格のある山なんですよ。
あちこちに石物があって、
これ全体、本当はヤクシ山っていうのが正式名称なんですけど、
ヤクシ山。
上にヤクシ堂が展望台のところにあるんです。
そのヤクシ様を祀ってお参りをする、そういう信仰の場所でもあったので、
お参りするときにこういう石物があちこちに祀ってあって、
そこにお参りしながら山を登ってお参りしたという。
まず立ち止まっていくんですね。
何個ぐらいあるんですか?何体ぐらいあるんですか?
数はちょっと確認してないですね。
結構おりますね。
下体ぐらいはあると思うんですけど。
とか言いながら、ここ来るのほんと1年ぶりくらいなんですけど。
なんか、普段ずっと同じ場所にいるとその場所の価値がわからなくなるなって、
つけづけ思いましたね。
ずっと同じ場所にいると落ち着きますねって言われるんですけど、
ずっといるとそうじゃないですね。
そうですよね。
ストレスも溜まりますね。
そうですよね、確かに。
お線香の香りがいいですね。
毎日嗅いでるからほとんどわかんないじゃないですか。
ちょっとお寺ならではの。
ほんとそうですね。
そうですよね、僕らはあれですもん、どっか他の場所で癒されますもんね。
家を下田に行って癒されます。
下場で。
下場に行って癒されます。
本屋で大型書店に行って、知的好奇心をもらって、
日常の寺の場に戻ってくるんです。
おかしな話ですけど。
ほんとですね。
ここが、そこに薬師堂があるんですよ。
そうなんですか、ほんとだ。
この前が展望台になっていて、
かなり木が成長しちゃったんで、見えづらくなっちゃったんですけど。
ここは薬師堂なんですね。
ここが展望台?
ここが展望台で、昔はこんなに木が大きくなってなかったんです。
12:00
ここは地産工事で、山全部のぼく工事して、
あちこちに木を植樹して崩落を防ぐために、
こういうふうにしたら、見えなくなっちゃったっていう。
なかったらだいぶですね。海も見えるし。
海も見えたし、この辺が製材所が並んでた通りなんですよ。
あっちに小学校があって、そこからすぐ帰らないんですよね、昔の小学生なんて。
道草しながら家に帰るんですけど、
その時はこっちの山伝いに帰ってきて、
ここから夕焼けを見ながら、
製材所が忙しくトラックが出入りしたり、
人が往来しているのを眺めるのが好きだったんですよね。
向こうの方にはイカ釣りに出かける漁船があちこちから出航して、
津軽海峡の方に出航していく様子とか。
街の明かりがだんだんぽつぽつつき始めたりして、
暗くなってきたら、そろそろ帰ろうかと言って、家に帰ったりするような感じで。
ここから街の様子を子供の頃はよく定点観測してましたね。
ちょっと秘密の場所でもあり、
自分の子供の時のすごく思い出深い場所でもありますね。
街に対する見方というのは、
一般家庭の子供よりは少し違った視点があったかもしれないですね。
あるかもしれないですね。
街のただの中に住んでいると、
街の変化だとか、街での暮らしみたいなのがよく目につくと思うんですけど、
ちょっと離れた場所にうちのお寺がある。
しかも高いので、俯瞰して見れる感じがありますよね。
それが今につながっているのかもしれません。
一回同級生が漁師をやっているんですけど、
お父さんが亡くなった時にうちの住職がお葬式して、
その時に何か言ったので、
記憶に残っている言葉があると教えてくれたんですけど、
俺はお前たちのことを少し山の高いところから見守っているからって、
多分言った本に覚えていないと思うんですけど、
そんなことはおめの父さんが言われたんだって教えてくれたもので。
それがこういう感じに見えるっていう。
少し違ったところから遺族の立ち直りというか、
そういったものを少し違った視点から見守っているって意味だったと思うんですよね。
山の中のお寺ならではの景色かなと思います。
15:02
かといってそんなに市街地から離れてもいないんですよね。
歩いて10分くらいで市街地まですぐに行けるところがあって、
この絶妙な場所というのが多分このお寺の特徴なんじゃないかなと思うんですね。
気軽にお参りできないんで、かといってそんなに行きづらくもない。
ちょっと日常を離れて気持ちを整えようとか、心を洗おうとか、
普段と違う気持ちを味わうためにはこの絶妙な距離感っていうんですかね。
そういうのが多分このお寺の持ち味なんじゃないかなと思うんですよね。
確かにそうですね。さっきの石段とかもね、
やっぱりちょっと遠くに駐車して登ってくる間にちょっと特別な場所になっている。
そうですね。ちょっと静寂に入っていくみたいな。
そんな特徴があるかもしれないですね。
かといって町と離れてるわけじゃなくて。
ちょうどいいお釈迦様がもしおられたら、
多分ここにもうお寺開くんじゃないかなと思います。
本当そうですね。
新山、幽谷、山の奥だとたくあつに行くのにすごく時間がかかりますもんね。
そうですね。ここだったら気軽に。遠くないですもんね。
遠くないんでたくあつにも行けたら。
静かに座禅修行しようと思ったら、
程よい市街地から離れてて、そんなに音も聞こえないですね。
いい場所をお釈迦様が選んでくれたなと思います。
そうですね。素晴らしいですね。
ちょっとここの山、ひと回りすると1時間強くらいの時間がかかるので、
結構レクリエーションの場として活用してもらえたらいいなと思うので。
それで7、8年前に青森県の方から呼びかけがあって、
森林ウォーキングっていうのを下北地域でも普及させたいという要望があって、
それでモテル地区にここをしてもらったことがあって、
その時にみんなで山を歩いて、
あちこちにほぼ杉山なんですけど、
ちらほらと牙の木が残っているんですけど、
青森県も保健保安院の方で食事をしてくれて、
それが定例の時期があったのでみんなで枝払いとかしたりして、
ここは薬師堂ですね。
そうですね。病気治しの仏様。
家族とか自分の病気治すために眼かけで登った人もいるんだろうなと思います。
ここのお祭りもあるんですか?
