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2024-11-03 47:32

#40 【直感と即行動】安定と充実を捨てて選んだ道/心から楽しい仕事 ゲスト:あげちゃん

海外へ行くため寿司職人の道に/鉄板焼きと強制帰国の危機/20代半ばでもはや上がった感じ/心から楽しい仕事を/とにかくジムにいた東京時代/レッツゴーなぎらの企画/やりたいことと移住

安慶名健吾

@KENGO_AGENA

エグゼクティブコーチ |経営者クライアント数累計56人 | 累計セッション1561時間 | Gallup認定ストレングスコーチ https://linktr.ee/kengo0428

サマリー

このエピソードでは、ゲストのあげちゃんが自らのキャリアの旅を振り返り、特に沖縄から大阪、そしてシンガポールへの料理人としての挑戦について語ります。直感を大切にし、楽しさを追求するために選んだ道に焦点を当てています。また、あげちゃんが料理人からパーソナルトレーナーへの転身を果たす過程や、自己分析を通じて楽しい仕事を見つける重要性についても触れています。さらに、ライズアップでの厳しい研修や、店舗での努力と成果についても詳しく述べられています。 このエピソードでは、サブスクリプション型パーソナルジムで成功を収めたゲストが、安定した職を辞めて本当に楽しい仕事に挑戦する過程を語ります。直感や好奇心に導かれ、名古屋に移住して伝統工芸を学ぶ決意に至るまでの物語が展開されます。 このエピソードでは、直感を信じて生きることの重要性や、自分の内なる欲求に従った行動について説明されます。また、アートや陶芸に対する情熱が人生の選択にどのように影響を与えるかも紹介されています。

あげちゃんの自己紹介
今日はゲストに、あげちゃんに来てもらいました。よろしくお願いしまーす。
あげちゃん おはようございます。
今日は、あのですね、ばーそんにちなんでですね、
アレン・アイ・バーソンが所属してたシックサーズの。 ばーそん あーそういうことか。
聞いてる人には全然見えへんけど、今シックサーズのユニフォーム。 あげちゃん そうですね。我々チームのね、ユニフォーム、我々
32歳世代はアレン・アイ・バーソンがね。 ど世代だと思うのでね。
ばーそん これ、ほんま、なんか伝わる人が少ない気がする。最近言ってて。 あげちゃん 嘘?でも、ばーそんって言われたら、え?ってならんの?
ばーそん え?ってなる人は、大体バスケやってる人で、他の人ほぼならんくて。 あげちゃん あ、なんで?って言われる。
ばーそん あ、なんでバーソンなん?みたいな感じになるんだ。 あげちゃん そうそう。で、説明したら、あ、そこが残ったのね。アイとかどっか行っちゃったのね、みたいな。
ばーそん 確かにね。で、終わっちゃうと。 あげちゃん そうそうそう。
いや、まさかその名前にちなんでユニフォーム来てくれるとは。 ばーそん そう、さっき取り出してきたわ。そういうのあったのって。
あげちゃん いや、ありがとうございます。 ばーそん ありがとうございます。
けっこう自分の中では、このシリーズ化しているJCCの同期やJCCの先輩に話を聞くっていうシリーズで、
ついにこうメンター側だったあげちゃんにも出てもらうということになりまして、今日はありがとうございます。
あげちゃん お願いします。 ばーそん お願いします。
料理人としてのキャリア開始
で、あの早速なんですが、簡単にあげちゃんの自己紹介をお願いします。 あげちゃん 私はですね、あげなけんごと申します。
沖縄県出身で、今ですね、株式会社ゴールビーという会社ですね。 コーチ、兼講師ですね、JCCの講師やメンターを務めていて、
エグゼクティブコーチングといって、経営者を中心にパーソナルコーチングを提供していて、来週からは組織コーチングにも参戦していきます。
はい、なのでコーチング大好きで、入社してからずっとコーチングやってます。
よっ、ありがとうございます。
いや、コーチングをバリバリやってきたあげちゃんの、この前半はキャリアについて見ていきたいなと思ってまして、
いや、なんかちらほら、ゴールビーの動画見てたりすると、あげちゃんが出てくるシーンあったと思ってて、
ただそのゴールビー入る前だったりとか、そもそもこうどういう、これがやりたいみたいなのがあって社会人になったのか、みたいなところから聞いていきたくて、
最初初めの時、社会人出ました、社会に出るっていう時ってどんなふうに始まったの?
ありがとうございます。ここがですね、まあ振り返ると、
なんか本当に本能的に直感的にその場でいいと思ったことをずっとやってきたなぁと思って、
初めは高校卒業した後からになるんですけど、高校卒業した後はですね、初め料理人になるためにですね、沖縄県から大阪に行って料理、寿司屋で修行しました。
あ、もう学校とかじゃなくていきなり修行に入ったんや。
あ、学校に行って、はい、そこ行って寿司屋行ってましたと。その時考えてたのが、
料理やるって決めたけど、とにかく海外に行きたいって思ってたんで。
あ、そうなんや。 とにかく海外に行きたいって思ってたんで、先生に聞いたんですね。
海外に行きたいんですけど何したらいいですかと。 絶対日本料理がええぞーって。
あ、そうなんですねってなって、じゃあ寿司屋やろって思って、寿司屋で働くことをそこで決めて、19歳の時かな。
で、20歳の時から寿司屋で修行してました。だから寿司屋として一番最初のキャリアは始まってます。
えーそうなんや。その海外に行きたかったっていうのは、それは何かあったの?きっかけというか。
これはね、男だったら挑戦したい、イコール海外ってことです。
シンガポールでの挑戦
なるほど、でかい挑戦。 そうそうそう、縁のゆかりもないし。
どこでもよかったけど、とりあえず海外に行くんだ俺やって感じでしたね。 あーそういうことか。
で、海外、え、そのごめん、その手前で料理人になるっていうのは、その海外と関係なく料理人はさっきあったの?
