00:06
お願いします。
今日の収録日、3月16日の日曜日ということで、
今日は大会で言うと、小江戸・大江戸が行われた日ですよね。
そうですね。
ちょっと誰が出てたかまでは把握してないんですけども、優勝したのは知り合いの方だったんですけども。
そうですか、どなたですか?
あれさ、コクさんっていう大浜さんの会社の同僚の方かな、先輩だったかもしれない。
それ何キロの部を優勝したんですか?
小江戸・大江戸ですよ、20?
200キロ。
はい、200キロだった気がしますね。
はいはいはい。
あの、なんか、冷え山もやってましたね。
そうですね。冷え山が昨日ですか?
昨日ですね、はい。
結構なかなか、多分雨が降ってた、なかなか厳しい状況だったんじゃないかと思います。
いや、なんか走ってる分野みたいな感じでしたね。
あ、本当ですか?
岩垂くんのインスタグラムを見ると、ただゴールして荷物を取りに行くの時にすごい寒かったみたいなことが書いてあったけど。
まあ冷え山もなかなか厳しいレースですし、その前が、前週が静岡マラソン、田中さんが走られて。
はい。
まあなかなかでもあれですよね、この3月っていうのは、1週間で本当に春めいた陽気もあれば、まあ今日みたいに冬みたいな陽気もあるという、ちょっとレースとしてはなかなか体調管理も難しいところになるんじゃないかと思いますけど。
ちなみに今日あれ、板橋シティとかあったらしいですね。
そうですよね。
なんかヤバそうでしたね。
スタート地点が本当に、完水したみたいなことなんか言ってましたけど。
あ、そうなんですか。
で、多分風も強いんで、まあなかなか最悪な状況の板橋だったと思いますけど。
知り合いが出て、彼はかつたでサブスリーしたんですよ。
はい。
で、昨日ちょっとまあ、彼と共通の知り合いと話して、サブスリーした思い出でやめた方がいいんじゃないかみたいな話をしてて、見事にその友人はサブフォーランナーに戻りましたね。
ああ、まあしかないですね。
元サブスリーランナーからサブフォーランナーになってしまいました。
なるほど。
やめておけばよかったのに。
そうですね。
で、まあ個人的な話になりますが、来週、私が新城32K、どうなるか全く自信がないと言うとまたあれですけど、まあダメでも仕方ないかなと思ってる。
ベストの畜生。
ベストの畜生ですね。
03:00
なかなか難しい大会ではあると思うんで、晴れていただきたいなと思いますけども。
はい、頑張ってください。
ありがとうございます。で、今日のゲストですね、まあ個人的に万を辞してっていうところになるんですかね。
そうですね、はい。
うちのドンが万を辞しての登場というところになりますけども。
はい、今日のゲストは大口太郎さんです。よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ついにでございますな。
そうですね、ずっといつ呼んでいただけるのか待ってたんですけれども、いよいよ。
斉藤篤くんにずっと言ってたらしいですね。
俺の番はいつなんだと。
そうですね。
ハートもあったり、レイクビアもあったりと、いろいろと出場の機会はあったんですけどね。
けどまああっちゃんには権限がないということで。
そうです。
いや、晴らしてくれてもよかったねって。
ついに万を辞してでございますけども。
お願いします。
よろしくお願いします。
太郎さんのことは知ってそうで知らないっていうところがありますね。
意外と昔のことに関しては、高校時代スキーをやられていたことぐらいは知ってますけども。
その前になるとあまり知らないことも多いので、ちょっとその部分っていうのも深掘りできればと思いますけども。
まず、田中さんと太郎さんの共通点っていうと、これも地元が同じと。
はい。
地元の先輩です。
世田谷区。あれ、あそこ世田谷区ですよね。
あれ世田谷区です。
世田谷区っていうだけでお金持ちなイメージしかないんですけども。
いろんな世田谷区もある。
本当ですか。
僕は小学校1年で引っ越したんですけど、その時は田舎だなと思いましたね。
あの辺りですか。
そうですね。僕の住宅の区本仏っていうところなんですけど。
本当に区本仏っていうお寺がありますよね、あそこ。
ありますね。駅前に八百屋が2軒あって、しょっちゅう喧嘩してるとかってそんな噂を聞いたことなんですけど。
実際喧嘩してるのは見たことないですけどね。
それは同業だから喧嘩してるんですか。
いや、なんなんですかね。
多分、面白おかしく誰かが話してるだけなのかもしれないけど。
今やその八百屋はもうないですけどね。ないです。
区本仏ってあれですよね。大井町線のホームから電車がはみ出る駅ですよね。
06:06
1両ホームが開かない。
たまに昔、徳島市の方に住んでたんで、徳島市公園から大井町線乗って二子玉とかに行くとき、間違えて車両乗って必死に区本仏降りて、区本仏で1両移動して降りる方が何人か見たことがありますけど。
それはたまに行く人なんでしょうね。
だと思いますね。
しょっちゅう落ちてるは間違えることないですけど。
一応ドアにも貼ってますもんね。区本仏は開けませんと。
僕それの車両に乗らないから実はわかんない。
本当ですか。
改札が一番後ろですもんね。
そうですそうです。
開かないのが一番前なので。
降りるのだと反対側の車両なんで。
あれ、いまだにまだ1両なんですか?
はみ出てます。
そうなんですね。
この話を聞いて興味がある方は一度大井松船に乗っていただければ。
そうですね。
区本仏は何にもないかな。
お寺がありますね。
そうですね。区本仏。
あれ、区本仏ってお寺じゃないんですよ。
そうなんですか、あれ。
あれ、上神寺ってお寺なんですよ。
そうなんですね。
そこに9体仏様の大仏があるんですよ。
なんで通称区本仏なんですよね、あれ確か。
そうなんですね。
そうなんですよ。
太郎さんもこの情報は今初めて聞いた?
初めて聞きました。
本当ですか。
太郎さんはいくつまで区本仏にいらっしゃったんですか?ずっといらっしゃったんですか?
僕、もとは小学校は板橋区なんですよ。
そうなんですね。
中学校からその区本仏の辺に引っ越して、それで高校を卒業するまでですね。
区本仏の方に。
そうなんですね。
じゃあ、1回転校を経験している。
一応小学校を卒業して引っ越して、中学校は最初から入ったので、
転校ではないんですけど、環境はもう全然変わりましたね。
どうでした?板橋から世田谷に引っ越すっていうのは。
なんか全然違いますか?やっぱり板橋と。
違いますね。
板橋区の子らもすごい小学校とかもマンモス校みたいな、すっごい生徒も多かったし。
中学校入ってから、僕は小山台中学で、田中さんの隣の中学なんですけど。
09:04
高校生生まれして。
それでもうちの中学よりでかかったんですよね。太郎ちゃんの中学の方が。
そうかもしれないですね。
小山台中学は小山台駅にあるんですか?それともそれは区本仏にあるんですか?
小山台駅ですね。
ああ、駅なんですね。
多分小山台と区本仏って2キロ離れていいんじゃない?
いや、もう歩いても全然行ける。
電車として。
小山台もあれですよね、確か三菱の社員寮があるんですよね、あそこ。
あ、そうなの?それは知らない。
そうなんですよ、はい。
だって俺、自分の中学行くより多分小山台中学行く方が近かったんじゃないかな。
多分。
そう、結構、だからあの辺の小学校は小山台中に行くか八幡中に行くかで分かれるのが区本仏小学校の子たちはそうなのかな、きっと。
草は八丁目に住んでるのが小山台中学に行って、多分、そうかな。
ただ数百メートルずれてるだけぐらいかな。
ああ、そうか。
数百メートルずれてないのかな。
でもそんな中、あれですよね、太郎さん、その大きい中学校には周り誰も友達がいない状況で行ったってことですか。
そうです。
おお、厳しいですね。
いや、厳しかったです、なかなか。
ハードル高いですね、それ。
うん、なかなか最初は。
まあ、けどいろんな小学校から集まるんで。
うん。
確かにそうだよ、三つぐらいの小学校から集まってるもんね。
そうですね、三つですね。
じゃあそんな中、板橋から世田谷の大都会の中学校に引っ越して。
大都会ではないんだよ。
いや、もう私、川崎から比べれば大都会ですよ、本当に。
そんな大したないと思うよ。
いやいやいやいや。
だってこれ玉川からね、もう見たら川崎だもんね。見えるぐらい。
きらめいた街はですよね。
私の街は暗黒みたいなとこだったんで。
そんなにきらめいててはなかったですね。
太郎さんは中学校転校して入られて、まずやられた部活、スポーツっていうのは何やられてたんですか、太郎さん。
さっきちょっと話も出たんですけど、僕もずっとスキーしかやってこなくて。
はいはいはいはい。
なのでもう、3歳でスキーを始めて、それから高校まで続けてるんで、もうずっと個人競技でスキーをやってましたね、アルペンスキーを。
12:01
でも中学校は部活はないですよね。
ないです。なので一応野球部に入ってました。
あー、形だけみたいな感じなんですか。
いや、ちゃんと練習を。
練習をしたんですか。
練習も出てましたよ。
でも冬場は全く行けないので、夏場は野球部ちゃんと練習も行ってました。
でもじゃあメインとしてはやっぱりアルペンスキーが。
そうですね、もう野球はもうほんとめちゃくちゃ下手だったので、自分が気の毒になるぐらいですね、今思い出しても。
球技全般があんまり太郎さんには好きではなかったってことですか。
はい、もう全然ダメです。
そうなんですね、アルペンスキー、あ、そうですよね、そうですね。
あ、でも3歳からやってたのは初めて聞きましたね。
アルペンスキーってあれですか、なんかいろいろあるじゃないですか、大回転とかなんか。
そうですね、その、それです、もう本当に回転、大回転ってやつですね。
それってあれやっぱりお父さんがやってたからっていう影響とか。
そうですね、それ、そんなに父親はちゃんとはやってなかったですけど、やっぱりスキーやってたからなんかやらせたんでしょうね、きっと。
3歳から、でも自分からやりたいって3歳の時って。
ないです。
ないですよね。
はい。
じゃあお父さんがやらせてみるかみたいな感じで。
そうですね、だからなんかもう本当つらい思い出しかないですね。
もちろんなんか本当寒い中やるスポーツだし、雪が降っても雨が降っても休めないし。
子供の時じゃん、毎週週末になると山に通ってた、雪山に通ってたみたいな。
そうですね、冬はだからあんまり学校行かなかったですね。
じゃあ何、そっちに住んじゃってるみたいな。
行ったり来たり、はい。
行ったり来たり。
ちなみに拠点みたいなところあったの?