18:00
薬師堂のお祭り自体は一応花祭りと合わせて行うことに昔はしてたんですけど、
今はどっか行ってしまいました。
お祭りはしてますけど、縁日で何かっていうのはないです。
ここは本当に野生動物が住んでるんで、向こう側からカモシカが来たりとか、
最近だと日本ザルマの群れがやってきたりして、
あとクマもちょくちょく出没するんですよ。
カモシカが来たらどうしたらいいんですか?
彼らは禁止なんで、近くまで来たら突進してくるんですよ。
だからギリギリ見えるか見えないかぐらいの範囲でじっと待つっていう。
そのままバンって出くわすと向こうもやっぱり敵だと思うんで、
フーって威嚇してきて。
でもこの距離を縮めてしまうと突進されます。
そうですか。
そういえばあれ全然違う話ですけど、
テレビたまに見るんですけど、あれレギュラーですか?
夕方のやつ。
あれは青森放送のふるさと特派員っていうのに、
2年ぐらい前からなったんですよ。
たまたま旧地のRABの社員の人がいて、青森放送の。
下北地域でこっちの方に私局にいたんですよね、その方が。
その自分が知り合いの地域の住んでる人たちに移植されて、
それでなんかネタありませんかって電話がたまにかかってくるんですよね。
その時何か発信するネタがあれば、
ああやってiPhone1台と三脚使って誰もいないところでスタジオと結んで
こっちの情報を発信したり。
そうなんですね。
本堂で孤独な中継していて、
その周りはおなんかさんがお参り来て何やってるんだみたいな。
でもそうやって地域の情報を発信するのも大事な役割だなと思ってやってますけどね。
永子さんあれですよね、地域おこしみたいな感じでいったら、
県内では有名な方。
どうなんですかね、まだ高らかですけど。
こっち来て12年、この4月で経ったんですよ。
そんなに活動してないはずなんですけど。
必ずでも名前はありますよね。
どうなんでしょうね。
僕はそういう印象ですけどね。
わかんないんですけど、多分なんか所属が早かったんじゃないですかね。
所属?
21:00
1年ぐらいユータンなりアイタンで来て、
3、4年ぐらいは地元の人とちょっと渾身を深めて、
自分が何者であるかというのをわかってもらった上で、
いろんな人を知って、それでことを起こすってことが多いと思うんですよ。
地域おこし協力隊にしてもほぼ誰も知らない状態で来るんで、
人との関係性を結ぶってなかなか容易じゃないみたいな。
私の場合はもう東京で6年会社員して、
それで修行行ったり修繕の研修場に行ったりしてて、
それから戻ってきたんですけど、
最初に同級生に何かやらないかって声かけたんですよ。
帰ってきてるんですか。
帰ってきてすぐに、もう半年ぐらいして。
当時は平成の大合併でこの大旗町も六市になってましたし、
自分たちの地域のことを自分たちで決めて、
自分たちでことを起こしていこうっていう、
マインドがだいぶ低下してた時期だったんです。
何かやりたい人って地域の中にいないわけじゃないんですよ。
でもそれを形にしたりとか、リーダーシップ取って、
いろんな人と利害調整したりして、
進めていくっていうような人がたまたま不在になったんですよ。
前はいたんですけど、私の先輩で。
ずっと停滞期みたいなのがあって、
そこに地域の事情もよくわかんないで、
18年ぶりに帰ってきて、
何かやりたいんですって自分が言ったものが、
何かこいつだったら一緒に何かいろいろやってくれるんじゃないかっていう、
期待感があったと思うんですよね。
それでそこからは、
同級生の上司とか、同級生の後輩だとか、
同じ大旗中の卒業生というだけの関係性しかないですけど、
何かやらないかって、どんどん自分も声かけたし、
声かけた相手がまた別の人を紹介してくれたりして、
見る目一に10人ぐらいのグループになって、
それでヤゲ温泉というところの、
開刀400年目が来るという情報を入手して、
そこももともと薬師堂というのがあって、
薬師綱がいるんですけど、
温泉には大体薬師様が祀ってあって、
病気直しのご利益を求めて、
みんなお参りに行くことが多かったんですね。
そっちの別棟も務めてたんで、
これはやっぱりお寺とも関わりがあるし、
地域交互支のいいタイミングだなと思って、
それに向けて、
カフェを作って、
みなから祭というお祭りを立ち上げて、
仲間たちと。
2015年まで活動したら、
約1万人弱のみなから祭の来場者があって、
24:02
すごいですね。
ちょうどその頃、
ヤゲのカフェに和尚さんが来てくれたので、
すごいお坊さんがいるということで。
という感じだったんですかね。
そうです。
それもこれもやっぱり、
ここを降りてみましょう。
これが本堂方面。
自分一人で成し遂げたわけでは全くなくて、
本当に中学校の同級生とか、
その同級生がすごく親しくしてたアーティストが、
絵描きがいて、
マジオさん。
彼もヤゲ温泉とか大鳩に対して、
すごく愛着を持って、
一緒に何かやろうという意気投合したところから、
スタートしたんです。
カフェもその段階で立ち上げて、
わずか半年ぐらいで作りましたし、