さっきあった、なんか何やろう、高校卒業して何やろうかなーと思った時に、料理かっこいいなーってなって。
あーそういうことか。 そう、まあ父がフレンチのシェフをずっとやってたっていうのは実はあったりとかするんで、そういうのもチラホラありつつ。
料理かっこいいし、第一、なんかね、今でも思えば大阪ってか沖縄に住んでて田舎がすごい嫌だったんで、
とりあえず県外に出ないっていうのも少しあったかなというのもね。
で、大阪に行って専門学校通ってっていう流れですね。 なるほど、そこで寿司屋さんで、お寿司屋さんで修行が始まる。
そう、とにかく働いてましたよね、その時は。
なんか今ってさ、寿司を3年間とか何年間の修行期間とかも、なんかホリエモンがそんななくてもできるやろうみたいに言ってたり。
はいはい。 でも時代的にそういうのなく、本当にもう修行で、なんか握りの前に本当下働きみたいな、そういう時代のような。
これはでも、やっぱ店舗によって全然違うけど、俺の時は早くとにかく海外に行きたいし、
現場に立ちたかったっていうのがあったんで、とにかく、いわゆる板前ですよね。板前に立たせてくれるところを選んだ。
あーそういうところもあったやん。 そう、だからとりあえず人がいなくて忙しくて、とりあえず立つ経験が大事だなと思ってたんで。
だから入社してすぐ板前として立たせるところを選んで、もう1年目から普通に艦隊に立って、接客もしてたし、お寿司も作ってたね。
いやーそうなんや。 うん、そうそうそうそう。
実際そのお寿司屋さんで働いて、寿司職人として働いてみて、そこはどうやったの?
いや、めっちゃでも、なんなのかな、でもその時はね、楽しかったよね。
だし、まあでもしんどかったっていうのが大きかった。その時やっぱ有名というか海外に行くぞみたいな感じで、あんまりあれだ、なんか気になってなかったけど、
普通に朝8時ぐらいに出勤して、夜11時ぐらいまで働いてたし。 うわーすごいな。
で、それをなんかさ、それぐらいだったら普通にみんなそれぐらいで働いてると思うんだけど、なんか年に、なんか週に1回の休みなんだよね。
週に1回の休み。 週1。 週1しかないと。で、たまにないと。たまに週1の休みがないと。
で、たまに給料遅れるみたいな。そう。で、店長とマスターがあの喧嘩してるみたいな。給料二払いみたいな。
そうそうそういう店だったんだけど、とにかく早く立てるっていうのがあって。 なるほどなるほど。
そう、で、それで年に2回しか2連休がない店で。 おーなるほど。
そう、だけどとにかく早く立てて、早く仕事が覚えられるっていう一点で、そこに絞って仕事してたね、とにかく。
確かにそうか。休みがない分、その分働いてるから。 そうそうそう。
そうそう、とにかく詰めてたね、前に前に。 すごいね。
そこは、なんかお客さんの層的にはどういう人たちが来るようなとこやったの?
えっとね、梅田だったんで、えっとね、なんて呼べるのかな、逆単価で言うと6,000円とか8,000円ぐらいのところだから、
高級店ではないけど、しっかりお寿司を食べるところであったね。
なるほどな。サラリーマンとかが来るみたいな。 そうそうそう、来れるし、お客さんがいる時は使えるし、みたいなお店だったね。
なるほど。そこで修行して、修行はどれぐらいあったの? 修行はえっとね、
結局修行というか、働いて、そこに働いてたのは20から23かな、22の年か3になる年まで働いてて、2年半、3年ぐらい働いてて、そっから念願叶ってですね、
先輩自体で海外に行けることになって。 すごい。 そうそうそう、だからシンガポールだったんだけど、
シンガポールに新店舗をオープンさせるから、スタッフというか、働く人を探してるよっていうのを聞いて、よっしゃと、2つ返事で、LINEで来てたんだけど。
話聞く?みたいな。話聞きますか?みたいな。行きますって答えて。行って、その時、シンガポールって書いてあったんだけど、
分かんなかったね、シンガポールがどこにあるのか、どんな国なのか、まず何語で喋るのかっていうの全然分からなかったんだけど、とにかく海外に行けるぞみたいな感じで、
2つ返事で行くって言って、シンガポールに行くことになった。 すごいな。早くも23ぐらいで念願叶ってシンガポールに行くんや。
そう、新卒の年だよね、22歳の年か、22になって3になる年だね。
