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スピーカー 1
そういう意味で去年というか2024年度っていうことになりますか。
スピーカー 2
具体的には2024年度ですけども、最初に提案したのは2023年。ちょっといろいろ経緯があって、2020年くらいから松本にはちょいちょい顔出すようになって、本格的に顔出すようになったのが2023年ですかね。
スピーカー 1
なるほど。松本の話、もちろん僕もものすごく大きな関心事でいろんなお話伺っていきたいと思うんですけども、松本に特化した話はどちらかというと後編の方でじっくりとお話したいなというふうに思っているんですが、前段の方というか前編の方では、そもそも渋谷徹さんってどんな人なんだろうみたいなことで、
ちょっとした短いバージョンでも自己紹介的な感じで、ご関心とかこれまでやられてきたこととかっていうのをちょっとお話しいただければと思うんですけども、いかがでしょう。
スピーカー 2
松本 そうですね。僕は生まれは秋田県の鹿野角って書いて、鹿野市って言うんですけども、そこで生まれました。全然山の中で、冬になると雪深いところでして、高校までそこでおりまして、大学から東京のほうの大学に来ました。
当時はやっぱり秋田県人なんでスキーをやってまして、両親が中学校の先生でずっとスキーを関係やってたんで、自ずとスキーやるようになって、大学のときもずっと競技スキーをやってて、そういう生活を送ってて。
記憶の中では、社会人になって5年くらいは競技スキーをやってて、そこしかあんまり記憶がないっていうような感じでやってました。
それで学校卒業して入ったのが今の日田システム全身の日本ビジネスコンサルタントっていう会社で、そこから一貫して営業の仕事をやってきたっていう形になります。
スピーカー 1
なるほど。秋田から東京にやってきて、大学行かれて、大学なんかちょっとさっきお話伺ったら経済学部だったってことなんですけど、それって大学選んでどこの学部で何学ぼうかみたいなときって、高校生のころって意識あったりしたんですかね。なんで経済学部になったりしたんですかね。
スピーカー 2
正直なところ言うと、秋田から出たいっていう思いがまず一番で、仙台か東京かっていうことで、いろいろ考えて。正直なところは東京のほうの大学に行きたいっていう思いが強くて。
スピーカー 1
なかなか秋田って受験の環境が当時よろしくなくて、入りやすそうなところを狙ったっていうのが正直。そういう戦略があったわけですか。
正直あります。得意な科目で受験できるところっていうのが正直なところですね。当時はそんなもんです。
スピーカー 2
当時は秋田の和之市っていうどいなかから東京のほうの大学に進学するっていうのは結構稀でして。今はそうでもないんですけども、数人しかいなかったですね、私の記憶してる範囲ですと。
それだけで、高校3年生の僕としては東京の大学に受験して受かったってだけで結構な大事業って言えば大事業で。当時の秋田っていうのはそんな環境でした。
高校はだから公立の高校みたいなところに行くわけですか。そこはだから進学するっていう人も割と稀というか、進学するにしても東京に行くっていう人は少なかった。
東京までですね。秋田大学とか岩手とか仙台、北海道に行く人もいたかな。そっちのほうが中心でしたね。東京はあんまりいなかったですね。今のこちらの高校生活するとアメリカのニューヨーク辺りの。
アメリカにニューヨークに行くみたいな感覚。
スピーカー 1
そんな感覚だったと思います。
国内の大学に行くって言うと大体東北の大学に行って、東京なんて言うと外国みたいな。
スピーカー 2
そんな感覚ですね。
スピーカー 1
多分都会に対する憧れとかそういうのもやっぱりあったんですか。
スピーカー 2
やっぱりありました。都会のほうでやってみたいっていう思いは強くあったのは記憶してます。
スピーカー 1
そう思うとやっぱり都会、もちろんそのお育ちになった町からすると仙台って大都会だと思うんですけど、仙台と比べても東京はさらに世界的な大都会みたいな感じで。
もう海外、海外。
海外。やっぱりそこはできれば仙台じゃなくて東京だぞってそういうふうに思ってたわけですか。
そうですそうです。
実際東京に行った人っていうのも非常に少なかった時代。
スピーカー 2
いや少なかったですね。
スピーカー 1