拠点は、もうほんと田中さんが何十回も行かれてる苗場スキー場です。
苗場スキー場、はいはいはい。
へー。
そうですね、だから小学校まではもうずーっと苗場がホームで、
けど中学校に入るとやっぱこう、いろんなとこ遠征が多くなるので、
あんまりその拠点のところには行かなくなりましたけど、はい。
ずっと、はい、小学校までは苗場で。
じゃあ、昔の苗場は悔しいんだ。
ああ、そう、だから本当に、今はちょっとね、あの全然あれですけど、
僕たちが小学校の時ってほんとすごいバブルで、
ほんと私をスキーに連れてって時代なので、
なんかほんと週末になると、その若いお兄さんお姉さんたちがもう街、
街でもないけど、あそこら辺にあふれてて、
なんかディスコとかもあったし、
へー。
なんかほんとなんかもうギラギラしてましたね。
今はコンビニすらないですけどね。
15:00
今そうですよね。
ちょっとすごいびっくりします、今。
たま、何年前だろう、なんか言ったら、はい。
だって、だってなんか、昔そのフジロック行く仲間で、
その別荘がなんかもうただ同然で買えんじゃないかみたいな話になって。
買えるんだけど結局なんか管理費の方が高いから。
そうそう。
維持するの大変だけど。
そうですよね、なんかすごいね、昔のそういうリゾートマンションみたいなのとか、
安く買えるって聞いたことがあります。
なるほど。
そうすると、たなさんはあれですか、なんかジュニア選手みたいな感じだったんですか、それは。
そうですね、その。
そんなことありますよね。
はい、小学校からこういろいろレースに出始めて。
はい。
はい。
じゃあ、公立、中学校もじゃあもう普通で休むのも特にこうなんか気まずい感じではなく、
遠征だからみたいな感じで。
そうですね、だからすごい母親はよく学校に行って、なんかいろいろお願いしてましたね、先生に。
またちょっと長くいなくなるんでとか。
もちろんそんな前例がないと思うんで。
まあそうですよね。
その遠征費はあれですか、じゃあその自費なんですか、それとも国持ちというか。
もう完全に自費ですね。
うわー、超大変ですね。
じゃあ全部あれですもんね、スキーウェアからスキーの道具までも全部自費で。
ローとかもじゃあ自分で塗ったりしたんですか、じゃあ。
ワックス。
ワックスか、そうですね、ローって言わないですもん。
ローってあんまり言わないな。
言わないですか、そうですか。
そうですね、そういうのもある程度は自分でやりますね。
ちなみに今までのゲストの中で、何でしたっけ、基礎スキーでしたっけ、なんかいらっしゃったじゃないですか、何人か。
アルペン。
何人かいらっしゃったんですけど、ごめんなさい、確かタケプーさんとかそうだった気がするんですけど。
はいはいはい、よく覚えてるね。
そのアルペンスキーとかになると、練習ってどういう練習になるんですか、ずっと滑りっぱなしってことですか。
冬場はそうですね、雪のあるシーズンは。
何本ぐらい滑るんですか、1日で。
何本ぐらいですかね、コースにもよるんでしょうけど、どれぐらいだろう、午前10本、午後10本ぐらい滑るのかな、そんなにいかないかな、けどそんなもんだと思います。
でもあれですね、オリンピック見てると平均でも結構速度出るじゃないですか、70までいかないかもしれないですが、でもそのくらい出てる人もいますよね、でも。
そうですね、その種目によっては。
そうですよね。
はい。
それってじゃあもう、例えばトレランの下りとかもそうですけども、そういうスキーの下りとかも、もう何か練習するっていうよりも滑って目を慣らすみたいな感じになるんですか、そういうところって。
そうですね、なんかもうスピードに関してはきっともう、物心つく頃からやってるので全然そういう恐怖はなかったですね。
18:10
えー。
トレランの下りは怖いですよ。
本当ですか。
怖いです。
えー、絶対あっちの下りの方が怖いと思うんですけどね。
すごいな。
あとちょっと素朴な疑問なんですけど、大回転ってスタートの時に、なんかプープーって中途半端でスタートする人いるじゃないですか。
あれはなんでなんですか。
あれは自分のタイミングで出ていい。
自分のタイミングで出ていいんですね、あれ。
そうなんですね。
ちょっといつもそれが気になってこの人なんかプーって言う前に出ちゃったと思ったんですけど。
あれ自分のタイミングで出ていい。
なる前に出たらダメだと思いますけど。
はいはいはい、そうなんですね。
ある程度は、あの中で自分のタイミングで出て大丈夫です。
まあでも3歳からやられてきて。
でもさすがに3歳から始めて、急に大会アルペンをやろうなんて思ったわけでもないですけど。
他の種目になんか行こうとか思ったこともないですか、別に。
思ったことないですね。
まあ、そうですね。
けどなんだろう、僕たち子供の時ってまだモーグルとかもなかったし。
はい。
もうアルペンしかなかったのかな。
あとあれですか、クラシカルなクロスカントリーとか。
そうですね、そういう走る方の。
あとはジャンプですもんね。ジャンプはちょっとまだ違いますもんね。
ジャンプですね。
で、中学校の実際の部活は、たぶん冬になる前までは一応あれですか、土日も中学校の練習試合とか行くこともあったんですか。
あるともやっぱりそれはスキーに当ててたんですか、そこは。
いや、ちゃんと試合も出れないけど行ってました。
一応両立はしてたんですね、そこ。
両立してました、はい。ちゃんとやってました。
なかなか大変ですね、それはそれで。
大変でしたね、下手な野球をやるのも。
全然楽しくないですからね。
ちなみになんで野球を選んだの?
好きだったんでしょうね、きっと野球が。
だから、小学校の時も少年野球もやってたんですよ。
だから全然、ほんと下手だし試合も出れないけど、きっと好きだったんじゃないかな。
見るのじゃなくて、焼けるのも好きだったって感じなんですよね、じゃあ。
そうですね。
でも、ちゃんと終わった後はスキーの練習もされてたんですよね、その夏場とかそこら辺っていうのも。
いや、なんだろう、結局夏場の練習の代わりに部活に入ってたんでしょうね。
21:02
そういうもんな、なるほど。
じゃあ意外と感覚的に言うとちょっとアメリカ人的な感覚なんですね。
夏場野球というスキーみたいな感じで言うと。
ああ、でもそういうのって結構大事だって言いますよね、大人になると。
そうかもしれないですね。
それはそれでいろんなまた体の使い方ができて面白いですね。
けどやっぱり周りもみんなそうしてましたね、いろんな県の他の県の子たちも。
冬場はスキーの選手で、夏場はサッカーやったり野球やったりっていう人がほとんどでしたね。
ああ、そうなんですね。
あれ、太郎さん、前、某オリンピックの選手とお友達。
じゃあその方とはもうあれですか、小学校、中学校からずっとお知り合いだったんですか?
そうですね、もう小学校低学年ぐらいから。
ああ、そうなんですね。
はい、ずっと一緒でしたね。
中学校に入るともうバラバラになるんで、あとは大きな大会行くと会ったりとか。
じゃあもう太郎さんも太郎さんでバリバリな、じゃあ結構アスリートでアルペンをやられてたんですね。
うーん、なんでしょうね。
その時はあんまり自分にここまで運動能力が低いってことに気づいてなくて。
今だったらスポーツじゃなくて他のことやればよかったなと思うんですけど。
でもこれは本当、将来ちゃんとした選手になるのかなと思ってやってましたね。全然でしたけど。
でもその中学校でも高校までもスキーもやられて。
高校はあれですか、それはスポーツ推薦的な感じで行かれたんですか?
そうですね、はい。もう勉強しなくて入れるとこ誘ってもらって。
けどその高校が東京では一番強い高校だったので。
そうなんですね、スキーで。
もともとそんなスキー部がある学校ってそんなにないと思うので。
珍しいですね、スキー部があるっていうのは。
そうですよね。
うちの高校確かあったんですよ、スキー部。横浜なんですけど。
じゃあ結構珍しい。
団体戦とかなければ基本的に個人戦だけでしょ、だってスキーって。
そうなんですよ、だから他の学校なんかきっとみんな個人で動くんでしょうけど、
僕がいた高校は結構しっかりスキーのチームを運営されてて、
チームで動くような練習もちゃんとみんなでチームでやってっていうところだったので。
ちなみにその高校の時の夏の時のトレーニングでどういうことをしたの?