すごいな。 行くことになりました。よかったね。やっぱ良かったね、シンガポール本当単身で挑んで。 そうそう単身ですごい良かったね、なんか
最初はでも、寿司屋となんかね、鉄板焼き屋さん2つオープンする予定だったんだね。それで寿司屋をやるって言っていって、
最初鉄板焼き屋さん先にオープンするから、そっちに入ってくれって言われて、そしたら寿司屋の話がなくなって、
寿司屋って聞いたんだけど、鉄板焼き屋さんだけになっちゃって、それで働くことになって、最初の時結構苦労して、
シンガポールって働く、海外どこでもそうなんだけど、ビザが必要で、ビザが厳しい国って言われてるんだよね。
当時、10年前だけど今の方がもっと厳しいと思うんだけど、例えば働こうと思ったら、働いてる中の人たちの雇用を守らないといけないから、
入ってくる人ってできるだけ優秀な人を入れる必要があると。 ビザの基準として、これぐらいの大学以上でないと新卒はずっと入れないとか、
給料っていうのも高く設定しないと入れないっていう中で、俺結局専門学校だから、高卒扱いになるんでね。
だから入ろうと思ったら、めちゃくちゃアピールレターみたいなの書かないといけなくて、誰かから書いてもらったらしくて知らないんだけど、
こいつは日本の寿司界の新鋭で、めちゃめちゃやるやつだから、仕事できるぞみたいな。
学面上の給料とかもめっちゃ高く設定して、これぐらいのやつなんだみたいな。1回目出したんだけど、それがダメで。
ダメで、最初入ってからそれを申請してたんだね。入ってから申請して、ダメで、え?ってなって、ビザがない状態でその国に滞在できるのって1ヶ月間だけなんだ。
そこのダメって言って申請までにまた期間かかるから、一旦外に出ないといけない。
だから1回マレーシアに行って、戻ってきてこれでリセットされるんだよね。
そういうことか。1回出国したらリセットされる。
そうそう。で、2回目がダメで、もう1回マレーシアに行って、これ違法労働なんだけど。
だってビザ持ってないから。
確かに確かに。
で、3回目は無理なのよ。連続の滞在時間が多分100日ぐらい以上はダメで、次ミスったらもう日本に帰ろっかみたいな。
来たばっかですけどみたいな。で、タイ行って戻ってきた時にOKで、2年間のビザがもらえて晴れて働けるようになったっていうのからスタートしたね。
かなりドキドキしてたよね、入った時は。
確かに強制送還される可能性があったよね。
そうそうそうそう、もうなんかさよならみたいな。
で、そっから、でもすごいね、条件が良かったね。
手取りで720万ぐらいあったんで。
すごいな。
そう、でもやっぱ自分の実力と全然合ってはなかったなって今とは思うんだけど、
家もすっげーでっかい家なんだよ。調べたら出てくるんだけど、50階建てのマンションみたいなのがあって、それの23階に住んでて。
すごいな。
で、下にバスケットコートとか筋トレルームとかがあるようなところで、
日本円で家賃40万ぐらいするのかな。
すごいな。
そう、特に会社のあれで住まわせてもらってて、2人で住んでたんだけど、会社の人。
だから、なんか会社から家も出してもらってるし、給料ももらってるし、安全だし、仕事もあるしみたいな感じで、
もう人生ちょっと上がったなみたいな感じで。
ちょっとね。
早い。23、4歳ぐらいで。
でも、上がったっていうか、すごく頑張った回はあったなと思ってて、
だから土日は結局あれだったね、日本人、結局向こうにいる日本人駐在の人とめっちゃいっぱい友達できたから、
土日は本当に飲みに行って、仕事行って飲みに行ってっていうのをずっとやってたって感じかな、25歳ぐらい。
そうなんや。言葉とかは普通に働く中で学んでいったの?
そうだね、英語、雇用語が英語で、みんな英語を一応話せるので、働く分には大丈夫だったね、それで。
そうなんや。
シンガポールに。
シンガポールでそのさ、海外で働きたいってなってて、それは大きいことしたいみたいなところから海外で実際働いてたら、
そこがどんどん感覚としては満たされていくみたいな感じだった?
完全にそうだったね、もうだから、最終なんていうのかな、だから満たされてたよね、完全に。
だって楽しいし、その時に当時なんかね、彼女もいて向こうに。
日本人だったんだけど、すごい綺麗な年上の彼女もいて。
まあ、ハッピーだったよね。
仕事は鉄板焼きから始まって、お寿司は結局やらずに鉄板焼きだけ?