何が渋谷少年を東京に対する憧れに持ってったんですかね。
スピーカー 2
えっと、なんですかね、修学旅行が大きかったかな。修学旅行で東京行った時に、なんて言うんでしょう、なんてとこだって思ったのが大きかったように記憶してますね。
スピーカー 1
ちなみにその修学旅行で行った東京ってどんなとこ行ったかとかなんか覚えてるものでありますか、記憶にあるもので。
スピーカー 2
えっと、当時は当然ディズニーランドっていうのはなくて、上野の動物園とか東京タワーは当然ですね、とか皇居だったかな、そんな感じ。
スピーカー 1
えー、電車乗ったりしたんですか。
スピーカー 2
電車乗りました。
スピーカー 1
あんまりでも秋田にいると電車乗るってことはなかったですか。
スピーカー 2
えっと、当時はあれですね、新幹線っていうよりは特急電車ですね。なんで、東京に行くのは特急電車で、隣の町に行くのは2時間に1本くらいの電車で隣町に行くって、そういう電車に乗る機会たまにはあったんですけど、あんまり稀なこと。
スピーカー 1
いわゆる山手線的なやつとか地下鉄みたいな。
スピーカー 2
そんなのはないです。
スピーカー 1
ないですよね。東京で乗った電車って、やっぱりなんかだからそういう意味では都会の特徴っていくつかあるような気がするんですけど、もちろんその電車の間隔とかも2時間に1本ってことはないでしょうし、
たぶんなんか地下鉄がある都市って日本の中でも限られているので、そういうものもなかったりすると思うんですけど、秋田で生まれ育って東京を見たとき、こんな話ずっと聞いてるの、僕都市っていうものにすごく関心があるので、都市の政策とか、都市そのものに対してものすごく自分自身関心があるので、
僕の場合東京で生まれ育っているので、当たり前というか東京が原風景なんですよね。逆にそういう小さな町みたいなところっていうのは日本では住んだことがないですかね。超田舎っていうのはアメリカに高校の時に1年間留学してたことがあるんですけど、高官留学で、その時はアメリカの中でも超田舎っていうところには住んだことがあるので、
ただそうは言っても日本の田舎とはやっぱり全然違いますから、そういう意味でなんか割と都市とかすごく興味があるんですけど、その時代のだから東京にしかないものとか、少年ごご、だから18歳とか高校生くらいの人を引きつける東京の魅力って、なんか今振り返ってみるとどんなもんだったかってなんか思い出せるものってありますか。
スピーカー 2
高校の時に将来何になりたいかっていうのをすごい悩んだ時期があって、結局田舎の高校にいても結論出ないかったんですね。やっぱり秋田にいても変わんないなっていうところがあって、
で、やっぱり何になりたいっていうことに関してはやっぱりいろんな環境を変えるってことが重要だなっていうふうになんとなく当時思って、どうせ変えるんだったら、当時からすると大胆に変えてみようっていうんで、東京の大学を目指したっていうそういう記憶があります。
スピーカー 1
なるほど。渋谷さんとお目にかかってお話しするのって、たぶんまだ10回ないくらいなんですけど、だんだんわかってきた気がするのは、なんかそういうこう変わるとかっていうことに対しても割と大胆にやっちゃえみたいな、そういうのはもう少年時代からあったっていう感じなんですよね。
あのテーマは躊躇はしない。 躊躇はしない。なるほど。いいですね、それ。その躊躇はしない、渋谷さんが東京で大学生活始めたとき、それで大学の時代っていうのは、なんか記憶に残ってることとか、印象深いことってなんかあるんですか。大学時代の思い出というか、大学時代にこれやったかなとかっていうのって。
スピーカー 2
そうですね。さっき話したとおり、ずっと大学でスキーをやってて、団体生活でいろんな先輩とかいるんで、結構人との付き合い方とかを非常によく学んだっていうのと、
あとは赤坂とかで、喫茶店とかで結構バイトをしてまして、赤坂の結構な繁華街でバイトをして、そこで東京弁を習得して、なんて言うんですかね。若干ちょっと専念された大人たちと接することで、
田舎者がちょっとはこなれてきたというか、そういうようなことじゃないですか。人間関係を相当学んだっていう記憶はありますね。
スピーカー 1
なるほど。そうですか。確かにお話しさせていただいてでも、秋田弁的なことって感じることが一度もないまま、当たり前のように東京イントネーションだなって思ってたんですけど、喋ろうと思えば喋れるわけですか、秋田。