初速は早かったのかなと思いますけど。
そこでやっぱり当時は、
人口減少の問題だとか、
少子高齢化だとかって、
よく地域共通の課題があるわけじゃないですか。
そのために何かして、
とにかく街を元気づけなきゃいけないなっていう、
そういう気持ちで突っ走ってたんです。
ただそれがだんだんとヤゲ温泉が廃業、
旅館がホテル。
旅館が廃業してホテルが閉館して、
でコロナ禍突入して、
やっぱりそこで活動の意義というか目的みたいなものを見失ったというのが、
ちょっと正直ありましたね。
その名残で今テレビに、
たまに情報発信の役割みたいなので出てる。
今までの現状だったんですけどね。
だんだん地域起こしをするために、
実は帰ってきたみたいなところが自分の中ではあって、
そのために住職に行ったら怒られますけど、
そのために僧侶にまた改めて成り直して。
そういう経緯があるんですか。
それでこっちに誘退して戻ってきたという経緯が実はあるんですけど。
ちなみにここも神取りの神があったとかですね。
本当ですね。丸山稲荷。
ここにお寺をゲゴする、
丸山稲荷大明神がこうやって祀ってあって。
でこの実は木の、
これ火場ですけど、
ここにこうえぐれてるところがあるじゃないですか。
これこの山のいろいろ案内してくれた先人というか先達に教えてもらったんですけど、
27:00
まだもう少し成長が進んでないときに、
どうも何かで傷つけたらしいんですよ。神取りを。
神を作るために。
ナイフか何かで傷つけたところが、
そこがだんだん成長するに従ってこういうふうに大きくなっていって、
これはその火場に悪戯した形跡なんだという話をされてました。
だからこういうことをすればダメなんだよって教えてくれましたけど。
当時の傷よりも大きくなってるってことなんですね。
だんだん傷が、傷自体も大きくなってくる。
っていう名残があるんですよね。
本当にナイフの跡ですね。
ちょっと削ってる跡がありますもんね。
ここに神を作って、いろんなとこからまた攻撃してくるっていう。
そんな感じだったんですけど。
山自体は本当に杉を、それこそ何代か前の住職だとか。
だいたい今成長して杉が50年ぐらいになってるんで、戦後ぐらいですよね。
で、先代の住職のあたりでやっぱり植栽して。
少しでもその…
すみませんがそれはできません。
あ、尻が反応しちゃった。
何か他にお手伝いできることはありませんか?
尻が反応しちゃった。
たまにあるんですよ。
そのお寺がもし経済的に立ち行かなくなったときに、
その木を切って、それで足しにできないかっていうふうに思って植えたんでしょうけど。
ただ私花粉症なので杉かも。
ちょっと杉じゃないの植えてほしかったなと思いますけど。
できればヒバ植えてくれればまだ反応しないです。
ヒバやっぱりとはいっても成長して木材になるまで2、300年かかる。
ああ、そんな変わるんですね。
だから多分これなんかだとちょっとあんまりいい成長の仕方してないですけど。
おそらく越えても100年弱ぐらいだと思います。
杉なんかは40年50年経つとあれぐらいの大きさの高さになるじゃないですか。
一箸の木材になるんですけど。
ヒバはあんまり残ってないんですよね、残念ながら。
それでもあそこにあるのもヒバですけど。
あれは多分木材としてはいい価値が出るんでしょうね。
そうですね。
曲がったりよじれたりしてないので、まっすぐなんで。
ああいうものは柱としても使いやすいでしょうし。
こういうのを見るとなんかこう、
ここまで自分たちがやったんだから後は寺のこと頼むぞって
託されてるような感じがするんですよね。
ちょっと森を歩いてリフレッシュもできますけど、
なんかここに来ると自分の両肩にそういう責任が
かぶさっているような感じがして、ちょっとこう
30:01
息苦しくなるっていうんですけどね。
なんか責任の重さを感じてしまうところがあるんですけど。
もう伐採木に入ってるんですよね、杉なんか。
そうでしょうね。
今切っても多分山に関係している人は教えてくださると思うんですけど、
陣形費の方がより高くかかっちゃうっていう。
今これを山をどうやって保全して利活用していけばいいのかっていうのは
ちょっと悩みの種ではあるんですよね。
そうですね、確かに。
良かれと思って植えてくれたものがちょっと
場合によっては負の遺産になりかねないなっていうところがすごくこう、
そんなこと予想もしてなかったでしょうね、植えた人たちは。
すごくよく考えますね。
なんかいろんなことがみんな優しい気持ちで後の人のことを考えて残していくけど、
それが果たしてっていうところが結構ありますよね、いろんな場面で。
良かれと思ってしたことがかえって、お墓なんかもそうですよね。
確かに確かに。
後世に残り一族老党入れるような大きなお墓を建てて。
立派な石で作って。
そうなんですよ。
それが守れないからどうしようかって相談日々受けてるわけなんですよ。
そうですね。
こんなに石材使わなければ解体撤去もお金かからずし、
住むだろうにって思ってる人はいると思うんですよ。
本当そうですよね。