そうなんや。
だけどもうなんか海外に行く方が先行してたから、どっちでもよかったよね。
まあ確かに、目的はそっちやもんな。
そうそうそうそう。
新たな道の選択
そっから、ただなんかね、25歳ぐらいの時に将来のこと考えて、料理人ずっとやってんのかなって思った時があったね、30なって40なって。
なったら絶対嫌だなって思ってて。
ずっとこれ無理やろみたいな、とは言ってもなんか別に普通に忙しいし、なんか嫌だなと思ってたし、しかもなんかその時思ってたのは、お金は十分に手に入れてプライベート楽しいと。
だけど、やっぱ仕事すごい楽しくなくなってきてたんだよね、すげえ。
だからなんかずっと暇があればさ、レストラン、なんか暇な時間とかがあったら後ろの方に行って、ずっとパワプロのアプリずっとしてたんだよ。
ずっとアプリしてたんだよ、その有料時間で。
この時間めちゃくちゃ無駄だなあみたいな感じで思ってて、なんかあんま成長していってる感覚がないみたいな。
すごい嫌だし、なんかずっとやってくの嫌だけど、この生活手放すのもめっちゃもったいないなあみたいな。
確かに、そこまで行ってしまったら。
そうそうそうそう。で、思ったんだけど、やっぱなんか、じゃあもう25の時点で、人生のプライベートは楽しくできましたと。
当時の俺にとっては何不自由なく本当に暮らせたんだよね、別に。
だから残りの半分、じゃあ仕事の面が楽しい仕事ができたとしたら、人生ずっと楽しいんじゃないかっていう風に考えて。
そうそうそう。だからなんか自分が本当にここから楽しい仕事をもう一回探そうって思って。
考えた時にたくさんの人に何か提供するような、一人一人になんか丁寧にする仕事が一番合ってるなあって思った時に、考えた時にパーソナルトレーナーおもろいなと。
あーなるほどね。
トレーナーっておもろいなと。その中でもじゃあ日本一のトレーナーとかいいなと思って。
ってなった時に当時俺の中の頭にあったのがライズアップだったんだよね。
あーなるほどな。
だから一番高いって思ってたし、だから一番単価が高いって思ってたから日本一。
その当時どこが高かったか知らなかったけど。
なんでトレーナーになるっていうことを決めましたと。
決めてからめっちゃ反対されてても。
なんか、そうそうそう。だって辞める理由ないやん。
ないし、しかも当時向こうですごい仲良く遊んでた転職エージェントの人いたんだよね。
女性の人なんですけど、その人も絶対アゲちゃんこの名前仕事続けた方がいいよって言われて。
相場も分かってるし、しかも日本職を海外でやった経験があるっていうのも分かってるから、
アゲちゃん日本職だったら本当にどこの国でも仕事めちゃくちゃあるよみたいな感じで。
めっちゃ親切に言ってくれたんだけども、頭がさこっちだから。
頭が完全に。だから大丈夫ですみたいな感じで。
で、辞めて就職っていう形になったね。
研修と試練
そうなんや。そこを日本帰ってきて。
そうなんや。シンガポールから戻ってきてライズアップに入るんや。
そう。入ってからもね、めっちゃなんかね。
就職するまでどのくらいかな?8ヶ月とか10ヶ月くらいかかったんだよね。
そうなんや。
採用法で応募してから選考がめっちゃ時間かかって。
そういうことか。
めちゃくちゃ地獄だったな、あの期間。26歳の時。
地獄だった。10ヶ月間仕事ないくてさ、戻ってきてさ、やるぞってなって。
しかもまだ受かってもないじゃん。補償もないから。
めっちゃある時、ずっと人生を反省してた。
反省してたし、反省っていうか、こっからめちゃくちゃやってやるぞみたいな気を貯めてたから。
でも、その時26歳時点でさ、今考えたらやばいと思うんだけど、
2月?22、覚えてるんだけど、正月から2月くらいまで地元沖縄帰ってアルバイトしてたんだけど、
地元のサンエーっていうスーパーがあるんだけど、地元に。
地元のサンエーの短期のアルバイト、バレンタインの短期のアルバイトで、
バレンタインの包み紙をずっとバカバカバカバカ割って、
折ってて、やってたら、え?ケンゴ?って言われて、
小学生の時のCIパワー。なんでここに、何してるの?ってなって、
ヤバみたいな感じになって、これはヤバいなって、ここにずっと居続けられないなみたいな。
幸いにもね、受かることになって、最初の1店舗目が東京だったので、東京に行ったって感じですね。
そこで初めて東京に行くんや。
そうですね。東京で働くことに結局なったね。
なるほど。トレーナーになるって決めた、一人一人に向き合う方がってなったのって、
そこって飲食で働いた経験とかそういうのが来てる?それとは全然関係ない話?
いやー、それもそうなんだけど、なんかね、あの時全然言語化できてなかったんだけど、
やっぱ、トレーナーが向いてると思ってた、完全に自分に。
あー、そうなんや。
そう、やったことないけど、しかも俺、筋トレもやったことないんだよ。
あ、そうなんや。
だって、ジムに入会したこともなかったし、バーベル握ったこともなかったから。
すげーな。
のくせに俺、トレーナー絶対向いてるだろって思ってたから。
それはさ、そのトレーナーっていう人と関わったこともなかったってこと?
ないな。
えー、そうなんや。
なんか、だから、高水準、高い水準で人に関われみたいなのが得意だと思ってたのかな。
あー、なるほどね。
もちろん今考えれば、なんか育てたりとか、その人をなんか良くしていくっていうことは、
今となっては全部言語化できて分かってる部分だけど、
当時はマジで、あの、自己分析とか自己理解とかも、
ツールも使ったこともないし、何もやったことはなかったから、
合ってるっていう猛進だよね、完全に。
ないものを信じてたね、完全に。
これはエフィカシーじゃないよね、完全に。
すごいな、そのでも猛進をもとに、本当にライズアップに入って、
しかも初めての東京で、その東京ライズアップ時代はどんな感じだったの?