24:00
夏はもうひたすら走りましたね。
やっぱ走るんだ。
もう今思い出しても嫌になるぐらい、
本当にもうきっと陸上部より走ってたんじゃないかなっていうぐらい走ってたというか走らされてましたね。
ちなみにどれぐらい1日で走らされるの?
どれぐらいですかね。
部活の時間がどれぐらいなんだろう、きっと2時間とか3時間とかそんなものだと思うんですけど、
その中でインターバルみたいなのやったり、長距離の日もあったり、
それで月曜から金曜まで、そのグラウンドで、グラウンドでっていうか外走りのことなんですけど陸上トレーニングをして、
それで月曜から土曜までか当時は。
日曜日になると朝高尾山に走りに行くっていう練習があって。
走りに行くんだ。
なので今思えばトレイルランニングをやったり。
トレイルランニング、そうですね。
じゃあスキーの練習なんてほとんどしないで夏は本当に走るのが趣みたいな。
そうですね。
だからもう冬が本当待ち遠しくて。
ちなみに高尾って、あの高尾山を登るの走るの?
そうです。
じゃあ1号路から行くみたいな。
全然高尾山に詳しくないんでわかんないんですけど、きっとすごいメジャーなところだと思います。
じゃあもうあれで、メジャーなルートで、30分ぐらいかかるよね。
30分ぐらいかかるよね。
みんな先生が見てないとサボるんですけど、たまに先生がロープウェイかなんかで上に上がって見てる時があるんですよ。
すごいよね、その先生は。
思い出しますね、なんかそういう感じでした。
ズルできないんだ。
ズルできないです。
ローラースキー的なことはやらなかったんですね。
グラススキーみたいなやつかな?
そうです、うちの高校はなんかあるじゃないですか、ローラーがついたスキーの板みたいなやつ。
あれでなんかやってたのは見たことありますけど、じゃあ全然そこら辺はせずに。
せずに、けどそういうの取り入れてる人たちもいたんでしょうね、きっと。
いやー、それ確かにスキー部に入ってんのにずっと走り出されてたら早く冬になりたいっすよね、それ。
地獄っすね、それ。
いやー、きつかったですね。
はー、なるほど。
しかもなんだろう、僕高校、家がね、その田中さん家の近くで、高校が国分寺なんですよ。
なかなか遠いですね。
そう、それで、ほとんどその学校に来る人たちって、八王子とか立川とか国立とか、東京方面でも中野とか阿佐ヶ谷とかそこら辺なんですけど、僕だけスポーツ推薦で入れるとこ入ってるんで、めっちゃくちゃ遠いんですよね。
27:11
それも本当、朝もめっちゃくちゃ早く起きて、高校行って、それで日曜日は日曜日で、また高尾山に行かなきゃいけないんで、朝から。
それまたさらに遠くて。
はい。
当時はね、携帯電話なんかもないから、その高尾山の練習が雨で中止になるとかって言っても、僕連絡網が回ってくるときにとっくに家を出ちゃってるんですよね。
はいはいはい。
行ったら誰もいないとか。
うわー。
はい。そんな高校生活でした。
よく辞めようと思わなかったですね、その高校自体とかそこら辺は全然。
そうですね。なんか辞めちゃいけないと思ってたんで。
いや、すごいなそれ。
はい。
だってもちろん朝練もあったんですもんね。
朝練はね、なかったです。
朝練はなかったんですね。
はい。
じゃあそれならまだ。
うん。
まだとしても、8時半に学校、だいたい片道、そうすると約2時間くらいかかりそうですもんね。
2時間くらいかかりますね。
うわー。きっつ。
で、高校はあれですか、やっぱりインターハイとかは、太郎さんどんな感じだったんですか?
僕はね、国体は1年生の時に出たんですけど、
はい。
それでインターハイは行けずに、なんかね、僕も高校めちゃくちゃもう落ち目だったんですよね。
あの、よくその当時の仲間にも言うんですけど、僕前世紀が小学校だって言うんですけど、
小学校の時一番すごい乗ってて、
はい。
どんどんどんどんこう、ね、あの、なんだろう、やっぱ小さい、みんなより早く始めてるんで、
中学校前半くらいまではなんかこう、そういう経験でなんか周りと戦えてたんですけど、
はい。
やっぱどんどんその運動能力の差みたいのが出てきて、後から始めた人たちにどんどんどんどん追いつかれて、
なんか高校ってなんかもうあんまりうまくいかなくて、それでもう結構気持ちが切れ始めて、
それで高2、高1は国体が出れてよかったんですけど、
はい。
高2でインターハイか国体、もうどっちかいけなかったらもうやめようと思って、
はい。
それでいけなくて、それでも高3はだからもう部には入ってたんですけども、レースには出てないですね。
もう自分で辞めちゃってたっていう感じです。
それ練習はしたんですか、その1年間は。
高3はもう行かなくなってましたね、最初は行ってたかもしれないですけど、
先生から逃げてました、ずっと。
はいはい、まあまあなんかわかります、それは。
でも逆にスマホとかなくて助かったのか助かんなか、まあそれがいいか悪いかわかんないですけど、
今だったらあれですもんね、なんかLINEとかそこの辺でお前練習来ないのかとか言われましたけど、
それがなきゃいけないんで。
逃げられないですよね。
30:00
そうですね。
よかったですね。
難しいですね、まあでも高校3年生でその判断をするっていうのもまあなかなか、
まだちょっとなんか多感な時期なんで、いやまだまだみたいなところはなく、
結構スパッと。
スパッと、はい。
もうないなと思いました。
でも2時間かけて学校行って卒業してってことですもんね。
しましたね、はい。
なんかでもその1年間でもあれじゃないですか、なんかもう目的も、
まあ悪い意味ではないですけど、目的もちょっと見失ってしまった部分もあって。
そうですね、だからすごいきっと悩んだと思うんですよね、なんかもうほんとスキーしかやってこなかったので、
なんだろう、もう小学校も中学校もスキーの太郎くんみたいな周りに思われてたし、
なんかスキーいなくなったらもうどうやって生きていくのかなと思ってたけど、
まあ辞めてみると結構あっさり、もう二度とやりたくないなぐらい思って。
なんか呪縛から解放されたみたいな感じなんですね。
そうですね、解放されましたね。
ちなみにその辞めた後に次なる趣味というか生き甲斐みたいなやつなんかあったの?
そうですね、もう高校3年生の時は、もう高校卒業したらアメリカに行くって決めてたので、
なんかもうそっちにシフトしてましたね、そっちの準備の方に。
で、結果アメリカに行ったんだ。
そうですね、もう高校卒業した2日後ぐらいに行きましたね、もう。
へえ、すごい。
行く学校とか決まってたの?
えっと、最初語学学校だけ決まってました。
そっからはなんか、はい、進学先は向こう行って決めてきましたね、はい。
そのあっちゃんが言ってたよね、目的っていうのはなんか。
あ、向こうで。
そう、まあそもそもアメリカに行く目的、まあ行くこと自体が目的だったみたいな感じ。
そうですね、向こうの学校に行くっていうのはきっと目的だったと思うんですよね。
なんか見つかるかなぐらい思ってたのかもしれないですけどね。
きっかけってなんかあったんですか、それ、高校の時とか、何かの映画見てとか何か雑誌見てみたいな。
いやあ、ない、なんででしょうね。
けどなんかその、僕が行った高校って幼稚園から大学まであるんで、ほぼほぼみんな高校からみんなそのまま大学に行くんですよね。
はいはいはいはい。
それで僕もね、最初はね、そのまま大学に行こうと思ってたんですけど、なんだろうな、なんか覚えてないですけど、なんか急にアメリカに行くことになってましたね。
でも全て手続きは太郎さんでご自身でやられて。
そうですね、なんかそういう、なんだろう、留学センターみたいなのが今でももちろんあると思うんですけど、
33:05
なんかそういう、カウンセラーみたいな人がいるようで、こういうとこ、こういう大学があるよとかそういうことをいろいろ相談するところがあって、
そこだけ、最初はなんか、一番最初は母親と行ったのかな、けどそこからはもう自分で相談しながらどこに行きたいっていうのを決めてやってましたね。
ちなみにアメリカはどこに行ったの?
これまた僕、さっきスキーなんか二度とやるかみたいなこと言ったんですけど、コロラドに行ったんですよ。
コロラド。レンバー?
レンバーです。
はいはいはい。
レンバーはいいとこですね。
そう、だからほんとに今思えば、すごいいい環境で、ほんとボルダーも近いし、一切走んなかったし、なんかそういうアウトドアスポーツも全くやんなかったんで、なんかもったいなかったですね。
レンバーで標高どれくらいなの?あそこって。
レンバーでマイルハイっていうので、だから1600ですかね。
あ、じゃあ1600、標高1600か。
そう、だから結構行ったばっかりだときついんじゃないですかね。
最初はね。
なんかよく水を飲むようにとかなんか最初言われた気がしますね。
あー、そうなんだ。
あと野球もなんかホームランが出やすいとか。
あ、そうですそうです。コロラドロッキーズ。空気が乾燥してるんで、めちゃくちゃホームラン出やすいです、あそこは。
あ、標高の問題じゃなくて、それって乾燥してるから?