それでやっぱり永続モデルっていうか、持続するっていうのを前提に今までの家のお墓って設計されてるわけじゃないですか。
こういう山なんかもそうですよね。
でもここまでの急速な人口減少、少子高齢化が進むっていうような予測をしてなかったでしょうかね。
時代に合わなくなってきてるんだと思うんですよね。
ここも本当は寺の山として自分たちで伐採したりして活用して保全できてればよかったんですけど、
やっぱり当時の総大さんの判断で、これは寺として管理しきれないから、
県に保健法案人に指定してもらえれば公園地にして市に管理を委託すれば費用はそっちの方でもってもらえる。
ただ自分たちの山なんだけど勝手に切れないわけですよね。
もう許可が必要ですし、その木って売却益がどこに帰属するかっていうことも必ずしもお寺にばっかり入るわけではないので、
当然かかった経費は生産しなきゃいけないですし。
だからちょっと今塩漬けの状態になってる感じがありますよね。
難しいですね。
だから自分ができることとして、お寺においでになった方をたまにこうやって案内して歩くんですけど、
33:03
そうすることでやっぱり気持ちも清々しくなるんですよね。
森林療法についてちょっと過去に専門の先生を呼んでみんなと勉強したことがあります。
東京農大の上原岩尾先生っていう方にヤゲンの森にも来てもらって。
そうですか。
こういう里山を歩くだけでもいろんな木が発する成分、フィトンチットというものを肺で吸い込んで、
それで心身が軽快すると。
ストレスも軽くなるっていうのをいろいろ実証データなんかも見せてもらって。
特に森を、本当にこのポッドキャストの趣旨にかなうことだと思うんですけど、森をこうやって一緒に並んで歩くことによって、
普段なかなか話さないようなことが話題に出てくると。
セラピーの一種として、うつ病になりかけているような人を森に連れて行って一緒に歩くことで、
いろんな話がなされて、時間を共有して、
いわゆる傾聴にもなるということを教えてもらったときに、
森っていうのはこういう効果がある場所なんだなっていうのを教えてもらったんですよね。
ドイツのことわざか何かで、本当の友達は森を一緒に歩けることだ、みたいなことをドイツのことわざであるというのを紹介して。
森を歩くことでお互いに信頼関係も養われるし、森をこうやって二人で歩くって、
ある程度の信頼関係の基盤がないと、なかなか見ず知らずの人といきなり森のちょっと怖い。
森ってやっぱりイフの場ではあるんですよね。
こういう全然知らない森に分け入っていくというのは本当に人間も本能的に恐れの恐怖心を感じますし、
そういう時に一緒にそこにいざなって横で歩いてくれる人っていうのはやっぱり信頼関係がないと、
成り立たないと、というようなことも教えてもらいました。
確かにそういうとこありますね。
本当に電話とかでたまに悩み相談かかってきたりしますけど、
やっぱりこうやって一緒に森を歩きながらお話しした方が心の内が少しお互いに聞き合えるような気がするんですけど、
なかなかね、毎回森連れてきて話すのはちょっと、それはそれで難しいことなんですけど。
でも環境によってすごく支えられるというか、そういうところって森の持つ力だなと思いますけど。
たぶんその陣取り作って陣取り遊びをしていたような子どもたちも山の中で駆け回って上層を豊かにして、
36:02
いろんなナイフの使い方とか紐の結び方なんかも教わりながら、
そうやって子どもたち同士のラポールっていうんですかね。
ラポール?
この信頼関係というか、お互いの信愛の情報みたいなものをすごく培えたんじゃないかなと思います。
やっぱりこの地域の人たち、特に50代以上の人たちにしてみると、
ダイアン・ジアーマで陣を一緒に作った仲間とか、一緒に花見をした地域の仲間たちみたいなところで、
すごく地域の渋滞を生み出していったような、そういう場所だったんじゃないのかなって思うんですよ。
そうですよね。
あとはもう秋になれば八幡宮の祭りがあって、みんなで山の運行とか神楽を練り歩いたりだとか、
春はこのダイアン・ジアーマの花祭り、秋は八幡宮の霊体祭で、
みんなで山を引っ張って、ダシを引っ張って、地域の連帯をより深めてたっていう。
その花祭りがだいぶ廃れてしまってたんで、やっぱりまずこっちに帰ってきてやらなきゃと思ったのは、
この花祭りを少しでももっと賑やかにできないものかなと思って。
震災の直後だったんで、募金をみんなで集めようというので出展してもらって、出展料をいただいたり、
募金箱を置いて、震災の復興支援のためにお金を募ったりだとか。
あと山田町はこの岡井さんの居会の地でもあるんで、
あそこから震災の3ヶ月後に山田町に行って、一等委員大和尚のお堂もお参りしましたし、
居会のある場所にある保育園とか幼稚園にお寺つながりで訪ねて、
それでそこで産出されるような海産物とか取り寄せてこっちで販売をして、
そういうので少しでもお役に立てないかなと思って。
それで花祭りを少しずつ大きくしてきたというような自分の取り組みがありました。
お寺のためであって地域のためみたいなところなんですね、花祭りが。
そうですね。