スピーカー 2
秋田に戻れば思い出しますけども、今いきなり喋ろうと言われても、ベとかダベとかその代わりで言いますけども、普通に喋ろうと言われてもなかなかすぐには出てこないし。
スピーカー 1
方言に対する思いと、都市に対する貴族意識みたいなのも面白いなと思うものがあるんですけど、渋谷さん的には秋田弁っていうものはどっちかっていうとネガティブなものなのか、わりと好きなものなのかっていうか、ポジティブネガティブの度合いでいくとどんなものなんですか。
スピーカー 2
正直言うとネガティブでもポジティブでもなくて、秋田に行ったら普通に秋田の言葉があって、東京に行ったら東京の言葉があって、どっちに住むかで喋りやすい方を喋るっていう。
なるほど。
スピーカー 1
大阪の方が東京に来てやっぱり大阪弁にこだわってるっていう感じではない。そんなに深いこだわりはない。別にネガティブでもないですね。
もしかしたらもっと古い方とかって方言が恥ずかしいみたいな、そういうような感覚をおっしゃる方にも見かかったことあるんですけど、全然そういうのはなかった。
それはあんまりなかったですよね。
なるほど。そうなんですね。そうか、赤坂で東京の言葉を習得して、いわゆる競技スキーなんていうと、いわゆる体育会みたいなとこでやられてたんですか。
スピーカー 2
純体育会みたいなところですね。
スピーカー 1
当時の純体育会って体育会のノリっていうのが色濃くありそうなイメージあるんですけど、そんな感じでした。
スピーカー 2
上下関係厳しく。
スピーカー 1
厳しくやってました。
スピーカー 2
やられてた記憶が多いですけど。
スピーカー 1
そういうところで人間関係とか、不条理さも学び。
スピーカー 2
そうそうそう。面白いんですけど、その時の先輩が、やっぱりスキーやってる方って長野県が多くて、その時の先輩は結構長野県人が多くて、いまだにちょっと会おうかとか、そういう話はあります。
スピーカー 1
そのホームグランドっていうんですか、ホームゲレンデみたいな、ここで必ず練習するみたいなホームみたいな場所ってあったんですか。
スピーカー 2
一番思い出深いのが岩竹と滋賀公園ですからね。が一番大きな大会が結構あって、一番思い出深いですかね。
スピーカー 1
滋賀広いですけど、滋賀のどの辺の。
スピーカー 2
滋賀の立山って言ったかな。確か立山ってゲレンデだったと思うんですけど、そっちの方。そんなに上の方じゃなかった。
スピーカー 1
上の方じゃなかった。
スピーカー 2
そうですね、そんな感じですね。
スピーカー 1
渋谷さん的な世代で、私をスキーに連れてってて、映画があったんですけど、見ましたか。
スピーカー 2
見たというかですね、今はもう別に言っても問題ないと思うんですけども、社会人になってから某レーシングチームに加盟して競技活動をやってたんですけども、
その時の先輩が、当時はコイチョイプロダクションに関係してた方で、その人がエキストラのスキーを集めて、実は僕も誘われたんですよ。
ただ1ヶ月か2ヶ月、スキー場に拘束されなければいけないってことで、もう働いてたんで、させないそれは無理だってことで。
ただ僕の友達とか結構撮影に参加してて。
スピーカー 1
あ、本当ですか。
スピーカー 2
あれでしたっけ、石田由里子さんでしたっけ。
スピーカー 1
そうですね、石田由里子さん出てたと思います。
スピーカー 2
ずっと一緒に撮影してたっていう。当時は許せないって思いましたね。実はそういう時代でした。
スピーカー 1
じゃあかなり近いところにいたわけですね、私をスキーに連れてって。
僕にとっての私をスキーに連れてって言って、ちょっとだけお兄ちゃんがハマって見てて、一緒に僕もいとこのお兄ちゃんとハマって何度も見て、
あれを見て雪とか車とか、セリカで仕事の終わりにセリカで高速でスキーに行くロッチかなんかに泊まってとか、ああいう感じ、なるほど大人楽しそうだなって、あれ見てちょっと思った記憶があり。
うち大学、体育にスキーっていうのが、今なくなっちゃったんですけど、ずっとあって、僕はなぜか飲卒教員を何年間かやったことがありまして、そこが場所が滋賀の横手山スキー場で渋峠が、
あそこがまさに舞台になった場所なんで、マンザルートみたいなところまで渋峠あって、あそこに行くとリフトっていうか、一番リフトの下のところに食堂みたいなところがあるんですけど、そこに映画に出ていた方々のサイン入りのスキー板があり、おおおおと思いながら、僕は見てましたっていう。