乾燥と標高とかいろいろあるみたいですよ。
あー、そうなんだ。
摩擦がないとかそんな感じの中で聞いた記憶はありますね。
へー。
そのコロラド選んだっていうか、なんかその留学センターに相談してたらなんとなくコロラドになったみたいなそんな感じ。
そうですね、なんかやっぱりカリフォルニアとかニューヨークとかっていうのが全然。
僕、性格的にもあんまそういうごちゃごちゃしたとこに行くタイプではないなと思ってて。
なんかのんびりしたようなところがいいんだろうなと思って、きっとそういうふうに相談したんでしょうね。
そしたら、その中できっとコロラドが一番良さそうだなと思って。
ちなみに今でもコロラドには友達いるの?
コロラドいます?はい。
あ、そうなんだ。
じゃあハードロック出るときは便利かもね。
そうですね、たまに連絡取るので、レースで行くことがあれば連絡したいなと思いますけど。
ちなみにアメリカは何年いらっしゃったんですか?
結局6年弱ぐらい、6年は行ってないですけど5年ちょっとぐらいですかね。
36:02
20で23ぐらいまでってことですか?
23で帰ってきたのかな?
大学は行ったの?
大学行きました。
大学行って卒業してるか。
最初は語学学校に行って、そっからコミュニティカレッジっていう2年生の短大ですかね、日本でいう。
に行って、それ短大を卒業して4年生の大学に編入して、それでなんだかんだで6年弱ぐらいかかりました。
ずっとじゃあそのメンバーコロラドで過ごされてたってことなんですね。
そう、けどなんだろう、途中その短大を卒業した時に他の州に行こうとかって考えて、いろんなとこちょっと見に行ったりもしたんですけど、
やっぱ行ってみると、やっぱコロラドがいいなと思って結局そのままコロラドに残りました。
なんか惹かれるものがあったってことなんですね、やっぱりコロラドに。
やっぱすごい住みやすいですね。
全然想像がつかないですね、コロラド。
あっちゃんアメリカ行ったことあんの?
アメリカロストニューヨークしかないんですよ、自分。
ロストニューヨークあんのか、ハワイか、はいはいはい。
あとコロラドって言うとデンバーナゲット、ヨキッチが今頑張ってますけどね、それぐらいしか思わないですよ。
バスケの話なんですけどそれは。
その6年間、太郎さんアメリカで何されてたんですか?
アメリカで学校行って、あとやっぱ音楽が好きだったので、
ずっともう向こういろいろ近所の子達とバンドをやってましたね。
いつも週末はライブ見に行ったり。
どんなジャンルの音楽聴いてたの?
ハードコアですね。
バンドで言うと?
バンドで言うと、分かりにくいのか分かりやすいのかなんですけど、
多分ディスチャージとかそういうのが一番分かりやすいのかな。
ディスチャージ?
ディスチャージとか、はい。
そこらへんは田中さんに僕はお任せしますけど。
いや、俺も知らないやん、ディスチャージ。
ハードコアか。
他には?
他には、えっとね、僕が一番好きなバンドはDOOMっていう、
D-O-O-MでDOOMっていうバンドなんですけど、
あと何だろう、分かりやすいので言うと。
田中さん、日本にいた頃からしてたんですか、そのバンドは?
本当は向こうで?
そうですね、高校の時に、
何だろう、その、僕は高校から入ってるけど、
他の子たちはみんな小学校からとか中学校からやってきてて、
39:04
やっぱその私立の、ずっとそういうコミュニティで生きてきた同級生たちって、
なんかすんごいオシャレだったんですよね、なんか。
全然その音楽とかも全然そういう聞いたこともないような音楽を聞いてて、
ファッションとかも全然違ってて、
それでやっぱ高校でできた友達とかにすごく影響を受けて、
それで高校からハードコアとかパンクとか聞くようになって。
ちょっと初めて聞いたバンドなんで。
ちなみに田中さん、楽器は何を担当されてたんですか?
楽器も本当なんか弾けるとかっていうレベルじゃないんですけど、
ベースをやってましたね。
バンドは何ですか?3ピースですか?
バンドは4ピースっていうの?4人?
4人で。
そうなんですね。
で、ライブ活動。ライブも多分もちろん向こうでやられてたってことですよね。
やってましたね。
それはコロラドの街なの?それともどっか行ったりしたんですか?アメリカの中。
コロラドって言ってもなんかすごい広いので、
コロラドの中では結構遠いところまでみんなで行ったりしてましたけど、
コロラドの外はないかな。
高校時代とは対極な感じだったんですね。
開放されたんでしょうね。
そうですよね。初めて自分が好きでやったみたいな感じのものってことですもんね、その人生。
18年にして。
それで、そうですよね。ある意味親の目もないわけですもんね。
そうですね。
それは跳ね伸ばしますよね。
ちなみに大学時代はあれですか、専攻は何を学ばれてたんですか?アメリカでは。
専攻はずっと美術ですね。
ずっと美術ですね。
なるほど。
そこの辺はあれですか、昔から美術の授業とかはちょっとたけてた部分っていうのもあったんですか?
そうですね。なんかこう書いたりするのが小さい頃からずっと好きだったので、
今思えばそっちの方を小さい頃からやってればよかったのかなと思いますけど、好きじゃなくて。
そっか、でも太郎さんたちだとそうですもんね、Macがイラストレーターの時代ですもんね、ちょっと出てきて、まだCSとかつかない前の頃ですよね。
そうです。もうMacが広がってきた、ちょうどその時代ですね。
iMac。
そうですね、ちょっとカラフルなiMacとか出てきたり。
セレクターから追加するとかそんな感じの、パソコンのシャットダウンの仕方がちょっと分かりづらいんですよね。
42:06
そうかもしれないですね。
イラストレーターもそうですよね、両面印刷ができなかったですよね。
それプリンタの問題じゃない?
いや違うんですよ。イラストレーターのCS2になって初めてアードボードが2枚できるようになったんですよ。
そうかもしれない。
そうなんですよ。それまではA3にして、割り付けを2にしないと両面印刷ができなかったんですよ。
イラストレーターって。
イラストレーター詳しいね。
ちょっと前の仕事で、あとフォントもダウンロードしないとイタリックになっちゃうとかですよね。
CSになって初めてダイナミックダウンロードが搭載されて、プリンターにフォントを入れなくてもそのままウィグジグの考えができるようになった。
すげえどうでもいい話なんですけどね。そういうところしか私は分からない。
いやいや、すごいね。
前の会社で培ったあれなんですけど。
うちの奥さんと太郎さんはほぼ同時期ぐらいな感じですよね。デザインのところで言うと。
いいですね、アメリカで6年。
もし日本に6年いたと考えると全然違いますよね。考え方とかも。
違うでしょうね。どう違うのか分からないですけど。
やっぱアメリカに行くとそこら辺に今まで18年間日本で培ってきた部分っていうのは覆されるじゃないですけど、アメリカならではの部分っていうのは目覚めたりするものですか?色々思考とかでは。
そうですね、なんかね、けどやっぱり向こうからしたら1人の外国人が向こうのコミュニティで生活するんで、すごい自分からコミュニケーションを取らないときと生活できない環境だと思うんですよね。
僕あんまそういう極度のコミュニティなんで、自分から人に話しかけたりするタイプじゃないんですけど。
また日本に帰ってきてそういう人間になっちゃったんですけど、向こうにいるときから結構自分でコミュニケーションを取る方だったのかな。なんかまあ頑張って生きてましたね。
で、それはあれですもんね、バイトしながら金稼いで。
基本的には仕送りですけど、
あ、そっか、働けないのか、そっかそっか。
けど、向こうアメリカ行くとみんな大体その日本食のレストランで隠れてアルバイトするか、
あとは、学生はキャンパス内だとアルバイトができるんですよ。
45:02
ビザがなくて、その労働のビザがなくても。
はいはいはいはい。
校内のカフェとか、あと本屋さんとか、なんだろうな、カフェテリアみたいなとことか、
僕はデザインの専攻だったので、学校の新聞のレイアウトをするポジションがあって、
そこで雇ってもらえて、だからずっとキャンパス内の学校新聞のレイアウトのアルバイトを学校に通いながらしてましたね。
そこでちょっとお小遣いを貯めてみたいな。
そうですね。
卒業を間近に迎えてアメリカに残ろうと考えたことはなかったんですか?
そうですね。考えなかったですね。
なんで考えなかったんでしょうね。今思うとね、
残ればよかったなとも思うけど、もう1回帰ってきちゃうとダメですからね。
でも別に、日本に戻るのは仕事が決まってて日本に戻ってきたわけでもないんですよね、それは。
そうですね。日本に帰ってきてから仕事を探しました。
なるほど。ここまで聞くとなかなか田中さん面白い。
そうですね。
羨ましいですね。羨ましいですね。アメリカに行って。
で、田中さんが日本に戻ってきたのが2000何年なんですか、それって。
2002かな。
ちょうど日韓ワールドカップの年に。
そうなんですよ。2001年に911?