最初はやばかったね。
最初研修っていうのがあるんだけど、研修めっちゃきつくて、
1ヶ月半研修施設でやるんだけど、もうその研修きつくて、
みんななんかさ、終わった後、どのくらいか、23人くらいいたんだけど、俺の同期って。
なんか泣きながら店舗に配属されていくみたいな感じで。
それで俺、やっぱこういうね、試験とかテストってめっちゃ苦手で、
普通、なんかね、最終テストが筆記と実技みたいな。
筆記は一発よかったんだけど、実技が2回までしか受けられませんみたいな。
俺25回ぐらい受けたから。
受け過ぎや。
この日までに、だからさ、10月の5日までに受けましょうみたいな感じだったけど、
20日ぐらいまでずっとやってたんだよ。受からなくて。
あの時きつかったなあ。めちゃくちゃ。
受かるまでやるしかないね。店舗で働こうと思ったら。
でもめちゃくちゃきつかった。だってみんないないしさ、
俺とその教官みたいな人がいるんだけど、トレーナーの人が。
ずっとさ、2人でやって。特殊な、まあテストだからあれだけど、
なんかね、変なチョイミスとかをやっちゃうんだよね。絶対。
おー、なるほどな。
なんかその、たとえば重りを変えるときにさ、金具の位置一個ずれたりとか。
あー、なるほど。
そうそうそう。とかなんか、メニューちょっと飛ばしちゃったりとか、
なんか変な緊張みたいな空間に、なんかあんま適応できなくて。
そう、でも思ってたのは、いやもうこんなの、
トレーナーの実力が測るもんじゃねえみたいな。
なんか受けさせてもらってんの。心の中で。
店舗に出たら俺が一番だみたいな感じで思ってた。
お前わからんやろ、俺の実力みたいな。
そこの自信はあってんだ。
そこの謎の自信もあった、マジで。
行けさえ、ここさえ乗り越えればみたいな。
うんうんうん。
手当てでやっと受かって、配属されたんだけど、
配属したときもさ、やっぱあの、情報ってわかるじゃん。
その、研修してる子がいて、配属予定の子が遅れて入ってこないみたいな。
で、入ったときは後から聞いたけど、ちょっとヤバいやつが入ってくるみたいな。
噂が。
そう噂が。
あったらしくて。
でも、その入ってからは、その、やっぱ、なんだろうな。
いわゆる、練習とかもめちゃくちゃ下がったから、
成果とやりがい
500万ぐらい下がったんだよね、そこで。
とか、やるぞって気持ちはやっぱめちゃめちゃすごかったから、
とにかく量を、とにかく量をこなしまくって、
同期では、あの、最速で、なんて言ったかな、
この昇格に2つ、最初3つ役位があって、一番上までは1年で行けて、
2年いたんだけど、結局23人いる中で、
俺が、この卒業、2年半卒業するまでにも、
そこの役位の人っていなかったんだよ、結局誰も。
だから同期の中で一番その役位的なもので言うと、
一番成果は出せたのかなっていうところ。
いや、すごいな。
それはもう、その、やるしかないってなってたのと、
もう量を最初はひたすらこなして、なんか掴んでいった、その。
そう、もう死ぬほどテンポにいた。
テンポにいたっていう。
半期か半期に1年ぐらいに、なんか冗長に自分で書くんだよね。
あの、今期の目標みたいな感じとどうしていくかみたいな。
それでなんか、もう日本一働いたと言えることを誓いますみたいな感じで書いて、
とにかくやりますみたいな、黙ってやりますみたいな感じで書いて、
もう本当になんか、テンポにいたらお客さんのためにやれること全部やって、
で、家帰ったらYouTubeで、
ネクストフィットケントっていうですね、YouTuberがいるんだけど、
あのサプリメントとか、すごい英語が詳しい人がいて、
その人の動画をもう全部見て、行って、
で、土日はまた、休みの日もテンポ行って、戻ってみたいな感じでやってて、
女性の同僚みたいな人から、
あげなさんが頑張ってると私たちが頑張ってるみたいじゃないんで、
あんまそういうのやめてもらっていい?って言われて、
おーい!みたいな。完全に無視したけど。
ぐらいテンポにいたね。
なるほどな。で、そのパーソナルやから、
お客さんが来た時に自分はいたらいいけど、
そういうの関係なくずっとテンポにいて、やれることやってたってことやな。
そう、なんか、やれることもそうなんだけど、
このお客さんのための、たとえばカルテであったりとか、
次、どんな提案をするとかもそうだし、
なんかね、やっぱアイデアを作るのすごい上手だ、好きだったから、
お客さんのために、たとえば写真の変化の写真をまとめたファイルを作ろうとか、
新しいメニューを考案しようとか、
新しいメニューブック作ろうとか、
新しい施策みたいなのを、とにかく、
そうそう、打つのが好きで、
トレーナーたちもダイエット企画やろうぜ、みたいな感じで、
企画で写真撮ったやつをロッカールームとかに置いてたりとか、
その時使ったサプリこちらです、みたいな栄養の紹介とか、
そういう、誰もやってないんだけど、
とにかく、やれることを見つけてやりまくるみたいな感じだったから、
めっちゃいいな、トレーナーのダイエット企画とか楽しそうだな、
そうそう、面白そうじゃん、店舗にとっては、
だからそういう、とにかくやれることなんでもしますぜっていう感じでやってたら、
評価してもらってしっかり上がれたな、
あの時すごい気持ちよかったな、
気持ちよかったっていうか、
なんか定量的に何かを判断したりとか、
役位みたいな、昇給みたいなもんってずっとなかったから、
あー、なるほど。
そう、めっちゃ覚えてる、店舗責任者からなんか、
アドバンスドチーフトレーナーなります、みたいな感じになった時、
えー、みたいな、こんなに早くていいんですか?って思って、
ストレートですよ、みたいな。
えー、なるほど、そこで定量的にわかりやすい評価っていうのを得て、
嬉しいというか、やりがいみたいなのに繋がって。
あったなぁ、めちゃめちゃそこもあったし、
お客さんもやっぱ目に、だからわかりやすいよね、目で見て、
体重が変わっていって、体が変わっていくみたいなのもわかりやすかったし、
確かに。
そうだし、なんか継続のお客さんが結構、
再契約を続けるのがすごい得意なトレーナーだったんで、僕は。
そうそうそう、だからお客さんとやりながら、で、
契約をさ、なんか覚えてるんだけど、なんかこう、
すごい覚えてる契約があって、この、1年の契約を取ったことがあったんだよね。
で、1年の契約って、この、まあないのよ。
なんでかっていうと、
確かに。
そうそうそう、だってさ、月にさ、要は週に2回、週2回よ、
あの、1時間ずつ個室でトレーナーと会うのよ。
トレーナーとしての挑戦
月に8回トレーナーと個室で8時間会うのよね。
1年間週2回さ、個室でさ、トレーナーと会うってさ、
もう技術もそうなんだけど、この人っていう状態でないと変わらないし、
しかも半年間と1年間って価格一緒なのよ。
そうなの?