地域のほうが大きいですかね。
地域にとってのお寺の役割を再確認してもらう。
自分自身もそうですし、地域の人にとってもここは昔遊び場でもあったし、
みんなで絆を深めるような場所でもあったというところをもう一回再認識してもらえたら。
それが結果的にお寺のいろんな面でサポートしてもらえたり、
いわゆる断神道って言うじゃないですか。
断とはいわゆる断歌になるでしょうけど、
39:01
神道も数多くかつては持っていたはずなんですよね。
薬師様とか伊達様とか、断歌じゃないんだけど、
お寺にこの信仰心を持っている人たちというのに支えてきたと思うので、
そこがやっぱりだいぶ希薄になっているなというふうに思ったんですよね。
だからまずはお寺に来ていただいて、そこで語り合って、
お互いの心の内を話し合ったり聞き合ったりしながら、
また頑張って生きていこうというふうに思ってもらえるような場所としての
このお寺の最高みたいなものが自分のテーマでしたね、これまでは。
正直住職、帰ってきて断夢やってましたけど、
断夢だけで手一杯だったと思います。
断歌数も1000件以上ありますので、
葬儀だけ、法事だけでもとても大変ですけど、
そんな時に自分が地域起こしをしようと思ってこっちに帰ってきて、
意欲だいぶ減退してますけど、
それともこっちでちょっと何か成し遂げようと思ってこっちに帰ってきて、
それでやってきたところがありますよね、自分の中では。
ただ御所河原もそうだと思うんですけど、
人口の減少がちょっととてもじゃないけども、
軟着力させようと思ったり、人口減少率を下げようと思ったとしても、
ちょっとこれはかなり厳しい問題だなという現実を最近ひしひしと感じてきてたんですよね。
そんな時に人口減少問題をどうしようかとか、
観光振興で地元の温泉街を再興しようとか、
一時産業をよく地域起こしで言われる六次産業化してどうこうしようとか、
最近は関係人口って言われてるじゃないですか。
定住人口が減っていく以上、関係人口に頼らざるを得ない。
そういういろんな活動は今でも県とかと一緒になってやったりしてますけど、
ちょっとそれじゃない、自分のここでの生きる目的というか、
自分の関心事というのが、やっぱりお寺として悲惨に苦しむ、
悲惨を抱えている人のために何かできないかとか、
あとは特にモノセーフティーネット、
弔いのセーフティーネットっていうのを自分の中で、
ちょっと数年前から勝手に自分のテーマにしていて。
弔いのセーフティーネット。
要は生活保護を受けていたり、身寄りが本当になっていて、
六次市役所の方からちょくちょく相談があるんですよね。
もう引き取り手がないんで一骨をどうにか埋葬してあげたいんだけど、
もうご家族から拒否されて、六次市役所としても生き残りの人ではないので、
42:05
ずっと保管しておくわけにはいかないと。
どっかにやっぱり収めなきゃいけないというので、
去年も数件そういった相談がありましたし。
家葬だけしかできないとか、経済的な問題もそうですし、
ただしご家族って関係性がいい方ばかりじゃないじゃないですか。
やっぱり親のことを憎まざるを得なかったお子さんもおられるし、
結婚はして、離婚はしていなくても旦那さんからいろんなことをされたりして、
やっぱり素直に弔おうという気持ちになれないとか。
死後離婚とかっていう言葉もあるじゃないですか。
そうなっていった時に、誰が弔いという人生のことを
弔いという人生の最終局面を
誰が関与して、誰がサポートできるかといった時に、
やっぱりそこで僧侶とか宗教者としての自分の役割みたいなものが
やっぱりこれは本当に大きいなっていうのを思うようになったんですよね。
永大供養母を作ったというのは7年前に作りましたけど、
かなりいろんな方々を引き受けてますし、
本当に誰もお一人しかおられない中で僧侶に勤めることもちょくちょくあるんですし、
そういったところで、少し自分のやってきた活動の局面が変わってきたかなと。
それとどうにか地域おこしとか地域づくりみたいなものと
関わりを持たせながら活動ができないものかって思った時に、
去年ですけどね、臨床宗教師の教養講座。
先輩たちが結構何人も入って、認定臨床宗教師になっておられるので、
関心はあったんですけど、なかなか一歩踏み出せてなくて。
そんな時にやっぱりお寺って待ち受けるような立場じゃないですか。
お亡くなりになって枕づとめに来てくださいって僧仁者の方か遺族から言われて、
そこで私も枕づとめの時だけでもっていうことで、
長い時は1時間ぐらいずっと亡くなった方のご遺族から、
その方の生きていた頃のお話とかってなるべくよく聞くようにしてるんですよ。
職業とか聞いたりしますよね。
あとは急に亡くなったのか、長煩いして亡くなったのか、
あとご家族の後世はどうなのか。
ちょっと立ち入ったようなことを聞くんですよ。
うちの母がそこまで詳しく聞かなくていいって思ってると思うんですよ。
長いんで、全然帰ってこないと。
他にも電話来て、団家さん待ってるのにいつまで経っても帰ってこないって言われたことありますけど。
45:03