なんかスキーはそれで、なんですかね、僕にとっての思い出ってスキーっていうと、やっぱり高校生、僕は中学の頃にももう流行ってたし、中学の頃から友達と行ったり、高校でも友達と行ったりっていうのをやってました。
で、すごい人気だったから、リフトとかもすごい混んでた記憶があって、僕は白馬に行くことも多かったんですけど、白歩行くことも多かったんですけど、白馬あたりだとちょうどさっきの言葉じゃないですけど、半分くらい関西の言葉を喋る方と交じる感じなんですよ。
どっちかというと東京の方が近いんだけれども、割と関西の方の言葉をリフトのところで聞いた。東京に住んでるとなかなかあんまり関西の言葉聞くって少なかったんですけど、まして高校くらいだったらほとんどみんな近い人たちなんで、僕の家にとっての関西の言葉っていうのはスキー場に行ったときにリフトの近くで聞くみたいな、そんな言葉になってましたね。
おだしょー なるほど。そっか、あの辺は関西が多かったですね、そういえば。
だから今はかなりいろんな意味でサマー代わりしてしまって、スキー人口もね、人口そのものが減ってたり、スキー人口が減ってたり、最近なかなか僕スキー行けてないんですけど、ちょっと前にやっぱり白馬の47とか行くとゴンドラの中、ゴンドラたぶん3回か4回乗ったのかな、3回くらい乗ったんですけど、日本人と一緒になることが一度もなかったっていう感じですね。
あ、特に平日の昼間に行ったんで、そうするとみんな、オーストラリアの方ですかね、おそらくね、なんかその辺もすごくサマー代わりしたなーなんて思って乗ってましたね。
スピーカー 2
今の岩竹なんて、僕らが岩竹行ってたときからはもう考えられない感じですよね。なんかリフトの降りたところにあれですよね、なんか恋人が、なんていうんですか、ブランコかなんか乗って。
スピーカー 1
そう、今なんかそこをね、スキーの時期以外にも活用しようっていうね、グリーンシーズンのことでいろんなことをみなさん、今後なんか友人がかなりそこを関わってやっていますけど、そういうふうにね、サマー代わりしてるなーっていう感じはしますけどね。
スピーカー 2
そういう目のつけ方ってあるんだなーっていう。
スピーカー 1
たしかに。そうですよね。素敵な感じになってるかなと思いますけど。
スピーカー 2
僕の場合は親会社の政策省のほうにちょっと駐在して、他のひたしグループの別の営業マンと競わされたっていう環境でやってて、
もうずっとそういう競争させられながら活動したっていうのが20代ですかね。
なので活動もですね、ベタな活動で、それこそ1日10件飛び込みで回ったりとか、今じゃ考えられないような活動をしてましたね。
スピーカー 1
その頃って携帯電話とかその辺のデバイスものとかテクノロジーはどんな感じだったんですか。
スピーカー 2
ないないないない。
スピーカー 1
一番初めどんな感じですか、それ。
スピーカー 2
ポケベルが配布されたのは、どのくらいだろう。20代後半?30代前半くらいかな。
最初はポケベル、その次は洋館みたいな携帯電話ですね。
それも一人一台じゃなくて、確かグループに一台とかですね。そのうちだんだんPHSが出てきてっていう感じですかね。
最初はもう20代の頃は全然公衆電話中心の世界ですね。
そのアップ撮りみたいなの、じゃあまた外から公衆電話で撮って。
それか飛び込みで。
スピーカー 1
飛び込みで行って。
スピーカー 2
いやもうだいぶやりましたね。
スピーカー 1
それやっぱり鍛えられるわけですか、飛び込み営業って。
そうですね。今松本で飲食店巡りやってますけども、その時の経験が生きてますね。
もともと営業畑でずっとやってて。
スピーカー 2
思いっきり、要は思いっきりって言うんですかね。それは生きてます。
ずっと一貫して営業畑で働いたってことですかね。
スピーカー 1
営業のやり方とか、営業を巡る職場の環境って、さっきちょっと触れてらっしゃったようなポケベルが出てきたとか、携帯が出てきたとか、PHSが出てきたりとか、一人一台になるとか、スマホになるとか。
そういうんで何が結局変わったのか、それとも僕の興味って、やっぱり本質的にはテクノロジーがどうであれ、営業の本質っていうのはやっぱり人間の世界変わらないものなのか。