そう。
メリットないのよね。
確かに。
メリットってこっちしかないよ。
だけどなんか当時なんかすごいお世話になってた先輩トレーナーの人に、
1年のそれが取れたらやっぱトレーナーとしてやっぱ一流だよねみたいな言葉を答えて、
絶対取りたと思って、
次の次の週に取ったっていう。
早っ。
そう、提案して。
でも、めっちゃでもそれは本当に現状の考えになかったし、
その取る、それを提案するって決めてからめっちゃ準備したし、
あーなるほど。
しかもそれを答えないといけないからさ、1年間さ。
プレッシャーの方が強かった、めっちゃ。
確かに。
1年間だって何しようって始まったもん。
何しようみたいな。
そうか。
だって痩せるとかもう終わってるからさ。
そうやんな。
大体早い人で遅くても半年ぐらいでも変わる。
そう、だから2ヶ月とかでは、男性とかだったら体重にもよるけど、
男性とか2ヶ月とかでも本当に目に見えるように変わるから、1ヶ月とかでもさ。
あとはもう本当にさ、バランスマット用意したり、体幹とかさ、
逆になんかベンチプレスこれぐらいまで上げれるようになりましょうよとかさ。
そういうことか。
それってもう1年っていう区切りが決まってるだけで、そこで何するかは考えなあかんだよ。
そうそう、もちろん来て、維持か強化しかないじゃん、それで言うと。
そうそうそう、だからとにかくメニューを。
だからあれだったもん、ゴルフ好きな人だったから、
ゴルフ通いに行ったもん、俺、話のネタを作るために。
ゴルフレッスン受けに行ったもん。
すごいな。
そう、そういうのをね、なんかやってたね、結構。
外で情報を取りに行ったりとか。
いやー、それすごいな。
1年っていうのを取るって決めて、じゃあ何が必要かとか、
それを取ったらどうしていくかみたいなのをしっかり考えて提案したんや。
そう、でも取ってからだよね。
だからもう本当に打て構えだよね、本当に。
本当に、部役取っちゃってどうしようみたいな話だったから。
だからその感覚はやっぱね、今でも生きてるよね。
そっちでできるし、コーチング的な先に行動して後から追ったてていくみたいな感覚は
やっぱりそれで養われたかなと思った。
ゴールビートとの出会い
すごいな、めちゃくちゃいいな。
そのライズアップで結構成果を出してやっていってる中で
卒業する時期は来たってこと?
そう、2年半の時にゴールビートの出会いだよね、それこそ。
そこで出会うんや。
そうそう、で、その時になぎらがいるよね、レッツゴーなぎらが
YouTubeで社長いじり動画っていうのを、当時アキオブログがいてですね。
全代表いじってる動画見て、何これ面白いみたいな感じで見てた時に
彼がダイエットバトル企画をしますみたいな感じで言ってて
オンラインダイエットバトルみたいな。
増量組と減量組に分かれて減量幅と増量幅の対決をするみたいな。
6人6人みたいな。
それで俺別にダイエット必要としてないしさ、全部知ってんだけど
面白いからやりたいってなって。
それで、なぎらに会いたかったの、まず。
っていう理由だけで15万払ってその企画にしたんです。
すごい。
そう。で、やったのがゴールビートの最初のつながりだね。
それでダイエットバトルに入って、その時もチームの子たちに指示一緒にしながら
トレーナーだからさ、結局。
なぎらもその時しかもライザップで1年間働いてたことがあって。
だからこの役位っていうのがポンポンと上がれていること自体の
なんか価値みたいなことはすごい気づいてくれてて。
だからその時に一緒にやっぱ俺も働きたいっていうところをなぎらに伝えて
一緒に入るっていうことが決まったってところだね。
なるほどね。
じゃあ本当にほんまに最初は見てておもろそうと思ってその企画に参加して
そう。
接点ができて入りたいって入ったみたいな。
そう。入った。
で、そっからもう次の週にはですね、東京から名古屋へ。
あれも早かったね。めっちゃもう3週間ぐらいで全部決めて。
すごいな。
楽しそうで企画に参加するまではわかんないけど、
ゴルビーに入りたいってなったのはそこは話してる中でそうだったの?