そこまで聞かないと自分はツヤ創技できないなって思ってるんですよ。
それまで長く付き合ったりしてれば人となりが分かったり、どんな仕事してて、
だからそれに従ってこういう会話にしようとか、そういうことってわかりますけど。
でもなかなかそういった背景を知らないで、ましてやツヤ説教なんてできないと思うんですよね。
それでなるべくお時間いただいてお話聞くんですけど、
それでもやっぱり踏み込めない領域が病床の現場であったり、
老人福祉施設に入ってて入所してたときの、
特に3年間コロナ禍で家族ですら面会できない。
すごい這いがゆさを感じたんですよね。
それでそこに入っていくためにはやっぱり公的にある程度の信頼感がなければなかなか受け入れも難しい。
ましてやこの中だとボランティアしたいって言って入っていくっていうのはなかなかハードルが高いだろうなって。
たまたま今年も講座があるっていうのをネットで情報入手して、で願書出して去年実行したんです。
松尾さんは教養講座ってどういったきっかけで実行されたんですか。
僕はもともと海外のお寺に長かったりとか。
海外海峡で。
そうなんですよね、いたんですよね。
あの頃って僕全然若かったし、とにかく生きてた感じがあって。
そうなんですか。
ちょっと想像つかないですけど。
全然何もわかんないのは仕事として向こうに行くと病院とか行くんですよ。
それはもう完全に仕事だと思ってて。
あと毎週何曜日の昼にはここの高齢者施設に行って一緒にご飯食べる。
そしてそこで説教するみたいなやつだから。
そうなんですね。
全然だから普通に仕事だったんですよね。
それもチャプレンとして。
そうチャプレンなんですよ。
だから車で行けばチャプレン用のパーキングスペースが一番手前。
入り口のところにあったとこも。
そこに横付けして入っていくんですけど。
自分がそういう立場だっていうのを全然意識せずにそれが当たり前のことでやってったっていうところがあって。
でもやっぱりそれの繰り返しの中での遭遇とかになると全然違ったんですよね。
48:00
さっき長尾さんがおっしゃってたようなことで。
何にも知らない人のお葬式っていう感じではなくて。
それなりに時間を過ごしてきた人のお葬式とかにあるのがすごく自分の中で降り落ちたというか。
それで帰ってきて。
だからずいぶん経ってからですけどね。
日本帰ってきてびっくりされたんじゃないですか。
全然そういう場がないっていう。
そうそう。
だから行き通りみたいなのは感じてなかったんですけど。
結局そういうのにも慣れ、別に何も考えなくなり。
ところが東日本大震災っていうのがあって。
で、岡部武先生っていう方がいて。
その方が提唱した臨床宗教誌っていうものがだんだんじわっと始まってくるっていうか。
それを見てて、これ僕海外でやってたのこれだなみたいな感じで思ったんですよね。
それが結構大きいですかね。
もし向こうでやってたことがこっちで日本でできるんだったら、それはやってみたいというかっていうのがきっかけで。
それだけ一般的なですね、宗教者がいろんな公共的な場所に入って教会したり。
当たり前ですね。電話かかってきますよ、行かないとだから。
ああ、そうなんだ。
こっちで言うと、ダンカっていうか向こうではメンバーって言いますけど、
メンバーの人が誰さんが入院してるから行ったかみたいな感じで電話がかかってくるんですよね。
だから完全に仕事だったんですよね。
それが当たり前だったんですね。
それはちょっとびっくりですね。
そうなんですよね、そういうのがありましたよね。
自分も総統首総合研究センターで3年、ヘルシー生活してたときに、
カリキュラムで東京の立川とか福生にある、
徳洋を毎月訪ねていくって実習があったんです。
そうなんですね。
ともしび法話会っていうのがあって。
そこでお話をするんですか。
最初に施設で亡くなった方のご供養の法要をするんです。
普通に子供の人に大袈裟をかけて。
その後で法話を10分間して、
その後で歌を歌ったり、いろんな手遊びをしたりして、
レクリエーションがあって、それで帰ってくる。
あと4カ所くらい行ってて、そのうちの1つは、
活動っていうのは月1回必ず行ってたんですよ。
そこに普通に普段着て行って、車椅子をしてあげたりとか。
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完全にボランティアですね。
それで正式、体拭く布をひたすら追いたたみながら、
横でおじいちゃんおばあちゃんたちが食事をしてて、
カラオケしてるのか、みたいな。
いいですね。
当たり前のようにやってたんで。
そこ終了して帰ってきて、
そういうところに行く機会とかきっかけがないんですよね。
そうですよね。
せっかくそういう研修受けてたんだけど、
行ってそういう現場に行かなきゃいきたいっていう気持ちがずっとあったんですよ。
ただどっちかっていうと地域起こしを先にわっと始めたので、
後回しになってたんですよね。
かといってたぶんその時に行こうと思ってたら、
いろいろな壁があったと思うんですよね。
時がありますよね。
まだ大丈夫ですか?