はいはいはい。
同時多発ステローがあったときに、僕ちょうどアメリカにいて、
僕全然家でテレビ見たりしなかったんで、
あの日朝起きてバイト先に行ったら、
編集の人たちが大騒ぎをしてて、
テレビを運んだりしてて、何やってんのかなと思ったら、
今日記事全部差し替えるからって言われて、
大騒ぎになってて、それで学校の建物も、建物だけじゃなくて、
町の建物全部ロックダウンされちゃったんですよね。
そうなんですね。
もうだから町が封鎖じゃないけど、
もうみんな何が起きてるのか分かってなかったんで、
それだから僕たちだけ、新聞の人たちだけ、
そのビルに残って、朝まで作業してましたね。
48:00
そっか、それが2001、2002ですね、だから書いてたのが。
確かにあれは今も覚えてますけども、
テレビで、たぶん日本の夜かな。
テレビで見た時、最初は映画かなと自分も見てたんですけど、
実は映画じゃなくて、実際に今起きてるっていうのは、
日本でもかなりな衝撃度があったな。
現地にいる人からして見たら、まあそうですよね。
そうですね、すごい瞬間でしたね。
で、またご自身も新聞で勤めてバイトしてたってなると、
まあそうですよね、寄り添う部分っていうのが大きい。
なかなか濃密な時間ですね、アメリカでの9.11もそうですし、2001。
で、2002に帰ってきて、そこからはあれですか、もうすぐ、
今度はあれですよね、就職活動をしなくちゃいけないってことですもんね。
そうですね、はい。
で、じゃあ晴れて太郎さんの専攻サーキットはデザイン系のお仕事に勤められて。
はい、広告制作の会社で。
どうでしたか、急に今まで外国でアメリカで住んでた方が日本の、
まあ広告業界なんで何ともうまく言えないですけど、
そうですね。
日本ならではのところが。
奴隷みたいな生活になったので。
そうですよね。
ほんともう寝る時間もないし、休みもないしっていうのが、
こんなこと、こんな生活するために今まで勉強してきたのかなって思いましたね。
それ広告はあれですか、紙媒体の方ですか?
紙媒体の方です。
紙媒体の方なんですね。
はい。
もうあれですよね、残業とか確実に苦労のレベルですよね、多分。
そうです、はい。もう残業でつかないし。
あ、つかないんだ。
はい。
急に多分あれですもんね、差し替え、本当に差し替えじゃないですけど、ゼロになっちゃう部分もありますもんね、広告。
そうですね。
アートディレクターのですよね。
まあね、アートディレクターは味方の方にいるんであれですけど、クライアントがね、やっぱり金曜の夜に修正を入れて月曜日までに出せとかっていうのは、そんなのばっかりでしたね。
そう、若くないとやっていけないですよね、でもそんな体力。
そうですね。
広告業界はまあね、クライアントの今もサントリーの水陣相談で話題になってますけど、また時代が違いますからね、今の太郎さんの頃の時代ってなると。
マックスどのくらい残業したんですか?
いや、気にしたことないけど、当時終電で帰れることってあんまなかったんじゃないですか。
51:03
まじか。
ほんとですか。
そうですね、だから朝いつもなんか朝ご飯をデニーズで食べてから帰ったりしてましたね、みんなで。
えー。
あと何時間後に。
その時はあれですか、まだ、そっかもう一人暮らしですか、それは。
その時は、もう今の奥さんと一緒に住んでましたね。結婚してないけど。
えー。
それを生活するまで何年やられたんですか。
それをだけど3年ぐらいかな。
よく体壊さなかったですよね。
いや。
壊しますように普通にやっぱり。
そう、けどなんかそう、いつもその健康診断の時に、あの、その同僚とかと、いや、今回の健康診断はきっとやばいぞって言いながら健康診断を受けて結果が出るとなんか全然全部Aだったとかっていう。
えー、すご。
みんなそんな感じでした、はい。
だからあんまり結構ジョブなんだなと思って、人間って。
産業移民なんとかそんなないですもんね、多分ね。
ないですね。
うん。
はー、すっげーな。
で、それ3年やられて。
うん。
もうあれですか、やっぱもうその3年後にはちょっともうさすがに厳しいと思って転職等々にやられたんですか、それは。
えーと、結局、まあその辞めたのも、あの自分ちの仕事をやる。
あ、そうなんですね。
まあいろいろあって、はい。
はいはいはい。
ほとんどなくて、それではい、いったん、いったんというか、もう家業をやるつもりで、はい。
うーん。
そっちに行きました。
田中さんあります?田中さんマックス残業どのくらいですか?
マックス?どれくらいだろう?150とかかな。
おー。
うん。
そう何年くらい前ですか、それは。
それインド行ってるときかな、確か。
インド出張行ってて。
はい。
そうだね。3週間休みがなかったのかな。
あー。
まあそれ今アウトですね、それ。
アウトですね。
まあ今全然アウトです。
で、出張で仕事してるから、必ず朝7時半にホテルにタクシーが来るのよ。
で、タクシー乗って、8時半から仕事して、で、大体まあ夜中の、まあ徹夜しなかったんだけど、10時くらいまで仕事してっていうのが平日なんだけど。
で、プラス土日も仕事してっから。
あー。
それが多分マックスじゃないかな。
うん。
日本だったらまあ同じくらいのことあったかもしれないけど、まあ200はないね。
うん。
まあ田中さんの業界もね、デスマーチって言葉があるくらいですもんね。
うん。
まあ大体みんななんか100くらいした1人前みたいなそんな感じだったからね。
54:04
そうだね、確かに。
うん。
そう。
まあ俺はどっちかと恵まれてた方かな。
うん。
やばかったこともあったけど、まあまあそのインド出張が一番。
人生マックスだしすげえ稼いだけどね、おかげさまで。
まあ確かにそうですね。
うん。
なんか海外出張だと残業代が、給室出勤同等の残業代が出るんで。
あ、1.いくつなんですね、じゃあ。はいはいはい。
1.45倍かな。
えー。
で、150時間とかしてるからめちゃめちゃ金が入ったけどね。
ああ。
うーん。そういう苦労はまあね、今はどうなんだろう、あんまり言うとまたですけどね。
まあまあありますよね、今100を超えるとか自分もまあありましたし。
田中さんじゃあそんな生活を送られてきて、結構体的にはあれですか、今まで運動もされてきた人が全く運動もできなくなり。
うんうん。
そうですね、本当に不健康な生活をずっと続けて。
で、まあここから本題のお話になるんですけども。
はい。
まあ、田中さんが走り始めた年っていうのは何年なんですか、それは。
えーとね、2012ですかね。
おおー。
本当ジョギングから、はい。
はいはいはいはいはい。
それがきっかけはあれですか、何かあったんですか、それは。
きっかけはだからやっぱり太ってきた。
はいはいはい。
ので、ちょっと近所をジョギングしたのが始まりかな、はい。5キロとか。
じゃあまあ本当に一般的な感じで始めたランニングだったんですね、じゃあそこ最初は。
うん。
ただそこから急になんかいろいろとレースに寝ようかなって思った部分っていうのは何かきっかけはあったんですか。
そうですね、当時都立大学に住んでて。
はい。
それで、またスキーの話に戻るんですけど、僕の一個下で翔ちゃんっていうずっと小さい頃から一緒にスキーやってきた友達がいて。
はい。
翔ちゃんは結構ちゃんと最後の方まで頑張った選手なんですけど、翔ちゃんが中目黒でカイロプラクティックの治療院を開業してて。
僕その最初ジョギングでこう足が痛くなったりして。
はい。
それで翔ちゃんのとこで見てもらうようになって、それでいろいろ翔ちゃんと走るようになったんですよね。翔ちゃんもずっと運動やってる人なんで。
はい。
それで翔ちゃんと一緒に走ったりしてたら、それ多分、当時なんかターザンかなんかのを読んでて。
57:06
はい。
荷物を背負ってなんかストックみたいなのを持って山の中を走ってる特集みたいなのをやってて。
うんうんうん。
それがトレイルラーニングっていうのを知って、それで翔ちゃんに俺これやりたいって言ったんですよね、なんか。
はい。
そうしたら翔ちゃんが自分の患者さんでやってる人何人かいるから、今度じゃあ一緒に連れてってもらえるか聞いてみるねって言われて。
それで本当に翔ちゃんがそれをセッティングしてくれて、トレイルラーニングに連れてってもらったのが始まりなんですよ。
それがそのお友達も言い出しちゃったんですよね、一緒に。
そうです。当時その翔ちゃんと、あと僕は隊長って呼んでるんですけども、隊長も今でも現役で頑張ってる人で、その隊長が全部トレイルラーニングのことを教えてくれて。
隊長と翔ちゃんと僕と、あともう一人が前田玉ちゃんの奥さんの和美さん。
はいはいはいはい。
はい。それで4人で行ったんですよね、最初。大山かどっかに行ったのかな。
それ何年ぐらいの話?
それがね、2012。
それが2012ですね。
じゃあ走り始めてすぐ?
そうですね、走り始めて、すぐなんか月200キロとかそんぐらい走るようになって、そしたらもう、
はい、そしたらトレイルラーニングできるんじゃないかと思って、それ連れてってもらって。
はい、それでもう隊長がいろんなことを教えてくれて。
隊長はもう2014ぐらいのUTMBとか走ったりしてたので、はい、みんなで練習するようになりましたね。
急に月200キロなんですね、すごい、振り幅がすごいですね。
うん、なんでしょうね、なんか楽しかったんでしょうね、きっと。
すごいな、急に月200キロとか。
すごいですね、やっぱりね、やっぱり極めるところ、やっぱり極めてるところあるんですよ、やっぱりね。
なかなか、なかなかですよね。
それで2012年で、タロウさんの一番古い、わかる範囲だと思うのは2013年。
次に、翌年にはもうハセツネ出られてて。
2013。
そうですね。
そうですよね。
2013年にきっとレース出始めてますね。
ハセツネ30Kとか、はい。
ITJ、美しがはら、あとSTYももう2015年には出てるんですね。
そうですね。
なかなかこう、やっぱりタロウさんこういうとこあんまりためらわないで、結構何でも出ちゃえって感じの人なんですか?
