公共交通機関での経験
声と人柄 宮城道雄
ある時、横須賀から東京に向かう小船に、図志駅から乗ったことがあった。
ところがその電車が非常に混んでいて、空いた座席がほとんどなかった。
ちょうどその時、どこかの地方の青年団の人々が乗っていたが、
その中の一人が、私の乗り込んだのを見てか、「おい、立て立て。」と言ったら、腰かけていた人たちがみな立ち上がって、私たちに席を与えてくれた。
もしその場合に、私が目が見えていたら辞退するのであるが、
私は盲人なので、せっかくの親切を無にしては悪いと思ったので、腰かけさせてもらった。
私ははじめ、その青年団の人たちがつい近くへでも行くのかと思っていたら、やはり私たちと同様に東京へ行くらしいのである。
そして一人ごとのように、「なあに、われわれは立っていたっていいのだ。」と言っていた。
それからまた、自分たちが立っている苦痛を紛らわすためか、元気よくお互いに話し合っていた。
そうかと思うと、何か手をまるめて、ラッパのまねをはじめ出した。
そしていろいろの節を吹いていたが、それがなかなか上手にやっていた。
一節吹いては、きょうじあって、みんなが元気に笑っていた。
私はそれをおもしろく感じた。
私は人の言葉つきで、その人がきょう自分にどういうようむきできたかということがあらかじめわかる。
その人がどういう態度をしているかということも自然に感じられるのである。
合奏の様子
ある夏の暑いときであったが、ある人が尺八をあわせに私のところに来たことがある。
その人とは心やすい間柄だったし、ちょうどそのときは誰も言い合わせなかったので、
その人が上着をぬぎ、はだかになって尺八を吹き出した。
私はそれを感じていたけれども、だまって合奏をしたのであった。
そしていよいよすんだあとで、
私がきょうのような暑い日には、はだかでやるとたいへんすずしいでしょうなあ、
といったらその人はおどろいて、ほうほうのていでかえってしまった。
その人はべつに私をごまかそうと思ってやったのではなく、
心やすさからのことだったろうが、私のいったことがあたったのであった。
とりわけ、こえでいちばん私のかんずることは、バスやえんたくにのったばあいである。
こえをきいただけで、きょうはうんてんしゅがつかれているなと思ったり、
またちんぎんでもねぎられたのか、ひじょうにふんかいしたきもちのままだとか、
ちゃんとしることができる。
でんしゃやバスなどのしゃしょうがわざわざはっしゃするのをおくらせても、
私たちふちゆうなもののてをひいてのせてくれたりすることがある。
こういうふうにみちのとちゅうをあるいていても、
そのひとのこえをきいて、そのひとのひとがらがしられるのであるが、
私はこころのもちようで、こえまでかわってくるものだということをしんじている。
そして、ひじょうにかんしゃのきもちでしごとをしているひとと、
つかれのくわいかなにかひじょうにふゆかいらしくしているひとがあるようにおもうが、
そのさはすこしのこころのもちようで、どちらにもなるのであると私はおもう。