その辺ってすごい興味あるんですけど、どんな印象なんですか。
スピーカー 2
人間関係の作り方は基本的には変わってないような気がしますね。
メールになったらメールなりの気の使い方とかやっぱりありますけども、相手との距離感とかその取り方とかは基本的には変わってないような気がしますね。
ただ最近思うんですけども、なかなかお客さんとの、さっき言った距離感なんですけども、今でしたら会わなくてもなんとかなっちゃうんで、油断するとちょっと気迫な関係になりやすい、昔よりなりやすくなってるんじゃないかなっていうふうには感じます。
それでもいいような商売の仕方ってあるんで、そこは何の商売やってるか次第だと思うんですけども。
スピーカー 1
渋谷さんの場合は大学で学ばれたというか、触れてた学問と会社の中に入って営業職だけど、じゃあ何の営業かって言ったら今日立システムズさんだとすればコンピューターのシステムみたいなところが商品になってくる。
そうすると、当然コンピューターサイエンティストだったりエンジニアみたいな人だったりとか、いろんな職種の人たちがいるし、自分が扱ってる商品そのものが先端的なテクノロジーみたいなことになってくるときに、全然専門的には勉強してないけども、ご自身の中でそういうコンピューターとかテクノロジーみたいなことに対する興味とか関心とか捉え方とか。
長年会社の中で生活されてきて変わったりなんかが醸成されていくとかっていうのはあるんですか。
スピーカー 2
そうですね。20代後半の頃から、話は問題ないと思うんですけど、パテントに関係するシステムの営業をずっと一貫してやってて。
パテントのシステムって面白くてですね、人のパテントを検索する、世界中のパテントを検索するような、今じゃもう当たり前のサービスになったんですけど、それの走りだったんですね。
当時の最先端のテクノロジー的には、大量のテキストの中からいろんな手段で自分が欲しい情報を取る。
パテントについているキーワードから引っ張ってくるとか、技術に関係する記号から引っ張ってくるとか、そういう技術を結構やってて。
そのときに感じたのが、好奇心ですね。なぜこういう入り方すると、大量の何百万件何千万件の中からこういうあたりのものが引っ張ってこないんだろうとか、そういう好奇心はやっていくうちに醸成されたかなって思ってまして。
営業でもテクノロジーに関する好奇心っていうのは重要だなっていうふうにずっと思ってました。
スピーカー 1
他の営業仲間だったり、営業競わされるとするとライバルだったり、上司部下、いろいろいる中で、そういうテクノロジーの中身とか技術的なことに関する興味って割とあったほうなんですか。それとも平均的っていうかそういう感じなんですか。
スピーカー 2
相当ありまして、いわゆる一緒にやったエンジニアの方には負けないっていう思いでやってたっていう感じですかね。
スピーカー 1
その辺のことを勉強したいって思ったら、もう本当プロみたいな人が周りにいるから割とそういうのを教えてもらわず、それこそちょっと教えてもらってその後飲みにでも行ってまた教えてもらうとかそういう感じですか。
スピーカー 2
親会社、親会社って日立ですけども、のほうに相当優秀な技術者がいて、その人と仲良くなって教えていただいたりとか。
スピーカー 1
あとはお客さんのほうでも当時はすごくその分野じゃ有識者の方、名のとって有識者の方がたくさんいて、そうした人と仲良くなっていろいろ覚えたっていう感じですかね。
これまでのところの営業人生振り返ってみると、どうなんですか。この同期の中とかで比較的優秀な営業マンでらっしゃるのか、割とその辺の自己評価っていうんですか。
そうですね。
どんなもんでした。
スピーカー 2
端的に言うと20代30代ってだいたい課長から部長になりかけるくらいだった。要はプレイングマネージャーの時代だったんですけども、そのときは自分で言うのもなんですけども優秀だったと思います。
その後、最近よく自分のサラリーマン自体を整理して振り返ってみると、その上になると部長職とか本部長職になるんですけども、余計なことっていうとなかなか表現が難しいんですけども、
単純に営業頑張ればいいとかお客さんのことを思えばいいっていうだけじゃダメになってきて、社内の複雑な人間関係とか、いわゆる出世とかそういうことを考え始めて悩み始めるわけですけども、
スピーカー 1
そのときは立ち回り方としてはそんなに上手じゃなかったように感じてます。