いや、どうですかね、なんかきっとこの頃はもうやっぱハセツネを目標にやってたと思うんですよね。
1:00:04
なんかすごいよくハセツネの思想を言ったりしてたんで、
それでハセツネ走って、きっとそこから70キロぐらいのレースをきっと走れるんだなと思って始めてるんじゃないですかね。
で、見ると今度はそうですよ、その子までは特にチームメイトはないんですけど、
2016年のOSJ、奥久寺か、奥久寺で初めて岩本町の話が、チーム名が出てきてる。
そうですね、2015まで、その間も僕ちょっと休んでる時間とかあったんですけど、
ここでもう一回ちゃんとやろうと思って、2016年に岩本町トレイルランニングクラブに入らせてもらいましたね。
で、あれですよね、この年の新月で、こっしーさんと、なんか一緒に、ペースが一緒になった時とかですよね、今の。
あ、えっとね、この時の全然こっしーの方が早くて、あ、あれ?そうだな、こっしーと一緒になったのもっと何年か後ですね。
あ、これはまだ当たらないですね。
こっしーの背中も見えない。
ここから15年、16年、17年とコンスタントにいろいろとレースに、で、太野さん出て続けて、
で、またここでさっき、まあ今度トレイランをすることによって、また新たな出会いが、まさかの同じ部活の後輩小室純介に出会うと。
びっくりしましたね。
これどこで出会ったんですか、これは。
えっと、ウルトラギアマーケット?
はいはいはい。
なんか、なんかどっか学校みたいなところでやってる時。
池尻ですね、はい。
あ、池尻、池尻。
で、僕は、あの、エイドキッチンのお手伝いで、エイドキッチンはカレーをそこで出してたんですよね。
それを僕何年か一緒にやってて。
それで、そうちゃんのお手伝いで一緒に行ったら、小室が太郎先輩って言うから、
そしたら、あ、小室だと思って。
何やってんのって。
でもなんか僕も走ってるんですよ、みたいな。
はいはいはい。
はい。
何年ぶりの再会だったんですか。
20年?
あ、そんなですか。
20年ぐらい経ってるのかな。
そうですね、ちょうど20年ぐらいか。
へー、よく小室さんも小室さんで、太郎さん、あんまり変わってなかったと思います。
分かったなと思いますよね。
20年だとそうですよね。
ねえ、ほんとよく分かりましたよね、僕のことが。
1:03:05
へー。
それは何年ぐらいですか、2000?
それはあれじゃないですかね、2010?
そっか、エイドキッチン2017とか18ぐらいかな。
あー、はいはいはいはいはい。
うん。もっと後かな。
いや、待って、エイドキッチンができてんだもんな、もう。
そうだよね。
6周年?7周年?
2018ぐらいかもしれないですね。
じゃあ小室さんも多分あれですよね、LDAに入られてた時かな。
確か第一期が2018。
次の年に小室が入ってました。
あ、じゃあ2017年ですね、あったのがきっと。
あー、なるほど。
そうですね、18の10月だった気がするんで、はい。
なかなか面白いですね。
ウルトラギアマーケットって俺行ったのかな、あんまり覚えてないな、行ったような気もするな。
うん。
2017?
多分自分は行ってないですね。
いや、行ったかな。
あの、お花屋さん?お花屋さんじゃないわ。
なんかあの、慶応閣の近くでやってたのが行った記憶があるんですよ。
あれはウルトラギアマーケット。
ウルトラギアじゃないんですよね。
ではないよね。
でもアンサー4は出てた。
アンサー4は出てた。
そうですよね、それも行った記憶はすごくあるんですけど、ウルトラギアは多分自分2018、19とかだと思うんですよ、初めて行ったの。
いやー、忘れちゃいましたね。行ったような気がするなー。
つい最近の出来事すら覚えてない私たちですからね。
覚えてないですね。
私たちっていうのもありますからね。すいませんけど。
いやー、そうですね。はい、私もそうです。
そこで小物さんに出会い、トレーラーやってて紡いだ、また出会うっていうのもなかなかないですよね。
自分トレーラーやってて過去の友達に出会ったことなんて一回もないんで。
田中さんでもそう考えると、山口さんがいらっしゃいますし。
そうだね、山口ぐらいか。それでも十分だよね。
そうですよね。やってて出会ったっていう感じでもないかな。
ちょこちょこ会ってたりはしてたんだろうね、多分ね。
だいぶつながりはあったから。
私は川崎を捨てたんで、連絡先も誰一人わかんないんで。
それはそうですよね。
ちなみになんですけど、このビッグマウスマフィアができたのはこれ2000何年になったんですか?
えー、どうかな。最初ビッグマウスファミリーって言ってたんですよね。
当初はですね、はい。
それは多分2017、18ぐらいで、ちゃんと今のね、にわくんとか、川とか順平と一緒にやり始めたのはきっと2020ぐらいなんじゃないかな。
1:06:16
2010か、2019だな。
多分あれですよね、しんさんがにわさん達とハート出た年ぐらいですよね。
そうかな、それでしんさんとにわさんが仲良くなって一緒に動くようになったのかな。
それでやっぱりあれですかね、お互いそんなに一緒に練習するわけでもないんですけど、
いろいろと太郎さんの中でもまた競技者としてちょっと熱くなる時期にまた入るって感じですか。
そうですね、すごいやっぱり楽しくなってきましたね、これぐらいから。
やっぱりしんさんとか、こっしん、ttもそうだけど、なんかいい仲間が見つかって、なんかみんなで飲んだり走ったりするのがすごい楽しいなと思い始めて、
みんなで一緒にレース行ったりするのもすごい楽しかったし、
そうですね、こっからなんか楽しくなってきましたね、走るのが。
今まで楽しくなかったってわけでもないんですけど。
でも太郎さんと見てるとやっぱりコンスタントに換装もされて、年代別でもコンスタントに入るところっていうのが、
結果を見てると見受けられるんですけども、そこの辺でご自身を俯瞰してみて、何かそういう強さって太郎さんあります?
いやないですけど、けど何回か年代別とか入ったことがあるんですけど、
けどこれはやっぱりその、なんだろう、藤岡さんとの出会いがあるから、それまた後から来る、準備してあったら。
もう全然今、今で大丈夫です。
大丈夫ですか。
ダンドルまで大丈夫です。
そうなんですよね、岩本町トレーリングクラブ、ラーニングクラブに入って、しんさんとか甲子園で会って、
それで一緒に走るようになって、そしたらやっぱみんなどんどんどんどん強くなっていくので、
僕も背中追いかけるようになって、それで2020年に藤岡さんにコーチングをお願いしたんですよ、初めて。
それでその時に、最初自分の目標とかってきっと話すると思うんですけど、
その時に、僕なんか全然その、叶わないぐらいの目標だったんですけど、
日本の国内の100マイルレースで、もうどのレースでもいいから一度トップ10に入りたいっていうのを目標にして、
1:09:05
それで藤岡さんはそれできるから成し遂げようって言って、それで2020年から一緒に練習を始めたんですよね。
けどそれ、そっからやっぱベース作るのに何年かかかってるんで、そっからやっと何回かいいレースができる時が来たという感じですかね。
タローさんのお話とかも聞いてて素晴らしいなと思うんですけど、私は。
私の話してますが、私はあんまり花が咲かないんですけどね。
タローさんのこの、本当にこのままドライフラワーで終わるんじゃねえかなって思っちゃう分もあるんですけど。
だからタローさんの今の話でやっぱり一つのポイントとなったのが2022年の温滝100マイル。
これが本当に宣言通りの総合QA。
見ててこっちもやっぱり感動しましたし、決実したっていうの言い方もあれですけど、すげえなと思いましたね、これは本当に。
ベストレースですか、本人、ご本人の中でも。
そうですね、やっぱりその2020年から藤岡さんと一緒に練習を始めて、2021とこうだんだん。
僕根が真面目なので、本当に言われたことを忠実にやるタイプなので。
本当そうっすもんね、タローさん。
それも藤岡さんの言う通りに本当に。
特にコロナ禍だったんで、レースもどんどんなくなって、すっごい練習に集中できたんですよね。
もうひたすら練習できたので、すごくいい時間だったんだなと思うんですけど。
けどその中でもやっぱ、レースうまくいかなくて。
それがやっと2022年のおんたけでトップ10に入れて、すごく嬉しかったのと。
あと、田中さんは覚えてらっしゃるか、あれですけど、僕この時のおんたけの時に初めて田中さんに話しかけたんですよ。
覚えてます、覚えてます。
もちろんずーっとお会いをしてるんですけれども、なかなか話しかけられずにいて、
田中さんは隣の中学校だっていうのを知ってたので、すごく勇気を振り絞って話しかけました。
宣言に大人の時もあってはいるよね。
あってます。
あってんだよね。
覚えてますよ。
すみません、おんたけって結構自分ではそんなにマジモードではなかったんで、
誰か一緒に走るやついないかなっていう、だから後ろからふらふら走ってて、
太郎ちゃんに声をかけてもらったっていうのをよく覚えてますね。
1:12:02
あれ田中さん100KMの時ですよね?
違う、100マイル。
100マイルでしたっけ?あ、そっか。
100マイルです。
ちなみに僕何位だったか覚えてますか?
あれ3位でしたよね?