大丈夫です。
ここがこのお寺の初期の頃に、
この町でかなり繁栄してた豪生が。
そうなんですね。
こっちの並んでるところですね。
さっきひばがちょっとあちこち生えてましたけど、
ここはヒダヤっていう江戸の初期にここで活動してた商人の一族の墓なんですよ。
そのヒダヤはゲロ温泉がもともとルーツになってて、
こっちの方に支店を構えて、
土地、北海道との間で航路を自分たちで船で作って、
こっちで、これがちょくちょく邪魔してくるんですけど。
ここもひばの産地でしたんで、南部半が管理してた。
そこに自分たちで入っていって伐採して、川自体にひばを港の方まで運んできて、
そこから北前船に乗せて、バラストのありに重しにして、
それを上方とか江戸に持っていって売り捌いてた。
そこに来るために北前船は、
尺谷石っていう、後で戻ると上に緑っぽい石があるんですけど、
それをバラスト代わりに積んでたらしいんです。
これは福井県の阿蘇和山っていう山しか産出されない緑色業界岸なんですけど、
火山灰が固まって岩石になって、水をかけると緑色に発色する。
綺麗なんですけど。
それを下ろしてひばを代わりに積んで、消費地に送り出して、
その一族の墓があるんです。
もともと水産業で栄えた場所ではあるんですけど、
江戸時代ぐらいまで遡ると、ひばでここは支えられてきた町だっていうのが、
こういうお墓を見るとよく分かるんですよね。
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林業って松ヶ谷もそうですけど、車用産業になってるじゃないですか。
ひばも枯渇してきてるんですよ。
こういうものを、少なからず産出されてるものをどうやって加工して、
これをお金に変えていくかっていうのが、
この前八幡郡の息子と、おとといか、福井松一さんとも仲がいいので、
ゆかりが深いんですけど、一緒にお話ししたときに、
そうだよなって話をしたんですけど、
やっぱりここもいろんな外来の産業に支えられて、現状いるんですよ。
農家署に通ってる人とか、大間の建設現場にいる人とか。
そうじゃない、ここの町で産出されている資源を、
ここで栽培するなり収穫するなりして、
ろくじ化して、ここで成り割として稼げるような、
そんな場所として残していかないと、この町は持続しないっていう話を、
さっきおとといしたばっかりだったんですよ。
こういうお墓見たりすると、その名残があるわけじゃないですか。
風が強くなってきました。
ほんとそうっすね。
自分が帰って、ここに来ている理由みたいなものは、今でも模索してはいますけど、
自分の今までの活動を振り返れば、
今までは特に地域おこしに関わる人材として、
生活してきたように思うんですけど、
やっぱりそろそろ局面を変えていかなきゃいけない。
そこからどうやって生きている人たちに接点を作っていくかっていったときに、
やっぱり今まで踏み込めていなかった領域が病院であり、
福祉施設であり、あとは公共的な場所。
そこにどうやったら、信頼感ある程度を担保しながら、
自分が生きていくことができるか、
ちょっと考え始めたんですよね、一昨年ぐらい。
それで、印象宗教師の教養講座に、
家を決して、室外して、今学んでいる、
今年から実践講座が始まります。
そこから、もっと生きている人とより深く関わって、
その上で、
自分が生きている人たちに、
そこから、もっと生きている人とより深く関わって、
その上で、必ずしもお団子さんじゃないですけれども、
その上で、葬儀を執行していきたいなと思うし、
なかなか、遺族って、亡くなった家族のことを知っているようで、
知らない部分ってあるじゃないですか。
ありますね。
喋らない部分もあるでしょうね。
家族だから言わないことってあるでしょうし、
そういうときに、自分がそんなお話をお聞きして、
遺族にどう伝えるかって問題はあるんですけど、
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何か家族に言い残したい思いだとか、
メッセージみたいなものを、
家族に工夫をしながら、
代わりにお伝えできないものかなというのが、
今の私のテーマですよね。
多分ね、永岡さんの町おこし的なやつと、
それから弔いの話が交わるところに
コンパッションシティっていうのがありそうだなって感じしたんですよね。
そうだと思いますね。
あのコンパッション都市を書籍読んでたときに。
もうちょっと歩きますか。
そうです。
本当に、こういう思考性で、
町づくりとか地域づくりをしなきゃと思ったんですよね。
まだまだ難しい部分が、難解な部分はありましたけど、
やっぱりその人口減少が、歯止めが効かない。
この地を後にする人が多くいて、
経済規模もどんどん縮小して、
言ってみれば自分の役割としては、
自分が今までお世話になってきた人たちを見とるのが、
弔って差し上げるのが自分の残された役割じゃないかって思ってるんですよ。
っていうのはやっぱりお葬式してる方々の多くが、
本当にお寺の役員さんだったりとか、
小さい頃面子がってくれたおじさんだったりだとか、
そういう人がすごくだんだん増えてきてるんですよね。
自分がこの町に関わる関与度が高くなることによって、
だんだん涙ぐんで葬儀してることがだんだん増えてきたんですよ。
なんかそれ分かります?なんか世代的なこともそうですよね。
今までは帰ってきたばっかりの80代、90代って、
そんなに直接関わりが見えにくかった人が多かったんですよね。
知り合いのおじさんとか知り合いのお父さんとか。
だけどもやっぱり、最近葬儀をしてる方っていうのは直接面式があって、
いろんな面で地域を越しでもお世話になったりしてる人が何人もなくなってですね。
そうか、自分が帰ってきたのって、
今まで自分がこうやって寄って立ってきたお寺であり地域に貢献してきた人たちを、
恩返しとして見取って差し上げるとか、弔って差し上げるのが、
自分の本当に課せられた役割じゃないかと思えたんですよ、ここ2,3年に。
その時に未知の領域だったところが、やっぱり病院、また特養であったりとか、
そういった本当に亡くなる間際の方がおられるような場所に入っていくための、
まずパスポートじゃないですけど、そういったものが欲しかったんだと思うんですよ。
1:00:00
だからそのコンパッション都市にもいろいろ、
コンパッションとは慈悲であるとか思いやりであるとかって書いてあったし、
ジョアン・ハリファクスさんのコンパッションという本の中にも、