これは話してる。
俺もね2年半やっててちょっと違う何かを探してたっていうのはあるんだけど
おもろそうだったっていうところかな一番。
こっちにいるより。
やっぱ面白そうとか好奇心にやっぱどうしても勝てなくて
理由よりも面白いかどうかが大事なんで僕にとっては。
だからおもろいほうがいいなと思って。
チャンスだと思っててとにかく。
で、そこも決めて3週間ぐらいでバーって名古屋に引っ越して。
そう。名古屋にジムを建てるっていう話だったんだ。
最初大阪にちっちゃいパーソナルジムを作ってたから
名古屋に会員制のジムを作るからということで
その立ち上げとして名古屋に行くことになりました。
名古屋にいた最初の3ヶ月はトレーナーとして働いてて
その時はね立ち上げの時は俺とマンティ福原と
渚たけしとですねジムに住みながら
俺が女子ロッカールームでマンティが男性ロッカールームみたいになって
本当に3ヶ月立ち上げはジムに住みながら
作っていったね。
すごいな。住みながら作っていったやん。
やばかったなあの時。絶でもあの時すげー絶。
なんか勢いで行っちゃったけど
やっぱまた年収戻したのまた下げたし
29でまた下げるかみたいな感じだった。
あ、そうか。それでクソが29か。
そうそうそう。28かな8か9の年になる年で
また年収をですねバッて下げて
なんかわかんないけど絶対ここにいた方がいいっていうのは思ってたし
今なんかそこで中途半端な給料じゃないけど
状態でいるよりかは絶対違うところに移した方が
自分のためになるって思ってたし
やっぱ直感的に面白い方が良かったんで
だから入って名古屋のジムの立ち上げをして
で3ヶ月ぐらいオープンして3ヶ月ぐらい経った時に
やっぱパーソナルトレーナーやってたんだけど
コーチングしたいってなったんだよね
その時ゴールビー秋代と山宮健太郎を中心に
個人のコーチングやってたんだよね
スタートしてた時で
その時に俺もコーチングやりたいですみたいな感じになって
でトレーナーやりながらコーチやろうと思ったんだよね普通に
いいじゃんと思って
だけどやるんだったら決断しましょうみたいな感じになって
やるんだったらちゃんとコーチングをするから
決断して東京に来るっていうのを決めろと
みたいな感じになって
じゃあやるし東京戻りますってことになって
東京に戻ってコーチングを
健太郎からですね
だから俺第1号だと思う健太郎のセットアップ
本当の本当のコーチングのセットアップ
健太郎が全部転送してくれて
当時行ってたスクールがあるんだけど
健太郎人に伝えたり教えたり
100%転送っていうのが健太郎の能力なんだけど
習ってきたものをそのまま俺に教えてくれて
それで提供し始めたっていうのが
伝統工芸との新たな出会い
コーチングのスタートだね
そこからコーチングが始まるんや
そうでもやっぱでもやばいなと思うのが
自分がさコーチング自体はやっぱゴールディー入る前に
ゴールディーが提供してたから知ってたんだよね
めっちゃいいやんと思ったんだよこれ
俺やってきたことだし
俺これできると思ってたし
俺顧客にやってたと思うんだよ
痩せるだけじゃなくてどんな体になりたいですかと
どんな未来手に入れたいですかと
そのためにやろうぜっていうのをずっとやってただけだから
だから最後の方さ
アキオブログが記事でまとめてた
コーチングとは何かみたいなのがあるんだよね
それ見て顧客に勝手にやってたからだ
俺その時
なるほどね
勝手にできもしない意味も分かってないけど
とにかくやってたコーチングっぽいこと
それでできると思って
スタートして
そっから一旦コーチングをずっとやってたんだけど
やっぱ
指名っていうか個人の指名とかもすごい
一番あって当時
それで売り上げもしっかりあるし
そっからコーチングの事業部長かな
みたいなものも一応やるようになって
ずっとやってた時に
そのままパーソナルコーチとしてやってて
そっから今いる
今いる
メンバーだよね
それこそ
俺の次だから
次誰だ
当時で言うと春香さんとか厚志とかが来て
高谷が来たりとか
後平が来たりとか
リクだね
コンタリクが来たりとか
ちゃおさんも来たし
みたいなところで
どんどん会社が大きくなっていった時に
俺自身も
コーチングのスクールを受けてた時に
自分自身にコーチをつけて
そっからコーチングを受けてたんだよね
ってなった時に
今すごくまたコーチとしても活動していって
普通に活躍できるようになっていった時に
本当に何したいのか
みたいな感じになったんだよね
コーチングの時
ってなった時に
自分の表現であったりとか
何か作るっていうものを
やっぱしたいっていう気持ちに気づいたんだよね
なるほど
昔からアートとかデザインとかっていうのは
興味がすごいあって
やっぱ好きだったんだよね
それで言うと
姉とかも音楽ずっとやってて
今もDJとかやってるんだよね
そうなんや
そうそうそう
料理も言うなら創作じゃん
作るのは確かに
だからそれをちゃんとやりたいなっていうのになって
じゃあやろうってなって
その時に
ちょうどどのくらいかな
3年前
去年2年前か
2年前の
9月くらいだったんだけど
コーチングで
それやろうってなって
本屋に行ったんだよ
とりあえず何があるかなってなって
本屋に行った時に
たまたま本屋にあった
古谷焼きっていう石川県の
伝統工芸品があるんだけど
それの写真見た時に
めっちゃかっこいいやん
これみたいな
これやりたいと思って
次の週にチケット取って
その石川県
作家さんって言うんだけど
作る人のこと
作家さんが通ってた学校があるみたいな
研修所っていうところがあるんだけど