3位です。
それは覚えてます。
はい。
太郎さん確かに前にお話で聞いたことありますけど、
多分自分とかは設定のスピードを目指していますけど、
そこら辺は太郎さんはあんまり狙わないで、
どちらかというと心拍の中で設定を目指すみたいな話を聞いてて、
だからそこら辺でやっぱり、無理しないっていうわけでもないんでしょうけども、
やっぱりある意味自分の中でも目的を持ってやってるのかなと思ってて、
だからそういうところはやっぱり身近で見てて、
ああ、すげえなあって、
あの頃の自分どこ行ったんだろうって今思ってますけどね、
言ってるでちょっと悲しくなってきましたよ。
なんかちょっと悲しくなって、
なんかあの頃よりちょっと熱量ないなっていう部分がちょっと今出てきちゃって、
まあ1回は多分あると思うんですけど、
そうそう、その太郎さんとか新津さん、にわさんを見てて、
ああ、俺も頑張らなきゃなと思ってた部分があったんですけど、
なんかちょっと今、ああ、あの頃どうしたんだろうみたいな。
やっぱそこら辺がやっぱりねえよね。
来週の新城ですごい、あっちゃん大ブレイクするかもしんないよ、来週の新城で。
いやあ、垂直落下式パイルドライバーでなんか岩場から落ちないかちょっと心配なところがありますけど。
そうですね、そこは怪我せずですね、そうですね。
まあいろいろ私たちもね、見て、本当にいい刺激をいただいておりますよ、本当に太郎さんからも。
で、太郎さんね、ちょっと不調化さんのコーチングを卒業された後も、やはり後尾、去年の後尾も総合従業員に、
まあ本当にこれを安定したレース展開で。
うん、そうだね。
落ちることなく。
いやなんか。
そうなんですか?
なんかね、僕最近なんか前半で足がすごく重くなるんですよね。
うーん。
ここのとこなんかどのレースもそうで、その後尾の時も2週目ぐらいでもう全然足が動かなくなって、
これもうまずいなと思いながら、まあなんか粘って粘っていたら、
5週目になったら全然足が残ってたので、なんかそのペースが上がんなかったせいかもしれないんですけど。
それでなんか5週目は気持ちよく走れたなっていうレースでしたね。
去年の後尾は、あれ天気良かったんでしょ?
天気良かったです。
良かったですよね。で、太郎さんが一番最初出た時が2020年の後尾の時はあれですよね、もうドロドロの時でしたよね。
ドロドロの時ありましたね。
1:15:02
そうですよね。
2020年はそうだね。
で、それが2020年で、去年の後尾でもう5時間ぐらいタイムが、
まあそのね、同じ環境下ではないんでしょうけど。
まあちょっとなんか短かったりするんですよね、きっとね。
うん。
安定して、やっぱりそこら辺の強さは全然変わらないなっていうところは。
やっぱこう、なんかご自身の中でもあれですかね、こうもうある程度こういう練習をすればこうなるだろうっていうところがなんか
分かりつつあるところもやっぱなんかあるんですか?
それはないんですか?
ないですね、なんかそう、この後尾の前もなんか結構なんか僕バカみたいな練習をしてしまって。
うーん。
分かんないですね、だからねやっぱ。
どんな練習したの?
毎日20キロ走るっていうのを3ヶ月。
あーそうですよね、はいはい、やられてましたよね。
それアップダウン込みで?
アップダウン、アップダウンはまあそれほどじゃないですけど、週末アップダウン考えながら込みで、はい。
3ヶ月ってことは今月600キロぐらい走ったのか?
そんな550いかないぐらいだったかな。
あー。
はいはいはい。どうなんだろうね、なんかトムさんが温滝100マイルを2位になったことがあって。
はい。
その時に確か、その時かその前か分かんないけど温滝対策で毎日20キロ走ってたらしいよ。
あー。
っていうのは聞いたことがある。結局それで結果残してたんじゃなかったかな、確か。
まあだから、なんだろう、そのウルトラの得意性っていう意味ではある程度走行距離を稼ぐっていうのは正しいと思うんだよね。
それと足が重くなるのはちょっと分かんないけど、でも結局それで5週目まで足が持ってんだと。
かもしれないね、考え方によっては。
その時もトムさんはノーポイントレーンだったんですか?
いやいや、俺が知り合う前の話だから、その時どういう練習してたかはちょっとは知らないんだけど、
鈴木純子さん経緯でトムさんがそういう練習してたよっていうのは聞いたことがある。
太郎さんだってあの20キロの時、何キロぐらい落ちたんですか、体重。
体重はそうですね、今より5キロぐらい少ないかな。今ちょっと全然走れてないので。
それでも5キロなんですよね。確かにみんなさんがカリカリだったって言ってたんで。
そうですね、カリカリでしたね。
1:18:02
今はあれですか、じゃあちょっと怪我かなんかで走るじゃないですか。
そう、今足の親指の骨を骨折してしまって。
そうだそうだそうだ。
それでやっぱ走れないの?
痛くないでしょ、全然。痛くないけど、それはなんかお医者さんに、
あなたが痛いとか痛くないとかじゃないから、レントゲンでしか判断しないって言われて。
もうちょっと、もうちょっと。
走っちゃうとくっつかないのかな、やっぱり。
なんかね、やっぱりこの親指の骨ってすごくくっつきにくいらしいんですよね。
はいはいはい。
慎重にはしてるんでしょうけど、
そろそろどうですかねって言うと、鼻で笑われたりするんですよ。
ちなみにどれくらいなの?骨折してから。
骨折してから、今8週間?
結構長いですね。
2ヶ月ですよ。
2ヶ月くらいか。
もうそろそろ大丈夫だなと思ってるんですけど、
先週行った時も、じゃあ次ぐらいですかねって言ったら、
まああんま期待しないでねって言われる。
そんなに行ってんの?病院。
2週間おきに。
ニハビリとか、ニハビリっていうか治療を早めることとかしてくれないの?
してくれないです。
けど、もう全然痛くないんでね。
あとは足の指はわかんないな。肋骨はもう僕、歯科として走ってるけどね。
そうだね。医者にも走るなって言われてるけど、はい走ってませんって言って。
普通に走ってるけど。
くっつきづらいですからね、親指って。
くっつきづらいみたいですね。
自分も小指、骨をほったらき、無視して格闘技やったら、やっぱ曲がってくっついちゃいましたね。
それが嫌だよね。
未だに、絶対もう無理なんですけど。
肋骨だったら別にね。
まあそうですよね。何もできないですもんね、肋骨は。
なんかトレーニングは他のクロストレーニングとかしてんの?
してないです。なんかもう、ちょっとやる気がなんか今出ないですね。
そこの気持ちがすごくわかります。
直近なんか目指してんの?サインの国?
はい、ギブエン出しました。
じゃあもう、一旦ちゃんと直してみたいな。
まあまあ焦る必要もないしね。その方がいいかもね。
だったらバイクかな。バイク、筋トレ。
1:21:02
まあでも神様が休めていってんのかもしれないね。
そうですね、確かに。
もう、ランとしては12年ですか?太郎さんその走り始めとしては。
12、3年ですもんね。
そうですね。12、3年ですね。
そうですよね。で、レースではないですけど、そのあいまいまに例えば千源山があったりとかしてるんで。
あ、そうですね。千源山。
そうですよね。千源山100あったり100マイルあったり。去年も2024年11月千源山100マイル走られてましたし。
はい、走りました。
そう考えると、まあまあまあなかなかコンスタントにずっと距離等も踏まれてますもんね、やっぱり。
そうですね、年に何本かは100マイルを走っているのが続いてるかな。
じゃあ今のところは、ちょっと療養を優先として。
そうですね。なんか今年はちょっとマラソンに挑戦してみたいなと思ってて。
あんまり言っちゃうとあれかな、なんかやんなくちゃいけなくなるからあれかもしれない。
たしかに。フルマラソン、そうですね。でもこれからの時期ちょっとまた暑くなりますもんね。
自分もマラソンは1本走らなきゃなと思いながらも走れてないんで。
そのマラソン目指そうと思ったきっかけは何かあるの?
まだ1回もマラソン走ったことがないので、できるうちにサブスリーをしたいなと思って。
サブスリーか。なんかそのコッシーとかでそういう風にマラソンの練習とかしたりすることあるの?
一度もしたことないです。
コッシー速いよね。
コッシー速いですね。コッシーとTTはよく一緒に。
マラソンの練習をしてると思うんですけど。
コッシーに教えてもらえるといいのかもね。
そうですね。ちょっとコーチしてもらおうと思います。
なるほど。いいっすねサブスリー。自分もまだサブ3時間7分っていうなんか微妙なやつだったんで。
サブスリーできてないって。
聞いてて悲しくなります?
でも3時間7分からマラソン走ってないんですか?
走ってないです。
走ってんだっけ?
走ってないです。群馬マラソンを走ろうと思ったんですけど仕事でダメになっちゃったんで。
金沢外れたりしてたもんね。
ITJも最初飛ばしすぎてやるっていうなんかもう本当に。
最近ちょっとダークが強すぎて。来週の新城も不安で仕方ない。
1:24:01
別に失うものがないからいいんじゃないんですけどね。もう失うもの何もないんですけど。
俺の話はいいっすけど。
まずサブ5ですかね。
そうですね。まず新城で。
やっぱなんかビッグマウスってなんだろう。そもそも出たかもしれないけど。
なんでこうチームにしようかなとかって思ったの。
チームなのかな?
いやチームじゃないんですよね。チームじゃないって僕いつも言うんですけど。
何でしょうね。
まあ皆さん面白いですよね。
まあそうですね。個人事業主が一緒に行動する感じですかね。
個人事業主って訳じゃなくて、そんな感じの人たちが集まるんですかね。
そうですね。
個人自由の人っていうわけじゃなくて、そんな感じの人たちかなっていう。
でもあれだよね、にわ君とじゅんぺい君とさわさん、あれはあれで元々つながりがあったんでしょ?