仏教にもともと関わりのある言葉でもあるんだよと、
って言って解説書いてあったんですけども、
ちょっとこう最近ドキッとする言葉があって、
ある私も敬愛している不教師の先輩の老子が、
慈悲行とか慈悲というのは私はできないですよっておっしゃった老子がいられて、
なぜなら私は菩薩になりきれていませんからっておっしゃったんですよ。
慈悲というのは菩薩だからこそ発現できるものであり、
菩薩だからこそできる実践だと。
だから経験にその慈悲行を行いましょうとか、
菩薩になりましょうというのは私はちょっとはっきり言えませんねというのを、
ある不教師のお仲間がそれを聞いてハッとしたというのを、
とある限り聞いたときに。
それ厳しいんですよということですね。
そうですね。
そんじゃそこらの甘い気持ちで、
慈悲とか敬敬に言ってくれるなと、
慈悲行を行いましょうとましてや人に伝えるべき、
自分たちには資格があるのか自覚があるのかということを問う言葉だと思うんですよね。
とはいえということですよね。
それを思考していかないと、
仏教者であり僧侶である以上は菩薩を目指して、
その菩薩が体現される慈悲の心を持って人と接していく、
人を強化して人を救済していくという、
その目標は下げちゃいけないだと。
ただその自覚をちゃんと自分に、
そういう資格を自分が持てているかというのは、
やっぱりこれは自分に問わなければいけないことだと思うんですよね。
コンパッションって聞くと、え?という感じで耳障りもいいですし、
やっぱり横文字なので、マインドフルンレスみたいな。
そうですよね。
あえてその言葉をこの前コラボでなぜ使ったかというと、
やっぱりフックだと思うんですね、自分の中に。
そこから仏教用語である慈悲に関心を寄せてもらうとか、
それこそ菩薩とは何かとか、利他って何かみたいなことを、
うまく関心を持ってもらうために、
フックとしてああいったものを活用できないものかなと。
というのが実は裏の目的があって。
やっぱり仏教用語っていろいろ使い古されたりしてしまうことがあるわけじゃないですか。
我々言っている方もルーティン化してしまう。
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そうですよね。
よく説法したりしてしまってるんですけど。
そうじゃなくて、もともとの由来とか語義とか、本来の意味みたいなものまで、
よくよく吟味してますかというのは、ちょっとこう、最近気をつけるようにしてるんですよ。
やっぱりそのキーワードがポンと入ってくると、思考停止することってあるじゃないですか。
それではいけないと。
そういったときにいろんな面で多角的に、キリスト教であったりイスラム教であったり、
比較宗教学的な立場から、また社会心理学とか宗教心理学みたいな専門家の人たちが、
同じものを扱ってるんだけども、いろんな角度からそういったものを取り扱って吟味して解読をしていく。
そのレールにはやっぱり乗らなきゃなって思うんですよね。
なので今ちょっとコンパッションっていうキーワードに関心を持って、いろんな書籍を読んだりしてるんですけれども。
で、最後のところにその観薬者の方が、お寺や教会でそういったアクションを起こしていってほしいっていう。
そういうことだと思うんですよね。
自分たちはそれだけ社会関係資本のハブにもなってるし、
コンパッションで、コンパッション都市で実現しなければいけないエンドオブライフケアであったりだとか、
見取りであったりだとか、人と人との繋がりを作るみたいなものの、まさにど真ん中に神社なりお寺が位置づけられている。
そのことにどれだけ我々が気づけているのかな。
見過ごしてしまっている人も結構いるんじゃないのかなと思うんですよね。
そこを自覚できたときに、町場の宗教者というのは覚醒するんじゃないかと。
そんな予感を持っているので。
まずは、この下北地域で青森県で臨床宗教師の講座を受講している人って本当にまだまだ少ないじゃないですか。
だから本当にそういう人たちのためにも、まずは自分が学んで、そういった臨床の現場で活動していくことが、
まずそういった人たちに何らかの気づきを与えられるんじゃないかと。
ちょっと大話ですけどね。
そんなふうなことをできたらいいなというふうに思っています。
アラン・ケレハという人ですけどね。
そうですね。
コンバッション都市の。
書いてあることは、仏教教団が今までやってきた製薬院だとか秘伝院だとか、
ああいった救済施設であったり、戦後の、それこそ教諭講座で習いましたけど、
戦後の仏教教団がやってきた社会福祉活動だったりとかっていうのは、
あそこに書かれているようなことと類似しているような活動がすごく多いんですよね。
そうですね。
それは他国の、アメリカですかね、アラン・ケレハ。
アメリカであいった形で、書物として表して、書いてあることは、
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そうだ、自分たちの先輩たちがやってきたことが実は、
それに近いような活動をしてきているんじゃないかということに気づかされて、
着地できたという感じです。
そうじゃなければ、外国でやっている社会福祉のレベルの高い、
一つの都市モデルなんだろうなというふうに思ってしまっていまして、
そうじゃなくて、自分たちの先人がやってきたことを、
より我々がそのことに気づいて掘り下げていくことが何より大事なんじゃないかということで、
最後ちょっと腑に落ちたんですけど。
そうですよね。
半径5メートルぐらいでやっていけって書いてあったと思うんですけど、
そんな距離感ですよね。
だから日常手をむしろ大事にしていかないといけない。
そうせざるを得ないし、しなきゃなと思っています。
だからまずは亡くなってからなるべく、時間の許す限り枕業は務めたいなと思っていますし、
途中でみんな時間が来ると時計見始めるんですけど、
そのプレッシャーに負けないで、せめて遺族には何かお伝えしなければいけないということを、
ちゃんと自分で持ちながら、それはしっかり務めたいなと思っています。
まだまだ臨床宗教師の立場にも立っていないので。
いやでも期待しています。ありがとうございます。
先輩なので。
先輩でもなんでもないですよ。
なんとか一緒にいろいろ活動していけたらいいですね。
そうですね。楽しみですね。
山本さん今日はありがとうございました。
時間がね。
話があちこちで。
全然編集してもらって。
また遊びに来ます。
ぜひぜひ。