そこの石川県の研修所に
次の週に行って
研修室に行って
どうしようみたいな
その時すげー
心揺らいじたんだよ
でもここ
来るの?みたいな感じで
そこでは決めきれてなかった
次のコーチングの時に
やるかやらないかみたいになって
そしたらコーチがいきなり
じゃあまあ
そんじゃないやらなくてみたいな
やりたくないでしょ
まあどうせ趣味でやりたいぐらいの範囲だったんでしょ
みたいな感じで
ふっかけられて
そんなことないしみたいな感じで
じゃあどうすんだみたいな
やりますよみたいな感じになって
行くって決めて
そっからはもう
入学の手続きだよね
早いな
そう
だから峠の道を行くっていうのは決めて
テストとかあったから
一般教養のテストと
軽く美術の絵描く試験とかだったから
そこの勉強して
1月に試験を受けに行って
石川まで
それで合格して
去年の4月から
石川に住んでるっていう状態ですね
そうだよ
じゃあもうその学校に通うというか
伝統工芸品を作れるようになるために
自分で作るために
石川に今行った
移住したってことだね
なるほど
すごいな
そこもやりたい
かっこいいってなってからの決断で
そうなってねんな
そうそう
初動はやっぱそれだよね
だから今は
同じく働きつつやけど
学校に通って
作れるようになるというか
学校が
2年半のカリキュラムだったんだよね
直感を信じる
1年経った時に
全然ピンとこないなってなって
そうなんや
やってて
ピンとこないっていうか
食っていくぐらいは見えたんだよね
だいたい仕事いくつかやってたら
分かるじゃん
これぐらいの効果みたいなの
見えた時に
全然ピンとこないなっていう自分がいて
一番悲しかったのが
芸術とかアートを取り扱ってやってるのに
早く終わるためにはどうするのか
最小コースをずっと考えてた
自分がいて
なるほどな
俺これめんどくさがってね
やばみたいな
もうやめようと思って
そういうこと
そうだしゴールディメンバーにも
あげなさんちょっと調子悪そうっすよ
みたいな会議をいただき
やめるって決めて
そっからやめて
今年の2月か
2月にはもうやめていて
そっから今石川までいて
来月引っ越すよっていう流れですね
そういうことやったんや
でも直感でいいんだけど
しっくりけえへんっていうのもあんねんな
ある
あって来なかったけど
今ね
実は稼働を今習っていて
この石川の研修所のプログラムの中に
月に1回稼働っていう実習があるんだよね
いろんな日本的な文化にも触れる
その稼働がめっちゃおもろくて
だから別で今
稼働の先生の家に行って
稼働を習ってて
ちょうど1年経つんだよね
稼働を習って
だから稼働は今後も東京に行っても
続けられるから
何か作りたいとか表現したいっていうのを
1回バッと触った時に
何がいいかなってなって
今やっぱお花
結構面白いなと思ってて
今お花をやってる
そうか
でもやっぱりその軸というか
何か自分で表現したいとか
っていうところで
たまたま陶芸はなかっただけで
稼働にその面白さというか
何かやってて
っていうのはあんねん
あったやっぱ
あったね稼働は
いやでもそれやっぱ
やってみれば分からんのは
ほんま一緒やな
分からんけど
でも一番良かったのは結局
アートとか
ずっとでも3年前ぐらいからね
ちょい触りしてるんだよね
行く前から
例えば何かデザインの勉強をするために
2、3万ぐらいの教材買ったりとか
してたんだよね考えたら
なるほどね
デザインの勉強するとか
何か本
デザインの本買ってみたりとかってあって
だから
何かどっかの別のコーチングの
スクールとか講習の時に
生まれ変わるとしたら
何か何したいかみたいな
美大に入りたいですとか
言ってたことも実はあったんだよ
美術とかアートみたいなのを
やる人生かやらない人生かってなった時に
やっぱやる人生でありたかった
自分の中であって
だから
どこか自分人生で
棚上げしてるものってあると思うんだよね人間って
人ってこう
生まれ変わったら
もし今度やるんだったら
みたいなのを
いつかみたいなものがあるんだよね
憧れてるみたいな
だからそれを棚上げしてないで
ちゃんと目の前に持ってくるっていうのは
すげえ重要で
なるほどね
とにかく手前に持ってきて
ちゃんと触るってこと
後回しにせず
自分のしかも
大事にしてることとか
要は素直な欲求じゃん
そこを触ってないと
気づけなくなるっていうか
感度が弱くなる自分に対して
ってなってくると
自分に対しての感度も弱いから
顧客
コーチとしては顧客に対する感度も
弱くなるんだよね
やっぱそうやな
そこはつながんねんな
そうそうそうそう
だからやりたいって思いを
ちゃんと行動に移せたっていうところから
俺拍手
自分に送りたいし
それで形になってきてるものもあるから
だからここからだね
アートとか芸術のところに対しては
っていってもまだ1年しかやってないんで
いやー素晴らしいな
確かにもう
そういう道って突き詰めようと思ったら
いくらでも夢中になってできる
領域やし
よし
キリがいいので前半ここまでにして
ありがとうございます
自己表現の重要性
後編さらに気になる部分とか
その中で気になった部分
ちょっと聞かせてください
はい
前半長かったんですみません
いやいやとんでもない
めっちゃおもろすぎて
なかなかないぐらい
突っ込んだし笑ったもん
本当?
ありがとうございます
じゃあ前半ここまでにして
後半いくので
前半一旦閉めます
ありがとうございました
ありがとうございます
47:32

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