そう、そうです。だからあの3人と、しんさん、こっしー、てぃてぃ、僕の4人がくっついた感じですかね。
あれ?てぃてぃ?
てぃてぃって中高則さん。
あー、はいはいはいはい。
その僕たち4人が岩本町の同期なので。
はいはいはい。じゃあにわ君と、まあじゃあ、にわ君たちと、その、も、岩本町、元岩本町の人たちがくっついたような感じ?
そうですね、なんか、きっとしんさんとにわ君がくっついたような感じなんでしょうね。
あの2人が母と一緒に走ったんだよね。
その年は、しんさんがダメだったんだよね、確かね。
そうですね、最初の年。
2017?それは2017?
17かな、17。
ちゃったかな、俺しんさんと2019って一緒に走ったのかな?
あれ19走ってませんでしたっけ?
いたよね、たぶんね。確かご家族で旅行したときだった気がするんですよ。
それ1年目じゃない?
いや、いたいたいた。しんさんの奥さんいたわ。
ゆかりさんとか確か。
だった気がするんですよね。
田中さん、コロナの間もなんか一家しんさんと行ってますよね、くっくりされたりしましたよね。
そうそう、あの時は家族いなかったもんね。だから家族いたのを覚えてるってことはいたんだ。
あー、そっか。それでつながったのか。
にわくんのハートのイメージが全然なくてさ、走ってたんだね。
何位だったんだろう、にわくんって。
1:27:01
そうですね、どうだったんだろう。
ちょっと調べます。
へー。
で、にわくん時代はだって去年か、去年沢くんのペーサーしたもんね。
そうですね、行ってますね。
で、やっぱ面白くないって言ってたよな。
弾丸で帰ってきてましたね、にわさん。
で、今年はジップエアーが取れなかったから、来れなかったっていう話でね。
いやー、ちょっと待ってよ。
ハートの情報って、ウルトラサインアップにはないかもしれない。
ないんですね。
ウルトラサインアップから抜けちゃったんだよ、確か。
あー、そうなんすか。
で、確か独自サイトになって、そっちにしようかなりましたね。
もしくはあれなのか、ITRG?
イトラ?でもイトラの対象でもないんだよね、ハートって。
多分あれかもしれないですね。
ウルトラ統計の方があるかもしれないですね、もしかすると。
ウルトラ統計だと、今太郎さんが見てるんですけど、ハートの情報もある。
あ、いた。
漢字なんだっけ?
のぞむって字ですね、にわさんが。
にわさんすげーな、成績が多くて、ちょっと待ってください。
そうだ、すごい数かもしれない。
18年だと思いますね、多分見てると今。
18年のハートが総合11位ですね。
で、27時間57分23秒ですね。
早いね。
じゃあ何、審査で2年連続出てたんだ。
あ、ちょちょ、18?18、19か。
ってことだよね、多分ね。
そうですね。
そうですよね、みなさん同じ高尾にいるのに、バラバラ走ってることとかたまにありますもんね。
高尾に住んでるの?みんな。
いや、みなさんが、なんかのレース前、自分も高尾にいる、しんさんもいる、にわさん、さわさん、じゅんぺいさんも高尾に、こしーさんは高尾にいたんですけど、
いたんすけど、誰一人会わないってことだよね。
あー、はいはい、そういうことね。住んでるっていうよりみんなで高尾で練習してたんだけど。
練習してるんですけど、誰一人会わないってことは、
ストラバで知るってことは、まあよくありますね。
じゃあ飲み会、飲み会、飲み会の集まり?飲み会の集まりって言い方も変だけど。
そうですね、なんかまあレースでサポートして、一緒にレース行ったりして、その打ち上げをやるっていうのを繰り返しですかね。
まあ誰か出れば必ず誰か一緒にレース行くのが多いですかね。
ちなみに大浜さんはどうやって入ったの?
大浜さんは、そうなんですよ。大浜さんは初めて僕たちから誘った人で、
1:30:05
大浜さんは、だけどあれなんですよね、OSJのレースとかで、もともとにわくんとか、まあ沢順平とは知り合いだったのかな。
それでそっから、なんかちょこちょこレースで会うようになって、
しんさんがTDT200を走ってるときかな、それ僕がペーサーをやってて、
ああ、はいはいはい。
そう、その時のはしんさんとまあいろいろ話して、タロちゃんあの、大浜さん誘ってみてはどうかなって言うから、まあいいんじゃないのって言って、
そしたら次の飲み会に行って、それからずっと一緒にはい、います。
なんか嫌じゃないのかなって最初思ったんですけど、
こう言ってるんですよね。
嫌だとも言わないんで。
こんなね、なんかおじさんばっかりの集まりに来るの嫌じゃないのかなと思ったんですけど。
TDT、しんさんは200走ったのっていつだ?3年前くらいか。
コロナのいつだろう。
200、次の年300やってて、それが3年か4年前か。
そうですね、たぶん。
3年前か。
たぶん2022年がたぶん300じゃないですかね、おそらく。
200はたぶん2022年だと思いますね、はい。
ああ、はいはいはい。
そうですね。
まあでもそうですね、もう3年前の記憶なんですね。
みんなでわちゃわちゃやるというのがビッグマウス、あれ正式名称ビッグマウスマフィアなの?
そうです。
最初はビッグマウスファミリーって言ってたんですけど、
ひとしんさんがビッグマウスマフィアって言い出して、
ひとしんさんにマフィアって何って聞いたら、
いやファミリーはマフィアだろみたいなこと言ってたんで、そこからビッグマウスマフィアになりました。
そういうことか。
最初はビッグマウス100みたいな感じで100マイルやってたよね。
やってました。そこで、
集まる人たちを最初ビッグマウスファミリーって言ってたんですけど、
なので、今でもビッグマウスマフィアと言っても、
いろいろ、たとえばノーネムエフェムの和田さんだとか、
三本松のりおさんちかちゃんとか、
千毛間の森ちゃんとか、竹谷さんとかもビッグマウスマフィア。
そうなの?
本人たちに確認とってないので、違うと言われてたんですけど、
僕はそうだと思ってます。
そういう感じですね。
小室もそうですし、
小室はもしかしたらいろんなところに所属してるんで、
1:33:02
勘弁してくださいって言うんですけど。
所属するとなんか。
分かりました。
ビッグマウスマフィアはチームではなく家族です。
家族。
ファミリーですね。
ファミリーですね。
そうですね。
入ると飲み会に誘われるってことですね。
そうですね。
あとファミリーなんで、
レースに出たらサポートするっていう。
そうですね。
そんな感じですかね。
そんな感じです。
分かりました。
謎が解けました。ありがとうございます。
自分が唯一お金積んで入ったってぐらいですかね。
いくらくらい積んだろう。
回避?
そうですね。
大きい声じゃ言えない大変になっちゃいますね。
大きい声で。
石場首相ぐらいかなって。
新人議員に配ったぐらいかなみたいな。
商品券で。
そうです。
図紙で使える商品券で。
図紙でしか。
俺しか使えないんで。
こんな感じでございます。
今年は2025は休業にあててあまりレースは考えてないって感じですか。
けどせっかく休んでるんで、
もう一回しっかりリセットされた体でもう一回積み上げてなんかはやりたいなと思ってるんで、
これから考えようかなと思ってます。
目標のレースを。
一回今年は西野君にはちょっとお休みと。
そうですね。
なので秋ぐらいのレースをなんかもしかしたらまた公務員になるかもしれないし。
はいはいはい。
いいですね。
新越とかもいいかなと思うけど今年はちょっと難しいんですかね。
エントリーするのはねきっと。
なんか何かしら一本はちゃんと走れるようなのをこれから考えます。
何があるんだろう。レイクビュア。秋田レイクビュアと熊川とか。
出たことないレース走ってみたいっていうのもあるんで。
アメリカのレースとは興味ないの?
いや行きたいですけどね。
なんかちょっと奥運になっちゃった。
アメリカにいたのに。
行くなら小泉堂のレース行きたいなと思ってるんですけど。
今結構あるでしょ。
ありますね。
ハイロンサム。
ハイロンサム、一番今気になってます。
ハイロンサム、幽霊。
幽霊。
いろいろ7月が結構目白押しなんでいいんじゃないですかね。
1:36:05
ハートロックも当たればね。
クオリファー走らないといけないからなかなか難しいんだけど、あのレースは。
新たな。
そうですね。
新たな太郎さんが見られると。
私はまだマフィアで大丈夫ですか?
大丈夫ですよ。家族だから。
ちゃんと定期的に商品券持ってくる人があるかもしれないですね。
そこだけはちょっと。
小室さんに負けないように。
小室さんがグググ来てるのちょっと。
正式にちょっと俺のポジションが危うくなってきたんで。
ちょっと頑張らないといけないなと思っております。
はい。
こんな感じでございましたけど。
じゃあちょっと業務連絡させていただければと思います。
質問、フィードバック等はXより投稿お待ちしております。
またドネーションも引き続き募集しておりますのでよろしくお願いいたします。
はい。
太郎さん、キャッチコピーは今回は決まってますか?前回が。
いや、まだ考えてないです。
うちの奥さんはトレラン界のカセリョウと太郎さんのこと言ってるんで。
ちょっとご記憶に。
それは前回だってトレラン界のなんちゃらにしちゃったから。
本当ですか。もうダメですか。
それはないです。
残念。
同じことは2回続けはしませんので。
転動はしないですね。
はい。
じゃあまた2時間ぐらいお話をさせていただきましたけども、
今回のゲストは大口太郎さんでした。
ありがとうございました。
ありがとうございました。